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『ポル・ポト』(フィリップ・ショート著)を読む(1) [われらの時代]

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 先日、のんびり6日間のアンコール・ワット・ツアーに出かけて、帰宅したら、なんだか重い荷物をしょったまま戻ってきたような気がしてならなかった。その正体は、ポル・ポトと呼ばれた人物から発された何かであり、いわば歴史の重荷といえばいいのだろうか。いまカンボジアには、ポル・ポトにまつわる光景はほとんど残っていない。しかし、じっと目をこらすと、その影はカンボジアのあらゆる場所にひそんでいると感じないわけにいかなかった。
 ポル・ポト(1925〜98)、本名サロト・サルはクメール・ルージュと呼ばれたカンボジア武装勢力の最高指導者で、カンプチア共産党の書記長。クメール・ルージュは、1975年4月から79年1月まで、カンボジアを支配した。国全体に恐怖政治を敷き、反対勢力と思われる人びとを大量に処刑したとされる。そのかん、カンボジアでは700万人の人口のうち150万人が犠牲となった。その大半は混乱による餓死や病死だが、巷間伝えられるいわゆる大量虐殺もおこなわれたのだろうか。
 1979年1月のベトナム軍による侵攻で政権を失ってからも、ポル・ポト派はタイにまたがる西北部の密林地帯で抵抗をつづけた。ポル・ポトが亡くなったのは1998年というから、つい20年ほど前のことである。それまでは、アンコール・ワット観光どころの話ではなかったのだ。
 旅行から戻ってきて、ポル・ポトのことをもう少し知りたいと思い、図書館でこの本を借りて読むことにした。注もあわせると900ページ近くある。
 読みはじめて気づいたのだが、国際環境や国内事情がややこしい。それに人名がさっぱり頭にはいってこない。ともかく複雑なのである。ポル・ポトを悪魔の男だと片づけるだけではすまないような気がしてきた。はたして、イデオロギーや民族性、あるいは指導者の性質だけで、この史上まれにみる暴政の原因を説明できるだろうか。そこで、どこまで読めるか、はなはだ心もとないのだが、簡単なメモだけでもと思い、自分なりの整理をこころみることにした。
 ポル・ポト(サロト・サル)は1925年3月にカンボジア中部コンポントム州の農村で生まれている。その家は広い稲田をもち、裕福だったという。子どもは6人。ポル・ポトは4番目で、上に兄が二人、姉がひとりいた。
 父の姉は王室に仕え、その娘メアク(つまりポル・ポトのいとこ)がモニボン国王(1875〜1941、在位1927〜41)の側室となり、王子を産んでいた。のちにポル・ポトの姉も国王の側室になる。次代の国王ノロドム・シアヌーク(1922〜2012)は、モニボンの孫にあたる。
 著者にいわせれば、カンボジアの風景は、昔もいまも、中国よりアフリカに近い。

〈カンボジアの生活は、泥臭く素朴だ。自然が密生して実を結ぶ。太陽は鉄のハンマーのようにがんがんと照りつけ、ジャングルには霧がたちこめ、地面は熱と熱帯の色を帯びて躍動する。晩春になると、……幅数キロにおよぶ蝶の群れが一面の蓮の花や鮮やかな緑の水田をわたる。少女は十代になれば女性として花開き、二十歳になれば色あせる。〉

 カンボジアの中心民族、クメール人の世界は、精霊と魔術に満ちている。そこに仏教がかぶさり、森羅万象を統べる王がいる。
 そんな雰囲気のなかで、サロト・サル(ポル・ポト)は育った。プノンペンにでたのは9歳のとき。最初は僧院で戒律や経を学んだ。10歳になると年の離れた兄のところから、フランス系の小学校エコール・ミシュに通った。兄の家はプノンペンの王宮近くにあった。王の側室になっていた叔母や姉と会うため、王宮を訪れたこともあるという。
 王政は存続していたものの、カンボジアは1863年からフランスの保護下におかれていた。実質上の植民地だった。カンボジアが完全独立を果たすのは、それから90年後の1953年になってからだ。いまでも多くのカンボジア人は、あのときフランスに保護されていなければ、カンボジアはベトナムとタイによって分割されていただろうという。ベトナムとタイへの不信は根強い。
 第2次世界大戦が勃発すると、カンボジアはヴィシー政権の管理下におかれ、1941年9月にドイツの同盟国である日本の軍隊が進駐してくる。タイもカンボジアに侵攻した。そのころモニボン国王は亡くなり、孫のシアヌークが18歳で即位する。フランスにとっては、操りやすい存在と思われていた。
 サロト・サル(ポル・ポト)の学業成績はぱっとせず、プノンペンの名門高等中学リセ・シソワット[いわゆるシソワット校]にはいれず、2年留年して、1943年の秋、コンポンチャム[プノンペンの80キロ北東、メコン川沿いの都市]で開校したばかりの中学にもぐりこんだ。
 1945年になると、東南アジアの日本軍は劣勢を強いられていた。パリはすでに解放され、ヴィシー政権は崩壊した。3月13日、日本に促されて、シアヌークはカンボジア独立を宣言する。ソン・ゴク・タンが外相、のちに首相となった。
 そのころ、サロト・サルは校友のキュー・サムファンとともに、片道2週間かけて北部のアンコール・ワットを訪れ、カンボジアの過去の栄光をしのんでいる。
 日本軍が敗北したあと、カンボジアの独立は却下され、フランス統治が再開され、ソン・ゴク・タンは国外追放された。カンボジアはフランス連邦のひとつとなり、まもなく自治権も与えられることになっていた。1946年9月には、初の国民選挙もおこなわれ、ユティボン王子の率いる民主党が勝利を収めた。だが、ユティポンはその後すぐに亡くなる。
 カンボジアでは、タイの援助を受けたクメール・イサラクによる反仏運動がすでにはじまっていた。ベトナムでは、ホー・チ・ミンのインドシナ共産党が独立革命運動を開始していた。インドシナ全域に革命を広げることが目的だった。ベトミン(ベトナム独立同盟会)にとって、カンボジアは重要な後方支援地域であるばかりでなく、革命の対象と考えられていたのだ。
 1947年夏、サルは期末試験に合格し、念願のシソワット校に進学した。1年上の学年にはのちにクメール・ルージュの副首相となるイエン・サリがいた。1948年夏の終了試験に落ちたサルは仕方なく、プノンペン郊外の専門学校にはいるが、好運なことに、そこでフランスに留学できる奨学金をもらえることになった。留学生は総勢21人、その多くがのちにカンボジアの政治を担う中心人物となる。
 光の街パリ。「1950年代前半に、サル[ポル・ポト]と仲間たちがのちにクメール・ルージュの悪夢のもととなる思想の基礎を築いたのはモスクワでも北京でもなく、このパリだった」と、著者は書いている。
 1949年10月1日、サルら留学生一行はパリのリヨン駅に降り立った。王族と縁のあったサルは、ひとりの王子とともに、フランス無線電気大学で、無線工学を学んだという。かれがよく出入りしたのはカルチェ・ラタンにあるクメール学生協会だった。
 1950年夏には、国際労働隊に参加してユーゴスラビアに行き、ザグレブで道路の建設を手伝ったりもした。パリでは留学生どうしの交流がさかんになり、イエン・サリやケン・バンサク、ティウン・マム、フー・ユオンらと学習サークルを開くようになる。
 中国での毛沢東の勝利が、インドシナの植民地解放闘争に火をつける。中国は北ベトナムのホー・チ・ミン政権を支持していた。これにたいし、アメリカとイギリスは、ラオス、カンボジア、南ベトナムからなる「フランス連邦」を支援していた。
 ホー・チ・ミンの最終目的は、ベトナムを統一するだけではなく、ベトナム、カンボジア、ラオスからなる「インドシナ民主共和国」をつくることだった。そのためカンボジアでもベトミンの指導のもと、ソン・ゴク・ミンを長とするクメール人民革命党(のちのカンプチア共産党)が結成された。
 パリの留学生もこうした動きと無関係ではいられなかった。クメール学生協会は左傾化し、イエン・サリが中心となって秘密組織セルクル・マルクシステ(マルクス主義サークル)がつくられる。サル[ポル・ポト]がこのサークルに参加するようになるのは1951年秋か冬のことだった。のちにキュー・サムファン[のちのポル・ポト派幹部]も加わる。サークルでは「共産党宣言」やレーニンの「共産主義入門」、毛沢東の「新民主主義論」などをテキストとして、学習会がもたれるようになった。
 サルは共産主義に活路をみいだし、1952年にフランス共産党に加わった。かれが気にいったのは、エリートが指導する一枚岩の党というスターリンの考え方だった。党にもぐりこもうとするスパイや詐欺師、悪党には容赦ない弾圧を加えなければいけない。
 ただし、ソ連のいいなりにはならない。ベトナムやタイにたいしても独立性を保ち、カンボジアの民族独立を実現するのだと考えていた。その指針となったのが、植民地や半植民地での革命のあり方を教えた毛沢東の思想だった。
 そのころ、カンボジアの国内情勢は不安定になりつつあった。国外追放されていた元首相のソン・ゴク・タンはカンボジアに帰国し、独立運動をはじめていた。それに激怒したフランス当局がソン・ゴク・タンのデモを禁止すると、かれは北西部タイ国境の山中に逃れ、イサラク同盟と合流した。
 国王のシアヌークと民主党政権の関係もうまくいっていなかった。当時30歳のシアヌークは1952年6月に国民議会と政府を解散し、非常措置としてみずから首相の座に就いた。シアヌークの「クーデター」と呼ばれる。
 国内ではシアヌークへの非難が巻き起こった。それは海外のカンボジア人のあいだでも同じである。王政か民主主義か。サロト・サル[ポル・ポト]は王政を廃止したフランス革命を思い浮かべた。
1953年1月13日、シアヌークは勅令による統治をおこなうと宣言した。これにより、王の政策に反対を表明することはできなくなった。
 カンボジア国内が混乱するなか、ベトミンとクメール人民革命党のソン・ゴク・ミンはベトナムとの国境沿いに根拠地を築いていた。
 そんななか、サロト・サルは1952年12月25日にマルセイユを出航し、祖国に向かっていた。サイゴン(現ホーチミン)に到着したのは、シアヌークが独裁宣言を発した当日である。
 長くなったので、きょうはこのあたりで。

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