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ホブズボーム『いかに世界を変革するか』を読む(3) [本]

 思いつくままに読んでいる。
 きょうは反ファシズム時代のマルクス主義について書かれた部分を読むことにしよう。
 反ファシズム時代とは1929年から45年までを指している。
 けっして読みやすい本ではないが、その章の終わりに著者のホブズボームはこんなふうに書いている。

〈ファシズムに対する勝利が確実視されるまでは、共産主義の戦略──1939年から41年までの一時的なエピソードを無視すれば──が今なすべきことへの非常に説得力に富む明瞭な指針を提供した……というのは、結局のところ大半の共産主義知識人にとって明らかに反ファシズム闘争はそれ自体が目的ではなかった。それは、世界資本主義の、あるいは少なくとも世界の大部分における資本主義の終局的な一翼を担ったがゆえに正当化されたのである。しかし、本来、反ファシズム闘争において、このような正当化はまったく必要でなかった。将来に何が起ころうとも、ファシズムは害悪であり、ファシズムに抵抗すべきであったのである。〉[それにしても訳が悪い]

 片言隻句にこだわりすぎるかもしれないが、この部分を注意しながら読んでみよう。
 ここには共産主義者として反ファシズム時代を闘ったホブズボームの思い入れがこめられている。
 巻末に収められている水田洋の解説によると、エリック・ホブズボームはユダヤ系イギリス人企業家の息子として、1917年6月にエジプトのアレクサンドリアで生まれた。一家は1920年にウィーンに移住するが、ホブズボームは1929年に父を、31年に母を亡くした。かれは叔父の援助を受けながら成長し、1931年にベルリンの学校に行き、社会主義生徒同盟に加盟する。33年1月にはドイツ共産党最後の公認デモに参加している。ヒトラーの台頭とともに身の危険を感じた叔父は、かれを連れて33年春遅くにイギリスに渡った。
 ロンドンでホブズボームはマリルボン高校に入学し、猛勉強の末、奨学金を得て、ケンブリッジ大学に入学した。当時「赤いケンブリッジ」と呼ばれたケンブリッジ大学では、共産主義運動が盛んだった。ホブズボームもケンブリッジ・レフトの一員となった。1936年にはスペイン内戦が勃発する。ホブズボームは共和国側を支持し、国際旅団に参加したいと願ったが、奨学金をもらっているため、参加を断念した。
 1939年夏に学業過程を終えたホブズボームは、パリで夏休みを楽しんでいるとき、ヒトラーのポーランド侵攻を知る。あわてて帰国し、招集されて、イギリス空軍教育隊に派遣された。ほんらいなら、シンガポールを防衛する部隊に送られるはずだったという。そうなれば、かれの運命も変わっていただろう。
 ホブズボームがイギリス共産党員になったのは、おそらくケンブリッジ大学で学んでいたころである。ケンブリッジ大学で学位をとったあとは、1947年からロンドン大学バークベック・カレッジの歴史学講師となった。その後、イギリスを代表するマルクス主義経済史家となるのは、周知のとおりだ。
 1956年にはスターリン批判とハンガリー事件があり、多くの知識人が脱党した。だが、ホブズボームはイギリス共産党員として言論・執筆活動をつづけ、「イギリス共産党のほうが消滅してしまった」と監訳者の水田洋がおかしげに記している。
 以上、長々とホブズボームの経歴を紹介したが、ファシズムへの反発がかれを共産主義者にしたことはまちがいない。
 ここで気になるのはイギリス共産党についてである。ウィキペディアによると1920年に結成され、1945年に選挙で2議席を得たものの、徐々に衰退し、分裂の末、1991年に解散したとある。
 ぼくはイギリス共産党について、ほとんど何も知らない。
 たまたまポール・ジョンソンが『現代史』を読むと、こう書かれているのを見つけた。

〈1920年代のイギリス共産党は労働者階級の党であり、革新的で独立の気風に満ちていた。しかし1930年代初期に中産階級の知識人が大挙入党すると、共産党は急速にソ連にこびへつらってその外交政策に加担するようになる。〉

 イギリス共産党はイギリスでは大きな勢力にならなかった。とはいえ、それはドイツやフランス、イタリアなどの有力な共産党とともに、ユーロコミュニズムの一角を占める政党だったといえるだろう。ソ連共産党と一歩距離をおきながらも、最後まで社会主義、言い換えれば反資本主義の立場を堅持していた。
 気になるのは、反ファシズムの時代を論じるホブズボームの物言いである。
「ファシズムに対する勝利が確実視されるまでは、共産主義の戦略──1939年から41年までの一時的なエピソードを無視すれば──が今なすべきことへの非常に説得力に富む明瞭な指針を提供した」と書いている。
 共産党は反ファシズム闘争という明確な指針を打ちだしていたという。ただし、「1939年から41年までの一時的なエピソードを無視すれば」……。
 これはいったい何を意味するのだろう。
 1939年9月1日、ドイツ軍は国境を越えて、ポーランドに侵攻した。いっぽうヒトラー・ドイツと秘密協定を結んでいたソ連は、同じくポーランドに侵攻し、ロシアとドイツでポーランドを分割した。ソ連はバルト3国をも占領した。
 1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルクを制圧した。6月にはフランスが降伏した。41年春、ユーゴスラヴィアとギリシアもドイツに屈した。いっぽうダンケルクから撤退したイギリスは、チャーチル首相のもと、ドイツ、イタリアと戦いつづけることを表明した。
 1941年6月22日、ドイツ軍がソ連侵攻を開始した。その年、ドイツはウクライナを占領したものの、カフカス油田までは到達しなかった。レニングラードを手に入れるのもむずかしかった。そしてモスクワに接近したところで、スターリンはようやく反撃に転じるのだ。
 以上、年表風に記したところからわかるように、「1939年から41年まで」の時期は、ドイツとソ連が秘密協定を結んで、東ヨーロッパを仲良く分割していた時期にあたる。その後、ドイツはソ連に侵攻し、ソ連はドイツへの反撃に転じて、独ソの蜜月は終わる。
 つまり、ホブズボームは独ソの蜜月を「一時的なエピソード」と呼び、その時期を例外とすれば、ソ連はドイツ・ファシズムとみごとに戦ったというのである。これはソ連共産主義への甘すぎる評価ではないだろうか。
 さらにホブズボームは、共産主義知識人にとって反ファシズム闘争はそれ自体が目的ではなく、資本主義を終わらせるための一環だったという。だが、さすがにそう断言するのが気恥ずかしくなったのか、そもそも「ファシズムは害悪であり、ファシズムに抵抗すべきであった」と言い直している。
 ホブズボームが、ドイツ・ファシズムと戦った共産主義ロシアを高く評価していることは明らかである。そして、共産主義知識人にとっても、その戦いは資本主義を廃絶するための一里塚だったと信じられていたという。このあたりで、ぼくは思わず首をかしげてしまう。
 はっきりいって、20世紀に勝利したのは資本主義であって社会主義ではなかった。その結果、20世紀末には、マルクスの公式とは逆の社会主義から資本主義への移行が生じた。
 されど奢れる者は久しからず。資本主義が永遠の勝者とはかぎらない。そこにマルクスを読みなおす意義がある。
 資本主義が勝利し、社会主義が敗北した意味をしっかり認識することが、20世紀史の課題なのではないか。ホブズボームのように、それでもマルクスの思想は生きていると主張するだけでは、この謎は解けないのである。
 片言隻句にこだわりすぎたかもしれない。だが、それはとてもだいじなポイントだ。

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