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物々交換の神話──グレーバー『負債論』を読む(2) [本]

 安直な気持ちで読みはじめたが、途中で、これは手に負えないと気づいた。
 しかし、乗り出した船である。途中で投げだす可能性は高いが、ともかく最後まで目をとおそうと思っている。まだ2章にはいったところである。
 前回、負債の特徴は、それが貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられることだと書いた。すると、負債の歴史は、貨幣の歴史にほかならないことになる。
 経済学では、貨幣は物々交換から生まれたとされるのが一般的である。
 ほんとうにそうだろうか、と著者は疑う。
 なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない、物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。ところが、経済学では、その不便さを解消するために貨幣が生まれたというのだ。
 紀元前330年ごろ、アリストテレスはすでにこう考えていた。もともと家族は必要なものをすべて自前でつくっていた。ところが、たとえば、ある人は穀物だけをつくるようになり、ある人はワインだけをつくるようになって、たがいに商品を交換しあうようになり、そのための道具として貨幣が登場したのだ、と。
 アダム・スミスの『国富論』の展開も、アリストテレスのこうした考えを引き継いでいる。
 ところが、スミス以前の大航海時代に、スペインやポルトガルの冒険家が世界じゅうを探査しても、物々交換をじっさいにおこなっている場所は、どこにも発見できていなかったのである。
 にもかかわらず、アダム・スミスは、効率的につくられた商品を交換するために貨幣が必要になったという理論を立てた。そして、スミスをより深化させたマルクスも、商品から貨幣が生まれ、貨幣から資本が生まれたと考えた。
 分業によって、さまざまな職業や役割が生まれ、商品がつくられ、貨幣を媒介として、多種多様な商品が交換され、社会が発展していくというのが近代の商品世界の考え方である。
 当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘などが用いられることもあった。しかし、次第に金属、さらには鋳貨が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていく。
 これが経済学のとらえ方だ。
 しかし、それはほんとうなのだろうか。
 著者はここで人類学の知見を導入し、そもそも物々交換など存在しなかったと論じる。
 ルイス・ヘンリー・モーガンは、19世紀半ばに北アメリカのイロコイ6部族連邦を調査し、ロングハウス(いわば長屋)に、ものが貯蔵され、女たちの話しあいによって、それらが分配される様子を記した。
 ここでは、ものの分配はあったが、物々交換などはなかった。
 そして、交換がなされる場合も、やっかいな手続きを必要とするのだ。
 レヴィストロースはブラジルのナンビクワラ族どうしの交換について記述している。ふだん100人ほどの集団(バンド)でくらすかれらは、相手の集団と交易をおこなう場合、まず宴会を開く。そこで相手の持ち物(たとえば首飾りや斧)をほめ、さまざまな駆け引きをつうじて、最後はそれをもぎとるのだという。
 交換といっても、生やさしいものではない。それはにぎやかな宴会のなかでおこなわれるが、一歩まちがえれば戦争状態に転じかねない雰囲気さえただよっている。
 それは、物々交換というより、贈与の強制といった趣がある。
 オーストラリアのグヌィング族は、キャンプの宴会で、歌ったり踊ったりしながら近隣の部族と、ものを交換しあう。それは性の饗宴でもあり、そのなかでビーズやたばこが循環し、布地が与えられる。つまり、宴会があって、はじめて交易がなされるのだ。
 部族間でものが交換されるのは、日常的なことではない。
 著者はこう書いている。

〈ある物をべつの物と直接に取り替えて、そこからありうるかぎりの利益を引きだそうとするようなふるまいは、ふつうどうでもよい人間、二度と会うこともない人間との関係の様式である。……それに対して、隣人や友人というような気がかりな相手には、公平で親切な交流を求め、その人の個人的な必要、欲望、状況に配慮するだろう。ある物をべつの物と交換するにせよ、それを贈与とみなしたがるはずだ。〉

 交換はよそよそしい。むしろ贈与が基本である。経済学が出発点とする物々交換は、現代社会の交換関係を抽象化し、人類社会一般に投影した幻想でしかない、と著者はいう。
 贈与というのは、相手からほしいものをもらい、相手にほしいものをあげるという一方的な関係である。その時点で、交換は成立しない。いつかお返しをすればよいのだ。それが、部族社会のあり方だ。
 だとすれば、ここに貨幣がはいりこむ余地はない。
 著者はこう考える。

〈物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだにおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。〉

 日本でも、敗戦直後、都会の主婦は着物をかついで、村に買い出しに出かけたものだ。
 かつてニューファンドランド島では、出稼ぎの漁師が干し鱈を商人に渡して、商人から必需品をもらうという、一見、物々交換のような場面がみられたことがある。だが、それは物々交換だったのだろうか。
 じつは、ニューファンドランドでは、決定的に硬貨が不足していた。そこで、商人は干し鱈の市場価格を計算したうえで、それを受け取り、漁師に必需品を手渡したのである。まるで干し鱈を貨幣に見立てたかのように、物々交換が発生したのだが、実際にここでおこなわれていたのは、一種の信用経済にほかならない、と著者はいう。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。
 そのとき貨幣は、神殿を中心とした都市国家を維持するために、官僚たちによって発明されたのである。
 その貨幣は、都市国家内部の貯蔵物資を管理したり、さまざまな部門で物資をやりとりしたりするために用いられた。
 したがって、スミスのいうように、貨幣は商品の自然な取引のなかから生まれたわけではない、と著者はいう。
 まとめを紹介しておこう。

〈物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたたちがいま仮想貨幣(ヴァーチャル・マネー)と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。〉

 なかなか説得力がある。

グレーバー『負債論』を読む(1) [本]

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 著者のデヴィッド・グレーバーは、ロンドン大学の一環、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、経済人類学と社会人類学を専攻し、アナキストの活動家として知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォールストリート占拠運動の指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。
 訳者あとがきに、「例外なく時間に遅れる困った奴である」と紹介されているように、訳者のひとり、高祖岩三郎とは友人であるらしい。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本体6000円と値段も高く、830ページ以上あるので、長らく買うのをためらっていたが、とうとう買ってしまった。勝手な感想をいえば、ページの行間をもう少しつめ、訳者あとがきを短くし、原注と参考文献の組み方を変えれば700ページ程度に収まるとみた。そうすれば本体価格も5000円程度(もっとも発行部数とも関連するが)に安くできるのではないか。致命的なのは索引がないことである。索引づくりは編集者にとって苦行にはちがいないのだが、索引のない本は読者に不親切だといわざるをえない。
 こういう感想が口をつくのは、編集者時代の習性がまだ残っているためで、われながら苦笑するほかない。
 でも、おもしろそうな本だ。おもしろそうというのは、まだ少ししか読んでいないからである。このところ、諸事情があって、本をゆっくり読む時間がとれない。ほんとうは全部ひととおり読み終えてから感想を記すべきなのだが、その余裕がない。それに、何もかもすぐに忘れてしまう。備忘録として読書ノートをつづることにした。
 最初に1980年代以降、銀行とIMFが世界経済、とりわけ第三世界の経済を大混乱におとしいれてきたことが記されている。そのやり方はえげつないと評してもいいほどのものだ。だが、その手口より、著者が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる強迫的な道徳意識についてである。
「借りたお金は返さなければならない」。そのためには、多少、人死にがでても仕方がない。しかし、それはほんとうに正しいのかと疑問を発するところから、著者の探求ははじまっている。

〈消費者負債はわたしたちの経済の活力源である。近代のあらゆる国民国家は赤字支出の上に成り立っている。負債は国際政治の中心的課題にまでなっている。だが、そもそも負債とはなんなのかを理解している人間、または負債についてどう考えたらよいかわかっている人間はどこにもいないようにみえる。〉

 これが『負債論』の問いである。
 負債とはなにかがわかっていないにもかかわらず、「負債は返さなければならない」という倫理が人びとをしばりつけている。
 植民地にたいする宗主国の債務の押しつけは、いまも第三世界を圧迫しつづけている。そのくせ、万年債務国であるアメリカ「帝国」は、世界じゅうから「貢納」を求めて、そのうえにあぐらをかいている、と著者はいう(わが国の国債だって、そうかもしれない)。
 金を借りても平気な国と、金を借りて苦しむ国とのちがいはどこにあるのだろうか。
 さらに、金を貸して権威をふるう階級と、金を借りて黙々とはたらく階級がいる。その関係は代々、永久につづくのだろうか。
 中世のキリスト教世界では、金貸しは罪深い存在とされてきた。
 それはヒンドゥー教の世界でも、仏教の世界でも同じである。
 たとえば『日本霊異記』には、強欲な広虫女(ひろむしめ)なる金貸し女が死んで、醜い怪物になる物語が残されている。
 しかし、こうした物語の背景には、高利貸から金を借りるなという教訓めいた説教もひそんでいる。
 負債の特徴は、それが貨幣によって計量され、返済を義務づけられ、強制されることにある。著者はその歴史を古代メソポタミアからたどろうとしている。
 著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。そして、そのさい救済されたのは、一般市民ではなく、金融企業、すなわち銀行だった。
 なぜ、こうした事態が生じたのか。
 著者はアナキストらしく、債務の帳消しと金融支配体制の解体を求める。
 だが、同時により根源的な大きな問いを投げかける。
「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またどのようなものでありうるのか」と。
 本書では、さまざまな神話に疑問が呈される。はたして物々交換なるものは存在したのか。国家と市場は、はたしてそれぞれ独立した存在だったのか。人間は、はたして交換を運命づけられているのか。貨幣はどのように発生したのか。
 こうした問いを秘めながら、「過去5000年間の負債と信用についての実在の歴史」をたどろうというのである。
 まだ、ほんのとば口だが、おもしろそうだ。
 断続的になってしまうかもしれないが、ゆっくり読んでいきたい。


税制をめぐって──ミル『経済学原理』を読む(13) [経済学]

 ミルの『経済学原理』はいよいよ最終篇(第5篇)の「政府の影響について」にさしかかっている。一度には読みきれないので、何回かに分けて紹介することにしよう。
 最初にミルは、政治は社会のどの分野にまで関与するべきかと書いている。政府はもっと活動領域を広げるべきだという意見もあれば、政府の活動範囲は限定されるべきだという意見もある。そこで、ミルはまず政府の役割を、必須のものと任意のものに分けて考えてみようという。
 どのような政府にも求められる政府の必須の役割とはなんだろうか。
 ひとつは、暴力や不正にたいする保護である。人は暴力や不正から守られなければならない。基本となるのは、身体、生命、財産の保護である。それは法によって定められ、警察や裁判所など(時に軍)によって実施されるだろう。
 さらに政府は社会的な便宜をはかるため、貨幣を鋳造したり、度量衡を規定したり、道路や港湾を整備したり、街の照明をおこなったり、堤防を築いたりしなければならない。これらは社会全体の環境整備にかかわる分野である。
 それ以外の政府の役割、すなわち「普遍的承認を受けている諸機能の境界を越えた」部分について、ミルはそれを政府の任意の(英語でいったほうがわかりやすければオプショナルな)役割と名づけている。それが、はたして干渉にあたるかどうかが問われるわけである。
 ところで、政府が一定の役割をはたすためには、その裏づけとなる収入がなくてはならない。その収入は、一般に課税によってもたらされる。
 そこで、ミルは課税の一般原理について考察する。
 アダム・スミスは(1)収入に比例した納税、(2)税の明瞭性、(3)決まった納入時期、(4)徴収の簡易性の4つを租税の原則とした。これを踏まえて、ミルもまた、公平な課税、公正な負担こそが税制の原理でなければならない、と論じる。
 だが、国家は、10倍の財産をもち、10倍の税を支払う者を、10倍保護しなければならないというわけではない。政府は財産の多寡にかかわらず、国民の平等な保護につとめなければならない、とミルはいう。
 また、政府はそれぞれの収入にたいし、一律に課税する方式をとってはならない。生活に必要な最低限の所得にたいしては非課税を旨とすべきであり、課税にさいしては、その分の控除がなされなければならない。
 富の不平等を緩和する措置として、当時、イギリスでは累進税を導入するべきだという意見が盛んになっていた。だが、これにたいし、ミルはどちらかというと慎重な立場をとっている。極端な累進課税は「勤勉と節約に対して租税を賦課する」ことになりかねない。「競争者たちのすべてを公平にスタートさせるように努力し、彼らと遅い者とのあいだの距離を縮めるなどということがないのが、競争者たちに対する立法の公平性というものであろう」と述べている。ただし、相続に関しては、一定額を超える相続財産にたいしては、その額に応じて、より高い税率を適用すべきだと主張している。
 あらゆる所得にたいして、厳密に一様の取り扱いをするのが、租税の原則である。一時的所得と永続的所得とで、課税方法のちがいがあってはならない。いっぽう、所得のうちから捻出される貯蓄への課税は避けなければならない、とミルはいう。二重課税になるからである。
 さまざまな細かい論議ははぶこう。ミルは、課税の公平という観点からいえば、「人々が所有するところに比例してこれに課税してはならない、費消しうるものに比例して課税すべきである」と論じている。財産にではなく、所得にたいして課税するというのが原則だった。
 例外として、ミルは努力なしに増加する地代には積極的に課税すべきだとしている。また、資本が豊富な国においては、場合によっては、資本にたいする租税も考えられるとしている。
 ミルは課税の原則について述べたあと、租税を直接税と間接税に分け、その両方の内訳と関係について論じている。
 いうまでもなく、直接税とは納税者が直接納める税金であり、間接税とは納税者が(業者を通じて)間接に納める税金をさす。
 そこで、まず直接税についてだが、ミルは直接税の例として、所得税や家屋税(固定資産税)を挙げている。そして、ミルは所得の源泉を地代、利潤、賃金に求め、それぞれを検討するところからはじめている。
 まず、地代にたいする租税は、全額を地主が負担し、国家はその税額を地主から徴収することになる。
 いっぽう、利潤にたいする租税は、利潤を取得する資本家が負担しなければならない。ただし、利潤率が下落し、資本の蓄積がほとんどなされない状態においては「利潤に対する租税は、国民的富に対してはなはだしく有害なものになる」ことを、ミルは認めている。利潤のうちから投資に回される分には課税してはならない。
 賃金は不熟練労働者か熟練労働者か、あるいは特権的な職業についているかどうかによってバラツキがある。とはいえ、労働者が所得に応じて、租税を負担することはいうまでもない。ただし、健康な生活を送るために最低限必要とされる額以下については課税してはならない、とミルはいう。
 以上、3つの源泉にたいする課税は、所得税と総称することができる。投資分は所得とみなさず、一定額以上の所得にのみ課税するのが、この税制の特徴である。所得税は「正義という点からすれば、あらゆる租税のうちもっとも欠点の少ないものである」と、ミルは書いている。
 もっとも所得に関しては、地代や賃金、年金などは捕捉しやすいのにたいし、一時的な利得や利潤から得られる所得については、本人の申告に拠らざるをえない。そのため、虚偽の申告や帳簿上の不正が生じる可能性を否定できない、とミルは注意をうながしている。
 家屋税は、敷地と建物にかけられる税金で、日本では固定資産税と呼ばれ、これも直接税の一種である。土地や家屋にたいする賃借料は、借地人ないし借家人の負担となり、地主または家主の所得として計上される。
 イギリスの家屋税は、1851年までは、家屋が有する窓の数にたいして課せられていた。それが廃止されたあと、イギリスでは土地と家屋の評価額に応じて、いわゆる固定資産税が課されることになった。これは現在の日本と同じである。
 次に、ミルの考察は間接税へと移る。間接税の代表が商品にたいする課税である。その内訳は、物品税、消費税、関税からなる。
 間接税は一般に商品価格の上昇をもたらす、とミルは指摘する。それが特定の物品にかぎられる場合は、特定商品の価格が上昇し、消費税のような商品全般に対する課税である場合は、物価全体が上昇する。
 注意しなければならないのは、間接税によって、業者が利潤を確保するために、商品価格を課税額以上に引き上げがちなことである。一般に、価格の上昇は需要を減退させる。それによって、生産の改良が阻害される側面も生じてくる点にも注意しなければならない、とミルはいう。
 必需品にたいする課税は、労働者階級の生活状態を低下させるか、そうでなければ(つまり、労働者の賃金が相応に上昇すれば)、利潤の減少をもたらす。したがって、租税の増大は「価格の騰貴を、および利潤の下落を早め、他方、同時に蓄積の過程を阻止し、あるいは少なくとも遅延させる」ことにつながりかねない、とミルは注意をうながしている。
 ミルは、十分の一税(教会税)という、イギリスの特殊な税制についても論じているが、それを検討するのはわずらわしい。専門家の領域にゆだねることにしよう。
 いっぽう、ミルのいう差別税は産業保護のための税制ということができる。たとえば、国内の商品生産を保護するために、海外からの輸入商品に高い関税をかけるというのも差別税である。その具体例が1815年から1846年まで施行された穀物法だった。こうした差別関税は、撤廃されるに越したことはない。経済的にみれば、それは生産改良を遅らせ、労働力を浪費させるからである。しかし、いっぽうで、ミルは穀物法が廃止されたとしても、いずれ穀物価格と地代は上昇するだろうとみていた。
 輸出関税と輸入関税は、いずれも商品の価格を上げ、需要を減退させる。それによって国際貿易がどのような影響を受けるかについて、ミルはさまざまなケースを挙げて検証している。だが、これについても、こまかく見ていく必要はないだろう。ミルは、二国間の保護関税が、双方の利得にとってマイナスとなる場合もあると指摘している。国際貿易については、別途、詳しい検討を必要とするだろう。
 さらに、ミルはその他の雑税として、印紙税や不動産取引税、広告税、新聞紙税、司法手数料、道路税、その他を挙げており、それらのうちには廃止するのが望ましいものも多いと述べている。
 興味深いのは、ミルが税制としては直接税と間接税のどちらがよいかを論じていることである。イギリス人は税を直接支払うという行為が嫌いだ、とも書いている。これはイギリス人にかぎらないだろう。そのいっぽう、イギリスでは間接課税は日に日に理解されるようになっているという。
 ミルの時代、イギリスではもはや直接税だけでは歳入をまかないきれなくなっていた。そのため間接税も導入され、さらに足りない分を国債でおぎなうかたちが恒常化していた。歳出のなかには浪費も多く、それを節約して教育などの公共サービスに回す必要性もミルは認めている。
 しかし、無駄を省きながら予算規模を増やすには、もはや間接税に頼る以外にないだろう、とミルは考えていた。直接税のうち、地代や相続にたいする増税はともかくとして、所得や不動産への税を強化することには、強い抵抗があった。
 ただし、むやみやたらに間接税を増やせばよいというものではなかった。物品にたいする課税は公平でなければならないし、生活必需品はできるだけ非課税とし、奢侈品には高率の税を課してもよい。間接税の原則は、生産者にではなく消費者に税の負担を求めることである、とミルはいう。
 ただし、間接税は直接税とちがい、水平的な税となる。「けだし比較的に税収の多い租税の対象となる物[たとえば、茶、コーヒー、砂糖、たばこ、アルコールなど]は、割合からいえば、富裕な人々よりも、むしろ社会の比較的に貧しい人々によって、より多く消費されるものである」と、ミルは書いている。
 ここで、ミルは弊害の多い内国消費税ではなく、対象を限定した物品税を勧めている。そのことは、「課税は、多数の物品の上に分散せず、むしろ少数の物品に集中し、それによって徴税費の増大を防ぎ、かつ干渉を受けて少なからぬ負担と困惑を感ずる事業部門の数を及ぶかぎり少なくすべきである」と述べていることからもわかる。
 関税については、保護関税となるのを避け、その国で生産できないものに限定して課税すべきである。また物品税は、密輸や脱税の誘惑をもたらすほど高率にしてはならない、とも述べている。
 税制についてのミルの論議は、いまでは常識に属するだろう。しかし、『経済学原理』(正確には『政治経済学原理』)が書かれたのが、江戸時代末期だったことを考えれば、イギリスにくらべ日本の国家体制が遅れていたことを、あらためて痛感しないわけにいかない(しかし、ほんとうに遅れていたのだろうか)。
 さらに、ミルの時代、すでに国家は軍事、治安だけではなく、公共サービス面での役割を果たすべきものと考えられるようになっていた。アダム・スミスの時代とは、国家の様相がだいぶ変わりつつあった。
 長くなったので、今回はこのへんでおしまい。
[諸事情が重なって、最近はいなかの高砂に帰ることが多くなり、ブログの更新もとどこおりがちです。ご了承ください]

『宇沢弘文傑作論文全ファイル』(短評) [本]

 ふつう経済学者といえば、どうすれば経済活動が活発になり、国の経済規模を大きくできるかを考えている人のことを思い浮かべるかもしれない。しかし、世界的な経済学者として知られた宇沢弘文(1928〜2014)は、そうではなかった。経済第一の考え方が、いかに人や自然、社会を破壊しているかをあきらかにし、市場主義や国家主義に代わる「社会的共通資本」の構想を打ちだした。
 その業績は、今後も長く伝えられるだろう。
 宇沢にはすでに刊行された大量の著作があり、11巻の『著作集』も出ている。しかし、そのすべてを読むのは困難だ。その点、今回の「全ファイル」は、宇沢の全体像をつかむ格好の窓口となる。それでも、A5版で420ページ。没後、残されていた5000万字におよぶ膨大な原稿から、主要な論文を選んで1冊にまとめるという編集作業は、多くの時間と労力を要したにちがいない。
 宇沢は1948年に東京大学数学科に入学した。そのころ、日本の思想界をリードしていたのはマルクス主義だった。いくつかの勉強会にはいって、マルクス主義経済学を学んだが、とても理解できなかったという。だが、それは謙遜で、その体系にどこか違和感をおぼえていたのだろう。宇沢の考えに近かったのは、マルクスより、むしろミルやヴェブレンである。
 宇沢はそのうち数学より経済学を勉強するようになり、経済学部で近代経済学を本格的に学ぶようになる。それまで数学を学んできたかれにとって、数理経済学はまさにうってつけの分野だった。
 分権的経済計画に関する論文を執筆したところ、それがアメリカの経済学者、ケネス・アローに認められ、いきなり1956年に研究助手として、スタンフォード大学に招かれた。夢のような話である。
 スタンフォードで輝かしい業績を上げた宇沢は、1964年にシカゴ大学に教授として迎えられる。36歳のことだ。しかし、そのころシカゴ大学では、ミルトン・フリードマンの市場原理主義(新自由主義)派が勢力を拡大していた。人間の値打ちはどれだけもうけるかで決まるという新自由主義の考え方に、宇沢は嫌悪をおぼえた。
 当時、アメリカはベトナム戦争をエスカレートさせていた。アメリカ各地で反戦運動が巻き起こった。宇沢もまた反戦運動を支持する。だが、当局の弾圧は激しく、反戦運動にかかわった助教授たちは解雇され、多くの学生が逮捕された。正教授の宇沢は身分を保証されているため解雇を免れたが、大学を去っていくかれらにたいし、良心の呵責を覚えないわけにはいかなかった。
 そのころ東大の経済学部から帰ってこないかという誘いを受けた宇沢は、その要請を受け入れることにした。東大での身分は当面、助教授だったが、大学紛争の吹き荒れる1968年に帰国した宇沢は、翌年、すぐに教授に昇格した。
 しかし、12年ぶりに帰国した宇沢が見たのは、はなやかな高度成長とは裏腹の現実だった。混乱と破壊が日本社会をおおっていた。宇沢は水俣を訪れる。「水俣の地を訪れ、胎児性水俣病の患者に接したときの衝撃は、私の経済学の考え方を根本からくつがえし、人生観まで決定的に変えてしまった」と、そのときの思いを語っている。
 宇沢が心を痛めたのは、いわば商品世界の光と影の影の部分である。
 われわれの前にあるのは、完成された商品の姿でしかない。商品の生産過程や流通過程の内側は、表からはほとんどみえない。消費過程においても、商品は使用上の便利さと裏腹に、さまざまな害毒をまき散らす。最終処理にあたっての廃棄問題(ゴミ問題)も無視できない。商品世界の全体は表の論理だけではなく、裏の現実をみて、はじめて理解できる。社会的共通資本の発想は、いわば商品世界の裏の現実にどう対応するかという課題から生まれたとみることもできる。
 1974年に出版された『自動車の社会的費用』は、宇沢の代表作のひとつである。十数年アメリカにいて日本に帰国した宇沢は、乗用車やトラック東京の街なかをものすごいスピードで走りぬける様子にショックを受けた。しばらくは交通事故に遭わないかと、毎日ひやひやしていたという。
 日本でモータリゼーションがはじまるのは1950年代後半、マイカーブームがおきるのは60年代後半からだ。1967年に日本の人口は1億人を突破し、自動車の台数も1000万台を超えた。だが、それにともない、人びとは大気汚染と騒音、危険に悩まされるようになった。交通事故死も1970年に年1万6700人を超えた。そんなとき出版された宇沢の本は、おおきな反響を呼んだ。
 自動車には大きな利便性があるが、その害毒も深刻なものがあると宇沢は指摘する。自動車はすぐそこにある、走る凶器でもあるのだ。
 自動車が危険性と大気汚染をもたらし、人びとの生活環境をこわしていることはじゅうぶんに認識されなければならない。また自動車道路を確保するために、広い土地と空間が割かれている。道路建設にはさまざまな破壊や摩擦、犠牲をともなう。自動車社会から抜けださないかぎり、新たな時代の方向性は見いだせない、と宇沢は考えるようになる。
 新古典派理論とケインズ経済学を知り尽くした宇沢は、さまざまな社会問題に目を向けるうちに、経済学の限界を強く意識するようになった。経済学は環境破壊や人間疎外、豊かさのなかの貧困、インフレや失業、寡占、所得分配の不平等化といった現実の問題と向きあっていない。宇沢は日に日にそう感じるようになった。
 日本の高度経済成長は、資本主義的な市場経済制度のもと、重化学工業化を中心に急速なテンポで進められた。その結果、日本は製鉄、造船、自動車などの分野で世界をリードし、「経済大国」と呼ばれるようになった。GNPも拡大した。それと並行して、日本の国土は改造され、社会構造や人びとの生活様式は一変した。高速道路が建設され、新幹線が走り、飛行場がつくられた。住宅、自動車、電話、テレビ、服装、食事などをみると、日本人のくらしぶりは、ずいぶん豊かになったように思えた。
 だが、はたしてそうだろうか、と宇沢は問う。自然破壊と社会的・文化的環境の荒廃、人間の疲弊はむしろ目を覆うばかりだ。豊かにみえる消費生活も、その内容はきわめて貧困で殺伐としている。市場経済が発達するにつれ、「ありとあらゆるものが市場機構を通じて取り引きされ、利潤追求の対象となり、人々はできるだけ利己的な立場に立って競争的に行動するという傾向がますます強くなってきた」と、宇沢はいう。
 市場がすべて、経済がすべてというのが、市場原理主義の考え方である。ケインズ経済学では市場の欠陥(恐慌や失業)に対処するのが政府の役割とされてきた。ところが、市場原理主義では、市場の拡大に奉仕するのが、政府の役割になってしまった。宇沢も現実に対応できないケインズ経済学に限界を感じていた。だが、その思考は市場原理主義派とは逆の方向をたどった。
 公害や自動車の問題を考えるうちに、宇沢は「社会的共通資本」の概念に行き着く。
 社会的共通資本は自然環境だけをさすわけではない。道路、鉄道、電力などのインフラ、さらには医療、教育、金融、行政などの「制度資本」も社会的共通資本に含まれる。こうした社会的共通資本を「社会的な基準にもとづいて管理・維持し」、それによって「公正で社会正義に適った安定的な社会を実現」することこそが、ポスト・ケインズ経済学の課題なのではないか、と宇沢は考えるようになる。
 マルクスは資本を私有財産ととらえ、その権力性を否定したが、宇沢は資本に、市民の共有財産としての資本という視角を加えた。私有財産でもなく、国家財産でもなく、市民の共有財産としての「資本」が存在する。その「資本」すなわち「社会的共通資本」は、つねに補充され、拡張されなければならない。それが豊かな社会の基盤になっていく。こうした社会的共通資本の管理・維持は、国家や企業によってなされるのではなく、関係する団体やコミュニティによってなされるべきだ、と宇沢は主張した。
 そのなかでも、注目すべきは宇沢の環境問題への取り組みだった。経済活動が活発化すればするほど、環境は破壊されやすい。だが、環境を破壊した企業や個人は、たいがいその対価を支払わない。「破壊した社会的共通資本に対して、その帰属価格による評価額を社会に支払うという制度を確立する必要がある」と宇沢はいう。公害防止は、けっきょくそこから始まるほかないのだ。
 自然環境が資本とみなされるのは、それが人間にとって、いわば原資(生存条件)だからである。森林や海洋、土地、大気、水、鉱物などは無限にあるようにみえて、限られた資源である。しかも、自然環境は単に物質的に存在しているわけではなく、エコロジカルな共存システムのもとで成り立っている。
 伝統的社会は「エコ・システムが持続的に維持できるように、その自然資源の利用にかんする社会的規範をつくり出してきた」。ところが、近代にいたると、自然にたいする人間の優位という思想が強まり、自然環境の破壊、収奪が加速度的に進み、人類の社会的共通資本の破壊につながった。
 工業化と都市化は、1960年代から70年代にかけて、多くの公害問題を生み落とした。その後、有害な化学物質の排出規制がなされ、公害の深刻化にはある程度の歯止めがかかった。
 とはいえ、地球温暖化、生物種の多様性の喪失、海洋の汚染、砂漠化などにどう対応するかは、まさにこれからの課題だ、と宇沢はいう。とりわけ宇沢が熱心に取り組んだのが、地球温暖化問題だった。地球環境問題への対応がむずかしいのは、その規制に関する国際的合意を形成するのがきわめて困難だからだ。たとえばCO²の排出は、一国だけではなく全世界に影響をもたらす。大気は人類にとって最大の社会的共通資本だといってもよい。それを管理・維持するには、どのような制度やルールをつくっていけばよいのか。そのことを、宇沢は考えつづけた。
 いま、どこかで歯止めをかけなければ、地球環境は取り返しのつかない事態を招く恐れがある。
 宇沢はその対策の一つとして、炭素税の導入を提案した。炭素税が導入されれば、企業も個人も二酸化炭素の排出量を抑制する方向で行動することが期待される。とはいえ、炭素税は世界一律にかければよいというものではない。各国の一人当たり国民所得を考慮してかけるのがベターだろう。その方式を宇沢は「比例的炭素税」と名づけた。
 ヨーロッパではすでに炭素税が導入されるようになった。だが、経済を優先する日本やアメリカの取り組みは遅れている。宇沢の唱えた「大気安定化国際基金」の構想も、いまだに実現されていない。
 宇沢が教育問題に熱心に取り組んだことも知っておくべきだろう。日本の学校教育は全面的危機にある。その根源に横たわっているのは、「非人間的、反倫理的な受験地獄を生み出してきた現行の学校教育制度の矛盾」であり、とりわけセンター試験は、およそ考えられるかぎり最悪の大学入試制度だ、と宇沢はみていた。センター試験に象徴される人間の差別化と規格化が、心身ともにすさみきった子どもたちを生む要因となっている。加えて教科書検定制度などにみられる文部官僚による国家主義的な統制が、子どもたちの自由な発展をいかに阻害しているか、と宇沢は批判する。
 宇沢は教育を社会的共通資本として位置づけていた。教育を国家や市場原理から切り離し、社会全体の共有財産として制度化することをめざしていた。政府は教育という自由な社会的資本が機能するように財政的支援をおこなうことを義務づけられるが、けっして教育内容に干渉してはならない。教育内容は、社会から認められた、教育にかかわる職業的専門家が責任を負うものである。
 教育の費用に関しては、「国民所得のうち、学校教育に投下された費用の割合が高ければ、高いほど望ましい」と述べている。宇沢によれば、真に豊かな社会とは、環境をはじめとして、医療や教育、農業などの社会的共通資本、すなわち公共的制度がより充実している社会をさすのだ。
 残念ながら、現在の日本はますます空虚な経済優先社会のビジョンを加速させようとしている。宇沢の示した展望は、それとは異なる未来の方向性として徐々に理解されつつある。次世代に残された課題は、社会的共通資本の構想にもとづく政治経済システムの全体像をえがくことだといえるだろう。

日中国交回復と竹内好 [われらの時代]

 きのう親しい友人が亡くなった。またさびしくなる。
 しかし、生きているかぎり、その魂はともにあると思いなおす。
 前回は途中でくたびれてしまい、『中国を知るために』を最後まで読み切ることができなかった。
 今回はそのつづきである。
 1972年はベトナム戦争終結に向けて、世界秩序が大きく変化した年である。
 2月のニクソン米大統領訪中のあと、5月15日には沖縄が日本に返還され、それを花道として6月に佐藤栄作が退陣し、7月に田中角栄が首相に就任した。
 8月にはミュンヘン・オリンピックが開幕。9月5日にパレスチナの武装組織が選手村を襲い、イスラエルの選手11人を射殺する事件も発生した。
 ぼくが日中学生友好会に加わって訪中したのは、ちょうどこのころである。じつにのほほんとした物見遊山の旅であった。
 ところが、そのころ状況は大きく動いていた。2週間ほどの旅行を終え、日本に戻ってすぐ、田中訪中のニュースが伝わってきた。9月25日、田中首相は日航特別機で北京空港に降り立つ。そして、9月29日、田中角栄、周恩来両首相によって、日中国交回復の共同声明に調印がなされるのである。
 ぼくが「中国の会」の姉妹組織である「魯迅友の会」に2、3回顔をだしたのは、学生友好会の訪中から戻ってきてからである。田端にあった学習塾を借りて、中国語を勉強しはじめていた。
 雑誌『中国』が休刊になる話を聞いたのも、どこかの喫茶店で開かれた「友の会」の集まりでだったろう。中国の地図で台湾の部分が中華民国と表記されているという、大きな編集ミスが見つかって、竹内さんが休刊(事実上の廃刊)を決意したという話を聞いた。
 しかし、竹内好のそのころの思いを理解していたわけではない。なにせ、こちらは、はじめて彼女ができて、有頂天になっていたのだから。退学して家に戻ろうかと、それとなく思っていたのが、これで立ち消えになる。大学を卒業して、いなかの高砂に戻らず、東京ではたらこうと考えるようになった。
 きみまろのせりふではないが、あれから45年。おたがい言わぬが花である。
 それはともかく、あのころ竹内が何を思っていたかを知りたくなり、『中国を知るために』のつづきを読んでいる。

 1972年8月号に掲載されたエッセイで、竹内はこう書いている。

〈中国との国交回復は、いずれは実現するだろう。遠からず実現するかもしれない。なにしろ時勢が変ってしまった。戦争の危機が完全に消えたとは思わないが、しばらく遠のいたことだけは、人なみ以上にペシミストである私でも認めないわけにはいかない。おまけに国交回復は、いまではもうアメリカのお墨付きもあるし、財界の公認ずみでもある。一年前とはまったく条件がちがう。〉

 まもなく国交回復が実現されるであろうと思いながらも、しかし、竹内の気持ちはけっしてはずんではいない。国交回復が、1937年からはじまった全面戦争という過去の負債をおきざりにしたまま、なされようとしていたからである。政治と経済の都合が国交回復を急がせている。
 これにたいし、竹内は「ただ、そこに日本人民の良心がかけられ、それによって中国人民との連帯が期待可能であった形では、ついに日中国交回復は、実現されなくなったことだけは肝に銘じておかなくてはならない」とつづっている。
 とはいえ、「たといアメリカに尻押ししてもらっての講和であっても、講和がないよりはマシである」と、その気持ちは揺れている。
 そして、9月の田中訪中とあいなる。このときも竹内はテレビに見入った。
 まず、わいてきたのが、次の感想だ。

〈共同声明の内容が逐次紹介されるにつれて、肩からスーッと力がぬけてゆく感じがした。ほとんど予期のとおり、というよりも、予期以上のものだった。よくもここまでやれた、というのが正直な印象である。中国の犠牲者たちは、これではまだ浮かばれないかもしれないが、少なくとも日本の戦争犠牲者たちは、やっと瞑目できるのではないか。〉

 これはいつわらぬ感想だったろう。
 日中共同声明の前文には、こう書かれていた。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 おそらく入れたくなかった文言だろう。
 だが、中国側はみずから賠償請求権の放棄を明言することによって、日本側から「反省」の文言をかちとった。
 これによって、ともかくも、日中間の講和が実現され、国交が回復されたのである。
 ただ、ひとつ気になったことがあった。それは宴会のときに、田中角栄が述べたことばである。
 竹内はこう書いている。

〈最初の宴会での田中首相のあいさつに「多大のご迷惑」ということばがあった。ずいぶん軽い表現だな、とそのときは感じた。さきにあいさつを述べた周さんが「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」といっているのだ。それを受けるにしては軽すぎるな、と思った。しかし、それが「添了麻煩(テンラマーファン)」と翻訳されたとは、そのときは気がつかず、翌日の新聞を見てはじめて知った。/「迷惑」は軽すぎるが、「麻煩」はもっと軽い。軽いというより、誤訳に近いのではないか。〉

 麻煩というのは、「ごめんなさい」という程度の軽い表現らしい。
 「迷惑」ということばをめぐる、中国側の激しい反発については、以前、このブログでも紹介したので、ここではくり返さない。(「田中訪中と『迷惑』論争」http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-06-25 を参照)
 竹内は「迷惑」という表現から、「反省」ということばについても、日本側と中国側とでは、受けとめ方がずいぶんちがうのではないかと感じていた。
「前事不忘、後事之師」と題するエッセイで、こう記している。

〈反省するからには、当然、それが行為となってあらわれるべきだ、というのが中国語の語感でもあるし、中国側の期待でもある。それにひきかえ日本側は、「反省」という文字を記せばそれで反省行為はおわった、と考えている節が見える。言いかえると、共同声明を国交正常化の第一歩ととらえるか、それとも国交正常化の完了としてとらえるかのちがいである。〉

 日本には「反省」といえば、それですむという、みそぎの思想、過去を水に流すという姿勢がどこかにある。そのあと、つづくのがカネをだせば、「誠意」をみせたことになるという考え方である。
「多大のご迷惑」につづいて、宴会で田中は、今こそ明日のために話しあうことが重要だと述べた。「とりもなおさず、アジアひいては世界の平和と繁栄という共通の目標のために」とことばを継いだ。
 これにたいし、先にあいさつした周恩来は、「前事不忘、後事之師」という格言、すなわち「前の事を忘れることなく、後の戒めとする」ということばを引用していた。
 竹内は田中発言のあまりの軽さに怒りすらおぼえて、こう記している。

〈過去の侵略戦争の事実、そして戦争がおわっても終戦処理を怠った事実、そればかりでなく、虚構にもとづいて終戦処理はおわったと主張してきた事実、それをタナにあげて、ほかならぬ中国を相手として、「アジアひいては世界の平和と繁栄」について話合えると本気で信じているのだろうか。〉

 さらに、竹内はこうも述べている。

〈「反省」は未来にかかわる。友好を築くために反省が必要なのだ。そのために過去を知ることが必要になる。過去を切捨てるならば反省はいらない。その代り友好の望みも捨てるべきだ。〉

 トゲはまだ刺さったままだ。
 雑誌『中国』は1972年10月号で休刊となった。
 竹内の連載エッセイ「中国を知るために」は、次のひと言で結ばれている。

〈すべて始めあるものは終りあり、ただし有終の美をなさなかったことは確かだ。まことに残念である。〉

 非力を感じていた。
 苦い決断だった。

『中国を知るために』を読みながら [われらの時代]

 日本老年学会が75歳以上を高齢者と呼ぶようにしようと提言したそうだ。これによると、後期高齢者といういやな役所用語はなくなって、75歳からめでたく高齢者になるわけだ。
 ところが、65歳から75歳までは後期壮年者ならぬ准高齢者と呼ぶようにするとか。これもへんな言い方である。
 何はともあれ、年寄りが元気といわれるのはめでたい。ただ心配なのは、そのうち医療保険が引き上げられ、年金は70歳から支給となり、少なくとも70歳まで働かなくては生活できない時代がやってくるのではないか。
 うたがうのも、ほどほどにしたほうがよさそうだ。
 ぼく自身は、じゅうぶん年寄りだと思っている。先日ジムに行き、少し運動したあと、帰りぎわ、コーチの女の子に「お世話さま」と声をかけたら、「おだいじに」といわれてしまった。
 推して知るべしである。
 読む本も、昔の思い出を呼びさますものが多くなっている。
 そんなわけで、きょうも竹内好の『中国を知るために』の第3集(1970〜72年)を読んでいる。
「世界の大勢から説き起こさない」のが、「中国の会」のスタイルのはずなのだが、ぼくの関心は、どうしてもそちらに向かってしまう。

〈今年[1970年]にはいってから、新聞は各紙ともいわゆる中国問題の記事や解説で競争状態を呈している。またもや間歇熱の発作の周期がめぐってきたのかもしれない。……私としても、意見がないわけではないが、それを述べるのは気がすすまない。〉

 当時の新聞記事を調べるのはわずらわしい。
 記憶だけでいうと、このころ中国では文化大革命が終息期にはいっていたはずである。文革の嵐を収めるには、軍の力を借りなければならなかった。
 日本の大学紛争も収まりつつあった。その代わり、政治党派の動きが活発になっていた。内ゲバがはじまり、赤軍派が結成されていた。
 ベトナム戦争はやむことなく、つづいていた。
 日米間では沖縄返還の合意がなされた。
 そうしたなか、新聞は、文化大革命の行方や、これからの日中関係をめぐって、さまざまな論評をくり広げていたのだろう。
 竹内のエッセイは、そうしたこうるさい時評を尻目に、身近なテーマを中心に、淡々と書き継がれていたのである。
 それでも時の勢いはいやおうなく押し寄せてくる。
 4月19日には日中覚書貿易のコミュニケが発表された。
 そこに「日本の軍国主義」という表記が含まれていたので、日本じゅうが大騒ぎになった。
 竹内はこう書いている。

〈日本は貿易立国だから、当然に戦争をおそれるし、だから平和国家だという説は、私には詭弁に思える。本末を顚倒した立論に思える。その証拠に、戦争は買いだという証券市場の体質は、朝鮮戦争からヴェトナム戦争まで改まっていない。たぶん今後も変らぬだろうと思う。他人の不幸がわが喜びになる、これほど人間性をスポイルするものはない。〉

 ただ、中国もじっと閉じこもっていたわけではない。
 4月24日には、中国初の人工衛星が打ちあげられた。
 アフリカのタンザニアでは、中国の鉄道建設隊がザンビア間の鉄道を敷設していた。さらに中国の医療隊が、タンザニア、モーリタニア、ギニア、アルジェリア、さらにはイエメンなどで、巡回しながら診察や治療にあたっていた。そうした『人民中国』の記事を竹内は紹介している。
 アフリカにたいし中国はさかんに援助をおこなっている。紡績工場や農機具工場、小型ダムもつくった。軍事面でも、約200人の軍事顧問がタンザニア軍の訓練にあたっていた。
 フランスとパキスタンの共同航空路が上海まで伸びるようになった。フランスと中国のあいだでは、すでに1964年から国交が結ばれている。
 これにたいし、国交のないアメリカや日本の飛行機は、中国に乗り入れることができない。日本が中国へ輸出できたプラントはクラレのビニロン一件にとどまっていた。
 竹内は日中貿易交渉の一行に加わった自民党議員からも話を聞いている。北京では市民が防空壕を掘ったり、民兵訓練をやったりしているらしい。しかし、日本のスモッグ公害のようなものはないようだと思う。
 そしてふと思ったりする。

〈おそろしいのは予想を超えた事件の突発である。……人類滅亡の予想はおそろしくないが、人類不滅の確信はおそろしい。〉

 また大きな戦争がはじまるのではないか、と心配していたのである。
 このころ竹内は評論活動から足を洗って、ほとんど魯迅の翻訳に専念していた。1930年の上海をえがいた茅盾(マオトン)の『子夜』も訳している。それがいささか自慢だった。「30年代がわからなくては、現代中国について何ひとつわかるわけがない」と思っていた。
 竹内は1970年の終わりに、来年正月には、中国問題がジャーナリズムではでに取りあげられるのではないかと予想していた。だが、自身は「黙して語らぬに如かない」。
「国交回復ということばは乾涸(ひから)び……いまでは慎重に検討いたします、前向きに善処します、と等価なのだ」と、なかばあきらめ顔だった。
 むしろ思いだすのは1年半前の旅行のことだ。
 このときは旅行社のツアーで、武田泰淳夫妻とともに、シルクロードを含むソ連各地を見て回った。
 飛行機から天山山脈の「ほとんど無限大にひろがる起伏」を見て感動し、中央アジアでは荒涼たる沙漠の風景に心奪われ、イスラムのことを考えたものだ。
 ちなみに、このときの旅行については、同行した武田百合子が『犬が星見た』という日記をつづっている。ぼくももっているので、いずれ紹介することにしよう。
 そうこうしているうちに、1971年も春たけなわとなり、やがて初夏がやってきた。雑誌『中国』の6月号に、竹内はこう書いた。

〈この春は天候不順で、いつ過ぎたと知らぬうちに、気がついてみたら花の盛りが過ぎていた。その代り、人工の蝶ならぬピンポン玉は華麗にとび交うた。息つくひまもないほどだった。まずは結構至極といわねばならない。〉

 ここでピンポン玉というのは、71年3月から4月にかけ、日米中間でくり広げられた、いわゆるピンポン外交をさす。
 発端は名古屋市で開かれた世界卓球選手権に、中国が久しぶりに出場したことだった。その後、中国がアメリカなどの卓球選手を自国に招き、それを機に米中間の交流が再開された。キッシンジャーの極秘訪中をへて、72年2月のニクソン訪中へとつながるきっかけとなったできごとである。
「まさか、ピンポン玉から本物の鳩がとび出そうとは、私には予想もつかなかった」と竹内は述懐し、その外交の背後にジャーナリストのエドガー・スノウがいるのではないかと推測している。
 71年8月には、ニクソンが突然、来年の訪中を発表した。日本政府には寝耳の水の話だった。

〈ニクソン訪中声明は、ふたをあけてみると、長い、慎重な準備工作の結果であることが、だんだんわかってきた。複雑怪奇はふたをあけてみれば複雑怪奇ではない。これは歴史の常道である。……わが日本国政府は、泰然として腰を抜かすこと、これまた歴史の教訓である。〉

 大きな歴史の波がやってきたのだ。
 だが、竹内はまだ日中国交回復に悲観的だった。
 10月1日の国慶節ではパレードが中止になった。重要人物が亡くなったのではないか、中ソ国境で紛争が勃発したのではないか、あるいは内乱が発生したのではないか、と憶測がとぶ。
 中国側はパレード中止の理由は、行事を簡素化するためだと説明した。9月に林彪が毛沢東の暗殺に失敗し、モンゴルで墜落死したことは、この時点ではまだ明らかにされていない。竹内もてっきり行事を簡素化するためだと思いこんでいた。
 そして、日本時間の10月26日(現地では10月25日)、国連で中国の代表権が差し替えられ、中華人民共和国が中国の代表権を回復するという大きなできごとがあった。竹内も思わず、この日のテレビ中継に見入っている。
 明けて1972年の2月、ついにニクソン訪中が実現した。だが、このときのエッセイの表題を、竹内はなぜか「鬱屈」としている。

〈……おわってみると、格別の感想もない。おこるべくしておこり、過ぎるべくして過ぎた事件であったという気がするだけだ。それよりも浅間山荘の事件のほうがいまでも重くのしかかっている。〉

 たしかにそうだ。連合赤軍事件は、まさにニクソン訪中と重なりあっていた。日本じゅうが米大統領の訪中より、あさま山荘に釘付けになっていた。
「鬱々としてたのしまぬのは、そこら辺に原因があるのかもしれないし、そうでないのかもしれない」と、竹内は書いている。
 おそらく、竹内が「鬱々」としていたのは、国交回復でアメリカに先を越されたからでも、連合赤軍のあさま山荘事件があったからでもない。いや、それもあったかもしれないが、かれには日中間の問題にたいして、もっと根本的な疑念がわだかまっていたのである。
 日本ははたして中国と講和を結ぶつもりがあるのだろうか。そのつもりがないのなら、日中国交回復は不可能である。
 竹内は日中国交回復に悲観的になっていた。
 その理由を、同じころ『朝日ジャーナル』に載せたエッセイで、こう書いている。

〈いまから思うと、身びいきというか、私なりの日本政府への過大評価があったようです。米中関係と日中関係は原理的にちがう、そのことは政府も承知しているはずだ、と私は思い込んでいました。第二次世界大戦における米中は同盟国であるが、日中は交戦国である。したがってアメリカは、中国と和解するために、朝鮮戦争までさかのぼるだけでよいが、日本は1937年または1931年までさかのぼらなくてはならない。そしてこの解決には当然、アメリカの助けを借りるわけにはいかない。これが私の悲観論の根拠であります。〉

 竹内の悲観論については、さらに述べなくてはならない。
 問題はいまもまだいっこうに解決されていないからである。
 この項、もう少し書かなければ収まらない。

竹内好のこと [われらの時代]

 竹内好(よしみ、1910〜77)と呼び捨てにしてしまったが、学生時代は竹内さん、あるいはもっと親しみをこめて好(ハオ)さんと、「さん」づけで呼んでいた。いわずと知れた中国文学者で、魯迅の紹介者として知られる。
 あのころ(1960年代末期から70年代はじめ)、「さん」づけでいたのは、吉本隆明(1924〜2012)と竹内好しかいない。
 かといって、ふたりと親しかったわけではない。遠くから顔をみて声を聞いたのは、ふたりともたった一度きりである。
 ぼくのなかでは、学生時代の「先生」は、竹内好と吉本隆明しかいなかった。大学はなかなか進学できなかったので、6年もいるはめになってしまった。それなのにゼミもとらなかったので、けっきょくひとりの先生とも出会わなかった。ひどいといえばひどい、残念といえば残念な話である。学園闘争が荒れ狂うマンモス大学はそんなところだった。
 思想的な影響という面では、吉本隆明のほうが大きかったかもしれない。吉本のいう「大衆の原像」を、ぼくは反権力、反インテリ、反左翼の立場ととらえていた。反権力とは、天皇制や自民党(アメリカ)に反対すること。反インテリとは大学やアカデミズム、文化人の権威に反対すること。反左翼とはスターリニズム(ソ連型社会主義)や社会党、共産党に反対すること。要するに、わけもなく、つっぱっていたのだ。この年になっても、年甲斐もなく、〈反政治〉というおとなげない傾向が残る。その点は反省しなくてはならない。
 それはともかく、竹内好のことである。はじめて顔をみたのは早稲田の学園祭の催しのときだ。たしか1970年の秋だったと思う。場所は法学部のそれほど広くない教室ではなかったろうか。竹内の講演会だと思いこんで、サークルの里見脩君とのこのこ出かけていったものだ。ところが、竹内大人(たいじん)は学生からの質問を待って悠然と構え、ほとんどしゃべらないので、イラチなぼくは、さっさと教室を後にしてしまった。ほんとうに残念なことをした。
 だが、ぼくは竹内好を通じて、中国を知ったのである。あのころ、成田闘争の支援にも出かけていたけれど、大学闘争はすでに下火になっていた。1971年から72年にかけて、中国革命や文化大革命について書いてある本や雑誌を読みあさった。そして72年秋、日中学生友好会に加わって、はじめて中国を訪れた。
 そのころ、竹内の主宰する「中国の会」が発行する雑誌『中国』(1963〜72)も読んでいたと思う。しかし、党派に属さないにせよ、ぼくの傾向は、この雑誌よりもっと政治主義的だった。訪中については、別の機会に、その恥ずかしい思い出を語らなくてはならない。
 それはともかく、訪中から戻り、しばらくしてから「魯迅友の会」の集まりに2、3度ほど参加したことを、いまになって思いだす。「魯迅友の会」は1954年に竹内がつくり、当時は若い人が中心になって細々とつづけられていた。この会を紹介してくれたのは馬場英子さんだったと思う。松井みどりさんが世話人をしていた。「友の会」は「中国の会」のジュニア組織といったおもむきがあった。だから、そのころ、ぼくは竹内好のすぐそばにいて(かといって、本人と会ったわけではないのだが)、中国にもっとも接近していた。中国離れがはじまるのは、その後、社会にでてからだ。
 いま、そんなことを思いだしたのは、船橋の図書館に『竹内好全集』があるのをみつけ、その第10巻と11巻を借りだしたからである。この2巻には雑誌『中国』に連載された竹内のエッセイ『中国を知るために』が収められている。けっこうな分量(3巻分)なので、いちどにはとても読めないが、ゆっくり読みなおしてみることにした。これも思い出読書である。
 エッセイがはじまってすぐに(1963年3月)、竹内はこう書いている。

〈われわれはじつに中国のことを知らない。それはもう驚くほど知らない。そして知らないことを十分には自覚していない。まず自覚することが「知るために」何よりも必要である。〉

 ここで竹内のいう「中国のこと」というのは、中国の歴史や政治、社会のこと以上に、中国人の生活をさしている。いわれれば、たしかにそのとおりだ。
 竹内のまなざしは、中国の歴史や政治を論評して、中国をわかった気になるより、中国人の生活を理解することのほうに向けられていた。エッセイをつうじて、われわれは「知るとはイメージを変革することなのだ」という竹内のこころみに次第にいざなわれていくことになる。
 第1巻で扱われている事柄を列挙しただけでも、そのことは理解できる。それは扇の話題からはじまって、コトバと思考法、同文同種のいかがわしさ、支那と中国、度量衡のはなし、助数詞のちがい、ロクロのひき方、九九とソロバン、単位の観念、数の表記、においの日中比較へと広がる。
 どれもつい見逃しがちな些細な問題にみえるかもしれない。だが、どれをとっても中国と日本の考え方、感じ方はずいぶんちがうのだ。それは日本がすぐれていて、中国が劣っているということではない。コトバにしても、技術にしても、中国のほうがむしろ西洋と似かよっているところもある。
 そのことごとについて、いま紹介することはやめておく。ただ、竹内がこうしたこころみをはじめたのは、日本人に日本と中国のちがいを知ってもらい、中国に親しみをもってもらうためだったといえる。政治体制は二の次である。人の値打ちは、政治体制や経済状況によって決まるわけではない。人と人との親しみこそが、すべて物事の出発点にちがいなかった。

「中国の会」の会則はなかなか決まらなかった。
 最終的にそれは、

 1、民主主義に反対はしない。
 2、政治に口を出さない。
 3、真理において自他を差別しない。
 4、世界の大勢から説き起こさない。
 5、良識、公正、不偏不党を信用しない。
 6、日中問題を日本人の立場で考える。

といったあたりに落ち着く。1968年春のことだ。
 なかなかまねのできない、みごとな会則である。「しない」を列記する会則は、ほかの会では、まずお目にかからないだろう。
 だが、「中国の会」がはじまったころ、会の綱領はほぼ次のようにまとまりつつあった。

 第一 日中国交回復の実現に賛成する。
 第二 日中の連帯の伝統を見直す。
 第三 中国を日本人の眼で自主的に見る。
 第四 生きている中国認識をわたしたち共通のものにしよう。

 竹内はこの第四の項目が気に入らず、けっきょくこの綱領は流れた。
 とはいえ、「中国の会」がつくられたのは、日本人の中国認識を変革し、日中国交回復を実現するためだったといってよい。そして、実際、日中国交回復が実現された1972年の終わりに、(編集上の大ミスも重なって)「中国の会」は幕を閉じたのだった。ぼくが「魯迅友の会」の集まりに顔をだしたのは、ちょうどその前後だった。
 ところで、『中国を知るために』の第1集を読むと、1964年8月から65年6月にかけて、竹内は中国という呼称をめぐって、激しい論戦をくり広げていることがわかる。当時は多くの新聞や識者が、まだ中国のことを中共とか支那と呼んでいたのだ。
 論戦をはじめるにあたって、竹内はこう書いている。

〈先に結論だけを出しておく。私は中国のことは日本人も中国と呼んだほうがよいと思う。しかし、これはたいへん面倒なことであって、その面倒さは、国交回復といずれぞや、といいたいぐらいだ。だから早急な実現はおぼつかない。……大げさにいうと、この問題には、日本と中国との近代史の全部の重みがかかっている。〉

 中国といわず、支那と呼ぶべきだという考え方は、当時、日本人のあいだにしみついていた。中国とは世界の中心を意味するから、それ自体、尊大だという意見すらあった。
 中国人は自国のことをシナと呼ばれるのを嫌っていた。そこには長い戦争時代の軽蔑が感じられたからである。しかし、日本人のなかには、よその国をどう呼ぼうが、こちらの勝手だという傲慢さが残っていた。だから、中国と呼ぶべきだという主張を、「隣国人の不当な日本語干渉」と切り返す識者もいたのである。しかし、実際に干渉があったわけではない、と竹内は論じる。

〈中国人が「シナ」に嫌悪感をもつようになったのは、1910年代からであって、それが普及したのは、1920年代である。つまり、中国のナショナリズムの勃興と、日本帝国主義の進出との切点(ママ)でこの問題はおこっているのだ。中華人民共和国なり中国共産党なりは、この問題とはまったく何の関係もない。むしろ国民党時代のほうが、ずっと敏感だった。〉

 そして、皮肉にも現地の日本軍政当局が「シナ」をやめなくては、親日政権を育成できないと思うようになった、と竹内はいう。
 へえ、そうだったのか、とびっくりする。
 悪循環の元凶は、中国ナショナリズムの軽視(無意識の軽侮)にあるという竹内の指摘は、いまもあてはまるような気がする。
 竹内はさらに日本の新聞表記についてもふれている。日本人の中国認識が軽薄なのは、メディアに責任がある。
 敗戦後、日本の新聞は支那の表記を中国に変えた。その理由はまったく説明されなかった。「日本的な転向の型、なしくずし転向」だ、と竹内はいう。
 さらに、当時の新聞は、読売、朝日、毎日も、中国と中共を使い分けていた。
 読売は中華人民共和国を「中国」、中華民国を「国府」、中国共産党を「中共」と呼んだ。いっぽう、朝日と毎日は、中華人民共和国を「中共」、中華民国を「中国」と略称していた。朝日の場合は巧妙で、文化欄などでは、中共ではなく、なるべく中国を使うようにしていた、と竹内は観察している。
 つまり、1960年代半ばまで、新聞の紙面は「中共」の見出しで、あふれかえっていたのだ。ぼくにもおぼろげに記憶がある。
 竹内はいう。

〈今では滔々として「中共」だ。中共、中共で、すでに「中国」は影うすくなった。私にしてからが、うっかりすると、人と話していて「中共」が口から出かかることがある。この「中共」は、ある固定したイメージを植えつけることに成功しつつある。かつての「支那」がもっていた侮蔑にかえて、「中共」は恐怖感を伴っている。〉

 新聞のインチキな造語にたいし、竹内は反論した。
 その内容は竹内が小学館の『日本百科大事典』に寄稿した「中国」の項目に明確に記されていた。あまりにもみごとなので、それを全文引用したい誘惑にかられるが、いまはその要点だけを断片的に示す。

〈中国というのは、一つの文明圏または民族共同体に名づけられた総称であって、国名でもないし、国名の略称でもない、……一口にいって中国とは、日本人が以前に支那とよんだものと同一内容である。
 こういう用法で中国という語が使われるようになったのは、二十世紀になってからである。近代ナショナリズムの勃興にともなって、自称を定める要求がおこり、中国のほかに中華、またときには支那などが使われたが、しだいに中国に固定した。……
 中国を中華民国の略称と解するのは、順序を逆転している。中国に成立した第一次の共和国が中華民国なのである。中華民国の略称は民国であって、中国ではない。同様に、第二次の共和国が中華人民共和国であって、これが中国の国家名称である。この中華人民共和国のことを、近ごろ日本で中共と略称する風潮があるが、これはある政治的意図をもってはじめられたもので、中国には通用しないし、誤解を招くおそれもある。中共とはもともと中国共産党の略称であることは日中に共通である。それを借りて国の略称にするのは穏当ではない。……〉

 朝日新聞が国家の略称として「中共」を用いるのをやめ、中国という表現を使うようになったのは、1964年10月1日からである。
 しかし、その後も竹内は支那を発端とする呼称問題にこだわった。

〈なぜ日本人の「支那」がきらわれるか。これは理外の理であって、それをリクツで説明しようとすると、どうしても無理がおこる。その無理を通そうとするので、ますます混乱がおこる。そういう悪循環があると考えるべきだ。〉

 竹内らしい柔軟で強靱な思考には感服するほかない。
 理外の理とは何か。「侮辱が問題になるのは、主観の意図においてではなく、受け取り手の反応においてなのだ」と、竹内はいう。
 侮辱意識を解消するのは容易ではない。意図的な侮辱も無意識の侮辱もあるだろう。しかし、それを解消するよう努めなければ、相互の理解ははじまりようがない。竹内が雑誌『中国』で、堅い信念のもと、こつこつとはじめたのは、そういう仕事だったとみてよい。

『サピエンス全史』を読む(まとめ) [本]

   1 狩猟採集社会

 いまや超サピエンスの時代がはじまろうとしているのだという。
 本書はホモ・サピエンスが超サピエンスに向かおうとしている人類の全史を追うという壮大な試みである。
 著者のユヴァル・ノア・ハラリは、イスラエルの若い歴史学者だ。
 ホモ・サピエンスが誕生したのはおよそ20万年前。しかし、人類がはじめて姿をあらわしたのは250万年前の東アフリカで、アウストラロピテクスと呼ばれる猿人から進化した。
 この太古の人類は200万年前に、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに進出し、その地に定着した。ヨーロッパとアジア西部にいた人類はネアンデルタール人と呼ばれ、アジア東部にいた人類はホモ・エレクトスと呼ばれる。10万年前の地球では、少なくとも6つの異なるヒト種が暮らしていた。
 人類の特徴は大きな脳をもつことと、直立二足歩行をすることだ。しかし、それは生きていくのに大きな欠陥ともなり、安全に暮らすには家族や仲間の協力が欠かせなかった。
 初期の人類は小さな生き物を狩り、食べられるものを採集するいっぽう、大きな捕食者にねらわれていた。人類が食物連鎖の頂点に達するのは大きな獲物を狩るようになった40万年前〜10万年前にかけてのことだ。
 約30万年前から人類は火を使っていた。火によって、調理が可能になり、食物の範囲が広がり、消化も楽になった。それだけではない。人類は無限の力を制御できるようになったのだ。
 ホモ・サピエンスがアフリカ大陸の外に出たのは7万年前である。サピエンスはほかの人類に取って代わりながら、世界じゅうに進出する。
 それがどんな経緯をたどったかは、よくわかっていない。いずれにせよ、ホモ・サピエンスの進出によって、ジャワ島のホモ・ソロエンシスは5万年前に、ヨーロッパのネアンデルタール人は3万年ほど前に絶滅したことはたしかである。
 なぜサピエンスは、ほかの人類に勝利することができたのだろうか。
 著者はここで「認知革命」という概念をもちだす。
 認知革命を象徴するのが、言語の発明である。サピエンスは言語によって仲間に情報を伝えるようになった。
 サピエンスの特徴は、何よりも「虚構」を語る能力にある、と著者はいう。つまり、想像力によってイメージをえがき、それを伝えることができた。
 動物が集団を維持できるのは50個体が限度だ。人間もたがいが認知できる範囲は、150人がせいぜいだろう。しかし、人類がそれ以上の人数からなる共同体をつくれるのは、共通の物語(国家や宗教、法などもそうした物語のひとつだ)を共有できるからである。
 物語は想像力の産物だといってよい。サピエンスの特徴は、自然の客観的現実のなかだけではなく、神や国家といった想像上の現実のなかを生きていることだ、と著者は論じる。
 認知革命はサピエンスに想像力をもたらした。想像力は言語を生み、物語をつむぎだした。サピエンスの強さは、想像力と情報伝達力にもとづく集団行動にあった。
 つくりだされた物語は、いくらでも変更可能だった。そこから柔軟な対応能力が生まれた。
 サピエンスが3万年以上前から長距離交易をはじめていたことも注目すべきだろう。貝殻と黒曜石の交易は、農耕よりも早く太古からおこなわれていた。
 交易をおこなうのはサピエンスだけである。
 交易は単なる実務的やりとりのようにみえるが、そうではない。信頼関係がなければ交易はなりたたない。部族間で交易がはじまるときには、共通の神や祖先、トーテムへの呼びかけがなされなければならない。
 サピエンスの歴史は、狩猟採集時代が圧倒的に長い。農耕がはじまるのは1万年前にすぎないし、産業文明の時代になってからはわずか200年だ。
 狩猟採集時代については、さまざまな説があるが、たしかなことはわかっていない。
 人びとが現代人のように多くのものをもっていなかったことはたしかだ。ごくわずかの遺物からは、ほとんどその様子が浮かびあがってこない。
 辺境に残る狩猟採集生活を観察することで、先史時代の生活を推し測ることは可能かもしれない。しかし、それにも限界がある。
 現代の狩猟採集民はあまりにも辺境の地に追い詰められているし、その暮らしぶりは民族的にも文化的にもばらばらである。そこから、はたして原初の生活を思いえがくことなどできるのだろうか。
 それでも一般論として、著者が指摘するのは、次のようなことだ。
 人びとは数十人、最大でも数百人の単位でくらしていた。1万5000年前には、すでに犬を飼い慣らしていた。集団は主に親族から形成され、内部は親密な関係が保たれていた。
 近隣の集団とは戦いもあったが、交流もあった。いっしょに狩りをし、贅沢品(貝や琥珀、顔料など)を交換し、ともに祭りをすることもあったろう。とはいえ、ふだんそれぞれの集団は、ほとんど顔を合わせず、別々にくらしていた。
 集団は食べ物を探して、あちこち移動する。その移動範囲は時に数十キロにおよんでいた。こうした移動は人類が拡散する原動力となった。
 食料資源が豊富なのは、海や川に沿った場所だった。そうした場所に、人類ははじめて集落をつくった。
 基本は狩りよりも採集だったろう。食べ物に加えて、燧石や木材なども集められ、素材に加工がほどこされた。
「平均的な狩猟採集民は、現代に生きる子孫の大半よりも、直近の環境について、幅広く、深く、多様な知識を持っていた」し、身体的にも鍛えられていたと、著者はいう。それにくらべれば、現代人の知識はごく専門的な分野にとどまっており、動作もはるかににぶい。
 狩猟採集民は全体として、現代の労働者より、快適で実りの多い生活を営んでいた、と著者はいう。狩りや採集にかける時間はごく短く、家事の負担も少ない。よほどのことがないかぎり、飢えたり栄養不良になったりすることもなかった。木の実、イモ、ベリー、キノコ、果物、貝、魚、動物をはじめとして、食物は多様で、ふんだんに存在した。天然痘やはしか、結核などの感染症はなかった。
 要するに、狩猟採集社会の生活は意外にも豊かだった。とはいえ幼児死亡率は高かったし、集団の足手まといになる老人がおきざりにされることもあった。自然の猛威に身をさらされることも少なくなかったはずだ。
 狩猟採集民のあいだではアニミズムが信じられていた。生きとし生けるもの、死者にも霊が宿っており、魔物や妖精も実在すると信じられていた。
 だが、部族ごとに、その信仰はじつに多様だった。その精神生活については、ほとんどわかっていない。
 身分や家族など、集団生活の実態についても、たしかなことはわからない。しかし、何らかの政治的、宗教的、社会的秩序があったことはまちがいないだろう。
 部族どうしの戦いもあったにちがいない。しかし、それがどの程度だったかも判然としない。ドナウ川流域やスーダンでは、武器によって死亡したとみられる古い遺骨が見つかっている。だが、狩猟採集民が常に残忍な戦いをくり広げていたという証拠はない。
 平和な時代もあったし、戦争の時代もあったということくらいしかいえない。沈黙の帳が、狩猟採集社会の全体像をおおいかくしている、と著者はいう。
 ただし、サピエンスに関していえることがひとつある。それは人類の移住にともなって、地域生態系が変化し、大型生物が絶滅したことである。
 大型生物の絶滅をすべて気候変動のせいにはできない。「歴史上の痕跡を眺めると、ホモ・サピエンスは、生態系の連続殺人犯に見えてくる」と著者は書いている。
 オーストラリアでも、アメリカでも、シベリアでも、ホモ・サピエンスの進出にともない、マンモスやディプロトドン、マストドン、オオナマケモノといった巨大生物が絶滅した。その絶滅にサピエンスが関与したことはまちがいない。
 著者はこう書いている。

〈私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っているのだ。〉

   2 農業革命

 農耕への移行がはじまったのは紀元前9500〜8500年ごろとされる。場所はトルコ南東部とイラン西部、そしてレヴァント地方だ。そのころ小麦が栽培され、ヤギが家畜化された。その後、紀元前8000年ごろには、エンドウ豆やレンズ豆、紀元前5000年にはオリーブが栽培され、紀元前4000年には馬が家畜化された。
 中国の長江流域で稲作がはじまったのも、紀元前8000年のころだ。紀元前3500年ごろには、世界中で、小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦が栽培されるようになっていた。
 農業革命は中東からはじまって、各地に伝播したわけではない。中国を含め、いくつかの地域で独立して発生したとみられる。



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『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(まとめ) [本]

   1 水俣の経験から

 ふつう経済学者といえば、経済活動をより活発にして、経済規模をできるだけ大きくするにはどうすればよいかを考えている人のことを思い浮かべるかもしれない。しかし、世界的な経済学者として知られる宇沢弘文(1928〜2014)は、そうではなかった。経済第一の考え方が、いかに人や自然、社会を破壊しているかに警鐘を鳴らし、政治や経済の横暴から人びとのくらしを守るための方策を示そうとした。かれの唱えた「社会的共通資本」の考え方は、まだじゅうぶんに理解されているわけではないし、実行に移されているわけでもない。しかし、その思いは徐々に広がっている。
 宇沢弘文の名前は昔からよく知っていた。何冊も本を買った。だが、そのうち読もうと思っているうちに、時間ばかりがすぎていった。今回「傑作論文全ファイル」なる本がでた。機会が訪れたと思った。
 本書はA5版で420ページある。没後、残されていた5000万字(原稿用紙12万枚以上)におよぶ膨大な原稿から、主要な論文を選んで1冊にまとめたのだという。
 宇沢にはすでに刊行された大量の著作があり、11巻にわたる『著作集』も出ている。しかし、そのすべてを読むのは骨が折れる。その点、今回の「ファイル」は、この大経済学者の全体像をつかむうえで、最良の窓口となるにちがいない。企画の勝利である。
冒頭に宇沢の弟子でノーベル賞経済学者のジョセフ・スティグリッツの記念講演がおかれているが、それを別とすれば、全体は8部に分けられている。
 その構成をまず列記しておこう。

  第Ⅰ部 社会的共通資本への軌跡
  第Ⅱ部 『自動車の社会的費用』を著す
  第Ⅲ部 近代経済学の限界と社会的共通資本
  第Ⅳ部 環境と社会的共通資本
  第Ⅴ部 医療と社会的共通資本
  第Ⅵ部 教育と社会的共通資本
  第Ⅶ部 農村とコモンズ
  第Ⅷ部 未来への提案、これからの経済学

 全8部がすべて社会的共通資本の構想に流れこんでいることがわかる。また、実際、その線に沿って、編集がほどこされているともいえる。
 まずその経歴をみておこう。
 1928年、鳥取県米子市の生まれである。だが、父の仕事の関係で3歳のとき東京に移った。府立(のち都立)第一中学を卒業し、敗戦間近の1945年4月に第一高等学校に入学、48年4月に東京大学数学科に進んだ。当初は医学部志望だったが、「ヒポクラテスの基準をみたす高潔な人格をもち合わせていない」とみずから判断して、数学科を選んだという。もともと数学が好きだったようだ。1951年に数学科を卒業し、特別研究生として、大学院に進んだというから、数学の才能があったのだろう。
 宇沢によれば、敗戦後、日本の思想界をリードしていたのは日本共産党だった。宇沢もいくつかの勉強会にはいって、マルクス主義経済学を学ぶが、とても理解できなかったという。しかし、それは謙遜だろう。むしろ、マルクス経済学にどこか違和感をおぼえていたのにちがいない。
 宇沢はそのうち数学より経済学を勉強するようになって、自分だけでこつこつ経済学の勉強をはじめていた。そのころ、ぐうぜん、電車のなかで、一高ラグビー部先輩で近代経済学者でもある稲田献一と会った。そして、経済学部の古谷弘と館龍一郎を紹介してもらって、近代経済学を本格的に学ぶようになる。宇沢が学んだのは数理経済学で、それまで数学を学んできたかれにとっては、まさにうってつけの分野だった。
 宇沢は分権的経済計画に関する論文を執筆した。それがアメリカの経済学者、ケネス・アローに認められ、いきなり1956年に研究助手として、スタンフォード大学に招かれた。夢のような話である。スタンフォードで輝かしい業績を上げた宇沢は、1964年にシカゴ大学に教授として迎えられる。36歳のことだ。
 しかし、そのころシカゴ大学では、ミルトン・フリードマンの市場原理主義派が勢力を拡大し、マネタリズムと新自由主義が経済学界を席巻するようになっていた。宇沢はその考え方に異を唱えた。
 市場原理主義について、こう書いている。

〈市場原理主義は簡単にいってしまうと、儲けることを人生最大の目的として、倫理的、社会的、人間的な営為を軽んずる生きざまを良しとする考え方である。人間として最低の考え方である。〉

 人間の値打ちはどれだけ儲けるかで決まるという新自由主義の考え方に、宇沢は嫌悪をおぼえた。
 そのころ、アメリカは泥沼のヴェトナム戦争をエスカレートさせていた。アメリカ各地では、この理不尽な戦争にたいし反戦運動が巻き起こった。宇沢もまた反戦運動を支持する。だが、当局の弾圧は激しく、反戦運動にかかわった助教授たちは解雇され、多くの学生が逮捕された。正教授の宇沢は身分を保証されているため解雇を免れたが、大学を去っていくかれらにたいし、良心の呵責を感じないわけにはいかなかった。
 そのころ東大の経済学部から帰ってこないかという誘いを受けた。宇沢は、それを受け入れることにした。東大での身分は当面、助教授だったが、大学紛争の吹き荒れる1968年に帰国した宇沢は、翌年、すぐに教授に昇格した。
 しかし、12年ぶりに帰国した宇沢が見たのは、はなやかな高度成長とは裏腹の現実だった。混乱と破壊が日本社会をおおっていた。
 宇沢は水俣を訪れる。「水俣の地を訪れ、胎児性水俣病の患者に接したときの衝撃は、私の経済学の考え方を根本からくつがえし、人生観まで決定的に変えてしまった」と、そのときの思いを語っている。
 公害問題に取り組むうちに、宇沢は近代経済学(新古典派理論)そのものに疑問をいだくようになった。
 近代経済学では、私有されていないものは自由財、あるいは公共財として、企業や個人が勝手に使用してよいことになっている。その考え方によれば、チッソが水俣湾を自由に汚染し、その環境を徹底的に破壊し、結果として、多くの人に言語に絶する苦しみを与えても、なんら差し支えないことになる。
 資本家や企業のそんな野放図な行動が許されていいわけがない。社会的共通資本の考え方は、そこから生まれたのだ。
 宇沢はこう述べている。

〈社会的共通資本は、一つの国ないし社会が、自然環境と調和し、すぐれた文化的水準を維持しながら、持続的なかたちで経済的活動を営み、安定的な社会を具現化するための社会的安定装置といってもよいと思います。大気、森林、河川、湖沼、海洋、水、土壌などの自然環境は言うまでもなく、社会的共通資本の重要な構成要因です。公害問題は、産業的あるいは都市的活動によって、自然環境が汚染、破壊され、その機能が阻害され、直接、間接に人間に対して被害を与えるものです。したがって、公害を防ぐためには、産業的あるいは都市的活動に対して、きびしい規制をもうけて、自然環境という社会的共通資本を傷つけることがないようにすることが要請されます。〉

 自然環境という社会的共通資本は、いわば人類(人類だけではないが)の共同財産なのだ。それをほしいままに破壊することは許されない。ここから社会的共通資本の理論確立に向けての、宇沢の長い闘いがはじまるのである。

   2 自動車の社会的費用

 1974年に出版された『自動車の社会的費用』は、宇沢の代表作のひとつである。
 十数年アメリカにいて日本に帰国した宇沢は、乗用車やトラックが東京の街なかをものすごいスピードで走りぬける様子にショックを受けた。しばらくは、交通事故に遭わないかと、毎日ひやひやしていたという。
 日本でモータリゼーションがはじまるのは1950年代後半、マイカーブームがおきるのは60年代後半からだ。1967年に日本の人口は1億人を突破し、自動車の台数も1000万台を超えた。
 だが、それにともない、人びとは大気汚染と騒音、危険に悩まされるようになった。交通事故死も1970年に年1万6500人を超えた。
 そんなとき出版された宇沢の本は、おおきな反響を呼んだ。



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1年をふり返って [雑記]

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 ことしも拙ブログをお読みいただき、ありがとうございました。
 わたしは閑居老人で、ほとんどどこにもでかけません。
 健康維持のため、1年ほど前から近くのジムに行くようになったくらいでしょうか。
 60歳から乗りはじめた車も、買い換えを機に、近くに住むようになった娘一家とシェアするようになってから、ほとんど運転しなくなりました。
 政治にはまったく興味がありません。といっても、いつも家内にはぶつぶつ感想を漏らしているので、迷惑がられているのですが……。
 定年になって会社をやめたときに、残りの人生をテレビばかり見てすごすのもつまらないと思い、いくつか自分なりに課題をつくってみました。
 まず柳田国男論を書き、そのあと商品世界論という漠然としたテーマを思いつきました。それから1970年代論というのも。これは思い出話のようなものですが、いっこうに進みません。
 年に1度か2度、家内と海外旅行に行けるようになったので、その記録もメモ付きの写真として残しておこうと思いました。何しろ、書いておかないと、すぐに忘れてしまうのです。
 窓際族扱いになっていた会社は、データ整理のような仕事ならあるといわれたのですが、60歳できっぱりやめ、フリーになりました。
 フリーといっても、文字どおり無職です。
 それでも、ありがたいことに声をかけてくださる方がいて、少しばかり翻訳や執筆の仕事をさせてもらいました。
『紀元二千六百年』と『蟠桃の夢』がその成果です。
 いまでもときどき翻訳と書評をやっています。このブログに新刊コーナーがでてくるのは、2カ月に1度、短い書評を書いているためです。その準備作業というわけですね。
 ところで、この1年をふり返って、ブログの成果はどうだったでしょうか。
 商品世界論というテーマは合切袋のように何でもかでもとりあえず放りこんでおくメモといったところですが、じつは前年から積み残しておいたジョン・ステュアート・ミルの『経済学原理』(正確には『政治経済学原理』)を読もうというのが、ことしの最大目標でした。しかし、最後まで到達しませんでした。5冊ある文庫のうち、何とか4冊まで読み終わったものの、5冊目を残してしまいました。これは来年に先送りですね。翻訳がわかりにくく、読みはじめると、いつも眠くなってしまうのも問題でした。
 その代わり、デイヴィッド・ハーヴェイの『〈資本論〉入門』全2冊を読むことができました。マルクスの『資本論』については、ミルのあと取り組もうと思っていただけに、この本はありがたかったと思います。残念ながら『資本論』をきちんと読み直す時間は、わたしには残されていないようです。
 積み残しの本でいえば、ミルのあと、マーシャルかワルラスを読むというのが本筋です。しかし、来年は少し飛ばしてケインズを読むつもりでいます。
 最近、多くの友人が倒れ、わたし自身も残り時間の少なさを感じるようになっています。だったら、もっと哲学書や宗教書を読めばよさそうなものですが、やはり世俗にこだわってしまいますね。
 いまでも新刊書は年間8万点前後出版されています。とても、つきあいきれません。もっとかろやかに、さまざまな本に目を通し、時事について論じることができればいいのですが、感受性がにぶいのは、昔からの性分のようです。のんびり進む(実際はうしろに戻る)ほかないようです。
 ことしは知己の在野政治学者、滝村隆一を失ったことにショックを受けました。昔のつきあいで、ぼくにも著書を送ってくれていました。その大著『国家論大綱』全3巻の読書は、途中で挫折しています。最後まで読まないと、顔向けができないので、これも来年に積み残しです。
 ことしもいろいろなことがありました。中東の混迷を背景に、世界じゅうが不穏なテロに脅かされるなか、中国はさらに大国化し、アメリカではトランプ新大統領が選出されました。日本は日米同盟強化一本槍で、中国に対抗しようとし、近隣諸国の人びとのことを考える真摯な視点すら見失っているようにみえます。
 わたしの周囲は、おかげさまで平穏です。90歳を越えた両親がさすがに弱ってきて、いなかの高砂に帰ることが多くなりました。幸い、弟夫婦が日ごろ両親の面倒をみてくれているので助かっていますが、家を飛びだして東京暮らしをするようになった長男としては心苦しいものがあります。
 ことしは次女のつれあいや友人のはからいで、ミュージカルや歌舞伎を楽しむこともできました。ラマンチャの男、マイフェアレディ、仮名手本忠臣蔵を見ました。
 夏休みには長女一家がイタリアから戻ってきてくれました。
 家内とはつつがなく暮らしています。家の仕事もよく手伝っています。
 事件といえば、空き巣にはいられたことでしょうか。わが家には、さほどめぼしいものはないのですが、それでも妻のアクセサリーをごっそりもっていかれました。
 あとは、テレビが壊れ、パソコンが動かなくなり、自転車がさびつき、仕方なくそれらを買い換えたという次第です。
 平々凡々たる日常ですが、わたし自身の取り替えはきかなくなりました。ゆっくり年をとっています。
 いずれにせよ、ことしも拙ブログにおつきあいいただき、ありがとうございました。
 ちなみに、ことしよく読まれた拙ブログの記事を以下に挙げておきます。

  小野寺百合子さんのこと
  『日本 呪縛の構図』を読む
  半藤一利『B面昭和史 1926-1945』を読む
  水野和夫『国貧論』をめぐって
  佐野眞一『唐牛伝』をめぐって 
  関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』を読む

 来年も、気楽におつきあいいただければ幸いです。