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橋本治『二十世紀』を読んでみる(5) [本]

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 文庫版では下巻。
 1946年には、すでに第2次世界大戦は終わっている。
 だが、すっかり戦争のカタがついたわけではない。
19世紀以来の帝国主義時代の清算も終わっていない。ナチス・ドイツを倒すため、かりそめに結束した米ソの対立も鮮明になってくる。
 20世紀後半は、それらの課題を解決するために費やされたようなものだ。
 インドネシア、アルジェリア、ヴェトナムなどでは、独立に向けての動きがはじまっていた。
 チャーチルは「鉄のカーテン」演説をぶち、ソ連による東欧支配を糾弾する。
 日本は虚脱状態にある。極東軍事裁判がはじまり、新憲法が公布される。ラジオからは、「素人のど自慢」の歌声が流れていた。
 1947年、アメリカで「赤狩り」がはじまる。トルーマンが社会主義とソ連を敵視するようになると、世界はたちまち「冷戦」状態に突入する。
 1948年にはベルリンが封鎖され、朝鮮半島が韓国と北朝鮮に分断される。ヴェトナムも南北にわかれる。
 とはいえ、ベビーブームの年でもある。アメリカでは「キンゼー報告」が発表され、人間の性行動に光が当てられるようになった。
 1949年、ドイツは西と東に分かれる。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言する。蒋介石は台湾に逃れ、台北を首都とする。ふたつの中国が生まれた。
 東欧はソ連の衛星国になっている。
 1950年、朝鮮戦争が始まる。北の軍隊はたちまち南のソウルを占拠し、釜山に迫った。国連軍はこれを押し戻し、鴨緑江にまで迫るが、ここで中国軍が参戦し、形勢がふたたび逆転する。
 1951年、朝鮮での戦争は膠着状態となる。トルーマンは中国に攻め入るというマッカーサーを解任し、北に停戦を呼びかけた。帰国したマッカーサーの「日本人は12歳の少年」という発言が物議をかもした。
 この年、日本はサンフランシスコ講和条約を結び、主権を回復する。アメリカとの安保条約も締結された。
 ラジオでは紅白歌合戦がはじまり、黒澤明の『羅生門』がヴェネツィア映画祭でグランプリをとる。
 日本人はマッカーサーの発言に憤激したが、はたして日本人は一人前だったのか、と橋本治は問うている。

〈日本人は、占領軍の言うことを聞いたが、自分達の手で軍国主義者を追うことはしなかった。「占領軍がそれをやってくれた」と思う日本人は、それを自分達自身の手でやらなければいけないものとは思わなかった。……その後の日本人達の戦争責任に対する認識の薄さは、おそらくそのことに由来するのだろう。〉

 日本ではGHQの指導のもと、1945年に労働組合法がつくられ、労働組合運動が活発になっていた。1947年にゼネストは中止させられるが、その後も組合運動は衰えたわけではない。
 アメリカは日本を共産主義の防波堤にしようとしていた。1951年、共産党は武装闘争方針を採用する。
 1952年、メーデーのデモ隊は皇居前広場を「人民広場」にしようとして、警官隊と衝突する。いわゆる「血のメーデー事件」である。
 国会では破壊活動防止法が成立し、追放された軍国主義者が次々復帰を果たす。
 1953年、スターリンが寿命を全うして死ぬ。まもなくフルシチョフがソ連の新指導者になる。フルシチョフは1956年にスターリンを弾劾する。この「雪解け」をみて、ポーランドとハンガリー、チェコはソ連の支配権から脱しようとするが、ソ連の戦車が進駐し、それを阻止する。
 1954年、第5福竜丸がアメリカの水爆実験で被曝する。
戦争が終わったあとも、米ソの核実験は平然とつづけられていたどころか、むしろエスカレートしていた。
 その結果、核兵器があまりにも多くなり、「うかつには戦争が出来ない」状態が生まれる。
 防御のための核兵器という考え方から「核の抑止力」という倒錯めいた幻想が生まれる。「冷戦以後の世界には“豊かさ”が溢れ、しかし、なんだか落ち着かなかった」と橋本はいう。
 この年、日本ではゴジラが映画に登場し、プロレスの力道山が人気を博した。中村錦之助主演の『笛吹童子』もヒットする。
 アメリカでは、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』が公開された。
 1955年、石原慎太郎が『太陽の季節』でデビュー。アメリカではプレスリーがはやっていた。ジェームズ・ディーンがスクリーンに登場する。若者の季節がはじまろうとしている。
 1956年、『経済白書』は「もはや戦後ではない」とうたう。日本経済が復興を遂げたという宣言だった。
 政治の世界では、前年、すでに鳩山一郎と吉田茂による「保守合同」が実現し、自由民主党が誕生している。
 橋本治は、鳩山一郎はとても政党政治家とはいえず、「公職追放にあっても不思議はない」人物だった、と書いている。いっぽうの吉田茂は「アメリカ第一主義」で、「傲慢なワンマン総理」。
 このふたりが一緒になることで、政治も復興して、戦前のよき時代に戻ったことになる。その延長上に岸信介が現れる。橋本が「日本には、他に人材がいなかったのか?」と嘆くのももっともだ。
 1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げる。日本ではそのころ「鉄腕アトム」がはやっている。
 ソ連に先を越されたアメリカは悔しがり、翌年、航空宇宙局(NASA)を発足させる。以来、米ソによる宇宙開発競争が始まる。
 人類が月に降り立つのは1969年である。だが、はたしてその目的は何だったのか。「ヤケっぱちの大人は、『月に行く』だけを考えて、その先を考えていなかった」
 スーパーのダイエーが大阪に誕生したのも1957年である。翌年、ダイエーは神戸の三宮に2号店をオープンする。
 そのころはまだデパートと商店街の時代である。私鉄の駅を拠点として団地の建設ラッシュがはじまる。
 やがて、スーパーが中途半端に高級化すると、激安店が登場する。そして、1990年代にバブルがはじけると、スーパー業界にも過剰投資のツケが回ってくる。
 だが、1958年の日本はまだ貧しく、無限の消費成長が信じられていた。大量生産がゴミの山を生みだすのは、まだ先のことだ。
 1959年4月10日、皇太子の成婚記念パレードがテレビ中継される。このころから、日本中にテレビが普及する。プロレス中継は人気番組だった。だが、橋本は「テレビの普及は、日本人の孤独と貧しさの始まりとも重なりうる」という。

〈テレビがなくても生きていられる──その豊かさを持つ日本人はいくらでもいた。だから私は飽きなかった。だからこそ「テレビがある」以外にはなにもない人の持つ“貧しさ”を感じとってしまったのかもしれない。テレビを見ているだけの人は、テレビを見ているだけで、遊んではくれないのだ。〉

 橋本治にとって、これは子ども時代の実感だった。
 つづきはまた。

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橋本治『二十世紀』を読んでみる(4) [本]

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 相変わらず、ぼちぼち橋本治の『二十世紀』を読んでいます。
 そのつづき。
橋本治流にいえば、歴史は、何かへん、バカじゃないの、と問いかけるところからはじまる。逆に、そう問いかけることが禁じられたり、無視されたりする時代はどこかおかしいということになる。権力が好き勝手なことをするときは、何かヘンで、バカなことが起きているにちがいないのだ。
 1930年代にはいろうとしている。
 早足で、そのころのことを見ておくことにしよう。
 1928年、日本でははじめて普通選挙が実施された。だが、この年には、同時に治安維持法も適用されている。普通選挙と左翼思想の取り締まりは一体となっていた。このあたりは、いかにも日本的だ。
 このころ軍部は満州を手に入れようとしている。そのため、邪魔になってきた張作霖を爆殺した。政府はこの事件を隠蔽しようとするが、真相は次第に漏れ伝わってくる。
 1929年、世界恐慌が発生する。橋本治によれば、恐慌とは、バブルがはじけることにほかならない。当時、アメリカは「世界一の工場主」であり、同時に「世界一の金持ち」だった。そのアメリカがこけると、世界中がみなこける。
 1930年、日本では浜口雄幸首相が右翼に襲われる。こうしたできごとをみると、いかにも日本は暗い時代に向かっていたようにみえる。
 しかし、暗い時代には、かえって明るいイベントが求められるのが不思議なところ。
 1930年は、関東大震災からの復興を祝う「帝都復興祭」の年でもあり、昭和天皇の即位式もあって、各地ではさまざまな行列が催されていた。
 円本ブームもあり、映画はまだサイレントながら、大流行。ラジオでは早慶戦が人気を博し、数々の歌謡曲がヒットしていた。映画館や芝居小屋の立ち並ぶ浅草はにぎわっていた。人びとは忍び寄るファシズムにおののいていたわけではなかった。
 そんな明るい雰囲気のなか、軍部は暴走する。
 1931年、満州事変が勃発する。当時は「満蒙は日本の生命線」という言い方がされていた。じつは、この「日本」とは韓国(朝鮮)のことだった、と橋本はいう。韓国こそが日本の要と考えられていた。日本人はなぜそれほど韓国がほしかったのか。それがひとつの謎である。
 帝国の妄想が膨らんで、日本はついに満州を攻略するにいたるのだが、じつは日本には満州を経営するだけの力はなかった。満州とは「ただ『勝った』という栄光の記憶」にすぎない、と橋本はいう。その栄光の記憶が日本を戦争に引きずりこんでいく元凶になる。
 1932年、軍部は国内でも暴走しはじめる。五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されたあと、政府は軍に逆らえなくなる。
 1933年、ドイツではヒトラー政権が誕生する。
 第一次世界大戦後のいじめに、ドイツは切れた。それがナチスの台頭をもたらす。ヒトラーは賠償金の支払いを拒否し、孤立と戦争への道を選ぶことになる。ドイツ国民は、そんなヒトラーに喝采した。
 1934年、ドイツではヒトラーが全権を握り、ワイマール共和国が崩壊する。そのころ、アメリカでは禁酒法が廃止され、「健全な娯楽」として、ハリウッド映画が全盛を迎える。トーキーの時代がはじまっていた。
 1935年、ドイツではニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人排除がはじまる。しかし、最初からユダヤ人絶滅政策がとられたわけではない。
「ユダヤ人、消えてなくなれ」というのが、庶民の感情である。ナチスはその感情につけこむ。
 それと同時に、ナチスはスラブ人をも排除の対象にした。ヒトラーはポーランドからスラブ人の土地を奪い、そこにドイツ人を入植させようと考えていた。それがまたドイツ人に支持される。
「スラブ人奴隷化殲滅計画の方が、ユダヤ人絶滅=皆殺しよりも先」だったと、橋本は注意をうながす。

〈人間のこわさというものは、その初めに極端で矛盾に満ちた方針を立てると、やがてそれに合わせてもっともっと極端な矛盾を冒し始め、その極端や矛盾を「極端」や「矛盾」と自覚しなくなるところにある。ポーランド人やユダヤ人を虐殺していたドイツ人達には、おそらく、自分達のしていることが殺人だという自覚はなかっただろう。……ポーランド人は強制収容所へ送られ、ユダヤ人も送られ、同性愛者も送られる。「自分達と違う者」は「いやな者、劣った者」で、そのレッテルを貼られた者は、みんな追放=処分の対象になる。矛盾と極端を容認した者は、やがてその矛盾と極端に合わせて、もっとひどいことを始める。〉

 何かへん、バカじゃないのという問いは圧殺されている。
 1936年、スペイン内戦がはじまる。スペインはその5年前に王政が倒れ、共和国になっている。だが、国内は分裂していた。1933年、フランコ率いる保守政党ファランヘ党が政権を握る。しかし、1936年に左派の諸勢力が人民戦線をつくり、政権を奪取し、保守派を放逐する。
 これにたいし、イタリアとドイツの後ろ盾を得たフランコが武装蜂起し、内戦が勃発するのだ。人民戦線はさまざまなグループの集まりだったが、スターリンがその主導権を握ろうとしたため、内部の対立が激しくなり、独立左派は抹殺された。けっきょく、スペインではフランコが人民戦線側を破り、その後、長期にわたる独裁政権を築くことになる。
 同じ1936年、日本では二・二六事件が発生する。これは陸軍の皇道派によるクーデターだったが、失敗に終わる。
 その後は統制派が軍を掌握し、事実上の軍事政権が確立する。軍は反乱軍を抑えただけではなく、政権をも握ったのだ。新たな軍事政権の最大の目標が満州の保全だったことはまちがいない。満州をより安定的なものにするために、軍は華北の一部を切り取る工作も辞さなかった。
 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋での衝突をきっかけに、日中戦争がはじまる。だが、当時は日中戦争と呼ばれていなかった。「北支事変」、「支那事変」という言い方がされていた。
 なぜ戦争でなく、事変なのだろうか。日本側は、それがあくまでも突発的な戦闘だとみていた。それに、中国の国民政府を認めていなかった。だから、国どうしの戦争ではないというわけである。
 日本は南京に傀儡政権をつくって、それを交渉相手にして、事態を収拾しようとこころみた。だが、そんなことが思い通りいくわけがなかった。

〈日本は、対戦相手の存在を無視して、この後も中国での戦闘を続ける。なるほど日本人の頭では、「戦争」ではない「事変」なのだ。相手国の存在を否定してかかる戦争などあってたまるものかと思うのだが、日本は、そのように中国を蔑視していたのである。〉

 侮蔑意識と傲慢さが、冷静な判断をできなくさせている。あとは破局まで突きすすむしかない。
 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻する。これにたいしイギリスとフランスが宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまる。
 その前に、ドイツはすでにオーストリアとチェコを併合していた。
 20世紀の大衆文化はこのころ黄金時代を迎えている。

〈不思議だが、人間というものは、豊かさの中で破滅への準備をするらしい。……第2次世界大戦前は「豊かな時代」だった。だからこそ戦争は起こったのだ。〉

 思わずうなってしまうフレーズである。
 1940年、中国との泥沼の戦争がつづくなか、日本ではいつのまにか戦時体制が敷かれていた。日本のファシズムには明確なポリシーがなく、いつはじまったかもわからない。
「『一歩踏み出した以上もう後戻りは出来ない』だけで前に進むから、いつの間にかとんでもないことになってしまっている」と、橋本はいう。
 1941年12月7日、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃する。ナチスの破竹の勢いに便乗したともいえる。しかし、すでにナチスの党内はガタガタになっており、そのことに日本はまったく気づいていない。
 1942年6月のミッドウェー海戦で、日本はアメリカ軍から壊滅的な打撃を受ける。それ以降、日本は負け続けになり、「限界以上の無茶」を重ねて、ついに焼け野原になる。
 日米開戦前の日本には「アメリカか、ドイツか」の選択肢があり、どっちがトクかはバカでも分かるのに、「日本はバカ以下だった」と、橋本は明言する。
 1943年には、とつぜん東京市が廃止され、東京都が生まれる。行政の簡素化は軍事体制と無縁ではない。「東京が『東京市』のままだったら、東京ももう少し違ったものになっていただろう」と橋本は書いている。一見よさげな都構想なるものには、注意が必要だ。
 1944年は戦争以外、何もない、と橋本治は書く。
 6月6日には連合国軍がノルマンディに上陸し、ドイツ軍は防戦一方となる。ハリウッドはのちにこの時期の戦闘をテーマに数々の映画をつくりだす。映画はいかにも悪役のナチスそここぞとばかり描き出す。これ以降「ファシズムに勝利する自由主義」がハリウッドの定番となる(『スターウォーズ』にもその伝統は引き継がれる)。
 この年、日本も敗退を重ね、ついに11月にはB29による東京空襲がはじまる。
 1945年4月28日、ムッソリーニがコモ湖畔で処刑される。4月30日、ヒトラーがベルリンで自殺する。日本は8月15日に降伏。これにより30年つづいた「戦争の時代」は終わった。
 しかし、その後も、戦争状態は世界のどこかでくり返されることになる。

〈「危機」はあっても、実際上の戦争は起こらない。“周辺”は騒がしいまま、世界の“中心”は平和だった。ある意味で、歴史はゴールにたどり着いたのである。〉

 だが、ほんとうに歴史は終わったのだろうか。それが、橋本の次の問いかけである。

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橋本治『二十世紀』を読んでみる(3) [本]

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 引きつづき橋本治の『二十世紀』を読んでいる。
 1910年代だ。
 1911年には帝国劇場がオープンする。中産階級のあいだでは「今日は三越、明日は帝劇」といわれるようなライフスタイルがはじまっている。しかし、奥さんたちが着ているのは、まだ着物である。
 平塚らいてうは雑誌『青鞜』をつくる。青鞜は青いストッキングのこと。そのころ、日本ではだれも青いストッキングなんかはいていなかっただろう、と橋本はいう。
 しかし、歴史はファッションやライフスタイルから動いていく。
 ヨーロッパでも、ファッションがシンプルになるのもこのころから。裾を引かないドレスが登場し、コルセットに替わってブラジャーが登場する。
 女性が、ただ見えるだけでなく、ますます見せる存在になっていく。
 1912年にはアルフレッド・ヴェーゲナーが「大陸移動説」を発表する。ゆるぎないと思われたこの大地が動いているという感覚。自己も絶対ではない。国家も絶対ではない。相対的なものだ。相対主義の時代がはじまっている。そのなかで、人はどのようにみずからの針路を見つければよいのだろうか。
 この年、日本では明治が終わり、夏目漱石が『こころ』を発表する。美濃部達吉はいわゆる「天皇機関説」を示した。
 中国では中華民国が成立する。世界は揺れている。
 1913年、第1次世界大戦が勃発する。それは日本にとっては、遠い欧州の戦争のように思われた。したがって、当時の名称は「欧州大戦」。まさか、それが、「第1次世界大戦」になるとは、だれも思っていない。
 日本では藩閥政治に代わり政党政治を求める声が高まっていた。いわゆる「大正デモクラシー」。政治を担うのは、元老と藩閥ではなく、国民の代表であるべきだ。
 東京では笹塚から調布まで、京王電鉄が走るようになる。すでに山手線は走っていた。だが環状線にはなっていない。その要となる東京駅ができるのは、ようやく1914年のこと。
 東京の歴史がはじまるのは、やっとこのころからだ、と橋本治は書いている。
 サラエボから火の手が上がった戦争は、ドイツ対フランス・イギリスの戦いになってしまう。オーストリアとセルビアはそっちのけ。「これを『バカバカしい』と言わずしてなんであろう」
 だが、ナショナリズムをあおって突きすすむ「バカげた」戦争がはじまるのも20世紀になってからだ、と橋本はいう。もはや、戦争は王族どうしの勝手な戦争ではありえなくなっている。
 このとき日本はドイツに宣戦布告して、中国の青島を攻撃する。戦争は好景気をもたらした。イケイケのバブルになる。そのあと、調子に乗って、中国に「二十一カ条」の要求をつきつけたりもした。
 日本は戦争をして領土を増やす(勢力を拡大する)という発想にこだわっている。それはすでに古臭い発想だった。
「近代日本の対外的ゴタゴタの原因は、日本が“市場”ではなく“領土”を求めたその古臭さによるものだろう」と、橋本。
 ヘン、バカげた、古くさが、日本の近代史を読み解くキーワードだ。
 戦争中の1916年にフランツ・ヨーゼフ1世が亡くなると、オーストリア帝国はひたすら解体への道をたどる。名門ハプスブルク家は終焉を迎える。
 1917年、ドイツを出自とするイギリスの王家はそれまでのドイツ風家名を「ウインザー家」とあらためる。
 ヨーロッパでの戦争はまだつづいていた。スイスに亡命中のレーニンはロシアに戻る。3月8日、デモとストライキの騒乱状態のなか、ニコライ2世は退位。これで、ロシアにも皇帝はいなくなり、ロシアは共和国になる。
 さらに11月6日、ボルシェヴィキの武装蜂起により、ロシアでは史上初の社会主義政権が誕生する。
 1918年、やっと第1次世界大戦が終わる。ドイツ帝国からもオスマン帝国からも皇帝が追放される。
ヨーロッパの戦死者はじつに790万人にのぼる。だが、戦争の終わりは、新たな混乱のはじまりとなった。
 1919年は冥王星が発見された年でもある(2006年まで、冥王星は太陽系の第9惑星とみなされていた)。同じ年、フロイトは「無意識」を発見する。ドイツではナチス、イタリアではファシスト党が結成される。
 1920年、日本は好景気が終わり、不景気になる。しかし不思議なことに、そのころ映画が娯楽の王者となり、雑誌が次々創刊されている。チャンバラ・ブームがはじまる。大阪では日本初のターミナルデパートが出現し、宝塚少女歌劇も創設される。
「右肩上がりの成長神話」が登場したのもこのころだ。
 大衆時代は国家(や経済)の拡大を希求する時代でもある。こうして、戦いへのアクセルが踏まれる。

〈第1次世界大戦中の好景気は、日本に「帝国主義的な世界進出」を可能にし、その後の不景気は、「この不景気をなんとかしろ」という形で、日本を帝国主義的侵略の道──戦争へと進ませる。〉

 第2次世界大戦が起こるのは、第1次世界大戦がきちんと終わらなかったからだ、と橋本治はいう。
 戦勝国は敗戦国に過剰な賠償金の支払いを求めた。取れるものなら取ろうという欲が、戦争を引き延ばし、次の戦争を引き起こすことになる。
 1922年、イタリアではムッソリーニが政権の座につく。
 イタリアが国になったのはようやく1861年になってからだ。それまでもイタリアはあったが、ひとつのまとまった国ではなかった。そこにイタリアのややこしさがある。
 第2次世界大戦を引き起こす枢軸国──ドイツ、イタリア、日本──はある意味では、いずれも新しい国だ。
 ムッソリーニが実施した武装デモンストレーション「ローマ進軍」はほんらい鎮圧されるべきであったのに、かえって国王によって評価され、ムッソリーニは首相に指名される。そのあとは、やりたい放題。その無茶ぶりがかえって喝采を浴び、それがヒトラーに引き継がれていく。
 1923年、レーニンは脳卒中で再起不能となり、翌年亡くなる。その後はスターリンが実権を握り、ロシアに恐怖政治を敷いていく。
 ヒトラーはいわゆるミュンヘン一揆をおこし、逮捕されるが、8カ月ほどで釈放され、その間に『わが闘争』を執筆する。
 日本では関東大震災が発生し、大きな被害がでるなか、朝鮮人や無政府主義者が殺害される。不安と妄想が広がっていた。
 1924年、監獄から出てきたヒトラーはバイエルンで活動を再開する。そのころワイマール共和国に反対するグループが南ドイツに集まっていた。そのなかで、ヒトラーは頭角を現していく。
 1925年、パリではアール・デコ(装飾美術)が登場する。アール・ヌーヴォーが貴族的、ブルジョア的だったとすれば、そのあとにつづくアール・デコは、きわめてシンプル。「大量生産を可能にした近代工業によって送り届けられる『中流市民のための美』だった」
 そうした簡略化された美的感覚は、その後、世界中に広がっていく。モダニズムはビジュアルなのだ。
 しかし、世の中はますます欲の時代。

〈第1次世界大戦後のヨーロッパを第2次世界大戦へと導くのは、敗戦国ドイツに対する容赦のない賠償金取り立てである。……「二度とドイツが立ち直れないくらい、徹底的に痛めつけてやれ、取れるものは全部搾り取ってやれ」という発想になる。〉

 そうした強欲が、ドイツの反発をかき立てることにフランスやイギリスはあまりに無自覚だった。
 1927年には、芥川龍之介が「ただぼんやりした不安」ということばを残して自殺する。その翌年、関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こす。
 さらに、それから3年後、満州事変が勃発する。日本はどうしても満州を取りたかった。
政党政治は阻まれ、葬られた。天皇の名のもとで、軍部が勝手にそのエゴを肥大化させる時代がはじまろうとしていた。
 きょうはこのあたりで。のんびり気ままな読書です。それにしても、橋本治という人は、近くだけでなく、ずいぶん遠くまで見ていたのだなと感心します。

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橋本治『二十世紀』を読んでみる(2) [本]

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 何かヘンだというところから始まるのが橋本治流である。
 この本では1900年から2000年までが扱われている。
ふつう20世紀といえば、1901年から2000年までというのが常識だろう。スタートが、なぜ1900年ではないのだろうか。
それは紀元1世紀を考えてみればよい。西暦の紀元はキリストの生誕によってはじまる。ところが紀元ゼロ年という年はないのだ。だから、1世紀は紀元1年から100年までということになる。
 ところが、実際にヨーロッパでは1900年に「新世紀」が盛大に祝われたという。1900年はもはや世紀末ではないという気分はよくわかる。
このころはヨーロッパの全盛時代だった。ヨーロッパで世紀という発想が意識されるようになるのは、18世紀になってからで、それまで新世紀の到来を祝うという習慣はなかったという。
 しかし、ヨーロッパにとって、20世紀は「栄光の100年」にはならなかった。
1901年、イギリスではヴィクトリア女王が死に、日本では昭和天皇が生まれる。
 橋本治はこんなふうに書いている。

〈大英帝国の象徴ヴィクトリア女王の死によって始まる20世紀とは、イギリスとヨーロッパが段階を追って没落して行く時間でもあった。第1次世界大戦があり、第2次世界大戦があり、この二つの大戦を通してヨーロッパの国力は削がれ、20世紀後半の世界はアメリカ・ソ連の二大国のものとなる。しかし1980年代になるとこの二大国も傾いて、世界は「日本の時代」になる。昭和天皇を“象徴”としていただいていた日本は、やがて空前絶後の繁栄を誇るようになり、そしてその日本は、昭和の終焉と共にガタガタになる。なぜなんだろう?〉

 いまや「米中冷戦」の時代である。
なぜ、こんなふうに歴史は動くのだろう。
 それはともかく、橋本治がおもしろいのは、大きなできごとよりも、むしろ身近なできごとに光をあてるところだ。
 日本にガスこんろが登場したのは20世紀のはじめだという。
それまでガスは灯火として使われていた。ガス灯である。それが電灯に取って代わられると、ガスはこんろとして家庭のなかにはいりこむようになる。
とはいえ、日本の一般家庭にガスこんろが普及するまでには、それから50年以上かかる。戦前は炭や薪が一般的だった。そういえば、小学校のころ、ぼくもかまどで木っ端を燃やして、ご飯をたいていた。
 1903年にはライト兄弟が空を飛んだ。グライダーはすでに発明されている。ライト兄弟が画期的だったのは、モーター・エンジン付きの飛行機をつくったことである。
自動車もすでに19世紀からあった。だが、最初はゴムタイヤがなかった。
 そのあと改良が急速に進む。1903年にはフォードが自動車会社を設立し、1909年には飛行機がドーヴァー海峡を渡り、1914年の第1次世界大戦では、すでに空中戦を演じるまでになる。
 橋本治によれば、20世紀はけっして発明の世紀ではない。

〈19世紀は、とんでもなくいろんなものが空想され、必要とされ、利用され、その結果、様々な発明発見がなされた時代なのだが、この19世紀の目覚ましさに比べれば、20世紀はろくな発明発見をしていない。〉

 20世紀になって発明されたのは「飛行機とラジオとテレビと原子爆弾ぐらい」で、ほかのものは19世紀にあらかたつくられていたというのだ。ただ、20世紀には、それらが大量に商品化され、普及し、人びとの生活を変えていくことになる。
 できるだけ大きな歴史にふれないのが、この本の特徴だが、1904年の日露戦争には「仕方なく」ふれている。
日本が近代化の道を歩んだ(つまりヨーロッパの真似をした)のは、「ボヤボヤしていたらインドや中国の二の舞い」になると考えたからだという。そして、「戦争に負けるはずのない大国」であるロシアを破ったあと、日本は朝鮮を支配し、「加害者」になった。
 1906年に夏目漱石は『坊っちゃん』を発表する。

〈夏目漱石が登場して流暢な現代文を書いてくれるまで、我々は今口にしている言葉で文章を書けなかったし、もしかしたら、話すことだって出来なかったのかもしれないのだ。〉

 ほんとうに漱石のなしとげた仕事は大きい。
20世紀にはふたつの世界大戦が発生する。しかし、それを除けば、「意外なことに、20世紀はなにごともない普通の年で満ち満ちている」と橋本は書く。
1908年にはヨーロッパやアメリカで女性運動が広がる。イギリスでは女性参政権を求めるデモ隊が国会に突入する。日本では初の女優養成所がつくられる。
1909年には上海で「国際アヘン会議」が開かれる。
アヘン戦争が勃発したのはその66年前。この時点でも、イギリスは「麻薬を売る自国民の権利」を守ろうとしていた。人に害を与える商品や、つくりすぎた商品を外国に売りつけるといった風習は、カネ儲けに由来する「悪い病気」だ、と橋本は断言する。
世界ではじめて「父の日」ができたのは1910年。「母の日」に遅れること2年。
この年、日本では大逆事件が発生する。
「大逆事件というのは、明治政府がしでかした“社会主義者への弾圧”と、暗黒裁判の典型である」
日本では「父」は圧制者の別名であり、毎日が「父の日」のようなものだった、と橋本は皮肉を飛ばす。
さて、ここまでKindleにハイライトをつけながら書いてきたが、そろそろ限界のようである。やはりパラパラとめくれる紙の本に軍配を上げたい。本にとって、パラパラとめくれるというのは、とてもだいじな要素で、ページをいったりきたりしていると、なぜか活字が頭に飛びこんできてくれるような気がするのだ。
そんなわけで、ここからは、紙の本で、のんびり『二十世紀』を読むことにする。いまのはじまりがえがかれている。

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電子本で橋本治『二十世紀』を読んでみる [本]

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 電子本ははたして読書に適しているのか。
 頭にはいるのは、やはり紙の本ではないかと思ったりするのは、読みはじめてからの印象だが、これは一種の思い込みかもしれない。最近は何を読んでも頭にはいらないのは、紙の本でも電子本でも変わらないからだ。
 電子本のひとつの欠点は紙の本のようにぱらぱらとめくれないことだ。紙の本のように関連本を何冊か並べて、比較することもできない。もっぱら単線的に読むしかない。
 ガイドには、電子本では印象深いところに赤線、いやハイライトをつけて、その部分だけを取りだすこともできると書かれている。
 そういうが、実際にタブレットでハイライトをつけるのは至難の業。けっきょく、ハイライトをつけるには、パソコンに導入したKindleを利用するほかない。しかも、その前後の脈絡をもう一度見直すのはとても面倒だ。
 紙の本とくらべて、電子本のメリットは、場所をとらないこと。それに古典なら、本を探すための時間や手間を節約できること。ぼくの場合でいうなら、マーシャルの『経済学原理』の原文をチェックするときに、ネットでその全文を簡単に見つけることができた。
 いまも読んでみたい本はいくらでもある。たとえば熊野純彦の『本居宣長』。これは電子本になっていない。
 家の本棚のスペースを考えると、これからそう長くない人生で、また分厚い本を何十冊も買いこむのは、何かとためらわれる(それに買ってしまうと、それだけで満足して、けっきょく何年も積んだままになってしまうという悪癖もある)。
 平山周吉の『江藤淳は甦える』は、紙の本で買って読みはじめた。中身がいささかしんどいのに加えて、もつだけで重い。電車のなかでは(といっても、最近、遠出することもほとんどないが)、とても読めない。立ったまま、うとうとしたりすれば、たいへんだ。
 いま迷っているのは佐々木実の『資本主義と闘った男──宇沢弘文と経済学の世界』だ。これは紙の本と電子本がでている。紙の本だと642ページだが、電子本だと持ち運べるKindleに収まる。さて、どうしたものか。
 相変わらず、そんなつまらぬことをかんがえながら、電子本を読むための実験として、橋本治の『二十世紀』(上)(下)を買ってダウンロードしてみた。
 この本は2001年、つまり21世紀になった途端に出版されているから、その素早さといいひらめきといい、橋本治にはやはり脱帽である。かれの本は何冊かもっている。しかし、吉本隆明と同様、いつも流し読みしてきた。
 古今東西の典籍を磁石のように引きつけて、いつまでも元気に活躍するだろうと思いこんでいただけに、ことし亡くなったのを知ってショックを受けた。
 こちらは、まだのうのうと生きている。それで、橋本治をちゃんと読みなおそうと思って、電子本で『二十世紀』をダウンロードしたわけだ。
 ところが、ある日、本棚をながめていたら、すでにちくま文庫の『二十世紀』が上下とも鎮座しているではないか。電子本の返品はできないし、後の祭りである。これも、何かのおぼしめしである。
 そうそう、電子本のもうひとつの欠点、それは参考文献を示すさいに、紙の本のように、何ページからの引用というように、引用箇所を示すことができないことだ。ぼくの場合は、文字を大きくし、行間を広くして読んでいるから(これは電子本のメリットである)、ほかの人とはページ数がことなってくる。どこかにオリジナル本のページ数を示してあればいいのだが、参考文献として挙げるときには、どうしていいかわからない。
 ごたくはこれくらいにして、さっそく読んでみることにする。もっとも、ぼくの場合は、頭の回転が遅くなっているので、毎日ほんの少ししか読めないのはいたしかたない。
 まず「総論」だ。
 むずかしい。橋本治には、わかりやすさのわかりにくさがある。じつは難解というのが、最初の印象だ。そのわかりにくさは、おそらく橋本治が頭でかんがえる人ではなく、からだでかんがえる人であるところからきている。
 20世紀はどのような時代としてとらえられているか。
 これはあたりまえのことなのだが、20世紀になったからといって、19世紀とはまったくことなる時代がやってきたわけではなかった。それは平成が令和に変わっても、何も変わらないのと同じ。
「実際のところ、20世紀とは、終わってしまった19世紀の痕跡を、90年もかけて消そうとしている世紀だったりもする」と、橋本も書いている。
 19世紀とは何か。それは戦争と侵略が肯定された時代だった。この国家の膨張を称賛する発想が陳腐に思えるようになったのは、20世紀の終わりになってからだという。
 二度の世界大戦と冷戦時代をへて、大国どうしが戦争をおこす可能性はほとんどゼロになった。植民地はなくなり、大国による小国の支配も無意味と感じられるようになった。いいかえれば、20世紀は、19世紀の帝国主義と植民地主義からの脱却をめざす苦闘の世紀だったというわけだ。
 たとえば1900年と2000年では、世界の国の数は圧倒的に増えている。現在の国際連合加盟国数は193カ国なのに、かつての国際連盟加盟国数は63カ国にすぎなかった。そのこと自体、帝国主義と植民地主義の時代が終わったことを示している。
 とはいえ、新たな国家の誕生は、しばしば戦争をともなう。20世紀に(そしていまも)戦争がなくならなかったのは、そのためでもある。そのことをつけ足しておく必要があるだろう。
 それでも、橋本治のいうように、帝国主義と植民地主義の時代は、少なくとも終わりを告げた。
19世紀から20世紀にかけて、国家の膨張と衝突が起きた背景には、何があったのだろう。その背景には「商売」があった、と橋本治はいう。つまり、このころから資本の時代がはじまったのだ。
「貿易と戦争=侵略は切っても切れないもの」だった。そういわれると、ちょっとぎくっとするが、イギリスとインド、中国のいわゆる「三角貿易」を考えると、まさにその通りである。商品は国家の先兵でもあった。
 橋本のいうように「植民地獲得競争は、原材料の確保競争でもあるし、輸出商品のマーケット獲得競争でもあった」。
 しかし、20世紀には、資本の膨張に後押しされて国家が膨張するといった帝国主義的行動は、徐々に忌避されていく。経済競争が時に貿易戦争にエスカレートしても、それが国家間の戦争に結びつくことは想定されにくくなった。
 20世紀には、国家は国家、経済は経済と、分離して考えられるようになった。その反面、国家と経済がますます結びつきを強めているのも事実だ。そうしたGDP至上主義体制のもとで、人は日夜、経済戦争を強いられている。
 この先、人はいったいどこに行くのだろうか。
 ハイライトした部分を抜き書きしてみよう。

〈世界史に名を残す産業革命は、人間に「作り過ぎたからいらない」という知恵を与えず、「作ったものは、全部、押しつけてでも売れ」という暴力を生んだ。この事態は今でも続いて、「多すぎるゴミの山」という結果を生み出している。〉

〈物は作られ過ぎて、「新たに物を作る」ということ自体が、もう不必要なことになっていた。だからこそ、〝投資先〟というものがなくなって、「新たなる金儲けのために使われるべき金」は行き場をなくした。バブルの金が、株だの不動産だのへと向けられたのは、そのためである。〉

〈必要な物は作る、必要じゃないものは作らない」――こういう原則を確立しないと、このイライラとした落ち着きのない世界は、平静にならない。手っ取り早く言ってしまえば、私は、産業革命以前の「工場制手工業」の段階に戻るべきだと思う。〉

 もはや商品には使用価値と交換価値があるなどとすましてはいられない。冷蔵庫や掃除機、クーラー、自動車、パソコンにせよ、いったん使い出したら、それなしにはいられなくなる。商品は世界化されていく。もう、これ以上は必要じゃないという線は、いったいどこに引けばいいのだろう。
 橋本治はすでに21世紀の課題を示していたといってよい。すべては「何かへんだ」と思うところから始まるのである。
 これで「総論」は終わり、次は1900年から2000年までのできごとが、1年ごとにつづられている。すごい。少しずつでも読まなくちゃ。
 ところで、繰り返しのぐちになるが、kindleで読む電子本が、よく頭にはいってこないのはどうしたわけか。
 タブレットはたしかに軽くて便利だが、あくまでも流し読み用にしか役に立たないと思う。ハイライトもつけにくい。この原稿を書くだけでも、パソコン上のKindleを利用せざるをえなかった。すると、やっぱり紙の本かと思ってしまうのだが、まだ結論は早い。もう少し、実験をつづけてみることにしよう。

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テクノ人間至上主義とデータ教──『ホモ・デウス』を読む(6) [本]

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 今回は最終回。人類の未来予測図がえがかれる。
 これからは新しいテクノ宗教の時代がやってくる、と著者はまず断言する。宗教がテクノ化するわけではない。テクノロジー信仰がますます強まるというわけだ。
 ただし、同じテクノロジー信仰でも、そこには人間至上主義とデータ至上主義のふたつの宗派があるという。
 人間至上主義について、著者はまず説明する。
 森羅万象の頂点にある人間は、テクノロジーを活用して、自分の頭脳を積極的にアップグレードして、ホモ・デウス(神の人)に進化する。こう予言するのが人間至上主義だ。
 この宗派に、著者はいささか懐疑的だ。
 人間の意識ははたしてアップグレードできるものなのだろうか。心の研究はじゅうぶん進んだとはいえない。サピエンスの心のスペクトルはごく一部しかわかっていない。精神疾患についても、まだはっきりと解明されているわけではない。宗教的神秘主義のもたらす精神世界もまだヴェールに包まれている。
 ネアンデルタール人の意識については想像することさえもむずかしい。人間以外の動物の意識について、人はほとんど知らない。コウモリやチョウやモグラやトラは、いったいどんな感じで生きているのだろうか。
 地球上の進化史には、はてしなく多様な精神状態が存在する、と著者はいう。
 心のことがよくわかっていないのに、心をアップグレードしようというのは、あまりにも大胆なこころみだ。著者はそう考えている。
 求められる感じ方は、時代によってことなる。古代人にくらべ、おそらく、現代人の嗅覚は衰えてしまっている。視力や周囲への注意力も、古代の狩猟採集民のほうが現代人より格段にすぐれていたにちがいない。現代人は夢見の能力もほとんど失ってしまった。とはいえ、現代には現代なりに必要な意識がある。
 テクノ時代の人間至上主義は、テクノロジーによって人間の心の状態を高めようとする。たとえば電極つきのヘルメットをかぶって、注意力を高めるのもその方法のひとつだ。向精神薬や抗うつ剤もそうしたテクノロジーのひとつであかもしれない。
 だが、そうしたテクノロジーは、国家や組織に都合のよい人間をつくりだすことを目的にしているのではないかと著者は疑う。
 テクノロジーは人間の内なる欲求を抑えこんで、一心に仕事ができる安定した感情を引きだしてくれる。だが、欲望や感情を制御したりデザインし直したりするだけでは、人間の能力を高めることにならないのではないか。
 著者が支持するのは、むしろデータ至上主義というもうひとつの宗派である。これはテクノロジーによって、人間の認知能力を高めるやり方といってよい。
 データ至上主義は人間に革新的なテクノロジーと、計り知れない新しい力を提供する。それは「科学のあらゆる学問領域を統一する、単一の包括的な理論」をつくりだすだろう、と著者はいう。
 現代人はもはや膨大なデータの流れに対応できなくなっている。人間の知識や知恵はあてにならない。データ処理は電子工学的なアルゴリズムにまかせるほうがよい時代がはじまっている。
 資本主義が共産主義を打ち負かしたのは、中央型の集中的データ処理をおこなうソ連型の経済が、分散型のデータ処理をおこなうアメリカ型の経済に立ち後れてしまったからだ。司令部だけしかデータ処理ができないのではなく、分散した組織が主体的にデータ処理をするほうが、能力として圧倒的にすぐれているのはいうまでもない。
 とはいえ、いまでは民主主義ですらテクノロジーに対応できなくなりつつある。「従来の民主主義政治はさまざまな出来事を制御できなくなりつつあり、将来の有意義なビジョンを私たちに示すことができないでいる」
 ポピュリストのトランプ、独裁者の金正恩やプーチンも、自国主義を声高に主張するだけで、いかなる世界ビジョンも持ちあわせているわけではない。
 だが、それはある意味ではいいことだ。「神のようなテクノロジーと誇大妄想的な政治という取り合わせは、災難の処方となる」
実際、われわれはこれまで陰惨なナチスのビジョンや、壮大な社会主義の計画に振りまわされてきた。
 かといって、著者はけっして市場万能主義者ではない。「私たちの未来を市場の力に任せるのは危険だ」と述べているからだ。やみくもな市場の力は、地球温暖化の脅威やAIの危険な潜在力を見過ごしてしまうかもしれない。
 世界の現在のシステムはあまりにも複雑になっている。ところが、政治家や実業家は狭い視野しかもたず、ひたすら自国や自社の利益を追求するばかりだ。
そこに著者は危惧をおぼえている。これからの人類のシステムを構築し、制御するには、政治家や官僚に頼らず、何か別のものを考えなければならないという。
 データ至上主義の視点に立つと、人類という種は「単一のデータ処理システム」であって、一人ひとりの人間は「そのシステムのチップ」の役割を果たしているにすぎない。すると、問題はこのデータ処理システムをいかに高度化していくかである。その前提としては、自由な情報ネットワークを拡大していくことが必要になる。
 人類の目標は「全世界を網羅するような単一のネットワーク」をつくりあげていくことだ。
 現在、こころみられているのは「さらに効率的なデータ処理システムの創造」だである。それができあがれば、ホモ・サピエンスは消滅し、ホモ・デウスが誕生する、と著者は予言する。より効率的なデータ処理システムは、情動に左右され、限定された知的能力しかもたない人間よりもはるかにすぐれている。
 すべてのものをデータ化し、インターネットにつなぐこと。自由で制限のない情報とものの流れをつくること。それによって、人びとの生活ははるかに効率的になる。
たとえばスマート・カープール・システムを考えてみよう。いまは、ほとんどの自動車が、だいたいの時間、駐車場に停まっている。ところが、スマホによって、いつでも必要なときに車が利用できるようになればどうなるだろう。
 10億台の自家用車はいらなくなり、5000万台の共同利用型自動運転車があれば用を足せるようになるのではないか。そうなると、道路やトンネル、駐車場もはるかに少なくてすむ(このアイデアはすばらしい)。それは人びとにより快適な空間をもたらすはずである。
 個人を神聖視する人間至上主義はもう時代遅れになりつつある。「個人は、誰にもわからない巨大なシステムの中で、小さなチップになってきている」。私はすでに容赦ないデータの流れのなかにいる、と著者もいう。
 人はデータフローと一体化する。それを見守るのはコンピューターのアルゴリズムだ。昔はどこに行ってもカメラをぶら下げている日本人旅行客はばかにされたものだが、いまではだれもがスマートフォンを取りだし、写真をとってはフェイスブックに投稿し、どれだけ「いいね!」をもらえるかを気にする時代になった、という指摘もおもしろい。
 しかし、ホモ・サピエンスのアルゴリズムは、21世紀のデータフローに対処できなくなりつつある。人間がそれ自体神聖だという主張も、データ至上主義革命のあとでは、むなしいものになっていくだろう。もはや人間の心や感情はすぐれたアルゴリズムではない。
 巨大なデータベースから生まれるアルゴリズムに耳を傾けるべきだ、と著者はいう。自分自身を知るにはDNA配列を調べたり、自分のデータをチェックしたりするほうが、山に登ったり、瞑想したりするよりもずっといい。いまやコンピューターのアルゴリズムのほうが、人間よりはるかにすぐれたものになっている。
 データ至上主義革命の勢いはとまらない。人間はデータの奔流にのみこまれ、溶けて消えようとしているようにもみえる。
 AIとバイオテクノロジーは世界を確実に変容させる。世界はかつてないほど急速に変化しており、人の手に負えないほどのデータやアイデアが押し寄せている。
 そこで、著者は最後にこう問う。

〈意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?〉

 AIとバイオテクノロジーが、政治や経済、社会、文化を大きく変えようとしていることは事実である。それに応じて、人はホモ・サピエンス(賢い人)からホモ・デウス(神の人)に進化しようとしているというのが著者の主張だ。
 しかし、ひそかに思うに、ホモ・サピエンスが自称であるように、ホモ・デウスもまたキャッチフレーズにすぎないのではないだろうか。いくら文明が発展しても、人が愚かで時に悪魔になりうる存在であることは変わらない。
 たしかにコンピューターのアルゴリズムを駆使してものごとの判断を下す人のほうが、一時の興奮に駆られ、狭い了見から取り返しのつかない決定をしてしまう人よりましかもしれない。しかし、コンピューターのアルゴリズムが、人類の滅亡を招く事態も考えられないわけではない。
 神をめざす西洋の知は、無を根柢とする東洋の知によって相対化されないかぎり暴走を招くと感じるのは、ぼくだけだろうか。

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自由主義の崩壊──『ホモ・デウス』を読む(5) [本]

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 本を読むのが、ほんとうに遅い。
 しかも、最近はなかなか頭にはいってこない。それに、すぐ忘れてしまう。
 脳天気なのは、そのためかもしれない。
 きょうも『ホモ・デウス』のつづきを読んでいる。
 21世紀の科学は、自由主義の土台を崩しつつある、と著者は書いている。
 自由主義者は人間には自由意志があると信じている。だが、最新の生命科学は、人間というブラックボックスには魂も自由意志も自己もないことを証明したという。
 生命科学によると、人間の行動は、遺伝的素質にもとづく脳内の電気化学プロセスの結果にすぎない。そこには自由意志の入りこむ余地はない。
 動物はすべて遺伝子コードにもとづいて行動する。人は脳内の生化学的プロセスの生みだした欲望にしたがって行動しているにすぎないという。したがって、「現実には意識の流れがあるだけで、さまざまな欲望がこの流れの中で生じては消え去るが、その欲望を支配している永続的な自己は存在しない」。
 欲望や感情は薬物や遺伝子工学や脳への刺激によってコントロールできる、と著者はいう。実際、心的外傷後ストレス障害に悩む兵士の脳にコンピューターチップを埋め込む実験もおこなわれている。
感情をコントロールするには、ヘルメット状の電極付き「頭蓋刺激装置」をつけてもよい。このヘルメットをつけると、人はおだやかな気持ちになり、ほかのものに気を取られず、勉強や仕事に集中できるらしい。
 著者によれば、本物の自己が実在するというのも、ただの神話だという。人間は寄せ集めの分割可能な装置からできている。
 脳の右半球と左半球は、それぞれ体の反対側を制御し、それぞれが異なった認知活動にかかわっている。脳の研究は現在かなり進んでいる。脳がまことしやかな物語をつくりだすこともわかっている。
 私たちにはほんとうの自己があるのか、と著者は問う。そして、こんな例を挙げる。

〈たとえば私は、新年を迎えて、これからダイエットを始めて毎日スポーツジムに通うと決意したとしよう。……だが翌週、ジムに行く時間が来ると……私はジムに行く気になれず、ピザを注文してソファに腰を下ろし、テレビをつける。〉

 ここにはふたつの自己がせめぎあっている。人間には、物語をつくりだす自己と、経験にひきずられる自己があって、どちらがほんとうの自己かは決定しがたい。だから、人間には明確で一貫した自由意志があるという考え方は、そもそも疑わしいというのだ。
 物語は一人歩きする。とくに国家にまつわる物語は、じっさいの経験を超えて、共同幻想として祭りあげられることが多い。そして、国のためにという共同幻想が大衆にファシズムやポピュリズムを選択させる。
 都合のいい物語は国家だけにあてはまるわけではない。企業でも同じだし、結婚だってそうかもしれない。そもそも人は自分はこういう人間だという幻想の物語をつくって生きているのだ。

〈ところが生命科学は自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語にすぎないと主張する。脳の生化学的なメカニズムは刻々と瞬間的な経験を創り出すが、それはたちまち消えてなくなる。……物語る自己は、[テレビや映画や小説、その他のメッセージを混ぜ合わせて]はてしない物語を紡ぐことによって、この混乱状態に秩序をもたらそうとする。その物語の中では、そうした経験は一つ残らず占めるべき場所を与えられ、その結果、どの経験も何らかの永続的な意味を持つ。だが、どれほど説得力があって魅力的だとしても、この物語は虚構だ。〉

 ほんとうは自由な個人などいない、と著者はいう。いまあるのは「はなはだ有用な装置や道具や構造の洪水」だけだ。
 もはや人間は重要性を失いつつある。ハイテク技術があれば、戦場でも工場でも、みごとに成果を挙げることができるのだ。「今では、そのような仕事を人間よりもはるかにうまくこなす、意識を持たない新しい種類の知能が開発されている」
 現在求められているのは知能であって意識ではない、と著者はいう。
車が自動運転になり、コンピューター・アルゴリズムによって制御されれば、自動車事故は大幅になくなるだろう。手作業の労働者はすでにロボットや3Dプリンターに取って代わられようとしている。銀行や証券会社、旅行業の仕事もいまやコンピューターが管理してくれる。教育もその人の学習段階に応じて、デジタル教師が対応したほうが、よほど効果が得られるようになっている。医者が患者を診断し、適切な治療法をほどこすときも、たよりにするのはコンピューターだ。
 AIは疲れたり、おなかをすかせたり、病気になったりしない。いつでも問題を発見し、対応してくれる。
 知能が高くて、意識をもたないアルゴリズム(コンピューターによる計算と判断)が普及したら、人間の仕事はなくなってしまうだろう。昔ながらの仕事が時代遅れになるのはまちがいない。
顔認証も機械で簡単にできる時代だ。チェスや囲碁もコンピューターのほうがすでに強い。人間の認識をコンピューター・アルゴリズムに置き換えるのはますます容易になっている。
 いまではバッハ風であれ、モーツァルト風であれ、あるいはロックであれ、コンピューターに頼めば、きわめて短時間に、さまざまな楽曲をつくってくれる。しかも、その曲を聞いた人びとは感動するのだ。
 21世紀には労働者階級ならぬ無用者階級が誕生するだろう、と著者はいう。保険業者、銀行の窓口係、スポーツ審判員、レジ係、レストラン調理師、パン職人、ウェイター、ツアーガイド、運転手、建設作業員、弁護士アシスタント、警備員、船員、公文書保管員などの仕事はAIに取って代わられる。
 そうなると、無用者階級はどのようにして毎日をすごすのだろうか。おそらく食べものや支援には事欠かない。すると、薬物とコンピューターゲームが一つの答えかもしれない、と著者はいう。ぞっとする世界だ。
 もはや人間は自律的なシステムではない。人びとは「自分のことを、電子的なアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターされ、導かれている生化学的メカニズムの集まりと考えるのが当たり前になるだろう」。
 人は自分よりもミスを犯さないアルゴリズムに自分の人生の選択をまかせるようになる。コンピューターは人になすべきことをアドバイスする。アンジェリーナ・ジョリーは、遺伝子検査にもとづいて、がんになることを避けるために、療法の乳房を切除する手術を受けた。DNA検査市場は急激に発展している。
コンピューターによって集められたビッグデータは、さまざまな情報を提供する。たとえばいまインフルエンザがどれくらい流行しているか、人びとがどんな食べ物を好んでいるか、何を望んでいるか、どんなことに悩んでいるか、どんな不満を持っているか、などなど。実際、グーグルはこうしたツールを開発しようとしている。
 将来、人は自分の選択をコンピューターにゆだねるようになる、いやすでにそうなっていると著者はいう。実際、自分自身よりもコンピューターのほうが自分のことをわかっているのだ。そうなると人間は「個」ではなくなり、「巨大なグローバルネットワークの不可分の構成要素となる」。
 民主主義の危うさは、選挙が近づくと政党や候補者が耳に心地よい政策を次々と打ちだして、ほんとうの論点を隠してしまうことに象徴されている。その結果、社会の破滅をまねきかねない人物が、社会の代表として選ばれることになりかねない。
 そんなことなら、グーグルやフェイスブックに投票権をゆだねたほうが、データにもとづいた判断ができるはずだ、と著者はいう。人間はいっときの雰囲気に流されやすいからだ。もはやグーグルやフェイスブックのほうが客観的な政治データを蓄積している。だから、選挙よりもグーグルやフェイスブックのほうが正しい答えを出すのではないか、と著者は皮肉る。
 グーグルやフェイスブックのコンピューター・アルゴリズムは、いまや巫女のような存在になっている。実際、人は車の運転をするときも、すでにナビに従っているのだ。マイクロソフトのコルタナやグーグル・ナウ、アップルのシリも、利用者の好みを知り、次にどうしたらいいかを教える装置になろうとしている。

〈やがて、私たちはこの全知のネットワークからたとえ一瞬でも切り離されてはいられなくなる日が来るかもしれない。……21世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転させ、人間から権威を剥ぎ取り、その代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない。〉

 無数の人がすでにそうした状況を受け入れている。存在するのはアルゴリズムのメッシュであって、個人という中枢はなくなりつつあるのだ、と著者はいう。
もはや自由主義と大衆の時代は終わりつつある。テクノロジーの発展は「大量の無用な人間と少数のアップグレードされた超人エリート層」を生みだそうとしている。
 少数の特権的エリート階級は常に一般大衆の先を行く。かれらはアップグレードされた超人をめざしているのだ。
 そうなれば、人類はいったいどこに向かうのかというのが、著者の最後の問いである。

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人間至上主義──『ホモ・デウス』を読む(4) [本]

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 近代の思想は、神がいなくても人間には意味があることを示すことに向けられてきた、と著者はいう。その中心は、いわば人間至上主義だ。人間はいまや神に代わって善や正義、美を定義できるようになった。
 いまでは人間が意味の源泉であり、自由意志こそが最高の導き手と理解される。人はみずからの心の声にしたがえというわけだ。
 人は神の定めによってではなく、愛によって結婚するようになった。愛がなくなれば、離婚も許される。愛しあっていれば、同性結婚も認められる。
 政治プロセスにおいても、民主主義、すなわち有権者の自由な選択が最高の政治的権威であるという考え方が広まった。
 芸術や音楽も、いまや神によってではなく、人間の内なる声によってつくられ、評価されるものとなった。人びとが芸術と思えば、それは芸術なのだ。
 経済を動かすのも、いまや消費者の自由意志だ。消費者が買ってくれない商品は価値がない。逆に消費者ができるだけ安い肉を求めるなら、遺伝子操作で家畜を改良することも許される。すべては消費者の欲望や欲求を満たすことにある。
 そんなふうに著者はたたみかけている。
 もはや神はいなくてもよくなった。「神の存在を信じていると言っているときにさえも、じつは私は、自分自身の内なる声のほうをはるかに強く信じている」と、著者はいう。
 人類はもはや神と切断されたのだろうか。
 現在において知識はデータにもとづくものとされる。そこには倫理的判断が入りこむ余地はない。
とはいえ、人間社会は価値判断なしにはつづかない。そこで登場するのが、経験と感性だ、と著者はいう。ここではヒューム流の経験論が復元されようとしているとみてよい。
 経験と感性はどちらも主観的な現象で、それは積み重ねられていく実用的な技能である。現代人の目標は、いわば経験と感性を通じて、知識を深めることにあるとされる。これも一種の人間至上主義だ。
 いまや戦争も神の視点からはとらえられない。戦争に関しても、個人の経験こそが意味の源泉なのだ。個人の感性に訴えることから、戦争ははじまる。
 ただし、人間至上主義にもいろいろな立場がある、と著者はいう。だれもがかけがえのない個だとする人間至上主義もあれば、社会主義こそが人を解放するという人間至上主義もある。さらに、ファシズムは、この世はジャングルであり、優秀な人間が劣悪な人間のうえに君臨すべきだと唱える。これも進化論的人間至上主義だという。
 20世紀に自由主義、社会主義、ファシズムの3つの人間主義は相争い、当初は左右両側から叩かれていた自由主義が、けっきょくは勝利を収めた。
「自由民主主義は歴史のゴミ箱から這い出し、汚れを落として身なりを整え、世界を征服した」と、著者は書いている。これが20世紀末の状況だ。

〈20世紀全体が、とんだ間違いのように見える。人類は自由主義のハイウェイを疾走していたが、1914年春、道を誤って袋小路に入り込んだ。その後、80年の年月と3つの恐ろしいグローバルな戦争を経てようやく、もとのハイウェイに戻ることができた。……自由主義は依然として個人の自由を何よりも神聖視するし、相変わらず有権者と消費者を固く信用している。21世紀初頭の今、生き残ったのは自由主義だけなのだ。〉

 いまや個人主義と人権、民主主義と自由市場という自由主義のパッケージに替わるものはない、と著者はいう。共産主義を掲げる中国ですら、いまやこの方向に進んでいる。イスラム過激派は自由主義に替わる何の代替物も提供していない。
 これからはますますAIの時代にはいっていく。
 高度なテクノロジー社会のなかでどう生きるかという答えは、どの聖典にも書かれていない。古い宗教的教義にもとづく政治運動は、しょせん反動しかもたらさない。イスラム過激派がそうだし、それはマルクス主義も同じである。
 けっきょく進歩の汽車に乗りそびれた人は取り残されるのだ、と著者はいう。「この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある」
 新しいテクノロジーについていけなかった社会主義は没落し、それに適応した自由主義は生き残った、と著者はいう。『資本論』を読む暇があるなら、インターネットとヒトゲノムを勉強したほうがいい、とも。
 キリスト教もイスラム教もいまや新しいテクノロジーに対応できなくなっている。宗教の聖典はもはや創造性の源泉ではなくなっている。

〈伝統的な宗教は自由主義の真の代替となるものを提供してくれない。聖典には、遺伝子工学やAIについて語るべきことがないし、ほとんどの司祭やラビやムフティーは生物学とコンピューター科学の最新の飛躍的な発展を理解していない。〉

 だが、こうしたテクノロジーが発展するなかで、民主主義と自由市場も時代遅れになる可能性もある、と著者はいう。
 それでは、われわれはどこに向かおうとしているのか。これが、最後の第3部の問いになる。
 これについては、また次回読むことにしよう。

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ホモ・サピエンスがつくる世界──『ホモ・デウス』を読む(3) [本]

 なかなか先に進まないのですが、きょうはようやく上巻から下巻にはいります。
 ひま老人の特権で、のんびり読んではいるのですが、とかく挫折しそうになります。ともかく読書メモだけでもまとめておきましょう。そうしないと、すぐに忘れてしまうので。
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 サピエンスは神や国家、貨幣や企業を生みだし、取り入れたり排除したりして自然を改造し、さまざまな構築物や文化、製品を生みだしてきた。こうして、歴史は「虚構の物語のウェブを中心にして展開し」、人類は、いまや石器時代からシリコン時代にいたった、と著者はいう。
 7万年前、サピエンスは想像力をもつようになった。いわゆる認知革命だ。そして、「虚構のウェブ」のもとで協力しあう関係をつくりあげた。
 農業革命は神々の物語を生みだした。初期の都市では、神殿が信仰の中心であるだけでなく、政治や経済の中心ともなった。
 人間の協力関係を拡大したのは、書字と貨幣である。エジプトでは生き神であるファラオのもと、官僚たちが文字と貨幣を活用して国を支配した。
 ファラオはいわば国のブランドだった。生き神ファラオのもと、官僚たちが文書にのっとって、手順(アルゴリズム)どおり、国を動かしていく。
 エジプト人は鉄器や車輪もない時代に、石や木の道具だけを使って、ナイル川の水量を調整するファイユームの湖とピラミッドをつくった。それはエジプトに卓越した組織力があったからである。ここに国家という虚構のはじまりをみることができる、と著者はいう。
 重要だったのは文字の発明である。官僚たちは文書を通して、国の現実をとらえるようになった。文字は現実を作り替える強力な手段となった。だが、それはときに官僚たちによる虚偽や災厄をもたらす原因ともなった。
(どうやら、ものごとをポジティブ、ネガティブの両面でとらえ、そのあいだを行ったり来たりするところに、著者の思考の特徴があるようだ。)
 とりわけ文字が力をもつにいたったのは、聖典の完成によってである。聖典は社会の秩序をつくりだす。「自己陶酔的な妄想」こそが聖典の本質だ、と著者は断じてはばからない。
権力は虚構の上に成り立っている。政府が印刷した紙切れが紙幣として通用するのは、それが価値をもつという虚構が信じられているからだ。
 だが、虚構には代償がともなう。問題はその虚構がどれだけ正しい物差しなのかということだ。現実は常に虚構を見据えている。
たとえば「ファラオ統治下のエジプトは当時最強の王国だったが、ただの農民にとっては、王国の力は医療機関や社会福祉事業ではなく税と強制労働を意味するだけだった」。
それはエジプトにかぎらず、その後の世界の帝国でも似たり寄ったりだった。幸せという点では、人間は狩猟採集時代のほうがずっと幸せだった、と著者はいう。
 虚構は人間の協力ネットワークをつくりだす。
 しかし、最後は現実をみるべきだ、と著者はいう。国家や企業の物語ではなく、喜びや苦しみの現実を。

〈歴史は単一の物語ではなく、無数の異なる物語なのだ。そのうちの一つを選んで語るときには、残りをすべて沈黙させることを選んでいるわけである。……
虚構は悪くない。不可欠だ。……だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。〉

 歴史には表通りと裏通りがある。
 近代の科学も新種の神話だ、と著者はいう。それは神を信じるのと変わらない。いまやコンピューターと生物工学のおかげで、虚構と現実の境すらあいまいになりつつある。
 宗教はいまも生きている。共産主義や自由主義もひとつの宗教である。それは自分の考え方だけが正しいと信じる信仰にほかならない。「宗教とは社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段である」と、著者は断言する。
 宗教には神の名を借りた倫理や権力が隠されている。
 これにたいし、科学は事実にもとづくと主張する。聖書やキリスト教の文書が、倫理や法の正統性を主張するのは、何の科学的根拠もない、と著者はいう。
 実際には、倫理的判断と科学的判断を区別するのはむずかしい。人びとに幸福をもたらすと称して下される科学的判断がいつも正しいともかぎらない。
科学的判断だけでは、社会の秩序を維持できない。そこで、国家や宗教の導きが必要になってくる、と著者はいったん突き放した国家や宗教に戻ってくる。
「科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する。したがって、両者は相性が良い」と、著者は意外なことを書いている。
 とはいえ、テクノロジーと経済の進歩を止めることはできない。
 現代を揺り動かしてきたのは、科学の進歩と経済成長である。近代以前は科学も経済成長も眼中になかった。
 近代にはいると、信用にもとづく経済活動が活発になり、次々と新規事業が生まれるようになった。
 現代は経済成長があってあたりまえの時代となった。生産が増えれば消費が増え、それによって人びとがより幸せになると、だれもが信じるようになった。
人口が増えれば、現状を維持するだけでも経済成長が必要になる。だが、それ以上に、人びとはより多くのもの、より便利なもの、より幸せになるものを求めはじめる。
こうして、経済成長こそが人生の目標を実現する鍵と考えられるようになり、政府自身もGDPを国家指標とするようになった。いまや経済成長の信奉は宗教の域に達している、と著者はいう。
 しかし、「より多くのもの」を求める価値観は、環境破壊や社会的不平等、伝統の破壊をもたらした。忙しい経済生活を優先するために、家族の絆もしばしば無視されている。
 著者は資本主義は現代の宗教と呼ばれてもおかしくないという。
だが、「天上の理想の世界を約束する他の宗教とは違い、資本主義はこの地上での奇跡を約束し、そのうえそれを実現させることさえある」。
飢餓と疫病が克服され、暴力を減らし寛容さをもたらしたのも、資本主義のおかげである。
著者は資本主義は宗教だといいながら、こんどは資本主義の擁護に転じる。
 資本主義の第一の戒律は投資せよである。投資こそが経済の拡大をもたらす。資本主義のサイクルはけっして止まらない。資本主義はけっして歩みをとめない。勝つためには投資をつづけ、成長を求めなければならない。
 だが、経済ははたして永遠に成長することができるのだろうか。経済の拡大を支えるのはエネルギーと資源、科学技術である。
科学技術の発展は、新エネルギー源や新原材料の開発、よりすぐれた機械の発明と結びついて、経済の成長を促してきた。
いまの人類は「これまでよりもはるかに多くのエネルギーと原材料を思いのままにしており、生産は急激に増えている」。そして、これからはナノテクや遺伝子工学、AIが生産に大革命をおこしていくだろう、と著者はいう。
 だが、そのいっぽうで、資本主義経済がこのまま発展していけば、その先はどうなるだろうかという不安も著者はかかえている。「現代の経済にとっての真の強敵は、生態環境の崩壊だ」
生態環境のメルトダウンが、人間の文明の存続を脅かしかねない。
「裕福なアメリカ人と同じ生活水準を世界中の人々全員に提供するためには、地球があといくつか必要になるが、私たちにはこの一個しかない」
いま成長のレースはますます激しくなっている。そして、ほとんどの人が、「未来の科学者たちが今はまだ知られていない地球の救出法を発見するだろう」という奇跡を信じている、と著者はいう。だが、はたして、そううまくいくだろうか。
資本主義がほんとうに人類に幸福をもたらしたかも疑問である。
 何世紀にもおよぶ経済成長と科学革命は、人びとを豊かにした。しかし、人びとのくらしは、けっして穏やかで安らかなものになっていない。激しい生存競争のもとで、私たちは「なおさら多くのことをしたり、多くのものを生み出したりするようにというプレッシャを絶え間なく感じている」。
 人びとは常に前に進むよう求められる。「私たちは絶えず収入を増やし、生活水準を高めるよう仕向けられる」。こうした緊張と混沌の世界で、生きつづけるのは、とてもたいへんなことだ。
 にもかかわらず、ほとんどの人が自由市場資本主義を信じている。飢餓や疫病や戦争をいまのところ抑え込んでいるのは、やはり自由市場資本主義のおかげだ。
「これまでのところ、資本主義は驚異的な成功を収めてきた、と著者はいう。「人類は今日、かつてないほど強力であるだけでなく、以前よりもはるかに平和で協力的だ」
 しかし、資本主義だけでは、世の中はぎくしゃくしてしまう。人はカネの世界でのみ生きているわけではない。「人類を救出したのは需要と供給の法則ではなく、革命的な新宗教、すなわち人間至上主義の台頭だった」
 著者の思考は一筋縄ではない。ブランコのように揺れる。
 次に論じられるのが、国家であることは予想されるのだが、ぼくのような年寄りはこのあたりで船酔いしてしまう。でも、なんとかがんばって、向こう岸までたどりつきたい。

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人間とは何か──『ホモ・デウス』を読む(2) [本]

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 著者の方法の特色は、生物学と歴史学を融合させることによって、人類史を俯瞰的に見渡すところにあるといってよいだろう。
 遅々として進まないけれど、きょうは第1部「ホモ・サピエンスが世界を征服する」を読んでみることにした。
 われわれの日常で、ライオンやオオカミやトラは、動物園を除けば、もはやおとぎ話やアニメの世界にしか存在せず、実際に「この世界に住んでいるのは、主に人間とその家畜なのだ」と、のっけから著者は指摘している。

〈合計するとおよそ20万頭のオオカミが依然として地球上を歩き回っているが、飼い馴らされた犬の数は4億頭を上回る。世界には4万頭のライオンがいるのに対して、飼い猫は6億頭を数える。アフリカスイギュウは90万頭だが、家畜の牛は15億頭、ペンギンは5000万羽だが、ニワトリは200億羽に達する。〉

 この指摘はとてもおもしろい。
 過去7万年間、ホモ・サピエンスは地球の生態系に、じつに大きな変化をもたらしてきた。マンモスなど大型動物を絶滅に追いこんだのはホモ・サピエンスの仕業である。
 狩猟採集の世界では、アニミズムが人と動物との対話をもたらしていた。それどころか、人間の祖先はヘビやトカゲなどの動物とさえ考えられていた。つまり、人間は動物の一種にすぎないと思われていたのだ。
 しかし、いまでは動物はヒトより劣った存在とみなされるようになった、と著者はいう。これは農業革命のもたらした意識変革である。農業革命は家畜をもたらした。「今日、大型動物の9割以上が家畜化されている」
 家畜の身になってみれば、人に守られ、育てられる家畜の運命は悲しいものだ。たとえば、イノシシの遺伝子を引き継いだブタは、さまざまな欲求や感覚や情動をもっている。にもかかわらず、かれらは食肉としてしか評価されず、その目的に沿ってだいじに育てられる。
 ここで、アルゴリズムという聞き慣れない用語が登場する。
 アルゴリズムというのは、はやりのコンピューター用語だ。
 人を含む動物は身体をもち、その身体を感覚や情動や欲求にもとづいて動かしている。その動きはアルゴリズムにしたがっている、と著者は考えている。
「アルゴリズムとは、計算をし、問題を解決し、決定に至るための、一連の秩序だったステップのことをいう」
 つまり、アルゴリズムとは目標実現に向けての段取りといってもよいのかもしれない。
 人を含め、すべての動物は、感覚や情動や欲求をもち、アルゴリズムに沿って行動する。ブタにはブタの、人には人のアルゴリズムがある。
 親子の情動的な絆は人もブタも変わらない。にもかかわらず、人は子ブタや子牛を生後すぐに母親から引き離して、もっぱら食肉として育てる。
 こうした行動を正当化したのは、有神論の宗教だった、と著者はいう。
古代ユダヤ教では、子羊や子牛が神のいけにえとしてささげられた。ほとんどの宗教は、神だけではなく人間をも神聖視している。魂をもつのは人間だけであり、動物には魂がなく、人のために存在しているとされた。
 こうして神は作物や家畜を守り、人は神に収穫をささげるという構図ができあがったという。
 動物たちに共感を示したのはジャイナ教と仏教、ヒンドゥー教である。どんなものも殺してはならないと教えた。とはいえ、牛の乳をしぼったり、その力を利用したりすることまでは禁じなかった。
 農業革命は経済革命であるとともに宗教革命でもあったという。動物は感覚のある生き物からただの資産へと降格された。そして国家が成立すると、国家は征服した人間集団を資産として扱うようになる。こうして、人間による人間の差別も発生する。
 そして、その後の科学革命と産業革命が、人間至上主義を生みだす。人間は神に代わって自然を動かし管理するようになった。
 人間がこの世界でいちばん強力な種であることはまちがいない。だが、力のある種の生命が、ほかの種の生命より貴重かどうかは、じつはわからない、と著者はいう。
 人間には魂があるが、動物には魂がないという説はあやしい。
 ダーウィンの進化論がいまでも恐れられるのは、ダーウィンが魂が存在しないことを立証したからだという。
 これはおもしろい見方だ。
 進化論は人が分割できない不変かつ不滅の個からなるという信念をしりぞける。ダーウィンは、あらゆる生物学的存在は、小さく単純な部分からできた複雑な器官の集合であり、それは徐々に進化したものだと考えた。進化論によれば、永遠不滅の魂なるものはどこにも存在しない。
 動物とちがって人間には心があるという言い方にたいしても、著者は反論する。

〈心は魂とは完全に別物だ。心は神秘的な不滅のものではない。目や脳のような器官でもない。心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れだ。これらの精神的な経験は、感覚や情動や思考が連結して形作っている。感覚や情動や思考は、一瞬湧き起こったかと思えば、たちまち消える。……永久不変の魂とは違い、心は多くの部分を持ち、たえず変化しており、それが不滅だと考える理由はまったくない。〉

 ロボットやコンピューターには心や意識はない。こうした装置は何も感じないし、何も渇望しない。あらかじめ入力されたデータにもとづいて、動くだけである。
 いっぽう人を含む動物には感覚と情動がある。人間も動物も感覚と情動にもとづいてデータを処理し、行動する。ここには無意識のアルゴリズムが潜んでいる。
 問題は心や意識とは何かということだ。
 これが意外と解明されていない。
 脳は複雑な器官で、800億を超えるニューロンが結びついて無数の入り組んだ網状組織を形成している。そのニューロンが何十億もの電気信号をやりとりすると、[吉本隆明風にいえば]「心的現象」が発生する。これが脳科学者のもたらした知見だ。
 しかし、これは苦痛や快楽、怒り、恐怖といった心的現象それ自体を説明するわけではない。外部の刺激によって脳内の多くのニューロンが相互に信号を発して、心臓の鼓動が高まり、体内にアドレナリンが行き渡るというのは、たしかにメカニズムの説明である。だが、それで心とは何かがわかるわけではない。
 心と脳はどういう関係にあるのか。動物に求められるのが行動だとすれば、心など必要としないのではないか、と著者は問う。それなのに、人間はなぜ心的現象を経験するのか。
 動物は一連のアルゴリズム(計算と段取り)によって動いている。その多くはコンピューター・プログラムによって置き換えることができる。その典型が自動運転車だ。
 神や魂の存在は実証できない。だとすれば心も存在しないのだろうか。そうではない。「どんな科学者も痛みや疑いといった主観的感情は絶えず経験しているので、その存在は否定のしようがない」
 心や意識は脳の無用な副産物だとして、生命科学者のなかには、生命とはデータ処理に尽きると断言する人もいる。また、フロイトのように、心を性衝動装置とみて、蒸気機関のようなものとして説明しようとしても、うまくいかないだろう、と著者はいう。いまでは心をデータ処理するコンピューターのように説明することがはやっているが、コンピューターに心がないことはあきらかだ。
 心についてはほとんどわかっていない、と著者はいう。
 それでは動物には心があるのか。イヌが人と情動的関係を結ぶことを考えれば、イヌに心や意識があることはまちがいないと思われる。それはサルやマウスにしても同じことだ。
 動物にはたとえ意識があったとしても自己意識はないという主張も理解しがたい、と著者はいう。どの犬も自分と知らない犬の尿のちがいを臭いで見分けることができる。どうして、動物に自己意識がないといえるのだろうか。
 動物も人間も目的をもって行動する。動物の行動を非意識的なアルゴリズムと理解することもできるが、たとえば高度なチンパンジーは、あきらかに自己意識をもち、意識的に計画を立てている。
 したがって、動物とちがい、人間だけが魂や心をもつと主張しても、それは説得力に欠ける。人間だけが高度な知能をもち、道具をつくる能力を発達させたというだけでは、サピエンスが世界を征服しえた説明とはならない、と著者はいう。
 それでは、ほかの動物にはない人間の特別な能力とは何だったのだろう。

〈人類はその後の2万年間に、石を先端につけた槍でマンモスを狩る段階から、宇宙船で太陽系を探索する段階まで進んだが、それは進化のおかげで手先が器用になったり脳が大きくなったからではない。むしろ、私たちの世界征服における決定的な要因は、多くの人間どうしを結びつける能力だった。〉

 ゾウやチンパンジー、ハチやアリにも協力関係はある。しかし、「無数の見知らぬ相手と非常に柔軟な形で協力できるのはサピエンスだけだ」。
 古来、勝利を決定づけたのは、目的に向けての人びとの協力と結集だった。それが力をつくりだす。独裁政権を倒した革命も、南極や月に達した偉業も、こうした協力関係抜きには考えられなかった。
 なぜ人間だけが、これほど大規模で高度な社会制度を構築できたのか、と著者は問う。
 人間でもたがいに見知った人間どうし密接な関係を結べるのは150人が限度だ。顔の見える小集団の原理は、平等主義であり、不平等は憤りや不満を引き起こす。
 ところが大集団になると話はちがってくる。ここでは、想像上の秩序、あるいは物語が決め手になる。こうした虚構(フィクション)が認められれば、たとえ社会がエリート層と非エリート層に分かれていても、社会的な協力関係を維持することは可能になる。
 想像上の秩序というのは共同主観的な物語だ、と著者はいう。それは、たとえば神や国、おカネなどであり、[吉本隆明流にいえば]「共同幻想」である。社会は共同幻想の上に成り立っている。それらは人が信じなくなった途端に消滅してしまうが、信じられているかぎりは人びとの協力関係を生みだす。
 その例として、著者はおカネを取りあげて、こんなふうに書いている。

〈たとえば、お金には客観的な価値はない。[ただの紙切れである]1ドル札は食べることも飲むことも身につけることもできない。それにもかかわらず、何十億もの人がその価値を信じているかぎり、それを使って食べ物や飲み物や衣服を買うことができる。……[しかし、だれもこのお札を受け取らなくなれば]ドルは価値を失う。緑色の紙切れはもちろん存在し続けるだろうが、値打ちはなくなる。〉

 実際、通貨の世界ではこうしたことが起きている。たとえば、イタリアの古いリラ札はいまでは市場ではだれも受け取ってくれない。それは古いドル札も同じだ。
 通貨はともかく、まさか国が消えることはないだろうと思うかもしれないが、それがそうではない。実際、ソ連やユーゴスラヴィアが消滅したことをみれば、国家もまた消えるのだ。
 国家は貨幣と同じく、共同主観的な虚構、言い換えれば「共同幻想」である。そして、神もまた……。
 だれもが有意義だと信じれば、それは共同幻想となり、意味のウェブを形づくる。たとえば、キリスト教の神を信じる者にとっては、十字軍でイスラム教徒を槍で刺し殺すことは誇りに思えただろう。しかし、いまでは異教徒と聖地ということばは何の意味ももたなくなっている。
 ウェブがほどけると共同幻想も消える。しかし、それでも共同幻想自体は消えることがない。あらたな共同幻想が生まれるからだ。
 人間に特有なのは、この共同主観的なものを生みだす能力である、と著者はいう。サピエンスだけが共同主観的な現実、言い換えれば共同幻想による虚構をつくりだすことができる。ライオンは百獣の王であっても「銀行口座を開いたり、訴訟を起こしたりはできない」。
 人間を知るためには、「この世界に意味を与えている虚構を読み解く」ことが絶対に必要になってくる、と著者はこの第1部を締めくくっている。
 なかなかやっかいな本書を、もう少し読み解いていくことにしよう。

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