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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(6) [商品世界論ノート]

 本書では1870年から2014年までのアメリカ経済史の流れが、1870〜1940年、1940〜2014年の約70年で二分されている。
 しかし、1870年から2014年までの経済発展をみるには、1940年で二分するよりも、(1)1870〜1920年、(2)1920〜1970年、(3)1970〜2014年と50年ごとに三分したほうがよいかもしれないことを著者も認めている。
 それによると、(1)が始動期、(2)が加速期、(3)が減速期になる。
 (2)の時期は、電気と内燃エンジンという19世紀末の発明(第二次産業革命)が、新たに実用化された商品を生みだし、それが普及した時期と重なる。1940年以降の(2)の後半期は高成長がもたらされ、エアコン、高速道路、飛行機、テレビが人びとのライフスタイルに浸透していった時期と重なる。
 第二次産業革命のもたらした範囲は広く、およそ人間活動の全域におよぶ。すなわち、この時期に、食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、情報、健康、医療、労働環境の面で、人間はこれまでにない多くの満足すべき成果を得たのである。
 だが、年代区分はいずれ恣意的とならざるをえない。
 これまでの第1部では、1870年から1940年までの生活水準の発展をみてきた。
 この時期、都市部では、ほぼどの家庭にも電気、ガス、水道が普及した。いわば都市がネットワーク化されたのである。遅ればせながら農村部でもネットワーク化は進み、農業の生産性は大幅に上昇した。
 全人口に占める都市人口の割合は、このかん25%から57%に上昇している。1人あたり実質GDPは、1870年は2770ドルだったが、1940年には約3倍の9950ドルになっている。だが、数字に表れる以上に、この70年は生活の質の変化がもたらされた時代だった、と著者はいう。そのことはこの時期の平均余命の伸びをみても明らかで、その分、近代化が進展したのである。
 これに対し、1940年から2014年はどうか。1940年から1970年まではたしかに高成長がつづいた。さらに、1960年代末に第三次産業革命が発生した。すなわちIT革命である。IT革命は、その後、通信や娯楽の面に大変革をもたらすことになる。
 だが、1970年からはかえって成長が鈍化する分野が増えてくる。生活水準はむしろ伸び悩んでいる。1人あたりGDPの伸び率も低迷した。経済効果の面でみるかぎり、第三次産業革命は第二次産業革命ほどの成果をもたらしていない。その意味をどうとらえればいいのかが、後半の課題になるだろう。
 本書はここから第2部(日本語版では第2巻)にはいる。引きつづき、それを追ってみる。

最初は、1940年から2015年までの衣服住、すなわち生活の基本要素についてである。
まず食品をみると、1940年のアメリカでは肉の摂取量が減り、食品の種類が多様化し、野菜やパスタ、シリアルの消費が増えている。
 すでに1930年代からチェーンストアに代わって、スーパーマーケットが繁栄しつつある。戦争の時代は、砂糖や肉、果物、缶詰などが配給制になっていたが、配給制が解除されると、食卓は一気ににぎやかになる。
 1940年から50年にかけ、平均収入に対する家庭内の食費の割合は25%程度、外食費の割合は7%にのぼっていた。食費の割合が大きいのは、この時期、実質所得が落ちこんでいたためだ。だがその後、収入が増えてくると、食費の割合は徐々に減りはじめ、2000年には家庭内の食事がほぼ8%、外食の割合はほぼ5%になる。1960年から80年にかけては、家庭内の食事から外食へという流れが強くなった。
 肉類の1人あたり摂取量は一時減ったが、2010年の摂取量は1870年と変わらない。戦後の特徴は牛肉が多少減り、鶏肉の需要が増えたことだという。油脂類ではラードがほぼ姿を消し、サラダ油やコーン油、オリーブ油の需要が増えた。マーガリンの売り上げも伸びている。果物と野菜がますます重要になるとともに、戦後は冷凍食品の消費が急増した。
 1930年から60年にかけて、食品を買うのはスーパーマーケットが中心となった。消費者はひとつの店で、さまざまな食品を買い、その代金をレジでまとめて支払う。バーコードによる値段の読み取りができるようになるのは1980年代からである。それまでは会計係が商品に付けられた値札をみて、レジに値段を打ちこまなければならなかった。
 食品の種類は1980年代から2015年にかけて増えていき、選択肢が多様化した。著者によれば、平均的なスーパーの在庫は1950年に2200品目だったが、1985年には1万7500品目に増えた。しかし、スーパーが大きくなりすぎて、かえって買い物がたいへんになると、便利なコンビニがはやるようになる。
スーパーマーケット業界は、1990年以降は、より高級志向の食料品小売チェーンとより低価格の大型量販店にはさまれて苦戦しているようだ。
 戦後は多くのファストフード店が生まれた。これは家計に余裕がでたことと、女性の労働参加が進んだことと関係している。
 現在のファストフード店は、まるで組み立てラインができているように工場さながらの効率のよさを実現しているという。
 アメリカでは、1945年から1975年にかけ、所得格差が縮小した。その後、この「大圧縮」の時代は逆転し、いまでは上位層、中間層、下級層のあいだで格差が広がっている。3つの層では、食べるものにも「天地の差」があるという。
 アメリカ人の1日あたり摂取総カロリーは、1970年以降20%以上増大した。その原因は揚げ物類にあり、その大半はファストフード店でとられている。貧困層のあいだでは肥満が社会的問題になりつつある。「貧困家庭の子どもは暇をもてあまし、テレビの前に座って脂肪量とコレステロール値を高める安価なファストフードを食べている」。肥満を助長するのが、ビデオゲームだ。肥満が糖尿病や心臓病を引き起こし、今後、平均余命が短くなることを著者は懸念している。
 次に衣を取りあげよう。
 1940年から2010年にかけ、消費に占める衣料品の割合は大きく減少し、10%から3%へと低下した。「他の消費財やサービスに比べ、衣服は長期にわたって一貫して安くなった」という。
 とりわけ1980年以降は、輸入品が国産品に取って代わった。その結果、消費に占める衣服の割合が低くなり、消費の対象が衣服以外に向かうことになった。
 素材面でいえば、1940年以降はこれまでの綿やウール、絹に加えて、化学繊維が大きな割合を占めるようになる。化学繊維の品質は次第に向上していった。衣服の嗜好も変わった。堅苦しいものより、カジュアルウェアやスポーツウェアが好まれるようになった。
 衣料品はアジアからの輸入品が主流になったため、アメリカではアパレル産業の雇用が大きく失われた。いったんあけられたパンドラの箱は、もはや元に戻せない、と著者も感じている。
 最後に住宅について。
 アメリカの都市化率は1940年の56.5%から1970年の73.4%に上昇する。それにともない、現代的設備の整った住宅が普及した。1950年にはアメリカ全土に電力網が広がり、屋内の水洗トイレやバス、シャワーも行き渡る。1970年から2010年にかけては空調設備が普及した。
 戦後は世帯数に対する住宅着工件数は長期にわたって低下しつづけている。それは建築費が上昇したことと、人口増加率が徐々に低下していることと関係している。アメリカの住宅は戦後、規模も大きくなり、部屋数も増え、設備も充実した。さらにいえば、伝統的なリビングルームや正式なダイニングルームを小さくして、ファミリールームを広げる傾向が強まったという。
 設備面でいうと、1940年の段階で、冷蔵庫はまだ44%、洗濯機は40%の普及率にとどまっていたが、1970年にはほぼ100%を達成。1952年にオーブンやレンジをもつ家庭はまだ24%だったが、1990年には99%となった。1980年に8%にすぎなかった電子レンジはあっという間に普及し、2010年には96%に達した。食洗機は2010年時点で60%の家庭が所有するようになっている。
 冷蔵庫は急速に進化した。大きさはほぼ2倍になり、食品の保存機能が高まり、安定した冷凍機能をもつようになった。消費電力も大幅に減る。修理の必要はほとんどなくなった。進化したのは洗濯機も同じだった。容量が大きくなり、全自動化が進んだ。
 戦後の特徴はエアコンが普及したことである。エアコンのエネルギー効率は急速に改善された。重量も軽くなり、設置が容易になり、コストも安くなったことから、急速に家庭にとりいれられることになった。工場でもエアコンは仕事の効率を高めた。そのため、企業は工場を北部から南部に移すことも可能になった。
 電子レンジは1965年に初めて商品化されたが、その後、計量化と小型化が進み、電子制御機能も加わり、値段も安くなった。そのため、一斉に普及する。しかし、いずれの家電も、1990年以降、品質の向上はほぼ頭打ちとなった、と著者はいう。
 戦後の住宅で目立つのは、郊外化とスプロール化である。自動車の普及にともない、郊外では大規模土地開発が進むいっぽう、都市の中心にはスラムが形成された。郊外には巨大なショッピングモールもつくられていく。
 ヨーロッパでは、都市のスプロール化は生じていない。それについて、著者は「ヨーロッパの土地利用規制は、郊外のスプロール化を防ぎ、都市中心部の歩行者専用区域を保護する役割を果たすものだが、経済全体の生産性や一人あたり実質生産性の低下という大きなコストになっている」と指摘する。
 アメリカで深刻な問題となっているのは、旧式の工場をかかえるラストベルト地域が衰退したことである。北部の工業地帯から多くの人口が南部や南西部に移動していった。シカゴやフィラデルフィアの一部、クリーヴランドやデトロイト、セントルイスの中心街はゴーストタウン化している。黒人差別がスラム化を促進している面もある。「貧困層の多くは都市のスラムと食の砂漠から抜け出せないままでいる」。地域格差が教育格差を助長していることも大きな問題だ、と著者は指摘している。

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サマルカンドの朝──ウズベキスタンの旅(11) [旅]

 5月15日(水)
 リシャルド・カプシチンスキは『帝国』で、ティムールについてこう書いています(工藤幸雄訳)。

〈ティムールは史上の奇異な現象なのである。その名は何百年となく恐怖の的とされた。……彼は死を運んだ、そしてその任務に半日を費やした。あとの半日、彼の熱中したのが藝術であった。藝術の普及に対するティムールの献身たるや、死の普及に対する熱意に劣らなかった。……ティムール帝国にあって、最良の避難所となったのが才能である。ティムールは、こうした才人らをサマルカンドへと引き入れ、有能な人士の獲得に鵜の目鷹の目となった。……藝術家たちは花開き、サマルカンドも花と開いた。この街こそティムールの誇りであった。〉

 そのティムールのサマルカンドにいます。ティムールの時代なら、ぼくなどはあっさり殺されてしまっていたでしょう。
 泊まったホテルは空港の近くでした。
 けさはまずシャーヒ・ジンダ廟に行くことになっています。
 バスに乗ってすぐのところに、ウルグベク天文台があります。残念ながら見学の対象ではありませんが、ウルグベクは1年の時間を正確に計り、1018の星の軌跡をここで観察したのでした。
_DSC0608 2ウルグベク天文台下サマルカンド.JPG
 ウルグベクはティムールの孫で、ティムール帝国4代目の君主ですが、天文学者でもあり詩人でもありました。しかし、首を斬られ暗殺されるという悲劇の最後をとげます。その銅像が建てられています。
_DSC0609 2ウルグベクの像・天文台下サマルカンド.JPG
 シャーヒ・ジンダ廟に到着。時刻は8時です。ガイドさんによると、朝早く来ないと、大混雑になるといいます。
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 正しくはシャヒーダ・ジンダだとガイドさんはいいます。受難の聖人という意味だそうです。7世紀にムハンマドのいとこクサム・イブン・アッバースがサマルカンドに布教にやってきて、不幸にも首をはねられ、殺害されます。
 そのクサム・イブン・アッバースを祀ったのが、シャーヒ・ジンダのはじまりでした。いちばん奥にある11世紀の廟がそれですが、のちに、ここにはさまざまな廟がつくられることになります。主にティムールとかかわりのある女性たち(乳母や妃、妹、姪)の廟が中心です。
 ウルグベクのつくった入り口の門をはいったところにある建物の天井がきれいだったので、カメラに収めました。
_DSC0610 2シャーヒズィンダ廟群.JPG
 ガイドさんによると、それまで口承で伝えられていたコーランが、はじめて文字で書き記されたのも、ここサマルカンドにおいてだったといいます。
 サマルカンドは13世紀にモンゴル軍によって徹底的に破壊され、コーランはバグダッドに移されますが、ティムールがこれを取り返したといいます。ウズベキスタンがロシアの支配にはいると、コーランはロシアにもっていかれますが、これも返却され、現在はタシケントにその原本があるそうです。
 天国の階段と呼ばれる階段をのぼっていきます。左手に、青いドームをもつコシュ・グンバズ廟があります。ウルグベクの天文学の先生を祀った廟とされていますが、ほんとうのところはだれが祀られているか、よくわからないといいます。
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 タイル模様がきれいですね。ガイドさんが、図柄についてくわしく説明してくれましたが、すっかり忘れてしまいました。
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 さらに階段をのぼっていきます。のぼりきった右手にあるのが、ティムールの将軍にちなむトゥグル・テキン廟。
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 つづいて、ティムールの妹を祀るシリンベク・アカ廟。
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 ふり返って、小道の写真を1枚。
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 柱のかたちがおもしろい。
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 だんだん、青の世界に酔ってどれが何という廟がわからなくなってきます。
 豪華な扉のなかにはいっていきます。
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 廟のなかのタイルもみごとです。
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 シャーディムルク・アカ廟。ティムールの姪を祀った廟です。
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 内装も美しいですね。
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 いちばん奥までやってきました。
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 吸い込まれるように、なかにはいっていきます。すると、みごとな天井装飾が。
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 別の部屋にもこんな天井が広がっています。
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 部屋のタイルも豪華です。
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 ふたたび、天国の階段を下りていきます。
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 坂の途中にある廟をもう一度。まだ9時前だというのに、気温はどんどん上がっています。
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サマルカンドに到着──ウズベキスタンの旅(10) [旅]

 5月14日(火)
 夕方5時ごろ、サマルカンドに到着します。
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 バスはそのままグル・アミール廟へ。ここにはティムールの孫、ムハンマド・スルタンのメドレセ(神学校)がありました。その孫がトルコ戦役で戦死したのをしのんで建てられたのが、グル・アミール廟です。
 のちにティムールやその息子や孫も、この廟に祀られることになります。ティムール自身は、サマルカンドでなく、シャフリサブスで眠りたいと漏らしていたようですが、その希望はかなわなかったようです。
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 ソ連時代の1920年代にこの廟は塔もろとも破壊されましたが、復元されたといいます。その門をくぐってみます。
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 礎石しか残っていない場所に、かつてはメドレセが建っていました。
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 廟のなかにはティムールの肖像とその版図がえがかれています。ティムールが支配下においたのは、現在の中央アジア諸国だけでなく、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インドの一部、トルコの一部、ロシアの一部を含む広大な地域でした。
_DSC0570 2ティムールの肖像グル・アミール廟/サマルカンド.JPG
 ティムールの一生は戦争に明け暮れたといえます。亡くなったのは68歳のときで、1405年に中国遠征を試みる矢先でした。
 めざしたのは新モンゴル帝国の建設だったのかもしれません。そのティムール帝国も、かれの死後100年ほどしかつづきません。しかし、のちにその王族のひとりバーブルがインドにはいって、ムガール帝国を築くことになります。ちなみにムガールとはモンゴルのこと。
 墓室にはいります。いくつも墓が並んでいますが、黒い玉でつくられているのが、ティムールの墓です。
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 もう少し近づいてみましょう。柩の正面には何やら文字が刻まれています。これがかの有名な「私が死の眠りからさめたとき、世界は恐怖に見舞われるだろう」という文言でしょうか。アラビア語が読めないので、ほんとうのところ、よくわかりませんが、たしかにりっぱな柩にはちがいありません。
_DSC0574 2ティムールの墓(黒).JPG
 グル・アミール廟の北側にはルハバッド廟というシンプルな廟もあります。神秘主義者のシェイヒ・ブルハヌッディン・サガルジが祀られているとか。イスラム神秘主義というと井筒俊彦さんを思いだしますね。
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 いったんホテルにチェックインし、それからレストランで夕食。
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 おいしそうですが、例によってぼくの胃はすでにくたびれています。
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 ふたたび、ライトアップされたグル・アミール廟へ。
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 月が空高くのぼっているのが幻想的。
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ライトアップされたレギスタン広場も訪れました。大勢の観光客が集まっていました。時刻は夜9時ごろです。
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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(5) [商品世界論ノート]

 ここからは、1870年から1940年にかけての生活環境の変化をみていく。
 商品世界の進展は、労働者の資本家への隷属をますます強め、労働者の困窮を広げていっただろうか。事態はマルクスの予想と逆に動いた。少なくとも、1870年から1970年までの100年については、そうだったといえる。
 イノベーションにもとづく新商品には、消費者の厚生を高め、余暇活動を広げ、家事労働の負担を軽減する効果があった。自動車や冷蔵庫、掃除機などの家電製品をみてもそのことがわかる。そのことが同時に平均余命(寿命)の伸びをもたらす、ひとつの要因ともなった。
 とりわけ注目すべきは、1900年から1940年にかけ、乳児死亡率が低下したことである。都市の衛生インフラ(たとえば上下水道)が整備され、危険な食品や薬品への規制がなされようになったことも、平均余命の伸びと無関係ではない。加えて、より直接的な要因としては、もちろん医療技術の進歩を挙げなければならない。
 1900年時点では、都市部の白人男性の平均余命は39.1歳と、農村部の46歳よりも低かった。これは都市の生活環境が悪く、新鮮な食べ物を得るのが難しかったからである。しかし、1900年と1940年を比較すると、都市部と農村部の差は縮小し、平均余命は白人男性が48歳から63歳に、非白人男性は33歳から52歳に伸びている。白人と非白人の余命のちがいは、とりわけ南部の生活環境の差によるものと思われる。
 平均余命の増加は、前に述べたように、乳児死亡率の低下が大きな要因だが、感染症による死亡率が低くなったことも大きい。1918年から19年にかけてのスペイン風邪(インフルエンザ)は例外的に多くの死者をだしたが、当時はまだウイルス研究がじゅうぶんに進んでいなかった。著者は上水道システムの普及や、パスツールの病原菌理論にもとづくワクチンの開発、住宅環境の整備、公衆衛生の浸透、大気汚染対策、食品の安全管理、疫学予防、病院と薬局の整備などを寿命増加の要因として挙げている。
 さまざまな医療器具が開発され、医師が専門化し、医療行為が市場性をもつようになったことも見逃せない。それまでは、医療は家庭か近隣の協力でなされるものだった。自動車は医師の行動範囲を拡大した。電話で緊急に医師を呼ぶことも可能になった。
 病院数は次第に増えていったが、それでも、まだ病気や怪我は自宅で治すという人は多く、その場合、病人は医師の往診を待つほかなかった。出産も家庭でおこなわれることがまだ一般的で、病院での出産が5割にのぼるのは1920年代になってからである。
 看護学校が誕生するのは1870年代。1920年代には病院の建設ラッシュがはじまる。それにより病院はより快適なものとなり、病室も個室や半個室がつくられるようになった。1930年ごろ、病院を運営するのは、連邦政府ないし地方政府が28%、教会や個人、非営利組織が72%といった割合だった。
 医学は着実に進歩し、麻酔薬が開発され、手術での苦痛も軽減されていく。ワクチンは感染症の脅威を軽減した。公衆衛生面では、清潔と消毒のたいせつさがより認識されるようになった。
 医療費は当初、さほど高くなかった。往診する医者は、個人事業主で、患者を診察・治療するたびに料金を請求した。医療費が上がりはじめたのは1910年ごろからである。このころ医学校改革がなされ、医者がより専門家になると、医師の免許制がいわば独占に似た状況を生みだし、診療報酬が押し上げられていった。現代的な医療機器による治療や入院費の増加も医療費を高くする要因となった。
 アメリカでは全国民を網羅する医療保険がなかなかできなかった。労働者の一部は産業の疾病基金でカバーされていたが、失業すると、たちまち所得と健康保険の両方を失った。長期入院を強いられると、年収の3分の1から半分の医療費を請求されることもあった。ニューディール政策では強制失業保険と社会保障法が成立したものの、国民健康保険の導入にはいたらなかった。
 事故についてはどうだろう。エジソンの発明した電球が職場での事故を減らした、と著者は指摘する。とはいえ、事故はまだ多かった。馬と人間が衝突することもあった。鉄道や船の事故も少なくなかった。それが一段落すると、今度は自動車事故である。1920年には、自動車事故による死者が鉄道事故の倍になった。だが、それも徐々に改善されていく。
 殺人率は1930年代に10万人あたり10人と上昇するが、1950年にはほぼ半減し、1980年代にふたたび上昇して、10万人あたり11人のピークをつけた。1930年代の殺人による死亡者数は、自動車事故のほぼ3分の1である。殺人には地域格差が大きい。北部が比較的少ないのにたいし、南部はきわめて高い。しかし、南部よりさらに高かったのが西部開拓地だった、と著者はいう。
 生活水準上昇の度合いは、1人あたりGDPの伸びよりも大きい、と著者はみる。GDPの増大は生活の質の変化と消費者余剰をもたらすからだ。とりわけ、その恩恵は死亡率の低下と平均余命の増加にあらわれる。平均余命の増加は、医療産業の進歩によるだけではなく、もっと総合的なものである。
 次に取りあげられるのは、職場と家庭の労働環境である。
 1870年代から1940年代にかけ、それらは多いに改善された。職場の労働時間は着実に短くなり、64時間だった週の労働時間は、1940年以降48時間に減少した。定年退職という概念も一般的になる。児童労働はほぼ消滅した。
 機械の導入により、きつい農作業は緩和された。それは食肉処理などの職場でも同じである。縫製工場の劣悪な労働環境も次第に改善されるようになった。
 女性の労働参加率は徐々に上昇した。1870年には12%だったが、1940年には26%に達し、2000年には72%まで上昇している。いっぽう、男性の労働参加率は1870年から1940年で95%で、その後減ったといっても2000年でも88%を保っている。
 10歳から15歳までの児童労働は1880年には男子が30%、女子が10%あったが、1940年にはほぼ4%に低下している。19世紀後半、少女たちは水くみや洗濯、台所仕事、縫い物、子どもの世話と、めまぐるしく働いていた。
 1910年ごろから若年男子(16〜24歳)の労働参加率が低下するのは、高校への進学率が増えたからである。戦後はさらに大学進学率の増加によって、若年労働者の労働参加率は低下する。いっぽう、若年女子の労働参加率は徐々に高まっていく。そのため2000年ごろにおいては若年の男子と女子の就職率はほとんど変わらなくなった(60数%)。
 かつては死ぬまではたらかねばならなかった高齢男性は、社会保障制度が充実するにつれ、退職し、余生を楽しむことができるようになった。65歳〜74歳の男性の労働参加率は、1870年には90%近かったが、1940年には53%、1990年には24%に低下している。
 労働の質も変わった。機械や道具の導入によって、それまでのつらく退屈で危険な労働が軽減された。農場労働者や作業員の数も減ってくる。人力による運搬や掘削などの仕事はトラックや掘削機に取って代わられた。製造業の組立工も1970年以降はロボットによって代替されるようになる。
 いっぽうブルーカラーに代わって増えてくるのが、ホワイトカラーや管理・専門職である。不快な仕事に従事する人の割合は1870年の87.2%から2009年の21.6%へと段階的に低下した。1870年から1970年にかけては苛酷な業務が反復的な業務へと変わり、1970年以降は非定型的な認識業務が増えてくる、と著者はいう。
 労働時間も減った。1870年には労働時間は週6日、1日10時間が一般的だったが、1940年には週5日、1日8時間がふつうになった。労働時間が減少したのは、労働時間の短縮によって労働の質が上がり、かえって労働生産性が上昇すると考えられたからである。時短と労働生産性の上昇は、実質賃金の上昇と結びついていった。
 ここで、農業に目を転じてみよう。その労働環境は、土地の肥沃度や気象の安定性、さらには家畜や農機具による負担軽減にかかっている。1862年のホームステッド法は、開拓を促進したものの、土地の劣化をももたらした。開墾は重労働だった。
 機械化が促進される19世紀後半まで、農業の生産性は低かった。1830年以降は馬が使われるようになっていたが、その後、内燃エンジンが開発され、余裕のある農家はトラクターや小型コンバインを取り入れるようになる。干魃や害虫に強いトウモロコシのハイブリッド種も開発された。これらにより、農業の労働環境が改善されていく。
 ただし、制度的な問題もある。アメリカでは南部と北部では、農業の制度がことなる。南部では黒人奴隷解放後も、小作人制度が幅をきかせていた。土地を所有する地主は小作人を雇って、作物や綿花を育てさせ、その収穫の半分を受け取っていた。19世紀後半から20世紀はじめにかけて、南部の黒人小作人の生活はみじめなものだったという。
 1870年から1940年のあいだに、アメリカは農村国家から都市国家に移行する。そのかん、都市人口の割合は25%から57%に上昇した。都市人口の割合が増えたのは、移民が都市に住み着いただけではなく、農村から都市への移住が増えたからである。
 労働環境が厳しかったのは農村だけではない。鉱山、とりわけ炭鉱は危険と隣り合わせであり、肺病にかかる確率も高かった。食肉処理場の労働環境も苛酷だった。鉄鋼業では、長時間労働と苛酷な労働環境が労働者の生活をむしばんでいた。企業間の熾烈な競争が人件費の削減に輪をかけていた。高温の蒸気が充満するなかでの作業はまるで生き地獄のようだった。そこに機械化の波が押し寄せる。機械化によって、熟練した職人は排除され、画一的な未熟練労働者に置き換えられていった。
 1919年以降の生産性上昇は電動モーターによるところが大きかった。その副産物として、作業場が明るく清潔になり、労働環境が改善されていったことは否定できない。
 19世紀後半には、炭鉱や鉄鋼業だけでなく、どの産業でも労働災害による死傷事故が多かった。建設現場や縫製工場でも事情は変わらない。低賃金、長時間労働に加え、労働環境も苛酷だった。労働者にたいする保護や補償はないに等しかった。
 しかも不況の波が、多くの労働者の職を奪った。確実なものは何もなく、来年の家計どころか、来週の賃金もどうなるかわからなかった。失業に対する打撃が緩和されたのは、1938年にニューディール法が成立してからである。だが、それ以前の1910年から20年にかけて、労働者災害補償法が各州で成立していた。
 第2次世界大戦前、家庭外での女性の労働は、使用人や事務員、教師、看護婦、縫製の仕事などにかぎられ、働くのはたいてい未婚女性か未亡人だった。その賃金は安く、労働環境は苛酷だった。1920年代から1940年代にかけ、女性の労働参加率が上昇したのは、サービス部門での仕事が増えたことや、女性が家事労働から多少なりとも解放されたためである。女性は次第に「汚く骨の折れる職場ではなく、清潔で快適な現代的オフィスや販売店で働くようになり、週あたり労働時間も短縮された」。
 19世紀後半、労働者階級の女性は家庭内での重労働に追われていた。洗濯、料理、水くみ、掃除、パン焼き、針仕事、どれもが大仕事だった。上下水道が普及し、ガスが敷かれ、家電製品がそろったことで、女性の家事負担は軽減され、家事を楽しいと思う女性も増えてきた。「20世紀には、女性の家事負担の軽減と男性の市場労働の時間減少という二つの異なるトレンドが重なり、男性が子育て、住宅補修、庭仕事などの家庭内生産に積極的に参加できるようになった」と、著者は指摘する。
 全体的にみれば、世帯あたりの家庭内生産(労働)の時間は1900年の週78時間から2005年の週49時間に減っているという。子どもの数が平均4人から2人になったことは、家庭内の仕事量に影響していない。手間は変わらないからである。だが、家庭内の仕事は料理にしても何にしても、より基準の高いものになっている。料理も掃除も子どもの世話もより入念におこなわれるようになっているのだ。
 1900年ごろ、熟練工と非熟練工のあいだでは、2倍の賃金の開きがあった。高所得労働者はアメリカン・スタンダードを謳歌できたが、底辺労働者は極貧を生きていた。移民労働者は労働条件が少しでもよいと、簡単によそへ移った。フォードが基本給を上げたのは、労働者の離職率の高さを抑えるためである。
 しかし、いずれにせよ、1940年代までは実質賃金が労働生産性を上回るかたちで伸びた。実質賃金が労働生産性を下回るようになるのは1980年代以降である。これは徐々に経済格差が広がったことを示している。
 実質賃金の伸びがもっとも高かったのは1910年から1940年にかけてである。1920年代の移民制限法と、ニューディール法制による労働組合の奨励も、実質賃金の増加に寄与した。自動車工場などでは、技術変化が労働者に特定の反復作業をうながすいっぽう、企業は労働者の離職率を下げるために賃金を上げなければならなかった。
 1870年に児童労働はごく一般的で、14歳、15歳の少年は半数以上が働いていた。炭鉱でも製鉄所でも織物工場でも農家でも、少年たちのはたらく場所があった。その給料は成人男性の半分ほどで、児童労働を禁止する法律が施行されても、児童労働はなかなかなくならなかった。とくに低所得世帯は、義務教育が終わるとすぐに子どもをはたらかせていた。
 1870年時点で、高校に進学する子どもはごくわずかだった。1910年の高卒率は9%にすぎなかったが、1940年には51%、1970年には約77%に達する。第2次世界大戦は、大学進学率も増えていた。
 1870年から1940年にかけてほど、急速に生活水準が向上し、人びとを取り巻く環境が一変した時期はない、と著者は指摘する。商品世界の広がりはいうまでもなく、この時期、保険や消費者信用が果たした役割、さらに経済開発をうながした政府の役割はけっして無視できない、と著者は指摘する。
 消費者信用は19世紀後半から広く用いられていた。農家は雑貨店や行商人から必要なものをツケで購入し、次の収穫期に支払っていた。北部の農民のなかには、銀行で資金を借りて、土地を購入する者もいた。しかし、当時の金利は高く、農民はその支払いに追われた。
 地主から借り入れをしている南部の小作人の生活はより悲惨で、借金でがんじがらめになっていた。そのころ都市で、質屋が盛んだったのは、都市の雇用が不安定だったことと関係がある。
 割賦販売は1845年のピアノとオルガンが最初だったという。シンガー・ミシンは1850年からミシンの割賦販売をはじめる。富裕層から労働者階級にまでミシンが広がったのは割賦販売のおかげである。すでにサラ金のようなものもはじまっている。
 大型デパートや通信カタログ販売は、現金販売が原則だったが、競争が激しくなるにつれて、割賦販売も認められるようになった。著者によれば、割賦販売が盛んになるのは耐久消費財への需要が増える1920年代からだという。それによって、「労働者階級の大半が消費者信用を利用できる新しい世界が台頭した」。
 消費者金融は急速に拡大する。大恐慌は1929年後半の株式市場の崩壊によって生じるが、「家計が消費者信用に過度に依存し、負債比率を高めていたことも大きかった」。
 その消費者信用がとりわけ効果を発揮したのが自動車販売である。1924年には4台のうち3台がローンで購入されていたという。
 1920年代から消費者信用は利用しやすくなった。耐久消費財の価格が下落したところに、消費者信用の供与が拡大し、電気冷蔵庫や洗濯機など、新製品の購入が促されることになった。それにより「労働者階級は、信用販売のおかげで、一世代前には存在しなかった新製品を入手できるようになった」。
 アメリカでは1890年にすでに住宅ローンが生まれている。1920年代には住宅建設ブームが起き、信用状況が全般に緩和され、住宅金融は急増している。
 生命保険がいまのようなかたちになるのは、19世紀最後の30年だという。20世紀にはいると、生命保険は急速に普及する。それは比較的少額の支払いで、万一の場合に備える貯蓄と考えられていた。1905年の時点で生命保険会社の資産の対GDP比は10%を超え、1933年には37%と急上昇している。いずれにせよ、1940年ごろまで、生命保険は急速に増大し、皆保険に近いものとなっていく。
 火災保険は17世紀後半にイギリスで誕生するが、現代的なかたちになるのは19世紀からである。1906年のサンフランシスコ地震と火災による被害は、約半分程度が火災保険でカバーされた。
 強制自動車保険が導入されたのは1920年代である。自動車事故の死亡率は現在より20倍以上高かった。そのころから、事故によるけがや死亡、車両損害や医療費の支払い、その他に対応する自動車保険が次々と開発されていった。
 1870年から1940年にかけてアメリカ人の生活水準が上昇したのは、主に民間部門による発明と資本蓄積のおかげだが、そのかん政府は何もしなかったわけではない。「連邦政府をはじめ州政府など公的部門が、成長のプロセスを直接支援するとともに、行き過ぎた成長には歯止めをかけた」。
 たとえば、ホームステッド法、鉄道への土地の無償供与、1906年の純正食品医薬品法、特許局の設立、1920〜33年の禁酒法、さらに反トラスト法や一連のニューディール法制などをみても、政府は積極的に経済にかかわっている。その評価は分かれる(とりわけ禁酒法にたいする批判は強い)が、政府の介入は概して近代化を促進するとともに、プラスの外部効果をもたらした。
 製品規格の統一、食品衛生、医療、上下水道の整備、道路の整備、電化などで政府の果たした役割は大きい。著者が評価するのはとりわけ1933年から1940年にかけてのニューディール法制である。これにより預金者の預金保護や社会保障制度も確立された。雇用を創出し、失業を減らす対策がとられたのもニューディール政策の特徴だった。

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シャフリサブス──ウズベキスタンの旅(10) [旅]

 5月14日(火)
 ティムール(1336〜1405)の生まれたシャフリサブスに到着したのは11時。最初に訪れたのが、ドルッティロヴァット建築群と呼ばれる場所で、ここにはティムールの父親が眠っています。だから、「瞑想の家」とも呼ばれるのでしょうか。りっぱなモスクと廟があります。
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 その奥にはいってみます。
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 中庭にはりっぱなスズカケの古木が。
_DSC0357スズカケノキ古木Platanus orientalis・ハズラティ・イマーム・モスクの中庭.JPG
 ずっと奥にはいっていきます。ドルッサオダット建築群が見えてきます。
 礎石だけが残っているのは、かつてここには広大な建築群があったことを示しています。右に見えるのはティムールが22歳で戦死した長男のために建てたジャハンギール廟です。
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 その裏手にはティムールの廟もあり、柩もつくられていますが、実際にはティムールは予定していたこの場所ではなく、サマルカンドに葬られました。
_DSC0369 2ティムールの予定廟.JPG
 地元の人たちの信仰を集めるハズラティ・イマーム・モスクです。
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 最初にみたドルッティロヴァット建築群のなかにはいっていきます。
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 中庭はこんな感じ。みやげ物屋が並んでいます。
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 奥にあるグンバズィ・サイーダン廟には4つの柩があります。ここはティムールの孫、ウルグベクが自分の子孫のために建てた廟です。
_DSC0403 2グンバズィ・サイーダン廟(ウルベルグの子孫の墓).JPG
 その隣、ティムールが建てたシャムスッディン・クラル廟には、ティムールの父が眠っています。
_DSC0404 2シャムスッディン・クラル廟(ティムールの父他の墓).JPG
 その天井は美しく飾られていました。
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 大きな青いドームのあるコクグンバス・モスクのなかにもはいりました。
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 そのあと4、5分バスに乗って、アク・サライ宮殿跡に。遠くにザラフシャン山脈がみえます。
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 巨大なティムールの銅像が立っています。
_DSC0426 2.チムール像とアク・サライ宮殿跡.JPG
 このあたりで、記念撮影を1枚。右の人、弱っちそうです。
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 ここには、かつて広大な宮殿が建てられていたようですが、いまではアーチの一部しか残されていません。しかし、これをみるだけでも、それがいかに巨大であったかがしのばれます。
_DSC0429 2アク・サライ宮殿跡.JPG
 アーチの壁面にはその当時のタイルが残されています。
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 シャフリサブスの見学を終えたあと、バスで3時間、いよいよサマルカンドへ。途中はすばらしい高原が広がっていました。
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 ロバに乗る老人と少年の姿をカメラに収めます。
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 ブドウ畑です。後ろの山はザラフション山地。まもなくサマルカンドです。
_DSC0546 2ブドウ栽培ザラフション山地.JPG

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(4) [商品世界論ノート]

 1870年から1970年にかけては、資本主義の興隆期だった。1870年から2014年までをカバーする本書の第1部は、その前半、すなわち1870年から1940年までを扱っている。時折の恐慌をともないながらも、それは資本主義の興隆期だったといえるだろう。
 あらゆる面で技術革新が生じている。今回、読むことにした第5章と第6章は、交通と通信、さらに娯楽に焦点をあてている。すでにマルクスの知らない時代がはじまっていた。
 人は移動する動物である。だが、人が単なる動物と異なるのは、みずからの足を使ってだけではなく、自然を用具化して、移動の範囲を広げ、移動に要する時間を短縮してきたことである。
 その用具をつくりだすには膨大な努力を要する。政治集団自体がすぐれた用具をつくりだすことはまずない。それよりも、できるなら民間で商品化された用具を、対価を払って利用するほうが理にかなっている。
 商品が貨幣によって購入できる財とサービスを指すとするなら、輸送機関も一種の商品である。そのサービスを利用するには対価を支払わなければならない。
 19世紀まで、人間の移動スピードは、馬や帆によって大枠が決められていた。それを変えたのは19世紀初めの蒸気エンジンである。鉄道や蒸気船が誕生する。1870年段階で、アメリカはすでに大陸横断鉄道をもち、すべての大陸と蒸気船で結ばれるようになっていた。
 この時点では、都市内部のスピーディな移動は馬車、さらにはそれを改良した鉄道馬車にかぎられていた。しかし、エジソンの発明により、アメリカの都市部では、1890年から1902年にかけ路面電車が動くようになり、1904年にはニューヨークに地下鉄が走るようになる。
 アメリカで長距離鉄道網が急速に発達したのは、1840年から1900年にかけてのことだ。1860年代において、その鉄道網は北部が中心で、西部や南部での建設は遅れていた。しかし、1870年には大陸横断鉄道が完成し、1920年にかけて鉄道建設ラッシュがおきる。
 鉄道によって、都市と都市は直線で結ばれるようになった。それにより、それまでの船や馬での移動にともなう不安定性や危険をとりのぞくことができたのが、鉄道の大きなメリットである。そして、鉄道はさらに進化し、馬力の増大にともない、輸送貨物の重量も増え、遠くまで、より安くより早く、旅客と貨物を運べるようになった。
 交通革命は商品のコストを大幅に下げた。1880年代に冷蔵貨物列車が開発されると、食品の品質が向上し、多様化しはじめる。カリフォルニアの野菜や果物、中西部の肉が東部に運ばれ、都市からは工業製品が小さな町や農村にももたらされる。郵便事業が改善され、カタログ販売も伸びていった。その中心点となったのがシカゴである。
 鉄道は旅行の楽しみももたらした。1870年から1940年にかけては、鉄道網が広がるだけではなく、鉄道のスピードが速くなり、乗り換えも楽になり、また車内も快適にすごせるようになった。
 19世紀まで都市の広さは、せいぜい歩ける範囲に限られ、雇い主も労働者もごく近くに住んでいた。1850年代に鉄道が開通すると、その状況はかなり変わってくる。しかし、初期の蒸気鉄道には不快な煤煙もつきものだった。
 そのため1890年代まで、市内の交通や物流はまだ馬が主流だった。しばしば事故をおこした乗合馬車は、1850年ごろ鉄道馬車に変わり、スピードも速くなり、料金も安くなった。しかし、次第に馬に代わる乗り物が求められるようになる。蒸気で走る汽車は町中には適さない。唯一の例外は坂をのぼるケーブルカーだった(それはいまもサンフランシスコに残っている)。
 電気で走る路面電車が実用化されるのは19世紀末から20世紀はじめにかけてである。それでも都市の渋滞はまだ緩和されなかった。同じ道路に馬車と電車がひしめきあって走っていた。
 電気による高架鉄道も開発された。ロンドンの地下鉄をまねて、1897年にはボストンでアメリカ初の地下鉄が開通する。ニューヨークの地下鉄開業は、それから7年遅れて1904年になった。そのころ都市間の電気鉄道(インターアーバン)もできあがる。こうして都市圏は次第に広がっていく。
 自動車を発明したのはドイツ人だが、それを安価な乗り物に改良したのは、アメリカのヘンリー・フォードらである。自動車が登場すると、馬はたちまち駆逐される。馬の時速はせいぜい10キロ、それに1頭の馬が走れる距離は40キロほどに限られていた。馬を飼うのはやっかいで、走っている途中で死ぬこともあったし、それに何よりも馬糞の処理が悩みの種だった。そんな問題を自動車は解決した。
 当初、自動車を購入するのは富裕層にかぎられていた。しかし、ヘンリー・フォードがT型モデルを開発すると、自動車の性能は向上し、価格も安くなった。1910年代から1920年代にかけ、フォード車は爆発的に売れる。その後はゼネラル・モーターズなどとの競争がはじまる。とはいえ、アメリカでは1910年から1930年にかけ、自動車が急速に普及していった。
 問題は道路の改良だった。アメリカでは1904年に道路の総延長距離が200万マイルを超えたが、その大半は土の道で舗装されていなかった。連邦政府は1916年から舗装道路の建設に補助金を出すようになる。アスファルトやコンクリートが開発されたのもこのころである。これによって、高速道路も建設されるようになった。
 市内で路面電車やバスが発達するにつれ、馬は次第に排除されるようになった。大陸横断鉄道はいうまでもなく、1920年代後半には東海岸と西海岸を結ぶバスも登場している。ロサンゼルスとニューヨークは、135地点を通過しながら5日と14時間で結ばれるようになった。
 しかし、公共路線以外の移動は困難を要した。馬に代わってこの問題を解決したのが自動車だったことはまちがいない。自動車はいつでも、どこでも、好きなように行くことができた。目的地にでかけるときに荷物をもって駅まで歩いて行く必要もない。こうして自動車は公共交通機関と競合していくようになる。
 とりわけ自動車が威力を発揮したのが農村部だった。農民は自動車に飛びついた。自動車のおかげで、それまでの孤独な生活は幕を閉じた。農民が自由に動けるようになったため、村の雑貨屋や銀行、学校は大きな打撃を受けた。
 自動車が急速に普及したのは、価格の低下によるところが大きい。自動車ローンの普及が自動車の購入を促した。自動車によって人びとの生活はがらりと変わった。通勤や買い物、レジャーなど、その波及効果は大きかった。ガソリンスタンドやレストラン、モーテル、雑貨店などのロードサイドビジネスも誕生する。そのひとつがケンタッキーフライドチキンだった。
 その代わり、1920年ごろには、アメリカの通りから徐々に姿を消したものもある。露天商が姿を消し、街角のドラッグストアや地元のカフェ、近所の店もなくなった。散歩をする人もいなくなった。その意味では「人間関係の機微も失われた」ことを著者も認めている。
 しかし、にもかかわらず自動車のもたらした効能は大きかった。
 ある論者はこう記している。

〈自動車の登場がもたらした恩恵は明々白々だった。都市は清潔になり、地方の孤立に終止符が打たれ、道路は改良された。医療が向上し、校区は統合され、娯楽の機会が増えた。企業や住宅の分散が進み、郊外の不動産ブームが起き、標準的なミドルクラスの文化が生まれた。〉

 ここでアメリカと日本を比較したい誘惑に駆られるが、いまは先に進むことにしよう。
 つづいて第6章。情報、通信、娯楽の革命が論じられる。
 1870年時点で、アメリカでは8割の人が読み書きができるようになっていた。すでに新聞、雑誌、書籍などの印刷物がかなり出回っている。
 新聞は19世紀はじめから読まれていたが、その総発行部数は1870年の700万部から1900年の3900万部、1940年の9600万部と驚異的に伸びていった。新聞は情報と娯楽を得る最大の手段だった。各紙の競争も激しく、扇情的な記事が氾濫していた。
 1880年から90年にかけて、多くの雑誌が創刊された。新聞の内容をより掘り下げたり、まとめたりしたものが主流で、写真が雑誌の魅力になっていた。そして、1920年代からはセックスや告白を扱った下世話な雑誌も増えてくる。
 書籍はフィクションが主流。なかでも人気は恋愛小説で、伝記、歴史物もよく読まれた。
 モース(日本ではモールスと呼ばれた)の開発した電信が普及しはじめるのは19世紀半ばである。1866年には米英間で海底ケーブルが敷設され、大西洋を横断する電信が可能になった。銀行や鉄道会社、新聞社にとって、電信は必要不可欠の通信手段だった。
 電信は企業規模の拡大にも寄与した。
「単一の機能しかない小規模な企業が域内だけで事業を行う経済から、電信が登場したことで、全国を対象にする多機能の大企業主導の経済への移行が速まった」と、著者は指摘する。
 電報は一般家庭が利用するには、値段が高すぎた。一般家庭が重宝したのはむしろ郵便サービスである。アメリカで郵便配達制度が登場するのは1901年のことで、それまで農民は最寄りの町の郵便局に行って手紙を受け取らなければならなかった。郵便配達制度は農民の時間のむだを省き、生活水準の向上に寄与しただけではない。多くの雇用を生みだすことにもなった。
 1876年にグラハム・ベルは電話の実験に成功する。しかし、電話の普及には時間がかかった。ニューヨーク・シカゴ間は1892年、ニューヨーク・サンフランシスコ間は1915年になって、はじめて電話が通じるようになる。電話料金も次第に安くなった。
 電話は最初ビジネスに不可欠な道具となり、さらに家庭の日常生活にも取り入れられていった。電話の普及により、手紙を書くというかつての習慣は次第にすたれていく。
 エジソンが蓄音機を発明したのは1877年である。当時はときの政治家の演説を永久保存するのに役立つなどと考えられていた。レコードということばが定着するのは1890年代半ばである。蓄音機が家庭にはいるのは1900年以降だ。蓄音機によって一般市民ははじめてプロの演奏を家庭でも耳にできるようになった。とはいえ、それにはまだ大きな欠陥があり、多くの改良が必要だった。レコードで演奏が正確に再現できるようになるのは1925年になってからである。
 さらに画期的なのはラジオの発明だった。「最初の商用ラジオ局が開設されたのは1920年だが、20年経たないうちに、少なくとも1台のラジオを保有している家庭が80%以上に達した」と、著者は書いている。いったん買ってしまえば、音楽であれ、ニュースや情報であれ、放送を無料で楽しむことができるのが、何よりもありがたかった。
 著者によれば、「自動車とおなじくらい、ラジオは20世紀前半を決定づけた」。受信装置の値段が安くなり、その性能も向上していったことが、ラジオの人気をますます高めていった。
 1926年にはラジオ局のネットワークができあがっていた(アメリカに国営放送はない)。番組内容はクラシック音楽よりポピュラー音楽、教育的なものよりコメディやバラエティが好まれるようになった。ラジオ局を営業面で支えていたのは、コマーシャルである。たばこや歯磨き、コーヒー、便秘薬など、さまざまな商品の名前が全米に流されていた。
 1930年代の不況時にも、ラジオは現実から逃れるひとときの娯楽を提供することができた。「陰鬱な大恐慌時代に抑圧された大衆は、心の拠り所を求めていた」。さらに、1940年代にラジオが戦争遂行に果たした役割も忘れてはならない、と著者は指摘する。
 さらに注目しなければならないのが、映画の発達である。
映画の歴史は静止画にはじまり、5セント劇場の短編から大映画館での長編映画へと移っていった。1915年にはチャーリー・チャップリンなどが喝采を浴びるようになる。このころは無声映画で、映画の上映に合わせてオルガンやピアノが演奏されていた。むずかしかったのは映像と音声を同期化させることだった。トーキー(発声映画)が登場するのは1927年のことである。
 1930年代には無声映画からトーキーへの移行が急速に進み、そのジャンルもギャング映画に西部劇、コメディ、ミュージカル、ファンタジー、ホラー、SF、ホラーなどへと急速に広がった。入場料も安かったため、観客数も一挙に増えていった。1939年には「風と共に去りぬ」、「オズの魔法使い」のカラー映画が誕生している。その後も「市民ケーン」や「カサブランカ」といった名作に観客は魅了された。
 1940年にラジオと映画は全盛時代を迎えていた。人びとはいずれも1870年には考えられなかった娯楽に包まれていたのだ。
 そのころ、日本も内心アメリカを追いかけていたのではないだろうか。

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シャフリサブスへ──ウズベキスタンの旅(9) [旅]

 5月14日(火)
 けさは朝6時50分にバスでホテルを出発。中間のカサンを経て、シャフリサブス(旧名ケシュ)に向かいます。最終到着地は青の都サマルカンドです。
 ブハラからシャフリサブスまでは300キロで約4時間、シャフリサブスからサマルカンドまでは170キロで約3時間のバスの旅になります。
 早朝、宿泊したグランドブハラ・ホテルの屋上から眺めると、新しいホテルが建設中でした。観光客が増えている様子がうかがえます。
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 郊外にでると、そこはすぐ乾燥地帯になり、遠くに工場と倉庫らしいものが見えてきます。
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 さらに行くと荒涼とした大地が広がります。ガイドさんによると、このあたりは自然公園になっているとのこと。積み上げた石の上にシカの像が立てられているのは、シカが道路を横切るので注意ということでしょうか。
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 ガイドさんがとつぜん、ウズベキスタンに強制連行された日本人捕虜の話をはじめます。
 戦後、ソ連によって60万人の日本人がシベリアに抑留された話はよく知られています。しかし、そのうち2万5000人がウズベキスタンに連れてこられたことは知りませんでした。
 ガイドさんによると、ウズベキスタンで亡くなった日本人は1300人で、強制連行された人の4%にあたります。これはシベリアに比べると圧倒的に少ない割合だ、とガイドさんは強調します。
 いまでもタシケントをはじめ、ウズベキスタン各地に日本人墓地が残っています。亡くなった人の無念さを思わないわけにはいきません。
 ガイドさんはウズベキスタンとの友好関係に力をいれた大使として、とくに中山恭子さんの名前を挙げていました。中山さんには『ウズベキスタンの桜』という著書もあるそうです。
 バスは砂漠のなかを走っていきます。
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 帰国してから読んだ藤野達善『もうひとつの抑留』には、もう少し生々しい話が書かれていました。
それによると、日本は戦争末期にソ連に終戦工作を依頼し、その見返りとして満洲を放棄し、そこに住む日本人をソ連に引き渡してもよいとする条件を示していたというのです。あきらかに棄民政策です。さらに戦後直後には、捕虜の一部を労働力として用いる、いわゆる「役務賠償」を認めていたといいます。
 これがもしほんとうだとすれば、日本人のシベリア抑留は、スターリンによる非人道的措置というだけでは片づきません。日本の国体維持をソ連が認める代償として、日本政府はスターリンによる日本人強制連行を認めていたことになるのですから。
 60万人の日本人捕虜はシベリアの鉄道建設や港湾建設、鉱山採掘のため、その現場に配置されていきました。そして、その一部の2万5000人がウズベキスタンに回されたのです。
 日本人はウズベキスタンの金属・石油・化学工場や炭鉱に送られたほか、さまざまな建設、すなわち住宅や病院、工場、学校、道路、橋、ダム、発電所、運河をつくる仕事に従事させられました。
 ウズベク人は日本人に同情し、よく差し入れなどもしてくれたといいます。気候はシベリアよりましだったかもしれませんが、砂漠の運河掘りなどは死ぬほどきつい労働でした。
 収容所での生活は生半可なものではありませんでした。自殺、逃亡による射殺、日本人同士の対立、抗争、喧嘩もあったといわれます。
 抑留日本人の墓地は、フェルガナ盆地一帯、飢餓砂漠といわれる砂漠地帯、ブハラ郊外のカガン、タシケントなどに残っているそうです。
 運河が見えてきました。こういう運河もひょっとしたら日本人が掘ったのかもしれないと思うと感無量です。
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 ガイドさんによると、ウズベキスタンは金やウラン、石油、天然ガスなど資源に恵まれているといいます。石油タンクが並んでいました。
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 畑の子どもがバスに向かって手を挙げてくれます。
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 ヒツジの放牧です。
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 これは天然ガスの工場でしょうか。
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 ラクダも放牧されています。
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 ラクダのミルクを売る露店もありました(ついでにコーラも?)。
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 砂漠地帯が終わると、だんだん畑が広がります。
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 ガソリンスタンドの横で、ラクダが草を食べていました。
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 かまどでナンを焼いている人も。
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 これは古い城壁の跡。
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 馬も放牧されています。何といっても中央アジアは名馬を産出する地域です。
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 ブドウが栽培されています。
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 大きな山が見えてきました。あの山の向こうはアフガニスタンです。
 そのふもとテルメズで、人類学者の加藤九祚がクシャン(クシャナ)朝時代の仏教遺跡を発掘し、みごとな仏像を発見したとガイドさんが教えてくれます。われわれは最終日にタシケントの歴史博物館でその仏像と対面することになります。
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 11時、バスはシャフリサブスに到着します。
 シャフリサブスはティムールの生まれた場所です。
 そのころウズベキスタンはモンゴルのチャガタイ・ハン国に属していました。そのなかで実力をつけたティムールはチャガタイ・ハン国を吸収し、みずからの帝国を築きます。その版図はアゼルバイジャン、アルメニア、インド、イラン、トルコ、ボルゴグラードにまでおよびました。享年69歳。遺体はかれの意に反して、ここシャフリサブスではなく、サマルカンドに埋葬されることになります。
 シャフリサブスで最初に訪れたのがドルッティロヴァット建築群と名づけられる場所です。ここにはティムールの父が眠っています。しかし、長くなりましたので、今回はこのあたりで。
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ブハラの午後──ウズベキスタンの旅(8) [旅]

 ボラハウズ・モスクの先の道路を渡ったところがアルク城です。
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 このあたりがブハラ発祥の地といわれます。
 古代の城は残っていませんが、ガイドブックによると、女王フッタ・ハットンはここで7世紀にアラブ軍と戦ったといいます。さらに13世紀にはチンギスハンの軍隊がやってきます。ペルシア語の記録には「彼らは来た、破壊した、焼いた、殺した、奪った、そして去った」とあるそうです。
 ガイドさんによると、アルク城は歴代ブハラ・ハンの居城で、4ヘクタールの広さがあり、熊座のかたちをしているとか。外から見学するだけで、なかにははいりませんでした。1920年代にソ連によって破壊されましたが、現在は半分ほど修復されています。
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 城の前にレギスタン広場と呼ばれる広場になっています。かつてはこのあたりには紙を売るバザールと隊商宿があり、商人があふれていたそうです。西安からここまでは9カ月かかったといいます。
 レギスタン広場を通り、フッジャ・ヌラバッド通りにはいります。
 突き当たりに見えるのがタキ・ザルガロン。バザールですね。
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 このバザールを訪れる前に、われわれはその手前にあるモスクとメドレセを見学します。
 モスクにはミナレットが付属しています。カラーン・ミナレットです。
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 ここにもゾロアスターの模様がひそかに織りこまれている、とガイドさん。わかりますか。
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 ミナレットにつながるのがカラーン・モスクです。
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 向かい側にはミル・アラブ・メドレセが立っています。
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 現在も使われている神学校ですので、なかにははいれません。
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 その天井の模様がみごとです。
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 カラーン・モスクのなかにはいってみます。
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 少しくたびれてきたので休憩です。それにしても暑いです。通りの向こうにあるチャイハナでお茶にしました。
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 タキ・ザルガロンのバザールでは、コウノトリのかたちをしたハサミなどを買いました。
_DSC0035タキ(バザール)ブハラ.JPG
 タキの後ろにウルグベク・メドレセがあります。ティムールの孫、ウルグベクが建てたメドレセです。現存するものでは、中央アジアで最古のメドレセといわれます。ウルグベクは首を斬られ暗殺されるという悲劇の最期をたどります。内部の保存状態はあまりよくありません。
_DSC0041ウルグベク・メドレセ/ブハラ.JPG
 その向かいにあるアブドゥールアジズ・ハーン・メドレセは、それから200年後につくられましたが、未完成のまま残されました。
_DSC0039アブドゥールアジス・ハン・メドレセ/ブハラ.JPG
 脇のタイルにえがかれている花の模様がみごとでした。
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 昼食後、かつてはゾロアスター寺院だったマゴキ・アッタリ・モスクへ。一段低いところにあって、名前のとおり、実際、土砂に埋もれていたそうです。
_DSC0062マゴキ・アッタリ・モスク/ブハラ.JPG
 ラビハウズという池にも立ち寄りました。
_DSC0072ラビハウズ.JPG
 ナディール・ディヴァンベギ・メドレセの入り口には太陽と鳳凰の図柄が描かれていました。
_DSC0078ナディール・ディヴァンギ・メドレセ/ブハラ.JPG
 その前の公園にはロバに乗るホジャじいさんの彫刻があります。笑い話の主人公です。
_DSC0077フッジャ・ナスレッディン像/ブハラ.JPG
 そのあと、いったんホテルに戻り、小憩したあと、夕方からナディール・ディヴァンベギ・メドレセの中庭で開かれたファッションと踊りのショーを見ながら食事です。盛りだくさんすぎて、くたびれました。
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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(3) [商品世界論ノート]

 GDPは年間の商品生産のフローを集計した数字だが、それ自体が生活水準を示しているわけではないという著者の発想はきわめてまっとうなものである。GDPはあくまでも経済指標にすぎず、社会の成長をみるには、生活水準の移り変わりそのものに焦点をあてなければならない。
 そのような視点から、著者は第3章と第4章において、1870年から1940年にかけ、アメリカの衣食住がどう変わったのかをみていく。
 衣食住のなかで、人がもっとも必要とするのが食であることはまちがいない。アメリカでは、1日の消費カロリーはだいたい3000〜3500カロリーが基本で、それは1970年ごろまで、ほとんど変わっていない。それが増えるのは1970年以降で、2000年には4000カロリーになっているという(ちなみに、日本人はほぼ2000〜2500カロリー)。
 ある調査によると、アメリカの家計における食品の支出割合は、1870年から1920年にかけては40数パーセント。それが約35%に低下するのは、1930年代後半からである。しかし、そのかんに食品は多様化し、豊富になる。それが生活水準の向上をもたらした、と著者はいう。
 アメリカ農務省の統計によると、1870年から1930年にかけ、肉の消費は減っている。牛肉は25%減、豚肉は半減。ラムや鶏肉の消費も増えていない。小麦の重要性も低下している。そうしたなかで、消費が増えたのは、脂質・油、果物、乳製品、卵、砂糖、コーヒーだという。加工食品の開発も目立つ。とりわけ、油で揚げたり、いためたりするものが食卓をにぎわせるようになった。
 都市でも多くの家が家庭菜園で野菜をつくっていた。都市と農村のちがいは、都市がほとんどの食料を買わなければならなかったのにたいし、農家は基本的に自給自足で、食料以外の必要なもの(砂糖や靴、農機具など)を得るために余った豚肉や穀物、野菜を売っていたことである。
 とはいえ、1890年代から1920年代にかけ、冷蔵貨物列車と家庭用のアイスボックスが開発されるにつれ、食品の流通は拡大する。果物や野菜も汽車で運ばれるようになった。冷蔵技術の発展によって、保存期間が長くなり、生鮮食料品の価格が下がった。その分、食料の商品化が促進されたといえる。
食の多様化が進んだのは移民が増えたせいでもある。上流階級はフランス料理を好み、ドイツ人はソーセージを持ち込み、ホットドックを生み出す。イタリア移民は外食文化を普及させた。ドイツ人はビールを、イタリア人はワインをよく飲んだ。1920年から33年にかけての禁酒法は、かえってGDPに占めるアルコール消費の割合を高めるという皮肉な結果をもたらしたという。
 1870年から1900年にかけて、加工食品が台頭する。缶詰やドライフルーツ、クラッカー、オートミール、パスタ、ソース、ソーセージやハムなどである。パンも市販のものを買う人が多くなってくる。缶詰は西部の開拓地でよく利用されていた。1886年に誕生したコカコーラがよく売れるようになったのは20世紀になってからである。コーンフレークも次第に便利で手間のかからない朝食として重宝されるようになった。ジャンクフードも出回るようになる。1896年にはポップコーンが全米で発売されるようになった。そのほか、お菓子のたぐいは数え切れない。
 こうして、加工食品工業が確立されていく。ブランド食品は大量生産で価格が下がり、労働者も手に入れられるようになって、マーケットが広がる。「1900年にはすでに、加工食品の生産高が製造業生産高の20パーセントを占めるまでになっていた」。
 冷凍食品が生まれるのは1920年以降である。魚や肉、野菜、果物、その他の調理食品が冷凍食品が発売されるが、当初はさほど売れない。それが定着し、よく売れるようになるのは、1950年以降に冷蔵庫に冷凍スペースが設けられるようになってからである。
 1870年の「豚とトウモロコシ」の単調な食卓から、バラエティに富んだ現代の一般的な食卓への移行は、1920年代にはほぼ完了していた、と著者はいう。アメリカでは所得水準の上昇とともに、レストランも増え、各国さまざまな料理を楽しむことができるようになった。すでに1920年代には、主要な高速道路にはドライブインが並び、町にはハンバーガー・チェーンもできている。
 こうしたアメリカの食品革命が日本に押し寄せたのは、第2次世界大戦後だったかもしれない。
 それはともかく、アメリカでは1870年当時、農村と都市の人口比は75対25で、農村のほうが圧倒的に人口が多い。これは日本も変わらない。農村ではほとんどの食料が自家農園で栽培されていた。家族で消費する以外の余った分だけが市場で売られていた。その代金で、農家は地元の雑貨屋で、靴や男性用衣服、女性用の布地、農機具その他を買っていた。
 都市には大規模な市場があり、さまざまな商店が、肉や魚、野菜、果物のほか、乳製品やパンなどの食品を売っていた。ほかにも石炭や薪、さらにはハーネス(馬具)や塗料、自転車、銃、書籍、衣料品などを売る店があった。
 店の形態が変わるのは1920年前後からだ。「現金・持ち帰り」のチェーン・ストアが急成長する。チェーン・ストアは大量仕入れによって、安い値段で商品を提供し、各地に広がっていく。
食品のマーケティング革命が進行していた。消費者はより安い価格で食品を購入できるようになった。
 だが、食品には中毒がつきものだった。水や牛乳、肉には危険がひそんでいた。牛乳が殺菌されるようになったのは1907年からである。ソーセージも不衛生な環境でつくられていた。食品の安全対策には時間がかかった。20世紀にはいって、肉の消費量が減り、流通コストが高くなったのはそのためだ、と著者はいう。食品を安価で安全な商品として売りだすには、さまざまな検査体制が必要だったといえるだろう。
 次に著者は1870年から1940年にかけての衣服の展開をみる。衣食住の衣である。著者によれば、そのいちばんの展開は「衣服が家庭でつくるものから市場で購入するものへと変わったことだ」。
1890年以降、東欧からの移民がもっとも仕事をしたのは仕立屋としてだった。安い賃金で汚い屋根裏部屋で、懸命にはたらいたという。
 ファッションが生みだされたのも20世紀になってからである。1910年以降、女性のファッションは確実に進化していった。
 1870年は衣料品販売に革命がおきた変わり目だったという。パリのデパート、ボン・マルシェをまねて、アメリカでもデパートが誕生する。豪華な店構えを誇るデパートは商品の殿堂だった。ありとあらゆる商品が店頭に並べられ、定価で売られていた。
 デパートだけではない。日用雑貨チェーンやドラッグストア・チェーンが、店舗を広げ、さまざまな商品を全米に供給し、アメリカ人の生活水準の上昇に寄与するようになる。それによって、小間物や針、ペン、ノートなどの文具、その他多様な商品の大量生産も可能になった。
 直接、デパートに買い物に行けない農村の住民に恩恵をもたらしたのがカタログ販売である。モンゴメリー・ウォードは1872年、シアーズ・ローバックは1894年に最初のカタログを発行している。そのカタログには、帽子やかつら、コルセットに毛皮のコート、時計、自転車、セントラル・ヒーティングの炉、銃など、食品を除くあらゆる商品が網羅されていた。
 アメリカではカタログ販売の果たした役割は大きい、と著者はいう。それまで田舎の商店や行商人に頼らざるをえなかった農村の世帯が「カタログを見て気に入った商品を買える豊かさを手にしたのだ」。農民にとっては、世界が広がる経験だった。
 1870年から1940年(日本でいえば、明治維新から昭和前期)にかけての食料品や衣料品の展開は、人びとの生活を大きく変えていった。しかし、それ以上に人びとの暮らしを変えたのが住宅の進化だった。電気、水道、ガスの普及が、その進化を促していた。
 1940年段階で、アメリカの都市人口は全人口の57%を占めるようになった。急速な都市化が進んでいる。
 各家庭は電力ネットワークでつながり、電灯と家電製品が増えている。上水道と下水道のネットワークもできあがった。ガスや電話も普及しつつある。1940年に洗濯機と電気冷蔵庫の世帯保有率は40%に達し、浴室やセントラル・ヒーティングもあたりまえになっていた。
 住宅革命の本質は「ネットワーク化による現代的な利便性の実現」にある、と著者はいう。とりわけ女性が多少なりとも家事から解放されたことが画期的だった。
 アメリカは1920年ごろまでは農業社会で、大多数の人は広々とした一軒家で暮らしていた。狭くて暗いアパートに労働者がひしめくように暮らしていたのは、ニューヨークのような大都会だけだという。
 1870年から1940年にかけ、アメリカの人口は3700万人から1億2700万人へと3倍になった。世帯数はそのかん5倍になり、1世帯あたりの人数は5人から3.7人へと低下した。
 1940年時点の住宅はほとんどが1880年以降につくられたものだ。しかも、その大半が1920年以降に建てられていた。「少なくとも都市部では、ほとんどの住宅が、都市に電気が通り、上下水道など衛生面のインフラが整った後に建てられたものだといえる」。
 都市では賃貸用に多くの一戸建て住宅が建てられ、その多くが二世帯住宅だった。1920年以降、ニューヨークやシカゴでは大型の高層アパートがつくられるようになった。
 人びとの生活水準は、世代ごとに着実に向上していた。教育水準の向上にともない、労働者階級の子どもが中流階級に上がる機会も増えてきた。親が移民で苦労したとしても、1920年代には、その子どもは電気や水道が完備された住宅に住み、自動車に乗る生活があたりまえになっていた。
 都市人口が増えるにつれ、都市の人口密度が高まり、住宅のスペースは狭くなった。それでも、世帯あたりの平均人数が減ったため、一人当たりの部屋数は増えた。住宅は小型化したが、その分、より効率的になった。よけいなスペースが減り、間取りはよりシンプルになっていった。
 1900年代の都市労働者階級の住宅事情はけっしてよくなかった。スラム街にはテネメント(安アパート)が密集し、3部屋に5人が居住するありさまで、周囲には悪臭が立ちこめていた。とりわけひどかったのがニューヨークである。
 シカゴやクリーヴランドのような中西部の都市はまだましだった。都心の中心部から3、4キロ離れたところに郊外住宅をつくることもできたからである。
 かつての広壮な邸宅にかわって、1910年から1930年にかけて、簡素な平屋建てのバンガロー・ハウスが数多くつくられるようになる。それは労働者階級が次第に中流階級になったことと関係しているという。
 技術革新によって、住宅建設のコストも安くなった。
「標準的な間取りと加工建材を活用したバンガローの建設は、19世紀半ばに遡る建築のイノベーションの長いプロセスの頂点と位置づけられ、これにより人口のかなりの割合が一戸建てを所有できるようになった」と、著者はいう。
 シカゴなどでは、かなり計画的に住宅地域がつくられ、マイカー時代の到来に備えて道路が整備され、電柱や電線は道路に埋設され、街路樹が植えられていたという。
 小さな町では中流階級と労働者階級は一戸建てに暮らしていた。貧しいか、豊かかのちがいはあったが、混ざりあって住んでいた。安アパートのひしめく都市にくらべ、スペースには余裕があった。回りは田園地帯で、どの家にも菜園があった。
 200〜300エーカーの土地をもつ農家は、1900年以降に建て替えられた広大な屋敷を構えていた。暖房や家具、水のポンプなどで大きな改善がみられたが、現代的な利便性は農村まで行き渡らなかった。
 1920年ごろ、農民は自分たちが現代の進歩から取り残されているのではないかという気持ちをいだくようになる。「現代的利便性は、都市の生活を均質化する一方、都市と農村の生活に大きな格差をもたらしたのだ」と、著者は論ずる。
 アメリカで住宅革命がおきたのは1910年から1950年にかけてである。水道、ガス、電気のネットワークが、現代的利便性をもたらした。とりわけ、1930年から50年にかけての発展は著しく、ほとんどの家庭が電灯、水道、水洗トイレ、セントラル・ヒーティングの設備を備えるようになった。冷蔵庫と洗濯機が急速に普及するのは1930年以降である。
 つまり、1900年と1940年のあいだに、電気、ガス、水道の奇跡が、家庭に一大変化をもたらしたのだ、と著者はいう。エジソンが電球を発明したのは1879年、ニューヨークに発電所ができるのは1882年である。ガスはイギリスで19世紀初頭に開発され、最初は街灯として用いられ、その後、燃料として広く活用されるようになった。
 1900年時点で、電力サービスはそれほど普及していない。電力消費が大きく伸びたのは、電力価格の急速な下落がある。それにつれ、電球の性能は向上し、値段も安くなっていく。照明のほか、電気は工場や鉄道などでも利用されるようになる。
 しかし、1940年になっても都市と農村部のあいだには、電化率に大きな差があった。エジソンが電球を発明してから60年たっても、南部の農家では8割がランプを使っていた。
 家電製品はわりあい早く開発されたが、普及には時間がかかった。屋内配線は面倒だったし、プラグや差し込み口の標準化も必要だった。それでも1940年には4割の家庭が電気洗濯機や冷蔵庫を使用するようになっていた。1919年に775ドルした冷蔵庫は、1940年ごろには137ドル〜205ドルと買いやすい値段になっている。1927年にはサーモスタットつきの電気アイロンが発売されている。掃除機も人気があった。「電灯や家電製品によって家庭の電化が進んだことで、多くのアメリカ国民の日常生活ががらりと変わった」と、著者は指摘する。
 1890年代まで、ほとんどの家庭に水道はなかった。上水道と下水道が整備されるようになったのは、利便性より、もっぱら公衆衛生上のためだった。水洗トイレが発明されたのは1875年である。公営水道は1870年から1900年にかけ、都市全域に広がる。それ以降、家庭での革命がはじまる。台所の水回り設備が開発され、水洗トイレや浴室が普及する。
 1940年時点で、水洗トイレのある家庭は全米の6割にすぎない。しかも、都市部の割合が圧倒的に高い。屋内のバスルームが誕生したのも1940年になってからだという。
 暖房用の蒸気ボイラーはすでに1840年代からできていたが、安全性の問題があり、よく爆発事故をおこした。お湯をわかして暖気を送るセントラル・ヒーティングが普及したのは1880年になってからで、これも都市が中心だった。その燃料には石炭やコークスが使われていたが、灰の始末もたいへんだったし、大気汚染も引き起こした。それが改善するためには、燃料をガスに変えていく必要があった。
 著者はこう述べている。

〈1870年以降の生活の変化、とりわけ都市部での変化は、水や燃料を自分で運ぶ生活から、ネットワークを基にした生活への転換だといえる。電話線、上下水道、電力ケーブルのネットワークは、突如出現したわけではない。都市の中心部から人口のまばらな地域に徐々に拡大していった。必要性は認識されていたが、政府のインフラ開発部門と民間資本の組み合わせで実現した。〉

 しかも、こうした革命的な変化が起こるのは1回切りだった。1940年には水道や電気、ガスに関連する発明はほぼ終わっていて「日常生活の劇的な変化をもたらす発明は、1940年以降生まれていない」。
 現代世界は多かれ少なかれ、こうしたアメリカン・ライフスタイルを追いかけてきた。それを可能にしたのは、それ自体がネットワークである商品世界の広がりだった。そのこと自体は否定できないだろう。
 まだ話は終わっていない。それどころかはじまったばかり。終焉までつづく。

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ブハラ──ウズベキスタンの旅(7) [旅]

 5月13日(月)
 ウズベキスタン中南部のブハラに着いたのは、きのうの深夜でした。
 けさは8時半にホテルを出発します。
 ブハラは古代から砂漠のオアシスでした。7世紀に玄奘三蔵もサマルカンドをへて、ブハラを訪れています。
 ブハラはもともとゾロアスター教の町だったとガイドさん。
 8世紀にアラブに征服されてから、イスラム世界にはいり、10世紀のサーマーン朝時代に繁栄します。その後、11世紀にはカラハン朝、つづいてホラズムシャー朝の時代を迎えますが、13世紀前半にモンゴル軍の侵略で町は大きく破壊されます。
 チンギスハンの征服から100年後にブハラを訪れた大旅行家イブン・バトゥータは、ほとんど廃墟のままの町をみて驚き、「ブハラの住民は今日だれひとりとしてイスラムの教えを知っている者もなく、またそれを知ろうともしない」と嘆いています。
 しかし、その後、イスラム復興がはじまります。
 15世紀にはティムール朝、16世紀終わりにブハラ・ハン国、19世紀後半からロシアの保護領、そして20世紀にソ連の支配下にはいり、1991年に独立という経緯をたどるのですが、ややこしい歴史はこれくらいにして、とりあえずブハラの町にでましょう。
 バスはまずイチスロハット公園に。観覧車があります。朝早いせいか、まだ家族連れの姿はありません。
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 イスマイール・サーマニ廟はこの公園のなかにあります。
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 この廟は、サーマーン朝のイスマイール・サーマニが9世紀から10世紀にかけ、父親のために建設したものです。チンギスハンが来襲したときには、地中に埋めてあったため、丘と思われ、破壊を免れたといいます。発掘されたのは1925年のことです。
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 イスラム様式だが、あちこちにゾロアスターの模様が刻まれている、とガイドさんのお得意の説明がはいります。
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 廟の前で記念写真を撮ってもらいました。早くもバテ気味です。
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 桑の木があちこち植わっています。白い実がなっていますね。桑の実をつんでいる少年がいました。
_DSC1118Morus albaイスマイール・サーマーニ廟/ブハラ.JPG
 金属製の皿をつくっているお店があります。
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 コウノトリの像が上に乗っているのはチャシュマ・アイユブ廟。現在は水の博物館になっています。
_DSC1146チャシュマ・アイユブ/ブハラ.JPG
 ここで、ほんらいのコースはバスに戻って、アルク城前を通過し、カラーン・ミナレットに向かうのですが、ガイドさんが歩いて行きましょうといってくれたおかげで、われわれは思わぬモスクと遭遇することができました。
 それがボラハウズ・モスクでした。1712年につくられましたが、ロシア革命時代には倉庫となり、1970年代に修復されたといいます。前面に立つ20本のクルミの柱がみごとです。
_DSC1153ボラハウズ・モスク/ブハラ.JPG
 その天井も壮麗で、木のぬくもりが感じられます。
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 さらにアップしてみましょう。
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 中に入るとブルーのイメージが広がります。
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 池に映るモスクの姿も幻想的でした。
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 ボラハウズという名前には、どこが聞き覚えがありました。帰国してから本棚を探して、それが書かれている本をみつけました。
 リシャルド・カプシチンスキの『帝国』(工藤幸雄訳)です。工藤先生がポーランドのこの優れたジャーナリストのことを「カプさん」と呼んでいたことを思いだします。
 そのカプシチンスキは、1967年にここブハラにやってきて、チャイハナ(茶店)でお茶を飲んでいるときに、このモスクを見つけたのでした。
『帝国』のなかで、かれはこう書いています。

〈そちらにはすばらしいイスラームの寺院(モスク)が建っていた。
 モスクに目を惹かれたのは、それが木造だったせいだ。イスラームの建築は石と粘土を用い、木造はめったにない。おまけに、砂漠の午後のうだるように暑い静けさのなかで、モスクの奥からなにかがぶつかり合う音が聞こえた。ぼくはポットを置いたまま、その正体を確かめに行った。
 鳴っているのは、ビリヤードの球だった。
モスクの名はボロ・ハウズという。18世紀中央アジア建築の貴重な遺構、当時の姿を止める唯一のものだ。ボロ・ハウズの門口も外壁も、木の装飾で飾られ、その美しさ、精巧さは、類を見ない。だれもが舌を巻く。
 ぼくはなかを見た。グリーンの卓が6台並び、どの台も明るい前髪を乱した若者が取り巻いて、ビリヤードに興じていた。〉

 なんと、1967年には、ボラハウズ・モスクはビリヤード場になっていたのです。ガイドさんが、ソ連時代は倉庫だったというのは、けっしてまちがいではなかったのです。

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