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『日本の近代とは何であったか』を読む(3) [本]

 近代になってから日本は植民地帝国を築いた。
 植民地の特徴は、本国の憲法が適用されないことである。そのぶん、現地当局が植民地に恣意的な支配をおよぼすことになった。
 日本が本格的に植民地帝国への一歩を踏みだしたのは、日清戦争以後のことである。日本は領土として台湾を獲得するが、英仏露の三国干渉によって遼東半島を還付せざるをえなかった。それは大きな挫折だった。
 だが、その挫折感によって、「日本は、東アジアにおいてヨーロッパ列強に伍する権力政治の主体となることを志向するにいたった」と、著者はいう。
 ヨーロッパ列強と日本では、植民地構想が大きなちがいがあった。それは「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったということ」だという。
 すでに1890年に、山県有朋は、日本の主権を確保するための「利益線」という考え方をもちだし、朝鮮半島を植民地化する方向を示していた。
 著者は植民地帝国の法的枠組をつくった機関として、枢密院の役割を重視している。
 枢密院は天皇直属の諮問機関である。枢密院の審議をへなければ、いかなる法律も条約も認可されることがない。また国会をへることのない勅令にも枢密院は関与していた。だから、大日本帝国においては、枢密院こそが最上院だった、と著者は解説する。
 朝鮮統治にあたっては、枢密院と軍部のあいだで激しい争いがあった。
 日露戦争後、軍部は関東州租借地を事実上、直接支配下においた。
 いっぽう、枢密院は文官による朝鮮支配にこだわっていた。だが、けっきょくは軍部に押し切られる。
 1910年の韓国併合後、朝鮮総督府でも武官総督制が採用されることになった。こうして、初代朝鮮総督には、陸軍大将の寺内正毅が就任した。
 軍部による植民地統治に異論が出されなかったわけではない。
 憲法学者の美濃部達吉は、植民地が憲法外におかれた「異法区域」であると論じた。この微妙な言い回しによって、美濃部は、暗に軍部による恣意的な植民地支配を牽制しようとしたのである。植民地の臣民には、市民権らしきものはほとんど与えられていなかった。
 しかし、大正時代にはいり何年かすると、軍部による植民地直轄支配は揺らぎはじめる。山本権兵衛内閣は、関東州租借地は外務大臣、朝鮮・台湾・樺太は内務大臣が統括するという方針を打ちだした。
 だが、軍部も黙っていない。さっそく、巻き返しにでる。
 寺内正毅が首相になると、関東州租借地では、陸軍大将、中将が就任する関東都督の権限が強化される。満鉄、領事館、警察署も関東都督の支配下に組み入れられることになった。
 いっぽう、朝鮮では1919年に3・1独立運動が巻き起こった。
 これに驚いた首相の原敬は、植民地統治の脱軍事化という方向を打ちだす。
 原はまず関東都督に代えて、関東庁を設立し、その長官を文官にしようとした。そのいっぽう陸軍部門を独立させ、関東軍司令部を設立すると約束した。
 こうして、関東州租借地では、関東庁と関東軍司令部という政軍分離の二本立て体制ができあがる。それが皮肉なことに満州事変を引き起こす要因になるとは、原自身も考えていなかった。
 原は朝鮮においても文官総督の実現をめざした。だが、軍の抵抗にあってうまく行かない。実現できたのは、文官総督を可能にする制度を導入することくらいだった。
 じっさい、朝鮮総督のポストはその後も軍人が独占する。
 だが、台湾総督は長らく文官が任についた。
 このあたりのポスト争いは軍と枢密院、内閣がからんで、じつにややこしい。
 原の死後、朝鮮と台湾では、同化政策が採用された。現地人を帝国臣民に組み入れるため、教育制度や戸籍制度がととのえられていく。
 しかし、同化政策によっても、「朝鮮や台湾のナショナリズムを鎮静させることはできませんでした」と、著者は記している。朝鮮や台湾のナショナリズムは「植民地帝国日本を内部から脅かす不断の潜在的脅威」になっていく。
 そして、1930年以降浮上したのが、国際主義に代わる「地域主義」の考え方である。
 地域主義とは、従来の国際秩序に代わる、新たな地域秩序の構想だといってよい。それは対外的膨張によってつくりだされた既成事実を正当化するもので、大東亜共栄圏の構想へとつながっていく。そして、そこには欧米の帝国主義に対抗するという意味づけがなされていた。
 著者によれば、1920年代の日本は、国際主義にのっとり、軍縮条約にもとづく国際秩序を順守していた。
 ところが、1931年の満州事変によって状況は大きく変わる。日本は国際主義を否定して、日本を中心とする地域主義を唱えるようになった。
 1937年に日中戦争が勃発すると、こうした地域主義は東亜新秩序を正当化する考え方へと発展していく。
 もういちど繰り返すと、地域主義とは「地域的協同体を根幹とする世界新秩序」のことである。
 ヨーロッパにおいては、それがドイツとイタリアを中心とする「欧州新秩序」となり、東アジアにおいては日本を中心とする「東亜新秩序」となるのである。
 地域主義においては、民族主義(民族をひとつの単位とする考え方)は超克されなければならなかった。
 地域主義によれば、東亜新秩序のなかで、中国民族が生きていくためには、民族を超えて、日本を中心とする地域的連帯にめざめることが必要だということになる。日中戦争はそうした東亜新秩序を建設するための戦争だと考えられた。
 第2次世界大戦後、日本はアメリカを中心とする国際秩序に組み入れられていった。それは共産圏に対抗するための国際秩序であって、いわばアメリカを中心としたアジア地域主義構想だった、と著者はいう。
 しかし、1970年代にはいると、米中国交が正常化に向かい、アジアの冷戦構造が終結すると、グローバリズムの奔流が押し寄せることになった。アメリカにとっても、もはや日本を軸とする「垂直的国際分業」システムは不要になった。
 こうしてアジア諸国は「米国によって課された『地域主義』から解放され、今や相互の対等性を前提とした『水平的統合』を志向する新しい『地域主義』を模索しつつある」、と著者はいう。
 著者は「ヨーロッパ文化」と同様の「アジア文化」があるかどうかに疑問をいだいている。加えて、日韓中のあいだの歴史認識に大きなへだたりがあることも認めている。
 こう述べている。

〈日本の近代の最も重要な特質の一つは、アジアでは例外的な植民地帝国の時代をもったことにありますが、その時代の認識は、同時代の朝鮮全体の現実──今日いわれる朝鮮にとっての「植民地近代」の現実──の認識なくしてはありえません。その意味の日韓両国の近代の不可分性を具体的に認識することが、両国が歴史を共有することの第一歩なのです。このことはまた中国についても同様です。〉

 これはとりわけ、朝鮮や中国が日本にとってパラレルワードであることを示している。そのパラレルワールドは不可分でありながら、そこでは、異なる視線が異なる世界像を結んでいるのだ。歴史の共有は、きわめてむずかしい。しかし、われわれはいま歴史の共有に向けて一歩を踏みだすことを求められているのである。

『日本の近代とは何であったか』を読む(2) [本]

 なぜ日本に資本主義が形成されたのか。
 国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分一体だった、と著者は記している。
 それは、つまり日本資本主義の形成は国家主導だったということである。
 その考え方は、大久保利通から松方正義、高橋是清に引き継がれていく。
 日本の資本主義は、かたくなに外資を排除するところからはじまった。
 明治政府は、関税自主権のない不平等条約のもとで、ヨーロッパ列強が日本経済を乗っ取ってしまうことを、ひどく恐れていた。その点からみれば、開国は無意識下においやられた攘夷と一体になっていたともいえる。
 明治政府は日本に資本主義を生みだすために、先進技術を導入して官営事業を立ち上げた。国家の歳入を確保するため地租による租税制度もつくった。質の高い労働力を確保するため教育制度も充実させた。そして、資本蓄積を進めるためできるかぎり対外戦争を回避しようとした。
 富国強兵が近代化に向けての明治政府のスローガンである。富国のためには、まず殖産興業政策が採用しなければならなかった。そのリーダーシップをとったのが、内務卿になった大久保利通である。
 大久保はまず農業技術を近代化するために、官営模範農場と官立農学校をつくり、農業や牧畜、養魚、製糸、製茶、果樹栽培、林業などの技術改良に努めた。
 工業についても同様である。富岡製糸場をはじめ、官営工場が各地につくられていった。それらは繊維産業の拠点となっていく。
 さらに大久保は輸出振興に力点を置き、海運業の育成にも力を入れていく。そのため、三菱をいわば官営模範海運会社とみなし、三菱を保護した。
 ちなみに、こういう官主導の資本主義に徹底して反発したのが、民間主導の資本主義をつくろうとした渋沢栄一だといってよい。渋沢にとって、会社や団体は国家のためのものではなく、何よりも民衆のためのものだった。
 本書には渋沢栄一への言及がまったくなされていないが、官だけが踊っても資本主義は定着しないことを強調しておきたい。
 渋沢栄一については、昔、評伝を書いたことがある(いささか長いが)。
 よろしければ、拙HPをご参照ください。

 http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/huchiqq.html

 著者は「大久保は政府主導によって世界市場に適応しうる資本主義的生産様式を造り出していこうとした」と書いている。
 このあたりの発想をまねたのが、鄧小平だといってよいかもしれない。
 それはともかく、大久保は国家主導の資本主義をつくるために、国家資本の形成に力をいれた。そのために江戸時代の年貢に代わって、金納の地租による租税方式を考えだした。外債は避けたいという思いが強かった。
 大久保は義務教育制度にも力をいれる。そのため、各地に小学校が建てられた。学制令が出された翌年の1873年(明治6年)には、小学校の数は1万2558校、3年後の1875年には2万4225校におよんだという。この数は2016年現在の1万9943校を上回るというから、おどろきである。また、早くも1874年には、女子教員を養成する女子師範学校がつくられている。
 さらに大久保の功績は大規模な対外的戦争をできるだけ避けたことだという。1874年に日本は台湾に出兵する。このとき日本は清と戦争にはいる恐れもあったが、大久保は外交交渉によって、それを乗り切る。さらに大久保死後に強行された琉球王国の廃絶と沖縄県の設置にさいしても、清と戦争になる可能性はじゅうぶんに考えられた。著者は、明治政府が外交交渉によって、大きな戦争を避けたことが、日本の経済発展につながったと評価している。
 大久保の路線を継承したのが松方正義である。当時は西南戦争のあと、政府の財政赤字が膨らんでいた。松方は外債発行に頼らず、歳出を抑制し、超均衡財政を強行する。そのいっぽう増税によってできるだけ歳入剰余をつくりだそうとした。これが、いわゆる松方デフレである。
 松方はさらに為替管理と積極的な官営貿易により、正貨準備の増大をはかった。日本銀行設立を計画したのも松方である。
 松方のデフレ政策にたいする反発は、とうぜん強かった。政府内でも、松方に反対する者が多かった。だが、そうした反対派を松方は押し切っていく。
 とはいえ、日清戦争後、日本はその経済政策を根本的に転換し、外債導入に踏み切る。それをおこなったのも松方である。
「それ[新たな経済政策]を可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立に伴って外資導入を有利にする条件が整えられたことです」と著者はいう。
 こうして日本の外資依存度はしだいに大きくなっていく。その依存度を一挙に高めるきっかけとなったのが、日露戦争である。
 日本資本主義は国際化しようとしていた。
 日本経済の国際化に対応しようとした人物が高橋是清と井上準之助だ、と著者はいう。
 日本銀行総裁の高橋是清はあえて井上をニューヨークに送り、かれを国際金融家として育てようとした。
 のちに日銀総裁となる井上のもとで、1920年代に日本資本主義は国際化していく。日本には大量の米英資本が流入する。著者は「井上は国際金融家の役割を果たすことを通して、ワシントン体制の枠組に沿う第1次大戦後の日本の経済の経済外交を事実上主宰しました」と書いている。
 1927年の金融恐慌後、浜口雄幸内閣の蔵相として、井上は金本位制復帰をめざし、金解禁のための緊縮政策を打ちだす。とうぜん軍の予算も削られた。ところが、金本位制への復帰は頓挫し、国際金融網は寸断され、ふたたび国家資本の時代がはじまるのだ。
 1932年2月、井上準之助は右翼テロリストによって暗殺される。つづいて金本位制に代わって、ケインズ政策を取り入れようとした高橋是清も二・二六事件で暗殺され、軍部独裁政権が誕生する。こうして、日本での「議論による統治」は圧殺されることになる。
 アダム・スミスが示した資本主義は、国家の干渉をできるだけ排除するなかで成長していく自立的な経済モデルだった。しかし、ヨーロッパをモデルとして、近代化を実現しようとした日本では、資本主義は国家によって導入される以外になかった。その資本主義は当初、対外的な自立をめざし、つづいて国際的な協調をめざしながら、じょじょに発展していった。それが可能だったのは、国家の舵取りがすぐれていたからだけではない。それ以上に、近代化をめざす民間の努力が大きかったとみるべきだろう。
 だが、戦争が拡大し、軍部の独裁が強まるにつれて、国家も民間も硬直して、柔軟な経済運営は失われてしまう。
 思うに、現在もまた劣化の時代である。野放図な国債発行のもと、日本経済の方向性は見失われ、政府も企業も劣化しつつあるのではないか。まるで、そんなふうに思えてくるのである。

『日本の近代とは何であったか』 を読む(1) [本]

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 著者の三谷太一郎は1936年生まれで、東京大学名誉教授。日本の政治史と外交史が専門だ。『日本政党政治の形成』、『大正デモクラシー論』といった著書がある。
 むずかしい話はとばして、ほんのさわりだけを紹介してみよう。
 最初に「日本の近代は、日本が国民国家の建設に着手した19世紀後半の再先進国であったヨーロッパ列強をモデルとして形成されました」と書かれている。
 日本の近代というのは、明治以降と考えてよい。
 日本はヨーロッパをモデルにして近代化を達成した。
 大きかったのは、1871年から73年にかけて欧米を視察した岩倉使節団の役割である。本来の目的は幕末の不平等条約を改正すること。だが、それよりも、欧米、とりわけヨーロッパの制度をどのように取り入れるかが課題となった。
 そもそも近代とは何を指しているのだろう。
 イギリスの著作家ウォルター・バジョットは、近代とは「鉄道や電信の発明」などに象徴される「自然学」の応用がもたらした「新世界」であり、その根本は「自由」にもとづく政治、すなわち「議論による統治」が実現されていることだ、と考えていた。
 つまり、近代とは産業と民主政治にほかならない。それは個人が慣習や身分から解放されて、自由に意見を述べ、行動することが許される時代でもあった。
 はたして、日本ではこのような近代、とりわけ「個人の尊重」がどこまで実現されたかは、疑問なしとはいえない。それでも、明治維新で日本はヨーロッパの制度をとりいれ、それなりの近代化をはたしたのはまちがいないだろう。
 著者は本書において、日本の近代を、政党政治、資本主義、植民地支配、天皇制という問題に即して検証していく。
 まずは政党政治である。
 政党政治の前提はいうまでもなく立憲主義である。立憲主義とは憲法にもとづく政治のことだ。
 日本では東アジアでいちばん最初に立憲主義が導入された。つまり憲法がつくられたのだ。それが1890年の明治憲法である。
 ヨーロッパで憲法がつくられたのは、そもそも王の絶対的権力を制限するためだった。そして、近代憲法は議会制、人権の保障、権力の分立を原則とするようになる。
 1890年に施行された明治憲法もまたこうした原則を満たすものだった。しかし、それはとつぜん出現したものではない。江戸時代の合議制という政治的伝統(権力の抑制均衡のメカニズム)があったからこそ可能だった、と著者はいう。
 司法、行政、立法の三権分立という考え方は日本人に受け入れやすかった。江戸時代から独裁は嫌われていたのだ。
 これにたいし、日本では古くから公議が重視されていた。だから、明治になって、公議を形成する場として議会制が取り入れられるのは、とうぜんの方向だった。こうして、1890年(明治23年)7月に初の総選挙が実施される。
 ところで、明治維新とは王政復古であって、あたかも天皇親裁が実現されたかに思えるかもしれない。しかし、著者によれば、王政復古の目的は幕府のような絶対政権を排除することにほかならなかった。したがって、明治憲法に規定された「一見集権的で一元的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的で多元的な国家のさまざまな機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動」していたという。
 太平洋戦争中の軍部独裁政治は、むしろ明治憲法体制からの逸脱だった、と著者は考えている。もともと明治憲法は、議会が政治の全権を握るのを抑えるよう組み立てられていたからである。
 明治憲法には、しかし根本的な欠陥があった。著者によれば、それは「最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていた」ことだという。権力主体といえば、天皇がいると思うかもしれない。しかし、名目はそうであれ、現実の天皇は「権力を統合する政治的な役割を担う存在」ではありえなかった。
 行政をになう内閣は、議院内閣制のかたちをとっていない。あくまでも天皇によって組閣を命じられる。また個々の閣僚は首相ではなく天皇に直結する建前なので、「遠心的であり、求心力が弱かった」。
 だから、明治体制のもとでは、藩閥のリーダーである元老が影の統合主体となっていた。いわばバランサーとしての役割をはたしていたのである。つまり元老が内閣の生みの親の役割を果たしていた。
 だが、しだいに議会が存在感を増してくると、その多数を占める政党の役割が無視できなくなる。藩閥の側も政党をつくらざるを得なくなった。
 転機となったのは1900年である。この年、伊藤博文は衆議院での多数派形成をめざして、立憲政友会(略称、政友会)を結成した。いっぽう、これに反対するグループも政党をつくり、こうして日本でも複数政党制が成立していくことになる。それにつれて、藩閥の力はじょじょに衰えていった。
 日本では大正の終わりから政党政治が本格的に作動する。いわゆる大正デモクラシーである。しかし、1931年の満州事変以後、政党政治の権威はゆるぎはじめる。
 学者のあいだからも、議会に代わる「立憲的独裁」の機関を設立せよとの声がわきあがった。それが大政翼賛会へとつながり、軍部独裁に転じていったことは周知の通りだ。
 いまは戦後民主主義の時代から、時代がひとまわりした。
 著者は、ふたたび「立憲的独裁」の傾向が強まるのではないかと危惧している。「立憲デモクラシー」がこれにいかに対抗するかが問われているという。
 政党政治の危機だといってよい。

ミル『経済学原理』 (まとめ) [経済学]


   1 はじめに

 ジョン・ステュアート・ミル(1806−1873)はロンドンに生まれ、3歳から父親で有名な評論家のジェームズから厳しく教育されて育った。3歳で、まずギリシャ語、8歳でラテン語、12歳で論理学、13歳からリカードの経済学を学んだという。ものすごい英才教育。しかし、本人はこれが負担だったようで、青年期にはノイローゼをわずらっている。
 17歳になった1823年に、父親の勤めていた東インド会社に入社し、次第に高い地位につくが、1858年に東インド会社が廃止されるとともに、退職した。
 東インド会社時代も著作をつづけていた。当時から名士だったといえるだろう。
 退職後はロンドンのウェストミンスター区から選挙に立候補して、保守党議員を破って、1865年から68年まで無所属の国会議員を務めている。人妻だったハリエット・テイラーとの親しい交際は、モラルにうるさいヴィクトリア朝時代の一大事件となった。ミルはのちにハリエットと結婚するが、彼女は早く亡くなる。ミルが女性の解放を唱えたのは彼女の影響が大きかったといわれる。そして、ミル自身も、ハリエットの墓のあるアヴィニョンに滞在中、感染症のため67歳で急逝する。
 自由主義者のミルは、功利主義を擁護した。功利主義といえば、最大多数の最大幸福という標語が知られている。代表的な著作に『論理学体系』(1843)、『経済学原理』(1848)、『自由論』(1859)、『功利主義』(1861)、『代議制統治論』(1861)、『女性の解放』(1869)、『自伝』(1873)などがある。
 ここで取りあげる『経済学原理』は1848年に出版され、1871年まで7回改訂されている。いまミルの『経済学原理』を読む人はあまりいないだろうが、この本は、マルクスの『資本論』と対照的に、経済学のテキストとして、当時大いにもてはやされたという。大英帝国全盛時代のこのテキストを読むことを通じて、われわれは19世紀後半に、商品世界の広がりがどのようにとらえられていたかを知ることができるだろう。
 ミルはマルクス(1818-83)とほぼ同時代人である。年齢としては、マルクスより、ひとまわり上。マルクスはほとんどミルを評価していない。リカードを読めばじゅうぶんだといっている。後世のシュンペーターも、マーシャルは評価しても、ミルは読まなくてもいいといわんばかりである。いまは見捨てられた存在といってよい。
 ここでは、ミルの経済学だけを取りあげるが、同時代に生きたミルとマルクスを比較することで、われわれは19世紀後半という時代を、複眼的にとらえることができるかもしれない。
 すべての人が幸福になれるわけではない、いまはともかく辛抱して、将来の進歩に期待するというのが、ミルの基本的な考え方だったようにみえる。それにたいして、もう辛抱できない、自分たちの世界をつくろうというのがマルクスの考えだったといえるだろうか。でも、これはあまりに浅薄なとらえ方かもしれない。先入観は禁物である。
 岩波文庫で5分冊となる本書のテーマは、5篇に分かれている。

(1)生産
(2)分配
(3)交換
(4)社会の進歩が生産と分配におよぼす影響
(5)政府のおよぼす影響

 けっこうな大冊なので、読むのに骨が折れそうである。でも、あまり厳密に考えないで、さっと眺めるというのが、学者ではないぼくの流儀だ。
 序論のなかで、ミルは、人が経済学に興味をもつのは、富に関心をいだいているからだと、実に率直に述べている。そして、まず富についての通念を批判する。
 それは、富とはカネだという考え方である。かつて、重商主義の時代においては、他国と競争し、外国貿易でより多く財貨を輸出して、カネを稼ぐことが奨励されていた。それは国内のビジネスでも同じで、より多くのカネを得ることが、経済の最終目的とされていたのである。
 たしかにカネがあれば、どんな品物でも購入できる。莫大な貨幣をもつということは、それだけ社会的な力を有するということでもある。しかし、よく考えてみれば、「貨幣は、貨幣としては、何ら欲望を満たすものではない」。それは便利な購買手段にすぎない、とミルは断言する。だから、貨幣(カネ)だけが富ではない。貨幣によって買うことのできる商品こそが富だというのが、ミルの理解のようだ。

富を定義して次のようにいうことができるであろう。富とは、交換価値を有するあらゆる有用または快適なものであると。あるいは、富とは労働または犠牲なしに欲するままの量において得られるもの[たとえば空気など]以外のあらゆる有用または快適なるものであると。

 これがミルによる富の定義である。あくまでも生産に重点が置かれている。
 しかし、富は歴史的にも地理的にも、場所によってちがいがあるという。
 狩猟生活では、獣皮の着物、粗末な小屋、その他いくつかの器や飾り物、武器となる弓矢や刀が、数少ない富であった。
 遊牧・牧畜生活の段階になると、有用な動物が馴化され、人びとは牛乳や乳製品、食肉によってくらすようになり、狩猟時代よりはるかに多くの富が蓄積されるようになる。
 この時代から農業状態への移行はけっして容易ではないが、人口と家畜の増加が土地の耕作をうながした。遊牧民と農民との争いがはじまるようになる。国家が誕生するのも、この時代である。
 古代ヨーロッパにおいては、植民と交易、遠征によって都市国家が繁栄する。やがてローマ帝国が広大な領地を築き、農奴制が生まれるが、ローマ帝国の崩壊後も、それが中世に引き継がれることになる。
 やがて農奴は解放され、生命および財産の安全が保証されるようになり、自由な農民が登場する。技術はたえず進歩し、社会の経済発展が確実なものになると、封建ヨーロッパは成熟して、商工業ヨーロッパへと移行する、とミルは記している。
 こうして近代においては、富が豊富に供給され、多くの食料が獲得され、人口も増大し、広大な植民地が形成されるようになったという。
 しかし、同じ近代工業社会といっても、その形態は国によってずいぶんことなる。富裕な国もあれば、貧しい国もある。農業のやり方、商業のやり方もそれぞれだ。
 さらに、アメリカにはいまだに狩猟社会が残っているし、アラビアや北アジアには遊牧社会があり、アジアの国々は以前と変わらないし、ロシアは封建ヨーロッパのままだし、加えて世界各地にはまだ未開民族がくらしている、とミルはつけ加える。諸国民の経済状態のちがいが、自然環境によってではなく、人間行動が原因で生じているのだとすれば、そのちがいがなぜ生じるのかを研究することが経済学の役割だ、とミルは論じている。
 そこで、生産と分配の法則、さらにそこから生じるいくつかの帰結を論じようというところから、本書はスタートすることになる。

   2 生産をめぐって

 生産には、まず労働と自然物が必要になる、とミルは書いている。
 自然物は労働を加えることによって、はじめて人間の欲求を満たすものとなる。その労働は単なる物理的な力にとどまらず、発見や加工など、さまざまな工夫をともなうことはいうまでもない。そして、人間の労働によってかたちづくられた生産物は、時に直接の自然物とは似ても似つかぬものとなって、社会にとりいれられることになる。
 ここで、注目すべき点は、生産物がつくられるさいに、ミルが労働だけを賛美するのではなく、自然力の偉大さを強調していることである。エコロジーの先駆者といわれるゆえんである。
 労働は自然を支配するかのようにみえる。しかし、じつは労働は自然物の内在的な力を引きだしているだけで、自然そのものを生みだしているわけではない、とミルはいう。労働に代えて、風力や水力、あるいは機械を利用する場合にも、そこには自然エネルギーが大いにかかわっている。
 つまり、すべての生産物は、自然の産物であるとともに、それにも増して労働の産物だということになる。そのどちらが優先しているという問題ではない。
 ただし、自然の恵みは場所によって、ちがいがある。土地にしても、水にしても、気候にしても、海や河川にしても、はたまた鉱物資源にしても、どれだけ人間に好都合なものが配置されているかは、場所ごとにことなる。こうした自然的要因が経済社会に大きな影響をもたらすことはいうまでもない。
 次に労働について考えてみよう。
 ミルはパンづくりを例にとる。
 最終的な消費物となるパンをつくるには、パン職人の労働が必要である。しかし、それだけだろうか。
 よく考えてみると、パンには小麦粉という材料がなくてはならず、さらに小麦粉ができるためには小麦が欠かせない。
 きわめて簡単に図示すると、

  パン←小麦粉←小麦

 ということになるだろう(もちろん、ほかにも材料が必要だが)。
 材料を製品に転化するための←にあたる部分の努力を、労働と理解することができる。
 しかし、この←は、実際には一直線ではなく、放射状に広がっているとみるべきである。たとえば、ひとつの農家のつくる100トンの小麦が、10の製粉所で小麦粉に加工され、100のパン屋に売られるというように。
 さらに、この製造過程には、補完的な部分も必要になるだろう。
 そもそも小麦をつくるには、農家自体の労働以前に、農場の建物や囲い、スキやクワなどの道具、溝の整備なども欠かせない。そのための材料もまた、どこかで生みだされねばならない。製粉所やパン屋にしたところで、素手で製品をつくるわけではなく、たいてい何かの道具を要するだろう。
 加えて「穀物を市場へ、また市場から製粉業者のもとへ運び、小麦粉を製粉業者のところからパン屋のもとへ運び、パンをパン屋から最終消費地へ運ぶ労働」、つまり輸送のための労働も必要となってくる。
 こうして、ひとことでパンといっても、そこには全工程でみて、最終的な商品がつくられるまで、ものすごい種類と量の労働が投入されていることがわかる、とミルはいう。
 そして、中間財・最終財、あるいは耐久財・消費財を問わず、生産物がとどこおりなくつくられるためには、労働を媒介として商品が連鎖する、商品世界のネットワークが形成されていなければならない。このネットワークは命令によってつくられたわけではなく、自然に生まれてきたものだ。人がそれぞれの場で働くことによって、つながっている社会のあり方を考えることが、ミルにとっても、経済学の目標だったのかもしれない。
 ここで、ミルは労働について、さらに詳しく観察し、その種類を以下のように8つに分類している。

(1) 食糧をつくるための労働
 現在の労働を維持するためには、前もって労働者を養うための労働が必要になってくる。こうした労働をミルは「先行的労働」と呼ぶ。先行的労働がもたらすのは食糧などの必需品である。
(2)原料や材料をつくるための労働
 労働は食糧などの生産だけに向けられるわけではない。製品を生みだすには原料や材料が必要である。ミルは石炭や金属などの鉱物、木材などの建築資材、亜麻や綿花、羊毛、獣皮などの衣服素材を例に挙げている。そうした原料は、もちろん労働によってつくられる。
(3)道具や機械をつくるための労働
 人間は労働するにあたって、かならずといっていいほど道具や機械を利用する。しかも、燃料や材料がいわば使い切りであるのにたいして、道具などは繰り返し使用することができる。労働になくてはならない道具や機械をつくりだすのも、また労働である。
(4)労働を守るための労働
 ここでミルが想定しているのは、工場や倉庫、穀倉など、産業用・農業用の施設である。商品を製造するには生産設備や施設が必要で、その設備や施設をつくるには、多くの労働を要する。ミルはこれに加えて、軍人や警察官、裁判官の労働も、社会の治安を守り、産業を保護するために使われていると述べている。
(5)輸送や分配のための労働
 ここでの労働は、陸上・水上の運輸業者の労働、船舶や機関車などの運輸機関にかかわる労働、さらには水路維持や道路建設のための労働を指している。こうした労働は「生産された物を消費すべき人々へ近づけることに使用される」とミルはいう。もちろん、商人の存在も欠かせない。生産者と商人が同一の場合もなくはないが、ふつうは生産者から独立して、行商や小売商、卸売商、大商人などの階層が発達する。ミルはかれらのことを「配給業者階級」と名づけており、その役割は「生産者階級」のはたらきを補助して、生産者と消費者を結ぶことにあるとしている。
(6)人間のための労働
 これは人間を対象とする労働で、人間を育てるために、教育をおこなったり、病気を治療したりする労働を指している。教師や医師など、教育・医療関係者がこうした労働に従事しているわけだが、ミルはこうした労働は「社会がその生産的作業を完成する手段である労働の一部、換言すれば社会が生産物のために必要としたものの一部とみるべきものである」というような言い方をしている。商品世界を維持するには、働く人びとをケアするための教育や医療などの労働が欠かせないというのである。
(7)発明、発見のための労働
 近代はとりわけ発明・発見の時代であり、それにもとづく技術が近代の産業を支えていることはいうまでもない。発明・発見は精神労働とみられがちだが、肉体労働でもある、とミルは指摘する。逆に左官の下働きでも、それは単なる肉体労働ではなく精神労働でもあるというのがミルの考え方である。いずれにせよ、ニュートンの『原理』、ワットの蒸気機関、はたまた装飾家の仕事、学者の思弁、電磁電信機、航海術にいたる、あらゆる発明・発見は、一種の労働であって、こうした知的探索こそが、「高度に生産的な部分」なのだと、ミルは考えていた。
(8)農業、工業、商業のための労働
 ここでは産業が農工商の3つの部門に分類される。第1次、第2次、第3次産業といってもよいだろう。それぞれの産業における労働は、独自ではあるけれど、ばらばらではなく、他の部門と密接に結びついている。ひとつの部門が繁栄すれば、他の部門も繁栄し、またその逆もありうるという。ミルは、その例として、カロライナの綿花栽培業者や、オーストラリアの飼羊業者が、紡績業者や織物業者と共同の利害関係をもっていることを挙げている。
 ミルによる、こうした労働の分類は、かならずしもうまく整理されているわけではない。にもかかわらず、ミルは労働を分類することによって、近代の商品世界が、人びとの労働のつながりによって形成されていることを示そうとしていた。
 さらにミルは、生産的労働と不生産的労働という、アダム・スミス以来の伝統的な労働の分類についても言及する。
 はじめに、不生産的労働という言い回しは、非難や侮辱ではなく、単なる分類上の用語にすぎないと注意をうながしている。ミルによれば、不生産的労働とは、物質的生産を目的としない労働のことである。
 ここでもミルは労働が物質を生産するという考え方を批判している。労働は物質をつくりだすわけではなく、労働が生みだすのは効用にすぎないという。
 そのうえで、ミルは、生産的労働とは、富(生産物、商品)を生みだす労働だといってよい、と述べている。ミルによれば、富とは効用を有する物質的生産物のことである。商人や輸送業者の仕事も、広い意味では生産的労働の範囲にはいる。
 これにたいし、物質的富を創造しない労働は、どんなに有用であっても不生産的労働ということになる。
 ミルの挙げる例はおもわず吹きだしてしまうものだが、たとえば魂の救済にあたる宣教師の労働が不生産的だというのは、たしかにそのとおりかもしれない。僧侶がやたら多くて、生産に従事する人口が少なければ、たとえ僧侶の実入りが多くても、社会全体はかえって貧しくなるというあたりは、いかにもミルらしい。
 そして、この関係は消費についてもいうことができて、消費のなかにも生産の助けにならない消費があるという。ミルがその例として、シャンパンやワインを挙げているのは、ぼくにいわせれば少し抵抗がある。
 すると、労働にも、「生産的消費に対して物を供給するための労働と、不生産的消費に対して物を供給するための労働」とがあるということになる。これは生産的労働と不生産的労働との区別とは、また少しことなる区別である。
 少しややこしい。
 倫理的な問題ではないといいながら、やはり「不生産的」という形容詞は、やや分が悪いようだ。生産的労働と不生産的労働の区別がはたして必要なのかは、やや疑問である。
 とはいえ、ミルはここで助け船をだして、こんなふうに述べている。

しかしながら、豊かな国においてその年々の生産物の大部分が不生産的消費の需要を満たしているのを見て悲しむのは、大きな間違いというべきである。……大きな余剰があって、それをこのような目的に使用しうるということ、およびそれがこのように使用されるということは、まことに喜ぶべき事柄にほかならぬ。

 もっとも、余剰が不均等に分配され、一部の富裕層だけが不生産的な消費を享受しているとしたら、それは問題だ、とミルは指摘している。
 このあたりに、ミルの社会意識を感じ取ることができる。

   3 資本について

 ミルは生産をおこなうには、労働と自然力だけではなく資本が必要になってくると書いている。これはミルが資本主義の擁護者というわけではない。資本主義であろうがなかろうが、生産には資本が必要だというのである。
 資本とは何か。資本は即貨幣ではない。貨幣はそれだけで資本であるわけではなく、何かと交換されて生産に用いられて、はじめて資本となる、とミルはいう。建物や機械、原材料をそろえる資金、それに労働者を雇う資金も資本といってよい。
 つまり、資本とは、これから事業をはじめるにあたって、「新規の生産を営むための基金」だ、とミルは書いている。ただし、生産は「生産のための生産」を目的とするわけではないから、資本とは「新規のビジネスを営むための基金」と解釈したほうがよいだろう。
 資本家はその資本によって、さまざまな手配をし、目標である商品をつくりだして、ビジネスをはじめる。ミルは資本家が不生産的支出にではなく、生産的支出に資本を投じることに大いなる意義を見いだしている。
 次にミルは資産と資本を区別する。資産は資本の前提になり、資産の額は資本の額より大きい。
 資本とは商品をつくりだすための基金だから、いわばフローであり、これにたいし資産はいわばストックと考えられている。
 いずれにせよ、資本は豊富な資産のなかから生みだされる。そして、近代の特徴は、資本が生産基金として回転しつづけ、労働者を雇用するとともに、新たな商品を次々とつくりだして、みずからの存続をはかることにあるといってよいだろう。
 人類社会は、近代にいたるまで、商品に埋もれて生活する時代を経験してこなかった。
 資産家と資本家は重なることが多いが、ほんらいは異なるものだとミルはいう。工場を営んでいる資産家は、資本家だが、遊んで暮らしている資産家は資本家ではない。
 ところが、資産家が自分の財産を、農業家や工業家に貸して何らかの事業を営ませ、それによって利子を得たとすれば、その資産家は資本家になる。要するにここでは、商品の生産に結びつく基金が資本ととらえられているのである。
 次にミルは資本に関するいくつかの根本命題を挙げている。
 それを列挙してみる。

(1)資本なくして雇用はない。資本によって雇われる労働者は足りないときも余っているときもあるが、一般に資本の増加は雇用の増加、ないし賃金の増加に結びつく。
(2)資本は略取によってではなく貯蓄によって生まれる。消費を超える生産分の増加、すなわち利潤が資本を増やす源である。
(3)資本は商品をつくりだすために消費されるのであって、貨幣として退蔵されたものや蕩尽されたものは資本ではなくなる。だが、資本によってつくられた商品の価値は、利潤とともに償還され、それが資本の回転を保証していく。資本の増加は、社会や個人を豊かにしていくことにつながる。
(4)資本は保存によって維持されるのではなく、絶えざる再生産によって維持される。言い換えれば、生産過程に投入されなくなった資本は、いずれ消えてなくなってしまう。建築物であれ機械であれ、「各種の資本の大部分は、その性質上長き保存に耐えない」。いっぽう、天災や人災によって生じた災禍が、人口が減らないかぎり、すみやかに回復されるのは、資本が再生産能力をもつからである。
(5)資本は商品にたいする需要を見込んで労働者を雇用するのであって、それが見込めなければ、単に労働者を雇用することはない。しかし、労働者を雇用するのは、あくまでも資本であって、商品を購入する消費者ではない。したがって、資産家は奢侈品などへのムダな出費をやめて、資本を形成し、それによって労働者を雇用すべきである。労働者を救うのは国家の救貧法ではない。産業が発展し、労働者が雇用され、その賃金が上がってこそ、労働者の生活は豊かになる。

 これを読むと、ミルは経済を動かすのは資本であり、資本が持続し、蓄積されることによって、労働者の雇用も増え、生活世界に提供される商品も豊富になり、社会全体が豊かになっていくと考えていたことがわかる。貴族や資本家が奢侈な生活にふけるのは愚の骨頂だと思っていた。かといって、資本のための資本を礼賛していたわけではない。資本の意義は、労働者の生活を向上させ、より豊富に商品を生みだすところにあるとみていた。しかし、資本によって、社会が無限に豊かになるとも考えていなかったのである。
 ここで、ミルは資本を流動資本と固定資本に分類している。
 原料や賃金など、「生産においてただ一度の使用によって、その役目の全部を果たしてしまう」のが流動資本である。
 これにたいし、建物や機械、その他の生産用具など、生産過程において「多かれ少なかれ永続的な性格」と「耐久的形態」を備えているものが固定資本である。とはいえ、固定資本も消耗するから、日ごろの手入れや一定期間での更新が必要になってくる。
 商品は、流動資本と固定資本を組み合わせることによって生産される。そして商品の販売によって実現される価値は、流動資本の全額と固定資本の損耗分、それに利潤を加えた金額を満たすものでなければならないという。
 固定資本の増加が、流動資本を犠牲にしておこなわれる場合、具体的には機械の導入によって、労働者の雇用が抑制され、場合によっては労働者が解雇されるケースがあることをミルも認めている。
 しかし、それはしばしばあることではないという。
「なぜかといえば、固定資本の増加の割合が流動資本のそれよりも大きいというような国は、おそらくないからである」
 さらに「およそ改良というものは、それが社会の総生産物および流動資本を一時は減少させることがあるとしても、結局は両者を増大させる傾向をもつものである」と述べている。
 こうして、ミルは「機械の発明は労働者に結局利益を与える」という楽観的な結論に達する。マルクスの悲観とは対照的である。

   4 生産性をめぐって

 労働、資本、自然が生産要因であることを論じたあと、ミルは生産性がどのように決まるのかについて考察をめぐらせていく。
 生産性を考えるうえで、最初に想定されるのは、自然の特典である。土地の肥沃度や気候、それに資源の豊富さ、地理的な位置などが、生産の促進に大きな影響をもたらす。
 次が労働のエネルギーである。ミルは怠惰を嫌い、人は「当面の仕事に熱心に秩序立って専念するという性質」を養うべきだとした。
 技能と知識も欠かせない。技能と知識が、道具や機械の発明と使用につながり、人間の活動効率を高めるからである。
 ミルは普通教育によって、民衆の知性や徳性が高まることを期待していた。それによって、人びとはたがいに信頼し、理解し、助けあえるようになるのであって、共同作業をおこなうさいには、こうした相互信頼が欠かせないと考えていた。
 さらにミルが重視するのは、社会の安寧である。社会において、人びとは安心して生活できねばならない。そのためには「政府による保護」と「政府に対する保護」が必要になってくる。人間社会において、生命、財産の安全と言論の自由は、守られなければならない最低条件であり、それを脅かす暴虐な政府は否定されねばならないということである。
 そのうえで、ミルは協業について論じる。
 協業とは労働の結合であり、協業が労働の生産性を増大させることはまちがいない。単純な協業は目に見えるが、複雑な協業は目に見えない。しかし、協業のネットワークはからみあうことで、最終的な生産物(商品)をつくりあげる、とミルはいう。
 中間的な生産の場は、ネットワークの結節点であり、そこで作りだされた生産物は市場を通して次のネットワークへと流れていく。
 そのネットワークは、農村の労働と都市の労働、ないし国内の労働と国外の労働を結びつける装置でもある。
 近代の特徴のひとつは、職業や職種の多様化だといってよいだろう。
 多様化といえば、工場内の分業が知られるが、これも協業のひとつの側面だといってよい。アダム・スミスが例に挙げたピン工場での分業をみるまでもなく、分業が労働効率を高めていくのは事実である。
 スミスは、その理由として分業が熟練の度合いを高め、時間の無駄を省くことを挙げたが、加えてミルは、分業が能力に応じた労働者の配置を可能にすることも見逃せないとしている。
 そして、市場の規模が大きくなると、断然、大規模生産が有利になってくる。大規模生産の場合は、多くの機械が必要になってくるし、それに応じて労働者を配置しなければならなくなる。
 雇用する労働者の数が増えると、それを監督する者がいなくてはならないし、仕入れ係や販売係、会計係なども任命しなくてはならない。
 大工場をつくるのは、商品の大量生産と大量販売を可能にするためである。そうしたシステムは、労働の生産性を高めていく。そして、小規模生産の事業所が何もしないのなら、大規模生産をおこなう大資本が、小資本を徐々に駆逐していくのは必定だ、とミルはいう。
 ミルの時代から、大資本をつくるには、小額の出資を集めて株式会社をつくるという方式が考えられるようになっていた。鉄道、郵船、銀行、保険などもそうした株式会社の分野だった。しかし、政府が頑固に特許会社を守りつづけている部門も残っていた。
 ミルによれば、株式会社の欠点は、労働者が仕事をさぼりやすいことと、金銭のムダな出費が多いことだ。しかし、有能な指導者がいて、会社内に適切なルールが確立されれば、その欠点は克服され、協同の精神が発揮されるだろうという。
 その結果、「もっとも能率が高くかつもっとも経済的な」株式会社が、個人経営会社を経済競争面で圧倒していくにちがいないとみていた。
 ただし、大資本による大生産制度が有効なのは、人口の多い繁栄している社会にかぎられるという。
 ミルは独占とカルテルの弊害も認識している。しかし、ガス会社や水道会社、鉄道会社などの場合は、経済効率を考えれば、これを公営事業とし、政府がそれを直接経営せずに「公共のためにもっともよい条件で営みうる会社または組合に全部移管すべきである」と考えていた。
 とはいえ、農業の場合は、工業とちがって、大農制がすぐれているとは、かならずしもいえない。その理由として、ミルは小農がそれなりの技術と知識をもち、しかも驚くほど勤勉であることを挙げている。
 これにたいし、大農の土地は、労働賃金を節約しなければならないため、それほど高度に耕作されることがない。
 どうやらミルは「穀物および糧秣については大農場の方がよいけれども、多大の労働と注意とを必要とする種類の耕作は、断然小規模耕作の方がよい」という方向に傾いていたようである。
 小さい地所や小農場においても、農業上の改良をおこないうること、そして農業の生産性を増加し、余剰食料を生みだし、それによって商工業部門にたずさわる非農業人口を養えるようにするところに、ミルは経済発展の方向性をみいだしていた。
 いずれにせよ、政治が社会の安寧を維持し、そのなかで人びとが、それぞれの場所において、生産性を高めるために日々工夫し、少しでも豊かな将来をめざしていくというのが、ミルの『経済学原理』の基本スタンスだったように思える。
 第1篇の生産論を閉じるにあたって、ミルはこんなふうに問題を提起する。

〈……[近代においては]勤労の生産物は通例増加の傾向をたどってきたのであった。けだし生産者たちが消費手段を増やそうと欲するからであり、また消費者の数も増加してゆくから、それに刺激されて、増加の傾向をたどってきたのである。このような生産増加の法則をつきとめること、生産増加の条件をつきとめること、生産増加に実際上限度があるかどうか、あるとすればそれは何か、ということをつきとめること──経済学においてこれほど重要なことはない。〉

 ミルは経済が発展し、生産が増加するかどうかは、生産の3要素、すなわち労働、資本、土地がどれだけ大きくなっていくかにかかっていると述べていた。
 そこでまず、労働の増加についてである。労働が増加するには、人口が増えなくてはならない。人類の増加力はほんらい無限だ、とミルはいう。
 しかし、人口の増加が妨げられるとすれば、生殖力の欠乏ではなく、別に要因がある。それは戦争と疾病、それに窮乏、飢餓である。
 窮乏にたいする恐れは、人口を抑制する原因となりうる。ヨーロッパでは19世紀前半から、食料と仕事が未曾有の増加を示したのにもかかわらず、人口増加の割合がそれまでより減少した。それは労働者階級が生活を守るため、家族数の増加を抑制したためだ、とミルはみる。
 いっぽう、資本はすべて貯蓄の産物であると書いている。人は将来の福利のために、現在の福利を犠牲にすることによって、貯蓄をなすことができる。
 そのため、浪費や奢侈、無分別や不摂生を避けるという心性が育たない場所では、貯蓄はなされず、資本は形成されないという。ミルはそうした例として、インディアンや中国人の場合を挙げている。ずいぶん人種的偏見に満ちたとらえ方だが、当時はそう考えられていたのだろう。
 ミルによれば、中国人は勤勉であるにもかかわらず、分別が足らない。中国人は資本を蓄積せず、生産技術に改良を加えることを怠っているために、社会全体が停止状態におちいり、(イエズス会神父の観察を借りれば)「その日暮らしに満足し、辛苦の生活をも幸福と考えている」。
 中国において、資本の増加が止まっているのは、中国人が「たいていのヨーロッパ国民よりも現在にくらべて将来をはるかに低く評価しているということを物語る」と、ミルはいう。
 これにたいし、ヨーロッパの国々の特徴は、自由職業の人びとや商工業階級の人びとのあいだで、すこぶる貯蓄精神が盛んなことだ。そして、ヨーロッパにおいては、貯蓄によって形成された資本の大部分が、事業に投下されることによって、国の富が急速に増加しているという。
 ミルは土地についても述べる。
 土地からの生産物の増加は、土地の広さがかぎられることによって妨げられる。とはいえ、地表の大部分は耕作され尽くしたとはいいがたい。
 すると、問題は土地の生産性ということになる。
 ここで、ミルはいわゆる収穫逓減の法則をもちだしている。さらに劣等地や土地の位置といった問題も挙げている。そうした土地から収穫を得るには、より多くの労働や資本が必要となるだろう。
 しかし、土地の改良は可能だし、それがなされれば、わざわざ劣等地を開発する必要もなくなり、収穫逓減の法則を一時停止させることができる。さらに農業上の知識や技術、発明がなされれば、農法を改良し、効率のよい(つまり労働と費用を減少させる)農産物生産が可能になるだろう。輪作や堆肥、新作物の導入、役畜の使用方法の改善(いまなら機械の発明)、輸送の改善など、いくらでも改良の余地はある。
 ここから、ミルは次のような結論に達する。

〈すべて分量に限りがある自然諸要因は、その究極の生産力に限りがあるのみならず、その生産力の極限に達しないよほど前から、すでに需要の増加分を満たすのに条件がますます困難となる。しかし、この法則は、人間が自然を制御する力が増加すれば、ことに人間の知識が増大して、その結果自然諸要因の性質や力を支配する力が増大すれば、停止せられ、あるいは一時抑制されるものである。〉

 もう一度、くり返していうと、ミルによれば、生産を決定づけるものは、労働(人口)と資本と土地(食料・資源)である。
 この3つがうまく結びつかなければ、豊かな生産物は生まれず、社会は貧しいままにとどまってしまう。
 たとえ、労働がなされていても、その成果が蓄えられず、社会が停滞したままで、人口だけが増大していくなら、資本不足と土地不足により、その社会はますます貧しくなっていくだろう。
 人間の生活が豊かになるためには、衣食住が満たされ、新たな生活用品が生みだされ、生活環境が整えられねばならない。それには、勤勉と蓄積が増進される社会体制が必要になってくる。
 勤勉と蓄積は資本を増加させ、それが知識や技術の増大とあいまって、生産性の拡大をもたらすとともに、新たな生活商品を生みだしていく。
 労働と資本と土地は相関関係にある。

〈時代のいかんを問わず、使用された労働に比べてその勤労の生産物が増加しているか、また国民の平均的生活状態が向上しつつあるか低下しつつあるか、ということは、人口が改良よりすみやかに増加しつつあるか、それとも改良が人口よりすみやかに進行しつつあるか、ということによって定まるものである。〉

 もし、一国の生活水準が低下しているとして、その低下を防ごうとすれば、外国から食料を輸入するか、または海外に移民するしか方法がない、とミルはいう。しかし、食料を輸入するにも、それには綿製品であれ金属製品であれ、なんらかの見返り商品が必要であり、移民や植民もはたしてどこまで現実的に可能な地域があるのかと考えれば、なかなか容易なことではない。
 いずれにせよ、いかなる社会もその時代の限界と壁にぶつかるのであって、それを突破するには、社会体制の改革と生産性の向上が求められる。そのなかでも資本がとりわけ大きな役割をはたすだろう、とミルは考えていた。
 ミルの考え方は漸進的かつ楽天的である。

   4 分配論の前提

 ここから第2篇「分配」にはいる。
 ミルははじめに、富の分配は人為的制度であり、社会の法律と慣習によって定まる、と書いている。
 現在の社会は私有財産制にもとづいている。しかし、19世紀半ばのミルの時代には、すでに私有財産制の全廃を唱える共産主義や、その制限を訴える社会主義の考え方が盛んになっていた。
 共産主義は、財産の共有と生産物の平等な分配をめざす。ひとつの村落共同体を想定すれば、こうしたシステムは可能だとミルは考える。
 こうした社会ができれば人は働かないという批判をミルはしりぞける。共産主義集団においては人びとの公共心が高まり、世論に導かれて公共のために尽くすという姿勢があらわれるかもしれないからだ。
 だが、問題は労働の割り振りである。ある人には紡績の仕事を、別の人には煉瓦積みをというような割り振りを、だれがどう決めるのか。時に、仕事を変えることも考えられるが、実際にはなかなかむずかしいだろう。共産主義はいまのところ観念上の存在にとどまっている、とミルはいう。
 だからといって、私有財産制は万全の制度ではない。それが征服と暴力によって生まれたことをミルは知っている。また私有財産制が不公平を拡大し、すべての人が完全に平等な条件でスタートすることをさまたげているのも事実である。
 私有財産制の原則は、努力すれば、そのぶん報酬が与えられるが対応するというものだが、それとてもまず公平が保たれて、はじめていえることだ。
 これにたいし、共産主義の問題は、はたして、この制度のもとで、人間の自由と自主性、いいかえれば完全な独立と行動の自由が保証されるかということだ、ミルはいう。

〈共産制には個性のための避難所が残されるか、与論が暴君的桎梏(しっこく)とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸たる均一的なものになされてしまいはしないか──これらのことが問題である。〉

 サンシモンとフーリエの「社会主義」はどうだろう。
 サンシモンは、選挙によって社会の指揮者集団を選び、その指揮者が人びとに、能力や才能に応じて仕事を与え、その業績に応じて、報酬を払うという方式を構想した。とうぜん、指揮者集団は、絶対的な権威をもたなければならない。
 これにたいし、労働者が組合をつくり、その組合がリーダーを選び、リーダーの指導のもとで、労働者が協同作業をするというのが、フーリエの社会主義である。仕事ができる人もできない人も、社会の成員には、最低限の生活保障が与えられる。そして、労働者は等級に応じて報酬を受け取る。住宅に関しても、同じ一棟の建物に住む権利が認められている。
 フーリエは労働を魅力あるものに変えようとしていた。ミルはフーリエの実験がうまくいき、私有財産制にもとづく産業組織とことなる制度が生まれることに期待を寄せている。しかし、それはまだ実験段階にとどまっているとみていた。
 当面、ミルは私有財産制にもとづく制度を改良し、そこに人びとが参与できる方向を目指そうとしている。
 私有財産制のもとでは、人は贈与または公正な契約によって得たものを、自由に処分してよい権利を有する、とミルはいう。労働者は資本家との契約によって賃金を獲得する権利を有するが、だからといって、新たな契約を結ばないまま、資本家の私有財産を侵害する権利はもたない。
 私有財産制の根本は、個人の所有権にあり、これは贈与の権利をも含む。だが、親族は自動的に相続権を有するのではなく、贈与はあくまでも親の権利だという。
 とはいえ、遺贈権は制限されなければならない。それによって、個人が労せずして、最高限度より以上の富を得ることがないようにし、それ以上の遺産は、公の用途にささげられなければならない、とミルはいう。しばしば財産の不公平を伴う私有財産制は、どこかで是正されねばならないものだった。
 また土地の所有権は、土地所有者が土地改良家である場合にのみ成り立つ、とミルはいう。そして、大地主である貴族の長子相続制を批判して、こんなふうに述べている。

〈何びとも、土地を作ったものはまだいないのである。土地は、本来、全人類の相続財産である。その土地を人に私有させるのは、まったく人類全般の便宜に出でることである。土地の私有がもしも便宜を与えないならば、その私有は不正である。〉

 大貴族には批判的だった。社会の一般的利益(たとえば鉄道や道路)にとって必要な場合は、国家が一定の賠償を支払えば、地主の土地所有権を自由に処理できるというのが、ミルの考え方である。
 さらに、以下の所有権は認められない、とミルはいう。ひとつは他の人間を財産として所有する権利である(奴隷制は禁止されねばならない)。もうひとつは公職にたいする所有権である(公職の世襲は認められない)。その他の公的に認められない排他的特権も排除されなければならない。
 私有財産には一定の制限が設けられなければならない。そして、社会的に認められた私有財産制のもとで、土地および労働の生産物が3階級(地主、資本家、労働者)のあいだに、どのように分配されていくかを研究するのが経済学だ、とミルは述べている。
 しかし、ミルは同時に、この3階級がきちんと分かれているのは、イングランド、スコットランド、ベルギー、オランダくらいのもので、あとは同じ人がふたつ、ないし三つを兼用していることが多いとも述べている。資本家と労働者を兼ねる職人もいれば、地主と労働者を兼ねる小農もいる。そして、奴隷制のもとでは、自立した労働者はおらず、資本家がすべてを兼ねている。またアジアにおいては、国家が土地の所有権を握っているとも記している。
 ただし、工業が発達してくると、労働者を雇用する資本家と、資本家に雇用される労働者とが、はっきりと区別されるようになる。「一般に資本家は、指揮監督の労働よりほかの労働には携わらない」
 そこからミルは分配論を展開していくことになる。経済学の前提となるのは、あくまでも競争である。だが、現実には慣習の力が見過ごせない。そのため、慣習の問題を抜きにして、競争だけで経済のあり方を語るのは危険だという考え方をあらかじめ示している。

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『アンダーグラウンド』と『1Q84』──『村上春樹は、むずかしい』を読む(3) [われらの時代]

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 1995年。1月には阪神淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。
 村上春樹もショックを受けたにちがいない。
 このあたりから、世の中がおかしくなった。
 災厄つづきの時代がはじまった。
 考えてみれば、村上春樹の小説は否定の否定からはじまっていた。
 否定の否定とは、ありていにいってしまえば、そもそも全共闘運動という否定を否定することだった。
 もはや革命的蜂起は夢想でしかなくなった。その先にはなにかあるのだろうか。
 否定の否定からは、ふたつの方向が導きだされる。
 デタッチメントとコミットメントだ。
 図示すれば、こうなるだろう。

        デタッチメント=外在的否定性
       [右斜め上] 
  否定の否定
       [右斜め下]
        コミットメント=内在的否定性

 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、村上春樹にデタッチメントからコミットメントへの姿勢の転換を余儀なくさせたといってよい。
 加藤典洋もそんなことを書いている。
 ぼくの読んだ本でいうと、そのあらわれが地下鉄サリン事件の被害者と遺族62人(うち2人は掲載を拒否)からの聞き書きをまとめた『アンダーグラウンド』だったことはまちがいない。
 村上春樹はオウム真理教によるこの事件に異様なくらい関心をひきつけられた。
 加藤典洋は、この聞き書き『アンダーグラウンド』で、村上ははじめて「ただの人」、すなわち日本のサラリーマンたちと出会った、と書いている。でも、たぶんそんなことがポイントではない。凶悪ともいうべき否定性にひきつけられたのだ。
 地下鉄サリン事件は、被害者の経験をとおして、じつにリアルに再現されている。
 1997年に本書が発売されたとき、ぼくはすぐに買って、読み、30枚ほどの長い感想を書いた。
 その一部をひろってみる。
「爆弾ならともかく、[ポリ袋から]じわりじわりと漏れだしてくる妙な液体が、それほど危険だとはふつうは思わない。爆発も閃光もないまま、ただ息をしているだけで、いつのまにか死の淵に立たされる。ここから想定されるのは静まりかえった死の光景だ。だが、その前に乗客は危険が迫っていることに気づく」
 この事件で死者は13人、被害者は約6300人におよんだ。
 村上自身は、オウム真理教を、麻原彰晃という奇妙な指導者に率いられたカルト集団ととらえている。
 そして、こんなふうに書いていた。

〈私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりに無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。〉

 ここから導かれる結論は、警察による事件の解明と、それにもとづく危機管理体制の確立がだいじだということになるだろう。
 しかし、発売早々この本を読んだぼくは、どこか不満を覚えていた。
 そして、こんなふうに感想を書きつけている。
「この本は通常の犯罪ドキュメンタリーのように犯人の性格や動機、行動を中心に事件を追っているわけではない。だから、オウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件の全容は、この本を読んでもわからない。特異な宗教団体と犯罪との関係、教祖である麻原彰晃の目的と動機、それに実行者の心理と行為についても、あまり多くは書かれていない。事件の全容が解き明かされるまでには、これからも多くの時間と努力が必要とされることだろう」
 ずいぶんいい気なものだと思わないわけにはいかない。
 村上春樹はさらに努力して、元オウム真理教の信徒からも聞き書きをおこない『約束された場所で』という本を出版しているのだから。それを、ぼくは読んでもいない。
 しかし、村上春樹の超人的な努力をもってしても、オウム真理教の闇はまだ解明されていないというべきだろう。
 だが、この聞き取り経験をもとに、村上春樹は小説世界において、さらに闇の奥に向かおうと決意したのだろう。加藤典洋もそう書いている。
 1999年の『スプートニクの恋人』、2000年の『神の子どもたちはみな踊る』、2002年の『海辺のカフカ』、2004年の『アフターダーク』は読んでいない。
 ぼくが読んだのは2009年から10年にかけて発表された『1Q84』だけである。
 ところが、その記憶がはっきりしない。たぶん2009年に1部と2部を買って、2日ほどで読み終えたはずだ。エンターテインメントとして、すなおにおもしろかったが、何だこれという感想もいだいた。
 第3部は買ったのかどうかもはっきりしない。いずれにせよ、本はたぶん娘がもっていってしまったので、いま手元に残っていない。
 最近はぼけが進んで、なにもかもすぐ忘れてしまう。
 それで、加藤典洋にしたがいながら、話を進めるほかないのだが、加藤は全3部を読んで、「未了感が消えない」という感想をいだいた。つまり、完結感、達成感がないというのだ。
『1Q84』はどんな小説なのだろう。
 加藤の本から引用してみる。

〈この小説は、もと護身術インストラクターの女主人公青豆が、TV番組の『必殺仕掛人』よろしく「正義」のため、世のきわめて悪質なDV男性──「ネズミ野郎」──たちを鍼灸術的秘儀で殺人の痕跡もなしに抹殺していく冒険譚と、予備校数学教師で小説家志望の青年天吾が、ふかえりという不思議な少女の書いた新人応募作『空気さなぎ』のリライトを編集者に頼まれ、引き受けたことから、面倒な新宗教がらみのトラブルにまきこまれていく話とが、交互に語られて進む。
 背景には新宗教集団の秘められた動きがあり、青豆は、幼女を巻きこんだ性的秘儀を繰り返す教団の指導者『リーダー』の殺害を「柳屋敷」の「老婦人」に支持され、これを実行し、天吾は作品『空気さなぎ』を世に出し、期せずしてその教団の「ご神体」をなす「リトル・ピープル」の秘密を暴くことに関わり、それぞれ教団組織、ご神体集団に追われる身となる。〉

 そして、じつは青豆と天吾は小学校時代の同級生で、赤い糸で結びあっているから、この小説は愛の物語でもある。
 だが、全3部を読みつくしたあと、加藤は「これでは、青豆の物語が、終わらない」と感じたという。それが、かれのいう未了感である。

〈青豆は、人を殺した。どうすれば、人を殺した青豆が、その後、天吾との「愛」のもとで、ことによれば「リーダー」の種を宿した赤ん坊とともに、生きていけるのか、というのが、このあと書かれなければならないことである。〉

 謎が謎呼ぶ殺人事件ではないが、世の中は解けない謎に満ちている。
 それがひとつでも解ければ、いい人生だったということになるだろう。解けたと思った答えがまちがっていることもある。
 村上春樹は否定の否定を重ねることで、解けない謎にいどもうとしている。はたして、災厄の時代を乗り越えていく力を、はたしてわれわれはどこにみいだせばよいのだろうか。
 だが、おそらく答えはすでに出ているのだ。
 否定の否定はもし制度に帰着するならば、永劫回帰を繰り返すほかないだろう。最悪の場合、それはファシズムやスターリニズムに行き着いて、さらに大きな災厄をもたらす。
 ここで、とつぜん、ロシアの作家、シャラーモフのことばを思いだす。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇(よみがえ)る」
 何十年もシベリアのラーゲリ(強制収容所)を経験したシャラーモフは、人間の最初の感情が憎しみであることを、いやなくらい知っている。
 それでも、かれはいうのだ。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇る」
 村上春樹も否定の否定がいきつく先が、最後は愛であることを、ついにつかんだのではないだろうか。

『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』まで──『村上春樹は、むずかしい』を読む(2) [われらの時代]

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 1982年『羊をめぐる冒険』
 1985年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
 1987年『ノルウェイの森』
 1988年『ダンス・ダンス・ダンス』
 1992年『国境の南、太陽の西』
 1994年〜95年『ねじまき鳥クロニクル』

 村上春樹の創作活動はきわめてコンスタントだ。まるで、毎日の朝の勤行にようにおこなわれている。
 そのことにまず驚く。躁鬱型でも破滅型でもないようだ。
 ほんとうにものを書くのが楽しいのだろう。その純粋さがたぶん読者に伝わるのだ。
 ここに挙げた作品で、ぼくが読んだのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』だけである。
 だから、えらそうなことはいえない。それも、あまりよくわかっていないのだ。
 加藤典洋にいわせれば、80年代から90年代にかけて、ポストモダンの時代がはじまっている。
 ポストモダンの特徴は「情報社会化」と「ヴァーチャル・リアルな世界」だ。
 それを先取りした作品が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だという。
 この作品では、意識の世界と無意識の世界がパラレルにえがかれる。
 意識の世界は、めくるめくリアル(小説的現実)によって翻弄される。これにたいし、無意識の世界は、「私」の奥底にある「僕」の静謐な思いに満ちている。
 と書いてみたものの、ほんとうにその解釈が正しいかどうか、心もとない。
 リアルな世界、つまりハードボイルド・ワンダーランドは、ハリウッド映画のように、冒険に冒険がつづく場所だ。
 物語は、かわいい太った女の子と地下にもぐり、その祖父である博士から、「計算士」である「私」が仕事を依頼されるところからスタートする。地上に戻った「私」にいきなり邪悪なものが襲いかかる。その謎を解くべく、「私」はふたたび地下にもぐり、太った女の子の協力を得て、邪悪なものと戦いつつ、ようやく地上に帰還するのだ。
 これは頭にえがかれたファンタジーだ。しかし、あのころ、ぼくも会社という場所で戦っていたことを思いだす。上司に叱咤激励されながら、いろいろな会社を回って契約をとってくる仕事は、きつくはなかったけれど、それなりにたいへんだった。まるで相手にされないこともあったし、同僚と喧嘩をすることもあった。その点、人生はたしかにハードボイルド・ワンダーランドなのである。
 しかし、そうした戦いの毎日とは別に、何か別のわきだしてくるもの、ぼくが求めているのは、ほんとうはこんなことではないという思いがあったのもたしかである。そうした思いは年を取るにつれて、しだいに枯れていくものなのかもしれないが、村上春樹はそうした無意識の場所をパラレルワールド、すなわち「僕」の行き着く「世界の終り」として、やはり映画のようにえがいている。
 加藤典洋によれば、「世界の終り」は「否定性のない定常的な世界」だという。ここでは誰もが生来もつ苦しみと矛盾は切り捨てられる。いわばニルヴァーナ(涅槃)に向かう場所だ。いずれ人の心の核にある無意識は、熱い塊から、だんだんと冷えて、黒い塊へと落ち着いていくのだろう。
 しかし、村上春樹はまだ若い。心を滅却して、「世界の終り」に安住することを拒否するのだ。その選択はかなり微妙なものとならざるをえない。
 というのも、「世界の終り」に安住することを拒否するとしても、その方法はふたつあるからである。
 ひとつは「世界の終り」から完全に脱出することだ。すると、無意識の欲求は完全に断ちきられ、現実に順応することがすべてとなる。これにたいし、村上が選んだ道は「世界の終り」を苦しみながらさまようことだったと思われる。
 無意識のなかからわきだしてくるものを、現実の必要性(身過ぎ世過ぎ)のために抑え、切り捨ててしまうのではなく、そのわきだしてくるものに随伴すること。
 加藤はその方向について、竹田青嗣のことばを借りながら、「自らの内閉的な『世界』のイメージにこそ抵抗しようとする『作家のひどく困難な意志のかたち』を指し示している」と表現している。
 このとき、村上春樹の無意識には、何がわだかまっていたのだろう。
 加藤は村上のある習作をもとに、こう紹介している。

恋人は精神的な病いに苦しみ、自殺している。死ぬ前、彼女はいった、本当の自分はここにいるのではない、「高い壁に囲まれ」た内部の世界に閉じこめられていると。彼は尋ねる。「そこに行けば本当の君に会えるのかい?/そして、彼女が死んだあと、「僕」はそこに向かう。」

 それが大ベストセラー『ノルウェイの森』に結実することはいうまでもない。
 ぼくは、最近、とみに老人力が増してきて、昔読んだ小説の筋など忘れてしまっている。
『ノルウェイの森』を読んだのは、はるか昔のことで、いまではほとんど何も覚えていない。
 映画はみた覚えがある。たしか、このブログにもその感想を書いたはずだと思い、検索してみると、でてきた。定年退職後の2011年2月のことだ。
 参考までに、それを挙げておく。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2011-02-02

 原作をもう一度読んでみることにしようと書いておきながら、それからまったく読んでいないのは、いかにもなまけもののぼくらしい。
 だから、加藤典洋の本にしたがいながら、筋を思いだすしかないのだが、友人のかつての恋人で、いまは「僕」の恋人となった直子がなぜ死んだのかが、「僕」につきまとう謎だったことはまちがいない。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は、それまで一歩下がって内閉するデタッチメントにこだわっていた村上春樹が、足場のない空間にこぎだして、ふつうの書き方で書いた、初の恋愛小説だという。

〈主人公の「僕」=ワタナベ・トオルが自殺した高校時代の友人キズキの恋人だった直子と、大学進学後、東京で再会し、恋愛する。直子はその後、大学をやめ、東京を去り、心を病んで京都の医療施設に入って、やがて自殺する。「僕」は東京で大学のクラスメート緑とつきあうようになり、直子の死後、緑に愛を告白する。〉

 これが加藤による『ノルウェイの森』のあらすじである。
 ここには同じ寮にいて、外交官をめざしている永沢さんという人物がでてくる。永沢さんにはハツミさんという恋人がいる。
 それなのに永沢さんはガールハントが好きで、「僕」もその片棒をかつがされ、セックスのとき女の子をとりかえたりする。
『ノルウェイの森』はセックス小説でもある。ふたりの男はそれぞれ恋人がいるのに、「ときどきすごく女の子と寝たくなる」。
 そして、「僕」の恋人、直子も、永沢さんの恋人、ハツミさんも自殺する。直子は精神を病んで、ハツミさんは別の相手と結婚したあと。
 ハツミさんが自殺したあと、外交官になった永沢さんから、「僕」に「たまらなく哀しく辛い」という手紙が届くが、「僕」はその手紙を破り捨て、二度とかれに手紙を書かない。
 青春時代を回顧したほろにがい小説といってしまえば、それまでである。
「僕」と永沢さんのちがい。「僕」が彼女に去られるのにたいし、永沢さんは彼女を捨てたのだ。そして、彼女のことを青春の思い出のひとこまとしか思っていない。これにたいし、直子は「僕」の心の奥底に生きつづけている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というたぐいなき超日常的な小説世界を築いていたとき、おそらく村上春樹のなかには、「直子」のことが、よみがえっていたはずである。
『ノルウェイの森』は、書かれるべくして書かれた作品だった。そのパワーが作品に結実したあと、村上春樹はようやく解き放たれ、ふたたび自己の小説世界に立ち戻ることができたのである。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は累計で1000万部を超えるベストセラーとなり、その結果、村上春樹は「日本からの逃亡」を余儀なくされたという。
 そのあと1995年まで、作品は海外で書かれ、次の大長編『ねじまき鳥クロニクル』も全3部のうち、2部がアメリカで執筆された。
『ねじまき鳥クロニクル』は読んでいない。そのあと、ぼくが読んだのは『アンダーグラウンド』と『1Q84』だけだ。最近の『騎士団長殺し』も買っていない。
『ねじまき鳥クロニクル』については、加藤典洋の解説を紹介するほかない。
 この小説は、いってみればさえないハウス・ハズバンドの「夫婦の物語」である。「僕」、岡田トオルは、妻のクミコに突然失踪される。その妻を探して、みずからの内面の闇に降りていき、そこで予期せぬものとぶつかりながら、妻を取り返す話だといってよい。
 加藤典洋によると、「主人公が『社会』から遠ざかり、自分の無意識の闇に沈潜すると、そこに『歴史』が現れる」のが、この物語の特徴だという。
 その歴史とは、日本による中国侵略、新京(満州国の首都、現長春)の植民地生活、ノモンハン事件である。ここでは初期の「中国行きのスロウ・ボート」がついに中国の内部に到着したことが示唆されている。
 それにしても、すさまじい暴力描写である。ストーリーは無意識の奥(いわば父の記憶)から吹きだす歴史の暴力と、意識のとらえる現実の暴力が交錯しながら展開する。
 加藤はこう書いている。

〈カギは、暴力と死とセックスにある。それを避けて、ではなく、その内側に入り、そこをくぐり、どう「戦争の記憶」に達し、「反戦と非戦の意志」へと抜け出ていくことができるか。/『ねじまき鳥クロニクル』は、そのような私たち日本人の戦後の「冥界くぐり」の先駆例だというのが、いまの私の考えである。〉

 この評価が正しいかどうか、わからない。
 しかし、こういう記述をみると、やはり村上春樹は、われらの時代の作家なのだという思いを強くするのである。

『村上春樹は、むずかしい』(加藤典洋)を読む(1) [われらの時代]

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 村上春樹は、むずかしい。
 おもしろいのだけれど、よくわからない。
 ほんとうにそう思う。
 先日、両親を介護するため、いなかの高砂に帰り、往復の新幹線や夜寝る前に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。しかし、正直いって、よく理解できなかった。
 これまでの小説にない世界がつくられていることはたしかである。まるでゲームのようにストーリーが展開し、最後まであきさせない。夢中で読んでしまった。たいしたものだと思う。
 こんな世界を構築できる小説家はそうざらにいない。ひたすら感心する。
 だが、ふりかえってみると、頭に何も残っていないのだ。展開の早いハリウッド映画を見終わったあとのような感覚。それでも、村上春樹はくせになる。
 村上春樹をよく読んだとはいえない。たぶん妻や娘たちのほうが読んでいると思う。『ノルウェーの森』や『アンダーグラウンド』、『1Q84』は飛ばし読みした。短編も読んだ覚えがある。
 それらの本は本棚に残っていない。結婚した娘たちがもっていってしまったのだ。なぜか「世界の終り」だけがぽつんと残っていたので、先日兵庫県のいなかに戻るときに、またも飛ばし読みした次第だ。
 村上春樹とは同世代である。出身地も兵庫県で、大学も同じだ。それなのに、こちらは「おとうさん」「おじさん」から「じいさん」になり、サラリーマンを定年退職して、いまは日がなぼんやりすごしている。うらやんでも仕方ないが、えらいちがいである。
 村上春樹の小説は、かっこいいし、気が利いているし、ミステリアスだ。ハードボイルドの要素もあり、何よりも主人公が女の子にもてる。やっぱり芦屋生まれの人はちがうわと、いなか育ちのぼくなどはついつい、ひがんでしまう。
 こんなふうに書きはじめると、最初から最後までぐちであふれそうになるので、いいかげんなところでおしまい。
 ここでは、同じ世代ということだけを取り柄にして、ひたすら村上春樹が切り開いてきた小説世界を取りあげてみることにしよう。
 といっても、ぼくはとても村上春樹の熱心な読者とはいえないので、加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)を、これまた斜め読みして、お茶をにごそうというのである。
 この解説書は3部にわかれている。

 第1部 否定性のゆくえ 1979-87年
 第2部 磁石のきかない世界で 1987-99年
 第3部 闇の奥へ 1999-2010年

 村上春樹の作品に沿って、話が展開している。
「はじめに」は省略して、第1部から読みはじめる。
 村上春樹のデビュー作は1979年の『風の歌を聴け』である。
 あのころ、ぼくは結婚し、ちいさな出版社から某マスコミの子会社に転職し、会社回りの営業の仕事をしていた。
 もともと小説はあまり読まなかったから、村上春樹の登場にはさほど注目しなかった。
『風の歌を聴け』も翌年の『1973年のピンボール』も芥川賞をとれなかったという。そのころ注目されていたのは、中上健次や村上龍である。
 しかし、芥川賞をとれなかったのが、かえってよかったのだ。それ以降、村上春樹は芥川賞などには目もくれず、長編小説をめざすことになったのだから。
 村上春樹にとって1970年代は小説修業の時期である。そのころ、ぼくは世間の広さを知り、上司や先輩と毎日のように飲み歩き、子育てに明け暮れていた。
 ぼくが「風の歌」を読んだのは、ようやく60歳近くになってからである。
 とても懐かしい感じがした。
 その感想については2度ブログに書いたので、いまつけ加えることはない。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-24
 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25

 加藤が注目するのは「風の歌」に登場する「鼠」という友人の存在だ。
「鼠」は金持ちの息子だ。「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」というのが口癖。
 加藤はこの口癖を「自己否定ないし否定性の表現」と評している。
 これにたいし、主人公である「僕」のモットーは、作中に登場する架空の小説家デレク・ハートフィールドの作品タイトル『気分が良くて何が悪い?』だという。
 否定性と肯定性が対比されている。
 加藤によると、「この小説は、[学生運動に見られたような]『否定性』を抱えた『鼠』が徐々に時代遅れになり、没落していくさまを……重層的な構成のもとにえがいている」ということになる。
 だが、ぼくはそうは思わない。希望も絶望も捨てて、ひたすら井戸(フロイトのいうイド)を掘って、次の世界に抜けることをめざすと宣言した小説と読んだからである。
 まあしかし、そう大げさに考えなくてもいいのかもしれない。村上春樹の小説は楽しい。軽やかだし、スリルもあるし、しゃれている。そうでなければ、小説をつづけて書く気分にはなれないだろう。それでいいのだ。
 1982年には長編小説『羊をめぐる冒険』(ぼくは読んでいない)、1985年には『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が出る。
 そのかん、かれはいくつかの短編を書いている。ぼくが気に入ったのは、ちょうど定年の年に読んだ「中国行きのスロウ・ボート」と「パン屋再襲撃」だ。あのころ、ぼくの家のネコが死にかけていた。
「友よ、中国はあまりに遠い」という謎のひとことで終わる「中国行きのスロウ・ボート」には、中国にたいする村上春樹の思い入れの深さがこめられている。
 加藤によれば、教師で僧侶でもあった村上の父親は徴兵され、中国大陸での戦闘に加わったのだという。だから、中国のことは、どこかでいつも気になる。
 スロウ・ボートとは船足の遅い小舟。いつまでもこぎ続けて、いつか中国にたどりつきたいと願っている。でも中国は遠い。
 加藤はほかに「貧乏な叔母さんの話」についてもふれている。この作品もぼくは読んでいないけれど、加藤によれば、これは「『貧しい人々』への罪障感のゆくえを書こうとした」作品だという。
「僕」はかれらにたいして何もできない。かれらが革命を起こして、貧乏な国ができても、たぶん「僕」には居場所がない。「僕」ができるのは、この豊かな世界で孤立したかれらに寄り添うことくらいだ。
 ぼくが加藤の評論から読み取ったのは、そういうメッセージだが、ほんとうはそんなことではないような気もする。作品を読んでいないので、これも何ともいえない。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という作品もあるらしい。加藤によると、内ゲバにたいする村上の「ささやかなコミットメント」だという。
 内ゲバは1969年から1981年ごろまでが猖獗(しょうけつ)をきわめ、そのピークは1975年だった。そのかん100人近くが命を落としている。
 革マル派の拠点があった早稲田の文学部でも、ずいぶんひどい内ゲバがあった。ぼく自身は党派に属さなかったので、内ゲバとは無縁でいられたが、あのころはひやひやしていたことを覚えている。
 たぶん内ゲバの死者には、村上の知り合いもいたことだろう。
 そもそも「ニューヨーク炭鉱の悲劇」というのは、1967年にビージーズが発表した反戦歌のタイトルだ。
 加藤はこう書いている。

〈1941年に起こったニューヨーク炭鉱の悲劇とは、いま進行しているベトナム戦争の「落盤」の悲劇のことで、この若いロックバンドは、その「悲劇(disaster)」を銃後の社会で地球の裏側の戦場に遺棄された若い兵士たちの孤絶の側から、歌ったのである。〉

 この作品についても読んでいないので、何ともいえない。
 加藤の論評はわかったような、わからないようなところがある。
「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」は、やはり定年の年に(ネコのからだを心配しながら)通勤電車のなかで読んだ。
 ブログにこんな感想を書いている。

http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2008-03-06

 加藤によれば、この作品は過激な学生運動の後日譚、ただしパロディということになる。京浜安保共闘による銃砲店襲撃も村上春樹の念頭にあったかもしれないという。しかし、この作品では、反体制的な否定性は、ポストモダニティにからめとられてしまう。つまり、革命がとんちんかんなお笑いになってしまう時代がはじまっていたのだ。
 だが、ぼくの解釈はここでも加藤とはちがい、むしろ近代の逆立性ということを強く感じたものだ。
 人によって、作品の受け止め方はずいぶんちがうのだなあと思わざるをえない。しかし、多様な読み方ができることが、小説の深さであり味わいなのだろう。
 村上春樹はたしかに、われらの同時代人である。村上春樹を読むということは、笑ったり、驚いたり、どきどきしながら、いまの時代を眺めるということにほかならない。それが楽しい。

アテナイの消費生活について(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 アテナイの買い物ではよく魚の話がでてくるという。とくにビッグサイズの魚は値段も高く、シーフードはあこがれの的だった。魚はご馳走だったといえるだろう。
 アテナイ人はだいたいにおいて、犠牲に供される牛やヤギ、ブタ、羊の肉で栄養をとっていた。こうした肉は宗教的儀式にともなうもので、市場では売られていない。氏族(オイコス)のもとで分配されるのがふつうだった。
 しかし、市全体や地区全体でおこなわれる大がかりな儀式もあり、民衆の支持を得ようとする金持ちが、しばしばそうした儀式のスポンサーになった。政府がカネを出すこともあった。
 ところが肉とちがって、魚は市場で売られるぜいたく品だった。それはまさに食欲を満たすとともに消費の対象となる商品だったといえる。
 問題は魚が腐りやすく、早く食べなければならないことだった。そのため朝早く市場に行き、新鮮な魚を買って、すばやく調理する必要がある。その点、魚は理想的な商品だったかもしれない。すぐに売れて、消費され、カネになったからである。
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[アテナイの銀貨。ウィキペディアから]

 もうひとつカネのかかるものといえば、セックスだった。アテナイにもふつうの売春婦から高級娼婦まで、カネで買える女性はさまざまだった。
 大勢の女や少年を集めて宴会を催すには、びっくりするほど費用がかかった。そこでは音楽のバンドもいれ、食事や酒の用意もしなければいけなかったから、その費用は想像にあまりある。だが、そうした宴会は金持ちのみえのためではなかっただろう。
 高級娼婦を囲うにはとてつもなくカネがかかった。それでも古代アテナイ人も、カネで欲求が満たせるという誘惑にはあらがえなかったようである。
 アテナイ人の消費に関する記述には、不思議なことに、衣服や家財の話がほとんど見当たらない。職人は大勢いたのだから、こうした商品も購買され、使用されていたことはまちがいない。
 衣服はもちろん手織りで、アテナイの工房で織られ、市場でも売られていた。なかには高いものもあり、とくに高級なマントが知られていた。しかし、衣服や家財は、直接注文が多く、そのためあまり市場にあらわれなかったのだろうか。
 民主政のアテナイでは奴隷やメトイコイ(外国人)にたいする扱いがゆるやかになり、かれらの服装も市民と変わらなくなっていたという。
 逆にいえば、紀元前5世紀になるにつれ、金持ちもだんだん庶民と同じような服を着るようになっていったのである。
 アテナイでは、服装の面でも民主化が進んでいたといえるだろう。
 しかし、いっぽう民主政のもとで、金持ちはことあるごとに資金の提供を求められるようになった。さらに税金もかけられる。とりわけ戦争ともなると、金持ちはより多くの負担を求められた。
 さらに重要なのは、アテナイでは多くの判事や検事が30代以上の市民のなかから選ばれていたことである。財産の差し押さえがしばしばおこなわれ、不正蓄財がなされていないかが厳しく調査された。
 そのため、いかにも金持ちのようにふるまうのは禁物だった。紀元前414年には、あるエリートがエレウシスの秘儀を冒涜し、ヘルメスの像を破壊したとして告発され、財産を没収されている。
 しかし、実際、紀元前5世紀末のアテナイでは、個人的にはそれほど贅沢な生活は見られなくなっていた。豪華なものがあるとすれば、それはあくまでも神殿を飾るものだったという。
 アテナイでは個人の家が小さく質素だったのにたいし、神殿は巨大で豪奢につくられていた。神殿に置かれたアテナの巨大な像は、象牙と黄金で飾られていた。
 これをみれば、富裕層は神殿や祭りなどに大きな寄進をするかぎりにおいて、その存在を認められていたといえるだろう。
 豪華な衣装や馬車が認められたのも、祭りの場においてだけである。祭り以外でも、ぜいたくぶりを見せびらかしていると、ヒュブリス(傲慢)罪で告発される恐れがあった。
 つまり、古代ギリシアでは、祭り以外の場では、個人の物質的ぜいたくにたいし、モラル面、文化面、宗教面で大きな制約が課せられていたのである。
 以上をまとめると、どういうことがいえるだろう。
 ここでえがかれているのは、紀元前500年から300年にかけての民主制アテナイの消費の様子についてである。
 アテナイでは史上はじめて貨幣経済が全面開花した。はじめて常設の市場が生まれ、多くの商品が売られるようになった。
 アテナイの市場の繁栄は、アテナイの海軍力のたまものでもある。さらにいえば、それは民主政のたまものでもあった。
 市場にたいしては、当時も多くの反対や批判があった。それでもアテナイの市場は発展し、アクロポリスからディピュロン門にまで広がった。
 市場で売られていたのはものだけではない。音楽から勉強にいたるさまざまなサービスも提供されていた。
 また多くの監督官がいて、計量が適切か、価格が妥当かなどと監視していた。
 正式な市場はアゴラの中心部にあり、そこには人民裁判所や五百人委員会などもあったから、市場はまさに民主政の中心部に位置していたといえる。そこではしばしばギリシア喜劇が演じられ、ソクラテスをはじめ、民主主義を批判するプラトンなどの哲学者もたむろしていた。
 アテナイの市場では、家具インテリア、衣服などのぜいたく品はあまりおいていなかった。個人的なぜいたくは避けられる傾向があった。まれに甲冑や馬などに多額の金額が費やされることはあっても、それは個人のためではなく、あくまでも国家や神のためにだとされていた。
 ギリシア世界では紀元前480年以降、スパルタの影響が次第に強くなり、アテナイでもぜいたくが避けられ、質実剛健が尊ばれるようになる。ペルシア風の豪華さは、ペルシアに内通しているのではないかと疑われる可能性もあった。また金持ちにみえると、それだけで国家への多くの資金提供を求められ、民衆裁判所で糾弾される恐れもあった。
 アテナイの市場経済は、民主政と密接な関係をもっている。しかし、それはきわめて特異な市場経済だったといえるかもしれない。
 民主政といえば、日本人は平和と思いがちだが、それは誤解である。とくにアテナイでは、民主政は戦争と植民地主義、奴隷制、女性差別と結びついている。
 家政は奴隷によって支えられ、すぐれた技能をもつ職人集団と、海外との貿易を取り仕切るメトイコイ(外国人)が、土地を所有する市民の生活を成り立たせている。
 市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではない。そんなふうにはたらくのは市場の奴隷である。アテナイ市民とは、あくまでも政治に参加し、戦争で戦う存在を意味していた。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいない。

アテナイの消費生活について(1)──論集『消費の歴史』から [本]

 オックスフォード版論集『消費の歴史』は、少し読みはじめたところで、英語を読むのがめんどうなこともあって、途中でやめてしまった。まあ、しかし、そうめんどうがらず、気長に気楽に読んでみることにしよう。閑人の読書である。
 というわけで、まずはジェームズ・ダヴィッドソンの「アテナイの消費生活」を読んでみる。
 ヨーロッパで最初に消費社会が花開いた場所は、古代ギリシア、とりわけアテナイ(アテネ)だった。古代ギリシアはヨーロッパ文明発祥の地。そこで、どのような消費生活がいとなまれていたのかを、のぞいてみようというわけである。
 アテナイといえばデモクラシー、そして貨幣経済がはじめて本格化した場所だ。ドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていた。アテナイのアゴラ(広場)にはさまざまな商品が並び、ショッピングを楽しむこともできた。
 しかし、こうした市場を守るには、民主政府による安定した貨幣管理と、アゴラノモイと呼ばれる市場監督人の存在が欠かせなかった。
 アテナイではなぜ貨幣経済が盛んになったのだろう。紀元前4世紀には、政治の舞台である集会に参加する市民に、貨幣で報酬が支払われていた。そのことも貨幣経済の隆盛と関係していたのかもしれない。
 アテナイは巨大な海軍力に支えられ、それによって、ペルシアやスパルタに対抗することができた。アテナイの繁栄がデモクラシーや消費社会をつくりあげたということもできる。だが、その繁栄はいつまでもつづかなかった。
 酒の神ディオニソスをたたえる祭りなどで演じられたギリシア喜劇には、当時アゴラで並べられていた商品の数々が出てくる。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。
 近隣に限らず遠方からも多くの品物がもたらされていた。
『アテナイ人の国制』には、アテナイ人がその海運力によって、シチリアやイタリア、キプロス、エジプト、リュディア[現トルコ]、黒海などから、さまざまなめずらしい品物を集めていたことが記されている。
 さらに、ほかの本にはこんなリストもある。
 キュレネ[現リビアの町]からは薬草や牛革、ヘレスポント[ダーダネルス海峡]からはサバなどの魚、イタリアからはエンバクや牛のあばら肉、トラキアからは薬剤、マケドニアからはライ麦、シラクサからはブタとチーズ、エジプトからは帆布やパピルス、シリアからは乳香、クレタ島からはヒノキ材、アフリカからは象牙、ロードス島からは干しブドウや干しイチジク、エヴィア島[エーゲ海]からはナシとリンゴ、フリギア[現トルコ]からは奴隷、アルカディア[ペロポネソス半島中央部]からは傭兵、カルタゴからは敷物や枕などなど……。アテナイには海外からほんとうに多くの品物が集まっていたのだ。
 しかし、これらの品物は市場で雑然と置かれていたわけではない。女性もの、魚、家具、野菜、衣服などとコーナーにわけられ、それぞれ別々の店で売られていたのだ。料理人を雇うことのできる斡旋所などもあった。
 市場は特化していたといえるだろう。だからアテナイ人はどこに行けば何が買えるかをわかっていなければならなかった。
 こうした市場の分化は、古代では大量生産ができなかったあかしでもある。
 市場はどこにでもあったわけではない。アゴラには常設の市場があった。祭りのときは臨時の市が開かれた。魚を売る行商もいた。
 しかし、アテナイでアゴラのほかに常設の市場があったのは、港のピレウスとラウリウム(ここには銀鉱があった)だけである。
 とはいえ、ふだんギリシア人は(とくにいなかでは)市場に行かなくても、ふつうに暮らせたという。
 それはそれとして、市場では、たとえば高級品と大衆品といったように、さまざまな品質の商品が置かれていた。エジプト綿は高級輸入品だった。
 ギリシア人は馬にはうるさかった。これは現在の車選びとおなじかもしれない。
 少し時代は下るが、アレクサンドロスの愛馬ブケパロスはテッサリア産で、9万6000ドラクマもしたという。馬にしてもワインにしても、血統とかブランドが重視されていたのは、いまも昔も変わらない。
 アテナイの特産品は、すぐれたデザインの陶器だった。陶器は海外にも多く輸出されていた。なかにはブランドを示すマークがつけられたものもあった。だが、たいていはノーブランドである。
 アテナイの市場はアゴラの中心部にあり、アゴラはアクロポリスの北の平坦な地に位置していた。しかし、市場は次第にディピュロン門のほうにも広がっていった。市場の建物も柱廊付きのりっぱなものへと変わっていくが、もともとは粗末で雑多な店の集まりで、その場所は品物に応じて区割りされていた。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺がある。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていた。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそこにある飲み屋や売春宿で羽を休めていた。
 アテナイ人はアゴラや市場でぶらぶらしながら、かなりの時間をすごしていた。ソクラテスもその一人だ。そこで、金持ちで鼻持ちならないソフィストをやっつけたわけだ。
 アゴラの近くには若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあった。いっぽう、ぜいたくな料亭のような店もある。こうした料亭では、時に使い込みのカネが吸い取られたり、政治的な陰謀がくわだてられたり(いまなら共謀罪)することもあったらしい。
 こんなふうにみていくと、遠いアテナイの人もなんだか身近に感じられてくるから不思議である。
 この話、もう一回つづく。

政府の関与をめぐって──ミル『経済学原理』を読む(15) [経済学]

 政府には経済社会にたいする責任がある。しかし、なかには政府が関与すべきではない分野がある、とミルはいう。
 外国産の商品を禁止、ないし抑制して自国産業を保護するという考え方もそのひとつである。ミルはそもそも外国の商品が輸入されるのは、それによって国内の労働と資本が節約され、消費者の利益となるからだという。この点、ミルは自由貿易主義の立場をとっている。
 それでも国民生活や国防の観点から保護主義が提唱されやすいのもたしかである。イギリスでは穀物法や航海法がそうした保護主義のあらわれだった。だが、それは一時の、とりわけ戦時の例外とみるべきである。どの国にとっても、長い目でみれば、保護主義より輸出入の自由のほうがはるかに得るところが大きい、とミルはいう。
 保護関税が弁護されるとすれば、それは新興国において、新たな産業を育成しようとしている場合にかぎられる。だが、それも国内の生産者が一定の訓練水準に達するまでの期間である。
 外国の影響力を排除して、排他的に植民地を囲いこもうとする政策もまちがっている。ミルはあくまでも自由貿易を擁護するのだ。
 政府による利子規制にも、ミルは懐疑的だった。いまでは法的に利子率の最高限度を定めるやり方がとられるようになっているが、競争社会において、需要と供給を無視して法的に無理やり利子率を定めるのは、むしろ弊害を生みやすい、とミルは述べている。
 政府が商品の価格(とりわけ食料品価格)を人為的に安くしようと介入することもまちがっている。およそ供給が不足する場合には、だれかがその消費を抑制するほかないのだ。
 ここでも商品の価格は、需要と供給の動きにまかせるべきだ、というミルの考えがみてとれる。政府のやれることは消費の節減を推奨すること、あるいは不要な消費を禁止することくらいにとどめるべきだと述べている。
 いっぽう政府は、生産者や商人に独占権を与えて、商品価格を高く維持しようとすることがある。だが、競争の制限は、習慣に安住し改良を遅らせる傾向がある。特許の場合を除いて、政府は企業による独占を認めるべきではない、とミルは考えていた。
 政府はまた、労働組合の結成を禁止してはならない。労働組合によって、労働者は労働時間の短縮や賃上げを要求することができるようになる。賃金が労働にたいする需要と供給によって決まることは否定できないが、労働者の待遇改善は常にめざすべき方向であり、そのためには労働組合の存在が欠かせない、とミルは思っていた。
 そして、とりわけ重要なのは、たとえ政府を批判する内容であっても、政府が意見の自由、討論の自由を認めることである。精神の自由こそが、国の繁栄の源だ、とミルは強調する。
 はたして政府の干渉はどこまで許容されるのだろか。
 いかなる政府も、人間の自由と尊厳を犯すことは許されない。権力の影響力が拡大すれば拡大するほど、精神の自立性と人格の独立性を擁護維持する必要がある。
 とりわけ、民主主義社会においては、政治権力による干渉拡大の傾向を絶え間なく警戒監視することが重要になってくる、とミルは強調する。
 政府の活動が制限されるべき理由は、分業の原理にもとづく。政府が効率よく運営されるべきことはいうまでもないが、それ以上に、民間でおこなうべき事業は、民間にゆだねるほうが、はるかにうまくいくものだ。また政府が独占的に事業を営むよりも、競争にさらされて、切磋琢磨のうちに事業が運営されるほうが、社会の改良進歩にはるかに寄与する、とミルはいう。
 ミルはまた現代社会において重要なのは国民のひとりひとりが活動的な能力と実際の判断力を高めることであって、それによって公共心が広まり、統治者の暴走を牽制することができるのだとも指摘している。
「要するにレッセフェール[自由放任]を一般的慣行とすべきである」とミルは断言する。ところが、これまで政府はこの慣行をつねに侵害し、経済社会を恣意的に統制してきた。それにより、事業者は自由に自分自身の道を進むのを妨げられてきた、とミルは批判する。

 政府は自由放任を原則とすべきである。だからといって、政府は何の役割も果たさなくてもよいというわけではない、とミルはいう。
 たとえば、国民が何ごとにつけ判断力を高めるようにするためには、公正な中立な教育が必要になってくる。
 政府は国民への教育を保証しなければならない。いや児童や青少年にたいしては、むしろ教育を義務化する必要があるだろう。
 政府はまた、児童が過度な労働をさせられることのないよう、法的な規制をおこなうべきである。
 児童を家庭内の暴力から守ることも政府の義務である。
だが、女性を職場から排除しようとする動きに政府は荷担すべきではない。むしろ女性の社会的地位を改善するために、政府は女性がもっと容易に職に就けるように環境を整えるべきだ、とミルはいう。
 ミルはまた、契約はたとえ自由意思にもとづいて締結されたとしても、永久あるいは長期間にわたって、個人を束縛するものであってはならないという。じゅうぶんに根拠のある場合は、その契約を破棄することも認められるべきだとも述べている。それがあてはまるのは、とりわけ結婚においてである。
 経営面からみれば、一般的に国営企業よりも株式会社のほうがすぐれている。しかし、ガス会社や水道会社、鉄道会社などのように、それが公共性の強いものであれば、そのサービスにたいして国民が支払う料金は、強制的課税に近いものとなる。
 このような事実上の公共事業にたいしては、政府はその事業が一般の利益にかなうよう適切な監督と指導をおこなう権限を保留しなければならない、とミルはいう。
 労働時間に関しては、自由にまかせるのではなく、法律による定めを設けるべきだというのがミルの考え方だった。政府は積極的に労働者の保護と育成にあたるべきだと主張している。
 救貧法についても、ミルはその必要性を認めている。餓死しようとしている人、困窮している人には援助が必要である。ただし、援助に不当に頼ることはできるだけ防止しなければならないという。救貧法の適用は、個人の勤勉および自立精神をうながすものでなくてはならない。
 植民事業については、単に人口の過剰を緩和するという観点からだけではなく、生産力の移転と創出という観点から考慮されるべきだという。だが、植民は、むしろ国家の事業として計画されねばならない、というのがミルの考え方だった。
 ここで想定されているのは、オーストラリアやニュージーランドなどへの植民である。本国はこうした植民地への移民を手助けするとともに、その植民地の発展を監督する義務がある、とミルは考えている。
 ほかに政府がおこなうべき事業として、ミルは科学的な探検の航海や灯台の設置、大学での研究支援などを挙げている。道路や港湾、運河、灌漑の整備、病院、学校の設置など私的個人では実行しえない分野の事業についても、政府の役割は欠かせない。
 こう述べている。

〈良き政府は、個人的努力の精神が少しでも認められるなら、それを奨励し育成するかたちでの助力を惜しまないものである。良き政府は、自発的な事業を妨げたり邪魔したりするものを取り除き、必要とあらば、あらゆる便宜や指示、助言を与えることに努める。政府は民間の努力を抑圧することなく、それを助けるために、実現可能な場合は予算措置を取る。またこうした努力を引きだすために、報償や勲章といった制度を活用することもあるだろう。〉

 要するに、政府は自由な経済活動を妨げず、むしろそれを積極的に奨励しつつも、公共的福祉の増進をめざして努力すべきである、というのがミルの考え方だったといえるだろう。