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経済自由──マーシャル『経済学原理』を読む(2) [経済学]

 前回から間があいてしまった。
 前回は『経済学原理』を読むにあたっての心構えみたいなものを記してみたのだが、きょうからはいよいよ本文を読むことにする。
 といっても、マーシャルは悠々と論を進めており、本論にはいる前に、まず「予備的な考察」が長々とつづく。こちらは暇人なのだから、あせらずにのんびり読むことにしよう。
「序論」において、マーシャルは「経済学は一面においては富の研究であるが、他の、より重要な側面においては人間の研究の一部なのである」と書いている。
 経済が人の日常生活に与える影響はきわめて大きい。人は経済活動をいとなむなかで、みずからの性格や思考、感情を形成していく。
 所得に大小があるのはやむを得ない。しかし、極度の貧困は「肉体的・知能的および道徳的な不健全さ」をもたらす、とマーシャルはいう。

〈過重に働かされ、教育は十分にうけられず、疲れはてて心労にさいなまれ、安静も閑暇もないために、[人が]その性能を十分に活用する機会をもちえないというようなことは、甘受してよいものではない。〉

 貧困の研究は、経済学の大きな課題だ。
 貧困はなくしていかなければならない。「すべての人々が、貧困の苦痛と過度に単調な労苦のもたらす沈滞的な気分から解放されて、文化的な生活を送る十分な機会」を与えられなければならない。
 そのための条件をさぐることが経済学の目標のひとつだ、とマーシャルは書く。
 歴史的にみれば、現代の産業生活、生産、分配、消費の方法は、わりあい新しいものだ。その特徴はひと言では言い表せない。
 独立独歩と競争というのも、そのひとつの側面にすぎない。なぜなら、共同と結合もまた、産業生活の特徴だからである。さらに「利己心ではなく、慎重さ」こそ、現代の特徴になっている、とマーシャルはいう。
 共同体のきずなは弱まったかもしれないが、家族のきずなは強まり、またよその人びとにたいする差別は減り、同情が増してきたのも、現代の特徴である。人間が以前にくらべて無情冷酷になってきたという証拠は見当たらない。
 また、現代の商取引についても、以前よりもはるかに「信頼にこたえようとする習慣と不正を退けようとする力」が強まった、とマーシャルは書いている。
 貨幣の力が強くなる以前の古代のほうが、人は安楽に暮らしていたという作り話をマーシャルは信じない。人びとの生活状態は、現代のほうがよほどすぐれている。
 競争を非難する人は多いが、競争があるからこそ、社会の活力と自発性が維持されている面もある。競争を規制すれば、一団の特権的な生産者が形成され、「有能なものがみずから新しい境遇を切り開いていこうとする自由を奪ってしまう」恐れがある。
 協同社会の推奨者は、理想社会のもとでは、人びとが私有財産を放棄し、だれもが一般の福祉のために全力を尽くしてはたらくだろうと主張する。だが、宗教的熱意にかられた小集団を除いて、普通の人間が純粋に愛他的行動をとりつづけるのは、ほぼ不可能だ、とマーシャルは断言する。
 そのうえで、現代の産業的生活を言いあらわすには、競争という表現がいやなら、「経済自由」という言い方をしたほうがいいかもしれない、とマーシャルは提言する。
 この経済自由が確立されるまでには、長い歴史を要した。しかも、18世紀末に、産業と企業の自由が解き放たれた当初は、多くの弊害をともない、その改革は冷酷で、荒々しいものとなった。しかし、それはほんらいの経済自由の姿ではない。
 経済自由は、「知性と決断力にとんだ精神が……忍耐強い勤労精神と結合」することによって花開く。そして「全国民が経済自由の教説をうけいれるようになってはじめて新しい経済時代の夜明けが訪れた」のだ、とマーシャルは論じている。
 経済自由は身分制社会にたいする産業社会の思想を意味するが、自由という概念はなかなかむずかしい。しかし、いまそれについて拘泥するのは、やめておこう。
 いずれにせよ、ここで、マーシャルは社会主義ではなく自由主義の立場をとることを表明している。そして、その自由主義社会のもとでは、企業と家計が経済自由をもって、独立独歩のなか、競争しあいながらも、たがいに信頼する関係が築かれることが想定されている。

野口悠紀雄『日本経済入門』をめぐって(3) [時事]

 これまでみてきたように、日本経済はさまざまな問題をかかえている。なかでも深刻なのが高齢化問題と財政問題だ。
 きょうは、そのあたりを実際の数字でみていくことにする。
(8)高齢化問題
 高齢化にともない、医療介護制度が大きな問題になってきた。
 日本の健康保険制度は、社会保険(職域保険)と国民保険(地域保健)、後期高齢者医療制度の3本立てから成り立っている。
 2012年の日本の医療費の総額は40.8兆円。その負担割合は公費(国と地方)が15.9兆円、保険料が19.9兆円、患者の自己負担が4.8兆円となっている。
 GDPにたいする医療費の割合は2012年度で8.33%。その割合は1988年度の2倍になっている。高齢化にともなって、医療費が増加している。
 これに2012年の介護費8.9兆円を加えると、医療費・介護費は、すでにGDPの10%を超えている。
 著者は高齢者の自己負担率が低すぎることを指摘する。20歳から60歳までは医療費にくらべ、保険料と自己負担額のほうが多い。これにたいし、60歳を越えるとその関係が逆転し、年齢を重ねるとともに、保険料と自己負担額にたいし、医療費が圧倒的に多くなっていく。
 いま1人あたり年間医療費は、70歳を越えると60万円を超え、90歳を越えると100万円を超えるとされている。これにたいし、高齢者の保険料と自己負担額は低すぎる、と著者はいう。
 さらに65歳以上では5人に1人が要支援・要介護になっている。その保険給付額は2014年度で8.9兆円。そのうち半分が被保険者の保険料、残りの半分が公費で支払われている。その総額は今後、増大するとみられている。
 医療費と介護費のGDP比率は2025年度には13%近くになると予測されている。
 われわれ高齢者にとっては、つらい数字だ。
 これに加えて深刻なのが、年金問題だ。
 詳しい説明ははぶくが、著者はこのまま行けば、政府の説明とは異なり、2030年ごろに日本の年金制度は破綻すると断言する。
 これを避けるには、ふたつの方式が考えられるという。
 ひとつはマクロ経済スライドを強行し、経済指標にかかわらず毎年給付を0.9%減らしていくこと。それによって26年間で、年金の実質給付額を20%カットすることができる。
 もうひとつは年金支給開始年齢を徐々に70歳に引き上げること。こうした改革ができなければ、よほどの経済成長が見込めないかぎり、おそらく日本の年金制度は破綻するという厳しい見方を著者は示している。
 これも、われわれ高齢者にとってはつらい話だ。
 日本の財政も深刻な状況に置かれている。
 2016年の国の一般会計予算は、96.7兆円。そのうち33.1%が社会保障費にあてられている。社会保障費は1990年にくらべて、約3倍の32兆円となっている。
 1990年ごろから、税収は増えていない。予算のうち約3分の1を公債に依存するかたちとなっている。
 日本の財政は「債務残高がGDPの2倍を超えるなど、主要先進国と比較して最悪の状況」にある。
 消費税の引き上げがたびたび延期されるなか、財政の健全化は進んでいない。
 国債発行額や残高が多すぎると経済活動に支障をきたす。公債残高のレベルを適正に維持するためには、EU加盟基準でいえば(公債はGDPの60%に抑える)、消費税を27%に上げなくてはならない、と著者は指摘する。これは実際には不可能なことだ。
 とはいえ、いずれにせよ消費税の引き上げは必至だ。そのさい、著者は日本でもインボイス方式を導入して、合理的な税負担をはかるべきだと述べている。
 また、現在は日銀による国債大量買い入れにより、金利が低く抑えられているが、もし金利が上昇してくると、国債の利払い費が増大するという問題が生じる。最悪の場合は、国債をなかったものにするという事態も生じかねない。
 現在、日銀は異次元金融緩和によって、大量に国債を買い入れている。こうした状況をいつまでもつづけているわけにはいかない。「日本はいま、財政法第5条の脱法行為によって、財政ファイナンスに進みつつある」
 現在、問題は隠されているだけで、「この道が行き着く先がインフレであること」はまちがいない、と著者はいう。

〈本当に必要なのは、社会保障制度の見直しによって歳出の増加をコントロールすること、他方で生産性の高い産業を作って経済力を高め、それによって税収を上げることです。日本が抱えている問題を解決する手段は、この2つしかありません。〉

 ついでながら、著者は、法人税を引き下げたところで、国際競争力を高めることにはならないと指摘する。それは配当や内部留保を増やすだけで、賃金の上昇や投資に結びつかない。むしろ企業の社会保障費負担を軽減する方向をさぐるほうがいい、と著者はいう。
 こうして数字を並べていくと、日本経済の将来は暗いと思わざるをえない。唯一、展望が開けるとすれば、技術水準を上げることだという。
「企業のビジネスモデルを転換し、新興国とは直接に競合しない分野に進出することが必要」だという。
 そのためには製造業は、製品の企画や販売に集中し、生産は新興国でおこなうようなシステムをつくらなければならない。
 金融緩和によって、円安を誘導し、それによって景気を回復する方式は、弥縫策でしかない。
「生産性の高い新しい産業が登場するのでない限り、どんな施策をとっても、持続的な成長に結び付くことはない」からだ。
 技術開発面で、1989年に世界1位の座にあった日本は、いまや大きく後退している。IT革命の変化に日本はついていけなかった、と著者はいう。
 情報技術をもとにした新たなビジネスモデルを開発しなければならなかったのに、日本ではこの20年こうした企業が登場しなかった。日本では頭文字をとってGAFAと総称される、グーグルも、アップルも、フェイスブックも、アマゾンも生まれなかった。そのことが、日本経済停滞を象徴している、と著者はいう。
 さらに日本でユニコーン企業と呼ばれる次世代のIT企業が登場しないのは、規制緩和がなされていないためだ(規制緩和は加計学園などのためではない)。最後に、経済再活性化の原動力は、地方の創意工夫にある、と述べて、本書を終えている。
 技術開発による新産業といっても、現実はなかなかむずかしそうだ。それでも、政府発表をうのみにせず、日本経済の実情をしっかりと認識したうえで、どうにか先に進むほかあるまい。

野口悠紀雄『日本経済入門』をめぐって(2) [時事]

 前回に引きつづき、日本経済の実態を数字で追っていくことにする。
(4)所得分配
 労働者の所得は賃金、資本家の所得は利子所得、配当所得、それに所有資産の価値増加分からなる。
 資本所得の営業余剰と雇用者所得の割合は、1955年に40%と40%だったものが、1995年には20%、55%となり、2000年以降はほぼ20%、50%で推移している。つまり、「長期トレンドでは、営業利益に対する従業員給与の比率は上昇」している。
 また日本の資本収益率は60年代には7%程度だったものが、70年代以降は4〜5%となり、90年代後半以降は3%程度になっている。とりわけ90年代前半以降は製造業の収益率低下がめだつ。資本収益率が低下したのは、新興国の工業化で、日本の製造業のビジネスモデルが時代遅れになったためだ。
 いっぽう日本の貯蓄率は1970年には30%を超えていたが、2012年には1%に低下した。その原因は、急速に高齢化が進んだためだ。貯蓄の取り崩しがはじまっている。
 ジニ係数でみると、日本では所得の不平等度が増している。格差を縮小するため、政策面でのさまざまな取り組みが必要だ、と著者は論じる。とりわけ、今後は資産課税が大きな課題になってくる。
(5)物価
 日本の消費者物価水準はほとんど輸入物価によって決定される。
 1990年以降の特徴は、新興国の工業化とIT革命によって工業製品の価格が大きく下落したことだ。いっぽうサービス価格は上昇している。その結果、80年代後半から、消費者物価はほとんど上昇せず、90年代末からマイナスとなることも多くなった。
 なお、現在の物価水準は1970年の3倍程度になっている。1970年と比べると、2008年までに工業製品価格は10分の1程度になったのにたいし、サービス価格は5倍程度になっている。
 工業製品価格が下落したのは、中国が工業化した影響が大きい。
 2008年のリーマンショックでも消費者物価はほとんど影響を受けなかった。むしろ、物価は上昇した。その原因は、原油価格が上昇したためであり、2014年以降、原油価格が下落すると、物価も下落している。
 ここから、著者は日本の物価は世界経済の条件によって外部的に決まる側面が強く、国内の需要減少が価格の下落(デフレ)を招いているという認識は誤りだと断定している。
 2013年以降の消費者物価指数をみると、2013年12月に物価は1.3%上昇している。これは景気の好循環がはじまったためではなく、円安の影響だ。このとき上がったのは電気代とガソリン代であって、そのほかの物価はほとんど上がっていない。
 円安が進むと輸入価格が上昇し、それによって消費者物価が上昇する。その結果、実質賃金が下落し、実質消費が低迷する。
 円安になると、輸出企業のドル建て利益は増加する。そのいっぽう、労働者の実質賃金は下落する。他方、政府も企業利益が増加するため、税収が増える。そのため、政府も企業も円安を歓迎するが、労働者にとって円安は歓迎すべきものではない、と著者は論じている。
 2014年秋には日本の輸入物価が大きく下落した。主な原因は原油価格の下落だ。資源価格の下落は日本に利益をもたらすはずだ。ところが、それを歓迎しない向きがあるのは不思議なことだ、と著者は首をかしげる。デフレ脱却というイデオロギーが、経済の見方をゆがめているという。
 原油価格の下落によって、2014年秋以降、物価は下落に転じた。ところが、ほんらいもっと下がってしかるべき物価が下がらず、原油価格の下落によって生じた利益は企業利益の増大と内部留保の拡大に回ってしまっている。
(6)金融政策
 2013年にはじまった異次元金融緩和政策は、円安をもたらしたものの、実体経済に影響を与えていない、と著者は論じている。
 1980年代までは、日本の金融は、家計の貯蓄が銀行を通じて民間企業の設備投資を支えるというかたちをとっていた。
 ところがバブル後の90年代になると、家計の資金供給が減るなかで、政府が公共投資を増大させ、その赤字を国債発行によって補うようになった。いっぽう企業は膨張した資産と負債を圧縮し、設備投資を減少させた。
 90年代半ば以降、家計の貯蓄率はさらに低下し、資金余剰幅が縮小する。他方、社会保障関連費が増大し、政府の資金不足は拡大した。
 長期金利(貸出約定平均金利)は1993年に4.5%を超えていた。それが95年には2%台、2001年には1%台になり、現在はほぼ1%になっている。
 短期金利は1990年にほぼ6%だったが、95年に1%、2016年10月には0.3%になっている。
 90年代の急速な金利低下は、消費者物価の低下を反映したものだという。金利の低下はほんらい経済に繁栄をもたらすはずだが、日本ではそうならなかった。不良債権問題の処理に加えて、新興工業国の工業化にうまく対応できなかったからである。
 2013年に日銀は異次元金融緩和措置を導入した。そのころ円安が生じ、株価が上昇したのは事実である。しかし、円安はそれ以前のユーロ圏の情勢変化によって生じたものだ、と著者はいう。
 円安によって企業の利益は増大した。とりわけ資本金1億円以上の輸出企業が大きな利益を得た。これにたいし、下請けや非製造業の利益はそれほど増えていない。しかし、輸出総量は増えなかったので、GDPは増大しなかった。いっぽう労働者の実質賃金は下落したため、実質消費は抑制され、実質経済成長率は低迷した。
 2013年の経済成長率が高かったのは(2.0%)、金融緩和のためではなく、公共事業の増加と、消費税引き上げ前の駆け込み需要で住宅投資が増えたためだ、と著者は書いている。
 さらに、金融緩和政策は、マネーストック(流通するおかねの残高)の増加をもたらしていない。
 日銀は2013年4月から年50兆円〜80兆円のペースで国債の買い入れをおこなっている。2016年段階で、その額は国債残高の34.9%(345兆円)となった(現在は40%、400兆円を突破)。
 しかし、マネーストックは、年平均で3.4%(3年間で89兆円)しか増えていない。異次元金融緩和で、国債をこれだけ買い入れているのに、この状態は「空回り」としかいいようのないものだ。
 異次元金融緩和は失敗した。それは資金需要がないためだ。金融を緩和しても(たとえマイナス金利にしても)、停滞した経済を活性化することはできない。それどころか、それはむしろ大きな悪影響をもたらしている、と著者は指摘する。
(7)労働力不足問題
 日本の労働力人口は。1950年代はじめには5000万人だったが、80年代には8000万人、95年には8700万人となった。だが、それ以降は低下がつづき、2014年には7800万人となっている。
 これにたいし、65歳以上の人口は、1975年には1000万人未満だったのに、80年に1000万人を超え、2012年には3000万人を突破し、2014年には約3300万人になっている。急速な高齢化が進んでいる。
 これからの問題は、総人口の減少よりも、年齢構成の変化だ、と著者はいう。生産年齢人口が減少しつづけるのはまちがいない。2015年の7700万人が、2060年には4400万人に減少すると予想されている。いっぽう高齢者人口は増えてくるから、社会保障面で深刻な問題が発生する。
 GDPにたいする社会保障費の割合は、2005年に4.0%だったものが、2010年には5.7%、2015年には6.2%に上昇している。この割合は今後も増えつづけ、現在の制度は破綻する恐れがある、と著者は指摘する。
 これにたいし、労働力人口は2030年には5683万人となると予想され、現在よりも1000万人減少する。これはたいへんな事態だ。
 高齢化にともない、医療・介護にたいする需要はまちがいなく増えてくる。75歳以上の人口は1960年に164万、80年で366万人だったが、2010年には1419万人にのぼり、2020年には1879万人になるとされている。それにともない、要支援、要介護の認定者は2012年に561万人にのぼっている。こうした人びとを介護するために多くの医療・介護従事者が必要になってくるのはいうまでもない。
 これからは人手の確保が大きな課題になってくる。出生率の上昇が容易ではないとすれば、外国から労働者を受け入れる以外にないだろう。根本的な発想の転換が必要になってくる、と著者は述べている。

野口悠紀雄『日本経済入門』をめぐって(1) [時事]

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 あえてうそとは言わないけれど、経済に関して、時の政府や日銀が自分に都合のよい数字(印象操作)を発表しがちなのは、みずからの実績をほこることで、その正統性を維持するためである。それは、いわゆる「大本営発表」になりやすい。
 ところで、ほんとうのところ日本経済はどうなのだろう。ここでも数字はうそをつかないという原理があてはまる。
 本書は実際の数字にもとづいて、日本経済のほんとうの姿を客観的にとらえてみようというこころみだといってよい。
 ぼく自身は現実の世界にうとい。毎日をのらりくらり遊びくらしている年寄りにすぎない。そんななまけものにとっても、日本経済の現状を知っておくのも悪くないだろう。もっとも、それはいいかげんな理解にとどまってしまうかもしれないが……。
 本書の「はじめに」で、著者はこう書いている。
「1990年代の中頃をピークとして、賃金をはじめとする日本経済のさまざまな経済指標が、減少・低下していること」は事実である。
 著者にいわせれば、その原因ははっきりしている。
「第1は、新興国の工業化や情報技術の進展といった世界経済の大きな構造変化に、日本の産業構造が対応できていないこと」。
「第2は、人口構造が高齢化しつつあるにもかかわらず、社会保障制度をはじめとする公的な制度が、それに対応していないこと」。
 ここから導かれる対策もはっきりしている。
「日本経済が抱える問題を解決するには、経済の生産性を向上させる必要がある」。しかし、政府は見せかけの金融緩和政策に走り、実体経済を活性化させるという、だいじな方策を怠っている、というのが著者の見方である。
 本書の趣旨は以上であきらかだが、以下、実際の経済データにもとづいて、日本経済の実態をみていく。
 例によって、いっぺんには読めないし、頭もついて行かないので、何回かにわけて、内容を紹介することにする。
(1)GDPの変化
 まず経済活動の指標としては、国内総生産(GDP)が知られている。
 詳しい説明は省くが、国内総生産は国内総支出(GDE)と一致する。そのため、一般に国内総支出もGDPと呼ばれる。
 需要と供給の関係についてはさまざまな議論があるが、「長期的には供給面の要因により経済成長が決まり、短期的な経済変動は需要の変動によってもたらされる」とみてよい、と著者は述べている。
 経済活動の主体は、企業と政府、家計、それに海外部門からなる。
 GDP(正確にはGDE)で最大の割合を占めるのが、民間最終消費支出で56.3%にのぼる(2015年)。これにたいし、民間企業設備が15.3%、政府最終消費が19.9%、公的固定資本形成が5.0%、これに輸出から輸入を引いたものを加えたのが全体のGDPとなる。
 名目GDPを物価の変化率で割ったものが、実質GDPとなる。
 ややこしい計算方法はこれくらいにしておこう。
 日本の名目GDPの年平均成長率は、1956年から70年にかけ、15.6%にものぼっていた。実質GDPでみても、その間の平均成長率は9.6%だった。また1960年から66年にかけ、日本人の1人あたり所得は約2倍に増えている。
 しかし、現在(2016年)の実質GDP成長率は年率で0.5%に落ちこんでいる。これにたいし、アメリカの成長率は2.5%程度、ドイツは1.5%程度になっている。先進国のなかでも、日本は停滞している。
 1人あたりGDPでも、日本の停滞ぶりがめだつ。国際通貨基金(IMF)の予測では、2020年にアメリカの1人あたりGDPは、日本の1.5倍になるとみられている。1990年の1人あたりGDPは、日本のほうがアメリカより多かったことをみれば、ここでも日本の停滞ぶりが目立つ。
 いっぽう、日本と中国の差は、急速に縮小している。2010年には中国は1人あたりGDPが日本の10分の1だったのに、2015年には4分の1になり、2020年には3分の1に接近すると予想されている。
(2)産業構造の変化
 1950年ごろまで日本の産業は、農業が中心だった。その後、製造業が中心になっていく。
 50年には全就業者数の49%が農林漁業関係者だった。それが65年には22%、60年代末には18%に減少した。
 いっぽう製造業従業者は50年には16%だったのに、60年代末には25%以上に拡大している。
 そのことをみても1950年代から60年代末にかけて、日本では急速な工業化が進んだことがわかる。
 鉄鋼の生産量は1950年から60年にかけ5.3倍に、60年から70年にかけ5.7倍に増加した。
 そのかん工業化にともなって、日本では都市化が急速に進んだ。都市部と農村部の人口比率は1950年に0.6、それが1965年には2.1となった。
 しかし、1970年代以降は、製造業が縮小し、非製造業が拡張していく。GDPに占める割合でいうと、70年には製造業が36.0%、非製造業が53.0%だったのが、80年度には29.2%と59.9%、2000年には21.1%と66.1%、2014年には18.5%と68.1%となっている。
 1970年とくらべると、製造業の比率は半減したと著者は述べている。
「製造業の相対的な比率は明らかに低下し、絶対値で見ても、製造業は停滞または縮小の過程にある」
 製造業が縮小した原因は、端的にいって、1978年の「改革開放」路線以降、とりわけ90年代半ばから中国が急速に工業化したためである。
 中国では、鉄鋼生産量が一挙に増えただけでなく、自動車家電、IT分野でも新しい企業が誕生した。
 それによって、中国は「世界の工場」と呼ばれるようになった。
 さらに「中国メーカーは巨額の研究開発費を投じ、世界各国に研究拠点を設けて技術開発を進めており、技術的にも日本企業を凌ぎつつある」。
 加えて、80年代から90年にかけてのIT革命によって、情報処理コストと通信コストが劇的に低下したことも、製造業の生産方式に大きな変化をもたらした。
 それが「垂直統合」から「水平統合」へと呼ばれる変化である。たとえばアップルはこの「水平統合」によって、世界じゅうの企業が生産した部品を調達し、中国で製品の組み立てをおこなっている。
 重化学工業も組み立て製造業も、日本よりも中国のほうが、はるかに低コストでできるようになった。それにより、工業製品の価格は大きく下落する。
 低コスト競争をしても、日本企業は消耗するばかりで、中国に太刀打ちできなくなる。そのため、日本企業も中国をはじめ、海外に進出せざるをえなくなった。
 こうした世界構造の変化によって、日本の製造業の利益率は大幅に低下した。
 著者はかつてのような「輸出立国モデル」はもはや成り立たないと述べている。
 日本の製造業はすでに生産拠点の多くを海外に移転させており、海外市場に進出することで活路をみいだそうとしている。
 この傾向を逆転することはもはや不可能であり、日本は海外での利益を環流させて、経常収支の黒字を維持するほかない、というのが著者の見立てである。
 日本の長期停滞は、世界の構造が変わったことが原因であり、日本は産業構造を変えることによってしか、長期停滞を脱出できない、と著者は論じている。
(3)就業構造の変化
 日本の就業者数は1955年に4000万人、1968年に5000万人、1988年に6000万人を突破した。そして95年に6584万人のピークを迎え、その後は減少をつづけて、2016年には6444万人になっている。
 そのうち製造業の就業者は61年に1000万、70年に1400万人を突破したが、92年の1603万がピークで、その後、減少をつづけている。2013年の就業者は1033万で、全就業者の15.9%。これは卸売業・小売業の16.4%より少なくなっている。このことをみても、日本の中心産業はすでに製造業ではなくなっていることがわかる。
 いっぽう有効求人倍率は、リーマンショック後1を下回る状況がつづいていたが、2016年には1.41に上昇している。このことをみると、雇用情勢が好転したかのようにみえるが、実際には「有効求人数はほぼ頭打ちであり、有効求職者数の減少によって有効求人倍率が上昇しているという側面が強い」という。
 つまり、人手不足の原因は、労働力人口が減少したためなのだ。有効求人倍率の上昇は、かならずしも日本経済の好転を意味しない。
 また日本の賃金指数をみると、ピークは1997年の113.6で、その後、2000年には110.5、2012年には98.9まで下落している。1997年から2012年にかけ、経済全体で、賃金は低下傾向にあったことがわかる。
 さらに、このかんの特徴は、正規雇用が減少し、非正規雇用が増加したことである。正規と非正規とのあいだにはいちじるしい賃金格差が見受けられる。
 2015年、2016年の官製春闘では、賃上げ率はそれぞれ2.38%、2.14%の高水準となったが、春闘がカバーしない部門では、むしろ賃金は下落しており、全体としてみれば、賃金は上昇していないのが実情だ、と著者はいう。
 日本経済の実情を示す数字を、さらに見ていくことにしよう。

『不道徳な見えざる手』を読む(まとめ) [商品世界論ノート]

   1

 この本はいたく評判が悪い。
 訳者あとがきによると、『エコノミスト』はこの本自体が詐欺みたいなものだと決めつけているし、『フォーブズ』もどうでもいい本とけなしているそうだ。
 さらに、肝心の訳者(山形浩生)も、最後にまるで次作に期待するほかないというような言い方をして、すっかり匙を投げている。
 ひょっとしたら、だまされて買ってしまったか。
 そう思ったところで、後の祭りである。
 著者はジョージ・アカロフとロバート・シラー。ふたりともノーベル経済学の受賞者だ。前に同じく共著で『アニマル・スピリット』を出版している。アカロフは現在の米連邦準備制度理事会(FRB)議長ジャネット・イエレンの配偶者でもある。
 となると、本書への酷評が多いのは、期待が大きすぎたということか。
 まず、「まえがき」と「序章」を読むことにしよう。
 ここには本書のねらいと考え方、そして全体像が提示されている。
 著者はいう。自由市場はごまかしと詐欺に満ちている。しかし、自由市場に変わるシステムは見当たらない。
 だとすれば、ごまかしと詐欺に満ちた市場のなかで、消費者はどう身を守り、政府関係者はそれをどう規制し、ビジネスマンはそのなかでどうはたらけばよいのかが問われてくる。
 自動車、電話、自転車、電灯はどれも19世紀末の発明だ。どれも現代の生活には欠かせないものだ。だが、そのころスロットマシンもつくられている。
 スロットマシンはギャンブル依存症を生み、さらにそれは現代のコンピュータ・ゲームへとつながっている。そうしたマシンは、人を中毒させるよう設計されているのだ、と著者はいう。
 なるほど、ギャンブル依存症かどうかはともかく、現代人がすくなくともスマホ依存症になっていることは、電車に乗って、回りの人の様子をうかがうだけでも一目瞭然だ。
「自由市場は平和と自由の産物であり、人々が恐怖におびえていない時代に花開く」こと、さらに「自由市場は人々のほしがるあれやこれやをもたらしてくれる」ことを、著者も認めている。
 だが、そのいっぽうで人を依存症におちいらせる商品を生みだし、それによって人の時間とカネ、あるいは大げさにいえば、人生そのものを奪っているのだ。
 本書の原題はPhishing for Phools だ。Fishing for Fools と言い直してみればわかりやすい。つまり「カモを釣る」というわけだ。Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。インターネット詐欺でおなじみの手法だ。
 本書ではこのフィッシングがもうすこし幅広い意味で使われている。またフールの造語であるPhool が、少数の際立つ「バカ」をさすのではなく、ほとんどすべての人にあてはまる「おバカ」をさしていることにも注目すべきだ。
 つまり、われわれはだれもがアホなものを買って、いや買わされて、充実した人生を送っていると思いこまされているというわけだ。
 Phishing for Phools は訳せば「カモを釣る」になるが、そのタイトルの含意は、カモになるなということではなく、一歩引いて、われわれがくらしている商品世界の構造をもう一度、見なおしてみようということなのかもしれない。
 消費者としてのわれわれは、消費習慣をすりこまれている。宣伝や情報にだまされやすい。いっぽうビジネスマンとしてのわれわれは、カネもうけがすべてだ。こういうビジネスをしてはいけないと自制するビジネスマンは会社を首になる。これが現実だ。
 著者は人びとがぼったくられ、だまされやすい分野として、次のようなものを挙げている。たとえばクリスマスや結婚式や葬式といった特別の日の出費、自動車や住宅などの購入、こんどはだいじょうぶといわれて引っかかる投資信託や株、健康食品や薬、それに食べだしたらとまらないポテチやコーラ、つい手がでるたばこやアルコール、などなど。
 そして究極のだましは、口車に乗せられて、よかれと思い、選挙で票を入れてしまう政治家の手口だ。だまされたと気づいたときには後の祭り。当選した政治家は、頼みもしないことを勝手にどんどん推し進めている。
「序章」には本書の考え方と、全体構成がざっと示されている。
 経済学の考え方はめんどうなので、できるだけ省略したいのだが、著者が「釣り(フィッシング)均衡」なる概念を確立しようとしていることだけは踏まえておくべきだろう。
 釣りがうまくいく(消費者がうまくひっかかる)と、特別利潤が得られる、と著者はいう。
 たとえば、シナボン社の特製シナモンロール。空港の待合所に出店するという戦略が功を奏して、大人気だという(日本でも東京駅や六本木センタービルに出店している)。
 トレーニングジムはいまでは大きな産業になっている。1回ごとに料金を支払うこともできるが、たいていは月額を銀行口座で落とすことが多い。しかし、たいていの人は費用に見合う回数だけジムに行っていない。
 そして、人はかならずしも有益なものを選好するわけではない。くだらぬもの、不要なもの、余分なもの、奇妙なものを、つい買ってしまうのだ。つまり、商品戦略にうまくひっかけられてしまう。
 ところで、経済学といえば、いまでもアダム・スミスの名が頭に浮かぶ。
 各自がそれぞれ利益を追求しても、自由市場では「見えざる手」によって、経済は均衡する、とスミスは考えていた、と著者はいう。そこから、政府は自由市場に干渉すべきではないという結論がでてくる。
 だが、はたして自由市場は先験的に正しいのか、と著者は疑う。
 自由市場には、ごまかしやだましの自由もある。しかし、何でもかでも自由に売ってよいというものでもあるまい(たとえば人身売買は当然禁止されるべきだ)。
 とはいえ、人は外部からの刺激によって、たちまち影響される。簡単にだまされてしまうのだ。著者は自由市場神話なるものを大いに疑っている。




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母のこと [雑記]

6月15日朝、母が亡くなった。
享年92。満でいえば、91歳5カ月だった。
高齢といえば、高齢にちがいない。
しかし、もっと長生きしてほしかった。
同い年の父とは21歳で結婚し、70年連れ添った。
店をやっていたから、24時間いっしょの生活。
店を引退しても、24時間いっしょだった。
残された父はいま寂しくて仕方ない。何かにつけ、涙ぐむ。
母は働きに働いた。
朝6時に店を開け、夜10時に店を閉めるまで、ずっと働いていた。
値札をつけるため、2時か3時ごろまで、仕事をすることもあった。
家庭と仕事の両立などというものではない。
家はすなわち店だった。職住接近もいいところである。
家族の食事をつくり、掃除をし、商売をし、仕入れに行き、帳面をつけた。
小学校のころは、美人の母が自慢だったものだ。
風呂焚きはぼくの仕事。かまどで、ご飯も炊いた。
あのころは、まだそんな時代だったのだ。
母は父といっしょに店を大きくした。
南本町にあったちいさな店は、鍛冶屋町の「銀座商店街」に移り、大きな店に変わった。
中学生、高校生になると、ぼくは学校の宿題や予習をしながら、たばこ屋となった元の店で、店番をするようになった。
あのころ受験のための塾などはなかった。
でも、学校の成績は悪くなかった。
町に大型店の「西友」が進出すると、両親は銀座商店街の店に加えて、「西友」にも出店するようになった。
あのころが店の全盛期ではなかったか。
ぼくは東京大学に合格した。
父は浪人を薦めたが、ぼくは拒否した。
もう受験勉強などごめんだった。早く家を出たかったのだ。
だからといって、ほかに何か大きな目標があったわけではない。
東京・目白台の下宿まで見送り、別れるとき、車の助手席の母は泣いた。
箱根を越えるまで、泣きつづけだったらしい。
下宿生活をはじめると、ぼくはとたんになまけ者になる。
いつも下宿でごろごろしていた。
母が三叉神経痛で苦しむようになるのは、そのころからだ。
顔を洗っても、風が吹いても、頭半分に強い痛みが走るようになった。
いくつも病院を回り、注射を打ち、神経をブロックし、顔がゆがんだ。
母はそれに辛抱づよく耐えた。
ぼくはサークル活動にのめりこみ、デモや集会によく出かけるようになる。
大学は封鎖された。
封鎖解除になっても、授業には出なかった。
それでも、レポートを提出して大学を卒業したのは、彼女ができたからだ。
両親はぼくの将来に期待していただろう。
しかし、期待はずれの当人は将来など何も考えていなかった。
まともに就職活動もせず、東京で友達のいる総会屋系の出版社に勤め、結婚した。
それから、会社を替わり、マスコミ系の子会社にもぐりこんだ。
こころざしなど、あったものではない。
漂流していた。
けっきょく家は弟が継ぐことになった。
母は、自分の息子がこれからどうなるか、さぞかし心配したにちがいない。
しかし、なにはともあれ、大学を卒業し、就職し、結婚し、子どもも生まれたことを、母はだれよりも喜んでいた。
その後、個人商店にとって冬の時代がはじまる。
だが、その前に競争と拡張の時代がある。
店は「銀座商店街」の本店や支店のほか、大型店のなかに4つの店舗を構えるまでに成長した。
父はもちろんだが、母も必死ではたらき、弟も両親のはたらきを支えていた。
しかし、過剰競争のなか、もちこたえられなくなる。
揺り返しがやってくる。
赤字がでるようになって、両親は次第に3つの店舗を整理し、本店はジジババストアになった。
それでも母は店に立ちつづけた。
商店街にはほとんど人がこなくなり、にぎわった店がつぎつぎシャッターを下ろしていく。
夜逃げや自殺や事故死や過労死のうわさも聞こえてくる。
それでも母は父とともに、最後の最後まで店に立ちつづけた。
そして、70歳近くになって、ついに店のシャッターを下ろした。
驚くべきは、店を閉めたあとも、母がからだを動かしつづけたことである。
父は少し前から、200坪ほどの土地に庭をつくりはじめていた。
母は毎日それを手伝い、石を取り除いて、梅の木を植え、畑をつくった。
その木は育ち、いつしか50本の梅林になった。
花が咲くころには、庭を開放し、小さなあずまやに大勢の人が集まってくるようになった。
家のなかは、あいかわらず母の持ち分だった。父は何もしない。
母は庭仕事に加えて、家の炊事、洗濯、掃除と、ひっきりなしに動いた。
休むことを知らぬ人だった。
きょうのことだけでなく、あすのことに常に気を配っていた。
毎日、あすの分まで、はたらいていたのだ。
そんな母が、去年の夏ごろから弱りはじめる。
11月には黄疸がでて、市民病院に入院した。
胆管がん、ないし膵臓がんの疑いがあった。
黄疸を取り除くため、胆管にパイプを通す手術をおこなおうとしたが、うまく行かない。
そこで、明石の病院に移って、今度はようやく手術が成功した。
明石に見舞いに行ったとき、母は黄疸もとれて、元気そうだった。
少し痩せたものの、病院のなかを足どり軽く、さっさと歩いていた。
12月末には退院し、高砂の自宅に戻り、正月を迎えることができた。
父といっしょに、バスに乗り、イオンまで買い物に行けるほどだった。
急変したのは、買い物に行った翌朝である。
高熱が出て、手がふるえ、意識がなくなった。
かかりつけの医者を呼んだが、なかなか来てくれない。
弟が救急車を呼んで、ふたたび市民病院に入院した。
極度の脱水症状に加え、血糖値が1200まで上昇していた。
こんな数字見たことがない、と医者がいった。
懸命な措置のおかげで、何とか意識は回復した。
91歳の誕生日を迎えることもできた。
しかし、なぜか両手が動かなくなった。
姫路の病院でも診てもらったが、ついに手の動きは戻らなかった。
そのまま寝たきりとなって5カ月。
米田町の共立会病院で、息を引き取った。
そのとき、ぼくは妻と信州は車山の花畑のなかにいた。
母の頭は最後までしっかりしていて、毎日、弟の送り迎えで病院に見舞いにくる父ともよく話をしていたという。
毎月、4、5日見舞いにいくぼくとも、あれこれ昔のことを話し、うれしそうだった。
最後まで、痛みがほとんどなかったことが、せめてもの救いだった。
とつぜん酸素マスクがつけられ、あっという間に亡くなったのだ。
父も弟も10分遅れで、臨終に間に合わなかった。
しかし、ぼくのなかで母は生きつづけている。
おそらく母もぼくのことを思いつづけてくれているだろう。
いまはそんなふうに母の力を感じている。

寅さんの旅(3)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(5) [われらの時代]

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 翻訳の仕事がはいったので、少し間があいてしまった。
 寅さんの旅のつづきである。
 著者の川本三郎は、寅さんを追って、九州に出かけている。
 佐賀市の西にある小城(おぎ)。唐津線が通る。昔は石炭を唐津港まで運んでいた。第42作(89年)に出てくる。静かないい町だという。

〈駅前にまっすぐ北にのびる商店街がある。高い建物はない。空が広い。酒蔵があり、レンガの煙突が青空に映える。〉

 ここに後藤久美子演じる泉が住んでいて、寅さんの甥っ子、満男(吉岡秀隆)が彼女を追いかけてくる。
 羊羹屋が多いという。羊羹づくりが盛んなのは、茶の文化が発達していたこと、それにかつて軍が羊羹を保存食として買い入れていたためだという。
 軍と羊羹という組み合わせがおもしろい。
 大日本帝国時代、佐世保には海軍、久留米には陸軍の拠点があり、小城はその中間に位置していた。
 川本は映画のロケ地をあちこち歩いている。
 呼子は第14作(74年)、平戸は第20作(77年)に登場する。
 著者は江戸時代のはじめに栄えた平戸を訪れている。和洋の文化が混在した町だ。寅さんはこの町をすっかり気に入ってしまう。しかし、例によって美女にふられる。
 佐世保で1泊した著者はフェリーで五島列島に向かう。その中通島(なかどおりじま)は、第35作(85年)の舞台。
 寅さんはほんとうによく旅をしている。このころ、ぼくはずっと会社と家を往復する仕事がつづいていた。
 中通島では新しいホテルができているが、町並みや漁港の様子は変わっていないという。
 五島列島では、明治になって隠れキリシタンが自分たちの手でいくつもカトリック教会を建てた。
 そのひとつ福江島も第6作(71年)のロケ地になった。映画『悪人』にでてくる灯台はこの島の西端にある。
 第6作に写る玉之浦の中村旅館はいまも残るが、もう営業はしていない。かつては捕鯨船基地にもなったという玉之浦の漁港も、いまはひっそりしている。
 寅さんはテキヤらしく全国どこにでも出かけるが、どちらかというと辺鄙な場所が好きだ。「寅は旅の名人、知られていなかった日本の美しい町の発見者と言える」と川本も書いている。
 若狭湾の伊根もそのひとつ。第29作(82年)の舞台だ。
 ブリの好漁場で、湾に面した舟屋群で知られる。映画のころと、町並みはほとんど変わっていないという。
 川本はそのあと山陰を旅する。
 列車で豊岡に出て、城崎温泉、浜坂、鳥取、米子、温泉津(ゆのつ)のルートをたどる。
 温泉津は第13作(74年)の舞台。ここで、寅さんはまたも旅館の番頭をする。
 石見銀山の銀の積み出し港として栄えた。千年以上前に発見されたという温泉があり、20軒ほどの湯宿が並んでいる。やきものの町としても知られている。
 昔の商店街は、いまではシャッター通りとなっている。映画の撮影当時とくらべて、過疎化が進んだようだ。
 第44作(91年)は倉吉が舞台。映画の撮影された小学校は廃校になった。駅前の商店街も閉店、空き家が目立つ。しかし、いっぽうで、町おこし、村おこしも盛んで、一概に過疎ということばをかぶせるのは問題だという。「実際には、故郷に留まって頑張っている若者もいる」
 第13作には津和野もでてくる。山陰の小京都として、若い女性のあいだで人気がある。町は映画の撮影された40年前とさほど変わっていない。
 寅さんの妹、さくらが第7作(71年)で訪れるのが五能線の驫木(とどろき)駅。青森県にある秘境の駅だという。列車は1日に5本しか止まらない。
 その駅から少し山のほうにはいった田野沢の小学校は、映画に登場するが、いまは廃校になっている。集落では人間が減って、猿が増えている。
 さくらは寅さんを探すため、バスで弘前に向かう。
 その途中、千畳敷と呼ばれる寂しい海岸線を通りながら、さくらは想像する。

〈一瞬、さくらは寒風にさらされた寅が、寂れた海辺の小屋に身を寄せる姿を想像する。あの陽気な兄が、海からの風に吹き飛ばされそうになって、賽の河原のような海辺を歩く。ボロ屋の板壁にもたれかかる。〉

 そう思った矢先に、次に停車した嶽(だけ)温泉から、何とおにいちゃんの寅さんが乗りこんでくる。
「俺、死んだかと思ったか」「冗談じゃないわよ」と、兄妹のにぎやかなやりとりがはじまり、観客はほっとする。
 それにしても、テキヤ稼業は、野垂れ死にと紙一重だ。
 そんな風来坊の孤独をにじませた一篇が、第16作(75年)で、ここでは山形県の寒河江(さがえ)がでてくる。人口は4万。サクランボの産地として知られる。ニット生産でも有名だ。
 寅さんは昔世話になった女性の墓参りをするため、寒河江の慈恩寺を訪れている。
 寒河江は「思っていた以上にきれいな町だった。老後、住みたいと思ったほど」と、川本は書いている。地方にはいい町が残っている。日本のよさは、もう地方にしかないのではないか。
 時に寅さんはテキヤをやめて、カタギの仕事をしようとすることもある。実際にはじめると、なかなかつづかないのだが。
 そんな場所のひとつが江戸川下流の町、浦安だ。1970年の第5作にでてくる。
 そのときの仕事は豆腐屋だ。例によって美人の娘がいる。しかし、もののみごとにふられ、浦安を去っていく。
 いまではディズニーランドで知られる町だが、大規模な空襲にあっていないので、昔ながらの住宅が残っているところもあるという。ぼくのところからも近いので、いちど散歩してみよう。
 近いといえば、茨城県だ。寅さんは茨城県によく出没している。
 たとえば、第39作(87年)に登場するのが、水海道(みつかいどう)の木橋。
 常総線の中妻駅がアヴァン・タイトル(タイトル前の寸劇シーン)に写っている。
 第42作(89年)では、水戸と郡山を結ぶ水郡線に乗っている。途中降りるのが袋田駅。ここには袋田の滝がある。ぼくもいったことがある。
 第34作(84年)には牛久沼がでてくる。大手証券会社課長(米倉斉加年)は、ここから東京に通っている。マイホームをもつのも楽ではない。
 そして、とつぜん蒸発する。奥さん(大原麗子)と寅さんは男の行方を追って、鹿児島に出かける。
 筑波山の「がまの油売り」がでてくるのも、この作品だ。
 この作品は、めずらしく名画座でぼくも見たのだが、「がまの油売り」のシーンはまったく覚えていない。もう一度見てみよう。
 寅さん映画には会社勤めがいやになるサラリーマンが、しばしば登場する。第33作(84年)の佐藤B作、第41作(89年)の柄本明もそう。ぼくも会社が嫌いだった。
 次は九州の温泉めぐりだ。
 第28作(81年)で、寅さんは佐賀県鳥栖(とす)駅前の大衆食堂で、トンカツをさかなにビールを飲んでいる。駅前再開発で、いまこの大衆食堂はない。ただ、1911年に建てられた駅舎は、そのまま残っているという。
 次に寅さんがあらわれるのは、久留米と大分を結ぶ久大本線の夜明(よあけ)駅。名前がいい。
 田主丸駅の駅舎はカッパの形をしているという。ちょっと想像がつかない。
 寅さんは、その中央商店街を歩く。いまはさびれている。
 しかし、法林寺や月読(つくよみ)神社はそのまま残っている。
 ぶどうの巨峰の町として知られる。三連水車が観光名所。
 寅は久留米の水天宮で商売をする。
 そこで、仲間のテキヤが病気だと知り、秋月にいく。
 秋月は隠れ里のような町だ。坂の上には秋月城があったが、いまは中学校になっている。

〈瓦屋根が並ぶ。高い建物はない。城下町だが城はなく商家が目立つ。和紙の店、和菓子屋、製麺所が通りに落着きを与えている。〉

 第37作(86年)には、福岡県の田川伊田駅がでてくる。この作品は筑豊が舞台。飯塚の芝居小屋、嘉穂劇場もでてくる。
 久大本線の大きな町は大分県の日田(ひた)。第43作(90年)の舞台だ。
 小鹿田焼(おんたやき)の里、温泉街、豆田町のほか、周辺の天ヶ瀬温泉も登場する。
 近くには、湯平(ゆのひら)温泉がある。ここは第30作(82年)の舞台。沢田研二と田中裕子がでてくる。寅さんは映画のなかで、ふたりの縁結びをする。
 湯平は人気の湯布院などとくらべると、ひなびた温泉だ。ネットのおかげで、最近はアジアからの観光客も増えてきたらしいが、ホテルの数はだいぶ減った。
 もうひとつ、ひなびた温泉が田の原(たのはる)温泉。久重山の西麓にある秘湯。人気の黒川温泉の隣にある。ここは熊本県だ。寅さんはここに長逗留する。人が押し寄せない、ひなびた温泉が好きなのだ。
 第21作(78年)の舞台。寅さんの泊まった太朗舘はいまも残っている。静かな温泉で、歓楽施設は何もない。露天風呂がすばらしいという。
 そして、最後に寅さんが行き着くのが、奄美の加計呂麻島(かけろまじま)である。
 しかし、そこに行く前に、著者の川本は、第19作(77年)の舞台、愛媛県の大洲(おおず)と、第45作(92年)の舞台、宮崎県の油津(あぶらつ)に立ち寄っている。
 第19作は予讃線の下灘(しもなだ)駅からはじまる。海を目の前にしたちいさな駅だ。「青春18切符」のポスターにもなっているらしい。
 伊予大洲は城下町。伊予の小京都とうたわれる。
 嵐寛寿郎が殿様役ででてくる。
 第45作の油津には、宮崎から日南線で向かう。飫肥(おび)杉の積み出し港、漁港として栄えた。山で切り出された杉は、堀川運河で、港まで運ばれた。いまも赤レンガの建物や銅板張りの商家が残る。ここも小京都の雰囲気。
 理容師役の風吹ジュンがすばらしい、と川本は絶賛する。
「地方の衰退が言われて久しいが、こういう町を歩くと、地方の町のストックの豊かさを感じさせる」と書いている。
 そして、ついに最終作の地、加計呂麻島に。
 奄美大島の古仁屋(こにや)からフェリーで30分。島の人口は1300人ほど。
 映画のなかで、寅さんはリリー(浅丘ルリ子)といっしょに、ちいさな家で暮らしている。
 映画ででてくるデイゴの木のある民家は、いまはだれも住まない廃屋になっているという。
 こうして、寅さんの旅は終わった。
 川本は「あとがき」に、こう書いている。

〈[「男はつらいよ」は]寅の放浪の旅であり、しかも、旅先は、瓦屋根の家や田圃の残る懐しい町が多い。はじめから古い町を舞台にしているから何年たっても古くならない。繰返しに耐えられる。……根底に、失われた風景に対する懐かしさ、ノスタルジーがあるから、時間の風化に耐えられる。〉

 なかなか旅ができないぼくにとっては、ありがたい本だった。
 いままでほとんど見ていない寅さん映画をできるだけ見たいと思った。

寅さんの旅(2)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(4) [われらの時代]

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 著者の川本三郎は、寅さんの旅をつづけている。
 第9作「柴又慕情」(72年)には吉永小百合が登場する。吉永はOL役で、友達ふたりと金沢旅行している。そこで寅さんと遭遇する。
 映画の最初、寅さんは、小松から分かれる尾小屋(おごや)鉄道の駅のひとつ金平駅で目が覚め、あわてて汽車に乗る。その駅舎も線路もいまは残っていない。
 現在の金平集落は戸数50ほどで、寺と神社、公民館、九谷焼の工房があるだけ。鉄道がなくなり、すっかりさびしくなっても、あたりの様子は、映画のなかにしっかり「動態保存」されている、と川本はいう。
 京福電鉄の永平寺線も廃線になってしまった。しかし、映画にはいまはない京善(きょうぜん)駅が残されている。京善には古民家群が残っている。
「『男はつらいよ』が何度見ても面白い理由のひとつはそこに、失われた鉄道風景が残っていることにある」と川本はいう。
 寅さんはマイカーに乗ったりしない。汽車とバスで日本じゅうを旅するのだ。
 第9作では、寅さんが旅行に来たOLたちと、永平寺や東尋坊で遊んでいる。そのたたずまいは昔と同じ。
 第36作「柴又より愛をこめて」(85年)には只見線の会津高田駅がでてくる。会津若松から4つ目の駅だ。
 隣の根岸駅には「中田の観音様」と親しまれる弘安寺がある。「寅は、テキヤであると同時に、寺社を巡る巡礼者でもある」。門前の名物は「ボータラ」(棒ダラ)。
 会津柳津(やないづ)は温泉町。高台に圓藏寺がある。寅さんは柳津の小川屋で下駄を買い求めて、さくらと博に送ろうとするが、カネがないので、あきらめる。残念。
 著者はいう。

〈主観(自分を立派な渡世人と思い込んでいる)と客観(端からは間抜けにしか見えない)の大きな落差は、寅の特色であり、それが笑いを生んでいく。〉

 奥会津には、まだ昔の風情が残っている。
 寺社と温泉は滅びることのない最強の組み合わせだ。
 映画の第7作(71年)では、只見線の越後広瀬駅から、集団就職の少年少女が東京に向かう。そのころまで、まだ集団就職が残っていたのだ。
 この駅を通る列車は、いま1日4本しかない。
 著者はそのあと新潟から佐渡に向かう。寅さんは31作(83年)で、佐渡・宿根木(しゅくねぎ)の民宿に泊まっている。失踪した人気歌手と「佐渡の休日」を楽しんだあと、小木(おぎ)港で別れるという設定だ。
 出雲崎は日本海に面した北国街道の宿場町で、良寛の出身地。寅さんはここでも商売をする。「寅が一瞬、良寛のようにみえる」。このあたりも昔と変わらない。
 木曽路に向かう。
 寅さんの映画では、ちいさな駅がよくでてくるという。中央本線の落合川駅もそのひとつ。馬籠宿が近い。
 奈良井宿のある奈良井駅、奈良井と塩尻のあいだにある日出塩(ひでしお)駅も、そうした駅のひとつだ。
 日本ではいまも山里に大きな寺が残っている。昔の街道がすたれ、経済の中心が別の場所に移っても、寺は残るのだ。
 映画は大桑村(長野県南西部)の定勝寺をスクリーンに収めている。
 経済成長とはいったい何なのだろうかと思ってしまう。商品世界では、商品とカネの集まる場所に人が移っていく。だが、それによって失われるものも多い。カネの動きに合わせて、人が移り移った末、あとにはいったい何が残るのだろう。そんなことをふと思ってしまう。
 寅さん映画は回を重ねるごとにロードムービーになる、と著者は指摘する。
 上田の先には別所温泉がある。ここは第18作(76年)の舞台。寅さんはここでも無銭飲食で、警察のやっかいになる。
 第40作(88年)は上田と小諸が舞台。老人問題や地方の過疎化も取りあげられている。このころから事態は深刻になっていた。限界集落が増えている。
 かつてテキヤ、渡世人(あるいは行商や旅芸人)は、村の人にとっては、いろいろと旅の話を聞かせてくれる「まれびと」だった。だが、そうした旅人はいつ行き倒れになるかもしれぬ、はかない存在でもある。
 寅さんの映画には、そんなはかなさもにじみでる。山梨県明野(あけの)町(北杜市)で撮られた第10作(72年)の一シーンが印象的だ、と川本は書いている。
 京都では、寅さんの生みの母が連れ込みホテルの女将になっている。そこは祇園に近い安井毘沙門町。いまホテルはない。おしゃれで、にぎやかな場所になっている。外国人客も多い。こんなところにラブホテルがあってもカップルにははいりづらいだろう、と著者はいう。
 京都は変わっていないようで、時代とともに大きく変わっている。
 四日市から山にはいったところに湯の山温泉がある。寅さんは、ここの旅館で厄介になったものの、例によってカネがなく、旅館ではたらくことになる。そして、女将さんにほれて、いつものように振られる。
 映画は道中、煙突からもうもうと煙をはく四日市の町をとらえている。
 湯の山温泉は、昔より少し客が減った。「現在の湯の山温泉は寂しいところだった」と川本は書いている。車社会になって、温泉のはやりすたりは激しい。それでも、湯の山温泉が大きな歴史的財産であることには変わりあるまい。
 岡山県のあちこちを寅さんは訪れている。
 備中高梁(たかはし)市、総社市、津山市、勝山町(真庭市)など。
 川本はその町々を駆け足で回っている。
 津山には姫路からでる姫新線と、岡山からくる津山線、鳥取からくる因美線がクロスする。ここには扇形機関車庫も残っている。吉井川とともに発達した城下町だ。
 最終作、第48作(95年)の舞台となった。寅さんの甥、満男が狭い道で結婚式に向かう泉の車を妨害する。
 その冒頭に寅さんがでてくる。撮影されたのは、因美線美作滝尾(みまさかたきお)駅。
 いまは無人駅になっている。このあたり、かつては林業が盛んだった。
 津山から勝山までは姫新線の列車で1時間ほど。
 勝山は出雲街道の宿場町。その面影が残っている。瓦屋根、連子(れんじ)格子の商家が並ぶ。昔の日本のよさは、こんなところにしかないのかもしれない。ここも最終作のロケ地だ。
 つづいて、備中高梁に。寅さんは第32作(83年)で、国分寺から高梁に川舟ではいるが、さすがにそのころも川舟はなかったようだ。
 高梁には備中松山城がある。戦国の山城だ。
 高梁は第8作(71年)にも登場。さくらのつれあい、博の実家があるという設定。
 往事の武家屋敷が何軒も残っている。寅さんはそのあたりを博の父(志村喬)と歩く。
 第32作、博の父の3回忌で、ふたたび高梁を訪れた寅さんは、山裾にある薬師院に出向いている。
 町の様子は、撮影当時とほとんど変わらない。でも人口は減った。1970年の約5万3000人が、85年には約4万6000人、そして2015年には3万2000人になっている。
 第17作(76年)に登場するのが、播州龍野(たつの市)。ここはぼくの母の実家なので、ぼくにとってもなじみ深い町だ。子どものころは、夏休みになると、しょっちゅう祖母の和菓子屋に行っていた。
 川本は「いまどきこんな昔ながらの町が残っていると感動する」と書いたうえで、こう記す。

〈白壁と瓦屋根の武家屋敷、格子や卯建(うだつ)のある町家、寺社、堀割、鍵形の狭い道。戦災にも遭っていないためだろう、脇坂家5万3千石の城下町がそのままに残っている。〉

 町は映画がとられたときとほとんど変わらないという。「それも、努力して保存しているというより自然に残っているという生活感がある」。
 しかし、どうだろう。ぼくが子どものころの下川原商店街の様子はすっかり変わってしまった。おじが亡くなったとき、龍野に行けなかったのが悔やまれる。嘴崎屋の羊羹をもう一度食べたい。
 なお、映画に登場する龍野芸者(太地喜和子)は、当時からもういなかったという。
 寅さんは大阪でも商売している。第31作(81年)では、宗右衛門町(そえもんちょう)あたりの芸者(松坂慶子)に恋をするが、例によって行き違いで終わる。寅さんと大阪はどうも相性が悪い。
 ロケ地の通天閣近くの商店街の様子は、撮影当時(81年)とさほど変わっていないという。
 大阪は第39作(87年)にも登場する。
 寅さんはともかく、山田洋次と大阪の相性は悪くないようだ。

寅さんの旅(1)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(3) [われらの時代]

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「男はつらいよ」が製作されたのは1969年から95年にかけてである。足かけ27年の映画シリーズはギネス記録だという。
 学生時代からサラリーマン時代の大半にいたるまでを、ぼくは寅さんと併走したといってもよい(といっても映画はほとんど見ていなかったが)。
 だから、寅さんの旅をたどることは、ひとつにわれらの時代を思い起こす意味合いもある。
 じっさい、寅さん映画には、いろいろな風俗がえがかれている。たとえば第2作に登場するラブホテルというのもそうだ。キャバレーやダンスホールなどもいまはあまりなかろう。
 よく柴又に電話をかける寅が、電話機がコードレスなのに気づいて、びっくりするという場面もある。現在のような携帯電話やスマホはまだ誕生していない。
 高度成長、低成長にかかわらず、日常生活をめぐる風景、住まいや風俗、商品はめまぐるしく変化している。
 もうひとつ、寅さんの旅をたどるのは、文字どおり寅さんの行った場所を追体験するという意味である。
 北海道から沖縄まで、寅さんはじつにさまざまな場所を訪れている。
 川本三郎は本書で、寅さんの訪れた場所を再訪する。
 そこはどんな場所だったのだろうか。
 とはいえ、映画がつくられてから、寅さんの場所は、すでに長くて50年近く、短くても20年以上たっている。その場所がどう変わったか、あるいはいまも変わらないかが、気になるところである。
 川本は寅さんの訪れた場所をできるだけ網羅しようと奔走している。しかし、読者の側はあまり構える必要はないだろう。のんびりと、気ままに、著者と寅さんの旅を楽しめばよいのである。
 著者の川本は最初は沖縄、それから柴又周辺、そして北海道、北陸、会津、佐渡、木曽路、京都、岡山、播州、大阪、長崎、丹後、茨城、青森、九州、最後に奄美と、1年数カ月旅をしている。
 ほかに、本書の企画以前に、取材で寅さんがらみの場所をいくつも訪れたという。
「寅がどんな町を歩いたか、どんな鉄道に乗ったか、どんな風景を見たか」に興味があったという。
 川本は「『男はつらいよ』は、消えゆく日本の風景の記録映画でもある」と書いている。
 そこで、こちらもふらり旅だ。
 川本は、おそらく監督の山田洋次と同様、大の鉄道好きである。だから、寅さんめぐりをしていても、寅さんそっちのけで、鉄道の話題にのめり込む。沖縄を訪れたときも、戦前の沖縄に鉄道が走っていたことを知って、大喜びしている。
 それでも現実の沖縄が、いまも基地の島であることを痛感せざるをえない。
 寅さんの時代と少しも変わっていないのだ。変わったのは、キャンプハンセン前にあった米兵相手の商店や飲食店がさびれ、いまや廃墟のようになっていることだった。
 柴又とその周辺はどうだろう。
 柴又は下町というより、帝釈天参りにいく「近所田舎」で、1960年ごろは訪れる人も少なく、閑散としていたという。裏を江戸川が流れている。高い建物はなく、閉鎖的な土地柄。寅さんの舞台となる1970年ごろは「周囲の繁栄から取り残された町」だった。回りにはまだ畑が残っていた。
 江戸川の取水塔と「矢切の渡し」、水元公園はいまもある。
 このあたりは京成電鉄の文化圏だ。京成沿線は寅さんのシリーズにしょっちゅう登場する。下町よりマイナー感がある。
 柴又に行くには京成電鉄本線の京成高砂から金町線に乗り換える。高砂と金町の途中に柴又がある。
 金町は常磐線の駅でもあり、柴又よりにぎやかで、いまはイトーヨーカドーや東急ストアもできている。15階建ての公団住宅もある。
 寅さんシリーズでは、この金町がよくでてくる。柴又からみれば、何でもある町だ。しかし、もともと金町も江戸時代は近郊の農村地帯。町は成長し、変化する。
 葛飾区の地場産業は玩具だ。立石に、はじめてセルロイドの玩具工場ができたのが1914年。1960年代にはタカラのダッコちゃん、70年代にはセキグチのモンチッチが大ヒットする。そのころまで、集団就職の少年少女がおもちゃ工場に働きにきていた。映画はその光景も取り入れている。
「男はつらいよ」には東東京、京成文化圏への思い入れがある、と著者はいう。江戸川だけではなく、目立たない中川もよくでてくる。このあたりの景色も、おそらく寅さんの時代から、だいぶ変わっただろう。町も生き物だ。
 著者が次に足を運ぶのが北海道。
「男はつらいよ」には、北海道がよくでてくる。
 寅さんは第11作(1973年)で、カタギになろうとして、北海道の牧場ではたらきはじめる。撮影場所は網走の西、卯原内(うばらない)にある栗原牧場だ。いまは300頭の乳牛を飼っているというから、大規模牧場といってよい。
 酪農の仕事は生き物相手だから休む暇もなく、重労働だ。そのため、酪農家は全国で減りつづけ、いまでは最盛期(ピークは70年代だった)の4%、1万8000戸に落ちこんでしまったという。
 当の寅さんは慣れない仕事で、たちまち倒れ、寝込んでしまう。そして、妹のさくらが駆けつける仕儀となる。
 映画には網走の町も登場する。郊外にショッピングセンターができたため、当時の商店街はさびれてしまった。造船所も残っているものの活気がない。これも70年代と現代の大きなちがいだ。
 ほかに変わったといえば、観光客が増えたこと。外国人が観光バスに乗って、網走刑務所やオホーツク海を見にくる。
 しかし、漁業、農業の景気は悪くない。「漁業はサケ、マス、ウニが好調。農業はジャガイモ、小麦、ビート」。日本の食卓を支えている。
 1987年の第38作は知床が舞台。映画には離農する酪農家の姿がでてくる。知床は2005年に世界遺産に登録された。自然がすばらしいという。漁業は網走と同様、好調だ。
 中標津、別海町はいまでも酪農がさかん、広々とした牧場がつづいている。
 とはいえ、酪農家の生活はきびしい。
 北海道では、かずかずの映画の舞台となった鉄道がつぎつぎ廃線になっている。それが加速されたのは80年代からで、近年はさらに廃線化が進む。
 根室はロシアとの緊張関係で、漁業の不振がつづき、人口も減っているという。
 1984年の第33作は、釧路と根室のあいだにある霧多布が舞台になっている。撮影された昆布小屋は、2011年3月11日の津波で流されてしまったようだ。
 著者は第26作(1980年)の舞台となった奥尻島も訪れている。
 1993年の地震で、奥尻島は津波の被害を受け、火事も加わり、200人の死者をだした。
「男はつらいよ」が撮影されたのは地震のだいぶ前。
 寅さんは最初に江差で商売し、それから奥尻島に渡っている。ニシン漁で栄えた江差に、かつてのにぎわいはなかった。札幌一極集中が進んでいる。
 奥尻島では、地震のとき、漁港も町も全滅した。映画にでてくる青苗地区の町並みはすべて津波で消えたという。そこに津波館が立てられている。
 イカの加工場と商店街は残っている。
 岬の突端に賽の河原と呼ばれる霊場がある。
 地震のあと、奥尻島復活の象徴となったのが、ワイナリーでつくられている奥尻ワインだという。
 江差線は2014年に廃線になった。旅行客が函館に行くにはバスに乗るしかない。
 著者は寅さんの跡をたどって、函館に1泊したあと、小樽に向かう。その途中、寄り道をして、倶知安からいまは無人駅となった小沢(こざわ)駅に立ち寄っている。駅はいま閑散としている。
 小沢には開拓地があったという。戦後、樺太からの引揚者が入植した。しかし、高冷地のため、満足な収穫は得られなかった。けっきょく、入植地はなくなる。
 小沢は共和町の一部。
 共和町の人口は1970年に9478人だったが、2015年には6224人になった。スイカ、メロン、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、ブロッコリーなどがよくとれる。それでも、人口の流出がつづく。
 寅さんは北海道の小さな駅をほんとうによく訪れている。いまは懐かしい蒸気機関車が走っているのが、映画の魅力のひとつだ。その蒸気機関車も1970年代から徐々に姿を消していく。
 寅さんが旅した北海道の国鉄路線は、廃線が相次いでいる。国鉄がJRに移行するのは1987年。しかし、その前から北海道では廃線化が進んでいた。
 函館本線の小沢駅から分岐する岩内線も85年に廃線になった。小沢駅がさびれたのも、そのことが一因になっている。
 カネのない寅さんは、小樽の手前にある蘭島(らんしま)駅で野宿している。
 そして、小樽。
 小樽について、川本はこう記している。

〈小樽は現在、運河の町として人気があるが「寅次郎相合い傘」が作られた1975年頃には運河の汚れがひどく一時は埋立ての話もあった。それでも市民の保存の努力が実った。それには運河の風景をとらえた「寅次郎相合い傘」の力もあったのではないか。〉

 これも寅さんの功徳である。

寅さんについて──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(2) [われらの時代]

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 著者の川本三郎と寅さんの旅をたどる前に、寅さんがどういう人物だったかを、本書から抜きだしておこう。
 寅さんはテキヤである。
「男はつらいよ」はもともとテレビドラマで、寅さんをテキヤにするのは、企画に参加した渥美清自身の考えだったという。
 当時は東映やくざ映画の全盛期。

〈東映やくざ映画の男たちがまなじり決し、深刻な顔をして戦うのに、寅さんは、ここぞというところでころぶ。挫折する。負ける。そこが愉快だった。〉

 川本はそう書いている。
 映画のなかで、寅さんは自分の父親はたいへんな「女道楽」で、へべれけのとき、芸者とのあいだでおれをつくったと語っている。もうすこし、まじめにやってほしかったというのが笑える。
 腹ちがいの妹、さくらがいる。
 第1作で、寅さんが20年前(高校生のころだろうか)父親と喧嘩をして、家をおんでて、そのうちテキヤになり、日本全国を放浪していたことがあかされている。
 そのあと両親が亡くなり(実母は長生き)、商売の団子屋は父親の弟(おいちゃん)が継いで、おばちゃんといっしょに、さくらを育ててくれた。
 かたぎの仕事につこうと決心することもあるが、長続きしない。けっきょくテキヤ商売に舞い戻る。
 テキヤはほとんどが旅の空ですごす。だが、寅さんのふるさとは、いつでも葛飾柴又。柴又に戻ってきては、ひと騒ぎおこすのがいつものパターンだ。
 ともかく女にほれやすい。そして、ふられて、意気消沈し、また旅にでる。
 女にたいしては純情としか、いいようがない。とくに、かたぎの女性には意気地がない。
 初期の寅さんは、威勢がよくて、けっこう暴れん坊だった。警察のやっかいにもなっている。
 寅さんは自由人だ。そして、人情家でもある。まわりの人を幸せにしたいと願っている。それが時に突飛な行動、とんちんかんな行動を引き起こす。
 妹さくらのお見合いの席を盛り上げようとして、下品なギャグを連発し、相手のひんしゅくを買い、縁談を台無しにしたりもしている。
 その結果、さくらと隣の印刷工場ではたらく博が結婚するのだから、なにが幸いするかわからない。
 だれもが勤め人になり、役所や企業のなかで、黙々と仕事をするのが一般的になるつつある時代、寅さんはもはや稀少な人間として、(テキヤというのが不適切なら)昔かたぎの移動式独立自営業をいとなんでいる。
 おなじみの立て板に水の口上からしても、寅さんは超一流のテキヤだとわかる。
「四角四面は豆腐屋の娘、色が白いが水くさい。四谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、粋な姐ちゃん、立ちションベン」
「黒い黒いは、なに見てわかる。色が黒くてもらいてなけりゃ、山のカラスは後家ばかり」
 名調子である。
 テキヤは旅する芸人だといってもよい。だが、くらしの厳しさ、わびしさはつきものだ。いつどこで行き倒れになるか、わからない。ニコニコしていても、どこかさびしさをかかえている。
 それでも、寅さんには人をひきつける磁力のようなものがある。気がいいから、みんなほっとするのだ。だから、豪邸に住む高名な画家も、女房に逃げられたサラリーマンも、仕事がいやになったサラリーマンも、わけありの女たち、あまりにも忙しい毎日にくたびれてしまった人気女性歌手も、かれのところに寄ってくるのだ。そんなとき寅さんはまるで、純朴な子どものようにみえる。寅さんもけっこう人に甘えている。
 著者もこう書いている。

〈寅が、気ままな風来坊だからだろうか、「男はつらいよ」には、お決まりの日常生活が息苦しくなった人間たちが、蒸発、失踪して寅と共に旅の空に、いっとき、行方をくらましてしまう話がよくある。日本人の世捨人願望があらわれている。本来、定住者である者が寅のような放浪の人間に憧れる。〉

 映画をみると、だれもがバカだなあと思いつつ、寅さんと旅の空をいっとき楽しんで、ほっとした気分になるのは、映画の効用である。
 映画をみる前と、映画をみたあとでは、気分が変わっている。
 大人のおとぎ話かもしれない。しかし、それでいいのだ。
 吉行淳之介にいわせれば、寅さんは「主観と客観の落差の烈しい人物」だという。映画の観客は、寅がまたあんなことを言って、とハラハラする。そして、最後はやっぱり「ばかだねえ」と笑う。
 威勢のよい啖呵を切るわりに、寅さんは喧嘩にはまるで弱い。
 本人は二枚目のつもり。その落差が笑いをさそう。
 渥美清なくしては、寅さんは存在しない。
 そして、寅さんは家族思いでもある。妹のさくらにたいしてだけではない。おいちゃん、おばちゃんにも恩義を感じている。
 シリーズの後半では、さくらの子どもで、自分と似てだめなところの多い満男をいつもかばっている。満男の恋の指南役もつとめる。
 どこがとんちんかんだが、けなげでもある。
 満男は「社会を否定しているおじさんが羨ましい」という。

〈それを聞いた母親のさくらは、満男をきつくとがめる。「おじさんは社会を否定しているんじゃなくて、社会に否定されているのよ」。確かに一人息子が寅のような風来坊になったら、母親はたまらない。〉

 さくらの分析はおかしいが、笑いたくても笑えない。
「渡世人の自由きままさと、いつ倒れるかわからない無常感は隣り合っている」と川本も書いている。
 最後の作品「寅次郎紅の花」では、寅さんは奄美の加計呂麻島で、どさ回りの歌姫リリーと暮らしている。
 渥美清の体調は、見るのも気の毒なくらい悪化していた。
 この映画を撮り終えた翌年、渥美清は亡くなる。
 ロケ地には、山田洋次監督の言葉が刻まれているという。

〈寅さんは居なくなったのではない。我等が寅さんは、今も加計呂麻島のあの美しい海岸で、リリーさんと愛を語らいながらのんびり暮らしているのだろう──きっとそのはずだ、とぼくたちは信じている。〉

「男はつらいよ」シリーズは50作まで予定されていたという。
 甥っ子の満男がようやく初恋の泉と結婚し、寅さんは幼稚園の用務員になり、かくれんぼうをしている最中になくなる。そして、町の人は寅さんの思い出のために地蔵をつくるというのだ。
 さびしい終わり方だが、いかにも風来坊の寅さんらしいかもしれない。
 しかし、映画は最後まで撮影されなかった。
 実際の最終作は48作までだ。
 それでもこの作品で、大震災被災地の神戸や、奄美の加計呂麻島を訪れる寅さんには、聖者の風格すら感じられると言ってもよいのではないか。
 それは畏れ多く、かしこまる聖者ではなく、笑われ、愛される聖者である。
 だれでもが知っていて、親しみやすく、慈愛に満ちた寅さんは、最後に、大きな悲しみや苦労を背負う人たちをはげましながら、舞台を去っていった。
 ぼくには、そんなふうに思える。
 そんな寅さんを演じた渥美清は、やはり不世出の役者だった。