So-net無料ブログ作成

恋愛のゆくえ [柳田国男の昭和]

《連載158》
「子無しと子沢山」というエッセイでも、国男が何に関心を寄せているかは、その冒頭から露わなまでに表明されている。

〈いよいよ落ち着いて何か考えてみようとなると、まずもって念頭に浮かぶのは生活の永続という問題である。今度の予期しがたかりし大変革ののち、事実はたしてどれだけのものがなお永続するであろうか。またどれだけの部分が変わらずにいることをもって、国ないしは民族の永続と名づけうるか〉

 国男にとって生活の永続、さらに国と民族の永続は、大日本帝国という見境もないくわだてが水泡に帰したあとも、とうぜん構想されるべき課題としてありつづけた。それは米軍による占領下であったからこそ、より切実な課題だったともいえる。
 次々に実行されるGHQの改革に対して、われわれ日本人は少なくとも何を守るべきなのか。
 国男にいわせれば、家とは個人と国とをつなぎ結ぶ「中間の機関」なのだった。その家は若い男女の結合によって常に再生されるもので、将来の家の幸せが、個人の幸せ、国の幸せを決定するといってもよかった。
 だから婚姻の歴史を振り返ることは、単にこれまでの悪弊を指摘するにとどまらず、「歴代の制度を超越したもの」あるいは「無始の昔から共通して持ち伝えたもの」をあきらかにしていく作業につながるのだ。ここからも、国男が家の永続的伝統を確証することに重点をおいていたことがわかる。
 国男は昔の家を、村に属するひとつの経済主体、つまり田畑や山林を所有し、そこで生産や消費をおこない、年貢を払い、家族を維持し、次世代をつくりだしていく結合組織だと考えていた。
 だからこそ、村の婚姻に関しても、各地の事例からみて、婚姻と嫁入りとは同時におこなわれるのではなく、人の自然から見て、聟入りが嫁入りに先行したのはとうぜんと思うようになったのである。しかし、昭和の初めに、この婚姻風習を“発見”したときには、やはり驚きを隠せなかっただろう。
 それはどういう風習だったのか。

〈以前の嫁入りは婚姻そのものと、時期も目的も共に別々のものであった。跡取り息子の妻の引き移りは、夫の相続と同じとき、すなわち先代の家刀自が死ぬるか引き込むか、ともかくも新たに主婦の入用になった際で、それまでは幾人の子を持っても、なお里方の家族としてそこにとどまり、そこのために働き、男はそれへ来て休息することになっていたのである〉

 国男はこれを母系制のなごりとはみていない。おそらく室町時代あたりから江戸時代にいたるまでは、村などでは聟が嫁の里方に通う聟入りが先行し、家の相続と主婦の継承にかかわるときに、はじめて嫁入りが発生するととらえていたのである。嫁とは将来的に家のなかで主婦の座をつとめる存在で、それはけっして夫に従属する立場ではなかった。
 あまりにも保守的だと非難されるかもしれないが、大家であろうと独立分家であろうと、女性のめざすべき目的はりっぱに主婦の座をつとめることにある、と国男は考えていた。それが民俗学から導かれた結論でもあった。かれがアメリカ流の男女平等論に、異常なまでの激しい嫌悪をむきだしにしたのは、そのためかもしれない。

〈女性を独立不覊(ふき)ならしめるためには、職業を与えよ財産を分けてやれというのは、私にはどうもへっぽこな議論のように思える。それで購われるような選択の自由などは、行かずにいるとか、出てくるとか、またはつまらぬ相手を養うとか、どうせそうありがたいものでないことは、社会が今までにもう数多く経験している。楽しい婚姻のための自由ならば、相手にも選択することを予期しなければならぬ。最も正しい選択をする相手を選択しようとすれば、方法はひとつしかない。男女が合作しなければできない事業は多かろうが、主要なるものは次の代を明るくすること、人が生涯を傾けてもなお完成しえざるものを、死後にたしかに完成してくれると思う人を残すことである〉

 ここでも国男の考えははっきり示されている。つまり女性の幸せは、職業についたり、親の財産を分けてもらったりすることによって得られるのではなく、相思相愛のこれと思う相手をみつけて家庭をもち、生まれた子どもをりっぱに育てることにある、というのだ。
 そして、日本がかつて自由恋愛の国だったことを、国男は民間伝承によって証明しようとする。

〈娘と若者とには、もとは共に宿というものがあって、このふたつの宿仲間はたがいに来往し、親兄弟も知らぬような話をした。そうして多くの夫婦はこの交際の間に成り立つという習わしが、最近までも稀には残り、一代前まではごく普通だった。一家の兄弟姉妹は、宿をちがえて加入したという話も折々は聴く。宿には共同作業という目的もあったが、しかもこの機関には男女の定情のためには特に必要だったのである〉

 若者宿、娘宿は、家の思惑を超えた、若者たちによる若者たちのための恋愛教室だった。年ごろの男女は、仕事を終えると、この宿に泊まって、互いに交流するなかで、意中の相手をみつけたのである。
 しかし、娘宿が次第になくなったことが、村によばいという悪習を生みだす。国男によれば「よばい」とは、ほんらい「呼ばう」ことだったが、いつしか夜這いという字があてられ、そのとおりの行動を示すようになった。
 なかには夜中の乱暴な訪問もあったが、親たちの承認するものが多かったという。恋愛が家による歯止めや干渉を超えていったことは、いまも昔も変わらないようだ。
『婚姻の話』では、家の前に錦木(にしきぎ)を立てる優雅な求愛形式や歌垣、山遊び、あるいは少し乱暴な嫁盗みなどに加えて、遊女の生活なども描かれていた。ここでは、それをいちいち紹介するのはやめておく。
 ただし、国男が戦後の自由恋愛時代に一種の危惧をいだいていたことは、次の一文からもうかがえる。少し長くなるが、引用しておきたい。

〈女子に婚姻の自由を認めるということが、ただ行きたくないという我意を通すだけのものならば、もちろん容易なわざであり、また今までもほぼ認められていた。これを進んで積極的に、思うままの男の選択をさせるというところまで持っていこうとすると、誰が選ばれるかということがすぐに問題になる。夢はなんぼでも美しい ものを描くことはできるが、これを実現する分野は狭くるしい。やはりエニシというがごとき漠然たる宿命を信じて、たまさか遭遇するものが最上の夫であるべきことを、神や仏に祈願するよりほかはないであろう。自由はこれを活用するだけの施設を必要とする。そうしてこれはめいめいの手に合わず媒婆とか仲介所とかいうものの餌食になってしまわぬとも限らぬのである。村を単位とした交際機関などは、最初は単なる孳殖(じしょく[子どもをつくること])の手段にすぎなかったかもしれぬが、のちには段々に当事者の心掛けによって、これを青春の楽しい花園にもしていたのである。それが今日は大いに荒廃して、再び以前の姿には復しがたいのみならず、村を囲いとしていることも、もう忍びがたい拘束となっている。ぜひとも我々はこれに代わるべき、もっとも清らかなる選択機関を作らなければならない。それでなければ、この自由は価値がないのである〉

 戦後の自由恋愛は、往々にして相手の来歴や性格も知らず、長い語らいもないまま、一種の気分のうちに流れていきがちである。これでは結婚のよしあしを神仏頼みにしているのと変わらない。むかし村に若者組や娘組があった時代は、こんな刹那的な結婚(と離婚)はありえなかった、と国男は嘆いている。
 これは老人の嘆きとみるべきかもしれない。それでも国男は、戦後が新たな恋の季節となることを願わざるをえなかったのである。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0