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楽してカネはもうからないけれど──西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(5) [商品世界論ノート]

 巻3の最初のエピソードは、貧病の苦しみをなおす治療法について。
 ある金持ちがこう教えてくれた。早起き、家業、夜なべ、しまつ。そして、健康に心がけること。何よりも家業(与えられた仕事)にはげむことがだいじだ。
 しかし、次のものは毒になるので、気をつけなければならない。それは美食、好色、ぜいたくな着物。乗り物での女房の外出、娘や息子の稽古事。俳諧、茶の湯道楽、花見、夜歩き、博奕、碁、町人の剣術、寺社参詣、諸事の仲裁と保証人、新田開発や鉱山事業への出資、食事ごとの酒、たばこ、観光、役者遊びと廓通い、高い利息での借金、その他もろもろ。
 たしかに、これらを断てば、カネはたまりそうである。
 これを聞いた男は、まず江戸は日本橋の南詰めに1日立って、人の群れを観察してみることにした。橋には祭でもないのに大勢の人が行き交いし、大通りも往来の人であふれている。だれか財布でも落とさないかと目を皿にしてみていたが、そんな人はいない。なるほど、カネを稼ぐのは容易ではないと、いまさらながら男は気づいた。
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[日本橋。『永代蔵』の図版から]
 元手がなくてもかせげる仕事はないかと思案しているうち、ある日、男は大名屋敷の普請を終えた大工の見習い小僧たちが、かんなくずや檜の木っ端をぽろぽろ落としていくのに気づいた。それを拾っていくと、ひとかたまりの荷物になった。ためしに売ったところ、手取りで250文(7000円たらず)になった。
 足もとにこんな金もうけの種がころがっていたとは、と男はびっくり。それから、木屑や木っ端を集めつづけた。雨の日には、木屑を削って、箸をつくり、須田町や瀬戸物町の八百屋に卸売りをするようになった。
 こうして、この男、箸屋甚兵衛は、しだいに金持ちになり、ついには材木屋をいとなみ、材木町に大きな屋敷を構えるようになったという。持ち前の度胸で、手堅く材木を売り買いして、わずか40年のうちに10万両(108億円)の財産を築いたと伝えられる。
 そして70歳をすぎてからは、それまでの木綿着物を飛騨紬(ひだつむぎ)に替え、江戸前の魚の味も覚え、築地本願寺にも日参し、木挽町の芝居を見物し、茶の湯をもよおしたりして、余生をすごした。
 人は若いときに貯えて、年を寄ってから人生を楽しみ、人にほどこすことが肝心だ、と西鶴は教える。カネはあの世にはもっていけない。しかし、この世でなくてはならないものはカネというわけだ。
 エピソード2は豊後の府内(いまの大分市)に実在した富豪、万屋(よろずや)の話だ。
 万屋の家督を継いだ三弥は新田を開墾し、菜種を植えたところ、これが大成功して、大金持ちになった。灯火に使われた菜種油は当時の大ヒット商品である。
 ところが、この三弥、京都の春景色を見物にいったあたりから、だんだんと遊興の味を覚えるようになった。豊後に戻ってくるときには美しい妾を12人連れてきた。屋敷を新築して、ぜいたくのかぎりをつくし、冬の朝は雪をながめ、夏の夕涼みには多くの美女をはべらせて、扇で風を送らせるという日々。
 店をまかせていた古参の手代が亡くなると、三弥のぜいたくはますますエスカレートするばかり。これではおっつけ暮らしも立たなくなるだろうと周囲もやきもきしていたところ、案の定、ある年、収支に不足が生じ、それからしだいに穴が大きくなっていった。そして、ついには罪をおかし、殿様からとがめられ、命まで失うことになった、と西鶴は書いている。
 じっさい、豊後では、こういう事件があったらしい。本書の注には、万屋の3代目、守田山弥助は、藩主日根野吉明(ひねの・よしあきら)によって、正保4年(1647)10月、密貿易や奢りのかどで、一族5人とともに誅されたとある。ただし、その真相はわからない。興味をそそられる。
 次のエピソード3は、京都伏見の質屋、菊屋善蔵の話。
 伏見には豊臣秀吉の時代、かつて城がつくられ、大名屋敷が軒を並べていた。地震によって城が崩壊して以来、伏見にかつてのおもかげはまるでない。いまは荒れ放題で、まばらに家がたつばかり。人びとの暮らしは貧しく、蚊帳なしの夏、布団なしの冬をどうにかしのいでいる、と西鶴は記している。いまのにぎやかさからみれば、信じられない記述である。
 そんなうらぶれた伏見の町はずれに、菊屋という質屋があった。質屋といっても内蔵(うちぐら)もなく、長持ちに質草をいれてあるといった情けない身上だったが、それでも銀200目(36万円)にも足らぬ元手を回して、なんとか8人の家族を支えていた。
 質をおきにくる人の様子はいかにもわびしい。古傘1本、鍋、帷子(かたびら)、両手のない仏像、肴鉢などを置いて、わずかな銭を借りていく。脇からみていても涙がでるほどだから、質屋の主人は気が弱くてはつとまらない、と西鶴はいう。
 それでも、利息というのはつもるもので、この菊屋の主人は4、5年のうちに銀2貫目(360万円)ほども稼ぎだした。客にたいしては人情のかけらも見せず、神仏を信心することもない。ところが、どういう風の吹き回しか、この男、とつぜん大和は長谷寺の初瀬(はせ)観音を信心しはじめた。寺に通っては、御開帳に大判(86万円)を3度も投じるようになった。
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[御開帳のイラスト。]
 またとない信心深い男だと寺が大喜びしたのはいうまでもない。質屋の主人が、だいぶ痛んでいる戸帳(いわばカーテン)を寄進したいと申し出ると、寺は喜んで、古い戸帳の唐織をさげ渡した。じつは、この金襴の唐織は、室町時代以前の古渡りで、男はこれを茶壺の袋や表具切れとして売りさばき、たいまいのカネをもうけたという。さては、信心の狙いはここにあったのか、と町の人はしきりにうわさした。
 ところが、いったんは大金持ちになったものの、観音様の罰があたったのか、菊屋はその後、没落し、晩年は伏見の船の発着所で、焼酎や清酒を小売りしてくらす身に成り下がったという。甘口にせよ辛口にせよ、今の世の中、人はそうそう酔わされなくなった、と西鶴は結んでいる。
 エピソード4は高野山に縁がある。
 大坂の今橋筋に、けちで評判の金持ちがいた。この男は独身で、男盛りに何一つおもしろいことをすることもなく、57歳で死んでしまった。残された財産は供養のため寺に奉納されたが、そのカネが回りまわって世間を潤すようになったのは、なによりもの功徳だった、と西鶴は皮肉っている。
 金持ちになるには、持って生まれた才覚のほかに、幸運の手助けがなくてはならならない。ずいぶん賢い人が貧乏しているのに、愚かな人が富み栄えていることが多いのはそのためだ、と西鶴はいう。神仏を信じても、金持ちになるとはかぎらない、ともはっきり書いている。
 しかし、贅沢ざんまい、遊蕩ざんまいで、カネにしまりがない人は、いくら財産があっても、そのうち破産することはまちがいない。こういう跡継ぎをもつと家は不幸だ。そんなときには、前もって何らかの対策をとっておく必要がある。
 破産の規模はいろいろで、その清算の仕方もいろいろだ。ある人は11貫目(約2000万円)の借銀で破産したが、その負債にあてる家財は2貫500目(270万円)ほどしかなかかった。これをどうわけるかで86人の債権者が連日連夜寄り集まって話し合いをもった。しかし、話がなかなかまとまらず、集まってはうどんやそば、酒、肴、その他さまざまな菓子をとっているうちに、半年するうちに、残ったカネもすっかりなくなったという笑える話もある。
 大坂や江戸ならともかく、大津で1000貫目(18億円)もの負債をかかえて、倒産した家があったというので評判になった。100貫目借りるのも容易ではないのに、よく1000貫目も借りていたものだと、世間ではびっくりすることしきりだったという。
 これとは反対に、じつに律儀に借金を返そうとした人もいた。大坂の絵の子島(現在の大阪市西区江之子島)に伊豆屋という金持ちがいたが、破産したため、みなに頭を下げ、残った全財産を債権者に渡した。その額は負債の6割半だったという。それくらい渡せば、残りの借金はふつう帳消しになる。
 だが、その男は律儀で、故郷の伊豆に帰ると、一生懸命にはたらいて、しこたまもうけ、また大坂に戻ってきた。そして、借金の残りを返したのだが、倒産してからすでに17年もたっていたため、関係者も行方知らずになったり、亡くなったりしている人も多かった。子孫の絶えている人もいたが、伊豆屋はその分の銭を高野山に奉納して、石塔を建て、借銭塚と名付けて、その菩提をとむらったという。
 巻3のエピソード5。
 駿河府中(いまの静岡市)の本町にあった呉服屋の菱屋は、かつては繁盛し、大店をいとなんでいた。安倍川紙衣(かみこ[防寒などに用いた紙の衣])に縮緬皺や小紋をつけて売りだしたのが評判を呼んで、30年あまりのあいだに千貫目(18億円)の身代を築いた。
 ところが、息子の忠助はまるで無能、収支も決算もせず、帳面もつけないというだらしなさで、店はたちまち倒産してしまう。いったいにカネ儲けはむつかしく、減るのも早いものだ、と西鶴は書いている。努力なくして、カネはたまらぬものだ。
 その後、忠助は浅間神社(現在の静岡市葵区にある)の前の町はずれで、借家住まいをする身となった。親類縁者も寄りつかず、かつての手代も音信不通となり、悲しい日々を送っていた。
 かといって、はたらくわけではない。小夜(さよ)の中山にある峰の観音にお参りに行き、「もう一度長者にしてくだされ」と願って鐘をつくのがせいいっぱい。そんな男を観音さまが助けてくれるわけもない。
 しかし、さすがに何もしないのでは、日々のくらしが成り立たない。そこで忠助は竹細工の名人に習って、鬢水(びんみず[髪油])入れや花籠をつくって、13歳になる娘に町で売らせ、生計を立てていた。
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[町で花籠を売る娘。]
 あるとき、伊勢参りから帰る江戸の豪商が、たまたまこの娘を見初めた。そして、ぜひ息子の嫁にしたいと親元にやってきた。こうして忠助夫婦は娘ともども江戸に引き取られ、わが子の世話になる仕合わせな身の上となったという。まさに、ことわざにいうとおり、「みめは果報のひとつ」だ、と西鶴は結んでいる。
 男の競争もはげしいが、女の競争もきびしいものがある。
[しばらくブログはお休みです。]

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紀州太地と庄内酒田──西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(4) [商品世界論ノート]

 巻2のエピソード4。
『日本永代蔵』がおもしろいのは、大坂や江戸にかぎらず、日本全国にわたる商いの様子が、まるで週刊誌ルポのようにとらえられているところにある。
 場面は紀州の太地(たいじ)村に移っている。
 ここに鯨突きの名人で、天狗源内という人がいた。沖で鯨が潮を吹いているのをみかけると、船をこぎだし、一の銛(もり)を打ちこんで、風車の旗印をかかげたので、人びとはまた源内の手柄を知ったという。
 鯨を一頭とれば、ことわざにあるように七郷(ななさと)がうるおったというのは嘘ではない。しぼった油は千樽を超え、その肉、皮、鰭まで利用できないところはなかった。源内はさらに徹底していて、鯨の骨を砕いて、油をとるほどだったという。
 もともと浜辺のみすぼらしい家に住んでいた源内も、いまでは檜づくりの家を建て、その長屋に200人あまりの漁師をかかえている。
 ありていにいえば、ここでは鯨は海の稀少な巨大生物というより、貴重な商品となっているのだ。だから、源内は鯨を見つけると、天狗のように飛んでいって、一番銛をつける。
 西鶴のいうように鯨の体はすべてにわたって利用される。肉や皮、内臓が食用になったのはいうまでもない。骨は工芸品の材料にもなった。ヒゲは釣り竿やゼンマイ、指物に加工された。油は灯油などに用いられた。腸内からとれる竜涎香(りゅうぜんこう)は香料として珍重された。肥料としても使われている。要するに、あますところなく商品化されるようになった。鯨はカネになる生き物だったのである。
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 西鶴はさらにこんな話も紹介している。
 西宮の恵比須神社で開かれる正月10日の例祭(十日戎)に、源内は持ち船を仕立てて、かかさず参るのを20年この方、恒例としていた。
 ところが、いつもは朝早く参るのに、この日は、前日飲み過ぎたのがたたって、暮れ方の参拝となった。もう帰る人ばかりで、神主も賽銭を数えるのに忙しく、神楽を頼んでも、じつにおざなりだった。
 源内はすこし腹が立ったが、ともかく末社を回って、船に戻る。すると、疲れがでて、いつのまにか寝てしまった。
 その夢枕に恵比須さまがでてきて、なんと鯛を生きたまま運ぶ手立てを教えてくれたのだ。これによって、源内はまた大もうけすることになったという。まずは、めでたいというところだが、これは源内がいかにアイデアマンだったかを示している。
 エピソード5は、一転して山形の酒田に場面が移る。
 日本海に面し、最上川河口に位置する酒田は、江戸時代、北前船の寄港地としてにぎわっていた。
 鐙屋(あぶみや)は、その酒田を代表する廻船問屋である(いまもその屋敷が残っている)。鐙屋という名前からは、もともと馬方が宿泊する宿だったことがうかがえる。それに舟方も加わるようになったのだろう。
 西鶴も、鐙屋はもともとちいさな宿屋をしていたのが、万事行き届いているので、諸国から多くの商人が集まるようになったと書いている。そして、そのうち米をはじめとして、紅花その他の買問屋も営むようになった。
 問屋が失敗するのは、商品が売れると見越して、無理な商いをするからである。その点、鐙屋は堅実で、客の売り物、買い物をだいじにし、客に迷惑をかけることもなく、たしかな商売をつづけている、と西鶴は観察している。
 カネ(貨幣)の流通と、もの(商品)流通は連動している。日本海と瀬戸内海を往復して、北国・東北(のちには北海道まで)と大坂を結ぶ北前船の西廻り航路は、寛文12年(1672)に、河村瑞賢によって開発された。
 これによって、出羽、北陸の米が安全かつ容易に大坂に運ばれるようになった。さらにその航路は、すでに開発されていた江戸に向かう東廻りと連結し、これにより江戸時代初期に、本州を一周する航路が完成した。
 当初の目的は、大坂と江戸に年貢米を輸送することだった。だが、輸送されたのは米だけではない。商品の数や量がどんどん増えていった。
 暉峻康隆は本書の解説で、こんなふうに書いている。

〈最上・庄内地方の米はもとより、紅染(べにぞめ)になくてはならぬ山形特産の紅花をはじめ、内陸の特産品は、酒田を通じて千五百石・二千石積みの堅牢な北前船で大坂へ運ばれ、上方からは木綿・砂糖・古手[使い古しの着物や道具]などの雑貨が、これまた酒田を通じて東北各地へ運び込まれるようになった。瑞賢の開発によって、東北地方や日本海沿岸の各国の物産は、上方相場で取り引きされることになり、地域経済の壁を破ることができたのである。〉

 交易の発展は、商業の中心地と地域を結び、地域の発展を促していく。江戸時代のはじめには、そんな好循環がはじまっていたのだ。
 酒田はそんな日本の流通を担う北前船の一大寄港地だった。その数は天和(てんな)年間(1681〜83)で、毎年、春から9月までで3000艘におよんでいたという。
 鐙屋は北前船の交易にたずさわる商人に宿を提供するところから出発し、買問屋として商人の欲しがる物品を集め、それを売ることによっておおいに繁盛した。
 その経営者はどんな様子かというと「亭主は年中袴(はかま)をはいて、いつも小腰をかがめ、女房は絹の衣装を着て居間を離れず、朝から晩までにこにこして客の機嫌をとり、なかなか上方(かみがた)の問屋などとはちがって、家業を大事にしている」。
 西鶴は、ここに人当たりのよさに加えて、並々ならぬ才覚と度胸をもつ商人の姿をとらえたのだった。

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西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(3) [商品世界論ノート]

 西鶴はおカネにまつわる話を、日本全国にわたって、じつにまめに集めている。感心するほかない。
『日本永代蔵』が出版されたのは元禄元年(1688)だが、その話は寛文年間(1660年代)のものが多いという。そのころから、日本ではすでに商業活動が盛んになっていた。安定した貨幣がそれを支えている。
 巻2のエピソード1は、京都で狭い借屋暮らしをしている大金持ち、藤市(ふじいち)の話だ。ただのケチの勧めではない。
 世渡りの基本は万事ぬかりないことだ、と西鶴は書いている。
 藤市の特徴は、つねに情報を集めていたことだ。両替屋、米問屋、薬屋、呉服屋の手代から、いつも銭や米の相場、長崎の様子を聞いている。繰綿や塩、酒の相場にも注意を怠らない。そして、それを怠らずメモしていた。
 藤市は京都の室町通御池之町に店をだし、長崎商いで、2000貫目(いまでいうと36億円)の財をなした大商人である。
 そのしまつぶりは徹底していた。
 身なりはさっぱりしていたが、質素だった。絹物もほとんどもたず、紋服もありきたりのもの。野道でセンブリなどをみつけると、これは腹薬になると持ち帰るほど。ぬくもりの冷めた賃餅を目方で買う。冷めたほうが目方ガ減るからだ。
 茄子(なす)の初物も買うのは少しだけ。家の空き地には、もっぱら実用的な草木を植えている。娘も寺子屋に通わせることなく、家で手習いを教え、とうとう京でいちばんの賢い子に育て上げた。親がしまつなのを知って、子も人の世話にならず身の回りのことを自分でする習慣を身につけ、華美な遊びにはまったく染まらなかった。
 正月に客がたずねてきて、藤市に世渡りの秘訣を聞いた。藤市は丁寧にいろいろと教える。客はそろそろ夜食がでるころだと期待する。「そこを出さぬのが長者になる心がけだ」と、釘を刺すところに藤市の本領がある。
 エピソード2は、大津の醤油屋の話。
 大津は北国の物産が集まる船着場、東海道の宿場としてにぎわっていた。問屋町も豪勢で、客をもてなすために、柴屋町の遊郭から遊女を呼び寄せて、どんちゃん騒ぎしている声が聞こえてくることもある。
 そんなカネがあふれている町で、醤油屋の喜平次は、荷桶をかついで地道に醤油を売っている。その日暮らしの生活だが、世をうらんではいない。銭は天から降るわけでも、地から湧くわけでもないと思って、毎日、一生懸命にはたらいている。
 醤油を売り歩いていると、町のいろんな話が耳にはいってくる。
 関寺町(いまの大津市逢坂2丁目)の森山玄好は藪医者で、ほとんど患者が寄りつかず、しばらくぶらぶらしていたが、とうとう碁会所をはじめたとか。
 馬屋町の坂本屋仁兵衛は、以前は大商人だったが、いまは見る影もなく、母親の隠居銀(いんきょがね)で家族5人、ほそぼそと暮らしているとか。
 船着場のほとり、松本の後家は、娘に黄枯茶(きがらちゃ)の振り袖を着せ、「抜け参りの者にお助けを」と唱えさせて、お伊勢さまをだしに、人から小銭をもらって暮らしているとか。
 ほんとうに、いろんな暮らしぶりがあるものだと、きょう集めた話を喜平次は家で女房に話していた。この女房はよくできた女で、家事万端やりくりをして、大晦日に借金取りがやってくることもなかった。
 ところが大晦日の12月30日の明け方、冬はめったに鳴らない雷が家に落ちて、一揃えしかない鍋釜を打ち砕いてしまうという椿事(ちんじ)が発生する。喜平次は仕方なく、鍋釜を買ったところ、9匁(1万7000円ほど)借金が残ってしまった。これまで、大晦日に借金を残したことはないのに。
 くわばら、くわばら。雷ほどこわいものはない。
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 話はここで終わるのだが、人の好い喜平次には、これからも息災でいてほしい、とだれもが思うだろう。
 エピソード3は京都大黒屋の息子の話。
 大黒屋は京都でも指折りの金持ちで、米問屋を営んでいた。五条橋を石橋に架け替えるときに、その橋板を譲り受け、それに大黒の像を刻ませた。それが大黒屋という屋号の由来だという。
 その主人がそろそろ隠居しようと思うころ、長男の新六がにわかにぐれだした。色遊びにうつつをぬかし、半年もしないうちに170貫目(約3億円)もの穴をあけてしまった。そりゃ、カネはためるより使うほうがおもしろいに決まっている。手代がなんとか帳尻をあわせて、盆前の決算を乗り切ったものの、その後も新六の道楽はやまない。
 そこで、とうとう勘当ということになった。新六は伏見稲荷の前にある借家に身を隠し、わが身を嘆く日がつづいた。年もおしつまった12月28日、家の風呂にはいっていると、血相を変えた親父さまが突然あらわれたので、ふんどしもつけず、綿入れを1枚引っ掛けて逃げだした。たぶん、大黒屋に借金取りが押し寄せたのだろう。
 なぜか江戸に行こうと思っていた。1文もないので、道中苦労したことはいうまでもない。生まれもった才覚で、何とか銭をかせぎだし、餓えをしのぐ。その道中のなりゆきをえがく西鶴の筆はさえている。
 江戸に着いたときは2貫300文(6万2000円ほど)残っていた。日も暮れてきたのに、宿のあてもなかったので、新六は東海寺(北品川の禅寺)の門前で一夜を明かすことにした。大勢の乞食がいた。波の音が響いて、眠れないまま、みんなが身の上話をするのを聞いていた。
 だれもが親の代からの乞食ではなかった。ひとりは大和の竜田の里から江戸に出た者。江戸にくだって、一旗揚げようと、わずかな元手で酒の店を開いたが、これが大失敗。もうひとりは泉州堺の出身で、芸事で身を立てようとしたが、商売にはならなかった。もうひとりは江戸の生え抜きで、日本橋に大きな屋敷をもっていたが、何せカネを使うことしか知らず、そのうち自分の家まで売ってしまい、乞食になってしまったという。
 話を聞いて、新六も身につまされるばかり。親に勘当された身を語った。それにしても、これから江戸で生きていくにはどうすればよいか。カネがカネを生む世の中、元手がなくては商売もはじめられない。新六は話を聞いた礼に3人の乞食に300文(約8000円)ずつやって、たまたま知るべがあった伝馬町の木綿問屋を訪れ、それまでの事情を話した。
 すると問屋の主人は同情してくれて、江戸でひと稼ぎするよう励ましてくれた。そこで、新六はまず木綿を買いこみ、手ぬぐいの切り売りをすることにした。縁日に目をつけ、下谷の天神(寛永寺黒門近くにあった牛天神)に行き、手水鉢(ちょうずばち)のそばで売ったら、参詣の人が縁起をかついで、よく売れた。
 そんなふうに毎日工夫して、商売をつづけていたら、10年たたないうちに5000両(約5億円)の金持ちとなり、町の人からも尊敬を集めるようになったという。店ののれんには菅笠をかぶった大黒が染められていた。これが江戸の笠大黒屋のはじまりになった、と西鶴は話を結んでいる。
 人生どんなふうに転がるかわからないものだ。しかし、世をうらんでも仕方ない。けっきょく、自分で自分の道を切り開くしかないのだ、と西鶴は主張しているようにもみえる。

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西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(2) [商品世界論ノート]

 前回、述べたようにカネがカネを生む世の中がはじまっている。
 つづいて『日本永代蔵』巻1のエピソード2を読んでみよう。
 場所は京都だ。商売一筋、2000貫(いまの5400万円)をためこんで亡くなった父親の跡を21歳で継いだ2代目の話。この息子も倹約家で、商売熱心なことで知られていた。
 ところが、父親の墓参りから戻る途中、禁裏の薬草園のそばで、封じ文を拾ったところから、男の歯車がくるいはじめる。この封じ文はどうやら客が花川という島原の遊女に宛てたもので、なかには一歩金(約2万7000円)と、ことわりの文がはいっていた。
 息子は、このままネコババするのもまずいと思い、それまではいったことのない島原に行き、花川という女郎を訪ねるが、会うことができなかった。このところ気分が悪く引きこもっているという。
 しかし、せっかく島原に来たのだから、一生の記念に遊んで行こうと、出口の茶屋にあがり、安上がりの囲い女郎を呼んでもらい、飲みつけぬ酒に酔った。
 これが転落のはじまり。若旦那はだんだん悪い遊びを覚え、値の張る太夫買いまでする始末。太鼓持ちに囲まれ、「扇屋の恋風さま」とおだてられ、散財するうちに、あっというまに財産をなくしてしまったという次第。
 当時の島原が大きなカネを吸い寄せる歓楽スポットだったことがわかる。
 扇屋の若旦那は、商売そっちのけで、その魅力に取り憑かれてしまったのだろう。
 つづいてエピソード3。
 泉州の唐金屋(この家は、いまの泉佐野市に実在していた)は大船をつくり、北国の海を乗り回して、難波に米を運び、大儲けした。北前船の航路が開かれていた。
 大坂は日本一の港で、米の相場は北浜の米市(のち堂島)で決まる。西鶴は華麗な筆で、大坂の繁盛ぶりをえがく。とりわけ中之島には鴻池、淀屋をはじめ、昔からの分限者(金持ち)が集まり、表向きの米仲買はそっちのけで、金融業を営んでいたという。
 米は当時、最大の商品だった。各藩の財政は、年貢によって支えられており、物納された米は売却され、貨幣に代えられて藩に収められていた。だから、各藩の米を扱う鴻池や淀屋が実質上の金融業となり、大名にカネを貸すようになったのは必然だったといえる。
 米はもちろん町で消費された。なかでも、江戸、大坂、京都が3大消費地だった。そして、米の相場は、大坂で決められている。
 もっとも、人の生活は米だけあれば足りるというものではない。そのほか、衣食住それぞれの支えがなくてはならない。町では、それに応じて、さまざまな商品が生みだされ、それをつくりだす職人や、それを売る商人が増えて、さらに町を繁盛させていくことになる。
 そして、かつてはほぼ自給自足していた村が、こんどは町のために商品をつくるようになり、逆に町の商品を買うようにもなって、貨幣経済が全国に行き渡り、商品世界が誕生することになる。
 西鶴は、大坂の商売人といっても、昔から商売をしているわけではないと書いている。大和、河内、摂津、和泉あたりの農家の子どもが丁稚にでて、見よう見まねで商いをしているうちに、暖簾分けをしてもらうケースが多いというのだ。もっとも、その途中でしくじる者も数知れない。ともかく、奉公はよい主人をもつかどうかで、そのあとの運が決まってくる、と西鶴はいう。これはいまのサラリーマンも同じ。
 しかし、大坂がすごいのは、商売のネタがどこにでも転がっていることだ、と西鶴は書いている。たとえば、蔵がいっぱいになって、置ききれない米俵を外に置いておくことがある。
 その俵を運搬しなおすたびに、米がこぼれ落ちる。こぼれ米を集めていたある老女は、その米をためて、こっそり売り払っていた。そのうちに、へそくりがたまりにたまって、20年あまりのうちに12貫500目(いまの金額にして2000万円以上)になった。
 老女のせがれは今橋のたもとに、この資金を元手として銭店を開いた。銀貨などを小銭に両替する商売だ。それが繁盛して、男はいっぱしの両替商になった、と西鶴は書いている。これこそ、ほんとのこぼれ話。商売のチャンスはどこにでもある。
 エピソード4は服装の話。
 昔とちがって、服装はしだいにぜいたくになり、人は万事不相応に華麗を好むようになった、と西鶴は書いている。太平の到来が、服飾に大きな変化をもたらしていたのだろう。
 小紋の模様、百色(ももいろ)染、洗い鹿の子など、西鶴はいろいろ紹介してくれているのだが、洋服屋の息子のくせに、ぼくにとって服装はあまり縁がない。しかし、徳川時代の人はおしゃれに目がなかった。いい柄の着物は当時からだれもがほしがる商品だった。それに時と場所によって、必要な着物もちがってくる。
 西鶴によれば、京都室町のある仕立物屋は、腕のいい多くの職人をそろえていたので、人びとはここに絹や木綿の反物を持ちこんで、着物をつくってもらっていたという。
 江戸では本町(日本橋本町)に呉服屋が並んでいた。いずれも京都の出店だったと。そこの番頭や手代はお得意の大名屋敷に出入りして、抜け目なく商売をおこなっていた、と西鶴は書いている。
 ところが、最近(17世紀半ば)は世の中がせちがらくなり、大名屋敷も入札(いれふだ)で、業者に品物を請け負わせるようになった。そのため呉服屋も、もうけの幅が少なくなり、しかも、当時は掛け売りが一般的だったので、それがこげついてしまう場合も恐れがあった。このままでは、算盤が引き合わなくなり、店の経営がますます苦しくなる、とみんなが心配するようになった。
 そこにさっそうと登場したのが、三井九郎右衛門(正しくは八郎右衛門高平)という男だ。伊勢松坂から進出し、三井の豊富な資金力を背景に、駿河町に越後屋という大きな新店(しんだな)を出した。
 すべて現金掛け値なしと決め、それぞれ品ごとに専門の手代40人を担当させて、商売をはじめたのだが、これが大評判になった。現金売りだが、ほかと比べて安いし、品揃えが豊富、少量の切れでも売ってくれるし、急ぎの羽織なども即座に仕立ててくれる。毎日平均150両(いまでいえば1700万円近く)の商いをした、と西鶴は書いている。
 この主人こそ大商人の手本だ、と西鶴はべたほめしている。この三井の越後屋が、現在の三越へつながることは、いまさらつけ加えるまでもないだろう。
 巻1の最後、エピソード5は松屋の後家の話だ。
 松屋は、京から奈良にでる奈良坂を超えた春日の里で、晒布(さらしぬの)の買問屋(かいといや)を営んでいた。ちなみに、晒布は麻や木綿でつくる反物で(木綿のものが更紗)、奈良の特産品だった。松屋はその晒布を買って、諸国の商人に売る商売をしていた。
 ところが、あいにく、その主人が平生の贅沢と不摂生がたたって、50歳で早死にしてしまう。あとに残されたのは38歳の後家と幼い子どもだった。だが、悪いことに、だいぶ借金も積もっていた。
 器量よしの後家は再婚もせず、髪を短くして、白粉もつけず、懸命に亡き夫の後始末に奔走した。
 借金は銀5貫目(およそ900万円)ほどだった。最初はそれを返済するため、債権者に住んでいる家を引き渡すつもりだった。しかし、だれも受け取ろうとしない。その処理がめんどうだったのと、母子をいきなり追いだすような不人情をしたくなかったからだろう。
 そこで、後家はこの家を頼母子(たのもし)の入札(いれふだ)にして売ることにした。1人から銀4匁(約7200円)ずつ受け取って、札にあたった人にこの家を渡すことにしたのだ。いまでいう宝くじのようなものだ。
 すると3000枚の札がはいって、後家は銀12貫目を受け取ることになった。札にあたったのは、人につかわれていた下女だった。後家は、これで5貫目の借金を払って、残った7貫目(約1260万円)を元手に商売をはじめ、ふたたび金持ちになった、と西鶴は書いている。
 これは才覚によって、降りかかる苦難を乗り越える話だ。

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西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(1) [商品世界論ノート]

 この9月で、10年つづけてきた書評の仕事をやめることにした。
 新刊を探して、読むのにくたびれてしまったからだ。
 いっても詮ないことながら、もう歳である。潮時である。だんだん時代についていけなくなっている。
 定年になったら読もうと思っていた本が、まだ山積みになったままだ。
 新刊の書評をしていると、たまっている本が読めない。それも書評の仕事をやめた理由だ。これからは、ときどき本をぱらぱらとめくりながら、のんびりすごしたいと思っている。
 そんなわけで、本棚を眺めていたら、井原西鶴の『日本永代蔵』が目についた。暉峻康隆の現代語訳だ。ぱらぱらとめくりはじめる。
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『日本永代蔵』が出版されたのは元禄元年(1688)年のことだという。
「大福新長者教」のサブタイトルがある。解説によると、昔、寛永4年(1627)に『長者教』という本が出ていて、西鶴の本はそれを引き継いで、新長者教を記したということになる。
 長者になるための教えということになる。
 昔の『長者教』は中世末期に流布していた写本を出版したもの。3人の長者が童子の問いに答えて、長者になる心構えを説いている。
 長者は金持ちとはかぎらなかった。しかし、西鶴の新長者は、明らかに金持ちを指している。その背景には貨幣経済の発達がある。
 全部で巻6まであり、合わせて30のエピソードからなる。どこからでも読めるが、とりとめがないといえば、そのとおりで、これが現代人に役立つとも思えない。
 全部おカネにまつわる話。カネが人を動かす時代がはじまっていた。西鶴はそれをときにユーモラスに、ときにあわれにえがく。
 まず巻1の最初のエピソード。「初午(はつうま)は乗ってくる仕合わせ」
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 おカネはあの世では役に立たないが、おカネがあればこの世でかなわぬことはまずない。残しておけば、子孫のためにもなる。だから、よく働いて、おカネをためよう。
 西鶴はそんなふうに書いている。このあたりは、いまの庶民の感覚も同じ。
 春の山遊びにもってこいの2月[いまの暦ではほんらい3月半ばごろ]、初午の日には、泉州の[現大阪府貝塚市にある]水間寺(みずまでら)に多くの貴賎男女が参詣にやってくる。
 この寺の人気は借銭(かりぜに)。その年、1文借りたら、明くる年2文にして返す。100文借りたら、200文にして返す。借りるといっても、いまでいえば何百円程度のごくわずかな金額だ。
 ところが、あるとき、遠方からきたと思われる二十歳そこそこの若者が「一貫文借ります」というので、僧はびっくりして国や名前を聞かないで、そのまま貸してしまった。
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[一貫文。ウィキペディアより。]
 一貫文は銭1000文のこと。いまの金額にすれば2万7000円ほどだというが、貨幣経済が発達していない当時は、おカネの希少性がちがう。
 ところが1年たっても、貸したおカネは戻ってこない。寺をだますとは、罰当たりなやつだと思うが、後の祭り。これからはあまり大きな金額を貸さないようにしよう、と寺僧たちが申し合わせた。
 それから13年。水間寺に銭を積んだ何十頭もの馬がやってきて、男があの節はお世話になりましたといって、大量の銭を寺に積み上げた。寺は喜んで、その寄進で立派な塔を建てることにした。
 その男は武蔵国江戸の小網町で、網屋という船問屋をしているという。硯箱と銭箱がいっしょになった掛硯(かけすずり)に仕合丸と書いて、そこに水間寺の銭を入れておいたら、船頭たちがその銭を借りたいといい、100文ずつ貸していたら、それがいつのまにか増えて、8192貫になっていた。こうして男は長者と呼ばれる大金持ちになっていたという次第。
(西鶴はあいまいな書き方をしていて、8192貫を寺に返したようにも受け取られるが、ぼくはそう思わない。)
 はたして、いったいこんなうまい話がほんとうにあったものだろうか。
 まゆつばだと思ってしまう。
 ちなみに8192貫という数字は、年利100%の複利で計算すれば、まさに13年後にそうなる。西鶴の計算はまちがっていない。
 岩井克人によれば、中世から近世にかけ、信者が寄進した金銭を寺が祠堂銭として貸し付ける習慣があったのは事実のようだ。おそらく、信者はそれを生活費として使うのではなく、縁起物として飾っておき、1年の息災を感謝して、利子をつけて寺に返却したのだろう。いわば前借り賽銭の循環である。
 ところが小網町網屋の発想はそうではなかった。船頭たちは、もちろんそれが水間寺の銭とありがたがり、縁起担ぎで、網屋から銭を借りたにちがいない。ここで、西鶴はあいまいにぼかしてしまっているが、おそらく網屋は水間寺の銭を元手、すなわち資本として、金融資本家に成長したのである。
 回転しはじめた銭に水間寺というしるしがついているはずもない。しかし、それを船頭たちは水間寺のお守りのように信じた。網屋が長者になったのは、おそらく寺から借りた元手から獲得した総利得をすべて寺に戻さず、自分の資本に組み入れるすべを知っていたからである。
 男は水間寺の祠堂銭を原資として、いわばみずから銀行を設立し、それで大もうけをし、長者となったわけだ。そのもうけをすべて寺に戻して、元のすっからかんになるほど、お人よしだったとは思えない。
 武家や寺社から独立して、商人が誕生しようとしていたことを、西鶴のエピソード1は示している。そして、それはちいさなお守りのようにはじまったカネが、だれにとっても、なくてはならぬものとして、どんどんと膨らんでいく過程を含んでいたはずである。
 一貫なら100銭ずつ借りて借り手は10人である。ところが、たとえば256人になると、借り手は2560人必要だ。まして8192貫となると、8万1920人が銭を借りてくれなければ、商売は成り立たない。
 そのあたりのむずかしさに西鶴はふれていない。とはいえ、カネの世界があれよあれよといううちに広がっていくさまには、西鶴もびっくり、読者もびっくりだったのではないか。エピソード1は、そんなおどろきをも伝えている。





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ラッセル・カーク『保守主義の精神』(まとめ) [本]

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   1 はじめに

 訳者、会田弘継の解説によると、著者のラッセル・カーク(1918〜94)は戦後アメリカを代表する保守思想家だという。原著は1953年に初版が発売され、その後、改訂を重ねて、1986年に第7版が出された。本書はその第7版をもとにした初の邦訳である。
 アメリカにはふたつの顔がある。ひとつは自由と民主主義、リベラルのアメリカ、もうひとつは保守的で信仰心にあふれ、なによりも勤勉さを重視するアメリカ。このふたつの顔は別々ではなく、ときに交錯し、複雑な色合いをみせる。そこにさらに資本主義と戦争という創造的破壊の要因が加わると、アメリカ史はまさに熱狂のるつぼと化すのである。
 その混沌のなかに、一本の鮮烈な水脈を見いだそうとすれば、それがイギリスの伝統を受け継いだ保守主義の精神ということになるのではないか。
 昔、イギリスの歴史家ポール・ジョンソンの本を何冊かつくったことがある。『インテレクチュアルズ』、『現代史』、『近代の誕生』、『アメリカ人の歴史』など。そこに感じられたのは、イギリス保守主義への誇り、深い信仰心、人間本性への洞察、そして何ともいえないユーモアだった。
 この本にとりかかろうとして、そんなことを思いだしたのは、ポール・ジョンソンの本を通じて、イギリスとアメリカには、ずいぶんいやな面もありながら、同時にすぐれた面もあると再認識したからだった。そこには、義理と人情、道徳や規則にがんじがらめになってしまう日本の光景とは異なる、一種からっとした理知的な精神が広がっていた。
 そんなわけで、この本を購入したときに、なぜか思い浮かべたのは、ポール・ジョンソンの数々の著作だったのである。
 原著のタイトルはThe Conservative Mind: From Burke to Eliot(『保守主義の精神──バークからエリオットまで』)。日本語版のタイトルには、このサブタイトル部分が割愛されている。日本の読者にはアピールしないと判断されたのかもしれない。バークはイギリス保守主義の泰斗エドマンド・バーク(1729〜1797)、エリオットは『荒地』の詩人トマス・スターンズ・エリオット(1888〜1965)。本書はそのバークからエリオットまでの保守の系譜をたどろうというものだ。
 目次をみると、日本人にはあまりなじみがない英米の人物の名が並んでいる。日本ではこれまで欧米の保守の系譜が、ほとんど紹介されてこなかったことに、いまさらながら気づく。
 そもそも日本では、明治以降、西洋からの輸入思想は反体制を意味することが多かった。近代以前の儒学、仏教、国学の教義は、保守を支える側に回った。だから、西洋の保守主義はあまり移入されることがなかったのかもしれない。
 もうひとつの理由は、おそらくキリスト教と関係している。キリスト教神学と強く結びついている西洋の保守主義は、日本ではなかなか受け入れにくかったのではないだろうか。これは勝手な憶測である。
 何はともあれ、まず第1章を読んでみよう。
 19世紀の自由主義者、ジョン・スチュアート・ミルは保守主義者のことを「愚かしい党派」と呼んだという。
 だが、著者のカークは、「古来の常識」と「古くからの定め」を根拠とした近代の保守主義者エドマンド・バークの側に立つ。バークが著者の原点だといってよい。
 バークの生地、ダブリンを訪れた著者は、いまの時代にこんな感慨をいだく。

〈伝統を呪詛し、平等を言祝ぎ、変化を歓迎する世界。ルソーにしがみつき、彼の思想をまるごと鵜呑みにして、そして、より一層過激な預言者を求める時代。産業主義の汚濁にまみれ、大衆によって画一化され、政府にがんじがらめにされた世界。戦争によって傷つき、東西の二大国[本書が出版されたのはまだ米ソ冷戦の時代だった]のあいだで震えおののき、砕けたバリケード越しに瓦解の深淵をのぞく世界。〉

 これが著者の感じている世界だ。急進主義、大衆社会、世俗化、産業主義、物質主義、暴力主義、集権主義への怒りに満ちている。こうした世界に対峙し、みずからの精神をたもつには、保守の源流に立ち戻り、そこからの流れをたどるしかない。
 そこで、著者は1790年に『フランス革命の省察』を著したバークを再発見することになる。バークこそが保守主義の師だった。近代保守主義の流れはすべてバークから発しているという。
 ぼく自身はバークについて、ごく断片的にしか知らない。最初フランス革命を支持していたかれがフランスの民主政を「この世でもっとも恥知らずのもの」と呼ぶにいたったこと、フランス革命が「狂気、不一致、悪、混乱、癒やされることのない悲しみに満ちた殺し合いの世界」であると認識するにいたったことを、わずかに知るくらいである(ポール・ジョンソンによる)。
 いずれにせよ、近代保守主義の精神史ともいうべき本書は、バークからはじまるのだが、その前に、著者は保守思想の要点をいくつかまとめている。
 簡単にいうと、それは個人の良心を信頼し、自然につくられる社会秩序を重んじ、人間存在の多様性を尊重し、人生は生きるに値するものだという感覚をだいじにし、文明社会には身分秩序が必要だという認識に立ち、人の自由と財産は犯してはならないと考え、慎慮にもとづかない変革を拒否する思想だということになる。ぼくらからすれば、これ自体、ずいぶんリベラルだと感じるのはどうしてだろう。
 著者はいう。保守主義は急進思想に反対する。急進思想とは、社会は無限に進歩すると考え、伝統を軽蔑し、政治的平等化、経済的平等化を求めるイデオロギーをさす。それは、けっきょくのところ国家による人間の支配をもたらす。
 著者は現代の高度資本主義社会のなかで、保守主義は追い詰められ、風前の灯火のようになったと感じている。保守主義こそ「神の摂理」と信じる著者にとって、保守思想の根本的理解が、悲愴ともいうべき使命感となっていることは、第1章の最後に置かれた次の一節からも感じられる。
 いわく。

〈たとえ保守主義に秩序を再興することができなくとも、保守主義の思想を理解すべきであろう。その理解を通じ、解き放たれた意志と欲望の業火がすべてを焼き尽くした後に残された、焼け焦げた文明の切れ端を、能う限り灰燼のなかからかき集めねばならない。〉

 ここからは、もう古き良き時代は戻らないという嘆きさえ聞こえてくるかのようだ。
 しかし、時代はめぐりめぐって、いまはまた保守の時代になったのではないか。時代はめぐり、思想もめぐる。それが思想の運命というものだろう。
 歴史において、否定性の弁証法はつねにはたらく。だが、その水脈は消えることがない。保守主義の水脈を追ってみる。

   2 エドマンド・バーク

 ホイッグ党の幹部で下院議員でもあったエドマンド・バーク(1729〜97)は、議会政治を擁護し、もともと権力の恣意的な濫用に反対する自由主義的な立場をとっていた。そのバークが『フランス革命の省察』において、革命を痛烈に批判する側に転じたのは、フランス革命が伝統と常識を無視して、頭でっかちの理論にもとづいて社会変革をこころみようとしたからだ、とカークはいう。
 道徳的秩序、慣習による定め、慎重な改革が、バークの信条である。それはどの時代、どの社会でも適用できる原則だ。1688年の名誉革命以来、イギリスの国制はイギリス人の市民権を認めている。そして、国の統治に関しては、公衆が代表者をつうじて政治に参加する仕組みができあがっていた。権力は恣意的に行使されない。バークが支持するのは、そうした政治体制である。
 バークは普通選挙権には共鳴していない。その意味では民主主義者ではなかった。かといって固陋な貴族主義者だったわけではない。かれ自身、中産階級から多くの支持を受けていた。
 バークにとって国家ないし社会とは、つねに再生しつづける共同体にほかならなかった。バークは公正なる法と自由を擁護した。自由はけっして放縦ではなく、常識の定めにしたがうものであり、古来の権利とみなされていた。「バークは保守であるが故に自由主義者だった」と、カークは書いている。
 バークは社会改良論者ではなく、伝統的な政治体制が維持されるべきだと考えていた。政治を推し進めるにあたっては、つねに慎重だった。人権を認めていたが、人権を強く主張することはなかった。独裁的な権力をふるおうとする国王やインドの征服者を批判したが、それはかれらの強引なやり口を嫌ったからである。
『フランス革命の省察』と、それにつづく一連の書簡で、バークはフランス革命の急進主義を批判した。当時、イギリスでも、都市や農村の労働者の惨状を背景として、革命熱が高まろうとしていた。バークはそれを水際で阻止しようと決意し、平等主義こそ絶対だという思い込みに反論を加えた。
 ヴォルテールの合理主義、ルソーのロマン主義、ベンサムの功利主義がバークの標的だった。著者のカークは、これらを総称して、18世紀末の急進主義と呼んでいる。急進主義者は政治権力を破壊し、理性にもとづいて社会を改革するのだと唱えていた。現実主義者のバークにとって、それらはあまりにも傲慢な思想のように思えた。
 バークにとって、政治とは道徳の実践を意味していた。人と国家が、神の恵みの産物であるように、道徳もまた神によって与えられたものだ。啓蒙主義のいう理性は、じつは無知にほかならない。それは理性の名を借りて、人びとの力と欲望を解放し、社会をカオスにおとしいれようとするものだ。
 バークは、人は天の配剤によって、与えられた役割を、その名誉と責任をもってまっとうすべく定められていると信じていた。だから、啓蒙主義に反対した。人間を全面的に持ちあげる啓蒙主義には敬虔さが欠けていると感じていた。
 バークにとって、人間が平等というのは、社会的に平等という意味ではなく、道徳的に平等という意味である。人間は完全無欠の存在たり得ない。人間社会に貧困、残虐、不幸、罪悪はつきものであり、いくら制度を手直ししたところで、それがなくなるわけではない。人の実存を耐えうるものにしているのは、信仰だけである、とバークはいう。
 バークにおいて、教会は国家や社会と密接に結びついていた。人間界の法は、神の英知の不完全な顕現にすぎない。社会秩序は道徳的秩序なのである。野望や扇動、偽善によって、社会秩序を破壊したところで、悪を根絶できるわけではない。慎慮と謙虚という美徳がなければ人間はみじめなままである。社会に生きる人間を導くのは、古来の伝統と常識以外の何ものでもない。バークはそう考えていた。
 人間は神の摂理に導かれ、数千年におよぶ経験と省察をつうじて、集団としての英知を手にした。バークの立場は、その英知、言い換えれば慣習や常識を尊重することだった。集合的知性の尊重は、科学的合理主義の背後にひそむ残忍性を抑制する方向にもはたらくはずだ、とカークはいう。
 歴史を動かしているのは、人間のやみくもな衝動でも純粋理性でもなく、神の摂理にもとづく人間の行動だ、とバークは考えていた。慣習と常識は理性を活性化させ、その影響力によって理性に永続性を与える。慣習と常識を敬うところが、バークとロマン主義者とのちがいだ、とカークは指摘する。
 あくことを知らぬ人間の欲望と意志に、どこかで歯止めをかけなければならない。そうしなければ、人間は原始状態に回帰してしまう。理性だけではじゅうぶんではない。古い常識と定め(道徳)があってこそ健全さが保たれるというのが、バークの基本的な考え方である。
 急進主義者のえがくバラ色の虚飾は疑ってみなくてはならない。そのいっぽう、バークは社会の変化は不可避とも考えていた。だが、それは、時の流れに応じて、社会秩序を修繕するという国家再生のプロセスなのである。「私たちにできること、つまり、人間の英知にできることは、変化がそれと気づかぬほど少しずつ進行するように条件を整えることのみである」と、バークはいう。
 カーク自身はこう述べている。

〈バークは英国の政治家に、勇気と機知をもって変化に対応する術を教えた。変化のもたらす負の影響を緩和し、革新者にも伝統の名残を受け入れさせることによって、古き良き秩序の最良の要素を保持する術を教えたのである。バークが政界を引退してからというもの、英国において深刻な反乱は一件たりとも起こっていない。〉

 カークは急進派の唱える権利は、しばしば単なる欲望である場合が多いと批判している。権利には義務がともなうはずだが、その義務はたいてい無視されてしまう。これにたいし、バークは「人間はやりたい放題の権利を享受できるわけではなく、自然権は、人間としての本性から直接的に導き出されたものに限られると主張していた」という。
 バークは一貫して社会に関する牧歌的な幻想を批判してきた。もし神による自然権ではなく、理念的・空想的な自然権を文明人に当てはめるなら、それは社会の混乱を招き、結果として残酷な圧政をもたらすと考えていた。もし自然権が神に由来する正義と合致せず、無秩序な自由にすぎないのであれば、それは権利とは認められない。それがバークの考え方である。
 自然権は現実的かつ不可欠な利益によって構成されている、とバークはいう。人間には社会の規則(法律)に沿って生きる権利がある。労働の成果を受け取る権利もある。両親が得たものを相続する権利もある。他者の領域に踏みこまなければ、自由に行動してもよいという権利もある。人間は神の前に平等である。しかし、だれもがすべて平等な配分を受けるわけではない。経済的・政治的平等化をどこまで推し進めるべきかは、社会的公正の原理にもとづいて、慎重に決定されなければならない。
 フランス革命を見据えるなかで、バークは自然権を教条的に振り回す空想屋がはびこると、議会さえ存続できなくなり、社会が無政府状態におちいる、と警告を発した。バークからすれば、ルソーの唱える直接型の政治参加と一般意志による統治は、社会を破局に導き、けっきょく独裁を招くと思われた。
「人権」の跋扈と「理性」の傲慢が、フランス革命の混乱を招いた、とバークは考えていた。これは平等主義への批判である。
 バークには一種の神学がある。バークにとって、神とは善悪両面をもつ罪深い存在である人間を導き、赦し、罰する、確とした存在だった。
 人間が平等なのは、神によって定められた道徳の平等においてのみである。しかし、身体的にも、活力でも、知的能力でも、財産面でも、人間はけっして平等たりえない。社会的な水平化が極端に推し進められると、人間は多様性や個別性をはぎとられ、無味乾燥な存在となり、やがて一握りの支配者と奴隷と化した民衆からなる抑圧国家が生まれる。
 バークは議会の自由と多数者の支配に信頼を置いていた。とはいえ、多数者の支配は、それ自体が正しいわけではない。政治的決定においては、過去への尊敬の念と、未来への憂慮がともなわなければならない。カークによれば、バークは「正当な多数者は、伝統・地位・教育・財産・道徳的資質などにより、政治的機能を担うことができると認定された集団から抽出されるほかない」と考えていたという。
 バークによる政府の定義。「政府とは、人間の『欠陥』を埋め合わせるために英知をしぼって考案された、人為的な機構である」。人間は市民社会の外に置かれると情念を抑制することができない。人がそれを抑制するのは、自分自身の外側にある権力によってである。議会はその英知を生みだす立法機関である。
 バークにとって、政治的平等はありえないものだった。政治はいわば真の貴族によって運営されなければならない。バークのいう貴族とは、単なる社会階層ではなく、現実に社会の指導者たる資質を備えた者を指す。名誉を重んじ、知的で道徳的かつ精力的なひとつの集団があってこそ、社会は安定する。凡庸な人物が国を支配する状態は国民にとっても不幸である、とバークはいう。
 国家という共同体は、謙譲や慎慮にもとづく英知によって、ようやくまとまり保たれる。
「バークの達成というのは、秩序原理を定義したところにある」と、カークはいう。バークによれば、世俗の秩序は神の摂理をあらわしたものであり、人びとは畏敬の念をもって、それに服従しなければならない。
 神の秩序にならって、人間世界でも精神的・知的な価値の秩序が生まれる。平等化はその秩序を破壊し、人間社会を泥沼と化してしまう。無秩序を防ぐには、特権や義務を尊重し、すぐれた貴族的指導者の存在を認めなければならない。さもなければ、おべっか使いや凶暴な者たちが、民衆の名のもとに邪悪な権力を行使するだろう。
「バークは、党派的な狂信性に追随し悪意に満ちた知的教義に熱狂的に従って選出された『エリート』が、革新的な観念を振りまわすのに反対していた」と、カークは書いている。

  3 アメリカ保守主義の源流

 ジョン・アダムズ(1735〜1826)は、ワシントンとジェファソンのあいだにはさまれて、あまり日本では知られていないが、アメリカ合衆国2代大統領である(在位1797〜1801)。トマス・ジェファソンがフランス革命の支持者であるのにたいして、アダムズは民主主義と平等主義に懐疑的な、いわば貴族主義的政治家だった。イデオロギーは大嫌い。歴史家のポール・ジョンソンはアダムズのことを「つむじ曲がりで人に好かれず、けんか腰」、「独善的で無味乾燥で狂気漂う目つきをした猛烈に愛国的な予言者」と評している。これは、かれの好みからすれば、どちらかというと、ほめことばだ。
 アメリカ独立革命のきっかけとなったボストン茶会事件を「歴史上、画期的な事件」と評した弁護士時代から、ワシントン政権の副大統領を務めた時代にいたるまで、アダムズの政治経歴に不足はなかった。1776年には独立宣言の起草に加わっている。ベンジャミン・フランクリンを別とすれば、合衆国の憲法制定委員のなかで、学識でアダムズをしのぐものはいなかったとされる。「アダムズの著作と書簡は、鋭い着眼や深い観察、そしてすばらしい推論の宝庫である」と、ポール・ジョンソンの評価も高い。
 カークは、そのジョン・アダムズの著書に深く分け入り、アメリカ保守主義の源流をたどろうとしている。

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保守主義の約束──カーク『保守主義の精神』を読む(13) [本]

 ようやく最終章までたどりついた。まずはめでたい。
 保守主義は完敗したが、征服されたわけではなかったと、その冒頭、カークは書いている。とはいえ、保守主義の敵である自由主義や功利主義も1870年以降、英米ではまとまった勢力ではなくなっていた。その代わりにマルクス主義とその潮流が勢いをましたものとはいえ、それが醜悪なものになりさがっていることは、ソ連[本書刊行の時点ではまだ存在していた]や中国をみてもわかる、とカークは論じている。
 イギリスでは何度か社会主義(労働党)政権が登場した。しかし、それはいつも自家中毒を起こして、けっきょく保守党に政権を返上している。アメリカでは社会主義を公言する者はいなかった。1960年代には新左翼がもてはやされたものの、新左翼はまたたくまに疎まれ、いくつか暴力沙汰を起こして消滅していった。
 アメリカとイギリスでは、いわゆる進歩派は信頼を得られなかったのだ。しかし、保守主義も、その間、ずっと退却しつづけてきた、とカークは書いている。
 それでも保守派が守りつづけてきたものは大きい。それはまずキリスト教信仰である。その影響力は少しも衰えていない。イギリスでは立憲君主制が保たれ、アメリカでは憲法が尊重されている。私有財産制も維持されている。産業化と大衆化が進展し、家族や共同体のきずなが衰退しているにもかかわらず、保守の精神はまだなにがしか保たれている、とカークはいう。
 アメリカのリベラリズムは、薄汚れた死に向かっている。イギリスでは自由党がほぼ崩壊した。イギリスを福祉国家に導いたベヴァリッジは、晩年、政府から年金をもらうのをとうぜんのように思っている大衆の身勝手さに困惑していたという。
 社会主義に期待する人はいまではほとんどいない。社会主義者は甘言を弄して、権力を握ろうとする。しかし、社会主義がもたらすのは、けっきょくのところ惨めさの平等であることに、だれもが気づいてしまったからだ。
 こうして、カークは保守主義の原理に立ち戻る。それは「道徳と義務を求める意志」、「信仰、規範、伝統、慣習」、さらに「抑制された私的利益」を基本としている。とはいえ、もし保守の精神が取り戻せなければ、自由主義や社会主義以上にはるかに恐ろしいものがやってくるだろうと釘を刺すことも忘れていない。
 現在、保守主義者は人間存在の調和と国家の調和を取り戻すという困難な課題に直面している、とカークはいう。革命理論はけっきょくのところ、はじめに無政府状態を、次に徹底的な奴隷状態をもたらす。それは民主的独裁制と超官僚制の社会だ。
 そこでは、経済システムばかりか、人間の精神的・知的活動までもが計画の対象となる。これは社会主義を超えた新型の集産主義だ。新しい支配者は、集産主義の社会工学者であり、自身が権力の奴隷でもある。これは資本主義でも社会主義でもない、ただ国家のためにのみ築きあげられた巨大国家だ、とカークはいう。
 この計画社会では、人びとは常に戦時感覚におかれている。それでなければ忠誠心が衰えてしまうからだ。勤労、犠牲、目的達成が頭にたたきこまれる。さらに、偏狭な愛国主義と恐怖、憎悪が深層意識にすりこまれる。順応する国民には快適な生活環境が約束され、順応しない者には、徹底した恐怖政治が敷かれる。これが新しい全体主義国家だ。
 こうした全体主義国家に対抗するため、保守主義者は倫理と宗教的規律の回復を願う。指導力の問題にも関心をいだき、文明生活に広がりつつある社会的倦怠の病理を懸念する。地上の楽園をつくろうという武装したイデオロギーに反対し、真の共同体や地域を回復したいと願う。伝統的な行動様式こそが、保守主義の想像力の源泉なのだ、とカークはいう。
 1950年代は、まだリベラル派がアメリカの政界を牛耳っていた。保守的伝統は衰退したかに思えた。しかし、そのころから保守の伝統的で慣習的な思想が復活しはじめる。リベラル派知識人にうんざりする人が増えてきたのだ。知識人ということばは、リベラルとほぼ同じとみなされていた。伝統から切り離されたかれらは、大学を拠点とし、大衆に憐れみの目を向けながら、次々と変革の処方箋をばらまいていた、とカークはいう。
 アメリカでは、一般市民が、そんなリベラル派知識人に反感をいだくようになり、みずからを保守派ないし穏健派と称する人の割合が次第に増えていったのだという。
 家族や宗教的なつながり、地域共同体と社会倫理は、個人に先立って存在し、人びとの行動を支えている。そうした前提があってこそ、人は自由や権利を獲得する。そのうえで、人びとが共同して作りあげたものが、次世代を支えるベースになっていくのだ、とカークは論じる。
 保守が求めるのは、失われた共同体をいかに取り戻すかということである。近代化と産業化による共同体の破壊は「孤独な群衆」を産み落とし、それによって自由な人びとは、ついには狂信的な運動へと向かいはじめる。
 大衆が全体主義政党を支持する理由は貧困ではない。確かさを求めて、集団の一員に加わりたいからだ、とカークはいう。もし自分が社会から疎外され、差別されていると感じたら、人がみずからを認めてくれる集団を選んでも不思議ではない。
 いま家族が崩壊しているのは、昔はあった経済的ないし教育的な利点が家族からうしなわれているからである。機能が失われたとき制度は崩壊するのだ。かつては貴族制や村、教会などが、共同性をはぐくんでいた。いま、そういう共同性は失われつつある。「すべての歴史、近代史は特に、ある意味で共同体の衰退と、その喪失の結果としての廃墟についての報告である」と、カークは述べる。
 中央集権的な領域国家、近代の国民国家は、かつての共同体の機能や特権を奪い取っていく方向をたどってきた。近代国家が共同体を破壊しつづけたのは、多様性や共同体のつながりが、国家の脅威となったからである。そして、徴兵制と強制収容所は、ある意味で近代国家の発展した姿だ、とカークはいう。
 20世紀の専制政治は、そこからの逃避を許さないほどの徹底したものとなった。それは平等化、中央集権化のもたらした論理的帰結である。19世紀の産業主義は共同体と慣習を破壊し、政治的大衆を生みだした。そして、新しく生まれた落ち着きのない大衆が、全体主義国家を求めたのである。
 ファシズム国家は家族や伝統を語ることによって、みずからを偽装したが、じっさいにめざしていたのは、全体主義的な革命だった、とカークはいう。全体主義国家は、根無し草になった大衆を利用して力を得た。その指導者が過去の伝統や知識を抹殺しようとしたのは、個人の記憶が力と抵抗力の源となるからである。
 カークはいう。人間は個として完結する存在ではありえない。なぜなら、人は共同体なしには生存できないからだ。自由主義は個人主義と人民主権を唱えたが、それは大衆と全体主義国家によって取って代わられてしまった。しかし、共同体という考え方を捨てなかった保守主義者は、かろうじて砦を保ち、政治的全体主義に抗している。
 産業主義のもたらした疎外感、挫折感、孤立感は、けっして個人主義では癒せない。全体主義はそれを偽りの幻想によって救おうとする。それにだまされないようにするには、真の個性、民主主義、自由の精神によって共同体を守らなければならない。人間は全体主義の悪を止める力をもっているはずだ。「全体主義の悪を必要とするのは絶望的に退廃した社会だけである」と、カークはいう。
 カークは社会学者のロバート・ニスベットの見解を紹介しながら、現在必要なのは新しい自由放任主義だという。「新しい自由放任主義が目指すのは団結でもなく、中央集権化でもなく、大衆の支配でもなく、文化の多様性、多様な団体、責任の分散である」。国家を通じて、神の摂理により、人びとが人としての完璧さを求めていくような国を取り戻すのだという。
 保守主義はイデオロギーではない。それは人と共同体の秩序を回復するための思想と行動だという。そのいっぽうで、カークはいま恐れなくてはならないのは、相変わらずの主張をくり返すマルクス主義や無政府主義などではなく、現代文明の倫理的・社会的構造自体が崩壊する事態だという。それはいったいどういう事態なのだろうか。
 カークはこう書いている。
「いかにして、生きた信仰を孤独な群衆に取り戻させるのか、いかにして人生には目的[意味]があると人々に思い出させるのか──これが20世紀の保守主義者が直面する難問である」
 実証主義者の計画に沿って生きるのはつまらない。近代主義のもたらす孤独におちいれば、究極の忌まわしい挫折感が襲うばかりである。
 これにたいし、保守主義者が多くの洞察を求めるとするなら、それは社会科学者ではなく、詩人のなかにである、とカークはいう。そこで第一に挙げられる名前がT・S・エリオット(1888〜1965)である。
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[T・S・エリオット。ウィキペディアより。]
 エリオットはアメリカのセントルイスで生まれ、ハーヴァード大学で教育を受けたあと、ヨーロッパに渡り、ロンドンで人生の大半をすごした。『荒地』など長篇詩のほか、多くの詩劇や批評を残した。
 エリオットは現代文化という荒地を容赦なく観察し、信仰や習慣をはじめとする保守的伝統を擁護したのだという。純粋民主主義は支持せず、階級制の秩序を尊重していた。社会改造に積極的なエリートや官僚を疑いの目でみていた。
 エリオットの詩の基本は、保守することと再生することに向けられている。空っぽの人間をさらけだすことによって、永遠なるものへと回帰する道を示したのだという。
 偉大な詩人は政治家に劣らず国民を動かす、とカークはいう。そして「エリオットほど、秩序の崩壊を予期し、[文明世界が]廃墟となるのを避けようとした同時代人はいない」とつけ加えている。
 エリオットは魂の共同体、愛と義務のきずな、秩序と永遠性をうたう。
 すぐれた詩人たちは、未来の「すばらしき新世界」を探し求めているのではなく、かつてあったものを再建し、ふたたび元の状態へと戻そうとしているのだ、とカークはいう。それは規範と道徳、秩序ある自由を重んじるイギリス文学の特徴でもある。
 アメリカにはニューイングランドの系譜をひくロバート・フロスト(1874〜1963)がいる。フロストもまた伝統から力を得ていた。
 力が正義となる時代、欲望が力となる時代に、詩人たちは神に祈る。
 G・K・チェスタートン(1874〜1936)が、こううたったように。

  古い恋人を新しい恋人に代えるものは
  神に祈れ、悪いのをつかまぬように

 この詩が本書の結びとなっている。ちょっとユーモラスに終わるのは悪くない。

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アメリカは謙虚になれるか──カーク『保守主義の精神』を読む(12) [本]

 第1次世界大戦が終わるころ、アメリカは世界最強の国家になっていた。国民総体としてもアメリカ人は豊かになった。そこには莫大な富が出現したが、同時にすさまじい貧困も存在していた。
 ハーディング、クーリッジ、フーバーという3代の大統領のもと、アメリカでもイギリスに匹敵する文学者や思想家が誕生した。そのなかでも、カークがすぐれた保守思想家として紹介するのが、アーヴィング・バビット、ポール・エルマー・モア、ジョージ・サンタヤナの3人である。
 この3人はいずれも現実の政治に足を踏み入れなかったものの、アメリカ社会を観察し、そのゆくえを見極めようとしたという。
 アメリカの政界でも、昔気質の哲人政治家タイプは姿を消そうとしていた。農業人口は減って、都市が巨大化し、中央集権化と民主主義が進んでいた。それを推進していたのは、産業化と物質主義である。こうしたなか、アメリカは信仰もなく画一的で、凡庸な国になろうとしていた。
 この時代を代表する哲学は、ジョン・デューイのプラグマティズムである。デューイは自然主義の立場から、精神的価値を全面的に否定した。身体的感覚がすべてであり、人生には物質的充足以外、何の目的もないとした。唯一の関心は、過去でも未来でもなく、現在である。デューイは平等主義をかかげ、効率的な物質生産の実現に向かって突き進むべきだと説いた。こうした欲望の神格化に立ち向かったのが3人の保守思想家だった、とカークはいう。
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[アーヴィング・バビット。ウィキペディアより。]
 まずアーヴィング・バビット(1865〜1933)。バビットはハーヴァード大学で比較文学を教え、批評家として活躍した。ハロルド・ラスキやアーネスト・ヘミングウェイをはじめ左翼からは大いに嫌われた。しかし、バビットによって、アメリカの保守主義は成熟期を迎えた、とカークは記している。
 バビットは、ブッダの説くように、人は欲望や感情を抑え、意志を鍛錬することで、高次の自己をめざすようにと主張した。その姿勢は清教徒的だった、とカークは評している。
 バビットはプラグマティズム同様、大富豪をも軽蔑していた。ひとりよがりの科学的・経済的進歩が、「人の法」に沿っているとは思わなかった。人間は物質的存在である以上に精神的存在である。
「人のなかにあって特に人間的であり、究極に神聖なものとは、意志の持つある種の特質であり、その意志は自制する意志として、普段の自己との関連において感じられる意志である」と、バビットは書いている。すなわち、感情や欲望の衝動に歯止めをかける人間特有の力こそが、人を人間的にし、高度にするのだ。もし人が欲望と技術的理性だけに身をまかせてしまうなら、この世は混沌としたものになっていくだろう。
 リーダーシップなき民主主義は、文明の脅威となる。「自然主義の過ちを拒んだ指導者が登場するかどうかに、西洋文明の生き残りはかかっている」と、バビットは論じた。
 政治は自然主義の延長にあるわけではない。より高度な「人の法」、倫理こそが政治をかたちづくる。ルソーの唱えた「一般意志」もまた自然主義にもとづいており、それは暴虐な専制政治の擁護へといきつく、とバビットはいう。
 人がもつうぬぼれという面で、民主主義と帝国主義はつながっている。「人は崖っぷちに立った時ほど、実に自信ありげに前へ向かって突っ走るものだ」。謙遜だけが、うぬぼれを抑止する唯一の美徳である。
 真の仕事、高度な仕事は、魂の労働であり、自己改革である。正義は自分自身の仕事に専心することから生まれる。真の自由とは、仕事をする自由である。知的労働者は肉体労働者よりも上位に位置づけられる。純粋に倫理的な仕事(すなわち政治)に携わる人はさらに上位にある。そして、精神と知性の指導者は、物質的所有欲から脱しなければならない。金権政治はおろかだが、平等主義という社会的正義を振りまわすのは、もっとおろかである。だいじなのは高度な倫理と判断にもとづいて、社会秩序を維持することだ。人間にとって、真の平和は精神的平和である、とバビットはいう。
 いまの時代は商業主義が世をおおっている。民主主義も商業化したメロドラマになろうとしている。民主主義と商業主義はみな似たような凡庸さをもった膨大な数の大衆を生みだしたにすぎない。その結果、アメリカ人の拡張的で粗雑な個人主義が助長された、とバビットは理解する。
 さらにバビットはいう。センチメンタルな人道主義ではなく、倫理的な高い意志が必要なのだ。われわれを商業主義から救い出してくれる指導者を見いださなければならないという。それは粛然とした道義心とまじめな知性をもつ指導者だ。
 倫理的国家は可能だし、人は正しい規範を受け入れることができる、とバビットは論じた。社会においては、自由と公正、謙遜が基本であり、それは純粋な平等とは両立しない。
 政治においては、理想主義か現実主義は問題ではない。もっと高い議論のレベルがあるのだ。それは恩寵のレベルだという。すなわち神の恵み。それが自由と高い意志を支える。このあたりの議論は、残念ながら、ぼくにはよくわからなくなってしまう。
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[ポール・エルマー・モア。ウィキペディアより。]
 次に取りあげられるポール・エルマー・モア(1864〜1937)は、日本では、さらになじみがない。ミズーリ州生まれだが、ニューイングランド思想の影響を受けて育った。いったんニューハンプシャーのいなかに引っこんだあと、知的武装を整えて再起し、ハーヴァードやプリンストン大学で教えながら、雑誌編集者、エッセイストとして活躍した。カークはかれのことを「あらゆる宗派を通してアメリカにおける最も博識な神学者」だったと評している。
 モアは、いまの時代は世代間の精神的な結びつきがなくなり、人も文明もあてどなくさまよっていると感じていた。超越的な神を信仰し、物質的生活と精神的生活とのバランスをとり、公私の義務を果たすことによって、ようやく人は正しい人生を送ることができる。人は絶え間ない欲求をもっているが、それは強い責任感と内面からわきでる徳によってのみ抑制することができるとも述べている。
 信仰を取り戻さなければ社会は滅びる、とモアは断言する。個人の快楽を判断の基準とし、絶え間ない流動性に身を任せるプラグマティズムは、大きな欠陥をもっている。これを認めれば哲学は無定形になり、社会もまた無定形になる。その結果、物質主義によって、文明は窒息し、無秩序状態が訪れる。このような時代においては、良識ある者は勇気をふるい、自分が反動主義者だと宣言しなければならない、とモアはいう。
 人に倦怠をもたらす流動の哲学と闘わなければならない。求められるのは、自分たちを正しく導く貴族政なのだ。民主主義にはさらなる民主主義ではなく、よい民主主義が必要なのだ。そのためには、共同体のなかから最良の者を選びだし、かれらに権力をゆだねる仕組みをつくらなければならない。
 さらに、モアは高等教育機関の立て直しをはかるべきだと論じた。教育の第一の目的は、人文知(その中心は古典教育)を鍛え、誠実さと美徳を称える人をつくることである。それによって指導者となる者は、真の自然な貴族として、金権主義と民主主義の調停役として、人びとに奉仕することができる。教育機関が専門家や技術家、ビジネスマンを送りだすことにかまけていると、社会には知的な貴族層がいなくなり、社会はますます不安定になっていくだけだ、とモアは警告する。
 政治において、最初に問われるのは社会的公正である。文明の存続は、社会的公正が実現するかどうかにかかっている。社会的公正とは「資産の分配が、上層の人々のすぐれた理性を満足させるとともに、下層の人々の気分を憤慨させないかたちでおこなわれること」だ、とモアはいう。絶対的公正はありえない。絶対的な平等もありえない。自然な不平等はいたしかたないものだ。生命は原始的なものだが、私有財産は人間だけのものであり、文明の根拠でもある、とモアは断言する。
 財産権を否定すると、逆に物質主義が勢いづき、堕落した文明が生みだされる。知的な余暇は反社会的とされ、学者や詩人は嫌われる。そして、人から財産を奪おうとする動きが活発化する。それは社会の荒廃をもたらす。こうした点からみても、私的所有権は社会の発展に不可欠だ、とモアは論じる。
 保守主義は個人の責任を考慮しない人道主義を否定する。まず重要なのは、個々人が自己の人格にたいして責任をもつことだ。
 近代文明が管理社会に行き着くかもしれないという恐怖は格別におぞましいものだ。「その世界は意味を失い、人間の価値も失われてからっぽになっている」。これに対抗するには、人が神への畏怖を取り戻すほかない、とモアはいう。
 人間のなかには、人間を超えた力の存在がある。キリスト教と古代ギリシャの遺産はまだ死んでいない。神を信じることによって、近代主義に抗するという姿勢が、モアの保守主義の核心をかたちづくっている。
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[ジョージ・サンタヤナ。ウィキペディアより。]
 ジョージ・サンタヤナ(1863〜1952)は、スペインのマドリードで生まれ、子どものころアメリカに移住し、1907年からハーヴァード大学で哲学を教えた。1912年からフランス、イタリアと移り住み、1952年にローマで没している。多くの著書や書簡があるが、日本語に訳されているものはごくわずかしかない。
 カークはこう書いている。

〈保守思想家として、彼は英国とアメリカの社会を外国人の視点から解明していった。しかし、彼の専門領域は、英国とニューイングランドに関するものである。……サンタヤナはアメリカ社会の一部とはならなかったが、トクヴィルには決して成し遂げることのできなかったようなかたちで、アメリカ社会の内側に入り込んだ。〉

 コスモポリタンでありながら、アメリカとは切っても切れない人だった。
 サンタヤナは二元論を否定した。世界はひとつしかない。それは自然世界である。そして、自然世界のなかには精神生活が存在しうるとした。精神は事象を通じて生きているという。
 たとえ、どんな運命に遭おうと、サンタヤナは冷静沈着さを忘れなかった。あらゆる思想に寛容だった。しかし、支配的権力を判断するさいに、よい社会は美しく、悪い社会はみにくいという基準だけは忘れなかったという。
 サンタヤナは民主主義と資本主義の完成形は共産主義と同じであり、それは精神の領域と芸術の領域を餓死させると断言した。「サンタヤナは一貫して効率性と画一化の名の下に世界を略奪してきた革新を軽蔑し続け、社会的調和と伝統の保存を擁護してきた」と、カークは書いている。
 物質的活動と物質的知識の流れが強くなると、人格の力が弱まり、倫理的な独立性が失われる。無神論の精神は産業社会主義をもたらす。リベラリズムはいまでは、すっかり管理主義的な方向をたどっており、いずれ功利的集産主義への道を開くであろう。それは自由と繁栄を標榜しながら、けっきょくは物質と進歩(拡張)への人びとの服従を求めるものなのだ、とサンタヤナはいう。
 人生の目標が金持ちを真似ることであるなら、大衆は最初から意気消沈するほかない。なぜなら、富をめざす競争は、人びとを疲れさせ、堕落させるからだ。大衆はメディアによって操られ、広告屋によってなぶられている。産業の世界では、企業や人が、経済的支配をめざして、なりふりかまわず戦っている。そして絶対的支配を夢見るのだ。サンタヤナはこうした産業自由主義の世界をきらった。
 それは重苦しく組織された無知の世界であり、そこでは騎士道は死に絶え、人は卑屈に身の安全を願うばかりだ。自由主義のもとでは、経済メカニズムだけがどんどん進化し、旧来の秩序が壊され、人は自暴自棄になり、政府は機能不全をおこし、専制政治が生まれる。サンタヤナはそんなふうに将来を予測した。
 いま人びとに与えられている自由は、画一性の自由にすぎない。個人の意見は消し去られ、人は画一的に分類され、そのなかでうごめいている。巨大国家は羊の群れのような国民をつくりだす。だれもが催眠術にかけられたように行動する社会が生まれている。そこで学者にまかされるのは、人を操り人形のように動かす仕事だ。人びとには芸術も宗教も友人も希望もない。仕事は賃金のためであって、苦痛でしかない。そのような社会はけっして幸福ではないだろう、とサンタヤナは示唆する。
 サンタヤナはアメリカを愛するとともに恐れていた。計量化と画一化に執着する、この傲慢で自信過剰の国が、はたして文明を生みだすことができるのだろうか。国際的なプロレタリア運動と戦っているアメリカは、機械化された生産と大量消費を信仰し、十字軍のような進撃にのめりこんでいる。そして、その足もとは崩れようとしているのだ、とサンタヤナはいう。
 サンタヤナが1912年にアメリカを去ったのは、めくるめく世界から離れて、隠栖のうちに理性的な生き方をさぐるためだった。
 カークはこう書いている。

〈サンタヤナは、狂信の時代のなかで、高貴に正気を保ち執筆を続けた。確かに、サンタヤナのような人物を得ることのできた文明には再生への見込みが、幾分かは残っていよう。〉

 だが、その道筋は見えなかった。
 第1次世界大戦後、アメリカでは、平等を求める人道主義と、自由の拡大を名目とする帝国主義(実際は経済帝国主義)、そして快楽主義が社会をおおうことになった。宗教は衰退し、汚職に代表される倫理的混乱が広がっていた。そして、実用的な保守主義は、民間企業と経済権益を擁護していた。
 ルーズヴェルトにははっきりとした思想がなく、社会改革者の提案をつまみ食いのように受け入れていった。広島と長崎を犠牲にして、アメリカが勝利したとき、自由主義的な人道主義者は当惑をおぼえないわけにはいかなかった、とカークはいう。勝利の代償は、国内の中央集権化と米軍の駐留維持をもたらした。
 カークは、アメリカは制御できなくなった意志と欲求からみずからを取り戻すため、正真正銘の保守主義を必要としているという。バビットやモア、サンタヤナの保守主義の精神にもとづいて、自身を抑えなければならない、とカークは明言する。
 しかし、その後のアメリカが謙虚になったとは、とても思えない。

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20世紀イギリスの保守主義──カーク『保守主義の精神』を読む(11) [本]

 とりあえずの目標は、最後まで読み切ることだ。
 あともう少しのところまできた。ぼくの立場は保守ではないから、いろいろ思うところはあるのだが、まずは紹介を旨とし、自分の意見はあとまわしにする。
 1885年以降、イギリスの保守党は万全の地位を築きあげた、とカークは書いている。「上流階級と中上流階級、実質的に中流階級のほとんどが保守党員になった」。加えて、大衆は保守党の帝国主義を支持していた。
 ソールズベリーの時代だ。1885年から1902年にかけ、ソールズベリーは、自由党から分裂した自由統一党を引きこんで、3度にわたり、足かけ14年間、保守党政権を維持した。
 自由党は分裂していた。19世紀の自由主義の処方箋はすでに時代遅れになっていた、とカークはいう。
 ソールズベリーのあと、保守党政権を引き継いだのは、アーサー・バルフォアだった。ところが、1906年の選挙で、保守党は大敗を喫し、ふたたび自由党が政権を担う。
 保守大敗の原因として、カークは「ヴィクトリア朝への信頼が崩れ去ってしまったことと、社会主義者の影響が急激に増したこと」を挙げている。自由党は社会主義を取りこむことで息を吹き返したのだ。それから9年後、第1次世界大戦の勃発で挙国一致内閣が成立するときまで、保守党が政権に復帰することはなかった。保守党の漂流がはじまっていた。
 カークによれば、1901年にヴィクトリア時代が終わると、イギリスの経済発展もぴたりと終わったという。1880年から着実に上昇していた実質賃金は頭打ちとなり、国際的な競争の激化により海外市場もあやうくなった。「英国は製造業における比較優位の大部分を失っていたうえに、ある面では本来持っていた優位性が絶対値で見て衰退していく状況に苦しんでいた」
 そのとき活発になったのが、労働組合の政治活動である。穏健なフェビアン協会も社会主義の方向に舵をきろうとしていた。アスキスとロイドジョージに率いられた自由党は、こうした流れを受けて、急進的な社会改革を主張する。これにより自由党は1906年の選挙で大勝し、保守党に代わって政権の座を握った。だが、このとき発足したばかりの労働党は、自由党、保守党につぐ議席を確保していたのだ。自由党の没落はすでに予期されていたようなものである。
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[ギッシング。ウィキペディアより。]
 以上のことを前置きとして、カークが取りあげるのは、イギリス人作家のジョージ・ギッシング(1857〜1903)だ。娼婦と恋に落ちたために人生を棒にふったギッシングは、若いころは急進的な社会主義者だった。しかし、市井にまみれ、労働者階級の実態を知るにつれて、保守主義者に転向した。群衆の粗暴な支配より才能ある貴族の統治を支援する、と妹宛ての手紙に書いている。
 1880年の『暁の労働者たち』を皮切りに、『無階級の人々』、『ネザー・ワールド』、『三文文士』、『流謫の地に生まれて』『ヘンリー・ライクロフトの私記』など、すぐれた小説を残した。日本でもその多くが翻訳されている。
 若いころ、ギッシングは国教会を倒すのだと息巻いていた。かれが信仰を取り戻すことはなかった。それでも目的を失った人間がいかに孤独なものであり、道徳を失った社会がいかに惨めになるかを描きつづけたという。さらに科学や技術が、人の純朴さや温和さ、世界の美しさを破壊し、文明という仮面のもとで野蛮を復活させることを指弾してやまなかったという。
 ギッシングは、青年期にあれほどあこがれていた社会主義は、じつは自分の欲を偽装する仕掛けにすぎなかったと述懐するようにもなる。ほんとうは貧しくて無知な人びとを好きにはなれなかった。喧噪に満ちた都会もきらいだった。かれは社会主義を捨て、権利に代わって義務を語りはじめる。
『ネザー・ワールド』は、当時はロンドン場末のクラーケンウェルを舞台にしている。人びとは貧困と闘っている。そして、だれも幸せにはならない。それでもかれらは与えられた義務を淡々とこなしている。
「その[都市生活の]惨めさから抜けだすとすれば、禁欲的に運命を受け入れるか、自身を変えていくしかないことに、ギッシングは気づいていた」と、カークはいう。「自身の人格が築き上げた要塞のなかで、長く苦しい期間を耐え抜くことが人間の義務のすべてなのだ」
 ギッシングは近代の孤独を描きつづける。そこに登場するのは、自由だが惨めな女たち、破滅的な利己主義者、人間の多様性と個性を消し去ろうとする集産主義者たちだ。晩年は、願わくは民主主義者が権力を手にいれるまで長生きせずにすみますように、と祈るほどだったという。
「大衆が圧倒的な力を持ったその時、われらが英国は一体どうなってしまうのか、考えるだに恐ろしい」と、ギッシングは書いている。
 民主主義はイギリスの政治的伝統になじまない。イギリスの将来は、すでに消えかかっている貴族主義的思考を大衆の欲望とどう調和させるかにかかっている、とギッシングはいう。
 ジョゼフ・チェンバレンやシドニー・ウェッブがえがいたイギリスの将来に、ギッシングは嫌悪感をいだいていた。社会革命の行き着く先は社会主義的地獄だと思っていたのである。
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[バルフォア。ウィキペディアより。]
 カークにいわせれば、1902年から1905年まで首相を務めた保守党のアーサー・バルフォアは「最も興味深いが最も功績の少ない党首のひとり」だった。「根っからの愛想の良さが災いし、深刻な矛盾や大きな失敗に追い込まれていった」という。そのいい例が1902年の教育法と、1917年のバルフォア宣言だ。
 保守主義者として、バルフォアは巧妙に物事を遅らせたり、少しずつ改善したりすることに努めた。かれは感情的に民主主義の方向に流れていくトーリー民主主義の一派にも抵抗した。自由党から保守党に鞍替えしたチェンバレンの急進主義もできるだけ抑えようとした。しかし、保守党の貴族主義的政治は国民に理解されず、1906年の選挙で自由党に破れ、その後、1924年には労働党の勝利を招くことになる。
 保守党の体質が変わろうとしていた。保守主義は依然としてジェントリーの信条だったが、すでにその基盤となる地主階級の影響力は小さくなり、農村部の人口は減り、急速な都市化が進んでいた。貴族の財力は、都市部と産業界の管理下におかれるようになった。古くからの領主貴族の出身であるバルフォアは、すでに保守党を代表する存在ではなくなっていた、とカークはいう。

〈バルフォアは最後の貴族興隆の時代の指導者としてふさわしかった。ただし、政治家としてではなく、むしろ多方面の才能に恵まれた偉大なジェントルマンとして。〉

 さらに「政治権力が狂信者と統計屋に握られてしまった後の時代から見ると、バルフォアの怠惰で高慢な態度こそが美徳のようにもみえる」とカークは記している。
 バルフォアは神学に関する哲学四部作を残した。懐疑主義が敬虔な信仰にいたることもある。かれは自然主義的な唯物論と反キリスト教的観念論に対峙した。神を定義づけようとしなければ、神を知るのはむずかしくない。正しい理解をすれば、宗教と科学は互いに対立もしなければ、他を排除もしない。信仰の持ち主だったバルフォアは権威や慣習、道徳に絶対的な信頼を置いていた。
 その反面、バルフォアは経済や金融については鈍感だった。騒々しい20世紀を指導していくには、あまりにも貴族的だった。バルフォア以後、保守党は商工業者の政党となる。
 1922年に保守党が再起するまで、急進的な立法の洪水がイギリス社会を崩壊させていった、とカークは書いている。労働者階級が大きな力を持つようになり、福祉国家に向けての計画が徐々に進められていったのだ。
 首相退陣から2年後、ある講演で、バルフォアはこう指摘した。いまや人びとの知識欲が衰え、企業意欲も弱まり、社会の活力が低下するなか、度重なる災厄への反応が鈍くなり、国家の堕落と退廃が進行しつつある。これはいまの日本にもあてはまることばかもしれない。
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[W・H・マロック。ウィキペディアより。]
 マロック(1849〜1923)は日本ではあまり知られていない。オックスフォード大学在学中に発表した『新しい共和国』をはじめとして、神学・哲学、小説、詩、政治・経済評論にいたるまで多くの著作を残した人だという。
『新しい共和国』でめざましい成功を遂げたあと、イギリスでもマロックはほとんど忘れ去られてしまう。しかし、カークは、それ以降、「彼に匹敵する保守思想家は英国に現れていない」と、マロックを絶賛している。
 マロックは、その思索を通じて、イギリスの昔からの伝統を守り、復元させようとした。美術評論家のジョン・ラスキンからも大きな影響を受けていたという。神がなければ、美術や絵画、詩は、人に何の慰めももたらさない。神がなければ、貴族政はなく、専制政治だけが存在していただろう。貧しい人びとはうめき声を出すだけの巨大な機械になってしまい、金持ちは理性をもたない派手な人形と化してしまうだろう、とマロックは論じている。
 マロックにとって、物質的進歩の観念は愚かしいものだった。それは、いっそう単調なけだるさ、魂のない官能性をもたらすにすぎない。
 道徳という目的を失うとき、人は堕落しはじめる。人間の皮膚の下には野獣がひそんでいる。真の無知がやたらの知識を手にして社会に襲いかかるとき、文明は破壊され、世界は廃墟と化してしまう。
 政治経済学や社会学に通暁していたマロックは、科学的根拠にもとづく保守思想体系を確立しようとした。それまで保守党は政治経済学をほとんど理解しておらず、経済学といえば自由党のおはこだった。しかし、伝統的な自由党員が社会主義理論に屈服してしまった以上、保守的経済学がどうしても必要になっている、とマロックは考えた。
 マロックは問う。社会的平等主義は正しいのか。進歩と平等にはどのような関係性があるのか。かれの結論はこうだ。社会的平等主義は誤謬であり、平等は進歩の死を意味する。そもそも進歩は、不平等があるからこそ生みだされるのだ。不平等が許されるから、少数の能力ある人間が野蛮を文明へと転化するのだ。不平等は共同体の富を生みだし、すぐれた能力をもつ人びとに全体の利益のために努力しようという動機をもたらす。すべての人に社会的平等を押しつければ、こうしたすぐれた人びとを抑圧する結果となる。
 マロックはさらにいう。労働価値説はまちがっている。人はもともと労働する生き物ではない。特段の動機づけがなければ、食っていけるだけの最小限の労働しかしないものだ。富の動機は不平等である。労働ではなく才能が富を創出する。才能をもっている人はかぎられている。労働を指揮するのは才能である。才能こそがものを発明し、生産・分配を組織化し、秩序を維持する。才能抜きの労働は、最低限の生活を満たすだけの原始的な営みにすぎない。
 資本は社会の生産原資にすぎない、とも述べている。才能はこの資本を労働と結びつけ、労働を管理支配することで、商品を開発し利益を生みだす。労働者階級の収入は着実に上昇し、国民所得に占める割合も大きくなっている。労働者の所得が増えているのは、かれらが才能のもたらす報酬の分け前にあずかっているからである。
 マロックは30年もすれば労働者の収入は倍増するだろうとみていた。しかし、いっぽうで貧困層の貪欲が政治に大きな害をもたらすのではないかと恐れていた。とりわけ平等主義が才能ある人びと押さえつけ、それによって社会全体がかえって貧しくなってしまうと思っていたのだ。
 社会の不平等はやむをえない、とマロックはいう。経済の運営は、才能をもつ比較的少数の人びとにゆだねるのが、正しく好都合である。民主主義には指導層を拒否する傾向があるが、大きな問題に対処できる人は、ごく例外的な存在なのである。才能ある人たちによる真の指導体制を否定してしまえば、かえって願いもしなかった恐怖政治が到来する可能性もある。文明化された共同体をうまく運営していくには、ある種の貴族政の原則が必要なのである。
 これまで才能ある者たちに与えられた報酬は、むしろ少ないくらいだった、とマロックはいう。その多くは国民や労働者に配分されていった。「多くの人々は、非常に能力の高い少数者の影響力や権威に服した場合にのみ得られる恩恵にあずかることによって豊かさを享受できる」。ところが、ロシアでは革命後、純粋民主主義を適用することによって、能力ある者を排除したおぞましい寡頭政治が出現し、人びとの生活を耐えがたいものにしてしまった、とマロックは評する。
 無神論と社会主義を避けるためには、人びとのあいだに宗教的信念を取り戻すとともに、社会が大衆のために運営されていることを、大衆にも確信させなければならない、とマロックは提言する。ねたみやうらみではなく、感謝の気持ちがだいじなのだ。理想的にみえて、じつは無秩序な社会制度を推奨する思想を警戒しなければならない。社会的秩序ある文明は、人びとが真の信仰をもつかどうかにかかっている、とマロックはいう。
 20世紀はじめには、民主的楽観主義と進化論的進歩主義が世にあふれていた。カークによれば、こういう考えを吹きこむ人びとは進化する人類の未来を信じて自己満足し、過去を捨てたのだ。その結果が第1次世界大戦の勃発を招くことになったという。
 20世紀にはいると、イギリスの産業は停滞し、社会主義的な再分配政策が支持を集めるなかで、マロックの保守思想は忘れ去られていく。それでもマロックが称賛に値するのは、長期的にみれば、保守思想こそが大きな力をもつと信じていたからだ、とカークは述べている。
 カークによれば、ふたつの世界大戦のあいだの戦間期は、現状を維持するのがせいいっぱいで、保守思想も荒廃にさらされていたという。そのなかで、フェビアン主義の信条は広まりつづけ、学校教師や知識人などにも浸透していた。保守主義はそれに対抗するすべがなく、沈滞するいっぽうだった。
 はたして社会主義は正しいのだろうか。トーリー主義のもっとも正当な後継者で、批評家のジョージ・セインツベリーは、社会主義のもたらす未来をこう描く。

〈無産階級の馬鹿げた安逸のために生まれる荒廃ほど、酷いものがあろうか。すべての人は大統領と同等になる。すべての人は、等しく教育される。すべての人は抽象的な「国家」というものによって、同等に配置され、配給を受け、規制される──豚小屋の豚のように等しく、しかも自由になる。〉

 たしかに、こういう社会主義はごめんである。

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梵魚寺(韓国旅行) [旅]

5月17日(木)。
3泊4日のツアー最終日、宿泊先の慶州コモドホテルを出発して、釜山北郊の梵魚寺(ポモサ)にやってきました。慶州は晴れていたのに、あいにくの小雨模様です。一柱門(イルチュムン)からはいります。
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梵魚寺は禅宗の大本山。新羅時代の678年に義湘(ぎしょう、ウィサン、625〜702)によって建てられたといいます。義湘は10年間、中国に留学し、新羅で華厳宗を広めた名僧です。
そもそも三国時代の高句麗にに仏教が伝来したのは372年とされています。百済に仏教が伝わったのは384年。新羅に仏教が広がるのは、すこし遅れて5世紀末のことです。
日本への仏教は、一般的に538年(日本書紀では552年)に百済から伝わったとされます。当時は、いまとちがって、文化が伝わるのにも、かなりの時間を要したことがわかります。
統一新羅時代と高麗時代は仏教の時代です。しかし、李朝になると、儒教が重んじられて、仏教は大弾圧を受け、多くの寺院が廃寺になりました。梵魚寺もその例外ではなく、どうやら1407年にはすでに廃されていたようです。
おそらく寺の建物は残っていたのでしょう。とはいえ、それ以降、何度か火災にあい、1613年に再建されたといわれます。現在の建物はそのころのものでしょうか。
先に進みましょう。天王門(チョナンムン)をくぐります。この門は放火によって2010年に焼失したものの、すぐに再建されたといいます。この日は多くの高校生が写生にきていました。
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楽器をもった仁王さんというのは、めずらしいですね。正確にいうと、これは四天王のひとつ持国天です。
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次は不二門。だんだん本堂に近づいてきます。
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そして普済楼をくぐると、やっと本堂です。
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本堂の大雄殿はさらに一段高いところにあります。
なかでは、大勢の人が一心に祈りをささげています。
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例によって灌仏会用の飾りが目立ちます。
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その周辺をさまざまなお堂が取り囲みます。羅漢殿の扁額が読み取れます。
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そして、また大雄殿に戻ってきました。韓国のお寺は装飾が華やかです。
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雨がしだいに本降りになってきました。雨にけぶる鐘楼を最後に1枚。
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韓国では仏教徒が25%足らずで、キリスト教徒はそれよりも多く30%いるとされます。
これにたいし、日本では神道と仏教の信者があわせて95%、キリスト教徒はわずか1%です。
このあたりのちがいを、両国の歴史を対照しながら、もう少し知りたいものです。
今回の韓国ツアーはこれでおしまい。
お昼は釜山の中心街でデジクッパをいただき(といっても、ぼくは体調が悪く、ほとんど食べられなかったのですが)、午後4時の大韓航空便で無事、成田に戻ってきました。
韓国には体調がいいときに、また行ってみたいものです。

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