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瀘定橋、羅城鎮──今井駿『四川紀行』を読む(2) [本]

 著者は滞在する成都から、よく1泊2日か2泊3日の旅に出かけている。
 雅安は成都から南西に120キロ。成蔵公路(成都─チベット道)沿線の町だ。
 いまはどうかしらないが、1992年の時点ではバスで5時間以上かかった。丘の上を通る平坦な道を通り、最後に坂を下って雅安にはいる。
 江河(青衣江)が流れている。かつては前回に紹介した軍閥・劉文輝の支配下にあり、アヘンの集散地として悪名をとどろかせていた。
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[雅安。ウィキペディアから]
 外国人は中国の「旅館」に泊まれない。著者は外国人でも泊まれる「交通飯店」すなわち中国版のモーテルを確保してから街にでかけていった。もう夕方だ。
 町を一周してみる。解放広場に記念碑が立つくらいの変哲もない町だ。
 モーテルの夜は、隣の部屋のラジオやテレビの音がうるさくて、よく眠れなかった。それに次々と到着するトラックの騒音。さすがに、大声で話しまくる「無神経な」な中国人に腹が立ったと書いている。
 翌日は朝6時に起きて、バスに乗りこむ。雅安の雅称は雨城という。その名のとおり雨が降っている。朝食はバス停前のうどん屋で牛肉麺(ニューローミェン)。成都より3割方安い。
 著者がめざすのは、ここからさらに西の瀘定(ろてい)だ。オンボロのバスで確保できた座席は通路側。横にはいちゃいちゃするアベックが座っていた。しかも、男のほうがよくタバコを吸うので、うんざりする。
 バスはしばらく江河沿いに走り、それから丘にのぼってから盆地にくだった。隣のアベックのせいで景色はほとんど見えない。バスはまた山道をのぼりはじめる。大きな材木を積んだトラックとすれちがうたびに、ひやひやする。そして、2時間半走り、小さな橋を渡ったところで休憩。なんと2時間の大休憩だという。それには理由がある。ここから時間交代の一方通行になっているのだ。
 食堂と雑貨店があり、ここで昼食をとる。時間があるので、周辺をあちこち歩いてみる。車が数珠つなぎになっている。これから海抜3437メートルの二郎山(アルランシャン)の峠(峠の標高は3000メートル)を越えなければならない。
 周囲の低山は頂上まで畑になっている。トウモロコシや蔬菜、柑橘類などが植わっている。豊かな土壌とはいえない。こんな場所に猫の額ほどでも土地を開いて、営々と生きつづけてきた人たちの労苦と忍耐に感嘆する。
 若い農民がリヤカーにリンゴと柿を積んで売りにきた。著者は柿を3個ばかり買ってみたが、これがすべて渋柿。抗議したが、青年は「リンゴはどう?」とすすめるばかり。怒るのがばかばかしくなった。
 バスに戻った著者はふとしたきっかけで、隣のアベックと仲良くなる。これも旅の醍醐味というものだろう。
 二郎山の峠はたいへんな悪路だった。上るにつれ霧が濃くなり、前がほとんど見えなくなる。だが峠を越えると霧が晴れ、雪をいただいた大雪山系の山々、さらには奥のチベット高原につながる四、五千メートル級の山々が見えてくる。バスはここでしばし休憩。カメラを構える人もいる。
 夕方、バスは9時間かけて、ようやく瀘定についた。終点の康定に向かうアベックがニコニコ笑って、手を振ってくれる。なんだかうれしくなってきた。
 著者が遠路はるばる瀘定までやってきたのは目的があった。
 大渡河の瀘定橋を見るためである。1935年、長征中の紅軍は瀘定橋の戦闘で国民党軍に勝利した。それによって、毛沢東は窮地を脱し、四川省を抜けて、やがて陝西(せんせい)省に革命根拠地を築くことになる。
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[大渡河にかかる瀘定橋。ウィキペディアから]
 著者は紅軍がどのようにこの橋を攻略したのか、あれこれと想像をめぐらす。
『長征記』には、国民党の守備部隊が橋頭堡に火を放ち、紅軍兵士はその燃えさかる火をものともせずに敵陣に突入し、ついに対岸の瀘定県城の占領に成功したと書かれている。だが、実際に橋を前にすると、英雄的なストーリーに、どこかしっくりこないものを覚えた。
 まもなく薄暮が迫ってくる。詮索は中断。
 瀘定の宿は安かったが、例によって、大きなテレビの音と人の声に悩まされた。
 成都に帰ってからも、著者は瀘定橋の攻略について考えつづける。
 瀘定橋の戦闘は、エドガー・スノーの『中国の赤い星』にもえがかれている。
 だが、「スノーによって歴史に名を留めた瀘定橋の攻防戦の悲劇的・英雄的な一場面に立ってみると、いろいろな矛盾した問題に直面する」と、著者は書いている。紅軍が真剣に戦ったのはわかるが、はたして国民党軍にどれほど戦意があったのか、疑問がわく。反蒋介石派の軍閥・劉文輝がどんな動きをしたかも気になる。
 英雄的な長征史も、実際に現場に立つと再検証が必要だと思わざるを得ない。それは毛沢東正統史観も同様だ。
 いまでも中国では、共産党史観以外の歴史は受け入れられない。だが、旅はいやおうなく伝説となった歴史の検証をうながすのである。

 今回はもうひとつ著者が訪れた羅城鎮についても紹介しておこう。まずは楽山県に向かう。成都から南に130キロほど。1992年に著者が訪れたころはバスで8時間かかった。いまは高速道路もでき、1時間半ほどで着くらしい。
 楽山は岷江(みんこう)と大渡河の合流点の町で、楽山大仏で有名だ。
楽山大仏.jpg
[楽山大仏と市街。ウィキペデイアから]
 凌雲山の断崖に彫られた大仏を遊覧船に乗って眺めたり、大仏の足もとにある穴をくぐったりするのが、おすすめだという。
 例によって遊覧船の切符を買うのがひと苦労。著者はそれでもなんとか切符を確保し、河の合流点を真っ正面に望む地点に立つ大仏を眺めることができた。
 だが、著者の目的は観光ではない。川下の犍為(けんい)県に足を踏み入れてみることだった。翌朝、犍為県の羅城鎮(らじょうちん)に行くバスがあったので、それに乗りこんでみた。1時間半ほどで着く。
 ここはイスラム教徒が多い町だという。地図をみると、その街並みは舟の形をしていて、舳先(へさき)と艫(とも)があって、そのまんなかにアーケイド街のようなものがある。おもしろそうな町だ。
 著者によれば、こうだ。

〈この「アーケイド街」に入るまでに、すでに狭い路地に各種の商人が店を開いていた。肉(回民が多いから豚肉は扱われず牛肉か鶏肉であろう)、野菜、果物、薬草、壺や皿などの瀬戸物、包丁・釘・鋤などの金物、各種の食べ物、洋服や生地等々、あらゆる日常品が並んでいる。その前を人びとが肩をぶつけ合うようにして歩いている。物売りの呼び声、掛け合いの声、鶏の鳴き声などの喧噪と異様なほどの熱気があたりを包んでいる。〉

 アーケイドの屋根は竹の骨の上に小さな瓦を載せただけの簡単なものだった。そこには茶店もあって、人びとが何やら話をしている。ここまでの閑散とした田野のどこから、これほどの人がわき出るように出てきたか不思議でならなかったという。
羅城鎮.jpg
[羅城鎮。ウィキペディアから]
 帰りのバスは乗り継ぎがうまくいき、楽山でほとんど待たずに成都に帰ることができた。だが、そのなかが大騒ぎ。予約席に勝手に座る人もいる。人の荷物に腰掛ける人もいる。降りる人よりも乗る人のほうが多いので、立ち席は混むいっぽうだ。著者は車掌の女性の重労働をみて、「『社会主義市場経済』の繁栄の陰では、このような労働条件の悪化が心配されるのだ」との感想をもらしている。
 日本のテレビでは「イタリア・ちいさな村の物語」というような番組も放映されている。それと同じように、どうして「中国・ちいさな村の物語」のような番組がつくれないのだろうか。そもそも中国では、いまでも自由な報道が認められていないのだろう。いつか、そんな日が来ることを願いたい。
 旅はつづく。

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今井 駿

偶然にも拙著をお取り上げ下さっているのを発見しました。感謝に堪えません。
by 今井 駿 (2018-02-16 15:23) 

だいだらぼっち

こちらこそ、中国の知らない場所を紹介してくださって、ありがたく思っています。何かとぎすぎすした世の中ですが、旅で人と人がつながれば、戦争などしなくてすむと願うのは、ロマンチックすぎるでしょうか。
by だいだらぼっち (2018-02-19 07:14) 

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