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山本義隆『近代日本150年』を読む(4) [本]

 1945年8月、アジア・太平洋戦争の敗北により帝国日本は崩壊した。しかし、総力戦体制で形成された戦時体制の多くはその後も残りつづけた、と著者はみている。
 戦後の農地改革にせよ、じつは小作制度は戦時下の食管制度のもとですでに形骸化していた。健康管理制度がはじまったのも戦時中だ。いっぽう占領下でも、官僚機構はほとんどそのまま維持された。
 戦後の高度成長は、満州の地ではじまった総力戦体制の延長上に準備されたものだという。「科学技術の世界では戦後の戦中との連続性がとりわけ顕著であった」。科学の発展も総力戦時代の発想を引き継いでいるというわけだ。
 科学者の内部からは戦争への反省がほとんど聞こえてこなかった。むしろ、日本は科学戦で敗れたのだという無責任な発言が飛びだすほどだった。湯川秀樹さえ、日本は「総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北した」と語っている。
 こうした発言は、アメリカに先立って日本が原爆を製造できなかった悔しさを表現したもので、そこにはアジア侵略の政治的・道義的責任のかけらもみられない、と著者はいう。加えて、戦争に加担した科学者の責任はなんら問われることがなかった。むしろ、科学者は軍によって冷遇されていたとの見方さえ広がるほどだった。
 戦後は「科学振興による平和国家の建設」がうたわれるようになるが、それは高度国防国家の建設という戦前の看板を書き換えただけだ、と著者は皮肉る。何はともあれ、戦後、科学と科学技術にたいする信頼はむしろ強化され、科学技術立国が戦後の国是となった。
 戦後の高度成長も戦時の総力戦体制の思想を引き継いでいた。1950年代に政府は重点産業に国家資金を積極的に投入し、電力、造船、鉄鋼部門の再建をはかった。自動車産業をはじめとする機械工業の育成にも取り組んだ。
 1960年代には産業構造の軸を重化学工業に移して、輸出産業の発展に重点が置かれた。「官僚機構と産業界と大学の協働による1960年代の経済成長は、戦後版の総力戦であった」
 戦後の高度成長は、戦時下に開発された軍事技術に支えられていた。戦時下のレーダー開発は、戦後のトランジスターやダイオードへとつながり、電気通信分野の基礎となった。
 東芝、日立、松下はいずれも軍需生産を担っていた企業である。ソニーもまた海軍技術研究所の人脈が母体になっている。トヨタ、日産、いすゞ、三菱などの自動車産業、それに国鉄などの鉄道技術は、いずれも戦前の軍事技術が基盤になっているという。
 著者はまた1950年代の朝鮮特需、1965年以降のベトナム特需が日本の経済成長を支えたことを忘れてはならないという。さらに「60年代に日本本土が平和で高度成長を維持できたのも、沖縄に米軍と統治と基地を押しつけ続けていたからこそであった」。
 軍需産業も徐々に復活を遂げた。自衛隊が誕生すると、企業の本格的な軍事技術開発がスタートした。1960年代にはいると国産化による兵器生産の道が探られるようになる。三菱重工や川崎重工、石川島播磨重工、東芝、富士重工などがそれにかかわった。
「戦後の航空機産業は自衛隊に依存して復活を遂げた」。戦闘機だけではない。イージス艦や軍用ミサイルなどの開発も進められた。戦後は平和技術が優位だったというのは神話にすぎない、と著者は断言する。
「自衛隊の増強、そして防衛予算の増大とともに、日本の軍需産業は着実に肥大化し実力をつけていった」。三菱電機や富士通、日本電気、日産自動車なども防衛産業に深くかかわっており、東芝には防衛整備部門が備わっているという。
 高度成長により日本人の生活はたしかに便利になった。しかし、そのいっぽうでさまざまな問題が生まれていた。交通戦争や通勤地獄、公害や自然環境の破壊、地域共同体の崩壊、地価の高騰などである。
 水俣の悲劇を忘れることはできない。

〈生産第一・成長第一とする明治150年の日本の歩みは、つねに弱者の生活と生命の軽視をともなって進められてきたと言わざるをえない。その挙句に、日本は福島の破局を生むことになる。〉

 高度成長期に官僚機構と企業、大学は協働体制にあった。まさに総力戦だったのだ。公害や事故が発生しても、大学の専門家は政府や企業の肩をもち、被害者の労働者や住民にはむしろ冷たい姿勢をとっていた。「『専門の知』なるものが患者や地域の住民や被災者にとっては権力としてあったのだ」
 科学技術性善説と成長神話を見直すべき時期にきていた。公害の深刻化や環境汚染はもはや見逃すことができなかった。1970年以降、さすがの政府も公害規制に乗りだす。いっぽう日本企業は生産拠点を海外に移し、経済の合理化・効率化をはかるとともに、アメリカ市場を中心に輸出を伸ばしつづけていった。
 しかし、1990年代にはいると、中国、韓国、台湾、インドなどが台頭し、日本企業は競争力を失ってしまう。資源多消費型の基幹産業はいまでは衰退産業となり、それに代わってIT産業や情報技術が登場してくる。だが、日本はアメリカに大きく水をあけられてしまった。そこで、政府は企業を支援するため、法人税率を下げ、非正規雇用を認めて賃金を押し下げる政策をとった。

〈実際、現在多くの労働者は、結婚すらできない状態に置かれている。しかしそうなると、早い話、物を作っても売れなくなっているのであり、たとえ金融緩和があっても、企業が国内で積極的に設備投資にむかうこともない。だいいち結婚もできない、子育てもできないとなると、少子高齢化は必然的になる。そのようにして人口が減少している現在、将来的な市場の拡大は望むべくもなく、経済成長の現実的条件は失われているのである。〉

 いま安倍政権のもとで、政府と財界は海外への原発輸出と並んで武器輸出を画策しているという。外国企業と競争できる武器を生産するには、大学の協力体制が欠かせない。兵器生産や武器輸出が犯罪行為であることはいうまでもない。いくら経済のためとはいえ、そんなことはやめるべきだ、と著者はいう。
 最後の章は「原子力開発をめぐって」。
 核開発はもともと軍事目的で進められた。1945年8月6日、ウラン爆弾が広島に、8月9日、プルトニウム爆弾が長崎に投下された。
 原爆のために開発された核エネルギーを発電に利用しようとするこころみが登場したのは戦後である。日本はそれを原子力の平和利用という名目で受け入れることになった。
 しかし、そもそも軍事技術と非軍事技術の境界はあいまいで、とくに核技術は原爆製造に直結する技術にちがいなかった。著者によれば、岸信介は日本がその気になればいつでも核武装できる状態に転換できるようにするため、原子力開発に熱心に取り組んだという。実際、岸は1957年に「現行憲法下でも、自衛のための核兵器保有は許される」と語っている。
 日本の原子力開発は経済問題にとどまらず、軍事や外交の問題ともからんでいた。「将来的な核武装のオプションを残しておくという日本の一部の支配層の思惑を過小視してはならない」と著者はいう。
 原子力発電についていうと、戦後、日本は最初イギリスからコールダーホール型原子炉を取り入れたが、すぐにアメリカの軽水炉が取って代わった。
 日本の原子力開発は通産省と科学技術庁の二本立てでおこなわれたという。通産省は電力会社、原発メーカーと組んで、商業用の原子炉を建設した。いっぽう科学技術庁は増殖炉の技術開発をめざした(けっきょくのところ失敗)。
 日本の原発建設にはずみがついたのは1973年の石油ショック以降である。20世紀末に日本は有数の原子力大国になっていた。日立、東芝、三菱などの原発メーカーは「国策会社」は保護され、原子力ムラができあがった。
 しかし、原子力工学はそれ自体きわめて問題のある技術で、とりわけ原子力発電は、民生用技術としてはきわめて未熟で不完全だ、と著者はいう。

〈そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射能汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらに数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。〉

 原発はほんらい商品としては市場に出せない未成熟な技術なのだ。さらに原発とそれまでの技術とのちがいは、原発はひとたび大事故を起こすと、人間のコントロールがきかなくなり、取り返しのつかない惨事を招くということだ。
 こうして、2011年3月、福島第一原発の爆発事故が発生した。日本人はこの事故の後始末に今後何十年もつきあっていかなければならない。
 これからどのような社会をめざすべきなのだろうか。著者はこう書いている。

〈限りある資源とエネルギーを大切にして持続可能な社会を形成し、税制や社会保障制度をとおして貧富の差をなくしていくことこそが、現在必要とされている。かつて東アジアの諸国を侵略し、二度の原爆被害を受け、そして福島の事故を起こした国の責任として、軍需産業からの撤退と原子力使用からの脱却を宣言し、将来的な核武装の可能性をはっきりと否定し、経済成長・国際競争にかわる低成長下での民衆の国際連帯を追求し、そのことで世界に貢献する道を選ぶべきなのだ。〉

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山本義隆『近代日本150年』を読む(3) [本]

「[1914年の]第1次世界大戦への『参戦』と『勝利』は、その後のシベリア出兵そして日中戦争とアジア・太平洋戦争への道を開くものであった」と著者は書いている。
 第1次世界大戦は最初の科学戦だったといわれる。ドイツでは一流の学者がこぞって毒ガス研究に没頭し、イギリスでも超一流の物理学者が無線電信や潜水艦探知などの軍事研究に従事した。実際、このときの戦争では、軍用自動車や重砲戦車、軍用航空機、飛行船、潜水艦、機関銃、無煙火薬、焼夷弾、毒ガスなども使用されている。
 日本も科学戦の動向にすばやく対応した。国家による組織的な科学技術研究、工学研究がはじまった。それを支えたのは日本経済の発展であり、この時期に各種の研究機関や学術研究会議、航空気象調査委員会などが発足している。
 日本のネックは資源だった。それを打開する鍵が本格的な化学工業にあると考えた政府はドイツを見習って、近代化学工業の育成に乗りだした。
 明治のはじめから軍は火薬や爆薬を自給するようになっていた。大阪に硫酸や炭酸ナトリウム、ガス、コークスの製造工場をつくり、これを民間に払い下げたりもしている。
 とはいえ、明治期、民間の化学工業といえば、化学肥料が中心で、大正期まで日本は化学工業製品の多くを輸入に頼っていた。1915年に政府は国策の染料会社を発足させる。染料工業は毒ガス製造と深くかかわっていたから、潜在的軍事力とみなされていたのだ。
 ヨーロッパにおいて、第1次世界大戦は国家総力戦の様相を呈した。そこで問われていたのは軍備の近代化だけではない。新たに登場した自動車や航空機も軍事の一環としてとらえられていた。そのため、「日本では自動車産業も航空機産業も、ともに兵器産業として育成された」のだという。
 化学工業の発展は電力を抜きにしては考えられなかった。日本で化学工業が本格化するのは20世紀にはいってからである。日本カーバイド商会の工場が水俣に建設されたのは1906年で、その会社はまもなく日本窒素肥料と名前を変えた。
 日本窒素肥料は石灰窒素肥料を硫安に変成するだけではなく、1920年代からは合成アンモニアを生みだしていく。工場がつくられたのは内地だけではない。朝鮮半島にも巨大コンビナートが次々とつくられていった。窒素を扱う肥料工場はそのまま爆薬工場に転換することができた。その意味で肥料産業は「国防産業」にほかならなかった。
 朝鮮半島ではコンビナート建設と並行して、鴨緑江上流に次々と水力発電用の巨大ダムがつくられていった。なかでも水豊ダムは、貯水湖の面積が琵琶湖の半分という巨大なもので、その最大出力は戦後の黒四ダムの倍以上だった。このダムを建設するために、現地の朝鮮人や中国人は使役されたり、強制移住させられたりした。「エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力に支えられていた」と、著者はいう。
 1930年代にはいると、日本では軍と官僚による統制経済の色彩が強まっていく。技術官僚や技術エリートも政治に積極的にかかわり、技術こそ「国防国家」最重要資源のひとつだと主張するようになっていた。
 1937年に日中戦争が勃発すると、軍需産業優先と経済直接統制の姿勢がさらに強まり、軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理下におかれるようになった。内閣には国家総動員の中枢機関として企画院が設立された。そして、翌1938年には国家総動員令が発令され、政府の権限が強められた。
 統制経済の焦点は、電力の国家管理だった。1931年の電気事業法により、電力料金は認可制となり、政府が決定することになった。1938年には電力国家管理法により、大半の電力会社が統合され、日本発送電株式会社がつくられる。さらにその4年後には北海道から九州まで9ブロックの配電会社が設立された。それが現在の9電力体制の原型である。そのとき、電力国家統制の目的が軍事におかれていたことはいうまでもない。
 昭和のはじめ、日本の産業の中心は紡績や製糸の繊維産業から、すでに機械、金属、化学などの重化学工業に移行していたが、列強との競争に勝ち抜くために科学技術の開発がさらに求められていた。1932年には学術振興会がつくられる。軍と産業の要請にこたえ、科学技術研究を促進することが目的だった。学術振興会の研究費が主として配分されたのは、航空燃料、無線通信、原子核・宇宙線研究だった。いずれも軍事にかかわる分野である。
 1937年の日中戦争勃発後は、「科学動員」が叫ばれるようになる。資源不足を補うため、空中窒素を固定して火薬をつくったり、粘土からアルミをつくったりするのも科学の役割だとされていた。
 大学もまた研究体制の拡充と近代化を求められていた。文部省はこれまで以上に積極的に科学行政に取り組み、大学での軍事研究に文部省科学研究費、通称「科研費」を支出するようになった。海洋研究や気象観測もめざましい進展をみせた。戦争遂行が科学の発展を促していた。
「科学動員・科学振興が叫ばれていたこの時代は、同時に、学問の自由が侵され、反文化主義・反知性主義の横行した時代でもあった」と、著者は論じている。天孫降臨神話や、万世一系の天皇をいだく神国日本といったイデオロギーが声高に語られていた。それは田辺元のいうように、科学的精神とは正反対の蒙昧主義にほかならなかった。
 国粋主義者による国民の思想統制が進むいっぽうで、軍部は科学なくして近代戦は戦えないと考えていた。1938年の国家総動員法は、科学者や技術者を戦争遂行に向けて動員することをも目指していた。軍部独裁による総力戦体制・高度国防国家の建設が進んでいたのだ。
 1940年6月にはじまる「新体制運動」は、経済の統制と科学技術による国家総力戦体制の確立をめざした。当時は、マルクス主義者のあいだでも、経済統制や技術統制を評価する向きが強くなっていた、と著者は指摘する。
 さらに、著者はこう記している。

〈「資源小国」の観念に囚われていた日本の支配層にとって、資源確保は何事にもまさる優先事項と考えられていたのであり、満洲国の建設から南方への進駐、そして大東亜共栄圏の確立は、すべて資源の収奪を第一の目的にしていた。〉

 資源確保がすべて戦争遂行に向けられていたことはいうまでもない。1942年には技術院が発足するが、それはいわば「技術参謀本部」だった。科学界はむしろこうした動きを歓迎し、「自主的に学問統制・研究動員への協力」に応じた。「大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していた」と著者はいう。
 総力戦体制は、国民を「国民共同体」と一体化させるこころみでもあった。戦時中の食糧管理制度、国民健康保険改革などは、一種の社会革命であって、社会関係の平等化、近代化をもたらした。だが、こうした福祉国家政策が戦時動員体制と深く結びついていたことも事実だ。過度の社会格差は、徴兵制にとっても不都合と考えられていたからである。
 科学振興の目的は、不足資源の補填と生産力拡充にあった。だが、その陰で、労働者は酷使され、それにともない各地で労働災害が頻発していた。炭鉱災害や工場火災も増えていた。戦争がはじまり、労働力がさらに払底すると、強制連行された多くの朝鮮人や中国人が炭鉱などで働かされるようになった。「科学技術の急速な振興と、それによる急ピッチの生産拡大は、その背後でつねに弱者にたいする犠牲をもたらしてきた」と、著者は指摘している。

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山本義隆『近代日本150年』を読む(2) [本]

 明治国家は殖産興業・富国強兵をスローガンにかかげた。「軍と産業の近代化が同時並行で上から進められたことが、日本の資本主義化を特徴づけている」と、著者は書いている。
 その役割を担ったのが兵部省(のちの陸軍省・海軍省)と工部省である。軍は西南諸藩の兵器工場や造船所を接収し、官営の軍事工場とした。いっぽう、工部省は諸藩の産業設備を引き継ぐとともに、官営工場を設立した。それとともに、工業技術者を養成するために、工学寮(後の工部大学校)をつくった。
 文部省の指導により、法・理・文・医の4学部からなる東京大学が誕生したのは1877(明治10)年のことである。そして、1885(明治18)年に工部大学校が東京大学に併合され、翌年、帝国大学が生まれる(1897年に東京帝国大学と改称)。
 工部大学校と東京大学が併存していた時代は、工部大学校が技術者教育の主流だったという。だが、帝国大学が生まれ、そのなかに工科大学(現在の東大工学部の前身)ができると、その重点は技術者養成自体よりも学理研究に置かれるようになった。大学を卒業した工学士は、国家に仕えるとともに、民を見下すエリートとして振る舞った、と著者はいう。
 1886年の帝国大学誕生は日本の産業革命開始と重なる。近代的な官僚制度がつくられるようになったのはこのころだが、大学での物理学講義も外国語から日本語に変わっている。日本は古典物理学の体系が整った絶妙のタイミングで西欧科学を移植した、と著者は指摘する。だが、その目的はあくまでも実用性と国力増強に置かれていた。
 日本が西洋技術の習得と導入に成功した理由は、ひとつにタイミングのよさが挙げられる。「蒸気と電気の使用によるエネルギー革命が欧米で起こってから明治維新まで、せいぜい半世紀、追いつくことのできるぎりぎり可能な時間差であった」。しかも、日本には最新の機械技術を取り入れられるというメリットもあった。
 日本の産業化は国家権力、すなわち上からの主導によって進められた。電信の敷設は1869年にはじまり、1879年にはほぼ主要都市を結ぶネットワークが完成している。新橋−横浜間に鉄道が開通するのは1872年のことで、当時、汽車は陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれていた。鉄道(まさに鉄と石炭)は文明化と富国化のバロメーターととらえられていた。電信と鉄道はその後も配備され、郵便制度と合わせて、国内市場統一の土台となっていく。
 蒸気動力は製糸業にも導入された。1872年には官営の富岡製糸場がつくられる。その後、製糸業の機械化は全国に普及し、生糸は日本の輸出を支える主要商品になっていく。
 明治中期には製糸業と並んで紡績業も発展する。紡績業の急成長も、蒸気動力と機械化なしにはなり遂げられなかった。紡績業の代表が1882年に設立された大阪紡績である。安い中国・インド綿の使用、最新式のリング精紡機の導入、若い女工による昼夜二交代勤務がこの産業を支えていた。
 そして、日本では産業設備のメインテナンスを可能にするだけの技術力がすでに民間に備わっていた。輸入機械の部品製造や「使い勝手の良い和洋折衷の機械、あるいは比較的単純で小型化された模倣品」がつくられるようになったのは、こうした土台があったからだ。
 近代化の次のステップとなったのが電化である。電力エネルギーの特徴は汎用性にあった。電力は動力だけではなく、暖房や照明、情報通信や化学反応にも用いることができる。日本では1883年に東京電燈が設立され、1887年には神戸、大阪、京都にも電燈会社がつくられていた。この年、東京・日本橋には火力発電所が設けられ、1891年には京都に水力発電所が完成している。
 その後、京都を皮切りに名古屋、大阪、東京では、電気を使った路面電車が走るようになる。ローソクや石油に変わって、家庭に白熱電灯が普及するのは20世紀にはいってからのことだ。
 だが、産業化の背後では、すでにおびただしい犠牲や被害が生まれていた。女工と呼ばれた若年女子労働者には昼夜10時間の苛酷な労働が課されていた。明治時代の製糸業と紡績業は「ウルトラ・ブラック企業」だった、と著者はいう。機械化は労働を軽減するのではなく、かえって労働を強化する方向に作用していたのだ。
 足尾鉱毒事件もこの時代を象徴する悲惨なできごとだった。銅の需要は電力使用の拡大とともに増大していた。電気伝導度が高く、柔らかくて加工しやすい銅は、電力には欠かせない産物だった。だが、そのための犠牲は大きかった。周辺の山林は破壊され、川は汚染され、農業や漁業の被害が拡大した。
 著者はいう。

〈官民挙げての『国益』追求のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度もくり返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。〉

 日本の近代化は周辺のアジア諸国にも大きな影響をもたらした。西洋へのコンプレックスは、アジア諸国への優越感をともなっていた。
 日本は朝鮮支配をめぐって清国と争う。その結果、1894年に日清戦争が勃発した。
 日本の近代化は軍事化と並行して進んだ。電信や鉄道も軍事と密接にかかわっていた。1894年には、すでに釜山、漢城(現ソウル)、仁川などにも電報局が開設されている。京城(現ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道の建設がはじまるのは1898年のことである。以降、朝鮮での電信設置と鉄道敷設は怒濤のようにつづく。最終的な目標は中国大陸への進出だった。
 日本の重工業化が軌道に乗るのは、1904〜05年の日露戦争後である。それまでは製糸、紡績、マッチ製造、織物、たばこ、製紙などが産業の中心だった。1901年に操業を開始した八幡製鉄所は、日露戦争後、満州の鉄と石炭を得ることによって、鉄鋼自給体制を築くことに成功した。それに呼応して、造船業や機械工業も発展していく。
 日本でエネルギー革命をともなう産業革命が完成するのは、ちょうど第1次世界大戦中の1910年代半ばだった、と著者はいう。蒸気エネルギーに代わって電力エネルギーが工場制機械工業を支えるようになった。そのころ、日本各地で数多くの水力発電所がつくられている。
 京都帝大は日清戦争の賠償金でつくられ、九州帝大と東北帝大は古川鉱業の寄付によって生まれたという。
 各地の帝国大学で教えられる物理学や化学は、国家主義と実用主義に枠づけられていた。当初、日本の物理学は電気工学が中心だったが、さらに地震学や気象学、測地学、海洋学などの地球物理学にも広がっていく。これらが軍事や国防と密接に結びついていたことはいうまでもない。台湾や朝鮮、満州、中国本土での日々の気象観測は、けっして戦争とは無縁ではなかった。
 帝国大学では早くから軍と学の協力関係がはじまっていた。著者はその象徴的人物として、東大理学部物理教室の創設者とされる田中館愛橘(たなかだて・あいきつ、1856-1952)の名前を挙げている。田中館は軍と協力しながら、全国的な地磁気測定をおこない、さらに航空学の講座や研究所をつくり、科学を戦争のために利用することに努めた。
 そうした姿勢はもちろん田中館だけにかぎられていたわけではない。物理学者の長岡半太郎も軍事技術の開発を熱心に支援した。世界に先駆けて無線電信装置を戦争で利用したのは日本が最初だった。
 民間での発明も見逃せない。京都の島津源蔵(島津製作所)がつくった蓄電池は日露戦争でおおいに効果を発揮した。屋井先蔵が1887年に発明した乾電池を、陸軍は厳寒の中国大陸で電信機の電源として用いている。
 こうして、著者は科学技術が軍事と密接につながっていたことを指摘するのである。
 つづきは、また次回。

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山本義隆『近代日本150年』を読む(1) [本]

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 科学技術の面から日本の近代化をとらえなおそうとした力作といえるだろう。
 序文にはこうある。

〈明治以降の日本の近代化は、中央官庁と産業界と軍そして国策大学としての帝国大学の協働により、生産力の増強による経済成長とそのための科学技術の振興を至上の価値として進められてきた。戦後の復興もその延長線上にあった。明治の「殖産興業・富国強兵」の歩みは、「高度国防国家建設」をめざす戦時下の総力戦体制をへて、戦後の「経済成長・国際競争」へと引き継がれていったのである。〉

 近代日本の歩みは、最新の科学技術をとりいれ、ひたすら国力の増強をはかることに向けられていた、と著者は論じている。それは明治から平成の現在まで変わらなかった。
 国力とはいったい何だろう。それは軍事力であったり、経済力であったり、あるいは文化力であったりする。だが、要は外に向かって誇示する国の力だといってよい。だが、はたして、それにどれだけの意味があるのか。国力を求めるあまりに、犠牲になっているものが、実に多いのではないか。まして、それが戦争である場合は、内外にわたる犠牲はあまりにも大きい。
「大国主義ナショナリズムに突き動かされて進められてきた日本の近代化をあらためて見直すべき決定的なときがきている」と著者はいう。それは国力の思想から転換すべきだという主張だとみてもよい。
 本書の記述にしたがって、幕末からの歩みをふり返ってみることにしよう。
 まず第1章の「欧米との出会い」を読んでみる。
 江戸時代の蘭学は医学が中心で、せいぜい本草学や天文学、そのほか趣味の技術が受け入れられていたにすぎなかった。ところが、1842年に中国がアヘン戦争で敗れ、1853年と54年にペリーが来航すると、日本は列強の脅威を感じるようになる。
 1855年、幕府は洋学所(のち蕃書調所)を開設し、西洋の軍事技術を研究するようになった。長崎には海軍伝習所がつくられ、航海術の実習もはじまった。
「医師の蘭学」から「武士の洋学」への転換がなされた、と著者は書いている。この場合、洋学とは兵学、すなわち軍事技術にほかならなかった。
 欧米と日本の力の差はどこにあったのだろう。1860(万延元)年に渡米した幕府使節団の玉虫左太夫は、工場を見て回り、蒸気動力による機械の強大な生産能力に驚きを隠せなかった。このとき同行した福沢諭吉も、蒸気機関と電信機が世界を変えたという思いをいだいた。
 1871(明治4)年に明治新政府の首脳陣は2年近くにわたり、欧米諸国を視察した。いわゆる岩倉(具視)使節団である。西洋各国の制度、法律、財政、産業、軍事を調査することが大きな目的だった。その記録は久米邦武の『欧米回覧実記』に残されている。
 著者によれば、使節団は「機械化された大規模な工場によって商品が大量に生産されている欧米の工業と商業に圧倒されていた」。とりわけ、それを支える石炭と鉄こそが、国富の源泉だと感じていた。
 それまで日本では工業や商業は、ほかのアジア諸国と同様、いやしまれ、軽んじられてきたといってよい。欧米での見聞は、そうした政治意識を大きく揺り動かすものとなった。
 著者はこう書いている。

〈欧米諸国が帝国主義段階にむかいつつあるこの時代に福沢や久米たちが見たのは、科学が技術に直結し、産業の発展と軍事力の強化にとって不可欠の要素となっていることにとどまらず、国家が科学技術の振興と革新を積極的に支援していることであった。〉

 西洋コンプレックスという言い方があるが、それは単なる劣等感ではない。西洋への恐怖感でもあった。西洋的なものを取り入れていかなければ、日本は生き残っていけないという思いが、強迫観念のようになって、明治の支配層の頭に染みついていたのではないだろうか。その意味で、幕末の「尊皇攘夷」思想は、明治の「独裁欧化」思想に転化する契機をはらんでいたともいえる。
 明治になっても官の優位という考え方は根強く残っていた。欧化、すなわち「文明開化」は大衆への啓蒙(上からの意識注入)のかたちで実施される。それを象徴する著述が福沢諭吉の『文明論之概略』だったといってよい。
 福沢は東洋にないものは、数理学と独立心だと書いている。つまり科学と公民意識だと言い換えてもよいだろう。
 独裁政権のもとでは国民意識は育ちようもなかった。いっぽう数理学の中心が「窮理学」であることを福沢は認めている。窮理学とは、いまでいう物理学や化学などを中心とする自然科学のことである。福沢の『訓蒙窮理図解』は、日本で窮理学ブームを巻き起こすきっかけになった、と著者は書いている。その中心テーマは機械と蒸気、電気だった。好奇心の強い日本の民衆は、新しい西洋の科学に無関心ではいられなかった。
 ここで、著者は科学と技術が異なることに注意をうながしている。科学は世界の理解と説明をめざし、何らかの実際的応用を意図しているわけではなかった。科学が技術と本格的に結びつくようになるのは19世紀になってからだ。それによって科学自身も「自然への働きかけの指針を与えるもの」へと変わっていく。
 日本はまさに「科学技術」の生まれた時代の西洋と接触したのだ。福沢は西洋の技術の背後に「窮理学」(物理学や化学)をみた。それは裏返せば、日本では西洋の科学がもっぱら「実用の学」として受け止められたということを意味している、と著者はいう。

〈西欧の技術を科学技術と捉えた明治日本は、そのことで、科学を技術のためのもの、言うならば技術形成の妙法と矮小化することになったが、逆に技術にたいしては、過剰に合理的な、そして過度に強力有効なものとして受け止め、受け入れることになった。〉

 そこにいわば「科学技術幻想」なるものが生まれる。とはいえ、西洋でもこのころ科学は自然の秘密を解き明かすだけではなく、技術と融合して自然を征服するための研究として位置づけられるようになっていたのだ。
 近代科学にもとづく技術への過大な期待が生まれていた。福沢自身も『文明論之概略』のなかで、大洋を渡る蒸気船やアルプスのトンネル、避雷針、科学肥料、電信機などを絶賛している。こうした過大な科学技術幻想が明治維新以後150年にわたって日本を呪縛したのだ、と著者は指摘する。
 ちいさな本だが、大きな内容がつまっている。
 なかなか進まないけれど、少しずつでも読んでいくことにしよう。

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『気の向くままに』から(1) [人]

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 ジョージ・オーウェルは1943年12月から47年4月にかけて、途中1年9カ月の休載をはさみながら、ほぼ毎週、独立左派系の新聞「トリビューン」にコラム「気の向くままに」を連載していた。
 第2次世界大戦末期から戦後にかけてのことである。
 オーウェルは戦争の時代に、みずからをどう保っていたのか。そのことが気になっていた。
 本棚を整理していて、この本をみつけ、いなかと往復する新幹線のなかで読んでみた。
 ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまったのは1939年9月のことである。
 その前、1936年末にオーウェルはPOUM(マルクス主義統一労働党)市民軍の一員としてスペインに渡り、アラゴン戦線でフランコ軍と戦い、首を撃たれ、あやうく死ぬ目にあった。バルセロナでは共和国政府を牛耳るコミンテルンによるPOUM弾圧がはじまっていた。1937年6月、オーウェルは妻のアイリーンとともにバルセロナを脱出する。
 イギリスに戻ったオーウェルは、スペイン内戦でみずから体験したことをありのままにつづった。それが『カタロニア讃歌』である。初版は1500部で、700部しか売れなかった。
 オーウェルは1938年3月に吐血し、ケント州プレストンホールのサナトリウムに送られる。休養が必要だった。
 サナトリウムでは、次の小説の構想を練ったり、短いエッセイを書いたりしてすごした。
 そのころのオーウェルの考え方について、伝記作家のマイクル・シェルダンはこう書いている。

〈当時、彼の戦争観はかなり素朴なものだった──支配階級が戦争を社会変革の引き延ばし策に利用するつもりならば、そのために武器を取って戦っても意味がない。〉

 このころのオーウェルは、独立労働党(ILP)を支持し、戦争反対を唱えていたことがわかる。オーウェルは終生、社会主義者でありつづけた。支配階級と資本家は、戦争の危機をあおることで、労働者の賃上げを認めず、社会変革を引き延ばそうとしていると考えていたのだ。
 オーウェルはさらに療養をつづけるため、妻とともにモロッコのマラケシュに移った。空気が乾燥し、温暖な地を選んだのだ。住み着いたのは郊外にあるオレンジ畑の真ん中にたつ邸宅だった。ここで、オーウェルは次の小説『空気を求めて』を執筆し、さらにエッセイ「マラケシュ」を書く。
 ボロ着を身につけたマラケシュの人びとと、道を行進するフランスの植民地軍を対比的にえがくエッセイはいきなりこう結ばれる。

〈われわれはどれほど長くこれらの人々をだましつづけられるだろうか。どれほどしたら、彼らが銃口をべつの方角にむけるようになるだろうか。〉

 マラケシュで6カ月すごしたあと、オーウェル夫妻は1939年3月末にイギリスに戻った。
 6月には(さして好みではない)ゴランツ社から『空気を求めて』が出版される。初版は2000部で、すぐに再版となり、3000部ほどが売れた。この月、ロンドンの父が82歳で亡くなる。死ぬ前に不和が解消できたのが、なによりも幸いだった。
 オーウェルの自宅は、ロンドンから北に50キロほど離れたハートフォードシャーのいなかウォリントンにあった。ここで、かれはさまざまな文芸エッセイを書きはじめる。「チャールズ・ディケンズ」、「鯨の腹の中で」、「少年週刊誌」など。
 そして、9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、開戦となった。
 それから1週間もたたないうちに、オーウェルは中央登録局にすすんでみずからの名前を登録する。祖国が危機におちいれば、戦うのはとうぜんだと考えていた。
 1940年末に発表されるエッセイ「右であれ左であれわが祖国」では、その心情をこう説明している。

〈愛国心は保守主義となんら関係ない……チェンバレン首相[前内閣]下のイギリスにも明日[いまのチャーチル内閣、そしてその後]のイギリスにも忠誠をつくすのは、日常生活のひとつの確たる現象なのだ〉

 このころオーウェルは、かつてヒトラーを容認し、絶対平和主義を唱えた独立労働党(ILP)から完全に離れ、かれらを「左翼の腰抜けども」とまで呼ぶようになった。
 オーウェルは社会主義者から保守主義者に転向したのだろうか。そうではない。かれは終生、社会主義者だった。資本主義と帝国主義の国家には、ずっと抵抗しつづけた。
 だが、スペイン内戦で、オーウェルはファシズムとコミュニズムの全体主義をまのあたりにしたのだ。全体主義との戦いは、いまや最大の課題と思われた。
 こうして、かれの社会主義は、新社会主義とでもいうべきものに移行する。それは愛国心に根ざしながら、全体主義と戦い、言論の自由を守り、社会的正義と公正を求める社会主義だった。
 1940年春になると、オーウェルは戦火がイギリスにおよぶことを覚悟していた。自宅周辺の畑を耕し、大量のジャガイモを植えた。
 妻のアイリーンはいなかを離れて、ロンドンではたらくようになった。それを追いかけてオーウェルもロンドンに移り、戦争遂行に役立つ仕事を探しはじめた。身体検査にも出頭したが、軍務に不適格と判定された。
 そのため、オーウェルはしばらく雑誌に映画や演劇の批評を書く仕事を引き受けるようになった。絶賛した映画が、チャップリンの『独裁者』だ。大衆文化についてのエッセイも数多く書いた。まさに書きまくったといってよい。
 6月、ドイツ軍はフランスを占領した。軍務につけなかったオーウェルも国土防衛軍に加わる。万一、敵がロンドンに侵入した場合、市街戦を戦う市民兵組織だ。8月には大空襲(ブリッツ)がはじまる。ロンドンのイーストエンド埠頭が炎上し、グリニッジも空襲を受けた。
 大空襲はつづく。ダンケルク撤退戦で兄を失った妻のアイリーンは、このころすっかり落ちこんでいた。
 そんななか、オーウェルは猛烈な勢いでタイプを叩きつづける。書評や映画評に加えて、年末にはアメリカの独立左派の文芸誌『パーティザン・レビュー』から「ロンドン便り」執筆の依頼が届き、それを引き受ける。
 1941年2月にはエッセイ集『ライオンと一角獣』を刊行、1万2000部以上が売れるヒットとなった。オーウェルはマルクス主義に汚染されない社会主義運動、「妥協の伝統と国家の上にある法の信頼」にもとづくイギリス型社会主義を称揚した。
「トリビューン」のコラムはまだはじまらない。
『ライオンと一角獣』で名声を得たオーウェルは、BBC(英国放送協会)から声をかけられ、1941年8月から2年間インド向けのラジオ放送を担当するようになったからである。それは制約の多い、検閲を通さねばならないやっかいな仕事だった。かれなりにファシズムと戦うためにはじめた仕事だったが、枠づけられた戦時放送に縛られている自分に次第にうんざりしてきた。
 オーウェルはBBCに辞表を提出し、やっと解放される。そして、「トリビューン」のスタッフに加わって、まさにその名のとおり、「気の向くままに」(As I Please)というコラムを書くようになるのだ。まだ戦時統制がつづいていたが、これからは書きたいことを書くつもりだった。
 今回は、そのコラム集について紹介しようと思ったのだが、そのとば口でくたびれてしまった。また、気が向けばということにしよう。

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橋本健二『新・日本の階級社会』をめぐって [時事]

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 日本には新しい階級社会が生まれている。
 1980年ごろから経済格差は徐々に広がり、2012年に日本の貧困層は2050万人にも達した。その原因は非正規労働者が増えたことであり、このことが未婚率の上昇をもたらしている。人びとは大きな格差の存在をはっきりと感じている。それどころではない。

〈現代の日本社会はもはや「格差社会」などという生ぬるい言葉で形容すべきものではない。それは明らかに、「階級社会」なのである。〉

 かつては「一億総中流」という言い方があった。しかし、いまでは「中流意識」が分解し、「中の下」を真ん中にして、「中の上」と「下の上」と「下の下」が増えている。階層意識がはっきり分かれてきているのだ。
 そのいっぽうで「格差拡大肯定・容認論」と「自己責任論」が浸透している。
 著者は2012年のデータにもとづいて、日本の階級構成を次の4つに分類している(就業者人口約6252万人、うち男性3676万人、女性2676万人)。

(1)資本家階級(254万人、4.1%)
(2)新中間階級(1286万人、20.6%)
(3)労働者階級(3906万人、62.5%)
(4)旧中間階級(806万人、12.9%)

 少し説明がいる。

 資本家階級とは、従業者が5人以上の経営者、役員、自営業者。
 新中間階級とは、専門・管理・事務に従事する被雇用者。
 労働者階級とは、専門・管理・事務以外に従事する被雇用者。
 旧中間階級とは、従業者が5人未満の経営者、役員、自営業者。

 を指している。
 最大多数を占める労働者階級は、さらに次のように分類できる。

(a)正規労働者(2193万人、35.1%)
(b)パート主婦(785万人、12.6%)
(c)非正規労働者[パート主婦以外](929万人、14.9%)

 世帯別年収について、ごく大雑把にみると、資本家階級は労働者階級の2倍、新中間階級は1.5倍、旧中間階級はほぼ同じという統計がでている。
 問題は労働者階級の内訳だ。男性でも女性でも、正規と非正規のあいだでは年収で2倍近くの格差がある。世帯年収をとっても、雇用形態が正規と非正規とでは、大きなちがいがある。
 著者はパート主婦を除く非正規労働者が、従来の労働者階級とも異質なひとつの下層階級を構成しはじめていると指摘し、それを「アンダークラス」と名づけている。
 問題はアンダークラスが拡大しつづけていることだ。現時点で、就業者人口の7人に1人がアンダークラスに属している。
 就業者数でみると、アンダークラスは527万人が男性、女性が402万人と、ほかの階級より女性の比率が高い(43.3%)。
 調査によると、その主な職種は、販売店員、総務・企画事務員、料理人、給仕係、清掃員、スーパーなどのレジ係、倉庫夫・仲仕、営業・販売事務員、介護員・ヘルパー、労務作業者などとなる。
 その過半数がフルタイムではたらいており、平均個人年収は186万円。平均世帯年収では343万円とやや高めになるが、世帯の24.1%は200万円以下の所得だ。
 そのためアンダークラスでは貧困率(平均所得の半分以下の割合)が38.7%にのぼり、とくに女性では48.5%に達し、さらに夫と離死別した女性となると63.2%となっている。
 平均資産総額(不動産を含む)は1119万円だが、持ち家がない人は315万円。資産がまったくない人の比率が31.5%を占める。

〈何よりもきわだった特徴は、男性で有配偶者が少なく、女性で離死別者が多いことである。……アンダークラスの男性が結婚して家族を形成することが、いかに困難であるかがよくわかる。……未婚のままアンダークラスであり続けた女性がかなりの数いる一方、既婚女性が夫との離死別を経てアンダークラスに流入してくるようすがうかがえる。〉

 結婚できないアンダークラスが増えているのだ。
 アンダークラスの仕事は、みずから構想して能力を発揮できる種類のものではない。昇進の可能性もほとんどない。退職金もない。健康状態に不安をかかえ、鬱におちいりやすく、孤立におちいりやすい。
 さらに、著者は日本の階級構造が固定される傾向があることを指摘する。つまり父親が資本家階級なら、その子どもも資本家階級に、新中間階級なら新中間階級に、労働者階級なら労働者階級になる割合が高いということだ。ただし、旧中産階級は別で、親の農業や自営業を継ぐ子どもの割合は低くなっている。
 いっぽう、新中間階級から労働者階級に移動する割合は少し増えている。かつては大卒者の多くが新中間階級になることができたが、いまでは就職状況によって、かならずしもそうとはいえなくなった。「いい大学からいい会社へ」という進路はもはや保証されていない、と著者はいう。
 統計によれば、若者は保守化し、排外主義的な傾向を強めているようだ。貧困を自己責任とみなし、所得再分配に反対する若者も多い。また「新中間層と正規労働者は、むしろ貧困層に対して冷淡であり、アンダークラスに対して敵対的であるように思われる」。
 しかし、格差を縮小させ、より平等な社会を実現することが必要だというのが著者の立場だ。
 格差の拡大と階級の固定化が望ましい社会とはとても思えないからだ。また、自己責任論が格差を正当化するイデオロギーなのは言うまでもない。

〈「努力した人が報われる」ことが必要であることはいうまでもない。だから非正規労働者として働くアンダークラスの努力は、報われる必要がある。〉

 賃金格差を縮小し、所得の再分配をはかり、格差を生む原因を解消しなければならない。経済成長や物価上昇率2%を目標とするより、そのことがよほどだいじなのだ。政治の役割は、病んでいる社会を少しでも改善することではないのか。
 著者はこれからの社会は「非階級社会」をめざすべきだという。

〈問題は、階級間に大きな格差があること、そして階級間に障壁があって、階級所属が出身階級によって決まってしまうことである。……[もし格差解消をめざす]諸施策が実現し、これによって階級間の格差が小さなものになり、また自分の所属階級を自由に選ぶ可能性が広がれば、階級というものの意味は、いまよりずっと小さなものになるだろう。〉

 きわめてまっとうな主張である。

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ビルマのエリック・ブレア [人]

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[ビルマ時代のブレア。後列中央]
 世の中が不安になってくると、なぜかこの人のことが気になる。
 エリック・ブレア。1903年に生まれ、1950年1月に46歳で亡くなった人だ。
 その伝記を読んでみた。
 19歳のブレアがイギリス人警察官としてビルマ(現ミャンマー)に赴任したのは1922年11月のことだ。当時のビルマはイギリスの植民地で、インド帝国に属していた。
 ブレアはイギリスの名門、イートン校を卒業したのに、オックスフォード大学やケンブリッジ大学(日本なら一高から東大に行くようなもの)に進まず、植民地の警察官になった。たぶんに家庭の事情がある。
 家は裕福でなかった。高校での成績も悪く、大学の奨学金をもらえそうになかったことが、進学を断念したひとつの理由だろう。イートンでのエリート教育にもうんざりしていた。
 仕事先にビルマを選んだのは、たぶんわけがある。エリックの父は定年でイギリスに戻るまで、インドのアヘン局に務めていた。ベンガル地方で生産されるアヘンを管理するのが、その仕事だった。
 フランス人とイギリス人のあいだに生まれたエリックの母は、ロンドンで生まれ、ビルマ第3の都市、モーラミャインで育った。その実家は材木業と造船業を営んでいた。
 つまり両親はインドで出会ったのだ。
 エリックは1903年にネパールとの国境に近いインドのちいさな町モティハリで生まれた。だが、1歳になるかならないかで、母親は父親を単身インドに残したままイギリスに引き揚げてくる。
 幼年期から少年期をすごしたのはテムズ川のほとりにあるヘンリー・オン・テムズ(オクスフォードシャー)である。有名私立に入学できたのは、頭がよくて、奨学金をもらえたからだ。
 エリック・ブレアにとって、ビルマはなじみのない土地ではなかった。かれが就職するころ、父はすでに定年を迎え、イギリスに戻ってきていたが、一家にとって、ビルマを含むインド地域は、いわば第二のふるさとだったといってよい。
 植民地のイギリス人警官は、いわば行政官で、現場に出動して、犯人を逮捕するような危険な仕事に従事したわけではない。各地に分散した駐在地で、数千人にのぼる現場の巡査を指揮するのがおもな仕事である。それでも、警官になるというのは、ちょっとびっくりする。
 若いブレアにとって、遠いビルマはみずからの冒険心と好奇心を満たす絶好の場所と思えたのかもしれない。だが、じつはそこは決して安全な地ではなかった。イギリスの支配にたいする反発は強かったし、ダコイツと呼ばれるギャング団も横行していた。
 そんなことも知らないままインド帝国警察警視補見習としてビルマに着任したブレアは、まずラングーン(現ヤンゴン)から北部のマンダレーに向かい、州警察訓練学校で、ほんものの植民地警察官になるため2年間の訓練を受けることになった。
 異国情緒に満ちていたにもかかわらず、マンダレーはブレアの心を引きつけなかった。
「マンダレーはどちらかといえば不愉快な街である」と書いている。そこは5つのPからなる町、すなわち、パゴダ、パリア(不可触民)、ピッグ(ブタ)、プリースト(僧侶)、プロスティチュート(売春婦)の町だった。そして、なによりも、かれ自身、その地を支配するイギリス人であることに罪悪感と自己嫌悪を覚えるようになった。
 ブレアは丸5年、ビルマで警察官として勤務した。訓練学校を出てからは、5つの地区を転々と回った。最初の任地はラングーン(現ヤンゴン)の西130キロほどにあるイラワジ川デルタのミャウンミャだった。勤務成績は優秀だった。
 半年後、その勤務ぶりが認められ、ラングーンにほどちかいトゥワンテという分署の警察隊をまかせられる。まだ二十歳そこそこなのに、召使いにかしづかれる生活だったという。
 さらに半年後、こんどはラングーン北郊のインセインに異動となる。ここには2500人以上の囚人を収容する大きな刑務所があり、数多くの死刑が執行されていた。
 しかし、イギリス人警察官は死刑の立ち会いを求められていたわけではなかった。当時を知るあるビルマ人は、ブレアが死刑に立ち会ったのは、インセインではなく、次の勤務地下ビルマ、モールミェンの刑務所で、しかもそれを志願したのではないかと推測している。モールミェンはビルマ第3の都市で、かれはその分署で、あらゆる警察活動の責任を担っていた。
 のちにブレアは、死刑執行のディテールをエッセイにえがくことになる。
 その囚人はヒンズー教徒で、はだけた褐色の背中を見せながら、両腕をしばられたまま、ぎこちない足どりで絞首台に向かっていた。濡れた砂利のうえに残された足跡、ひょいと水たまりを避けた瞬間が、目にきざみついた。

〈その瞬間まで私は、健康かつ冷静な人間の一命を断つのがいったいどういうことなのかついぞ考えたためしがなかった……その頭脳は依然として記憶し、予知し、判断をくだしていた──水たまりについてさえ判断をくだしていたのである。死刑囚とわれわれはともども歩く一団の人間であり、おなじ世界をその目で見、耳で聞き、肌で感じ、理解していた。するとわずか2分間で、突如ガタンという音とともにわれわれのひとりが消え失せてしまうのだ──ひとつの精神が断たれ、ひとつの世界が断たれる。〉

 この描写は何度もくり返し、読まれるべきだろう。
 モールミェン管区でブレアは、もうひとつの大きな出来事を体験する。
「私は大勢の人からにくまれていた──わが人生のなかで、そのようなことがわが身に起こるほど重要人物だったのは、この時期だけである」と、皮肉っぽく書いている。
 大勢の人からにくまれていたのは、ブレアがイギリス人のエリート警察官だったからである。だが、かれもにくんでいたのだ。支配者と被支配者を、そして、自分自身も。心の奥底には、不条理な感情が渦巻いていた。
「心の片隅ではイギリスの統治を難攻不落の暴政だと思った……もうひとつの片隅ではこの世に最高の喜びがあるとすれば、仏教僧のどてっ腹に銃剣を突き刺してやることだと思った」
 そんなとき事件が発生する。
 モールミェンのチーク材置き場では、木材を運ぶのに何十頭もの象が使われていた。そのうち一頭の象が、群れを離れて、とつぜん町なかをふらふらしはじめたのだ。
 暴走して、人を傷つけたわけではない。通報を受けて、ブレアが駆けつけたときには、迷い象はのんびり水田にたたずみ、口もとに草をつめこんでいた。象使いが連れて帰れば、それで事は収まったはずである。
 しかし、そうはならなかった。ぞくぞくと集まってきた人たちは、もっと派手な始末を期待したのだ。人のいうことをきかない迷い象には、処罰が与えられなければならない。ビルマの群衆は、象が撃たれて倒れるシーンをわくわくしながら待ち望んでいた。

〈白人(サーヒア)の旦那は白人の旦那らしくふるまわなくてはならないのだ。決然とした態度を見せ、はっきりした意思のもとに物事をしかとやってのけなければならない。〉

 ブレアは「ただまぬけに見えるのをさけたいばかりに」象を撃ち殺す。これは、かれにとっても一生忘れられない思い出となった。
 最後の勤務地となったのはマンダレーの北220キロほどにある上ビルマのカターという町だった。イラワジ川上流にあるこの辺境の湿潤な地で、ブレアはデング熱にかかった。高熱がでて、首筋や肩のあたりに発疹ができ、それが直るまで数週間を要した。もうろうとした鬱状態のなかで、かれはビルマの日々をふり返り、大英帝国の実態を見直していた。
 仕事柄、ビルマでは何十人となく殺された男たちの死体を見てきた。しかし、そうした犯罪による殺人よりも、公的な処刑ほど残虐なものはないと感じていた。のちにこう書いている。

〈私はいちどだけ絞首刑に処せられる男を見たことがある。千の殺人よりずっとひどいように思われた。〉

 ブレアは長期休暇を申請し、それが認められて、本国に戻る。ビルマには帰らないと決意していた。もちろん、インド帝国警察もやめる。それでどうするのか。子どものころからあこがれていた作家になろうと思っていたのである。
 ビルマのことを書くつもりだった。だが、いきなりは無理だった。作家としてデビューするまでに、5年の歳月を要した。
 1932年に最初の作品『パリ・ロンドン放浪記』がロンドンのゴランツ社から出版されるときにペンネームが必要になった。本が刊行されるわずか7週間前、ようやく名前を決めた。それ以降、エリック・ブレアはジョージ・オーウェルと呼ばれるようになるのである。

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均衡分析への補足──マーシャル『経済学原理』を読む(16) [経済学]

 ある商品が急にはやりだして、需要が増えると、その価格が急に上昇することがある。しかも、この流行が長期間つづく場合は、規模の経済がはたらいて、収穫逓増の傾向が生じ、その価格は次第に低下していくだろう、とマーシャルは述べている。
 一般に商品価格が低落すれば、その商品にたいする需要は増大する。逆に商品の価格が上昇すれば、その商品にたいする需要は減少する。
 供給の場合は、需要の場合ほど単純ではない。短期的にみると、価格が上昇すれば、供給も増大する。長期的にみても、収穫逓増の法則にしたがう商品はいくらでも供給を増やしていくことができる。
 その結果、産業が発展し、供給が増えるにつれて、次第に価格は低下していくことになる。その動きについていけない個別企業は衰退を免れないだろう。
 とはいえ、価格の下落には限度がある。財貨の生産には装備や営業面でも多額の資本が投入されている。主要費用に加えて、そうした補足費用も回収されなければならないとすれば、価格下落にもおのずから歯止めがかかってくる。
 長いあいだ、進歩をつづけている企業というのは、意外と少ないものだ、とマーシャルは指摘している。したがって、産業の発展をみるには、代表的企業の動きをみて、経済行動のモデルを把握するほかないという。
 そこで注目すべきは、代表的企業の限界費用である。この企業においても、需要が急増した場合、それに際して産出高を増やすなら、供給価格も上昇していく。しかし、それは短期の場合である。
 それでも需要が堅調に伸びていくなら、長期的にみれば、需要に対応して商品は低い価格で供給され、しかも企業にとっては収益があがるような生産規模の拡張が工夫されるだろう。経済は「静学的均衡」にとどまることはできないのだ。
 マーシャルはさらに需要と供給の変動について、考察を進めている。
 流行の変化、新発明、人口の増減、資源・原料の枯渇、代替品の開発など、需給関係に影響をもたらす要因は多い。
 需要が増大するのは、新商品の流行や普及・代替、新市場の開発、社会の富ないし一般的購買力の増加などがみられる場合である。いっぽう、供給側もそれに対応して、商品の種類や量を増やすとともに、その価格をできるだけ安くしていくだろう。それにさいしては、輸送手段の改善や新しい供給源の開発、新しい生産工程や新しい機械の導入などがこころみられる。逆に需要や供給が減少するのは、購買力が低下したり、税負担が重くなったりする場合と考えられる。
 長期を念頭におくと、ある商品にたいする需要が増大する場合は、規模の経済がはたらいて、供給価格は低下する傾向がある。すなわち、新しい発明、新しい機械の応用、新資源の開発、物品税の廃止、補助金の給付などによって、大幅な生産増大と価格低落が生じるというのである。ここでは、いわば収穫逓増の法則がはたらいている。
 この収穫逓増型の商品に課税がなされた場合は、あるいは逆に補助金が給付された場合は、どのような現象が生じるか。
 マーシャルはこう書いている。

〈課税は需要を減少させ産出高を削減させる。おそらくは製造経費をいくらか増大させ、課税額よりも大幅に価格を上昇させ、結局財政当局の収得する総収入額よりはるかに大きな額だけ消費者余剰を削減させる。その反面、このような商品にたいする補助金の給付は、政府が生産者に支払う総給付額を上回って消費者余剰を拡大させるほど大幅に、消費者価格を低落させる。〉

 マーシャルは消費税や補助金などの財政政策に、政府がよほど慎重でなければならない、と主張しているわけだ。
 需給均衡点は需要側にとっても供給側にとっても、ほぼ最大満足点だとマーシャルはいう。その均衡点においては、当事者のいずれも失う効用よりも受け取る効用のほうが大きくなる。つまり、需給均衡点では、売り手も買い手もおたがいに損をせず、満足を得るのだ。それをはずれていくと、売り手側、買い手側のどちらかが損失をこうむる。したがって、そうした状況は永続せず、ふたたび均衡点への回帰が模索されることになる。
 ただし、この学説は普遍的に妥当するわけではない、とマーシャルはいう。富の分配が不平等であれば、満足度にたいする評価もことなってくるからである。さらに、収穫逓増型の商品の場合は、技術改良による価格の低落が、消費者を利するだけではなく生産者を利することが多い。
 最後にマーシャルは独占について、ふれている。簡単に紹介しておこう。
 ここでいう独占とは「ある個人ないしは数人の連合組織が、売りにだされる商品の分量またはそれらが供給される価格を決定する力をもっている」場合をさしている。独占企業は需要にたいして供給を調節して、最大可能な純収入を確保しようとするだろう。
「独占体のもとで生産される分量は独占がなかった場合に比べるといつも少なく、またその消費者価格はいつも高いように思われるが、じつはそうではない」。 というのも、独占企業のもとでは、競争が激しい場合より、かえって経費が節約できる場合があるからである。店舗数や広告宣伝費も少なくてすむかもしれない。生産規模の大きさにともなうメリットもある。生産方法の改良や機械の導入もよりスムーズにおこなわれるだろう。
 競争を排除することが、公衆により利益をもたらすこともあるのだ、とマーシャルはいう。独占企業が将来の事業の発展を期待して、価格を引き下げることもおこりうる。その場合、会社はべつに人道的動機で動いているわけではないが、「純収入を一時的には多少犠牲にしても消費者余剰を増大したほうがかえって長期的には利益になる」と考えているのだ。
 理想的には、独占企業が商品を販売することで、独占収入を得るだけではなく、同等の消費者余剰をもたらし、双方の純利便が大きくなることが望ましい。いや、むしろ、独占企業が最大可能な独占収入を獲得することだけをめざすのではなく、できるだけ消費者の利益を高めることが望ましいと考えて、商品の価格を低く抑え、販売量を増やしたほうが、社会にとってはメリットが大きいといえる。しかし、実際には、それはなかなかおこりえないことである。
 マーシャルはビジネス活動をふり返りながら、「種々な行動経路について生産者の利害だけでなく消費者の利害にたいしてもある秤量値を与えようとするものは多くはいない」と指摘する。消費者の利害や需要に関する公共的な統計もまだ整備されていない。そのため企業家は経験と勘に頼って、経営判断を下し、おうおうにして失敗する。
 消費に関する研究はまだじゅうぶんに進んでいない。統計もまだそろっていない。需要や消費者余剰に関する研究は将来の課題として残されている、とマーシャルは述べている。公共事業や企業活動のよしあしは、政府や企業のメリット、デメリットだけではなく、消費者のメリット、デメリットをみて、はじめて判断されるのだ、というのが、かれの考え方といってよいだろう。
 マーシャルは独占企業がすぐれているといっているわけではない。しかし、独占企業を否定して、競争が正しいとも主張していない(マーシャルの独占体論は公営企業にも適用できるものだ)。
 独占企業が高価格を維持し、消費者に不利益をもたらすケースも紹介している。そのいっぽうで、公共の利益のために、補完的な独占体は合併するほうが望ましいとも述べている。
 また現実の世界では、純粋で永続的な独占企業などどこにもないと認めている。それどころか、「現代の世界では、既存のものが消費者の利益を増すように開発されていないとすると、これに代わって新しい商品、新しい方法が台頭し、これらに代替していこうとする傾向がいよいよ強くなってきている」とも指摘している。
 独占企業も永遠ではありえない。産業の合理化をめざした企業間の合併も、それがはたして公共の利益につながるかどうかという面から判断・評価されなければならない、とマーシャルは論じている。
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地代と地価──マーシャル『経済学原理』を読む(15) [経済学]

 近代商品世界の特徴は、市場を通じて商品が貨幣によって売買されることである。市場の場所はかならずしも固定されているわけではない。商品のあるところ、商品の流れにおうじて現れ、消えていくものだ。いってみれば、商品のある場所が市場だといってもよい。
 とりわけ重要な現象は、商品世界においては、人間の能力(知力、労働力、サービス活動)と土地が商品の構造に組みこまれ(商品化され)、ランク分けされ、価値づけられていくことだといってよいだろう。人間能力も土地(自然)もほんらい商品たりえない存在である。商品化は、かならずしも搾取を意味するわけではないにせよ、商品世界においては、人間能力も土地(資源を含む)も、商品をつくる商品として機能するようになる。それを人材や労働力、農地や不動産、資源として評価し、商品の構造のなかに組みこんでいくことによって、商品世界は成り立っている。
 それはさておき、今回とりあげるのは、土地の問題である。土地からは地代が発生し、商品としての土地の価値は、地価によって表される。
 マーシャルはいちおう農村と都市を分けて考察しているが、かれが言いたいのは、リカード流の農地における差額地代論が、都市の地価にもそのまま延長して適用できるということである。
 農村においては、土地でつくられる農産物が売買されることによって、生産者の利潤と地主の取り分である地代が発生する。地主と生産者は同じ場合もあるが、20世紀初頭までイギリスではまだ大地主貴族やジェントリーの力が強く、大地主と借地農、農業労働者は分かれていたとみてよいだろう。
 最初に、農産物価格は一般の商品と同じく需要と供給の関係によって決まってくる、とマーシャルは述べている。需要を規制するのは、消費者人口と、人びとの欲求の度合い、そして支払い能力である。いっぽう供給を規制するのは、利用可能な土地の広さと肥沃度、耕作者の数と資力、生産費用である。もちろん、天候や災害は農産物の収穫に大きな影響をもたらす。
 ここでマーシャルは、何らかの事情(たとえば戦争)で、農産物の増産が必要になった場合を想定する。そのときはさらに化学肥料を投入したり、砕土機を導入したり、耕作者を増やしたりして、資本と労働が追加投入され、それによって収穫量の増加がこころみられるだろう。
 追加所得が得られるかぎり、投資は引きつづきなされるし、追加所得が得られなくなれば、投資はストップする。収穫逓減の法則がはたらくと考えてよい。したがって、農産物の供給価格は、限界生産経費(費用)によって規制されるということができる。追加費用によって生みだされる純所得は、じゅうぶんな正常利潤をもたらすものでなければならない。その正常利潤が得られなくなれば、追加投資はなされない。その正常利潤を、マーシャルは「準地代」と名づけている。
「資本および労働の収益性をともなう投入の限界における生産費こそ、需要と供給の全般的な状態の規制のもとで、全生産物の価格がそれに向かってひきよせられていくところのものにほかならない」と、マーシャルはいう。だが、もちろん、限界生産費だけが価格を決定するわけではない。需要側の要因もあるからである。
 耕作の限界は、農作物にたいする需要と供給によって規制される。地代が生じるのは、土地の肥沃度や土地の条件、生産物の価格に応じてである。言い換えれば、地代が生じるのは、土地の状況のちがいによるといっていいだろう。しかし、農産物価格を決めるのは地代ではなく、地代はあくまでも結果として(いわば差額地代として)もたらされるとみるのが正当だ。にもかかわらず、地代は当初から設定されていることが多い。
 自由市場においては、土地から得られる収入は地代の性格をもっている。無限に利用できる土地があり、しかも肥沃度もその他の条件も変わりがないのであれば、地代は発生しない。だが、土地が稀少になってくる時点がかならずあらわれてくる。いい土地と悪い土地(あるいは開拓地と未開拓地)の区別もかならず出てくる。そこから地代が発生する。
「土地は個別の生産者の視角からみれば、資本のひとつの特殊な形態にほかならない」と、マーシャルは書いている。生産者にとっては、そこからどれだけの生産物が生みだされるかが問題なのだ。その点は、農業者も製造業者、流通業者もなんら変わりはない。
 土地はたとえ改良が可能だとしても、その面積にはかぎりがあり、いわば「永続的で固定的なストック」である。そこからは、豊かな土地と貧しい土地、市場に近い土地と市場から遠い土地の区別が生じてくる。
 いま農産物に課税がなされると仮定しよう。その影響は消費者にとどまらず、生産者にもおよぶ。しかし、課税による影響は、市場に遠い貧しい土地と、市場に近い豊かな土地とではことなってくる。その打撃は遠方で貧しい土地の生産者のほうが大きい、とマーシャルは論じている。
 土地の所有者が地主であれば、農産物にたいする課税の影響は地代にもおよんでくる。地代そのものへの課税は、農産物価格に影響をおよぼさないが、地代に重い税が課されることになれば、土地所有者は土地改良への意欲を失っていくだろう、とマーシャルは弁ずる。
 次にマーシャルは同じ畑にホップとカラスムギが植えられている場合を想定して、ホップに課税がなされる場合、どのような事態が生じるかを推察している。農業者は税負担を軽減するために、おそらくホップの作付けを減らして、カラスムギを多く栽培しようとするだろう。しかし、ホップへの課税にともなってホップの収穫が減り、それにたいしてビール需要がさほど減らないとすれば、ホップの価格自体が上昇していくことになる。そうなると、ホップの減産に歯止めがかかり、作付面積は回復していくはずだ。
 人が常に必要とする農産物にしても、需給の変化によって、商品の動きは絶え間なく変わっていく。新しい作物が登場して、作物への需要が変化すれば、作付面積にも影響があらわれ、それにより作物の供給が調整されていく。そのプロセスをマーシャルはことこまかに説明している。
 地代は農地においてのみ発生するわけではない。
 農地では、資本と労働の追加投入にたいし、徐々に収穫が増えていかなくなるという「収穫逓減の法則」がはたらく。にもかかわらず、「耕作者は生産物を販売するよい市場と必需品を購入するよい市場とをもつことによって、いっそう高く売りいっそう安く買うことができ、社会生活の便益とたのしみにいっそうめぐまれるようになる」。それは「外部経済」(この場合は都市に近いという)がはたらくためだ、とマーシャルはいう。
「外部経済」は場所の有利性でもある。そこから場所価値が発生し、地価が生まれる。地価とは「建築用地の敷地価額」のことである。マーシャル流のもったいぶった言い方をするなら、「ある建築用地の敷地価額の集計額は、建造物をとりのぞいてその用地を自由市場で売れば取得しえたであろう地価を示すものにほかならない」ということになる。
 地価の大半は「公共的価値」によってはかられる。公共的価値といっても、役所が地価を決めるというわけではない。ほとんどだれもがここは高いと思う地所が高くなり、ここは安いと思う地所が安くなるといった意味合いである。
 ここでマーシャルは、企業が地方で新都市を開発するケースを持ちだしている。企業はその場所がいずれ高い場所価値をもつと見越して投資をおこなう。そこには工場なり商店なり住宅なりが立つことが見込まれており、企業は危険をともなう投資にみあう純収益を期待している。その純収益は土地から得られる所得といってよいだろう。
 だが、新都市の開発でなくても、何らかの事業投資が、既存の土地価格を上昇させることもある、とマーシャルはいう。たとえば、近くに新たな鉄道駅がつくられるとか、排水設備が改良されるとかいったことが、地価を上昇させるのだ。発展しつつある都市の近郊に広がる土地が、整備された住宅地として開発される場合も、その場所が公共的価値をもつようになると、地価が上昇して、元の地主と開発者には大きな報酬がもたらされることになる。
 住宅の賃貸費には、住宅建設費と地代が含まれている。住宅と土地の所有者は、そこに投資された費用を何十年かかけて回収し、収益を得ることになる。
 建築業の場合も農業と同じように、これ以上、資本と労働を追加投入しても収益が減少するという限界面が存在する。しかし、敷地が稀少価値をもっている場合は、敷地の拡張に追加用地費をかけるよりも、その場所での建築投資を増やしたほうがよいこともある、とマーシャルは述べている。
 ここでマーシャルが想定しているのは、稀少な土地にいわば高層マンションを建てようという場合である。用地費は節約できるだろう。しかし、高層マンションへの投資限界を定めるものは「需要供給の価値を規制する力のはたらき」にほかならない。はたして、建設コストに見合う需要があるかどうかが問題になってくる。
 ホテルや工場を建てる場合は、「地価が安ければ多くの土地を使うが、地価が高ければ土地は少なくし高層の建物をたてようとする」。そこでは、土地と建築にかける費用の組み合わせが選択されることになる。
 市街地の店舗やマンションにたいする需要が増大していくなら、地価が上昇しても、それはじゅうぶん見合うようになる。逆に、その場所に工場を構えていた製造業者が、地代の上昇で生産経費の負担が大きくなれば、それに耐えかねて、工場をいなかに移転するケースも発生するかもしれない。
 土地にたいする産業用の需要は、農業の場合と変わらない。地代が高くなって生産経費が上がり、需要に応じた価格では生産経費が回収できなくなれば、企業も農業者も、価格が高くても売れる新しい製品を開発するか、別の場所に移転するほかない。
 いずれの場合も、土地需要が上昇することで、収益を実現できる限界が移動することになる。この限界費用が地価の上昇を左右する要因になっていく、とマーシャルは考えている。
 市街地の便利な場所にあり、高い賃借料を払わなければならない店舗では、せまいスペースでも少ない売上高で高い収益率が得られるような高額商品が並べられる。これにたいし、多少不便な場所にあっても、安い賃借料で広いスペースが確保できる店では、低い価格で収益率が低くても数多く売れるような商品が並べられるだろう。いずれにせよ、商品とその価格にくらべて、より多くの顧客をつかむことができなければ、商店は生き残ることができない。そして、地価が上昇していくと、店舗用地が不足し、一般に店舗ではより高い価格の商品が扱われていくようになる、とマーシャルはいう。
 こんなふうに、マーシャルは農業や産業、商業と地代、地価の関係をことこまかに論じている。だが、これで地価の経済学が論じ尽くされたとは、だれも思わないだろう。とくに土地バブルとその崩壊をまのあたりにしたわれわれからすれば、地価の経済学はさらに掘り下げられるべきテーマなのである。

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ひとつのアンチテーゼ──西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む [人]

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 西部邁は思想の人である。
 2018年1月21日日曜日、多摩川に入水し、自死した。享年78歳。
 かれの思想的自伝ともいえる『ファシスタたらんとした者』を読んでみた。
 英語のサブタイトルがついている。そこにはCeaseless but unsuccessful life of a would-be fascista と記されている。ファシスタ(英語流にいえばファシスト)になろうとして、日々努力しつつも失敗に終わった人生、ということになろうか。
 いまどき、みずからファシスタ(ファシスト)などと名乗れば、世間から白い眼でみられることはわかりきっている。テレビに出演し、さまざまな雑誌に寄稿して、それなりに人気者だったにもかかわらず、この人は孤立無援という立場に自分を追いこむ癖があった。それが思想を担う者の宿命なのかもしれない。
 最大限、好意的に解釈すれば、ファシスタとは思想の力で人を動かし、人と結束して、世界の(国家ならびに社会の)秩序を立て直そうとする者を指している。ファシストといわず、ファシスタと名乗ったのは、みずからをムッソリーニやヒトラーの同類とみなされたくなかったからである。しかし、かれが左翼や近代主義者と対峙する立場を貫こうとしていたことはまちがいない。
 かれは日夜、世界の秩序を立て直すべく日々奮闘努力した。だが、世に受け入れられず、失意のまま人生を終えようとしていた。これ以上老いさらばえ、周囲に迷惑をかけるのは忍びがたい。そのため、自死の道を選ぶというのが、かれの心境だったのだろう。
 とはいえ、ファシスタというのは、あくまでも反語ではなかったのか。かれは発言者であり、表現者であったが、組織者ではなかった。結社や党や軍事組織をつくろうとしたわけではない。人間性や思想にたいし、行動と統制を優先するほんもののファシスタは、もっと残忍な存在である。
 とすれば、ファシスタという自己規定は、さほど意味をなさない。それは国家社会にたいしてという以上に、みずからに突きつけた刃でもあった。
 その人生をたどってみる。

   1 60年安保まで

 西部邁は1939(昭和14)年3月に、北海道の長万部町で生まれた。4歳のときに厚別村(現在は札幌市)に移った。父は長沼町にある浄土真宗末寺の末男として生まれ、産業組合(いまでいう農協)に務めていた。その父が召集されなかったのは、おそらく戦時下の物資供給に必要な人員とみなされていたためだろうという。
 厚別で覚えているのは、5月末か6月はじめに、あらゆる花が一斉に咲き誇っている風景だ。厚別は、西は大都会の札幌、東は野幌(のっぽろ)原生林の境に位置する。かれによれば、その住民は内地からの「移民」もしくは「棄民」のなれの果てで、つまらぬ村だった。
 1人の兄、4人の妹がいた。母の実家は長沼村の農家で、戦時中も戦後もいろいろと援助してくれた。そのおかげで深刻な餓えを知らずに育った。
 小学校前の思い出は、箱からマッチを取りだして、こすったところ、火が障子に燃え移ったことだ。それを見つけた祖母が何とか消し止めた。「この子はオトロシヤ」といわれたことを覚えている。
 1945(昭和20)年、厚別村の小学校にはいった。そのころから記憶は鮮明だ。8月15日、敗北の日がやってくる。「アメリカは吾に仇なすものなり」という感覚が芽生えたという。
 8月末か9月初めに、米軍があらわれた。少年はえらそうな様子をした米軍に敵意を燃やした。兄とともに抗議の投石を実行したという。
 2年生のとき、女の先生から「これからは民主主義」といわれて、反発を覚える。そのころから吃音がはじまる。
 元気な少年で、成績は抜群だった。しかし、戦後なるものに偽善めいたものを感じていた。それが、かれに鬱勃たる気分をもたらす。
 小学4年のころには、長靴を加工して雪の道路を走る「雪スケート」がはやっていて、熱中するが、あるとき足をひねって捻挫をおこしてしまう。それを下手に暖めたものだから、ばい菌がはいって、足首が膨れあがり、札幌の病院に入院するはめになった。
 そのころ父が左遷されて帯広に転勤となり、一家ともども帯広に向かった。小学校ではマーケットの少年やアイヌの少女とも出会った。
 成績はクラスで一番だったが、孤独感のようなものが貼りついていた。吃音を知られるのがいやなために、ほとんど失語症者のように暮らしていた。
 父はさらに根室転勤を命じられたため、職場をやめて、肥料販売会社をおこし、一家は厚別に戻った。リンチも経験するが、それをはねのける。小学校の卒業式では、卒業生総代として答辞を読まされることになった。吃音者にとっては恐怖だったが、どういうわけかすらすらと読むことができた。
 春からは札幌の中学に通うことになった。父の会社はうまくいかず、一家は貧乏生活を強いられた。10円のパン代にも事欠き、冬場もコートなしで通学しなければならなかった。
 カネがないので、なにも買えなかった。だが、幸いにもまわりの少年たちが映画代やおやつをおごってくれるのだった。こうして、かれは成績優秀だが、映画好きのいささか不良少年に育っていく。本の万引きをしたことも認めている。
 札幌南高校にはいると、1年生のときに3年分の教科書や参考書を一気に読んでしまった。それを読めば、少しは人生の見通しが開けるかと思ったからだ。2年のはじめに大学入試の模擬試験を受けてみたら、ほとんどの科目でトップに近い成績だった。
 だが、一人の女生徒と出会って、急に勉学意欲を失う。10年後にかれの妻となる人だ。事件がおこる。妹を自転車に乗せていて、けがをさせてしまったのだ。あわや死ぬかというほどの大事故だった。それから1年4カ月、かれは痴呆のようにすごした。
 高校時代の唯一の友人は、「半チョッパリ」(両親のどちらかが朝鮮人)の同級生で、朝鮮人の父はソ連軍によって銃殺されたのだという。その友人は高校を退学して土方になり、そして暴力団員に墜ちていった。
 文学書を読みふけったのもこのころだ。「少年は、世界文学なるものから『人間の不幸』の数々にかんする知識を入手し、それらの不幸の記憶だけを糧にして、いわば蛹(さなぎ)と化した」と、本人が書いている。
 一浪して東大にはいった。浪人中、ズック靴で十勝岳に登り、生爪をはがしたこともある。年末、北大にはいっていた兄の知り合い、唐牛健太郎と出会った。
 東大を受験したときは、ドストエフスキーの『罪と罰』を一睡もせずに読みふけり、かえって頭がさえて、試験に落ちる気がしなかったという。
 東大にはいるとなぜか虚しい気分に襲われた。そこで5月の終わり、自治会室を訪れ、「あの、学生運動というものをやってみたいのですが」と申し出た。
 樺美智子が先輩のお姉さんという風情だった。先輩の坂野潤治(のちの歴史学者)に共産党にはいらないかと誘われた。すぐに「はいります」と返事をしたら、かえってしかられたという。
 駒場細胞会議にもでるようになる。日教組の勤務評定反対闘争を支援するため和歌山にも行った。被差別部落の集会所にも出かけた。
 その年の暮れ、左派の学生組織が共産党から除名されて、「共産主義者同盟」が結成される。いわゆるブントである。かれはそれにもあっさり加入した。
 平和と民主にたいし、革命と自由がブントのめざす方向だった。だが、革命と自由がどんなものか、いささかの見当もついていなかった。
 1959(昭和34)年10月、日比谷野外音楽堂で開かれた安保改定反対の集会では、突然、演説するよう求められた。膝ががくがくしたが、いつもの吃音ではなく、ことばがあふれるように流れでた。以来、安保闘争が終結するまでの8カ月、かれは名アジテーターとして知られるようになる。じっさいは「敗北への予感」と「自滅への願望」がみずからを揺り動かしていたと書いている。
 11月、東大の駒場自治会選挙で、いたしかたなく委員長に立候補し、当選する。ほかの候補者が立候補資格を失っていたためだが、票のねつ造と入れ替えで当選したことを認めている。
 60年の1・16では岸渡米を阻止しようとして、羽田空港で、ブント幹部連とともに逮捕され、起訴される。4・26の国会デモに向けて、駒場ではストが成立した(だが、これも票数を数えた振りをしただけのでっち上げだったと認めている)。6・15、ブントは国会突入を呼号していた。正面からではなく、南通用門からの突入となったが、そのとき樺美智子が死亡した。
 7月3日の全学連大会で逮捕される。6・3事件でも6・15事件でもかれは起訴され、けっきょく3つの裁判で被告人となった。東京拘置所では向かいが帝銀事件の平沢貞道、右隣が雅樹ちゃん誘拐殺人事件の本山茂久だった。
 拘置所を出る11月末までの4カ月半、かれは沈思黙考するほかなかった。差し入れられた『資本論』を読むが、つくり話だとしか感じなかった。「自分は予定通りに一介の襤褸(らんる)と化し独りになって裏町に姿を隠そう」と思っていたという。

   2 革命思想から保守思想へ

 60年安保闘争の終わったあと、ブント書記長の島成郎は、3000人の職業革命家からなる秘密組織をつくろうと叫んでいた。しかし、そんなものは絵空事だと思っていた。政治の季節は終わったのだ。拘置所からでてくると、すでにかつての同志はちりぢりになり、おのれの保身に走りはじめていた。
 家からは勘当を言い渡されていた。それでもいったん北海道に帰り、家に泊めてもらい、つきあっていた彼女にも別れをつげた。
 ブントは事実上、解散となる。青木昌彦(のちの経済学者)は組織を離れ、清水丈夫と(京大の)北小路敏、(北大の)唐牛健太郎は革共同(革命的共産主義者同盟)に合流することになった。かれは「戦線逃亡する」とつげて、ひとりになった。

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