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橋本治『二十世紀』を読んでみる(5) [本]

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 文庫版では下巻。
 1946年には、すでに第2次世界大戦は終わっている。
 だが、すっかり戦争のカタがついたわけではない。
19世紀以来の帝国主義時代の清算も終わっていない。ナチス・ドイツを倒すため、かりそめに結束した米ソの対立も鮮明になってくる。
 20世紀後半は、それらの課題を解決するために費やされたようなものだ。
 インドネシア、アルジェリア、ヴェトナムなどでは、独立に向けての動きがはじまっていた。
 チャーチルは「鉄のカーテン」演説をぶち、ソ連による東欧支配を糾弾する。
 日本は虚脱状態にある。極東軍事裁判がはじまり、新憲法が公布される。ラジオからは、「素人のど自慢」の歌声が流れていた。
 1947年、アメリカで「赤狩り」がはじまる。トルーマンが社会主義とソ連を敵視するようになると、世界はたちまち「冷戦」状態に突入する。
 1948年にはベルリンが封鎖され、朝鮮半島が韓国と北朝鮮に分断される。ヴェトナムも南北にわかれる。
 とはいえ、ベビーブームの年でもある。アメリカでは「キンゼー報告」が発表され、人間の性行動に光が当てられるようになった。
 1949年、ドイツは西と東に分かれる。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言する。蒋介石は台湾に逃れ、台北を首都とする。ふたつの中国が生まれた。
 東欧はソ連の衛星国になっている。
 1950年、朝鮮戦争が始まる。北の軍隊はたちまち南のソウルを占拠し、釜山に迫った。国連軍はこれを押し戻し、鴨緑江にまで迫るが、ここで中国軍が参戦し、形勢がふたたび逆転する。
 1951年、朝鮮での戦争は膠着状態となる。トルーマンは中国に攻め入るというマッカーサーを解任し、北に停戦を呼びかけた。帰国したマッカーサーの「日本人は12歳の少年」という発言が物議をかもした。
 この年、日本はサンフランシスコ講和条約を結び、主権を回復する。アメリカとの安保条約も締結された。
 ラジオでは紅白歌合戦がはじまり、黒澤明の『羅生門』がヴェネツィア映画祭でグランプリをとる。
 日本人はマッカーサーの発言に憤激したが、はたして日本人は一人前だったのか、と橋本治は問うている。

〈日本人は、占領軍の言うことを聞いたが、自分達の手で軍国主義者を追うことはしなかった。「占領軍がそれをやってくれた」と思う日本人は、それを自分達自身の手でやらなければいけないものとは思わなかった。……その後の日本人達の戦争責任に対する認識の薄さは、おそらくそのことに由来するのだろう。〉

 日本ではGHQの指導のもと、1945年に労働組合法がつくられ、労働組合運動が活発になっていた。1947年にゼネストは中止させられるが、その後も組合運動は衰えたわけではない。
 アメリカは日本を共産主義の防波堤にしようとしていた。1951年、共産党は武装闘争方針を採用する。
 1952年、メーデーのデモ隊は皇居前広場を「人民広場」にしようとして、警官隊と衝突する。いわゆる「血のメーデー事件」である。
 国会では破壊活動防止法が成立し、追放された軍国主義者が次々復帰を果たす。
 1953年、スターリンが寿命を全うして死ぬ。まもなくフルシチョフがソ連の新指導者になる。フルシチョフは1956年にスターリンを弾劾する。この「雪解け」をみて、ポーランドとハンガリー、チェコはソ連の支配権から脱しようとするが、ソ連の戦車が進駐し、それを阻止する。
 1954年、第5福竜丸がアメリカの水爆実験で被曝する。
戦争が終わったあとも、米ソの核実験は平然とつづけられていたどころか、むしろエスカレートしていた。
 その結果、核兵器があまりにも多くなり、「うかつには戦争が出来ない」状態が生まれる。
 防御のための核兵器という考え方から「核の抑止力」という倒錯めいた幻想が生まれる。「冷戦以後の世界には“豊かさ”が溢れ、しかし、なんだか落ち着かなかった」と橋本はいう。
 この年、日本ではゴジラが映画に登場し、プロレスの力道山が人気を博した。中村錦之助主演の『笛吹童子』もヒットする。
 アメリカでは、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』が公開された。
 1955年、石原慎太郎が『太陽の季節』でデビュー。アメリカではプレスリーがはやっていた。ジェームズ・ディーンがスクリーンに登場する。若者の季節がはじまろうとしている。
 1956年、『経済白書』は「もはや戦後ではない」とうたう。日本経済が復興を遂げたという宣言だった。
 政治の世界では、前年、すでに鳩山一郎と吉田茂による「保守合同」が実現し、自由民主党が誕生している。
 橋本治は、鳩山一郎はとても政党政治家とはいえず、「公職追放にあっても不思議はない」人物だった、と書いている。いっぽうの吉田茂は「アメリカ第一主義」で、「傲慢なワンマン総理」。
 このふたりが一緒になることで、政治も復興して、戦前のよき時代に戻ったことになる。その延長上に岸信介が現れる。橋本が「日本には、他に人材がいなかったのか?」と嘆くのももっともだ。
 1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げる。日本ではそのころ「鉄腕アトム」がはやっている。
 ソ連に先を越されたアメリカは悔しがり、翌年、航空宇宙局(NASA)を発足させる。以来、米ソによる宇宙開発競争が始まる。
 人類が月に降り立つのは1969年である。だが、はたしてその目的は何だったのか。「ヤケっぱちの大人は、『月に行く』だけを考えて、その先を考えていなかった」
 スーパーのダイエーが大阪に誕生したのも1957年である。翌年、ダイエーは神戸の三宮に2号店をオープンする。
 そのころはまだデパートと商店街の時代である。私鉄の駅を拠点として団地の建設ラッシュがはじまる。
 やがて、スーパーが中途半端に高級化すると、激安店が登場する。そして、1990年代にバブルがはじけると、スーパー業界にも過剰投資のツケが回ってくる。
 だが、1958年の日本はまだ貧しく、無限の消費成長が信じられていた。大量生産がゴミの山を生みだすのは、まだ先のことだ。
 1959年4月10日、皇太子の成婚記念パレードがテレビ中継される。このころから、日本中にテレビが普及する。プロレス中継は人気番組だった。だが、橋本は「テレビの普及は、日本人の孤独と貧しさの始まりとも重なりうる」という。

〈テレビがなくても生きていられる──その豊かさを持つ日本人はいくらでもいた。だから私は飽きなかった。だからこそ「テレビがある」以外にはなにもない人の持つ“貧しさ”を感じとってしまったのかもしれない。テレビを見ているだけの人は、テレビを見ているだけで、遊んではくれないのだ。〉

 橋本治にとって、これは子ども時代の実感だった。
 つづきはまた。

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橋本治『二十世紀』を読んでみる(4) [本]

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 相変わらず、ぼちぼち橋本治の『二十世紀』を読んでいます。
 そのつづき。
橋本治流にいえば、歴史は、何かへん、バカじゃないの、と問いかけるところからはじまる。逆に、そう問いかけることが禁じられたり、無視されたりする時代はどこかおかしいということになる。権力が好き勝手なことをするときは、何かヘンで、バカなことが起きているにちがいないのだ。
 1930年代にはいろうとしている。
 早足で、そのころのことを見ておくことにしよう。
 1928年、日本でははじめて普通選挙が実施された。だが、この年には、同時に治安維持法も適用されている。普通選挙と左翼思想の取り締まりは一体となっていた。このあたりは、いかにも日本的だ。
 このころ軍部は満州を手に入れようとしている。そのため、邪魔になってきた張作霖を爆殺した。政府はこの事件を隠蔽しようとするが、真相は次第に漏れ伝わってくる。
 1929年、世界恐慌が発生する。橋本治によれば、恐慌とは、バブルがはじけることにほかならない。当時、アメリカは「世界一の工場主」であり、同時に「世界一の金持ち」だった。そのアメリカがこけると、世界中がみなこける。
 1930年、日本では浜口雄幸首相が右翼に襲われる。こうしたできごとをみると、いかにも日本は暗い時代に向かっていたようにみえる。
 しかし、暗い時代には、かえって明るいイベントが求められるのが不思議なところ。
 1930年は、関東大震災からの復興を祝う「帝都復興祭」の年でもあり、昭和天皇の即位式もあって、各地ではさまざまな行列が催されていた。
 円本ブームもあり、映画はまだサイレントながら、大流行。ラジオでは早慶戦が人気を博し、数々の歌謡曲がヒットしていた。映画館や芝居小屋の立ち並ぶ浅草はにぎわっていた。人びとは忍び寄るファシズムにおののいていたわけではなかった。
 そんな明るい雰囲気のなか、軍部は暴走する。
 1931年、満州事変が勃発する。当時は「満蒙は日本の生命線」という言い方がされていた。じつは、この「日本」とは韓国(朝鮮)のことだった、と橋本はいう。韓国こそが日本の要と考えられていた。日本人はなぜそれほど韓国がほしかったのか。それがひとつの謎である。
 帝国の妄想が膨らんで、日本はついに満州を攻略するにいたるのだが、じつは日本には満州を経営するだけの力はなかった。満州とは「ただ『勝った』という栄光の記憶」にすぎない、と橋本はいう。その栄光の記憶が日本を戦争に引きずりこんでいく元凶になる。
 1932年、軍部は国内でも暴走しはじめる。五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されたあと、政府は軍に逆らえなくなる。
 1933年、ドイツではヒトラー政権が誕生する。
 第一次世界大戦後のいじめに、ドイツは切れた。それがナチスの台頭をもたらす。ヒトラーは賠償金の支払いを拒否し、孤立と戦争への道を選ぶことになる。ドイツ国民は、そんなヒトラーに喝采した。
 1934年、ドイツではヒトラーが全権を握り、ワイマール共和国が崩壊する。そのころ、アメリカでは禁酒法が廃止され、「健全な娯楽」として、ハリウッド映画が全盛を迎える。トーキーの時代がはじまっていた。
 1935年、ドイツではニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人排除がはじまる。しかし、最初からユダヤ人絶滅政策がとられたわけではない。
「ユダヤ人、消えてなくなれ」というのが、庶民の感情である。ナチスはその感情につけこむ。
 それと同時に、ナチスはスラブ人をも排除の対象にした。ヒトラーはポーランドからスラブ人の土地を奪い、そこにドイツ人を入植させようと考えていた。それがまたドイツ人に支持される。
「スラブ人奴隷化殲滅計画の方が、ユダヤ人絶滅=皆殺しよりも先」だったと、橋本は注意をうながす。

〈人間のこわさというものは、その初めに極端で矛盾に満ちた方針を立てると、やがてそれに合わせてもっともっと極端な矛盾を冒し始め、その極端や矛盾を「極端」や「矛盾」と自覚しなくなるところにある。ポーランド人やユダヤ人を虐殺していたドイツ人達には、おそらく、自分達のしていることが殺人だという自覚はなかっただろう。……ポーランド人は強制収容所へ送られ、ユダヤ人も送られ、同性愛者も送られる。「自分達と違う者」は「いやな者、劣った者」で、そのレッテルを貼られた者は、みんな追放=処分の対象になる。矛盾と極端を容認した者は、やがてその矛盾と極端に合わせて、もっとひどいことを始める。〉

 何かへん、バカじゃないのという問いは圧殺されている。
 1936年、スペイン内戦がはじまる。スペインはその5年前に王政が倒れ、共和国になっている。だが、国内は分裂していた。1933年、フランコ率いる保守政党ファランヘ党が政権を握る。しかし、1936年に左派の諸勢力が人民戦線をつくり、政権を奪取し、保守派を放逐する。
 これにたいし、イタリアとドイツの後ろ盾を得たフランコが武装蜂起し、内戦が勃発するのだ。人民戦線はさまざまなグループの集まりだったが、スターリンがその主導権を握ろうとしたため、内部の対立が激しくなり、独立左派は抹殺された。けっきょく、スペインではフランコが人民戦線側を破り、その後、長期にわたる独裁政権を築くことになる。
 同じ1936年、日本では二・二六事件が発生する。これは陸軍の皇道派によるクーデターだったが、失敗に終わる。
 その後は統制派が軍を掌握し、事実上の軍事政権が確立する。軍は反乱軍を抑えただけではなく、政権をも握ったのだ。新たな軍事政権の最大の目標が満州の保全だったことはまちがいない。満州をより安定的なものにするために、軍は華北の一部を切り取る工作も辞さなかった。
 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋での衝突をきっかけに、日中戦争がはじまる。だが、当時は日中戦争と呼ばれていなかった。「北支事変」、「支那事変」という言い方がされていた。
 なぜ戦争でなく、事変なのだろうか。日本側は、それがあくまでも突発的な戦闘だとみていた。それに、中国の国民政府を認めていなかった。だから、国どうしの戦争ではないというわけである。
 日本は南京に傀儡政権をつくって、それを交渉相手にして、事態を収拾しようとこころみた。だが、そんなことが思い通りいくわけがなかった。

〈日本は、対戦相手の存在を無視して、この後も中国での戦闘を続ける。なるほど日本人の頭では、「戦争」ではない「事変」なのだ。相手国の存在を否定してかかる戦争などあってたまるものかと思うのだが、日本は、そのように中国を蔑視していたのである。〉

 侮蔑意識と傲慢さが、冷静な判断をできなくさせている。あとは破局まで突きすすむしかない。
 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻する。これにたいしイギリスとフランスが宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまる。
 その前に、ドイツはすでにオーストリアとチェコを併合していた。
 20世紀の大衆文化はこのころ黄金時代を迎えている。

〈不思議だが、人間というものは、豊かさの中で破滅への準備をするらしい。……第2次世界大戦前は「豊かな時代」だった。だからこそ戦争は起こったのだ。〉

 思わずうなってしまうフレーズである。
 1940年、中国との泥沼の戦争がつづくなか、日本ではいつのまにか戦時体制が敷かれていた。日本のファシズムには明確なポリシーがなく、いつはじまったかもわからない。
「『一歩踏み出した以上もう後戻りは出来ない』だけで前に進むから、いつの間にかとんでもないことになってしまっている」と、橋本はいう。
 1941年12月7日、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃する。ナチスの破竹の勢いに便乗したともいえる。しかし、すでにナチスの党内はガタガタになっており、そのことに日本はまったく気づいていない。
 1942年6月のミッドウェー海戦で、日本はアメリカ軍から壊滅的な打撃を受ける。それ以降、日本は負け続けになり、「限界以上の無茶」を重ねて、ついに焼け野原になる。
 日米開戦前の日本には「アメリカか、ドイツか」の選択肢があり、どっちがトクかはバカでも分かるのに、「日本はバカ以下だった」と、橋本は明言する。
 1943年には、とつぜん東京市が廃止され、東京都が生まれる。行政の簡素化は軍事体制と無縁ではない。「東京が『東京市』のままだったら、東京ももう少し違ったものになっていただろう」と橋本は書いている。一見よさげな都構想なるものには、注意が必要だ。
 1944年は戦争以外、何もない、と橋本治は書く。
 6月6日には連合国軍がノルマンディに上陸し、ドイツ軍は防戦一方となる。ハリウッドはのちにこの時期の戦闘をテーマに数々の映画をつくりだす。映画はいかにも悪役のナチスそここぞとばかり描き出す。これ以降「ファシズムに勝利する自由主義」がハリウッドの定番となる(『スターウォーズ』にもその伝統は引き継がれる)。
 この年、日本も敗退を重ね、ついに11月にはB29による東京空襲がはじまる。
 1945年4月28日、ムッソリーニがコモ湖畔で処刑される。4月30日、ヒトラーがベルリンで自殺する。日本は8月15日に降伏。これにより30年つづいた「戦争の時代」は終わった。
 しかし、その後も、戦争状態は世界のどこかでくり返されることになる。

〈「危機」はあっても、実際上の戦争は起こらない。“周辺”は騒がしいまま、世界の“中心”は平和だった。ある意味で、歴史はゴールにたどり着いたのである。〉

 だが、ほんとうに歴史は終わったのだろうか。それが、橋本の次の問いかけである。

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橋本治『二十世紀』を読んでみる(3) [本]

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 引きつづき橋本治の『二十世紀』を読んでいる。
 1910年代だ。
 1911年には帝国劇場がオープンする。中産階級のあいだでは「今日は三越、明日は帝劇」といわれるようなライフスタイルがはじまっている。しかし、奥さんたちが着ているのは、まだ着物である。
 平塚らいてうは雑誌『青鞜』をつくる。青鞜は青いストッキングのこと。そのころ、日本ではだれも青いストッキングなんかはいていなかっただろう、と橋本はいう。
 しかし、歴史はファッションやライフスタイルから動いていく。
 ヨーロッパでも、ファッションがシンプルになるのもこのころから。裾を引かないドレスが登場し、コルセットに替わってブラジャーが登場する。
 女性が、ただ見えるだけでなく、ますます見せる存在になっていく。
 1912年にはアルフレッド・ヴェーゲナーが「大陸移動説」を発表する。ゆるぎないと思われたこの大地が動いているという感覚。自己も絶対ではない。国家も絶対ではない。相対的なものだ。相対主義の時代がはじまっている。そのなかで、人はどのようにみずからの針路を見つければよいのだろうか。
 この年、日本では明治が終わり、夏目漱石が『こころ』を発表する。美濃部達吉はいわゆる「天皇機関説」を示した。
 中国では中華民国が成立する。世界は揺れている。
 1913年、第1次世界大戦が勃発する。それは日本にとっては、遠い欧州の戦争のように思われた。したがって、当時の名称は「欧州大戦」。まさか、それが、「第1次世界大戦」になるとは、だれも思っていない。
 日本では藩閥政治に代わり政党政治を求める声が高まっていた。いわゆる「大正デモクラシー」。政治を担うのは、元老と藩閥ではなく、国民の代表であるべきだ。
 東京では笹塚から調布まで、京王電鉄が走るようになる。すでに山手線は走っていた。だが環状線にはなっていない。その要となる東京駅ができるのは、ようやく1914年のこと。
 東京の歴史がはじまるのは、やっとこのころからだ、と橋本治は書いている。
 サラエボから火の手が上がった戦争は、ドイツ対フランス・イギリスの戦いになってしまう。オーストリアとセルビアはそっちのけ。「これを『バカバカしい』と言わずしてなんであろう」
 だが、ナショナリズムをあおって突きすすむ「バカげた」戦争がはじまるのも20世紀になってからだ、と橋本はいう。もはや、戦争は王族どうしの勝手な戦争ではありえなくなっている。
 このとき日本はドイツに宣戦布告して、中国の青島を攻撃する。戦争は好景気をもたらした。イケイケのバブルになる。そのあと、調子に乗って、中国に「二十一カ条」の要求をつきつけたりもした。
 日本は戦争をして領土を増やす(勢力を拡大する)という発想にこだわっている。それはすでに古臭い発想だった。
「近代日本の対外的ゴタゴタの原因は、日本が“市場”ではなく“領土”を求めたその古臭さによるものだろう」と、橋本。
 ヘン、バカげた、古くさが、日本の近代史を読み解くキーワードだ。
 戦争中の1916年にフランツ・ヨーゼフ1世が亡くなると、オーストリア帝国はひたすら解体への道をたどる。名門ハプスブルク家は終焉を迎える。
 1917年、ドイツを出自とするイギリスの王家はそれまでのドイツ風家名を「ウインザー家」とあらためる。
 ヨーロッパでの戦争はまだつづいていた。スイスに亡命中のレーニンはロシアに戻る。3月8日、デモとストライキの騒乱状態のなか、ニコライ2世は退位。これで、ロシアにも皇帝はいなくなり、ロシアは共和国になる。
 さらに11月6日、ボルシェヴィキの武装蜂起により、ロシアでは史上初の社会主義政権が誕生する。
 1918年、やっと第1次世界大戦が終わる。ドイツ帝国からもオスマン帝国からも皇帝が追放される。
ヨーロッパの戦死者はじつに790万人にのぼる。だが、戦争の終わりは、新たな混乱のはじまりとなった。
 1919年は冥王星が発見された年でもある(2006年まで、冥王星は太陽系の第9惑星とみなされていた)。同じ年、フロイトは「無意識」を発見する。ドイツではナチス、イタリアではファシスト党が結成される。
 1920年、日本は好景気が終わり、不景気になる。しかし不思議なことに、そのころ映画が娯楽の王者となり、雑誌が次々創刊されている。チャンバラ・ブームがはじまる。大阪では日本初のターミナルデパートが出現し、宝塚少女歌劇も創設される。
「右肩上がりの成長神話」が登場したのもこのころだ。
 大衆時代は国家(や経済)の拡大を希求する時代でもある。こうして、戦いへのアクセルが踏まれる。

〈第1次世界大戦中の好景気は、日本に「帝国主義的な世界進出」を可能にし、その後の不景気は、「この不景気をなんとかしろ」という形で、日本を帝国主義的侵略の道──戦争へと進ませる。〉

 第2次世界大戦が起こるのは、第1次世界大戦がきちんと終わらなかったからだ、と橋本治はいう。
 戦勝国は敗戦国に過剰な賠償金の支払いを求めた。取れるものなら取ろうという欲が、戦争を引き延ばし、次の戦争を引き起こすことになる。
 1922年、イタリアではムッソリーニが政権の座につく。
 イタリアが国になったのはようやく1861年になってからだ。それまでもイタリアはあったが、ひとつのまとまった国ではなかった。そこにイタリアのややこしさがある。
 第2次世界大戦を引き起こす枢軸国──ドイツ、イタリア、日本──はある意味では、いずれも新しい国だ。
 ムッソリーニが実施した武装デモンストレーション「ローマ進軍」はほんらい鎮圧されるべきであったのに、かえって国王によって評価され、ムッソリーニは首相に指名される。そのあとは、やりたい放題。その無茶ぶりがかえって喝采を浴び、それがヒトラーに引き継がれていく。
 1923年、レーニンは脳卒中で再起不能となり、翌年亡くなる。その後はスターリンが実権を握り、ロシアに恐怖政治を敷いていく。
 ヒトラーはいわゆるミュンヘン一揆をおこし、逮捕されるが、8カ月ほどで釈放され、その間に『わが闘争』を執筆する。
 日本では関東大震災が発生し、大きな被害がでるなか、朝鮮人や無政府主義者が殺害される。不安と妄想が広がっていた。
 1924年、監獄から出てきたヒトラーはバイエルンで活動を再開する。そのころワイマール共和国に反対するグループが南ドイツに集まっていた。そのなかで、ヒトラーは頭角を現していく。
 1925年、パリではアール・デコ(装飾美術)が登場する。アール・ヌーヴォーが貴族的、ブルジョア的だったとすれば、そのあとにつづくアール・デコは、きわめてシンプル。「大量生産を可能にした近代工業によって送り届けられる『中流市民のための美』だった」
 そうした簡略化された美的感覚は、その後、世界中に広がっていく。モダニズムはビジュアルなのだ。
 しかし、世の中はますます欲の時代。

〈第1次世界大戦後のヨーロッパを第2次世界大戦へと導くのは、敗戦国ドイツに対する容赦のない賠償金取り立てである。……「二度とドイツが立ち直れないくらい、徹底的に痛めつけてやれ、取れるものは全部搾り取ってやれ」という発想になる。〉

 そうした強欲が、ドイツの反発をかき立てることにフランスやイギリスはあまりに無自覚だった。
 1927年には、芥川龍之介が「ただぼんやりした不安」ということばを残して自殺する。その翌年、関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こす。
 さらに、それから3年後、満州事変が勃発する。日本はどうしても満州を取りたかった。
政党政治は阻まれ、葬られた。天皇の名のもとで、軍部が勝手にそのエゴを肥大化させる時代がはじまろうとしていた。
 きょうはこのあたりで。のんびり気ままな読書です。それにしても、橋本治という人は、近くだけでなく、ずいぶん遠くまで見ていたのだなと感心します。

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橋本治『二十世紀』を読んでみる(2) [本]

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 何かヘンだというところから始まるのが橋本治流である。
 この本では1900年から2000年までが扱われている。
ふつう20世紀といえば、1901年から2000年までというのが常識だろう。スタートが、なぜ1900年ではないのだろうか。
それは紀元1世紀を考えてみればよい。西暦の紀元はキリストの生誕によってはじまる。ところが紀元ゼロ年という年はないのだ。だから、1世紀は紀元1年から100年までということになる。
 ところが、実際にヨーロッパでは1900年に「新世紀」が盛大に祝われたという。1900年はもはや世紀末ではないという気分はよくわかる。
このころはヨーロッパの全盛時代だった。ヨーロッパで世紀という発想が意識されるようになるのは、18世紀になってからで、それまで新世紀の到来を祝うという習慣はなかったという。
 しかし、ヨーロッパにとって、20世紀は「栄光の100年」にはならなかった。
1901年、イギリスではヴィクトリア女王が死に、日本では昭和天皇が生まれる。
 橋本治はこんなふうに書いている。

〈大英帝国の象徴ヴィクトリア女王の死によって始まる20世紀とは、イギリスとヨーロッパが段階を追って没落して行く時間でもあった。第1次世界大戦があり、第2次世界大戦があり、この二つの大戦を通してヨーロッパの国力は削がれ、20世紀後半の世界はアメリカ・ソ連の二大国のものとなる。しかし1980年代になるとこの二大国も傾いて、世界は「日本の時代」になる。昭和天皇を“象徴”としていただいていた日本は、やがて空前絶後の繁栄を誇るようになり、そしてその日本は、昭和の終焉と共にガタガタになる。なぜなんだろう?〉

 いまや「米中冷戦」の時代である。
なぜ、こんなふうに歴史は動くのだろう。
 それはともかく、橋本治がおもしろいのは、大きなできごとよりも、むしろ身近なできごとに光をあてるところだ。
 日本にガスこんろが登場したのは20世紀のはじめだという。
それまでガスは灯火として使われていた。ガス灯である。それが電灯に取って代わられると、ガスはこんろとして家庭のなかにはいりこむようになる。
とはいえ、日本の一般家庭にガスこんろが普及するまでには、それから50年以上かかる。戦前は炭や薪が一般的だった。そういえば、小学校のころ、ぼくもかまどで木っ端を燃やして、ご飯をたいていた。
 1903年にはライト兄弟が空を飛んだ。グライダーはすでに発明されている。ライト兄弟が画期的だったのは、モーター・エンジン付きの飛行機をつくったことである。
自動車もすでに19世紀からあった。だが、最初はゴムタイヤがなかった。
 そのあと改良が急速に進む。1903年にはフォードが自動車会社を設立し、1909年には飛行機がドーヴァー海峡を渡り、1914年の第1次世界大戦では、すでに空中戦を演じるまでになる。
 橋本治によれば、20世紀はけっして発明の世紀ではない。

〈19世紀は、とんでもなくいろんなものが空想され、必要とされ、利用され、その結果、様々な発明発見がなされた時代なのだが、この19世紀の目覚ましさに比べれば、20世紀はろくな発明発見をしていない。〉

 20世紀になって発明されたのは「飛行機とラジオとテレビと原子爆弾ぐらい」で、ほかのものは19世紀にあらかたつくられていたというのだ。ただ、20世紀には、それらが大量に商品化され、普及し、人びとの生活を変えていくことになる。
 できるだけ大きな歴史にふれないのが、この本の特徴だが、1904年の日露戦争には「仕方なく」ふれている。
日本が近代化の道を歩んだ(つまりヨーロッパの真似をした)のは、「ボヤボヤしていたらインドや中国の二の舞い」になると考えたからだという。そして、「戦争に負けるはずのない大国」であるロシアを破ったあと、日本は朝鮮を支配し、「加害者」になった。
 1906年に夏目漱石は『坊っちゃん』を発表する。

〈夏目漱石が登場して流暢な現代文を書いてくれるまで、我々は今口にしている言葉で文章を書けなかったし、もしかしたら、話すことだって出来なかったのかもしれないのだ。〉

 ほんとうに漱石のなしとげた仕事は大きい。
20世紀にはふたつの世界大戦が発生する。しかし、それを除けば、「意外なことに、20世紀はなにごともない普通の年で満ち満ちている」と橋本は書く。
1908年にはヨーロッパやアメリカで女性運動が広がる。イギリスでは女性参政権を求めるデモ隊が国会に突入する。日本では初の女優養成所がつくられる。
1909年には上海で「国際アヘン会議」が開かれる。
アヘン戦争が勃発したのはその66年前。この時点でも、イギリスは「麻薬を売る自国民の権利」を守ろうとしていた。人に害を与える商品や、つくりすぎた商品を外国に売りつけるといった風習は、カネ儲けに由来する「悪い病気」だ、と橋本は断言する。
世界ではじめて「父の日」ができたのは1910年。「母の日」に遅れること2年。
この年、日本では大逆事件が発生する。
「大逆事件というのは、明治政府がしでかした“社会主義者への弾圧”と、暗黒裁判の典型である」
日本では「父」は圧制者の別名であり、毎日が「父の日」のようなものだった、と橋本は皮肉を飛ばす。
さて、ここまでKindleにハイライトをつけながら書いてきたが、そろそろ限界のようである。やはりパラパラとめくれる紙の本に軍配を上げたい。本にとって、パラパラとめくれるというのは、とてもだいじな要素で、ページをいったりきたりしていると、なぜか活字が頭に飛びこんできてくれるような気がするのだ。
そんなわけで、ここからは、紙の本で、のんびり『二十世紀』を読むことにする。いまのはじまりがえがかれている。

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電子本で橋本治『二十世紀』を読んでみる [本]

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 電子本ははたして読書に適しているのか。
 頭にはいるのは、やはり紙の本ではないかと思ったりするのは、読みはじめてからの印象だが、これは一種の思い込みかもしれない。最近は何を読んでも頭にはいらないのは、紙の本でも電子本でも変わらないからだ。
 電子本のひとつの欠点は紙の本のようにぱらぱらとめくれないことだ。紙の本のように関連本を何冊か並べて、比較することもできない。もっぱら単線的に読むしかない。
 ガイドには、電子本では印象深いところに赤線、いやハイライトをつけて、その部分だけを取りだすこともできると書かれている。
 そういうが、実際にタブレットでハイライトをつけるのは至難の業。けっきょく、ハイライトをつけるには、パソコンに導入したKindleを利用するほかない。しかも、その前後の脈絡をもう一度見直すのはとても面倒だ。
 紙の本とくらべて、電子本のメリットは、場所をとらないこと。それに古典なら、本を探すための時間や手間を節約できること。ぼくの場合でいうなら、マーシャルの『経済学原理』の原文をチェックするときに、ネットでその全文を簡単に見つけることができた。
 いまも読んでみたい本はいくらでもある。たとえば熊野純彦の『本居宣長』。これは電子本になっていない。
 家の本棚のスペースを考えると、これからそう長くない人生で、また分厚い本を何十冊も買いこむのは、何かとためらわれる(それに買ってしまうと、それだけで満足して、けっきょく何年も積んだままになってしまうという悪癖もある)。
 平山周吉の『江藤淳は甦える』は、紙の本で買って読みはじめた。中身がいささかしんどいのに加えて、もつだけで重い。電車のなかでは(といっても、最近、遠出することもほとんどないが)、とても読めない。立ったまま、うとうとしたりすれば、たいへんだ。
 いま迷っているのは佐々木実の『資本主義と闘った男──宇沢弘文と経済学の世界』だ。これは紙の本と電子本がでている。紙の本だと642ページだが、電子本だと持ち運べるKindleに収まる。さて、どうしたものか。
 相変わらず、そんなつまらぬことをかんがえながら、電子本を読むための実験として、橋本治の『二十世紀』(上)(下)を買ってダウンロードしてみた。
 この本は2001年、つまり21世紀になった途端に出版されているから、その素早さといいひらめきといい、橋本治にはやはり脱帽である。かれの本は何冊かもっている。しかし、吉本隆明と同様、いつも流し読みしてきた。
 古今東西の典籍を磁石のように引きつけて、いつまでも元気に活躍するだろうと思いこんでいただけに、ことし亡くなったのを知ってショックを受けた。
 こちらは、まだのうのうと生きている。それで、橋本治をちゃんと読みなおそうと思って、電子本で『二十世紀』をダウンロードしたわけだ。
 ところが、ある日、本棚をながめていたら、すでにちくま文庫の『二十世紀』が上下とも鎮座しているではないか。電子本の返品はできないし、後の祭りである。これも、何かのおぼしめしである。
 そうそう、電子本のもうひとつの欠点、それは参考文献を示すさいに、紙の本のように、何ページからの引用というように、引用箇所を示すことができないことだ。ぼくの場合は、文字を大きくし、行間を広くして読んでいるから(これは電子本のメリットである)、ほかの人とはページ数がことなってくる。どこかにオリジナル本のページ数を示してあればいいのだが、参考文献として挙げるときには、どうしていいかわからない。
 ごたくはこれくらいにして、さっそく読んでみることにする。もっとも、ぼくの場合は、頭の回転が遅くなっているので、毎日ほんの少ししか読めないのはいたしかたない。
 まず「総論」だ。
 むずかしい。橋本治には、わかりやすさのわかりにくさがある。じつは難解というのが、最初の印象だ。そのわかりにくさは、おそらく橋本治が頭でかんがえる人ではなく、からだでかんがえる人であるところからきている。
 20世紀はどのような時代としてとらえられているか。
 これはあたりまえのことなのだが、20世紀になったからといって、19世紀とはまったくことなる時代がやってきたわけではなかった。それは平成が令和に変わっても、何も変わらないのと同じ。
「実際のところ、20世紀とは、終わってしまった19世紀の痕跡を、90年もかけて消そうとしている世紀だったりもする」と、橋本も書いている。
 19世紀とは何か。それは戦争と侵略が肯定された時代だった。この国家の膨張を称賛する発想が陳腐に思えるようになったのは、20世紀の終わりになってからだという。
 二度の世界大戦と冷戦時代をへて、大国どうしが戦争をおこす可能性はほとんどゼロになった。植民地はなくなり、大国による小国の支配も無意味と感じられるようになった。いいかえれば、20世紀は、19世紀の帝国主義と植民地主義からの脱却をめざす苦闘の世紀だったというわけだ。
 たとえば1900年と2000年では、世界の国の数は圧倒的に増えている。現在の国際連合加盟国数は193カ国なのに、かつての国際連盟加盟国数は63カ国にすぎなかった。そのこと自体、帝国主義と植民地主義の時代が終わったことを示している。
 とはいえ、新たな国家の誕生は、しばしば戦争をともなう。20世紀に(そしていまも)戦争がなくならなかったのは、そのためでもある。そのことをつけ足しておく必要があるだろう。
 それでも、橋本治のいうように、帝国主義と植民地主義の時代は、少なくとも終わりを告げた。
19世紀から20世紀にかけて、国家の膨張と衝突が起きた背景には、何があったのだろう。その背景には「商売」があった、と橋本治はいう。つまり、このころから資本の時代がはじまったのだ。
「貿易と戦争=侵略は切っても切れないもの」だった。そういわれると、ちょっとぎくっとするが、イギリスとインド、中国のいわゆる「三角貿易」を考えると、まさにその通りである。商品は国家の先兵でもあった。
 橋本のいうように「植民地獲得競争は、原材料の確保競争でもあるし、輸出商品のマーケット獲得競争でもあった」。
 しかし、20世紀には、資本の膨張に後押しされて国家が膨張するといった帝国主義的行動は、徐々に忌避されていく。経済競争が時に貿易戦争にエスカレートしても、それが国家間の戦争に結びつくことは想定されにくくなった。
 20世紀には、国家は国家、経済は経済と、分離して考えられるようになった。その反面、国家と経済がますます結びつきを強めているのも事実だ。そうしたGDP至上主義体制のもとで、人は日夜、経済戦争を強いられている。
 この先、人はいったいどこに行くのだろうか。
 ハイライトした部分を抜き書きしてみよう。

〈世界史に名を残す産業革命は、人間に「作り過ぎたからいらない」という知恵を与えず、「作ったものは、全部、押しつけてでも売れ」という暴力を生んだ。この事態は今でも続いて、「多すぎるゴミの山」という結果を生み出している。〉

〈物は作られ過ぎて、「新たに物を作る」ということ自体が、もう不必要なことになっていた。だからこそ、〝投資先〟というものがなくなって、「新たなる金儲けのために使われるべき金」は行き場をなくした。バブルの金が、株だの不動産だのへと向けられたのは、そのためである。〉

〈必要な物は作る、必要じゃないものは作らない」――こういう原則を確立しないと、このイライラとした落ち着きのない世界は、平静にならない。手っ取り早く言ってしまえば、私は、産業革命以前の「工場制手工業」の段階に戻るべきだと思う。〉

 もはや商品には使用価値と交換価値があるなどとすましてはいられない。冷蔵庫や掃除機、クーラー、自動車、パソコンにせよ、いったん使い出したら、それなしにはいられなくなる。商品は世界化されていく。もう、これ以上は必要じゃないという線は、いったいどこに引けばいいのだろう。
 橋本治はすでに21世紀の課題を示していたといってよい。すべては「何かへんだ」と思うところから始まるのである。
 これで「総論」は終わり、次は1900年から2000年までのできごとが、1年ごとにつづられている。すごい。少しずつでも読まなくちゃ。
 ところで、繰り返しのぐちになるが、kindleで読む電子本が、よく頭にはいってこないのはどうしたわけか。
 タブレットはたしかに軽くて便利だが、あくまでも流し読み用にしか役に立たないと思う。ハイライトもつけにくい。この原稿を書くだけでも、パソコン上のKindleを利用せざるをえなかった。すると、やっぱり紙の本かと思ってしまうのだが、まだ結論は早い。もう少し、実験をつづけてみることにしよう。

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電子本をセルフ出版してみました [雑記]

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 2カ月ほどブログを休んでしまいました。
 その間、つれあいとウズベキスタンツアーに出かけたりもしたのですが、家ではもっぱらセルフ本をつくっていました。
 とりあえず、これまでホームページにまとめていた「渋沢栄一」と「柳田国男」を電子本にしてみたのです。「渋沢」は全4冊、「柳田」は全5冊、アマゾンのキンドル版としてともに発売中です。
 自費出版するという考え方もあったのですが、おそらく膨大な費用がかかるし、たとえそれぞれ100部ずつつくっても、全部で900冊になり、それを配るとなると、またたいへんです。もらう人も迷惑でしょう。
 そこで、たまたまなのですが、無料でセルフ本をつくり、それをKindleストアで売るという選択肢があることを知りました。
 無料でつくれて、しかもそれが売れれば収入になるというのは、年金生活者にとっては、まことにありがたい話です。
 さっそく挑戦してみました。
 電子本をつくるには、テキストをまずepub形式にしなければなりません。
 ボイジャーという会社が無料で提供している「ロマンサー」を使えば、ワードの原稿をこのepub形式に変えられることがわかりました。しかも、横書きの原稿を一挙に縦書きに変換することも可能なのです。
 ところが、縦書きにすることを考えると、できれば元の横書き原稿を手直ししたくなります。
 厄介なのは算用数字を漢数字に直すことですね。別に洋数字のままでもいいという考え方もありますが、われわれのような年代はどうしても縦書きには漢数字を使いたくなります。そのためには「置換」という便利な機能を利用します。
 さらに問題なのは年号ですね。たとえば「昭和30年」は「昭和三〇年」でもいいのですが、できれば「昭和三十年」としたいと思ってしまいます。これはひとつひとつ直していくしかありません。
ルビをつけるという作業もあります。そのとき、ふつうに打つとワードでは行間にばらつきがでてくるため、ルビを入れても行間が変わらないよう書式を変更する必要があります。そのこと自体はわかってしまえば簡単ですが、ルビをつける作業がけっこう手間取りました。
 そして、だいじなのは原稿の読み直しですね。ぼくの場合は、おそらく400字で3500枚くらいありましたから、これに目を通すのに、けっこう時間がかかりました。
 この3500枚を9冊分に分けて、1冊分ずつ、さあロマンサーで変換してみます。指示どおり、作業を進めると、あっというまに縦書きのepub形式原稿ができあがりました。
 これを本のかたちにするには、表紙も必要になってきますね。表紙をつくるための無料ソフトもあるようですが、ぼくの場合は、正月に年賀状を送るのに利用している「宛名職人」で作業をしてみました。これはちょっと邪道かもしれませんが、試行錯誤の末、上のように意外と簡単にできました。
 さて、これで出版の準備が完了。あとはKDP(Kindle Direct Publishing)に登録して、いよいよ出版です。
 指示どおりに進めていくと、これも簡単。本の内容紹介もいれて、できあがり。これでOKのボタンを押します。
 しばらくすると、メールに「上記の本を審査したところ、Webで無料公開されているコンテンツが含まれていることが判明しました」との警告が送られてきて、どっきりしますが、これは著作権についての確認です。そこで、指示どおり、この本の著作権が自分にあることを証明すると、審査に合格し、無事出版の運びとなります。
 Kindleの本はAmazonで発売されます。自分の本がAmazonに並んでいるのは気持ちがいいものですね。しかも、それが無料で制作できるのですから、最高です。
 一応定価をつけることになっているので、ぼくの場合は最低価格の0.99ドル(109円から111円)としました。著作権料は35%です。つまり1冊売れると税引きで約30円が、銀行口座に振り込まれるわけです。
もっとも、それが売れるかどうかは別問題です。しかし、たとえ売れなくても、すぐお払い箱にならないのがありがたいところ。とりあえず、いまのところAmazonで販売中の本として並んでいます。
 こうして、2カ月にわたるぼくの出版事業は一段落しました。
 これまでこのブログに書いてきたものをまとめると、あと5、6冊本ができそうですが、とりあえずは一服。
 また、ブログに戻りたいと思いますので、これからも、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その5) [商品世界論ノート]

   17 分配論、その予備的考察

 最終の第6編「国民所得の分配」。
 国民所得の分配を論じる前に、マーシャルはその予備的考察をおこなっている。
 人間が生産するのは消費するためである。したがって、国民生産は国民所得と一致する。いまふうにいえば、国民総生産は国民総所得と同じである。国民所得は国民分配分と言い換えてもいいだろう。
 分配の問題が生じるのは、人間が機械でも奴隷でもないからだ。しかも、現代の経済は「生活必需品をこえた余剰を自然からいよいよ大幅に引きだせるようになってきており」、この余剰を人びとにいかに分配するかが問われるようになってきている、とマーシャルはいう。
 国民所得が労働者と資本家、土地所有者のあいだで、いかに分配されるか。これがマーシャルの問いである。
 最初に、マーシャルはこれまでの経済学説を検討する。
 フランスのフィジオクラット(いわゆる重農主義者)は、「労働者の賃金を飢餓水準にくぎ付けにするような人口の自然法則」があり、利潤についても自然率があると想定していた。アダム・スミスも賃金や利潤の自然率があると考えたが、それらは労働力の需給関係によってある程度変動するとみていた。
マルサスは賃金水準が変化することを認めていたが、賃金が上昇すれば人口が増加し、それによってかえって労働者の生活条件が悪化すると予測した。
 いっぽう、通説では、リカードも賃金は生活必需品をまかなう水準に釘付けされるとみていたと思われがちだ。だが、リカードの主張は、むしろ賃金の低落を防ぐことに置かれていた、とマーシャルはいう。
J・S・ミルは労働者の賃金が最低水準に抑えられがちなことを批判していた。
これら前期の経済学者の見方を踏まえながら、マーシャルは分配についての新たな考え方を示したいとしている。
 マーシャルが最初に仮定するのは、(実際にはありえないのだが)すべての人が労働と資本を所有している場合である。この場合は、投入された労働に応じてつくられた商品が交換され、原則として、すべての人が労働に応じた所得を得る。そのさい、多くの業種で、たとえば作業能率が倍増したとすれば、商品の生産量が増大し、それによって経済のパイが大きくなり、全体の所得も増えることになる。
 たとえ人口が増大していっても「輸送技術の改良、新しい発明、および自然にたいする新しい制御力が得られるごとに、すべての家族が入手できる安楽品やぜいたく品が一様に増大していく」可能性は高い、とマーシャルはいう。このあたりマーシャルの見方はマルサスの悲観論と異なる。
 しかし、人口の増加が長期につづくと、農業などにおいて、収穫逓減の法則がはたらくことはないのだろうか。これについても、マーシャルは一定の生産技術の向上がなされれば、食料が不足することはないとみている。
 現実の世界では、だいたいにおいて、土地と労働、資本は分離されている。そこでは、国民所得、言い換えれば国民分配分は、土地、労働、資本の所有者に分配されていくことになる。
企業家は収益の限界点まで、生産要因を投入していくと考えられる。雇用はそれによって決定される。限界的な雇用は、その労働の投入が、収益を生みだすかいなかによって決まるといってよい。
 ここからマーシャルは以下の傾向を導きだす。
 すなわち「すべての種類の労働の賃金は、その種類の限界的労働者の追加的労働によってもたらされる純生産額と均等となる傾きがある」。
 これがマーシャルの唱える賃金理論の基本だといってよい。
 現実の産業を考える場合には、労働者の雇用にとどまらず、労務管理や機械の導入、原材料、土地についても考慮しなければならない。それらの生産要因を規制するのは、需要と供給の状態(すなわち価格)である。
 一般に企業家は、事業にたいする投資を収益が得られる限界まで進めていく。そのさい、拡大の境界となるのは、利子率である。つまり、利子率が高く、収益率がそれを上回らないと判断されれば、そこで投資はストップする。
 機械と労働との関係には代替性がある。ある種の労働は、機械によってまったく雇用から排除されてしまう。しかし、「全体をみれば労働全般を駆逐するなどということはおこりえない」。生産の拡大は、たとえばその商品を普及するための新たな労働を必要とするからである。このあたり、マーシャルはあくまで楽観的である。
 マーシャルは、さらに国民所得の分配について考察を進める。
 資本の所得の源泉となるのは、商品の生産から得られる利得である。
そのさい、「生産要因にせよ直接消費される商品にせよ、すべてのものの生産は需要供給の力のあいだにつりあいが保たれている限度ないし限界のところまですすめられる」。
それによって得られる純利益が資本の所得となる。
 いっぽう、労働者の所得は賃金である。
 マーシャルは仕事が常に苦しいものだというのはうそで、適度な仕事は楽しいものだという。そして、たいていの場合、報酬が増えれば、労働者はより熱心に、しかも長時間にわたって働くのをいとわない、と指摘している。
 さらに「報酬が引き上げられれば、だいたいのところ能率の高い労働の供給もただちに増大する」と記している。
 賃金の増大が死亡率の低下をもたらし、労働者の肉体的・精神的活力を高めることも認めている。賃金はぎりぎりの生活を満たす最低のものであってよいはずがない。賃金は慣行上の必需品や、習慣上の安楽品を満たす水準にあってこそ、人間生活の風格向上に資する、とマーシャルはいう。
 しかし、労働者の所得が上昇するには、それなりの条件が必要だと指摘することも忘れていない。

〈必需的とはいえないような消費の増大は、ただ人間の自然にたいする制御力の向上を通してまかなうほかはない。それは知識と生産の技法の進歩、組織の改善と原料供給源の拡大および充実、さらには資本および所期の目標を達成する各種の手段の増大があってはじめて可能になるのである。〉

 つまり、賃金が上昇するには、労働生産性の上昇がともなわなければならないというわけだ。
ヨーロッパにおいて、労働者の賃金が上がってきたのは、こうした条件が満たされるようになったからだ、とマーシャルはいう。そして、じっさい賃金の上昇は、労働者の気力と能率の向上をもたらしてきた。
 マーシャルの見方は楽観的だ。
「賃金の上昇は、それが不健康な状態のもとで得られたものでないかぎり、ほとんどつねに世代の肉体的・知性的、いな道徳的な力をさえ強化し、他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるはずの稼得の増大はさらにその上昇率を高める」
 もちろん、その前提として、賃金は労働にたいする需要と供給によって決まるという考え方がある。
需要価格を規定するのは労働の限界生産性である。いっぽう供給価格を規定するのは「能率の高いエネルギーを養成訓練しかつこれを維持していく費用」、言い換えれば、人がそれなりの生活を送れるだけの支払額である。
 次に、利子についていうと、利子とは資本の利用にたいして支払われる価格である。利子率は長期的には、資金にたいする需要と供給の関係によって規定される。
 一般に利子率が上昇すれば、貯蓄が増大する。そのいっぽう、利子率の上昇は、資金にたいする需要を減らしていく。そのため、そこには一種のせめぎ合いが生じてくる。マーシャルは、一般に資本ストックの増加は緩慢で、時間がかかるとみていた。
 土地は資本や労働などとはことなる性格をもっている。土地はたしかに、ある面、資本の一形態であり、その用途も多岐にわたり、用途を変更することも可能だ。だが、反面、土地のストックは限られ、それを増やすのはむずかしい。それが土地の特殊性だ、とマーシャルはいう。
 もう一度、くり返して言おう。
国民所得の源泉は、生産されたすべての商品の純集計からなり、それらは労働の稼得、資本の利潤(および利子)、そして土地の地代へと配分されていく。経済のパイが大きければ、それぞれの分け前も大きくなる。
 国民所得は均等に配分されるわけではない。利潤を得る資本家と賃金を得る労働者とのあいだでは、所得の性格が異なる。また同じ階級内でも所得は大きく異なる。資本にも格差があり、賃金にも格差がある。
 加えて、新しい資源が開発されるとか、新しい機械が発明されるとか、新しい商品が生みだされるとか、競争によって、生産条件はめまぐるしく変化する。商品の代替も生じていく。資本も労働も、大きな流動性のなかにおかれている。
 人は市場について完全な知識をもっているわけではない。その選択は、手の届くところにかぎられがちで、全般的にみて、いちばん有利と思われるものに飛びつく傾向がみられる。市場の変化にたいする調整は、時間をかけておこなわれていく以外にない。
 資本と労働は、対立と相互依存の関係にある。資本はできるだけ労働コストを抑えようとする。そのために機械を導入し、雇用を減らす場合もある。いっぽう、商品の種類によっては、その完成に時間がかかるため、資本が実質上、労働者に賃金を前払いしなければならないこともある。
 資本が労働を完全に排除することは不可能である。資本は機械や原料だけでなく、「労働の体化物」でもあるからだ。
「全般的にみれば、資本の発達は国民分配分を増大させ、他の分野で労働の新しくゆたかな雇用機会を開発していって、待忍の用役[たとえば機械]によって労働のそれが局部的に駆逐された損害をつぐなってあまりあるものをもたらすだろう」と、マーシャルはいう。いかなる新技術の導入も雇用を排除するにはいたらない。
 とりあえずの結論として、マーシャルは次のように述べている。

〈資本全般と労働全般とは国民分配分の生産に関して協同し、国民分配分からのそれぞれの限界効率に対応してその稼得を配分される。その相互の依存関係にはきわめて密接なものがあり、労働を欠いては資本ははたらけないし、自己ないし他人の資本によって補足されない労働者は長くは生きていけない。労働が活力に富んでおれば、資本は高い報酬をかちとりすみやかに発展していくし、資本と知識の力をかりれば、西欧諸国の普通の労働者もかつての王侯貴族に比べていろいろな点でよい食料をとり、よい衣料を着、よい住居にさえ住めるようになる。〉

 マーシャルは資本主義にたいする悲観的運命論に替えて、資本主義の楽観的展望をかかげている。

   18 労働の稼得

 ケインズは『人物評伝』のなかで、師のマーシャルについて論じ、かれが晩年に語ったとされることばを引用している。

〈[大学の]休暇中に私はいくつかの都市の最も貧困な地区を訪れて、最も貧しい人々の顔を見ながら次々に街路を歩いてみた。そのあと、私は経済学についてできるだけ徹底的な研究をしようと決意した。〉

 マーシャルは貧困を克服する手立てとして、経済学を研究しようと思った。それはマルクスも同様だった。マルクスの場合は、社会主義革命こそが、その解決策となるはずだった。これにたいし、マーシャルは長期的には資本主義の将来に楽観的な展望をもつにいたった。
 いっぽう、大恐慌の惨憺なありさまをまのあたりにしたケインズは、マーシャルの楽観論を念頭におきながらも、その「原理」を組み替える必要性を感じた。その結果、『雇用、利子、および貨幣の一般理論』(1936年)が執筆される。そこでは、マーシャルの体系からははずされていた国家が、大きな役割をもつ存在として浮上することになる。
 ここではまだケインズには踏みこまず、マーシャルの分配論をさらにみていくことにしよう。取りあげるのは「労働の稼得」を扱った3つの章である。
 はじめにマーシャルは、労働の稼得はかならずしも均等ではなく、労働者の能率によって、かなり不均等であることを認めている。
 賃金は時間給(日給、月給)、出来高払い、能率給などによって支払われる。マーシャルは、賃金はほんらい「労働者に要求される能力と能率の行使をもととして算定」されるべきだという立場をとっている。そして、労働賃金を一定の水準に向かわせるのは、経済の自由、言い換えれば競争があるからだとしている。
 機械の導入は雇用の減少に結びつきやすい。しかし、雇用を減らしたうえで、賃金も減らすのはまちがっている、とマーシャルは断言する。むしろ、機械を導入しながら賃金を増やしたほうが、生産効率が上がり、製品の単位あたり費用も低下する。かれは「最高の賃金を支払おうとくふうしている実業家こそ最善の実業家である」というモットーに賛成する。
 実質賃金と名目賃金とは区別されなければならない。貨幣の購買力を考慮する必要があるからだ。重要なのは実質賃金である。
 ある人の本来の所得を知るには、粗収入から経費を引いてみなければならない。弁護士であれ、大工であれ、医者であれ、収入から営業経費を控除しなければ、ほんらいの所得は判明しない。
 召使いや店員が、自分で衣服を用意しなければならない場合は、これも経費である。しかし、たとえば、そうした衣服を主人や店主が提供した場合、これを実質賃金に加えるのはまちがいである。逆に、使用者が労働者に、生産した商品の購入を強制する場合は、実質賃金を低下させることになる。
 個人事業では、成功の度合いは不確実であり、その度合いに応じて所得は大きく異なってくる。そのため、不安定な仕事より確実な職種を求める者が多いこと、そのいっぽうで異常に高い報酬を得られる職種に引きつけられていく者もいるというわけだ。
 雇用が不規則な職種では、料金は仕事のわりに高くなる。そのことは弁護士や家具屋などをみればわかる、とマーシャルはいう。このあたりは、当時のイギリスの事情も勘案しなければならないだろう。
 また、その収入を主業だけではなく、副業で稼ぐケースもないではない。家内事業や農業では、家族全体の稼得を収入単位とみるほうがよいかもしれないとも述べている。
 仕事の選択は、個々人の事情によっても、民族性によってもことなってくる。低級な仕事にしか適さない人がいるのも事実だ、とマーシャルはいう。そういう人は簡単な仕事に押し寄せ、かえってその職種の賃金を低くする原因となっている。しかし、「こういった種類の労働をするものが少なくなり、その賃金も高くなるようにすることは、他のどんな仕事にも劣らず、社会的に緊要な仕事なのである」。
 このように、マーシャルは、労働者にせよ、個人事業者にせよ、その仕事内容も所得もけっして一律ではなく、大きなばらつきがあるとみている。
 その理由は、働き手が扱っている(あるいは生みだしている)物やサービス、すなわち商品の価値に関係している。労働者や個人事業主は、その商品が生みだす価値の形成にどれだけ寄与したかによって、その分配分を受け取るとみてよい。労働者や個人事業主の所得が、仕事に応じて、かなりのちがいがでるのはそのためだ。
 マーシャルはさらに、賃金のもたらす累積的効果にも注目する。低賃金は労働の質を低下させ、さらにいっそうの賃金低下を招く。これにたいし、高賃金は労働の質を高め、人をより勤勉にさせる。
 いっぽうマーシャルは労働者は機械のように売買できないこと、さらに「労働者はその労働力を売るが、自分自身を売り渡しはしない」とも述べている。
 労働者は奴隷ではない。しかも、労働者の売る能力は、機械以上のものである。
 マーシャルは、労働者の育成には長い時間がかかることを認めている。
 労働者の養育と訓練は、その両親の保護があってこそ可能になる。資力に加えて、先見力や犠牲が、子の将来を支える。
 高い階層の人びとは、将来を考え、子どもたちを養育し、訓練することを怠らない。しかし、下層の人びとは、しばしば子どもたちの教育訓練にまで目がいかぬことが多い。そのため「かれらは能力や資質を十分に開発されぬまま、その生涯を終えてしまう」ことになりがちだが、それらが十分に開花し結実するならば、社会にとってどれだけ有益かわからない、とマーシャルは嘆いている。
 問題はこうした弊害が累積的であることだ。「そうした悪循環が世代から世代へと累積していく」ことを何とかして避けたい。
「ある世代の労働者によりよい稼得とかれらの最良の資質を開発するよい機会をもたらすような変化が起これば、かれらはその子供たちによりよい物的および道徳的な利便を与えてやれるようになろう」。それがマーシャルの希望でもある。
 人生における出発のちがいは、職業の選択においても大きなちがいをもたらす。高い階層に生まれた者が有利なことはいうまでもない。熟練工の息子は、非熟練工の息子よりめぐまれているし、家庭でもゆきとどいた世話を受けて育っている。
 学校での教育が終了したあと、労働者に周到な訓練をほどこすのは雇い主である。雇い主は従業員に投下した資本の成果があらわれることを期待する。
「高賃金の労働こそほんとうは安い労働だ」とマーシャルはいう。その影響力はひとつの世代だけで終わらず、次の世代にも永続的な便益を与える。
 所得の大きさは、次の世代の育成にも影響をもたらすというのが、マーシャルの持論だとみてよい。
 労働についての考察は、さらにつづく。

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スターリング──スコットランドの旅(13、最終回) [旅]

2018年8月14日(火)
 私たちは今回の旅行で、エディンバラを起点に右回りにスコットランドを1周し、中部のスターリングまで戻ってきました。きょうは午前中スターリングを見学して、エディンバラ空港まで車を飛ばし、午後3時15分のライアンエアーで、イタリアのピサに向かい、シエナの自宅(長女の家)に戻る予定です。
 きのうホテルに着いたのは、夕方6時ごろでした。曇っていたとはいえ、まだ明るかったので、多少、街を散策する時間がありました。
 私たちの泊まったスターリング・ハイランド・ホテルは、昔のハイスクールを改築した建物で、場所は城のすぐ近くでした。
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 城まで歩いて行く坂道の途中で見かけたのが、アーガイルの宿。17世紀につくられ、アーガイル伯爵[ハイランドの総督]の邸宅となっていました。25年ほど前までユースホステルとして使われていたとか。
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 こんどは坂道を下りて、ダーンリーの家を訪れます。ダーンリー卿(ヘンリー・ステュアート)がスコットランド女王メアリーを訪れたときに滞在した家とのことですが、いまはコーヒーハウスとして利用されているようです。
 ちなみに、ダーンリー卿はメアリーの2番目の夫となる人物で、ジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)の父。嫉妬からメアリーの秘書リッチョを殺害し、1567年2月にエディンバラでみずからも殺されてしまいます。犯人はどうやらメアリーの3番目の夫となるボスウェル伯のようです。
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 夕飯をとるため、町中までやってきました。スターリングは昔ながらのスコットランドのよさが残る落ち着いた街という印象を受けました。
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 さて、わたしたちはけさ8時半にホテルを出発。スコットランド旅行の最終日をのんびりとすごしました。
 最初に訪れたのがスターリング橋(オールドブリッジ)です。近くに駐車して、橋を間近に見ました。観光客は誰もいません。
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 ここは歴史的な戦いがあった場所です。
 13世紀末、イングランドのエドワード(エドゥアール)1世は全国を統一するため、スコットランドを攻め、スコットランド王バリオルを破り、スコットランドを手中にします。
 ところが、これに反抗して立ちあがったのがウィリアム・ウォレスです。1298年、ウォレスはここスターリング橋の戦いで、イングランド軍を打ち破り、スコットランド王国再建ののろしをあげます。メル・ギブソン主演の映画『ブレイブハート』は、このウォレスの生涯をえがいた作品です。
 ウォレスはけっきょくイングランド軍に敗れ1305年に処刑されますが、そのあとを次いだのがロバート・ザ・ブルース(ロベール・ド・ブルース)です。もともとはイングランドを征服したプランタジネット王家に属するフランス系貴族の末裔です。イングランド=スコットランド戦争のときはどっちつかずの姿勢を示し、ウォレスを裏切ったりもしています。しかし、最後は1314年にスターリング近郊のバノックバーンの戦いでイングランド軍を打ち砕き、スコットランド王国を再建することになります。
 このあと訪れたスターリング城の前には、ロバート・ザ・ブルースの石像が建っていました。
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 スターリング城も高台にあります。そこからの眺めを写真に収めておきました。
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 城の入り口にやってきました。
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 その内部にはいってみます。
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 建物に四方を囲まれた広場にでました。
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 建物のなかは改装されています。暖炉の上にユニコーンのタペストリーが飾られていました。
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 昔の王はこんなところで謁見していたのでしょうかね。
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 いったん建物の外にでます。外壁の彫刻におもむきがあります。
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ここは礼拝堂のようです。
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 私たちはここグレート・ホールにおかれたレプリカの玉座に座って写真を撮ったのですが、それを公開するのは、あまりにも恥ずかしいので、やめておきましょう。
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 いよいよスコットランド旅行もおしまいです。車のなかから雨にけぶるスターリング城をカメラに収めます。
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 ところで、スコットランドを訪れた日本人といえば、夏目漱石の名前が浮かびますね。ロンドン留学でノイローゼになった漱石は、日本に帰国する前、友人の勧めでスコットランドのリゾート地でひと月ほど静養します。1902(明治35)年10月のことです。そこはスコットランド中部、ハイランドのはずれにあるピトロクリー(ピトロッホリー)という町で、漱石はそこで「過去のことなどいっさい忘れ、気楽にのんきに」くらすうちに、うつ病のもやが少しはれていくような気がしたというようなことを書いています。
 スターリングからエディンバラ空港までは1時間足らずでした。10日間お世話になったレンタカー(運転は長女のつれあいにおまかせ)を返却し、食事をしてから飛行機に乗りこみます。例によって空港内は混み合っていました。
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スコットランドとイタリアの時差は1時間。イタリア時間で7時過ぎにピサ空港に到着しました。同じEU内の移動(まもなくブレグジットですが)でも、イギリスから入国する場合はパスポートチェックがあります(逆も同じ)。
 ここから車で2時間ほどかけて、シエナに。途中、トスカーナの夕焼けが広がります。向こうの空はまっくろ。まもなく雨が降ってきそうです。
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 シエナ到着は9時過ぎ。行きつけのピザ屋さんで食事。イギリスとちがい、イタリアでは遅くまで食堂があいています。

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粛清と虐殺──『ポル・ポト』を読む(4) [われらの時代]

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 1975年4月20日、ポル・ポトは12年ぶりにプノンペンに帰ってきた。陥落から3日後のことである。その到着は秘密にされた。
 当初、その司令部は鉄道駅に置かれた。住民退去が進められている。ぜいたくな財産を捨てさせ、都市部の人間を農業生産に従事させることが、ひとつの目的だった。ブルジョワ的意識を根絶し、知識人は根本から鍛え直さなければならない、とポル・ポトは考えている。
 王宮内のシルバー・パゴダで開かれた会議では、農業生産の増加に重点をおくことが決められた。自由貿易は諸悪の根源であり、自給自足こそが目指されねばならない。商業などの非生産的活動は抑制すべきである。
 その方針は容赦なく実施された。著者はいう。「ポル・ポトは、難民らがのちに『壁のない牢獄』と呼んだ社会的および政治的な構造にカンボジアの国民を幽閉し、国民を文字通り奴隷化した」。「ポル・ポト政権下のカンボジア国民は、まさに奴隷のようにみずからの運命に関するすべての権限を奪われ」た。
 ポル・ポトがめざしたのは、アンコール朝の再現だったという。社会主義建設は戦争と同じと考えられていた。その戦いにおいては、これまでの特権的なエリート層は破壊されなければならない。怠慢なクメール人をはたらかせなければならない。アンカ(組織)の指令どおり、人民を配置し、動かす。これが革命政権の課題だった。
 6月、ポル・ポトはハノイに行き、ベトナムとの友好関係を確認する。5月にコンポンソムの沖合フーコック島の領有権をめぐって、ベトナムとの紛争が発生していた。それを解決することも目的だった。ポル・ポトはとりあえず引き下がる姿勢をみせた。
 ハノイ訪問を終えたあと、ポル・ポトは北京に向かい、毛沢東と会見した。毛沢東はポル・ポト政権の全面的支援を約束する。中国はカンボジアに大規模な経済援助、軍事援助をおこなう代わりに、カンボジアは中国に軍事基地を提供する。そういう取り決めが交わされた。
 ポル・ポトはさらに北朝鮮に向かい、金日成と会見して、経済援助の約束をとりつけた。中国から帰国したのは7月中旬のことである。
 ポル・ポトはプノンペンで統一集会を開き、3000人の兵士による軍事パレードをおこない、ソン・センを参謀長とする革命軍を創設することを発表した。
 名目上、カンボジアを統治するのは王国民族連合政府ということになっている。国王を元首とするが、いうまでもなく、実権はクメール・ルージュが握っている。シアヌークは金日成が平壌につくった豪邸で、帰国の日を待ちわびていた。だが、その役割は何も決まっていなかった。北京や平壌を訪れたポル・ポトもシアヌークを訪れていない。
 9月19日、ポル・ポトは中央委員会総会を開き、農業生産の割り当てを増やすと宣言、同時に通貨を廃止すると発表した。おカネがなくなれば、私有財産への誘惑もなくなり、賄賂もなくなり、敵分子の活動も抑えられるというのが、かれの理屈だった。
「貨幣は現在においても未来においても危険なものである」と、ポル・ポトはいう。こうして流通していた旧紙幣は回収され、倉庫に収められた。中国で印刷されて発行されるはずだった新紙幣は、ついに発行されることがなかった。
 人びとは食料増産のため、収容先の村から労働力の足りない地域へ移住させられた。しかし、その地域もすでに収穫が終わり、稲を植えつけるには時期が遅すぎた。飢餓が広がる。
 プノンペンはほとんど廃墟となり、ポル・ポト派が占拠していた。
 知識人の思想改造が進められている。キュー・サムファンはいう。「あの人もゼロ、あなたもゼロ──それが共産主義だ」。最終目標は「まったく人格をもたない」人間をつくること。
「自省と公共の場での懺悔を経て、やがてアンカ[組織]への忠誠、機敏さ、熟考しないことを具現化した新しい人間が生まれた」と、著者は評する。
 政治教育は餓え、睡眠不足、長時間労働のなかで実施された。カンプチア共産党の目標は、すべての人をアンカに忠実な「新たな共産主義者」に改造することだった。
 都会から村に送られた人びとには、厳しい労働と餓え、そして政治教育が待っていた。反抗的な人間は処罰され、夜ひそかに殺害された。しかし、人口の大部分は、革命にうまく順応して、生き延びようとしていた。
 シアヌークは9月9日にプノンペンに戻った。扱いは丁重だった。王宮はきれいに掃除され、食料やワインも豊富で、磁器や宝石などの貴重品も保管され、医師も待機していた。心地よい環境だったといえる。
 シアヌークは10月に国連総会で演説し、クメール・ルージュ政権を擁護した。それから、アフリカ、中東、ヨーロッパを回り、12月に帰国した。帰国したときは、すっかり雰囲気が変わっていた。王国民族連合政府は単に民族連合政府と呼ばれるようになっており、新たな憲法が起草されていた。
 1976年1月5日、シアヌークは閣議の議長として、「民主カンプチア」の憲法を公布した。
 シアヌークはその後、キュー・サムファンとともに地方を視察し、国民の窮状に接して衝撃を受けた。クメール・ルージュ政権に自分の名前を貸すことに懸念をいだきはじめたシアヌークは、3月10日に病気療養のため辞任したいと申し出て、それは4月2日に認められた。
 これによって、シアヌークはみずからをクメール・ルージュから切り離すことに成功する。新しい国家元首にはキュー・サムファンが就任する。ヌオン・チェアは国民議会の政権委員会委員長に、そして、ポル・ポトはしぶしぶ首相の座についた。
 ポル・ポト政権は貨幣の不使用、市場の禁止、人民の需要に応じた供給、町と田舎の格差の是正をうたい、これこそが社会主義革命の見本だと胸を張ってみせた。だが、カンボジアには議会も行政府も裁判所もなかった。カンプチア共産党常任委員会とその書記ポル・ポトこそが権力だった。
 革命以降、村々にはコミューンがつくられ、さらに数カ所の村をたばねるコミューンがもうけられるようになった。食事は共同調理場でつくり、共同でとるのが原則だった。食料はやっと食いつなげるほどしかなかった。
 狩猟や採集、釣りは個人主義だとして禁じられていた。それによって、さらに飢餓が蔓延する。アンカ(組織)の取り締まりにより、個人の自由な行動は禁止されていた。
 町には住宅があまっていたのに、優先されたのは間に合わせのバラック小屋の建設だった。水田の区画は一律の正方形にならされた。機械化は蔑視され、医師や教師、法律家、技術者も、ひたすら単純労働に駆り出されていた。
 クメール・ルージュがめざしたのは、軍事力の強化と灌漑ネットワークの拡大による食料増産だった。米があれば、戦争ができる! そんな無気味なスローガンも登場するほどだった。
 にもかかわらず、ポル・ポト政権時代に米の生産はまったく増えなかった。それどころか、国民は過重な労働と飢餓に苦しんでいた。このかん、飢えと病気で100万人が亡くなった、と著者は推測している。コミューンでの強制労働が、人びとの労働意欲をそぎ、生きる意欲さえ失わせていたのだ。にもかかわらず、ポル・ポトは問題は政治意識が欠落していることだと考えていた。
 1976年2月25日、アンコール・ワットを擁する北部の中心都市シェムリアップで爆発事件がおこった。反体制派の攻撃だった。4月にも、西部のチャム族が反乱をおこした。
 5月、タイ湾の島の領有をめぐるベトナムとの協議が物別れに終わった。ベトナムとの関係は急速に悪化しつつあった。
 カンプチア共産党内部では粛清がはじまっていた。ポル・ポトは党内にスパイがはいりこんでいるのではないかと疑っていた。
 9月9日、毛沢東が死亡する。9月20日、ポル・ポトは健康上の理由から首相を辞任すると発表した。後任にはヌオン・チェアが就任。しかし、ポル・ポトは権力を手放したわけではなかった。
 北京では政変がおこり、華国鋒が江青ら四人組を逮捕していた。11月、ポル・ポトは北京で華国鋒と会見し、軍事協力と政治的提携を確認した。
 12月、帰国したポル・ポトは中央委員会を招集し、ベトナムとの軍事紛争に備えるよう述べた。それからベトナム支持派とみられる人びとの逮捕がつづいた。
 プノンペンの政治犯収容所S-21、すなわちトゥールスレン収容所では76年に1400人以上が収容され、77年春までに1000人以上が殺害されていた。最終的にトゥールスレンでの殺害者は、1万5000人から2万人にのぼる。
 逮捕の理由はあきらかにされず、CIAであれKGBであれ、はたまたベトナムの組織であれ、スパイときめつけられたあとは処刑が待っていた。欧米人も例外ではなく、トゥールスレンでは十数人が殺害されている。
 1976年半ばから翌年半ばにかけ、全国で四、五千人の党幹部と数十万人が敵分子や背信者として殺害された。林のなかの殺害について、多くの生々しい証言が残されている。まさにキリング・フィールドである。
 1977年にはいっても、ベトナムとタイ、両国の国境で紛争がつづいていた。国境の村では、しばしばクメール・ルージュ軍が村人を虐殺している。国外に逃げようとするカンボジア難民も多かった。
 タイ湾の島の領有権問題はなかなか解決しなかった。そのため、ベトナムもカンボジアも国境を越えた爆撃をつづけた。
 紛争を解決するには、後ろ盾が必要だった。ベトナムは当初、中国をあてにしたが拒否された。そこでソ連をあてにせざるを得なかった。中国はやっかいと知りながらもカンボジアを支援しつづける。ベトナムはラオスと協定を結び、ラオス国境地帯にベトナム兵を駐留させる権利を獲得した。
 9月、東部のカンボジア軍が、とつぜん国境を越えて、ベトナムのタイニン地方に侵入し、恐怖の爪跡を残して去っていった。ベトナム側としては報復措置をとらざるをえない。
 そのころポル・ポトは北京を訪れ、華国鋒主席と会見し、ベトナムとの対決姿勢を鮮明にしている。これにたいし、華国鋒はあくまでも平和的解決をめざすべきだと述べた。
 ベトナムは板挟みにあっていた。何か措置をとらないわけにいかないが、へたをすると戦争になる可能性があった。レ・ズアンも北京に向かい、華国鋒と会見したが、中国側の理解は得られなかった。
 12月中旬、装甲車と大砲をしたがえた5万人のベトナム兵がカンボジアに侵攻する。12月31日、カンボジアはベトナムとの国交断絶を宣言。これによりベトナム軍のカンボジア侵攻が世界に知られることになった。ベトナムの国際的イメージが傷つくことを恐れたボー・グエン・ザップはすぐに軍を引き揚げることにした。もともと懲罰的な短期間の侵攻ですませるつもりでいたのだ。
 1978年1月から2月にかけ、ベトナム労働者党政治局はポル・ポト政権転覆に向けて段階的な措置をとることを決めた。
 中国との緊張感も高まっていた。ハノイ政府は100万人を超える南ベトナムの中国人にたいし、その個人事業を国有化すると発表、これにたいし中国はハノイへの経済援助停止と中国人技術者の引き揚げで応えた。財産を奪われた中国人のほとんどが国境を越えるか、ボートピープルになる道を選んだ。
 ベトナムはクメール難民の軍事訓練を開始し、クメール・レジスタンスの指導者として、クメール・ルージュの元司令官だったフン・センを選んだ。
 78年夏、中国共産党政治局はベトナム国境に中国軍を集結させた。ハノイにはソ連の兵器と軍事顧問団が到着する。
 いっぽう、ポル・ポトは外交攻勢にでて、各国との親善につとめていた。日本とも友好関係が結ばれた。だが、開放化、寛容化は表向きだけで、じっさいにはその背後で大規模な粛清がつづけられ、拘置所では数万人が撲殺されていた。「この体制は恐怖なしには存在できなかったのだ」と、著者はいう。
 対ベトナム戦時体制と浄化は対になっていた。ベトナム軍の侵入を許した東部の幹部と村民は北東部のベトナム国境沿いに送られ、そこで大量に地雷を敷設する作業に駆りだされていた。代わって、南西部から幹部と人が移動してくる。東部地区書記のソー・ピムは責任をとらされ、自殺に追いこまれていた。
 粛清と殺害はやむことがなかった。ひとつの粛正が次の粛清へとつながっていく。著者は「1978年のポル・ポトの粛清はカンボジアの血を絞りつくした」というが、そのとおりだろう。
 ベトナムとの緊張が高まると、ポル・ポト派はいったん疎遠になっていたシアヌークとの関係を修復し、かれを国家のシンボルに祭りあげようとした。
 1978年9月末、ポル・ポトはひそかに北京で鄧小平と面会し、ベトナムが仕掛けてきた場合に備えて、長期ゲリラ戦の態勢をとることを表明し、中国の軍事援助を要請した。中国はカンボジアにできるかぎりの軍事援助を与えることを約束したが、戦争自体はカンボジアの責任でおこなうよう釘を差した。
 同じころ、ベトナムのレ・ドク・トは、乾期にカンボジアに侵攻する計画を立てていた。ヘン・サムリンを中心とするカンボジア・レジスタンス運動の準備も着々と進められている。
 1978年11月、カンプチア共産党の党大会が開かれた。だが、大会当日も軍の幹部が逮捕されたりして、ポル・ポト政権の内部はだれもが疑心暗鬼になっていた。
 12月2日、ベトナムに支援されたヘン・サムリンの部隊は、すでにカンボジア国境内にいた。クリスマス当日、ベトナム軍はラオスから南下し、カンボジア北東部一帯を占拠する。翌1979年1月1日、こんどは6万人を越すベトナム軍の主力部隊が、激しい空爆と砲撃ののち、プノンペンに進軍した。
 コンポンチャムが陥落間近になったとき、ポル・ポトは部下にシアヌークを車に乗せて、タイに逃れ、それから北京に向かうよう指示した。だが、1月4日にベトナム軍の攻撃がいったんやむと、シアヌークはプノンペンに戻り、ポル・ポトと会った。そのときもポル・ポトは勝利を確信していたという。
 だが、前線の防衛に失敗し、ベトナム軍がプノンペンに近づいてくると、ポル・ポトもプノンペンの放棄を決断せざるを得なかった。シアヌークは飛行機で北京に向かった。ポル・ポトをはじめ、ヌオン・チェア、キュー・サムファン、イエン・サリなど、クメール・ルージュの幹部たちは、1月7日までに高級車やジープ、列車に乗って、ひそかにプノンペンを脱出した。
 国民はベトナム軍の動きについて、ほとんど何も知らされていなかった。
 ポル・ポトとヌオン・チェアは北西部のバッタンバンに逃げ、そこでイエン・サリと会って、今後のレジスタンス計画を話しあった。イエン・サリはバンコック経由で北京に行き、鄧小平やシアヌークと会った。
 その後、シアヌークは国連総会で、ベトナムの侵攻を非難、安保理事会は多数決でベトナムを糾弾した。だが、シアヌークはもうポル・ポト派につくつもりはなく、北京にとどまることにした。
 ベトナム軍がタイの国境近くまで進出してきたため、タイ政府は中国、アメリカと並んで、反ベトナム陣営に加わり、引きつづき民主カンプチアを支持することになった。ポル・ポト派はタイ国境に近い西部のパイリン、さらに南のタサンに拠点を移した。
 1979年2月17日、激しい砲撃のあと、8万5000人の中国軍がベトナムに侵攻する。中越戦争がはじまったのだ。中国軍はベトナム領内に24キロ侵攻、1カ月後に撤退したときには、ベトナム側に1万人の戦死者がでていた。
 だが、ベトナム軍をカンボジアから徹底させるというもくろみは完全に失敗する。ベトナム軍から攻撃を受けたポル・ポト派は解放区を広げるどころか、むしろタサンの基地を捨てて、タイに逃げださねばならないほどだった。ポル・ポト派の部隊はほぼ壊滅状態になっていた。
 クメール・ルージュの悪政から人々を解放するために人道的に介入したというのが、ベトナムの主張だった。1月にはヘン・サムリン政権が誕生していたものの、ベトナム軍がカンボジアで歓迎されていたわけではなかった。
 その夏、カンボジアでは飢饉が発生し、2カ月で50万人もの難民がタイに流れこんだ。クメール・ルージュの部隊はふたたび国境を越え、カンボジア北西部に基地を建設しはじめる。
 11月の国連総会は、ベトナムが支援するヘン・サムリン政権を承認せず、民主カンプチアの代表団に議席を与えた。クメール・ルージュのゲリラ活動がさかんになる。ポル・ポト自身も国境の山地にある基地に戻った。これまでの急進的政策などどこふく風、いまやベトナムを追いだすことを大義としてかかげていた。
 ポル・ポト派はこのとき平壌にいたシアヌークを国家元首とする新たな統一戦線を樹立しようとしていた。カンボジア王室を復興させたいのなら、シアヌークは嫌いな共産主義者と手を組むしかなかった。
 1981年8月、ポル・ポトは北京に向かい、鄧小平、趙紫陽と会見する。2週間後の9月4日、シアヌークとソン・サン[王制下時代の首相]、キュー・サムファンはシンガポールで会合を開き、連合政府を設立しベトナムからカンボジアを解放するとの共同声明を発表した。これを受けて、12月にカンプチア共産党は解散した。これまでの悪夢は歴史のなかに葬り去られた。
 しかし、カンプチア共産党が解散しても、ポル・ポトによる独裁的な支配体制は変わらなかった。軍事組織としてのクメール・ルージュは維持されていたからだ。
 1982年6月、クアラルンプールで、シアヌークを元首とする民主カンプチア連合政府の結成が宣言された。キュー・サムファンは外交を担当する副首相となった。イエン・サリははずされ、しだいにその影響力を失っていった。
 中国はクメール・ルージュを軍事的に援助し、アメリカは連合政府を支援していた。カンボジアの抵抗勢力は力を強め、ヘン・サムリン支配地域の治安は悪化していく。
 1983年、ポル・ポトはバンコックで健康診断を受け、ホジキン病にかかっていることが判明した。まもなく60歳になろうとしていた。
 1984年夏、ポル・ポトは再婚し、やがて子どもをもうける。だが、その12月に、ベトナム軍が最大級の乾期攻撃を開始すると、ポル・ポトは基地を捨てて、タイに脱出せざるをえなかった。
1985年、ポル・ポトは北京で療養生活にはいった。
 同じ年、ベトナムはヘン・サムリン政権の外相で、元クメール・ルージュの司令官補佐だった34歳のフン・センをカンボジアの新首相に立てた。
 1988年夏にポル・ポトが中国から戻ったときには、すでにカンボジア和平会談がまとまろうとしていた。
 その後は1989年9月にベトナム軍がカンボジアから撤退し、1991年10月にパリでカンボジア和平の最終合意がまとまり、翌92年国連カンボジア暫定機構が発足し、93年4月から6月にかけ総選挙がおこなわれ、9月にカンボジア制憲議会が開かれ、立憲君主制が採用されて、シアヌークが国王になるという方向に歴史が動いていく。
 クメール・ルージュは最後まで戦った。西部のパイリンから北に伸びる国境沿いを占拠しつづけていたのだ。森のなかには、ポル・ポトの質素な住まいがつくられていた。
 パリ協定が結ばれたあとも、クメール・ルージュは武装解除しなかった。総選挙はボイコットした。この時点で、ポル・ポト派はタイ国境沿いにカンボジア領土のおよそ5分の1を掌握していた。
選挙後、王室政府はポル・ポト派を総攻撃するが、うまくいかない。いったんタイに逃れたゲリラ部隊はすぐ戻ってきた。
 1994年、ポル・ポトは70歳になろうとしていた。心疾患をかかえ、視力も低下し、左下半身が麻痺していた。ただし、いつもにこやかな表情とは裏腹に、性格はけっして柔和にならなかった。裏切り者には処刑も辞さなかった。
 しかし、このころクメール・ルージュのなかからも王室政府に寝返るグループもでてくる。1996年8月にはイエン・サリも離脱する。クメール・ルージュはほとんどの領土を失った。ヌオン・チェアとソン・センも南部の基地を失った責任をとらされ、職務を剥奪されていた。
 王室政府はふたりの首相、フン・センとラナリット(シアヌークの息子)の対立が激しくなり、ラナリットはクメール・ルージュと組もうとする。ただし、その条件はポル・ポトを排除することだった。
 1997年6月、ポル・ポトは自分を裏切ったソン・センとその家族を処刑した。これを知った副書記のモクはポル・ポト逮捕に動く。タイ国境を越え、ハンモックで運ばれていたポル・ポトはタイ軍によって拘束され、クメール・ルージュ側に引き渡された。それから1年間、ポル・ポトは小さな小屋に軟禁されることになる。
 この年7月5日にフン・センは軍事クーデターをおこし、ラナリットは亡命する。7月末、ポル・ポトはタイ国境に近い場所で開かれたクメール・ルージュの大衆集会で、終身刑を宣告された。謝ることは何もない、とポル・ポトは語った。
 1998年4月15日、政府軍の砲撃が近づくなか、ポル・ポトは心不全で死亡する。自殺や毒殺の説もあるが、真相はわからない。こうしてクメール・ルージュの時代が終わった。
 だが、その爪痕はいまもカンボジアのあちこちに残されている。

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ロン・ノルのクーデターと革命のはじまり──『ポル・ポト』を読む(3) [われらの時代]

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 1970年3月9日、プノンペンではベトコンのカンボジア撤退を求める学生デモがおこなわれた。2日後、群衆が南ベトナム暫定革命政府と北ベトナムの大使館に押しかけ、破壊と略奪のかぎりをつくした。この行動は、首相のロン・ノルが仕掛けたものだった。このときパリにいたシアヌークは、こうした事態をいかんに思うとの声明を出した。
 シアヌークはすぐに帰国せず、予定どおりモスクワを訪問した。3月18日、カンボジアの王国評議会はシアヌークの国家元首職を解くことを決議。シアヌークは訪問先、ソ連のコスイギン首相からカンボジアでクーデターがおこったことを知らされる。ロン・ノルをけしかけたのは、外相でシアヌークのいとこにあたる王族シリク・マタクだった。クーデターが発生したとき、サロト・サル(ポル・ポト)も中国にいた。
 3月19日、シアヌークは北京に到着した。闘うか、引退するか。シアヌークは闘うことを決意し、クーデター非難の声明を発表する。周恩来はすぐにカンボジアに戻るというシアヌークを押しとどめた。
 3月22日、北ベトナムのファン・バン・ドン首相が北京にやってきて、シアヌークと会見し、カンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュと協力するよう求めた。シアヌークはあいまいにしか返答しなかったが、クメール・ルージュとの共闘は否定しなかった。ファン・バン・ドンはサロト・サルとも会い、シアヌークの意向を伝えた。
 3月23日、シアヌークはカンプチア統一戦線を立ち上げる。その文案は周恩来とサロト・サルが訂正したものだが、このときシアヌークはサロト・サルが北京にいることを知らなかった。声明はロン・ノル政権への抵抗と不服従を呼びかけていた。ここにサロト・サル、すなわちポル・ポトの名前はいっさいでていない。
 4月はじめ、サロト・サルは北京から空路でハノイに戻り、ベトナム労働者党の幹部と会った。ベトナム側はクメール・ルージュに5000丁のライフルを提供することを約束した。その代わり、指揮権の統合を求めてきた。サロト・サルはそれはむしろクメール人に悪印象を与えると反論し、レ・ズアンもそれを認め、指揮権統合の主張を撤回した。
 だが、カンボジア領内のベトコンは、独自にロン・ノル軍にたいする攻撃を開始し、これにたいし、ロン・ノルを支持するアメリカはカンボジアに侵攻した。アメリカ国内の反発を受けて、それは中途半端な侵攻で終わった。だが、アメリカはその後もメニューどおり、カンボジアへの空爆をつづけた。その結果、ベトコンがかえってカンボジア全域に散らばることになった。
 サロト・サルはジレンマに陥っていた。クメール・ルージュのゲリラは二、三千人にすぎない。これにたいし、カンボジア国内のベトコンは、その20倍はいる。このままでは、カンボジアがベトコンに支配されてしまう。著者にいわせれば「[カンボジアの]共産主義者にとっての脅威は敵ではなく友であり、反対者ではなく見方だった」。
 ロン・ノルのクーデターは、内戦を引き起こした。ロン・ノルはシアヌークの地位を奪うことによって、事実上、王制の廃止を宣言していた。だが、農民にとって、クーデターは王制への冒涜行為だった。ベトコンが農民をあおった。政府軍による弾圧は残虐きわまりないものとなった。メコン川には何百人もの死体が浮かんだ。
 ロン・ノルは「ブッダの敵」である共産主義者、そして、その存在自体、共産主義者であるベトナム人との戦いを宣言した。カンボジアでくらしていた25万人のベトナム人は祖国に追放されることになり、追放をまつあいだ強制収容所にいれられた。
 いっぽうベトコンを掃討するため、ロン・ノルはアメリカと南ベトナム政府に支援を要請、やってきた南ベトナム兵はさらに残虐で、女性を強姦し、村を破壊しつくした。村を奪われた人びとはクメール・ルージュに結集することになる。
 1970年夏、サロト・サルはカンボジア国境にほど近いラオス山中の司令部を出て、カンボジア中部の暫定キャンプに下りてきた。そこはクラチエ州とコンポントム州の境だった。ここでサロト・サルは、カンプチア共産党中央委員会の拡大総会を開き、独立統治の方針を打ちだす。イエン・サリが外交担当の責任者となった。このころから、サロト・サルはみずからをポル・ポトと名乗るようになる。
 ロン・ノルは本人不在のままシアヌークに死刑判決を下した。そして、10月9日に、千年にわたるカンボジア王国を廃止し、カンボジア改めクメール共和国の設立を宣言した。その背後にはアメリカがいる。
 1970年代前半、カンボジアでは5つ、いや6つの勢力が、たがいに攻撃したり連携したりしながら争っていた。すなわち、クメール・ルージュ、ベトコン、北京のシアヌーク、ロン・ノル、地上軍の南ベトナム兵、そしてアメリカ軍である。
 アメリカはB52による空爆を強化していた。

〈アメリカはベトナム戦争中に、第2次世界大戦で各国が使用した爆弾の3倍をインドシナに投じた。カンボジアに落とされた爆弾の総量は、原爆を含め日本に落とされた爆弾の3倍だ。……農民たちは、わけもわからずに恐怖におちいった。「人々はすっかり怯え、おし黙ってさまよった。3、4日は口もきかなかった」と、ある村人は語る。〉

 農民たちは村をでて、都市部に逃れた。1970年の時点で65万人だったプノンペンの人口は75年には250万に達した。そして、家を破壊された農民の多くがクメール・ルージュに加わった。
 クメール・ルージュの部隊は寄せ集めで、ろくな訓練を受けていなかった。1970年から71年にかけて戦闘を主導したのはベトコンの部隊である。共産主義勢力は、カンボジアの東半分と西の一部根拠地を占拠するまでになっていた。
 ロン・ノル軍はようやく中部の都市コンポントムを奪還した。ロン・ノルを支えているのは、わずかな兵力とアメリカの空爆、それに1万人ほどの南ベトナム兵だけだ。地上支援をともなわない空爆に大きな効果は期待できなかった。そのころアメリカはインドシナの泥沼からいかに脱出するかを考えていた。
 ポル・ポトは中部の秘密基地を転々としながら、パリでアメリカ・北ベトナムの和平協定が成立したあとのことを考えていた。政権を握るためには、クメール・ルージュの軍事力を高め、ベトコン勢力には段階的に引き揚げてもらわねばならない。
 カンプチア共産党は1971年に中央委員会を開き、カンボジア全土を掌握するための軍事的・非軍事的組織の構想をつくりあげた。7月と8月には200人を対象に研修会が開かれた。このころポル・ポトを補佐していたのはヌオン・チュアである。キュー・サムファンも中央委員会に名前をつらねている。
 1972年はじめ、ポル・ポトは3カ月にわたる解放区視察に出向いた。プノンペンの北50キロの地点も訪れている。視察から戻ったポル・ポトは5月に中央委員会を開き、党員にプロレタリア的姿勢を強化するよう求め、準備が整い次第、農業の集団化と民間商業の抑制にとりかかるよう指示した。
 そのころクメール・ルージュの兵力は3万5000に達し、それを支えるゲリラもおよそ10万人に達していた。ベトコンが撤退してもなんとかやっていけそうだった。中国からは毎年500万ドルの支援があった。
 解放区にはすでに200万人のカンボジア人が暮らしている。クメール・ルージュは模範的なほど親切で、民衆の生活はおだやかだった。とはいえ、その暮らしは都会のエリートには想像できないほど貧しかった。
 カンプチア共産党内では批判と自己批判、内省と学習、労働が求められた。それは仏教の修行、いや共産主義の修行のようなものだった、と著者は評している。その目的はアンカ(組織)に身を捧げることだ。
 1972年にはベトコンの主力部隊がカンボジアから撤退しはじめていた。サイゴン侵攻が近づいていた。それにともない、クメール・ルージュが解放区の主要勢力となった。ホーチミン・ルートを通って帰還したクメール・ベトミン(ベトナムで軍事訓練されたクメール人)は第五列(スパイ)予備軍とみなされ、単純労働に回されるようになる。
 1972年2月に、ニクソン・アメリカ大統領が中国を電撃訪問した。その年の半ばから、過去4年間パリでおこなわれてきたアメリカ、北ベトナムの和平交渉が急速に進展しはじめる。ポル・ポトはその交渉がカンボジアに与える影響を注意深く見守っていた。
 北京のシアヌークは相変わらず豪勢な生活を送っている。シアヌークはキュー・サムファンが「カンプチア民族解放勢力最高司令官」だと思いこんでいた。このころイエン・サリも、クメール・ルージュ代表として、北京に滞在し、中国の指導部と接触していた。だが、いかにも王侯然としたシアヌークとの関係はうまく行っていない。
 シアヌークとクメール・ルージュは同床異夢の関係にある。和平協定が結ばれれば、シアヌークは第三勢力政府の長としてプノンペンに帰還するつもりだった。だが、ポル・ポト派はあくまでも戦って、共産主義カンボジアを築くことが目標だった。それでも、当面はうまくシアヌークを利用しようとした。
 1973年1月27日、パリでベトナム和平協定が調印された。シアヌークはイエン・サリとともにひそかにカンボジアに戻り、解放区のジャングルで王国民族連合政府のために戦うと宣言した。このとき、ポル・ポトは表に顔をださない。ベトナムのレ・ズアンとの会見にも病気と称して、応じなかった。
 シアヌークにジャングル生活は似合わない。すぐに北京の豪邸に帰っている。
 和平協定調印のあと、アメリカは2月9日にカンボジアへの爆撃を再開した。ベトナムはともかく、カンボジアではあくまでもロン・ノル政権を支える姿勢を示したのだ。クメール・ルージュは解放区の農民を村からジャングルや山岳地帯に移住させ、農作業にあたらせた。
 5月、ポル・ポトは農民が作物を自由に売ることを禁止し、集団農業計画にしたがうよう命じた。多くの農民が解放区から逃亡した。
「カンプチア共産党は、初期のキリスト教徒が苦難を受けいれることを促されたように、党員に『苦しみと困難』を儀式的に受けいれることを課した」という。クメール・ルージュが残虐さをいとわなくなったのは1973年以降だ、と著者は記している。
 パリ協定以降も、ポル・ポトは停戦交渉を拒否していた。いっぽう協定にしばられたベトナムは、直接カンボジアに手出しできなくなった。アメリカの空爆で、メコン川の土手は月のクレーターのようになった。ベトナムはしぶしぶながら、ホーチミン・ルートで、クメール・ルージュに武器を提供しつづけている。こうして、ベトナムの影響を脱したクメール・ルージュは、カンボジアの3分の2を掌握し、人口のほぼ半分を管理下におくことになった。
 73年秋、ポル・ポトはプノンペン北東50キロのチュロク・スデク前線基地にはいった。ここでクメール・ルージュ軍を指揮していたのは、パリ時代からの盟友ソン・センだ。ポル・ポトは翌年の総攻撃に備えること、警備を固めてスパイの侵入を防ぐよう命じる。スパイの嫌疑をかけられた人びとには収容所送りの運命が待っていた。
 冬、中部の基地に戻ったポル・ポトは幹部のヌオン・チェアやイエン・サリと協議を重ね、総攻撃の段取りを練った。
 1974年3月3日、プノンペンの北30キロにある旧都ウドンへの攻撃が開始される。3週間にわたる包囲攻撃ののち、ウドンは陥落し、政府軍兵士と民間人数千人が殺戮された。
 7月にはカンボジア全土掌握の可能性が高まっていた。ポル・ポトはコンポンチャムの北にある中部のメアク村で年次総会を開き、アンカ(組織)の政治目標として社会主義をかかげた。都市の商業は禁止されねばならない。そのためには都市の住民排除も辞さない。政府発行の紙幣は廃止し、時期を待ってクメール・ルージュの新紙幣を導入する。党の結束を強化し、革命反対派は全面的に処断する。こうしたことが決定された。
 ロン・ノル政府は追い詰められていた。12月初旬、ポル・ポトはウドン近くの前線基地で会合を開き、翌1975年1月にプノンペン攻略を開始することを決めた。1月はじめ、プノンペンは3万人の歩兵によって包囲された。105ミリ榴弾砲と中国製ロケット砲が街に打ちこまれた。
 ベトナム軍がサイゴンを落とすのが早いか、それともクメール・ルージュがプノンペンを落とすのが早いか。両者のあいだで不思議な暗黙の競争がはじまっていた。
 4月1日、ロン・ノルは退陣し、アメリカのハワイに亡命する。10日、アメリカ大使館関係者がタイに脱出。16日、クメール・ルージュがプノンペンを占拠した。サイゴンが陥落するのは4月30日のことである。
 ポル・ポト派が勝利を収めたのは、表向きシアヌークを抵抗組織の長に据えたことが大きい、と著者は書いている。しかも、カンプチア統一戦線の綱領には、個人、宗教の自由、政敵への寛容さ、国民和解、土地・財産の不可侵が掲げられていた。
 プノンペンにはいってきたクメール・ルージュの兵士たちは歓呼の声で迎えられた。しかし、黒服の若者たちの表情に笑みはなく、むしろ怒りがあふれていた、と著者はいう。兵士の多くは極貧の村の出身で、都市生活をみたのははじめてで、その多くが10代で、なかには12歳か13歳の子どももいたという。
 クメール・ルージュが最初におこなったのは、旧ロン・ノル政権の政治家、高官、警察官、軍人の逮捕と処刑だった。たちまち800人ほどが殺害され、無造作に道路沿いの共同墓地に投げこまれた。
 つづいて、兵士たちは一軒一軒民家を訪れ、アメリカの空爆があるから、すぐに退去するよう住民に命じた。待避場所も輸送手段も食べ物も医療ケアもないのに、250万人が首都からの即刻退去を命じられたのだ。ひどい話である。老人も病人も容赦なかった。兵士たちによる空き家の捜索と略奪もはじまっていた。
 検問所では、治安維持のために必要だから軍人や警官、政府職員は名乗りでるよう求められ、正直に名乗りでた人びとは連行されて、殺害された。その数は正確にはわからない。
 プノンペンから退去する途中、病気などで、およそ2万人が命を落とした、と著者は推測している。だが、おそらく2万人どころではないだろう。
 殺戮がおこなわれたのはプノンペンだけではない。占領されたほかの都市でも、旧ロン・ノル政権の役人や将校が、見つかり次第、たちどころに殺害されている。
 富裕層の多くは、アンカ(組織)によって財産を奪われた。車や台所用具、テレビ、ラジオ、ソファ、冷蔵庫、ミシン、テープレコーダー、カメラ、腕時計、ピアノなどすべてである。お金も価値を失った。古い通貨は廃止され、食料などを手に入れるには物々交換するほかなかった。
 故郷の村に帰った人びとは、短い略歴を書くよう求められ、知識人だとみなされると苛酷な運命が待っていた。大学で学んだ者は全員再教育を命じられ、15カ月におよぶ肉体労働を経験させられた。
 クメール・ルージュの統治は、都市住民の強制退去からはじまった。「国民全体の地方への移住、かつての政敵の殺害、敵意を持っていると思われる人間の矯正あるいは排除」が、その政策のパターンだったという。
 そのほとんどが10代で、無知かつ粗暴なポル・ポト派兵士たちは、そのパターンにしたがって行動した。こうしてカンボジア革命は、残酷で容赦ないものとなった。
 クメール・ルージュによる統治は3年8カ月にわたってつづく。

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