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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(2) [人]

 戦争末期の1944年5月に、山本七平はフィリピンに送られ、ルソン島北部のジャングル戦で悲惨きわまる経験をしている。かれは、その体験を『ある異常体験者の偏見』、『私の中の日本軍』、『一下級将校の見た帝国陸軍』で、くり返し語っている。
 ジャングル戦の実態はどういうものだったのだろう。それは「放置されて腐敗していく死体がありふれた風景となるなかで、生命の危機に怯え、まともな食料もないまま、病名も分からない皮膚病に悩まされる、はてしない地獄のような毎日のこと」だった、と東谷は書いている。
 この戦場で、七平は自分の誤った判断で、部下を2名戦死させてしまう。戦争だから、それは仕方ないことだったのだが、七平はそのことをいつまでも悔やんでいた。
 軍は機械的な規則や命令だけでは動かない。組織には微妙な人間関係が存在している。組織間には、暗黙の了解や、貸し借りの関係もある。七平が部下を戦死させることになったのは、他の部隊への義理を返そうとしたためだった。
 終戦まぢか、親しかった少尉の分隊を見殺しにしたことも、七平の心に重くのしかかっていた。その少尉は「オレたちがここで頑張り、一兵でも多くの米兵をここに引きつけておく限り、敵の本土侵攻はそれだけ遅れる」と語っていたという。
 1945年8月27日、七平はアメリカ軍に降伏し、ルソン島南部のカランバン収容所に送られた。そこで見たのは、それまでの秩序が崩壊して、ヤクザによる暴力支配が生まれたことだった。自治組織ができず、暴力支配が横行するのは、日本人集団の大きな特徴だった。
 収容所では、現実と言葉とが乖離しているという、日本人の特色についても考えさせられた。あまりにも空疎な言葉、精神主義が横行している。そうした傾向は、右翼、左翼を問わない。日本人は、精神力という「不確定要素」を発揮すれば、たとえ軍備が劣っていても、相手に勝つことができると思っていたのだ。
 実体語に空体語を対置するのが、いまも変わらぬ日本人の特徴だ、と七平は指摘する。実体は常に希望的観測によってごまかされてしまうというわけだ。
 東谷は「甘い見通しが裏切られ、現実のほうがどんどん重くなってしまうと、その分のバランスをとるために、非現実的な言葉だけが膨らんでいくという現象」が、いまも多く見られると解説している。そして、最後は自然的虚脱状態がやってくる。
 東谷はこうも書いている。

〈多くの戦争体験記は、いかに戦争とは悲惨なものかを描こうとする。ところが、七平の場合には悲惨な戦場に直面した日本人はどのように行動するか、なのである。〉

 七平にはどこか冷めているところがある。それは、かれが日本では少数派でマージナルなクリスチャンであることと関係している、と東谷はみる。だが、いずれにせよ、戦争体験は七平に日本人とは何か、日本社会とは何かという根源的な問いがわきあがらせる大きなきっかけになったのである。
 こうして書かれたのが、1977年に出版された名著『「空気」の研究』である。
 日本社会は空気で動いているといわれる。しかし、日本人はしばしば空気に流され、判断を誤る。戦艦「大和」の特攻作戦が決まったのも、こうした戦争末期の空気のさなかだった。インパール作戦もそうだろう。
 だが、七平は単純に空気(ムード)を否定していない、と東谷はいう。人びとが空気に流されるのは、いまも昔も変わらない。いつのまにか、戦前の空気が否定され、戦後の空気が肯定されているだけだ。だが、その空気がはたして正しいかどうかとなると、疑問がわいてくる。
 空気とは臨在感だ、と七平はいう。臨在感とは、周囲の物や言葉に影響力を感じ、それに動かされてしまう心理的習慣を指す。日本人が空気を読むのは、アニミズム的な宗教感覚に由来しているのではないか、と七平は考えていた。つまり、目の前の現象を自分の同類のものとして、肯定的に受け入れてしまうのだ。
 こうした空気から抜けだすきっかけが水だ、と七平はいう。水をさす、あるいは水をかけることによって、人は現実に引き戻される。とはいえ、水をさすのは容易ではない。それが別の空気を生んでしまうこともある。
 しかも、日本人はみずからの正しさを、つじつまの合わない論理をもちだしたり、状況にあわせて平気で事実をねじまげたりして正当化する傾向がある。
 七平にとっては、戦後の平和主義は戦前の軍国主義と同じ空気なのだった。日本人がこうした空気に流されるのは、絶対的な固定倫理をもたないからである、と七平は論じた。
 日本の根本原理はキリスト教のような絶対神ではなく、汎神論にもとづく家族的相互主義であって、その頂点に天皇がいる、と七平はとらえた。それは西洋が進んでいて、日本が遅れているということではない。日本には日本のよさがあると同時に、問題もあるのだ。それは逆に西洋も同じである。
 日本人がその時々の空気によって動くのは、ある意味では自然なのだ。だが、それが場合によっては、あやまった判断につながることも、おおいにありうる。だとすれば、どうすればよいのか。
 東谷は七平の示した方向を、次のように解説している。

〈私たちはこうした「空気」について、それが「本能」と化していることを自覚しつつ、性急な理解を排して、ひとつひとつの事態について手をなぞるように確認し、バランス感覚を発揮し、「虚語」や「空体語」が肥大していないか確かめるしかないのである。〉

 まるで綱渡りのような、一種緊張に満ちた日々の精神的格闘を思わせる。だが、それが批評の宿命というものなのだろう。

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あゆこ

だいだらぼっちさん
じっくり拝読させていただきました。
知の巨人達の遺産をかたちを変えて分配してもらえている気分です。

持論ですが、人が全体主義になびくのは、空気とフロムの『自由からの逃走』のような理由だと思っていました。ところが、下記の記事を読んでもっと単純なのでは?と思い直しているところです。
【私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56393 たった2回の授業で恍惚に導けるのだそうです。人のせいにして悪いことの出来る解放感に自由を感じるのでは?という分析に衝撃を受けています。
嘘に入り込める小心者の煽動家がそれをすると…オウムにヘイトにモリカケに、現在進行形で周知の通りなんでしょう。

日本人がいかに容易く全体主義に転ぶかは、山本七平さんの空気の分析を受けて、さらに踏み込んだユング心理学者の河合隼雄さんの日本人の中空構造論に深くうなずいています。
ETV【100分de名著】で河合隼雄特集が残すところあと2回。心の構造を多くの方が自覚してもいいと思っています。

向き合えない幼稚さに入り込む前に、過去に誠実に向き合い理由の分析をし続けた、知の巨人達の遺産が、きちんと行き渡るように願って止みません。

長文失礼致しました。
by あゆこ (2018-07-15 07:02) 

だいだらぼっち

いつもお読みいただき、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
by だいだらぼっち (2018-07-31 16:14) 

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