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ナオミ・クライン『これがすべてを変える』(まとめ) [本]

   1 はじめに

 著者のナオミ・クラインはカナダの女性ジャーナリストで、1970年生まれ。戦争や災害をビジネスチャンスにする資本主義を告発した前著『ショック・ドクトリン』で注目を浴びた。
 今回の『これがすべてを変える』が扱うのは気候変動問題だ。CO²の排出をどうやって抑えるかというような技術的な話ではない。資本主義を根本から変えようというのだ。人類は自分で自分の首をしめる段階にまできている、と彼女は警告する。その点、本書は人類に新たな進化をうながすメッセージでもある。
 全体は3部に分かれている。第1部「最悪のタイミング」では、気候変動なんか関係ないという資本主義の傲慢きわまりない暴走ぶり、第2部「魔術的思考」では、環境問題をむしろビジネスチャンスととらえる企業の便乗ぶりがえがかれる。そして、第3部「何かを始める」では、人類を危機に追いこむ資本主義からコミュニティを取り戻すための提案がなされる。
 最初に著者は断言する。現在、世界じゅうが異常気象による大きな災害に見舞われているのは、「化石燃料の浪費的な燃焼」が原因だ。にもかかわらず、われわれはいまの生活を変えられないでいる。人は災害があると「一瞬目を向けはするが、すぐに目をそらす」。せいぜいが「思い出し、そして忘れる」の繰り返しだ。
 気候変動自体が政策課題として取りあげられ、それに予算がつぎ込まれることはまずない。しかし、化石燃料への依存から、いち早く脱却して、気候変動に対処することは「より安全で公平な社会をもたらす」はずだ、と著者は主張する。
 そのいっぽう、気候変動と災害を新たなビジネスチャンスととらえる動きもある。こうしたビジネスはまず何の解決ももたらさない。必要なのは気候変動を食い止めるための強力な大衆運動だ。そして、それは現在のシステムに代わるものを目指す運動でなければならないという。
 いまなされている各国による気候変動への合意はまったく不十分なもので、このままいけば21世紀末までに地球の気温は産業革命前から4度上昇する恐れがある。それがより巨大なハリケーンや台風、大雨と洪水、水面上昇、漁場の崩壊、砂漠化、干魃、動植物の絶滅、多くの感染症を招くことはまちがいない、と著者はいう。
「ふだんどおりの日常生活を続け、今とまったく同じことをしていれば、ほぼ間違いなく文明を危機に陥れることになる」。だとすれば、どうすればよいのか。
 各国がCO²排出量規制を強化することもだいじだ。化石燃料に替わる再生可能エネルギーをさらに開発・普及することも求められる。廃棄物ゼロ構想や都市緑化計画も必要だろう。だが、事態は思う方向に進んでいない。それはグローバル化を推し進める市場原理主義が、人類社会の気候変動への対処を阻んできたためだ、と著者は考えている。
 地球温暖化の原因である温室効果ガスの排出量は2000年代にはいって、むしろ増加している。大量生産と長距離輸送、浪費的消費にもとづくライフスタイルは、化石燃料をより大量に燃焼させることによってもたらされたものだ。そして、グローバルな規模で経済がより活発になったことが、地球温暖化を促進する結果を生んでいる。
「経済システムと地球のシステムが今や相容れない関係になっている」。もはや現状を緩やかに変えるという選択肢は残されていない。文明の崩壊を回避するには劇的な措置をとるほかない、と著者は宣言する。
 経済発展のためなら環境や人間を犠牲にするのもやむをえないという考え方はいまも根強い。このまま行けば、産業革命以後の気温上昇を2度までに抑えるという国際合意は反故にされてしまうだろう。
 いますぐ大変革をおこさなければならない、と著者はいう。
「ブラウン」エネルギーから「グリーン」エネルギーへ、自家用車から公共交通機関へ、無秩序に広がる郊外地域から歩いて移動できる密集型の都市空間へと、くらしのスタイルを変えていくことが重要なのはいうまでもない。
 だが、それよりも重要なのは、社会のあり方を変えることだ。

〈私には、太陽光発電の力学より、人間の力(パワー)の政治学のほうがよほど大問題だと思える。具体的にいえば、力を行使する主体を企業からコミュニティへと転換できるかどうかである。〉

 経済決定の主体を企業からコミュニティに取り戻すこと。近代資本主義以前からの物質主義的な考え方、すなわち自然を征服・開発し、徹底的にしぼりとるという思想(extractivism=資源収奪主義)を変えること。そして、排他的国家主義と形式的民主主義からなる現在の政治システムを変革していくこと──著者が提起しているのは、そうした人類の新たな進化の方向である。

   2 脱成長と低炭素社会への移行

 アメリカでも気候変動対策など無用だという意見は根強い。環境問題をもちだすのは、企業活動の自由を阻害しようとする共産主義者の陰謀にほかならないいう主張もある。
 さらには地球温暖化という事実そのものを否定する向きもある。一般に気候変動への関心は低い。むしろ、気候変動への対応を唱えるリベラル派にたいする反発が高まっている、と著者はいう。
 規制緩和、自由貿易、税の軽減、公有資産の民営化を唱える市場原理主義が社会をおおっている。市場原理主義の立場からすれば、規制をともなう気候変動対策などしてはならないことだし、そもそも経済活動と気候変動とは無関係ということになる。
 要するにカネもうけがすべてだ。カネさえあれば、たとえ温暖化があろうと乗り切れる。また温暖化をネタに商売ができるのなら、それもけっこうという風潮さえみられる。
 気候変動は貧富を問わず、すべての人に影響をもたらす。しかし、現に生じているのは「持つ者と持たざる者の二極分化」だ、と著者は指摘する。
 なかには、気候変動はアメリカより発展途上国を痛めつけるから、アメリカにとってはむしろ好都合だといういまわしい議論さえみられる。災害がおこっても、自分の面倒は自分でみろという発言もまかり通っている。
 右派は政府の介入を批判する。しかし、温暖化対策は政府の介入抜きには成し遂げられない、と著者はいう。1992年のリオ地球サミットで締結された条約は、ほとんど実行されず、問題は先送りされたままだ。
 右派のなかには、原子力や地球工学、遺伝子組み換え技術などによって気候変動に対応できると主張する人もいる。だが、著者によれば、こうしたハイリスクな技術は「さらに危険な廃棄物を生み、しかも明確な出口戦略はまったくない」。それは「大企業や大規模軍隊による巨大技術を駆使した気候変動対策」にほかならず、「そんなことはすべきではない」。
 不思議なことに、自由貿易協定が環境技術の普及を阻害している面もある、と著者は指摘する。太陽光パネルや風力タービンに関しては、地元産業が優先されるのがとうぜんのはずだ。しかし、世界貿易機関(WTO)は、そうした地元優先政策が自由貿易協定に違反するとみなす。こうして、多くの地元企業が苦境におちいったのだ。
 新自由主義の壁が、気候変動への取り組みを阻んできた。とはいえ、太陽光発電市場はいちじるしい発展を遂げている、と著者はいう。
 歴史をふり返れば、化石燃料と気温上昇との関係が明らかになったのは1950年代からだが、その問題が広く意識されるようになるのはトロントで気候変動国際会議が開かれた1988年になってからである。高度消費社会のライフスタイルに批判が集まるようになった。ところがソ連が崩壊すると情勢は一変し、市場原理主義が前面に出てきた、と著者はいう。
 その後の10年間は、気候変動への取り組みと、自由貿易協定の締結が並行して進んだ。両者には矛盾した面がある。だが、優先されたのは国際貿易のルールであり、気候問題が貿易に優先することはなかった。
 自由貿易システムのもとで生産拠点が海外におかれるようになると、温室効果ガスの排出場所が移動しただけでなく、その量も増大した。中国は世界の工場になっただけではなく、世界の煙突になった、と著者はいう。
 グローバル化の呼び声のもとで、多国籍企業はより安い労働力を求めて、世界じゅうを動きまわり、1990年代末に中国に狙いを定めた。「中国は人件費が法外に安く、労働組合は容赦なく弾圧され、政府は大規模なインフラ建設プロジェクトに際限なく資金を費やす用意があった」。
 中国の活用は自由主義者にとっては夢の実現を意味したが、地球環境にとっては悪夢をもたらした、と著者はいう。労働者を低賃金で酷使するのは、排気汚染対策をほとんどとらないのと同じカネ儲け主義の発想にもとづいている。環境汚染と労働者搾取は関連がある。「不安定化した気候は、規制緩和型グローバル資本主義の代償であり、その意図されざる不可避の結果にほかならない」
 グローバル化の時代にあっては、企業はいつでも海外の工場をたたんで、別の場所に生産拠点を移すことができる。多国籍企業が発展途上国に輸出主導型の成長モデルを押しつけたことを考えると、地球環境を悪化させているのは中国やインドだと非難してすむ話ではない。先進国の責任も大きいのだ。
 環境保護よりもWTOやNAFTAなどの自由貿易協定を重視した結果が、現在の地球環境の悪化を招いただけではない。自由貿易の拡大によって、工場は海外に移転して国内の失業者が増え、地元の商店は大型小売チェーンにとって替わられ、農家は安い輸入農産物との競争を強いられるようになった。経済をふたたび地域中心に戻さなくてはならない、と著者は考えている。
 自由貿易の論理は、何が何でも経済成長を進めようという考え方にもとづいている。いま必要なのは資本主義のルールを変え、脱成長をめざすことではないか。グリーン技術の開発を待つだけでは間に合わない。いまできることからはじめなければならない。「では何ができるかといえば、それは消費を減らすことだ」と、著者はいう。
 自動車より自転車、自動車より公共交通機関、地産地消の農産物、リサイクルの服、公営住宅や公共交通の改善、無駄な開発の取りやめ……。200年前といわないまでも、1960年代から70年代くらいにかけてのライフスタイルに戻るべきだ、と著者はいう。加えて生活賃金と地元雇用を保証する政策を採用することによって、コミュニティを再構築すること。
「炭素排出許容量(カーボンバジェット)を超えない経済の実現を図るためには、消費を減らし(貧困層は除く)、貿易を減らし(その一方で地域に根ざした経済の再構築を図る)、過剰な消費のための生産への民間投資を減らすことが必要である」。その代わり、財政支出や環境改善のための公共・民間投資は強化する。「その結果、多くの人々が地球の能力の範囲内で快適な暮らしを営むことが可能になる」と、著者はいう
 著者が提唱するのは、脱成長と低炭素社会への移行である。労働時間の短縮、週3日ないし4日の労働、ベーシックインカムの導入、「医療や教育、食料、清潔な水といった、すべての人が生きるために欠かせないものを確実に得られるようにするセーフティネット」の確立。
 そのような未来社会は、けっして夢物語ではない。


   3 資源収奪主義を超えて

 ドイツのハンブルクでは2013年に電気、ガス、地域暖房の供給網がふたたび市の管轄下におかれることになった。エネルギーと環境は営利目的の民間企業にゆだねるべきではないという住民の主張が認められたのだ。
 ドイツでは再生可能エネルギーへのシフトが進んでいる。グリーン・エネルギー(風力、太陽光、バイオガス、水力)の割合は、2013年に25パーセントに達した。2035年にはそれが55〜60パーセントになるだろう、と著者はみている。
 世界じゅうでエネルギーを風力、水力、太陽光に移行する計画が作られている。その実現には公共部門の関与が欠かせない。
 エネルギー問題だけではない。医療に関しては国民皆保険制度が絶対に必要だ。洪水や干魃、異常気温、山火事、暴風雨にたいしても、公共支出なしでは災害に対処できない。気候変動に対応するインフラ整備も必要だ。
 しかし、緊縮財政のなかで、公共支出はむしろ減らされようとしている。再生可能エネルギー関連の予算も削られているのが現実だ、と著者はいう。
 これからの予算をどう確保すればよいのだろう。
 汚染者負担の原則を守り、「環境に悪影響を及ぼす“汚染者”に、気候変動に対応した公的領域の整備のための資金を確実に支払わせること」がぜったいに重要だ。累進的な炭素税をかけること。さらには、自治体が鉱山や鉱区、油田の使用料を大幅に引き上げ、石油の大口使用者への負担も求めなくてはならない。富裕者への課税も強化すべきだ。
 金融取引税の導入や、租税回避地(タックスヘイブン)の閉鎖、億万長者税、軍事費の削減、化石燃料にたいする補助金の廃止なども、著者は提案する。こうした措置によって、税収を確保し、それを気候変動に対応する費用にあてるべきだという。
 2009年にオバマ政権が誕生したときは、新政権が本格的に気候変動問題に取り組むのではないかと期待されていた。しかし、その期待はあえなくついえた。オバマには「公的領域を強化・改革し、尊厳ある仕事を創出し、企業の強欲を徹底的に抑制するシステムの構築」をおこなうという長期的な経済計画が欠落していた、と著者は批判する。
「地元の原材料を買い、地元民を雇う」政策が採用されて、しかるべきだった。再生可能エネルギー、公共交通、高速鉄道に重点を置き、その分野に公共投資をおこない、多くの雇用を創出すべきだった。だが、オバマ政権はそうした政策に及び腰だった。
 むしろ、オバマ政権時代に登場したのは、天然ガスやシェールガスを利用するという考え方だった。いっぽう、著者が望ましいとするのは、相補的な再生可能エネルギーのネットワークを構築し、それを公益事業として、「地域社会が協同組合または『共有資産(コモンズ)』として民主的に運営する」かたちだった。
 そのかたちを実現しようとしているのが、世界でもっとも早く再生可能エネルギーへの移行を進めているドイツだ。ドイツではすでに900以上のエネルギー協同組合が生まれているという。
 エネルギーの分散型管理もだいじである。地域住民が風力発電や太陽光発電を管理するのだ。これはかつての社会主義政権による中央集権的な計画とは根本的に異なる。
 国には国としての全体を調整する役割があるが、エネルギー分野にせよ、交通システムや水道システムにせよ、その計画や管理は地域コミュニティが担う。また地域に根ざした小規模農家が、現代科学と経験にもとづいて、持続可能な農業を実践する「アグロエコロジー」の考え方もだいじになってくる。
 とはいえ化石燃料業界をはじめとする大企業の力は強大で、大企業はやっきになって新産業技術を開発しようとしている。だが、著者によれば、それは「在来型の資源以上に大量の温室効果ガスを排出するエネルギー源という、間違った方向へと向かわせている」。
 たとえばフラッキング(水圧破砕法)による天然資源の採掘。新たに発掘される天然ガス、シェールガス、褐炭、オイルサンドは、石炭以上に多くのメタンを発生させる恐れがある。地球にやさしい資源とは、けっして言えない。
「業界が革新と呼ぶのは、自殺へと至る最後のあがき」のようなものであり、「それは革新ではなく、狂気なのだ」と、著者は断言する。
 化石燃料業界による新エネルギー源の採掘と精製が地球温暖化に拍車をかけている。石油や天然ガスの新たな開発も進められている。化石燃料会社が保有する埋蔵量はいまも巨大な量にのぼり、業界は今後もハイリスクな炭素資源を追い求めていくだろう。それらの炭素資源を燃焼しつづけていくなら、気候変動のリスクがとめどなく大きくなっていくことはまちがいない。
 しかし、巨大な利益をあげる化石燃料業界は強力なロビー活動を展開し、気候変動への本格的対策がとられるのを阻止している。石油企業にかぎらず、大企業は計り知れない政治的影響力をもっている。この力関係を逆転するのはむずかしい。
 一般市民のあいだに諦めの空気が広がっているのもたしかだ。だが、環境危機は現前に迫っている。ぶれないことがだいじだ。新自由主義とは、ごく少数の人間のために多くの命を犠牲にする政策にほかならない、と著者は批判する。
 だとすれば、いまはむしろチャンスなのだ、と著者はいう。「地球環境を改善すると同時に、崩壊した経済や荒廃したコミュニティを修復する計画を打ち出すチャンスがあるとするなら、今こそがそのときなのだ」
 気候正義を求める運動は、社会システムを変革する運動でもある。
 人は気候変動になかなか気づかない。「というのも、気候変動とはその性質からいって速度が遅く、また場所と深く結びついた危機だからだ」。さらに、人は気候変動がいかに経済活動と関係しているかも気づかない。しかし、たとえば、かつての南海の楽園、ナウルがいまどうなったかをみてみよう、と著者はいう。
 ナウルでリン鉱石が本格的に採取されるようになったのは1960年代からだ。その結果、島民の生活は豊かになり、1970年代から80年代にかけては1人あたりGDPが世界でもっとも高い水準を記録した。ところが、20世紀末にリン鉱石が枯渇すると、ナウル経済は突然崩壊する。
 いまやナウルの土地は荒廃し、国は巨額の借金をかかえ、海面上昇による危機を迎えている。「環境を破壊する採掘に依存して経済を築いた末の自殺行為ともいえる結末を、ナウルほど鮮やかに体現している場所は、地球上ほかにまず見当たらない」。しかし、これはナウルにかぎったことではなかった。
 近代の経済全体が資源収奪主義(extractivism)のうえに成り立っているのだ。近代人は際限なき成長をめざす経済モデルにもとづき「欲しい物質を掘り出す一方で、採掘が行われる土地や水のこと、あるいは採掘された物質が燃焼された後の大気に残る廃棄物のことはほとんど考えない」。それはイデオロギーの左右を問わない。資源の採掘と収奪によって経済を拡大させるという考え方は、帝国主義でも社会主義でも同じだ、と著者はいう。
 新しい技術と化石燃料によって、人は膨大な消費財をつくりだすことができるようになった。市場経済はこうした膨大な財を配分し、そのことによって、さらなる生産を刺激するというエンドレスなシステムを築いていった。
 だが、いまその反作用があらわれている。

〈化石燃料の力を利用することで、人類のかなりの部分は少なくとも2、3世紀の間、自然と絶え間なく対話する必要性や、計画も野望も予定もすべて自然条件の変動や地形に合わせる必要性から解放されたかのように見えた。……[しかし]過去数百年に燃焼させた化石燃料の累積的影響によって、今や、たまりにたまった自然の感情が激しく牙を剥きつつあるのだ。〉

 1972年にローマクラブが発表した『成長の限界』という予測は、その後の技術革新による経済成長により、あたらなかった。とはいえ、地球が汚染を吸収する能力に限界があることを示した点では先駆的だった、と著者はいう。
 いまだいじなのは、地球を救うことを新たなビジネスチャンスにすることではない。資源収奪主義から脱して、ソローのように「地球は身体であり、魂をもち、有機的である」と考えるところから再出発しなければならない、と著者は論じている。

   4 地球工学のあやうさ

 著者はアメリカの大きな環境保護団体が大規模財団や石油企業から資金などの援助を受けていることを暴いている。こうした環境団体の気候変動への取り組みがおざなりになっているのは、そのためだという。化石燃料企業は環境団体ばかりか、国際的な気候サミットの乗っ取りにも成功している。
 1960年代から70年代にかけ、アメリカでは画期的な環境保全法が次々と制定された。ところが、1980年代にはいると潮目が変わり、政権の姿勢はずっと企業寄りになった。
 市場原理主義が幅をきかせるようになり、環境保護団体のなかには企業活動を擁護するばかりか、企業と手を組むものもでてきた。企業もまた環境重視をうたい文句にして、ビジネスを展開するようになった。
 21世紀にはいっても、気候変動を問題にするのは主にエリート層で、一般の人の関心は低かった。環境保護団体も大企業と対決する姿勢をとらなくなった。
 水圧破砕法(フラッキング)によって抽出される天然ガスは、クリーンエネルギーが開発されるまでの「つなぎ」として評価されるようになっている。天然ガスのあとはシェールガスがつづく。
 環境保護団体はこうした新たな資源開発に反対しなかった。「気候変動の科学に対する疑念を広める戦略と同様、この混乱は、化石燃料への依存を脱却して再生可能エネルギーへ向かう機運をみごとに台無しにしてしまった」と、著者は批判する。
 1997年の京都議定書までは、各国政府は炭素税導入などの強力な対策を実施し、再生可能エネルギーへの移行を開始するつもりでいた。しかし、アメリカのクリントン政権はこれに反対し、「排出権取引制度」なるものをもちだした。それにより、世界的に汚染を取引するおかしな仕組みができあがったのだ。環境保護団体がこれに加わり、パプアニューギニアやブラジル、エクアドルなどでは、土地の収奪や人権の侵害が発生している、と著者は怒る。

〈いったんこのシステムに取り込まれれば、これまでどおりに青々として生命に満ちあふれているように見える原生林も、目に見えない金融取引を媒介にして、実際には地球の反対側の汚染物質をまき散らす発電所の延長となる。カーボンオフセットに認定された森がモクモクと煙を吐き出しているわけではない。だが、それ以外の場所での汚染を可能にしているのだから、同じことだ。〉

 著者はこうした排出権取引制度の発想そのものがまちがっているという。それは温室効果ガス排出量の削減に寄与しないばかりか、再生可能エネルギー推進へのインセンティブを奪ってしまう。さらに、汚染物質を出している企業がかえって利益を得るという皮肉な現象を生んでいるのだ。
 いっぽう、環境への取り組みを積極的にアピールする億万長者もでてきた。
 2006年にヴァージン・グループの創設者リチャード・ブランソンは今後10年で30億ドルをかけ、再生可能エネルギーの開発に取り組むと宣言した。投資家のウォーレン・バフェットも2007年に地球温暖化対策に取り組むと名乗りを上げた。マイケル・ブルームバーグやビル・ゲイツ、ブーン・ピケンズなどの大富豪も右にならった。だが、いずれも口先だけだった、と著者は批判する。
 ブランソンが企業の利益を地球温暖化対策につぎこもうとしたことを著者も認めている。だが、それも中途半端なものになってしまった。億万長者の善意はあてにならない。けっきょくは政府が厳しい規制や増税、ロイヤリティの増加などによって、地球環境の保全に乗りだすほかないのだ。

〈金融危機を経験し、かつてないほど拡大した格差のただなかで、ほとんどの人は、規制緩和と大規模民営化が生み出した少数の支配層が、その莫大な富を使って世界を救うつもりなどないことに気づきはじめている。それでも人々は最後の瞬間に超人的な誰かが人類を大惨事から救ってくれるというスーパーヒーロー物語に埋め込まれた、科学技術という魔法への信仰を捨てていない。……それは、今日の文化の最も強力な魔術的思考でありつづけているのだ。〉

 そのような魔術的思考のひとつが地球工学なるものである。
 2011年、イギリスでは王立協会の主催で、ある会議が開かれた。そのテーマは、気候問題を解決する手段として、地球規模の技術介入によって太陽光の一部を遮る方策のいかんを問うものだった。
 地球温暖化をやわらげる地球工学プロジェクトには、さまざまの方法が考えられていた。自然噴火を人工的におこさせ、太陽光を遮断して、地球の温度を下げるというのも、そのひとつ。成層圏にエアロゾルを注入するというのもそのひとつだ。上空30キロに浮かせたヘリウム気球から二酸化硫黄(亜硫酸ガス)を噴出させるというプランもあった。
 だが、「そんな話に耳を傾けていると、なんとも陰鬱な将来像が浮かんでくる」と、著者は書いている。それはそうだろう。実際にそのような対策がとられるとすれば、その時点では地球の温暖化が絶望的段階まで進んでいるにちがいないからである。
 地球工学は人間が自然を征服できるという昔ながらの発想の延長上に組み立てられている。ビル・ゲイツはそのパトロンのひとりだ。地球工学者は、みずからのつくりだす科学の力によって地球を管理できると考えている。
 しかし、地球工学の適用は恐るべき結果を生みだす可能性がある。それによって、たとえ北アメリカの気温が下がったとしても、アジアやアフリカでは降雨量が減って数十億分の食料供給に影響をおよぼすかもしれないのだ。実際に、そうした予測もすでにでている。
 地球工学の実験を実際にやってみるのはあまりに危険だ。だとすれば、あとは実際に火山噴火のあとにみられた気候変動を検証するほかないだろう。地球工学者は1991年のピナツボ山噴火が地球の気温を下げ、世界中の森林の成長を促したとプラス面の影響ばかり強調する。しかし、ピナツボ噴火は反面、降雨量を大幅に減少させ、アフリカに深刻な干魃をもたらしたのだ。そのほかの歴史記録も多くの火山の噴火が干魃と飢饉をもたらしたことを示している。地球工学者の主張をうのみにはできない。
 地球工学者は成層圏への二酸化硫黄注入によって、地球の気温を管理し、地球温暖化を防げると信じている。かれらがリスクをいとわないのは、「その被害をこうむるのが誰かということと関係している」。ここにも先進国中心の発想がみられる。地球工学は、人間の手によって、気候変動の残虐さを加速する可能性がある、と著者は断言する。
 二酸化硫黄を成層圏に噴霧して宇宙傘のようなものをつくるという発想はいまのところばかげているようにみえる。しかし、人類はいざとなれば、リスクをいとわない。それは広島、長崎への原爆投下をみてもわかる、と著者はいう。
 地球はまるで怪物のような存在になろうとしている。地球工学の発想においては「私たち人間の生命を支えるシステムである地球は、怪物となって猛然と人間に襲いかかってこないよう、四六時中、生命維持装置につながれるのだ」。これはまさにゴジラやフランケンシュタインのドラマを連想させる世界だ。
 地球工学の考え方は、どこか発想が逆転している。地球工学を利用すれば、いくら化石燃料を大量に燃やしつづけても、地球は温暖化しないよう調整できると考えているのだから。
 化石燃料から完全に脱却し、エネルギー事業をコミュニティの手に取り戻し、再生可能エネルギー・システムに移行するという常識的な考え方はまちがっているのだろうか。人類が避けられない気候危機に直面しているいま、それを救うのは、はたして地球工学しかないのだろうか、と著者は問うている。
 発想そのものを変える必要がある。

   5 抵抗地帯

 リスクの高い採掘プロジェクトにたいし、いま地域での抵抗が広がろうとしている。抵抗地帯はどんどん数が増えている。ギリシャでもルーマニアでもカナダでもイギリスでもロシアでも内モンゴルでもオーストラリアでも……。それは地域運動にとどまらない。グローバルな運動の一部をなすものだ、と著者はいう。

〈抵抗地帯が断固として掲げるのは、「地下にあるものはいっさい使わない」とでもいうべき考え方だ。それが拠って立つのは、地底から毒物を掘り出すのはやめて、地表で豊富に得られるエネルギーを活用する生活へと全速力で転換する時が来た、というシンプルな原則である。〉

 1970年代以来、ナイジェリアでは国際石油企業シェルの石油採掘にともなう環境被害と健康被害が拡大していた。これにたいし、1990年代にオゴニ族が立ち上がり、一時、石油施設を操業停止に追いこんだ。運動はほかの地域にも広がった。しかし、ナイジェリア政府はこの運動を徹底的に弾圧し、多くの地方に戒厳令を敷いた。
 現在、抵抗地帯があちこちに生まれているのは、採掘産業が世界のあらゆる地域で資源開発に奔走しているからだ、と著者はいう。
 エネルギー産業がリスクの低い安全な産業だったためしはない。その採掘場所は「犠牲区域」になる。資源の輸送にも多くの危険をともなう。しかも、資源が枯渇するにつれ、採掘場所は放棄される。そのいっぽうで、新技術の開発にともなって、採掘場所はいくつでも増えていくのだ。
 現在アメリカではオイルサンドが開発され、その採掘場所が広がり、多くのパイプラインが敷かれようとしている。しかし、各地でオイルサンド・パイプラインへの猛反対が巻き起こっている。フラッキング(水圧破砕法)がもたらすメタンガス排出にも批判が集まっている。カリフォルニア州リッチモンドでは、住民がシェブロンの石油精製施設の大幅拡張阻止に成功した。
 いまや闘いは孤立無援ではない。ネットワークと相互交流が新たな広がりを見せつつある。「ひとつの闘いが別の闘いの勢いを削ぐどころか、闘いの数を増やすことへとつながり、一つひとつの勝利がほかの人々の決意をより強固にしていく」
 オイルサンド由来の原油、シェールオイルやシェールガスの危険性は、従来のものより高い。オイルサンド油田が生態系と人体にどのような影響をおよぼすかも、よくわかっていないのだ。
 それなのに、現在、環境監視予算は大幅に削られている。「業界と政府は基礎研究を片端から妨害し、健康と環境に関する不安についての調査を託される専門家を黙らせ」ようとしていると、著者はいう。
 アメリカではフラッキングによるシェールガス採掘が飲料水井戸を汚染している。「政府と業界の主張とは異なり、多くの井戸でメタン濃度がアメリカ地質調査所の設定した安全基準を上回っている」
 2010年にはイギリスの石油大手BPが、メキシコ湾で史上最悪の原油流出事故をおこした。利益を優先し、コストと時間を節約しようとしたことが、こうした事故を招いたのだ。それはBPに限ったことではない。多くの人が政府や業界の言葉を信じなくなっている、と著者はいう。
 予防原則を復活しなければならない。予防原則とは「人間の健康と環境が著しくリスクにさらされる場合、科学的確実性が完全でなくても対策をとるべきとする原則である」。その安全性を証明する義務はとうぜん企業に課されなければならない、と著者は述べる。
 著者は地元カナダのブリティッシュコロンビア州キャンベラ島で開かれた、パイプライン敷設反対運動のもようを取材している。先住民が多く住むキャンベラ島は、パイプラインのルートからは外れているが、もし沖合でタンカーの原油流出事故が発生すれば、深刻な被害を免れない場所にある。実際、1989年には北のアラスカ沖で大事故がおきている。島の住民は土地と海を守るため、こぞって反対運動に立ち上がった。
 採掘企業は土地に愛情をもっているわけではない。かれらが欲しいのはカネになる資源だけである。そこで、「採掘産業のもつ構造的な根なし草的一時性の文化が、大地に深く根を張り、生まれ育った土地を心から愛し、それを守り抜く強い意思をもつ人たちとぶつかれば、激しい衝突が起きても不思議はない」。
 資源採掘地になったルーマニアのある村の住民はいう。「私たちはそんなに貧乏というわけじゃない。お金はないかもしれないけど、きれいな水もあるし、健康だし、このままにしておいてもらいたいだけです」
 著者はいう。このことばは、ブリティッシュコロンビア州の住民にもあてはまる。かれらの目的は昔ながらの土地と、きれいな水を守ることだ。
 フラッキング(水圧破砕法)によるオイルサンドやシェールガスの採掘には大量の水を必要とする。そして、採掘に使用された水は毒性を帯び、汚染されたまま池となってたまる。
 そのため世界各地で、フラッキング反対運動がくり広げられ、多くの地域がフラッキングを禁止するようになっている。
 カナダのオイルサンド・パイプライン反対運動はまだ勝利を収めていないが、少なくとも計画を遅延させることに成功している。インドでは石炭火力発電所への反対運動が起きているし、中国では都市の大気汚染が危険レベルに達し、石炭依存からの脱却が求められている。こうした動きがクリーンエネルギーへの移行を促進することを著者は期待する。
 オイルサンドを含む新たな化石燃料採掘を阻止する動きが広まりつつある。北極圏やアマゾンでの採掘を全面禁止しようという運動もはじまっている。
 ダイベストメント(投資撤退)運動が組織されようとしている、と著者はいう。これは化石燃料企業からの投資引き上げを求めるものだ。こうして多くの個人や団体が自分たちのもつ石油関連株を売却するなどして、企業に圧力をかけようとしているのだという。
 だが、採掘企業側も黙っていない。フラッキングを禁止したケベック州を企業が提訴する事態も生じている。だが、こうした提訴にたいし、政府は反撃せず傍観している、と著者は憤懣を隠さない。
 化石化した民主主義にたいして、草の根運動をおこそう、と著者は提唱する。政府はこれにたいし、しばしば逆の動きを示す。

〈住民の同意はどうやら重要とは見なされないらしい。政府は、こうしたプロジェクトがコミュニティの真に最良の利益にかなうものであるという説得に失敗すると、たびたび企業側と結託して、身体的な暴力と、平和的な運動家をテロリストに分類する硬直した法的ツールとを使って、反対を叩きつぶしている。〉

 新自由主義のもとでは、人の命よりカネのほうが重いとみられている、と著者は嘆く。企業と結びつく国にたいし、住民にとって身近な地方自治体は、化石燃料ラッシュにたいする抵抗の拠点となりうる。だが、その地方自治体すらあてにならない。最後は住民の強い意思がすべての方向を決めるのだ、と著者はいう。

   6 資源収奪に頼らない暮らし

 ファーストネーション(第一民族)とはイヌイットを除くカナダ先住民の総称で、昔のようにインディアンという言い方はされない。カナダにはファーストネーションの共同体が630以上あり、140万人にのぼるファーストネーションの約半数がブリティッシュコロンビア州やオンタリオ州で暮らしている。
 カナダでは憲法により、先住民の権利が認められている。そのため、かれらはみずからの土地を守るため、化石燃料採掘やパイプライン建設にたいする反対運動をくり広げているのだ、と著者はいう。
 それはカナダだけではない。アラスカでもボリビアでもアマゾンでもオーストラリアでも、世界じゅうで先住民が立ち上がりはじめた。
 各国政府は依然として先住民の同意を得ないまま採掘プロジェクトを推進しようとしている。先住民はたしかに貧しく、社会的な力ももたない。しかし、著者によれば、そうした不利な立場に置かれているもかかわらず、かれらは化石燃料掘削プロジェクトにたいし、次々と訴訟をおこしているのだという。
 大企業相手の訴訟は見るからに勝ち目がなさそうだ。だが、先住民による訴訟は、いまや非先住民のあいだにも共感を生みつつある。カナダ政府は規制緩和によって、大規模掘削プロジェクトの道を切り開こうとしていた。これにたいして「もう黙っていられない(アイドル・ノーモア)」という運動が各地で巻き起こったのだ。
 とはいえ、開発が進むにつれ、先住民コミュニティへの経済的プレッシャーが強くなるのも事実だ。石油・天然ガス産業は、住民に生活費の援助や職業訓練などの提供を約束して、コミュニティを支配しようとする。
 化石燃料の採掘に反対する先住民の闘いは貴重である。その闘いは支援されなければならない。しかし、ここで著者は問うのだ。
「非先住民である人々が、地球上で最も貧しく、構造的に権利を剥奪された人々に、気候変動から人類を救う救世主になってくれと頼むのであれば、ありていに言って、私たちは彼らのために何をするのか?」
 この問いかけは重い。
 ここで、舞台はアメリカへと転じる。
 モンタナ州のノーザンシャイアンは、1970年代以来、石炭採掘企業を寄せつけなかった。だが、現在は保留地のすぐ外で新規炭鉱が認可され、鉄道も敷かれようとしている。さらに、保留地内でも採炭企業に土地を引き渡そうとする動きもでてきた。失業率の高さが石炭マネーの誘惑に屈しようとしているのだ。
 それでは、シャイアンが貧困と絶望から抜けだす道はないのか。ある住民が保留地に風力と太陽光発電を取り入れるこころみをはじめた。

〈再生可能エネルギーは、規模がどんなに大きなものでも、川にダムを建設したり、天然ガス採掘のために岩盤を爆破したり、原子力を制御したりするのとは反対の謙虚さを必要とする。力ずくの技術で自然のシステムを人間の意思に屈服させるのではなく、人間のほうがそのシステムのリズムに適応することを求められるのだ。〉

 エネルギーを化石燃料にではなく、再生可能エネルギーに頼ることは、人間観の転換を必要とする、と著者は指摘する。それは「自分たち人間が自然の主人──「神の種」──であるという神話を解体し、自然界との関係性のなかに存在するという事実を受け入れることだ」。
 家に太陽熱ヒーターを取りつけるこころみは、シャイアンのあいだで評判を呼び、ソーラー・ビジネスに加わる若者も増えてきた。そして、それが「石炭はもういらない」という運動につながっていったというのだ。
「この地域が世界に対してはっきり示したのは、化石燃料に反対する闘いにおいて、現実的な代替策の創出ほど強力な武器はないということだ」と、著者はいう。
 つまり、貧困におちいっている地域に、技能訓練や雇用、安定した収入があってこそ、資源開発と収奪、汚染に対抗できるのだ。外部の多国籍エネルギー企業ではなく、地元民自身が主導権を握らなくてはならない。問われるのは、そのために外部の人びとがどのような支援をおこなうかということである。
 北米では化石燃料への投資を引き上げるダイベストメント運動が盛んになりつつある。しかし、だいじなのは引き上げた資金を、健全な地球を取り戻そうとしているプロジェクトに再投資することだ、と著者は力説する。それによって、再生可能エネルギーを推進する力が増してくるのだ。
 権力と闘うだけでなく、実際に再生可能エネルギーというオルタナティブの方向性を示すこと。だいじなのは、地域社会が再生可能エネルギーを推進・管理するプロジェクトをつくることで、人びとの雇用を確保し、公共交通網を整備し、公営住宅を増設し、都市やコミュニティを再建することだ、と著者はいう。
 地中の炭素資源を掘り出さないようにすることは、地球の気候安定化にも寄与する。先進国は地元の負担にたいし資金を提供してしかるべきだ。著者はこれを「地球のためのマーシャルプラン」と呼ぶ。けっして夢物語ではない、と著者はいう。
 いまのところ、先進国の温室効果ガス排出量の増加はおおむね収まり、新たな排出源は中国やインド、ブラジル、南アフリカなどの新興国に移動している。それは多国籍企業が高消費型経済モデルをグローバル化させるのに成功したからだ。新興国が発展するのは悪いことではない。しかし、環境を汚染しながら繁栄を手に入れるのでは意味がない、と著者は考える。
 産業革命をもたらしたのは石炭だった。産業革命にもとづいて、資本主義は不平等を拡大し、労働や資源を搾取し、現代のグローバル経済の基礎をつくりあげてきた。途上国は先進国のつくりだした不平等と貧困から抜けだすために、いまや先進国の後を追って、大量の化石燃料を燃焼させ、地球環境を悪化させようとしている、と著者はいう。
 この悪循環を断ち切るためには、どこかで妥協点をみいだし、公正な排出削減策を打ち立てねばならない。その基準となるのは、歴史的な排出に対する責任と、その国の発展レベルにもとづいた貢献能力だ。そう考えれば今世紀末までに必要とされるCO²削減量のうち、アメリカは30%ほどを負担しなければならない、と著者はいう。
 本書の最終章には、著者自身の個人的体験にふれる記述がある。
 子ども授かるため、著者は不妊治療クリニックに通っていた。いまの時代は「人類だけではなく多くの種が不妊という障壁にぶつかり、無事に繁殖することが難しくなり、さらには幼い命を気候変動というこれまでなかった厳しいストレスから守ることがますます難しくなっている」のではないかと思うこともあったという。
 不妊治療をあきらめたとき、ふと妊娠していることに気づいた。しかし、原油流出事故で汚染されたメキシコ湾の湿地帯を調査しているときに著者は流産してしまう。環境の悪化によって、もっとも被害をこうむるのは女性と乳幼児だ。「私たちの社会は、生殖能力を保護し、尊重すること、あるいはそれに気づくことすらろくにできていない」と感じた。
 不妊治療をやめたあと、救いとなったのは自然療法だった。自然療法は「『ひたすら押しまくる』西洋医学の機械的アプローチとは反対に、自分に少し休息期間を与える」ことを出発点にしている。それは植物でも同じだ。伝統的な農業では、土壌の生産力を維持するために、休耕期間がもうけられていた。人間も休むことがだいじだった。
 そして、著者もいのちを授かる。出産前の数週間は、自然のままの小川に沿って、よく手入れされた小道を散歩した。産卵から孵化したサケの稚魚の姿を探したり、サケが自分の生まれた場所をめざし、急流を上っていく様子を思い浮かべたりした。そのサケもいまでは絶滅の危機にさらされている。その危機を救っているのは、人工孵化の養魚場だ。
 人間には復元力がそなわっているという。何度も流産しながら、新しいいのちを授かった自分はラッキーだとも思う。ただ、人間の身体も、人間を支えるコミュニティも壊れる可能性もあるのだ、と著者は痛感する。
 著者はある作家の話を聞いて、資源収奪主義の考え方と、絶え間ない再生の物語のちがいに思いをめぐらす。

〈重要なのは、自分たち人間が地球を支配しているのではないこと、人間もまた自らが依存する大きな生きたシステムの一部にすぎないことを認めることである。偉大な環境学者スタン・ローの言葉のとおり、地球は単なる「資源(リソース)ではなく「源(ソース)」なのだ。〉

 資源収奪に頼らない暮らしを思いえがいてみよう。それは「継続的に再生をくり返すことのできる資源に多くを依存すること──すなわち土壌の肥沃さを守る農業手法によって食料を得、常に更新しつづける太陽・風力・波力を制御する手法によってエネルギーを得、金属をリサイクル・リユースされたものから得ること」からはじまるという。
 グローバル資本主義によって、資源の消耗があまりにも急速かつ安易に進んでいるため、「地球−人間系」が不安定化していることは、多くの人が認めている。暴走する経済装置にブレーキをかけなければならない。新自由主義の行き着く先はディストピアだということに多くの人が気づきはじめた。
 温室効果ガスの排出量は毎年前年を上回り、いまも増えつづけている。早急に経済のあり方を転換しなければならない。社会を変革する運動をおこすのは容易ではない。その多くが途中で挫折し、支配階級によってつぶされてきた。
 しかし、抵抗運動がなくなることはない。気候変動への取り組みは、かつての社会運動のような派手さはないかもしれない。だが、それはすべての人にとって共通の課題であり、そこでは市民一人ひとりが活動家になるのだ、と著者は書いている。「その闘いとは、何十年にもわたって攻撃にさらされ、無視されてきた共同性、共有、公共性、市民権という理念そのものを再構築し、再生するプロセスにほかならない」
 そして、それは人びとの世界観を変えることにつながる。「すなわち、超個人主義ではなく相互依存に、支配ではなく互恵的な関係に、上下関係ではなく協力に根ざす世界観」へと。
 反乱はとつぜん生じ、沸騰したものとなるだろう。それがどんなものになるかわからない。だが、そうした沸騰状況がふたたび生じることを著者は予感している。

〈しかし、次にそういう瞬間がやってきたとき、ただ世界の現状を非難し、束の間の限られた解放空間を築くだけに費やすわけにはいかない。すべての人間が安全に生きられる世界を現実につくり出すための触媒としなくてはならない。それ以下で事たれりとするには、事はあまりに重大であり、時間はあまりにも少ない。〉

 これはきたるべき未来に向けて、各自に行動をうながす書でもある。
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