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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(6) [商品世界論ノート]

 本書では1870年から2014年までのアメリカ経済史の流れが、1870〜1940年、1940〜2014年の約70年で二分されている。
 しかし、1870年から2014年までの経済発展をみるには、1940年で二分するよりも、(1)1870〜1920年、(2)1920〜1970年、(3)1970〜2014年と50年ごとに三分したほうがよいかもしれないことを著者も認めている。
 それによると、(1)が始動期、(2)が加速期、(3)が減速期になる。
 (2)の時期は、電気と内燃エンジンという19世紀末の発明(第二次産業革命)が、新たに実用化された商品を生みだし、それが普及した時期と重なる。1940年以降の(2)の後半期は高成長がもたらされ、エアコン、高速道路、飛行機、テレビが人びとのライフスタイルに浸透していった時期と重なる。
 第二次産業革命のもたらした範囲は広く、およそ人間活動の全域におよぶ。すなわち、この時期に、食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、情報、健康、医療、労働環境の面で、人間はこれまでにない多くの満足すべき成果を得たのである。
 だが、年代区分はいずれ恣意的とならざるをえない。
 これまでの第1部では、1870年から1940年までの生活水準の発展をみてきた。
 この時期、都市部では、ほぼどの家庭にも電気、ガス、水道が普及した。いわば都市がネットワーク化されたのである。遅ればせながら農村部でもネットワーク化は進み、農業の生産性は大幅に上昇した。
 全人口に占める都市人口の割合は、このかん25%から57%に上昇している。1人あたり実質GDPは、1870年は2770ドルだったが、1940年には約3倍の9950ドルになっている。だが、数字に表れる以上に、この70年は生活の質の変化がもたらされた時代だった、と著者はいう。そのことはこの時期の平均余命の伸びをみても明らかで、その分、近代化が進展したのである。
 これに対し、1940年から2014年はどうか。1940年から1970年まではたしかに高成長がつづいた。さらに、1960年代末に第三次産業革命が発生した。すなわちIT革命である。IT革命は、その後、通信や娯楽の面に大変革をもたらすことになる。
 だが、1970年からはかえって成長が鈍化する分野が増えてくる。生活水準はむしろ伸び悩んでいる。1人あたりGDPの伸び率も低迷した。経済効果の面でみるかぎり、第三次産業革命は第二次産業革命ほどの成果をもたらしていない。その意味をどうとらえればいいのかが、後半の課題になるだろう。
 本書はここから第2部(日本語版では第2巻)にはいる。引きつづき、それを追ってみる。

最初は、1940年から2015年までの衣服住、すなわち生活の基本要素についてである。
まず食品をみると、1940年のアメリカでは肉の摂取量が減り、食品の種類が多様化し、野菜やパスタ、シリアルの消費が増えている。
 すでに1930年代からチェーンストアに代わって、スーパーマーケットが繁栄しつつある。戦争の時代は、砂糖や肉、果物、缶詰などが配給制になっていたが、配給制が解除されると、食卓は一気ににぎやかになる。
 1940年から50年にかけ、平均収入に対する家庭内の食費の割合は25%程度、外食費の割合は7%にのぼっていた。食費の割合が大きいのは、この時期、実質所得が落ちこんでいたためだ。だがその後、収入が増えてくると、食費の割合は徐々に減りはじめ、2000年には家庭内の食事がほぼ8%、外食の割合はほぼ5%になる。1960年から80年にかけては、家庭内の食事から外食へという流れが強くなった。
 肉類の1人あたり摂取量は一時減ったが、2010年の摂取量は1870年と変わらない。戦後の特徴は牛肉が多少減り、鶏肉の需要が増えたことだという。油脂類ではラードがほぼ姿を消し、サラダ油やコーン油、オリーブ油の需要が増えた。マーガリンの売り上げも伸びている。果物と野菜がますます重要になるとともに、戦後は冷凍食品の消費が急増した。
 1930年から60年にかけて、食品を買うのはスーパーマーケットが中心となった。消費者はひとつの店で、さまざまな食品を買い、その代金をレジでまとめて支払う。バーコードによる値段の読み取りができるようになるのは1980年代からである。それまでは会計係が商品に付けられた値札をみて、レジに値段を打ちこまなければならなかった。
 食品の種類は1980年代から2015年にかけて増えていき、選択肢が多様化した。著者によれば、平均的なスーパーの在庫は1950年に2200品目だったが、1985年には1万7500品目に増えた。しかし、スーパーが大きくなりすぎて、かえって買い物がたいへんになると、便利なコンビニがはやるようになる。
スーパーマーケット業界は、1990年以降は、より高級志向の食料品小売チェーンとより低価格の大型量販店にはさまれて苦戦しているようだ。
 戦後は多くのファストフード店が生まれた。これは家計に余裕がでたことと、女性の労働参加が進んだことと関係している。
 現在のファストフード店は、まるで組み立てラインができているように工場さながらの効率のよさを実現しているという。
 アメリカでは、1945年から1975年にかけ、所得格差が縮小した。その後、この「大圧縮」の時代は逆転し、いまでは上位層、中間層、下級層のあいだで格差が広がっている。3つの層では、食べるものにも「天地の差」があるという。
 アメリカ人の1日あたり摂取総カロリーは、1970年以降20%以上増大した。その原因は揚げ物類にあり、その大半はファストフード店でとられている。貧困層のあいだでは肥満が社会的問題になりつつある。「貧困家庭の子どもは暇をもてあまし、テレビの前に座って脂肪量とコレステロール値を高める安価なファストフードを食べている」。肥満を助長するのが、ビデオゲームだ。肥満が糖尿病や心臓病を引き起こし、今後、平均余命が短くなることを著者は懸念している。
 次に衣を取りあげよう。
 1940年から2010年にかけ、消費に占める衣料品の割合は大きく減少し、10%から3%へと低下した。「他の消費財やサービスに比べ、衣服は長期にわたって一貫して安くなった」という。
 とりわけ1980年以降は、輸入品が国産品に取って代わった。その結果、消費に占める衣服の割合が低くなり、消費の対象が衣服以外に向かうことになった。
 素材面でいえば、1940年以降はこれまでの綿やウール、絹に加えて、化学繊維が大きな割合を占めるようになる。化学繊維の品質は次第に向上していった。衣服の嗜好も変わった。堅苦しいものより、カジュアルウェアやスポーツウェアが好まれるようになった。
 衣料品はアジアからの輸入品が主流になったため、アメリカではアパレル産業の雇用が大きく失われた。いったんあけられたパンドラの箱は、もはや元に戻せない、と著者も感じている。
 最後に住宅について。
 アメリカの都市化率は1940年の56.5%から1970年の73.4%に上昇する。それにともない、現代的設備の整った住宅が普及した。1950年にはアメリカ全土に電力網が広がり、屋内の水洗トイレやバス、シャワーも行き渡る。1970年から2010年にかけては空調設備が普及した。
 戦後は世帯数に対する住宅着工件数は長期にわたって低下しつづけている。それは建築費が上昇したことと、人口増加率が徐々に低下していることと関係している。アメリカの住宅は戦後、規模も大きくなり、部屋数も増え、設備も充実した。さらにいえば、伝統的なリビングルームや正式なダイニングルームを小さくして、ファミリールームを広げる傾向が強まったという。
 設備面でいうと、1940年の段階で、冷蔵庫はまだ44%、洗濯機は40%の普及率にとどまっていたが、1970年にはほぼ100%を達成。1952年にオーブンやレンジをもつ家庭はまだ24%だったが、1990年には99%となった。1980年に8%にすぎなかった電子レンジはあっという間に普及し、2010年には96%に達した。食洗機は2010年時点で60%の家庭が所有するようになっている。
 冷蔵庫は急速に進化した。大きさはほぼ2倍になり、食品の保存機能が高まり、安定した冷凍機能をもつようになった。消費電力も大幅に減る。修理の必要はほとんどなくなった。進化したのは洗濯機も同じだった。容量が大きくなり、全自動化が進んだ。
 戦後の特徴はエアコンが普及したことである。エアコンのエネルギー効率は急速に改善された。重量も軽くなり、設置が容易になり、コストも安くなったことから、急速に家庭にとりいれられることになった。工場でもエアコンは仕事の効率を高めた。そのため、企業は工場を北部から南部に移すことも可能になった。
 電子レンジは1965年に初めて商品化されたが、その後、計量化と小型化が進み、電子制御機能も加わり、値段も安くなった。そのため、一斉に普及する。しかし、いずれの家電も、1990年以降、品質の向上はほぼ頭打ちとなった、と著者はいう。
 戦後の住宅で目立つのは、郊外化とスプロール化である。自動車の普及にともない、郊外では大規模土地開発が進むいっぽう、都市の中心にはスラムが形成された。郊外には巨大なショッピングモールもつくられていく。
 ヨーロッパでは、都市のスプロール化は生じていない。それについて、著者は「ヨーロッパの土地利用規制は、郊外のスプロール化を防ぎ、都市中心部の歩行者専用区域を保護する役割を果たすものだが、経済全体の生産性や一人あたり実質生産性の低下という大きなコストになっている」と指摘する。
 アメリカで深刻な問題となっているのは、旧式の工場をかかえるラストベルト地域が衰退したことである。北部の工業地帯から多くの人口が南部や南西部に移動していった。シカゴやフィラデルフィアの一部、クリーヴランドやデトロイト、セントルイスの中心街はゴーストタウン化している。黒人差別がスラム化を促進している面もある。「貧困層の多くは都市のスラムと食の砂漠から抜け出せないままでいる」。地域格差が教育格差を助長していることも大きな問題だ、と著者は指摘している。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(5) [商品世界論ノート]

 ここからは、1870年から1940年にかけての生活環境の変化をみていく。
 商品世界の進展は、労働者の資本家への隷属をますます強め、労働者の困窮を広げていっただろうか。事態はマルクスの予想と逆に動いた。少なくとも、1870年から1970年までの100年については、そうだったといえる。
 イノベーションにもとづく新商品には、消費者の厚生を高め、余暇活動を広げ、家事労働の負担を軽減する効果があった。自動車や冷蔵庫、掃除機などの家電製品をみてもそのことがわかる。そのことが同時に平均余命(寿命)の伸びをもたらす、ひとつの要因ともなった。
 とりわけ注目すべきは、1900年から1940年にかけ、乳児死亡率が低下したことである。都市の衛生インフラ(たとえば上下水道)が整備され、危険な食品や薬品への規制がなされようになったことも、平均余命の伸びと無関係ではない。加えて、より直接的な要因としては、もちろん医療技術の進歩を挙げなければならない。
 1900年時点では、都市部の白人男性の平均余命は39.1歳と、農村部の46歳よりも低かった。これは都市の生活環境が悪く、新鮮な食べ物を得るのが難しかったからである。しかし、1900年と1940年を比較すると、都市部と農村部の差は縮小し、平均余命は白人男性が48歳から63歳に、非白人男性は33歳から52歳に伸びている。白人と非白人の余命のちがいは、とりわけ南部の生活環境の差によるものと思われる。
 平均余命の増加は、前に述べたように、乳児死亡率の低下が大きな要因だが、感染症による死亡率が低くなったことも大きい。1918年から19年にかけてのスペイン風邪(インフルエンザ)は例外的に多くの死者をだしたが、当時はまだウイルス研究がじゅうぶんに進んでいなかった。著者は上水道システムの普及や、パスツールの病原菌理論にもとづくワクチンの開発、住宅環境の整備、公衆衛生の浸透、大気汚染対策、食品の安全管理、疫学予防、病院と薬局の整備などを寿命増加の要因として挙げている。
 さまざまな医療器具が開発され、医師が専門化し、医療行為が市場性をもつようになったことも見逃せない。それまでは、医療は家庭か近隣の協力でなされるものだった。自動車は医師の行動範囲を拡大した。電話で緊急に医師を呼ぶことも可能になった。
 病院数は次第に増えていったが、それでも、まだ病気や怪我は自宅で治すという人は多く、その場合、病人は医師の往診を待つほかなかった。出産も家庭でおこなわれることがまだ一般的で、病院での出産が5割にのぼるのは1920年代になってからである。
 看護学校が誕生するのは1870年代。1920年代には病院の建設ラッシュがはじまる。それにより病院はより快適なものとなり、病室も個室や半個室がつくられるようになった。1930年ごろ、病院を運営するのは、連邦政府ないし地方政府が28%、教会や個人、非営利組織が72%といった割合だった。
 医学は着実に進歩し、麻酔薬が開発され、手術での苦痛も軽減されていく。ワクチンは感染症の脅威を軽減した。公衆衛生面では、清潔と消毒のたいせつさがより認識されるようになった。
 医療費は当初、さほど高くなかった。往診する医者は、個人事業主で、患者を診察・治療するたびに料金を請求した。医療費が上がりはじめたのは1910年ごろからである。このころ医学校改革がなされ、医者がより専門家になると、医師の免許制がいわば独占に似た状況を生みだし、診療報酬が押し上げられていった。現代的な医療機器による治療や入院費の増加も医療費を高くする要因となった。
 アメリカでは全国民を網羅する医療保険がなかなかできなかった。労働者の一部は産業の疾病基金でカバーされていたが、失業すると、たちまち所得と健康保険の両方を失った。長期入院を強いられると、年収の3分の1から半分の医療費を請求されることもあった。ニューディール政策では強制失業保険と社会保障法が成立したものの、国民健康保険の導入にはいたらなかった。
 事故についてはどうだろう。エジソンの発明した電球が職場での事故を減らした、と著者は指摘する。とはいえ、事故はまだ多かった。馬と人間が衝突することもあった。鉄道や船の事故も少なくなかった。それが一段落すると、今度は自動車事故である。1920年には、自動車事故による死者が鉄道事故の倍になった。だが、それも徐々に改善されていく。
 殺人率は1930年代に10万人あたり10人と上昇するが、1950年にはほぼ半減し、1980年代にふたたび上昇して、10万人あたり11人のピークをつけた。1930年代の殺人による死亡者数は、自動車事故のほぼ3分の1である。殺人には地域格差が大きい。北部が比較的少ないのにたいし、南部はきわめて高い。しかし、南部よりさらに高かったのが西部開拓地だった、と著者はいう。
 生活水準上昇の度合いは、1人あたりGDPの伸びよりも大きい、と著者はみる。GDPの増大は生活の質の変化と消費者余剰をもたらすからだ。とりわけ、その恩恵は死亡率の低下と平均余命の増加にあらわれる。平均余命の増加は、医療産業の進歩によるだけではなく、もっと総合的なものである。
 次に取りあげられるのは、職場と家庭の労働環境である。
 1870年代から1940年代にかけ、それらは多いに改善された。職場の労働時間は着実に短くなり、64時間だった週の労働時間は、1940年以降48時間に減少した。定年退職という概念も一般的になる。児童労働はほぼ消滅した。
 機械の導入により、きつい農作業は緩和された。それは食肉処理などの職場でも同じである。縫製工場の劣悪な労働環境も次第に改善されるようになった。
 女性の労働参加率は徐々に上昇した。1870年には12%だったが、1940年には26%に達し、2000年には72%まで上昇している。いっぽう、男性の労働参加率は1870年から1940年で95%で、その後減ったといっても2000年でも88%を保っている。
 10歳から15歳までの児童労働は1880年には男子が30%、女子が10%あったが、1940年にはほぼ4%に低下している。19世紀後半、少女たちは水くみや洗濯、台所仕事、縫い物、子どもの世話と、めまぐるしく働いていた。
 1910年ごろから若年男子(16〜24歳)の労働参加率が低下するのは、高校への進学率が増えたからである。戦後はさらに大学進学率の増加によって、若年労働者の労働参加率は低下する。いっぽう、若年女子の労働参加率は徐々に高まっていく。そのため2000年ごろにおいては若年の男子と女子の就職率はほとんど変わらなくなった(60数%)。
 かつては死ぬまではたらかねばならなかった高齢男性は、社会保障制度が充実するにつれ、退職し、余生を楽しむことができるようになった。65歳〜74歳の男性の労働参加率は、1870年には90%近かったが、1940年には53%、1990年には24%に低下している。
 労働の質も変わった。機械や道具の導入によって、それまでのつらく退屈で危険な労働が軽減された。農場労働者や作業員の数も減ってくる。人力による運搬や掘削などの仕事はトラックや掘削機に取って代わられた。製造業の組立工も1970年以降はロボットによって代替されるようになる。
 いっぽうブルーカラーに代わって増えてくるのが、ホワイトカラーや管理・専門職である。不快な仕事に従事する人の割合は1870年の87.2%から2009年の21.6%へと段階的に低下した。1870年から1970年にかけては苛酷な業務が反復的な業務へと変わり、1970年以降は非定型的な認識業務が増えてくる、と著者はいう。
 労働時間も減った。1870年には労働時間は週6日、1日10時間が一般的だったが、1940年には週5日、1日8時間がふつうになった。労働時間が減少したのは、労働時間の短縮によって労働の質が上がり、かえって労働生産性が上昇すると考えられたからである。時短と労働生産性の上昇は、実質賃金の上昇と結びついていった。
 ここで、農業に目を転じてみよう。その労働環境は、土地の肥沃度や気象の安定性、さらには家畜や農機具による負担軽減にかかっている。1862年のホームステッド法は、開拓を促進したものの、土地の劣化をももたらした。開墾は重労働だった。
 機械化が促進される19世紀後半まで、農業の生産性は低かった。1830年以降は馬が使われるようになっていたが、その後、内燃エンジンが開発され、余裕のある農家はトラクターや小型コンバインを取り入れるようになる。干魃や害虫に強いトウモロコシのハイブリッド種も開発された。これらにより、農業の労働環境が改善されていく。
 ただし、制度的な問題もある。アメリカでは南部と北部では、農業の制度がことなる。南部では黒人奴隷解放後も、小作人制度が幅をきかせていた。土地を所有する地主は小作人を雇って、作物や綿花を育てさせ、その収穫の半分を受け取っていた。19世紀後半から20世紀はじめにかけて、南部の黒人小作人の生活はみじめなものだったという。
 1870年から1940年のあいだに、アメリカは農村国家から都市国家に移行する。そのかん、都市人口の割合は25%から57%に上昇した。都市人口の割合が増えたのは、移民が都市に住み着いただけではなく、農村から都市への移住が増えたからである。
 労働環境が厳しかったのは農村だけではない。鉱山、とりわけ炭鉱は危険と隣り合わせであり、肺病にかかる確率も高かった。食肉処理場の労働環境も苛酷だった。鉄鋼業では、長時間労働と苛酷な労働環境が労働者の生活をむしばんでいた。企業間の熾烈な競争が人件費の削減に輪をかけていた。高温の蒸気が充満するなかでの作業はまるで生き地獄のようだった。そこに機械化の波が押し寄せる。機械化によって、熟練した職人は排除され、画一的な未熟練労働者に置き換えられていった。
 1919年以降の生産性上昇は電動モーターによるところが大きかった。その副産物として、作業場が明るく清潔になり、労働環境が改善されていったことは否定できない。
 19世紀後半には、炭鉱や鉄鋼業だけでなく、どの産業でも労働災害による死傷事故が多かった。建設現場や縫製工場でも事情は変わらない。低賃金、長時間労働に加え、労働環境も苛酷だった。労働者にたいする保護や補償はないに等しかった。
 しかも不況の波が、多くの労働者の職を奪った。確実なものは何もなく、来年の家計どころか、来週の賃金もどうなるかわからなかった。失業に対する打撃が緩和されたのは、1938年にニューディール法が成立してからである。だが、それ以前の1910年から20年にかけて、労働者災害補償法が各州で成立していた。
 第2次世界大戦前、家庭外での女性の労働は、使用人や事務員、教師、看護婦、縫製の仕事などにかぎられ、働くのはたいてい未婚女性か未亡人だった。その賃金は安く、労働環境は苛酷だった。1920年代から1940年代にかけ、女性の労働参加率が上昇したのは、サービス部門での仕事が増えたことや、女性が家事労働から多少なりとも解放されたためである。女性は次第に「汚く骨の折れる職場ではなく、清潔で快適な現代的オフィスや販売店で働くようになり、週あたり労働時間も短縮された」。
 19世紀後半、労働者階級の女性は家庭内での重労働に追われていた。洗濯、料理、水くみ、掃除、パン焼き、針仕事、どれもが大仕事だった。上下水道が普及し、ガスが敷かれ、家電製品がそろったことで、女性の家事負担は軽減され、家事を楽しいと思う女性も増えてきた。「20世紀には、女性の家事負担の軽減と男性の市場労働の時間減少という二つの異なるトレンドが重なり、男性が子育て、住宅補修、庭仕事などの家庭内生産に積極的に参加できるようになった」と、著者は指摘する。
 全体的にみれば、世帯あたりの家庭内生産(労働)の時間は1900年の週78時間から2005年の週49時間に減っているという。子どもの数が平均4人から2人になったことは、家庭内の仕事量に影響していない。手間は変わらないからである。だが、家庭内の仕事は料理にしても何にしても、より基準の高いものになっている。料理も掃除も子どもの世話もより入念におこなわれるようになっているのだ。
 1900年ごろ、熟練工と非熟練工のあいだでは、2倍の賃金の開きがあった。高所得労働者はアメリカン・スタンダードを謳歌できたが、底辺労働者は極貧を生きていた。移民労働者は労働条件が少しでもよいと、簡単によそへ移った。フォードが基本給を上げたのは、労働者の離職率の高さを抑えるためである。
 しかし、いずれにせよ、1940年代までは実質賃金が労働生産性を上回るかたちで伸びた。実質賃金が労働生産性を下回るようになるのは1980年代以降である。これは徐々に経済格差が広がったことを示している。
 実質賃金の伸びがもっとも高かったのは1910年から1940年にかけてである。1920年代の移民制限法と、ニューディール法制による労働組合の奨励も、実質賃金の増加に寄与した。自動車工場などでは、技術変化が労働者に特定の反復作業をうながすいっぽう、企業は労働者の離職率を下げるために賃金を上げなければならなかった。
 1870年に児童労働はごく一般的で、14歳、15歳の少年は半数以上が働いていた。炭鉱でも製鉄所でも織物工場でも農家でも、少年たちのはたらく場所があった。その給料は成人男性の半分ほどで、児童労働を禁止する法律が施行されても、児童労働はなかなかなくならなかった。とくに低所得世帯は、義務教育が終わるとすぐに子どもをはたらかせていた。
 1870年時点で、高校に進学する子どもはごくわずかだった。1910年の高卒率は9%にすぎなかったが、1940年には51%、1970年には約77%に達する。第2次世界大戦は、大学進学率も増えていた。
 1870年から1940年にかけてほど、急速に生活水準が向上し、人びとを取り巻く環境が一変した時期はない、と著者は指摘する。商品世界の広がりはいうまでもなく、この時期、保険や消費者信用が果たした役割、さらに経済開発をうながした政府の役割はけっして無視できない、と著者は指摘する。
 消費者信用は19世紀後半から広く用いられていた。農家は雑貨店や行商人から必要なものをツケで購入し、次の収穫期に支払っていた。北部の農民のなかには、銀行で資金を借りて、土地を購入する者もいた。しかし、当時の金利は高く、農民はその支払いに追われた。
 地主から借り入れをしている南部の小作人の生活はより悲惨で、借金でがんじがらめになっていた。そのころ都市で、質屋が盛んだったのは、都市の雇用が不安定だったことと関係がある。
 割賦販売は1845年のピアノとオルガンが最初だったという。シンガー・ミシンは1850年からミシンの割賦販売をはじめる。富裕層から労働者階級にまでミシンが広がったのは割賦販売のおかげである。すでにサラ金のようなものもはじまっている。
 大型デパートや通信カタログ販売は、現金販売が原則だったが、競争が激しくなるにつれて、割賦販売も認められるようになった。著者によれば、割賦販売が盛んになるのは耐久消費財への需要が増える1920年代からだという。それによって、「労働者階級の大半が消費者信用を利用できる新しい世界が台頭した」。
 消費者金融は急速に拡大する。大恐慌は1929年後半の株式市場の崩壊によって生じるが、「家計が消費者信用に過度に依存し、負債比率を高めていたことも大きかった」。
 その消費者信用がとりわけ効果を発揮したのが自動車販売である。1924年には4台のうち3台がローンで購入されていたという。
 1920年代から消費者信用は利用しやすくなった。耐久消費財の価格が下落したところに、消費者信用の供与が拡大し、電気冷蔵庫や洗濯機など、新製品の購入が促されることになった。それにより「労働者階級は、信用販売のおかげで、一世代前には存在しなかった新製品を入手できるようになった」。
 アメリカでは1890年にすでに住宅ローンが生まれている。1920年代には住宅建設ブームが起き、信用状況が全般に緩和され、住宅金融は急増している。
 生命保険がいまのようなかたちになるのは、19世紀最後の30年だという。20世紀にはいると、生命保険は急速に普及する。それは比較的少額の支払いで、万一の場合に備える貯蓄と考えられていた。1905年の時点で生命保険会社の資産の対GDP比は10%を超え、1933年には37%と急上昇している。いずれにせよ、1940年ごろまで、生命保険は急速に増大し、皆保険に近いものとなっていく。
 火災保険は17世紀後半にイギリスで誕生するが、現代的なかたちになるのは19世紀からである。1906年のサンフランシスコ地震と火災による被害は、約半分程度が火災保険でカバーされた。
 強制自動車保険が導入されたのは1920年代である。自動車事故の死亡率は現在より20倍以上高かった。そのころから、事故によるけがや死亡、車両損害や医療費の支払い、その他に対応する自動車保険が次々と開発されていった。
 1870年から1940年にかけてアメリカ人の生活水準が上昇したのは、主に民間部門による発明と資本蓄積のおかげだが、そのかん政府は何もしなかったわけではない。「連邦政府をはじめ州政府など公的部門が、成長のプロセスを直接支援するとともに、行き過ぎた成長には歯止めをかけた」。
 たとえば、ホームステッド法、鉄道への土地の無償供与、1906年の純正食品医薬品法、特許局の設立、1920〜33年の禁酒法、さらに反トラスト法や一連のニューディール法制などをみても、政府は積極的に経済にかかわっている。その評価は分かれる(とりわけ禁酒法にたいする批判は強い)が、政府の介入は概して近代化を促進するとともに、プラスの外部効果をもたらした。
 製品規格の統一、食品衛生、医療、上下水道の整備、道路の整備、電化などで政府の果たした役割は大きい。著者が評価するのはとりわけ1933年から1940年にかけてのニューディール法制である。これにより預金者の預金保護や社会保障制度も確立された。雇用を創出し、失業を減らす対策がとられたのもニューディール政策の特徴だった。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(4) [商品世界論ノート]

 1870年から1970年にかけては、資本主義の興隆期だった。1870年から2014年までをカバーする本書の第1部は、その前半、すなわち1870年から1940年までを扱っている。時折の恐慌をともないながらも、それは資本主義の興隆期だったといえるだろう。
 あらゆる面で技術革新が生じている。今回、読むことにした第5章と第6章は、交通と通信、さらに娯楽に焦点をあてている。すでにマルクスの知らない時代がはじまっていた。
 人は移動する動物である。だが、人が単なる動物と異なるのは、みずからの足を使ってだけではなく、自然を用具化して、移動の範囲を広げ、移動に要する時間を短縮してきたことである。
 その用具をつくりだすには膨大な努力を要する。政治集団自体がすぐれた用具をつくりだすことはまずない。それよりも、できるなら民間で商品化された用具を、対価を払って利用するほうが理にかなっている。
 商品が貨幣によって購入できる財とサービスを指すとするなら、輸送機関も一種の商品である。そのサービスを利用するには対価を支払わなければならない。
 19世紀まで、人間の移動スピードは、馬や帆によって大枠が決められていた。それを変えたのは19世紀初めの蒸気エンジンである。鉄道や蒸気船が誕生する。1870年段階で、アメリカはすでに大陸横断鉄道をもち、すべての大陸と蒸気船で結ばれるようになっていた。
 この時点では、都市内部のスピーディな移動は馬車、さらにはそれを改良した鉄道馬車にかぎられていた。しかし、エジソンの発明により、アメリカの都市部では、1890年から1902年にかけ路面電車が動くようになり、1904年にはニューヨークに地下鉄が走るようになる。
 アメリカで長距離鉄道網が急速に発達したのは、1840年から1900年にかけてのことだ。1860年代において、その鉄道網は北部が中心で、西部や南部での建設は遅れていた。しかし、1870年には大陸横断鉄道が完成し、1920年にかけて鉄道建設ラッシュがおきる。
 鉄道によって、都市と都市は直線で結ばれるようになった。それにより、それまでの船や馬での移動にともなう不安定性や危険をとりのぞくことができたのが、鉄道の大きなメリットである。そして、鉄道はさらに進化し、馬力の増大にともない、輸送貨物の重量も増え、遠くまで、より安くより早く、旅客と貨物を運べるようになった。
 交通革命は商品のコストを大幅に下げた。1880年代に冷蔵貨物列車が開発されると、食品の品質が向上し、多様化しはじめる。カリフォルニアの野菜や果物、中西部の肉が東部に運ばれ、都市からは工業製品が小さな町や農村にももたらされる。郵便事業が改善され、カタログ販売も伸びていった。その中心点となったのがシカゴである。
 鉄道は旅行の楽しみももたらした。1870年から1940年にかけては、鉄道網が広がるだけではなく、鉄道のスピードが速くなり、乗り換えも楽になり、また車内も快適にすごせるようになった。
 19世紀まで都市の広さは、せいぜい歩ける範囲に限られ、雇い主も労働者もごく近くに住んでいた。1850年代に鉄道が開通すると、その状況はかなり変わってくる。しかし、初期の蒸気鉄道には不快な煤煙もつきものだった。
 そのため1890年代まで、市内の交通や物流はまだ馬が主流だった。しばしば事故をおこした乗合馬車は、1850年ごろ鉄道馬車に変わり、スピードも速くなり、料金も安くなった。しかし、次第に馬に代わる乗り物が求められるようになる。蒸気で走る汽車は町中には適さない。唯一の例外は坂をのぼるケーブルカーだった(それはいまもサンフランシスコに残っている)。
 電気で走る路面電車が実用化されるのは19世紀末から20世紀はじめにかけてである。それでも都市の渋滞はまだ緩和されなかった。同じ道路に馬車と電車がひしめきあって走っていた。
 電気による高架鉄道も開発された。ロンドンの地下鉄をまねて、1897年にはボストンでアメリカ初の地下鉄が開通する。ニューヨークの地下鉄開業は、それから7年遅れて1904年になった。そのころ都市間の電気鉄道(インターアーバン)もできあがる。こうして都市圏は次第に広がっていく。
 自動車を発明したのはドイツ人だが、それを安価な乗り物に改良したのは、アメリカのヘンリー・フォードらである。自動車が登場すると、馬はたちまち駆逐される。馬の時速はせいぜい10キロ、それに1頭の馬が走れる距離は40キロほどに限られていた。馬を飼うのはやっかいで、走っている途中で死ぬこともあったし、それに何よりも馬糞の処理が悩みの種だった。そんな問題を自動車は解決した。
 当初、自動車を購入するのは富裕層にかぎられていた。しかし、ヘンリー・フォードがT型モデルを開発すると、自動車の性能は向上し、価格も安くなった。1910年代から1920年代にかけ、フォード車は爆発的に売れる。その後はゼネラル・モーターズなどとの競争がはじまる。とはいえ、アメリカでは1910年から1930年にかけ、自動車が急速に普及していった。
 問題は道路の改良だった。アメリカでは1904年に道路の総延長距離が200万マイルを超えたが、その大半は土の道で舗装されていなかった。連邦政府は1916年から舗装道路の建設に補助金を出すようになる。アスファルトやコンクリートが開発されたのもこのころである。これによって、高速道路も建設されるようになった。
 市内で路面電車やバスが発達するにつれ、馬は次第に排除されるようになった。大陸横断鉄道はいうまでもなく、1920年代後半には東海岸と西海岸を結ぶバスも登場している。ロサンゼルスとニューヨークは、135地点を通過しながら5日と14時間で結ばれるようになった。
 しかし、公共路線以外の移動は困難を要した。馬に代わってこの問題を解決したのが自動車だったことはまちがいない。自動車はいつでも、どこでも、好きなように行くことができた。目的地にでかけるときに荷物をもって駅まで歩いて行く必要もない。こうして自動車は公共交通機関と競合していくようになる。
 とりわけ自動車が威力を発揮したのが農村部だった。農民は自動車に飛びついた。自動車のおかげで、それまでの孤独な生活は幕を閉じた。農民が自由に動けるようになったため、村の雑貨屋や銀行、学校は大きな打撃を受けた。
 自動車が急速に普及したのは、価格の低下によるところが大きい。自動車ローンの普及が自動車の購入を促した。自動車によって人びとの生活はがらりと変わった。通勤や買い物、レジャーなど、その波及効果は大きかった。ガソリンスタンドやレストラン、モーテル、雑貨店などのロードサイドビジネスも誕生する。そのひとつがケンタッキーフライドチキンだった。
 その代わり、1920年ごろには、アメリカの通りから徐々に姿を消したものもある。露天商が姿を消し、街角のドラッグストアや地元のカフェ、近所の店もなくなった。散歩をする人もいなくなった。その意味では「人間関係の機微も失われた」ことを著者も認めている。
 しかし、にもかかわらず自動車のもたらした効能は大きかった。
 ある論者はこう記している。

〈自動車の登場がもたらした恩恵は明々白々だった。都市は清潔になり、地方の孤立に終止符が打たれ、道路は改良された。医療が向上し、校区は統合され、娯楽の機会が増えた。企業や住宅の分散が進み、郊外の不動産ブームが起き、標準的なミドルクラスの文化が生まれた。〉

 ここでアメリカと日本を比較したい誘惑に駆られるが、いまは先に進むことにしよう。
 つづいて第6章。情報、通信、娯楽の革命が論じられる。
 1870年時点で、アメリカでは8割の人が読み書きができるようになっていた。すでに新聞、雑誌、書籍などの印刷物がかなり出回っている。
 新聞は19世紀はじめから読まれていたが、その総発行部数は1870年の700万部から1900年の3900万部、1940年の9600万部と驚異的に伸びていった。新聞は情報と娯楽を得る最大の手段だった。各紙の競争も激しく、扇情的な記事が氾濫していた。
 1880年から90年にかけて、多くの雑誌が創刊された。新聞の内容をより掘り下げたり、まとめたりしたものが主流で、写真が雑誌の魅力になっていた。そして、1920年代からはセックスや告白を扱った下世話な雑誌も増えてくる。
 書籍はフィクションが主流。なかでも人気は恋愛小説で、伝記、歴史物もよく読まれた。
 モース(日本ではモールスと呼ばれた)の開発した電信が普及しはじめるのは19世紀半ばである。1866年には米英間で海底ケーブルが敷設され、大西洋を横断する電信が可能になった。銀行や鉄道会社、新聞社にとって、電信は必要不可欠の通信手段だった。
 電信は企業規模の拡大にも寄与した。
「単一の機能しかない小規模な企業が域内だけで事業を行う経済から、電信が登場したことで、全国を対象にする多機能の大企業主導の経済への移行が速まった」と、著者は指摘する。
 電報は一般家庭が利用するには、値段が高すぎた。一般家庭が重宝したのはむしろ郵便サービスである。アメリカで郵便配達制度が登場するのは1901年のことで、それまで農民は最寄りの町の郵便局に行って手紙を受け取らなければならなかった。郵便配達制度は農民の時間のむだを省き、生活水準の向上に寄与しただけではない。多くの雇用を生みだすことにもなった。
 1876年にグラハム・ベルは電話の実験に成功する。しかし、電話の普及には時間がかかった。ニューヨーク・シカゴ間は1892年、ニューヨーク・サンフランシスコ間は1915年になって、はじめて電話が通じるようになる。電話料金も次第に安くなった。
 電話は最初ビジネスに不可欠な道具となり、さらに家庭の日常生活にも取り入れられていった。電話の普及により、手紙を書くというかつての習慣は次第にすたれていく。
 エジソンが蓄音機を発明したのは1877年である。当時はときの政治家の演説を永久保存するのに役立つなどと考えられていた。レコードということばが定着するのは1890年代半ばである。蓄音機が家庭にはいるのは1900年以降だ。蓄音機によって一般市民ははじめてプロの演奏を家庭でも耳にできるようになった。とはいえ、それにはまだ大きな欠陥があり、多くの改良が必要だった。レコードで演奏が正確に再現できるようになるのは1925年になってからである。
 さらに画期的なのはラジオの発明だった。「最初の商用ラジオ局が開設されたのは1920年だが、20年経たないうちに、少なくとも1台のラジオを保有している家庭が80%以上に達した」と、著者は書いている。いったん買ってしまえば、音楽であれ、ニュースや情報であれ、放送を無料で楽しむことができるのが、何よりもありがたかった。
 著者によれば、「自動車とおなじくらい、ラジオは20世紀前半を決定づけた」。受信装置の値段が安くなり、その性能も向上していったことが、ラジオの人気をますます高めていった。
 1926年にはラジオ局のネットワークができあがっていた(アメリカに国営放送はない)。番組内容はクラシック音楽よりポピュラー音楽、教育的なものよりコメディやバラエティが好まれるようになった。ラジオ局を営業面で支えていたのは、コマーシャルである。たばこや歯磨き、コーヒー、便秘薬など、さまざまな商品の名前が全米に流されていた。
 1930年代の不況時にも、ラジオは現実から逃れるひとときの娯楽を提供することができた。「陰鬱な大恐慌時代に抑圧された大衆は、心の拠り所を求めていた」。さらに、1940年代にラジオが戦争遂行に果たした役割も忘れてはならない、と著者は指摘する。
 さらに注目しなければならないのが、映画の発達である。
映画の歴史は静止画にはじまり、5セント劇場の短編から大映画館での長編映画へと移っていった。1915年にはチャーリー・チャップリンなどが喝采を浴びるようになる。このころは無声映画で、映画の上映に合わせてオルガンやピアノが演奏されていた。むずかしかったのは映像と音声を同期化させることだった。トーキー(発声映画)が登場するのは1927年のことである。
 1930年代には無声映画からトーキーへの移行が急速に進み、そのジャンルもギャング映画に西部劇、コメディ、ミュージカル、ファンタジー、ホラー、SF、ホラーなどへと急速に広がった。入場料も安かったため、観客数も一挙に増えていった。1939年には「風と共に去りぬ」、「オズの魔法使い」のカラー映画が誕生している。その後も「市民ケーン」や「カサブランカ」といった名作に観客は魅了された。
 1940年にラジオと映画は全盛時代を迎えていた。人びとはいずれも1870年には考えられなかった娯楽に包まれていたのだ。
 そのころ、日本も内心アメリカを追いかけていたのではないだろうか。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(3) [商品世界論ノート]

 GDPは年間の商品生産のフローを集計した数字だが、それ自体が生活水準を示しているわけではないという著者の発想はきわめてまっとうなものである。GDPはあくまでも経済指標にすぎず、社会の成長をみるには、生活水準の移り変わりそのものに焦点をあてなければならない。
 そのような視点から、著者は第3章と第4章において、1870年から1940年にかけ、アメリカの衣食住がどう変わったのかをみていく。
 衣食住のなかで、人がもっとも必要とするのが食であることはまちがいない。アメリカでは、1日の消費カロリーはだいたい3000〜3500カロリーが基本で、それは1970年ごろまで、ほとんど変わっていない。それが増えるのは1970年以降で、2000年には4000カロリーになっているという(ちなみに、日本人はほぼ2000〜2500カロリー)。
 ある調査によると、アメリカの家計における食品の支出割合は、1870年から1920年にかけては40数パーセント。それが約35%に低下するのは、1930年代後半からである。しかし、そのかんに食品は多様化し、豊富になる。それが生活水準の向上をもたらした、と著者はいう。
 アメリカ農務省の統計によると、1870年から1930年にかけ、肉の消費は減っている。牛肉は25%減、豚肉は半減。ラムや鶏肉の消費も増えていない。小麦の重要性も低下している。そうしたなかで、消費が増えたのは、脂質・油、果物、乳製品、卵、砂糖、コーヒーだという。加工食品の開発も目立つ。とりわけ、油で揚げたり、いためたりするものが食卓をにぎわせるようになった。
 都市でも多くの家が家庭菜園で野菜をつくっていた。都市と農村のちがいは、都市がほとんどの食料を買わなければならなかったのにたいし、農家は基本的に自給自足で、食料以外の必要なもの(砂糖や靴、農機具など)を得るために余った豚肉や穀物、野菜を売っていたことである。
 とはいえ、1890年代から1920年代にかけ、冷蔵貨物列車と家庭用のアイスボックスが開発されるにつれ、食品の流通は拡大する。果物や野菜も汽車で運ばれるようになった。冷蔵技術の発展によって、保存期間が長くなり、生鮮食料品の価格が下がった。その分、食料の商品化が促進されたといえる。
食の多様化が進んだのは移民が増えたせいでもある。上流階級はフランス料理を好み、ドイツ人はソーセージを持ち込み、ホットドックを生み出す。イタリア移民は外食文化を普及させた。ドイツ人はビールを、イタリア人はワインをよく飲んだ。1920年から33年にかけての禁酒法は、かえってGDPに占めるアルコール消費の割合を高めるという皮肉な結果をもたらしたという。
 1870年から1900年にかけて、加工食品が台頭する。缶詰やドライフルーツ、クラッカー、オートミール、パスタ、ソース、ソーセージやハムなどである。パンも市販のものを買う人が多くなってくる。缶詰は西部の開拓地でよく利用されていた。1886年に誕生したコカコーラがよく売れるようになったのは20世紀になってからである。コーンフレークも次第に便利で手間のかからない朝食として重宝されるようになった。ジャンクフードも出回るようになる。1896年にはポップコーンが全米で発売されるようになった。そのほか、お菓子のたぐいは数え切れない。
 こうして、加工食品工業が確立されていく。ブランド食品は大量生産で価格が下がり、労働者も手に入れられるようになって、マーケットが広がる。「1900年にはすでに、加工食品の生産高が製造業生産高の20パーセントを占めるまでになっていた」。
 冷凍食品が生まれるのは1920年以降である。魚や肉、野菜、果物、その他の調理食品が冷凍食品が発売されるが、当初はさほど売れない。それが定着し、よく売れるようになるのは、1950年以降に冷蔵庫に冷凍スペースが設けられるようになってからである。
 1870年の「豚とトウモロコシ」の単調な食卓から、バラエティに富んだ現代の一般的な食卓への移行は、1920年代にはほぼ完了していた、と著者はいう。アメリカでは所得水準の上昇とともに、レストランも増え、各国さまざまな料理を楽しむことができるようになった。すでに1920年代には、主要な高速道路にはドライブインが並び、町にはハンバーガー・チェーンもできている。
 こうしたアメリカの食品革命が日本に押し寄せたのは、第2次世界大戦後だったかもしれない。
 それはともかく、アメリカでは1870年当時、農村と都市の人口比は75対25で、農村のほうが圧倒的に人口が多い。これは日本も変わらない。農村ではほとんどの食料が自家農園で栽培されていた。家族で消費する以外の余った分だけが市場で売られていた。その代金で、農家は地元の雑貨屋で、靴や男性用衣服、女性用の布地、農機具その他を買っていた。
 都市には大規模な市場があり、さまざまな商店が、肉や魚、野菜、果物のほか、乳製品やパンなどの食品を売っていた。ほかにも石炭や薪、さらにはハーネス(馬具)や塗料、自転車、銃、書籍、衣料品などを売る店があった。
 店の形態が変わるのは1920年前後からだ。「現金・持ち帰り」のチェーン・ストアが急成長する。チェーン・ストアは大量仕入れによって、安い値段で商品を提供し、各地に広がっていく。
食品のマーケティング革命が進行していた。消費者はより安い価格で食品を購入できるようになった。
 だが、食品には中毒がつきものだった。水や牛乳、肉には危険がひそんでいた。牛乳が殺菌されるようになったのは1907年からである。ソーセージも不衛生な環境でつくられていた。食品の安全対策には時間がかかった。20世紀にはいって、肉の消費量が減り、流通コストが高くなったのはそのためだ、と著者はいう。食品を安価で安全な商品として売りだすには、さまざまな検査体制が必要だったといえるだろう。
 次に著者は1870年から1940年にかけての衣服の展開をみる。衣食住の衣である。著者によれば、そのいちばんの展開は「衣服が家庭でつくるものから市場で購入するものへと変わったことだ」。
1890年以降、東欧からの移民がもっとも仕事をしたのは仕立屋としてだった。安い賃金で汚い屋根裏部屋で、懸命にはたらいたという。
 ファッションが生みだされたのも20世紀になってからである。1910年以降、女性のファッションは確実に進化していった。
 1870年は衣料品販売に革命がおきた変わり目だったという。パリのデパート、ボン・マルシェをまねて、アメリカでもデパートが誕生する。豪華な店構えを誇るデパートは商品の殿堂だった。ありとあらゆる商品が店頭に並べられ、定価で売られていた。
 デパートだけではない。日用雑貨チェーンやドラッグストア・チェーンが、店舗を広げ、さまざまな商品を全米に供給し、アメリカ人の生活水準の上昇に寄与するようになる。それによって、小間物や針、ペン、ノートなどの文具、その他多様な商品の大量生産も可能になった。
 直接、デパートに買い物に行けない農村の住民に恩恵をもたらしたのがカタログ販売である。モンゴメリー・ウォードは1872年、シアーズ・ローバックは1894年に最初のカタログを発行している。そのカタログには、帽子やかつら、コルセットに毛皮のコート、時計、自転車、セントラル・ヒーティングの炉、銃など、食品を除くあらゆる商品が網羅されていた。
 アメリカではカタログ販売の果たした役割は大きい、と著者はいう。それまで田舎の商店や行商人に頼らざるをえなかった農村の世帯が「カタログを見て気に入った商品を買える豊かさを手にしたのだ」。農民にとっては、世界が広がる経験だった。
 1870年から1940年(日本でいえば、明治維新から昭和前期)にかけての食料品や衣料品の展開は、人びとの生活を大きく変えていった。しかし、それ以上に人びとの暮らしを変えたのが住宅の進化だった。電気、水道、ガスの普及が、その進化を促していた。
 1940年段階で、アメリカの都市人口は全人口の57%を占めるようになった。急速な都市化が進んでいる。
 各家庭は電力ネットワークでつながり、電灯と家電製品が増えている。上水道と下水道のネットワークもできあがった。ガスや電話も普及しつつある。1940年に洗濯機と電気冷蔵庫の世帯保有率は40%に達し、浴室やセントラル・ヒーティングもあたりまえになっていた。
 住宅革命の本質は「ネットワーク化による現代的な利便性の実現」にある、と著者はいう。とりわけ女性が多少なりとも家事から解放されたことが画期的だった。
 アメリカは1920年ごろまでは農業社会で、大多数の人は広々とした一軒家で暮らしていた。狭くて暗いアパートに労働者がひしめくように暮らしていたのは、ニューヨークのような大都会だけだという。
 1870年から1940年にかけ、アメリカの人口は3700万人から1億2700万人へと3倍になった。世帯数はそのかん5倍になり、1世帯あたりの人数は5人から3.7人へと低下した。
 1940年時点の住宅はほとんどが1880年以降につくられたものだ。しかも、その大半が1920年以降に建てられていた。「少なくとも都市部では、ほとんどの住宅が、都市に電気が通り、上下水道など衛生面のインフラが整った後に建てられたものだといえる」。
 都市では賃貸用に多くの一戸建て住宅が建てられ、その多くが二世帯住宅だった。1920年以降、ニューヨークやシカゴでは大型の高層アパートがつくられるようになった。
 人びとの生活水準は、世代ごとに着実に向上していた。教育水準の向上にともない、労働者階級の子どもが中流階級に上がる機会も増えてきた。親が移民で苦労したとしても、1920年代には、その子どもは電気や水道が完備された住宅に住み、自動車に乗る生活があたりまえになっていた。
 都市人口が増えるにつれ、都市の人口密度が高まり、住宅のスペースは狭くなった。それでも、世帯あたりの平均人数が減ったため、一人当たりの部屋数は増えた。住宅は小型化したが、その分、より効率的になった。よけいなスペースが減り、間取りはよりシンプルになっていった。
 1900年代の都市労働者階級の住宅事情はけっしてよくなかった。スラム街にはテネメント(安アパート)が密集し、3部屋に5人が居住するありさまで、周囲には悪臭が立ちこめていた。とりわけひどかったのがニューヨークである。
 シカゴやクリーヴランドのような中西部の都市はまだましだった。都心の中心部から3、4キロ離れたところに郊外住宅をつくることもできたからである。
 かつての広壮な邸宅にかわって、1910年から1930年にかけて、簡素な平屋建てのバンガロー・ハウスが数多くつくられるようになる。それは労働者階級が次第に中流階級になったことと関係しているという。
 技術革新によって、住宅建設のコストも安くなった。
「標準的な間取りと加工建材を活用したバンガローの建設は、19世紀半ばに遡る建築のイノベーションの長いプロセスの頂点と位置づけられ、これにより人口のかなりの割合が一戸建てを所有できるようになった」と、著者はいう。
 シカゴなどでは、かなり計画的に住宅地域がつくられ、マイカー時代の到来に備えて道路が整備され、電柱や電線は道路に埋設され、街路樹が植えられていたという。
 小さな町では中流階級と労働者階級は一戸建てに暮らしていた。貧しいか、豊かかのちがいはあったが、混ざりあって住んでいた。安アパートのひしめく都市にくらべ、スペースには余裕があった。回りは田園地帯で、どの家にも菜園があった。
 200〜300エーカーの土地をもつ農家は、1900年以降に建て替えられた広大な屋敷を構えていた。暖房や家具、水のポンプなどで大きな改善がみられたが、現代的な利便性は農村まで行き渡らなかった。
 1920年ごろ、農民は自分たちが現代の進歩から取り残されているのではないかという気持ちをいだくようになる。「現代的利便性は、都市の生活を均質化する一方、都市と農村の生活に大きな格差をもたらしたのだ」と、著者は論ずる。
 アメリカで住宅革命がおきたのは1910年から1950年にかけてである。水道、ガス、電気のネットワークが、現代的利便性をもたらした。とりわけ、1930年から50年にかけての発展は著しく、ほとんどの家庭が電灯、水道、水洗トイレ、セントラル・ヒーティングの設備を備えるようになった。冷蔵庫と洗濯機が急速に普及するのは1930年以降である。
 つまり、1900年と1940年のあいだに、電気、ガス、水道の奇跡が、家庭に一大変化をもたらしたのだ、と著者はいう。エジソンが電球を発明したのは1879年、ニューヨークに発電所ができるのは1882年である。ガスはイギリスで19世紀初頭に開発され、最初は街灯として用いられ、その後、燃料として広く活用されるようになった。
 1900年時点で、電力サービスはそれほど普及していない。電力消費が大きく伸びたのは、電力価格の急速な下落がある。それにつれ、電球の性能は向上し、値段も安くなっていく。照明のほか、電気は工場や鉄道などでも利用されるようになる。
 しかし、1940年になっても都市と農村部のあいだには、電化率に大きな差があった。エジソンが電球を発明してから60年たっても、南部の農家では8割がランプを使っていた。
 家電製品はわりあい早く開発されたが、普及には時間がかかった。屋内配線は面倒だったし、プラグや差し込み口の標準化も必要だった。それでも1940年には4割の家庭が電気洗濯機や冷蔵庫を使用するようになっていた。1919年に775ドルした冷蔵庫は、1940年ごろには137ドル〜205ドルと買いやすい値段になっている。1927年にはサーモスタットつきの電気アイロンが発売されている。掃除機も人気があった。「電灯や家電製品によって家庭の電化が進んだことで、多くのアメリカ国民の日常生活ががらりと変わった」と、著者は指摘する。
 1890年代まで、ほとんどの家庭に水道はなかった。上水道と下水道が整備されるようになったのは、利便性より、もっぱら公衆衛生上のためだった。水洗トイレが発明されたのは1875年である。公営水道は1870年から1900年にかけ、都市全域に広がる。それ以降、家庭での革命がはじまる。台所の水回り設備が開発され、水洗トイレや浴室が普及する。
 1940年時点で、水洗トイレのある家庭は全米の6割にすぎない。しかも、都市部の割合が圧倒的に高い。屋内のバスルームが誕生したのも1940年になってからだという。
 暖房用の蒸気ボイラーはすでに1840年代からできていたが、安全性の問題があり、よく爆発事故をおこした。お湯をわかして暖気を送るセントラル・ヒーティングが普及したのは1880年になってからで、これも都市が中心だった。その燃料には石炭やコークスが使われていたが、灰の始末もたいへんだったし、大気汚染も引き起こした。それが改善するためには、燃料をガスに変えていく必要があった。
 著者はこう述べている。

〈1870年以降の生活の変化、とりわけ都市部での変化は、水や燃料を自分で運ぶ生活から、ネットワークを基にした生活への転換だといえる。電話線、上下水道、電力ケーブルのネットワークは、突如出現したわけではない。都市の中心部から人口のまばらな地域に徐々に拡大していった。必要性は認識されていたが、政府のインフラ開発部門と民間資本の組み合わせで実現した。〉

 しかも、こうした革命的な変化が起こるのは1回切りだった。1940年には水道や電気、ガスに関連する発明はほぼ終わっていて「日常生活の劇的な変化をもたらす発明は、1940年以降生まれていない」。
 現代世界は多かれ少なかれ、こうしたアメリカン・ライフスタイルを追いかけてきた。それを可能にしたのは、それ自体がネットワークである商品世界の広がりだった。そのこと自体は否定できないだろう。
 まだ話は終わっていない。それどころかはじまったばかり。終焉までつづく。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(2) [商品世界論ノート]

 第2章「出発点」を読んでみる。1870年が出発点である。
 1870年のアメリカの1人あたり所得は、イギリスの74%に達していた(2010年ベースで約3700ドル)。すでに中世風の農業社会ではなく、産業革命の成果もとりいれられている。人口もイギリスを上回っていた(約4000万人)。
 ちなみに、日本はこのころ人口はアメリカとほぼ同じだが、1人あたり所得はアメリカの3分の1以下で、ずっと貧しい。もちろんGDPだけで、社会の水準がはかれるわけではないのだが。
 当時の観察では、イギリスやフランスにくらべ、アメリカの労働者階級の生活はましだったという記録がある。しかし、それは東部の大都市の話だった。人口の75%を占める農民の生活ぶりがどうだったかはわからない。むしろ、1870年以降は、労働者の生活水準は低下している。それは移民の増大や、農村から都市への人口の流入と関係がある。
 1870年にはすでに大陸横断鉄道がつくられようとしていた。電信が導入され、海底通信ケーブルも開通し、全米の一体化が進む。
 とはいえ、動力の中心は、まだ蒸気、水車、馬である。電気や石油はない。明かりはロウソクや鯨油に頼っていた。
 ヨーロッパにくらべ、人口増加率は高かった。その背景には農地の安さがある。人口は87%が白人、13%弱が黒人だった。人口の約60%が25歳以下で、65歳以上は3%にすぎない。大人も子どもも農作業や家事労働を中心によくはたらいていた。年金や保険などがないから、人は死ぬまではたらくしかなかった。
 当時の消費はほとんどが食料、衣服、住居に費やされた。ある研究によると、平均世帯5人家族の年間消費額は1000ドル弱で、その45%が食料に、タバコ、薬、燃料、新聞などに7%、衣服や靴、布、玩具などの半耐久財に16%、家具や調理器具、時計、その他の耐久財に9%、残り24%が家賃などのサービス財にあてられていたという。
 消費の総額と中身は、その後、150年で大きな変貌をとげることになる。とりわけ、特徴的なのは、食料支出の割合の低下と、サービス支出の割合の増大である。半耐久財や耐久財にしても、その中身はがらりと変わった。
 食料に関していえば、農村部では自家栽培が中心で、トウモロコシと豚肉が主食だった。野菜は地域によってことなる。北部はジャガイモ、南部はサツマイモが中心。果物はりんご。飲み物はチョコレート飲料や紅茶、コーヒーといったところだ。
 当時は人口の75%が農村に住んでいた。典型的な開拓農民は、肉食用の家畜を飼い、ジャガイモなどの野菜をつくり、適地であれば小麦を栽培し、自家消費していた。着る服も自宅でつくっていた。しかし、砂糖やコーヒー、香辛料、たばこ、医薬品、農機具、調理器具、布地などは最寄りの雑貨店で購入しなければならず、それには現金が必要だった。しかし、ほとんどの商品はツケで販売されていたという。
 男性用の服は雑貨屋で購入されていたが、女性用の服は上流家庭をのぞき、一般家庭では手作りで、布を裁断し、針と糸でつくるものとされていた。
 住環境は都市と農村ではまったくちがうが、都市でも一軒家が多く、集合住宅は少なかった。電気もガスもないから、家は寒く暗かった。薪や石炭を燃やして暖を取り、夜はランプの裸火を明かりにしていた。水道や浴室、トイレもない。とりわけ都市の労働者の住環境は劣悪だった。
 そのいっぽう、経営者や地主などの上流階級は、都市や町に大邸宅を構えていた。しかし、多くの使用人をかかえるその大邸宅でも、まだ快適な設備は整っていない。
 鉄道はできたが、交通手段は、都市でも農村でも馬車が主流であり、農村の生活は孤立していた。だが、1870年ごろから、列車による郵便配達システムが登場し、電報が便利な通信手段となりつつある。
娯楽は、酒場や公園、マーケットに行くぐらいのものだが、ニューヨークでは遊園地などができている。
 当時の平均寿命は45歳。とりわけ乳児死亡率が高かった。さまざまな感染症が蔓延し、結核が不治の病であり、工場での事故も多発していた。病院も少なく、医療も発達していない。地域でも家庭でも、公衆衛生上の措置はほとんどとられていなかった。
 労働力人口でみれば、農民と農業労働者が46%、職人や工員、人夫などのブルーカラーが33%、事務員、販売員、使用人などのサービス業が13%、経営者、専門職、管理職・役人が8%という統計がでている。この割合は様変わりしていくが、当時は都市の労働者より、農家のほうが圧倒的に暮らし向きがよかった。
 男女の役割は明確に分けられていた。都市では、外で給料を稼ぐのは男であり、女は家で家事を切り盛りしていた。ホワイトカラーとブルーカラーは区別され、階級間の移動はほとんどなかった。地主が同じ場所にとどまるのにたいし、労働者は都市のあいだを移住することが多かった。都市の職業は多様だった。
 1870年では、25歳以下の若年人口が総人口の60%を占めている。学校教育は12歳までの小学校にほぼかぎられていた。男は15歳、早ければ12歳から働きはじめる。女は母親の手伝いをし、若くして結婚し、家庭にはいった。
 南部では黒人への教育はほとんどなされなかった。「奴隷制度のもとでは黒人の学校はなく、プランテーションの経営者は、教育を受けさせず、文盲のままにしておくことで奴隷支配を維持しようとした」。奴隷解放宣言以降も、こうした差別はつづく。
 65歳以上の高齢者の割合は、わずか3%だ。しかし、社会保障制度がなかったため、高齢者の生活はかなり悲惨なものだったという。
 1870年の生活は現在とはまったくちがう。商品世界が全面的に浸透していないためGDPという指標もあまりあてにできない。
 消費財はかぎられていた。それでもその財を得るための労働はきつく、主婦も家事労働に追われていた。
 売られている食品の種類も少ない。保存技術が限られているため生の肉は危険だった。住環境も厳しかった。どの家もハエや虫に悩まされた。鉄道や汽船、一部の工場は蒸気で動いたが、交通面で基本的な動力源となっていたのは馬だった。
 だが、そのころ第2次産業革命がおこるのだ。
 著者はいう

〈1870年という年は、現代アメリカの夜明けと位置づけられる。その後の60年間、生活のあらゆる面で革命が起きた。1929年には、アメリカの都市部は電化され、都市のほぼすべての住宅がネットワーク化され、電気、天然ガス、電話、水道水、下水道で外の世界とつながっていた。1929年には、馬は都市の通りからほぼ姿を消し、自動車の世帯保有率は90パーセントに達していた。また1870年には想像もできなかった娯楽を楽しめるようにもなっていた。レコード、ラジオ、豪華な映画館での映画上映。さらに乳児の死亡はほぼ克服され、病院や薬の処方は、現行の認可制度や専門性が確立された。労働時間は短くなり、肉体労働に従事する労働者の割合は低下し、家電が日々の家事労働を明るいものにし始めた。〉

 日本はこのアメリカを追いかけることになる。
 商品世界の広がりと経済成長が問題である。

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ロバート・ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 年寄りののんびり読書である。
 上下2巻、全部で1000ページ以上あるから、はたして読み終わるか、自信がない。途中でやめてしまうかもしれない。
 最近は何でもすぐに忘れてしまうので、備忘のためのノートをつけることにした。最後までいけば、おなぐさみというところか。
 ロバート・ゴードンはアメリカの経済学者で1940年生まれ。ハーバード、オックスフォード大学を卒業、マサチューセッツ工科大学で博士号をとり、いまもノースウェスト大学の教授をしている。
 日本語のタイトルは誤解を生みやすい。時務的な本とみられるかもしれないが、原題はこうだ。
 The Rise and Fall of American Growth: The U.S. standard of living since the Civil War by Robert J. Gordon
 ロバート・ゴードン著『アメリカ経済の盛衰──南北戦争以降の生活水準をめぐって』といったところか。ぼくは勝手に『暮らしのアメリカ史』と呼んでいる。
 これなら、ぼくの興味範囲だ。
 全体は3部に分かれている。

 第1部 1870−1940年
     大発明が家庭の内外に革命を起こす
 第2部 1940−2015年
     黄金時代と成長鈍化の気配
 第3部 成長の加速要因と減速要因

 1部と2部が歴史編で、3部が理論編とみてよいだろう。
 これは単にアメリカの経済発展の歴史ではない。20世紀はいわばアメリカの時代で、日本やその他の国々もアメリカを追いかけてきたのだ。日本人にとって、アメリカのライフスタイルは、最近まであこがれの的だったといってよい。そのアメリカを取り入れることによって、日本はどう発展したか(あるいは堕落したか)という問題は、別の問題として、やはり問われなければならないだろう。
 中身を読んでみることにしよう。まずは序文である。
 いきなり気づくのは、本書が単に生活史なのではなく、生活史と成長理論の組み合わせから成り立っていることである。
 20世紀は「経済成長が加速し、現代社会が生まれた時代」だが、「1970年以降、今日に至るまで成長が鈍化している」のはなぜか。それを、いわば暮らしの変遷から追ってみようとしているところが、本書のユニークさといえるだろう。
 最初にその概要をとらえておく。
 南北戦争(1861〜65)から100年で、アメリカ人の生活は一変した、と著者は書いている。これは日本人も同じことだ。明治維新以降100年で、日本人の生活が多岐にわたって、どれほど変化したかをふり返ってみればよい。
 曲がり角になったのは1970年代である。ITの発展は、娯楽、コミュニケーション、情報収集・処理に画期的な成果をもたらしたものの、衣食住など生活基盤の進歩は鈍化している。経済格差の拡大という逆風さえ吹いている。
 1870年から1970年までの1世紀は特別だ、と著者はいう。1820年ごろの暮らしは、中世とほとんど変わらなかった。ところが、鉄道、蒸気船、電信の3大発明によって、生活が変わりはじめる。1870年以降は社会全体に電気、ガス、水道が普及する。都市が発展し、馬に代わって鉄道や自動車が主な交通手段となる。一般の人が飛行機に乗れるようになったのは、1950年代後半からだ。
 19世紀後半には、家計の半分が食費にあてられていた。そのころ加工食品が登場する。冷凍技術が開発されたのは20世紀初め、しかし、冷蔵庫が家庭で使えるようになったのは1950年代からだ。
 1870年には、男性用の服や靴は店で購入されていたが、女性用の衣服は母や娘が家でつくるものとされていた。それを助けたのがミシンである。ところが、1920年になると、女性用の衣服も小売店やデパート、あるいはカタログ販売で買われるようになる。
 病院の改善や医薬品の開発、公衆衛生の発達が、乳幼児死亡率の低下と平均余命の延びをもたらす。
 とりわけ特筆すべきは、こうした日常生活の改善が驚くべきスピードで進んだことだ、と著者はいう。
家事労働は短時間ですむようになり、家事から解放された女性は、労働市場に進出する。男性の労働時間も改善され、週休2日も可能となった。
 農業社会から都市社会への移行が進んだ。アメリカでは1970年に73.7%の人が都市に住むようになっていが。
 1970年代に「特別な世紀」は終わる。技術進歩にかげりが見え、経済格差が広がるようになった。70年代以降の技術進歩は、娯楽、通信、情報技術の分野にかぎられる、と著者はいう。
 パソコンやインターネット、携帯電話などは猛烈な勢いで普及したが、それらがGDPに占める割合は7%にすぎない。
 食品や衣料品、電化製品、自動車などは多様化する。だが、衣料品は輸入によって、国内のアパレル産業がほぼ壊滅する。70年代以降の新しい電化製品は電子レンジくらいで、ほかはかわりばえしない。だが、その電化製品も輸入されることが多くなっている。医療技術についても、70年代以降、進歩のペースはにぶっている。
 ここで、著者は若干の注意をうながす。生活水準の指標として便利なのは、1人あたりGDPだが、この指標には生活の質が反映されていない(たとえば労働環境が改善されるなど)。さらに、市場の動きが過小評価されがちである(たとえばエアコンやテレビの値段が安くなるなど)。
 物価指数は新製品のもたらす改善や、価格下落による効果を把捉できない。「物価指数は価格に対する性能向上を反映しない」。安売りがもたらす消費者へのメリットも無視されてしまう。
 イノベーションによる生活の向上は、かならずしも所得の上昇と結びつくわけではない。所得が上昇していなくても、イノベーションによる生活の向上はおこりうる。なかでもGNPに反映されていないメリットのひとつが、余命の延びだ、と著者は論じる。
 生活水準の向上は、労働生産性の伸びと連関している。1870年以降でみると、とりわけ1870年から1970年までの「特別の世紀」の後半、すなわち1920年から1970年までの労働生産性が高い。
 その時代に「電機革命」が起きた、と著者はいう。電気技術が誕生するのは1880年代だが、それが普及段階に達するまでに40年の時間を要した。
 だが、電機革命だけで、労働生産性の上昇は説明できない。アメリカの場合は、ニューディール政策と第2次世界大戦が重要である。ニューディール政策は労働組合の力を強め、労働時間を減少させ、1日8時間労働を実現させた。それによって、余暇が増え、消費が増えた。さらに、労働時間の減少がイノベーションをもたらしただけでなく、労働者の疲労を軽減し、それによって逆に労働生産性を高めたというのである。
 1970年以降の労働生産性上昇は、主にコンピューター革命によるものだが、その期間は8年ほどしかつづかず、数十年つづいた「電機革命」時代にはとておよばない、というのが著者の見立てである。しかも、1920−70年には1人あたり労働時間が大幅に減少しているのにたいし、1970年以降は1人あたり労働時間はむしろ増えているという。
 アメリカでは1870年から1970年にかけてが「特別の世紀」で、とりわけその後半は経済成長率がピークを迎えた黄金時代だった。タイムラグはあるにせよ、それは日本もほぼ同じだろう。
 本書が取り扱っているのは、1870年から2014年にかけてのアメリカの生活水準である。アメリカの暮らしが対象だといってよい。でも、日本とは無縁ともいえないだろう。
 考察の中心となるのは1870年から1970年にかけての「特別な世紀」である。衣食住をはじめ、交通、情報、娯楽、公衆衛生、労働環境にいたるまで、GDPだけではとらえられない生活水準の向上が論じられている。
 生活水準の上昇は1940年から70年までが顕著で、その後は鈍化している。経済格差や教育問題、高齢化と人口減少、政府債務などが大きな足かせになっている。もはや「現在の若年層の生活水準が親世代の倍になるとは思えない」。
 人工知能(AI)が人類に飛躍的な向上をもたらすという見方に反して、著者は「持続的な成長を阻む壁は、1世紀か2世紀前の先祖が直面したものよりも堅固になっている」との見解を示している。
 少しずつ読んでみることにする。ぼく自身の興味は、商品世界の広がりがもたらす価値と意味についてである。ちょっと変わった読み方かもし

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その5) [商品世界論ノート]

   17 分配論、その予備的考察

 最終の第6編「国民所得の分配」。
 国民所得の分配を論じる前に、マーシャルはその予備的考察をおこなっている。
 人間が生産するのは消費するためである。したがって、国民生産は国民所得と一致する。いまふうにいえば、国民総生産は国民総所得と同じである。国民所得は国民分配分と言い換えてもいいだろう。
 分配の問題が生じるのは、人間が機械でも奴隷でもないからだ。しかも、現代の経済は「生活必需品をこえた余剰を自然からいよいよ大幅に引きだせるようになってきており」、この余剰を人びとにいかに分配するかが問われるようになってきている、とマーシャルはいう。
 国民所得が労働者と資本家、土地所有者のあいだで、いかに分配されるか。これがマーシャルの問いである。
 最初に、マーシャルはこれまでの経済学説を検討する。
 フランスのフィジオクラット(いわゆる重農主義者)は、「労働者の賃金を飢餓水準にくぎ付けにするような人口の自然法則」があり、利潤についても自然率があると想定していた。アダム・スミスも賃金や利潤の自然率があると考えたが、それらは労働力の需給関係によってある程度変動するとみていた。
マルサスは賃金水準が変化することを認めていたが、賃金が上昇すれば人口が増加し、それによってかえって労働者の生活条件が悪化すると予測した。
 いっぽう、通説では、リカードも賃金は生活必需品をまかなう水準に釘付けされるとみていたと思われがちだ。だが、リカードの主張は、むしろ賃金の低落を防ぐことに置かれていた、とマーシャルはいう。
J・S・ミルは労働者の賃金が最低水準に抑えられがちなことを批判していた。
これら前期の経済学者の見方を踏まえながら、マーシャルは分配についての新たな考え方を示したいとしている。
 マーシャルが最初に仮定するのは、(実際にはありえないのだが)すべての人が労働と資本を所有している場合である。この場合は、投入された労働に応じてつくられた商品が交換され、原則として、すべての人が労働に応じた所得を得る。そのさい、多くの業種で、たとえば作業能率が倍増したとすれば、商品の生産量が増大し、それによって経済のパイが大きくなり、全体の所得も増えることになる。
 たとえ人口が増大していっても「輸送技術の改良、新しい発明、および自然にたいする新しい制御力が得られるごとに、すべての家族が入手できる安楽品やぜいたく品が一様に増大していく」可能性は高い、とマーシャルはいう。このあたりマーシャルの見方はマルサスの悲観論と異なる。
 しかし、人口の増加が長期につづくと、農業などにおいて、収穫逓減の法則がはたらくことはないのだろうか。これについても、マーシャルは一定の生産技術の向上がなされれば、食料が不足することはないとみている。
 現実の世界では、だいたいにおいて、土地と労働、資本は分離されている。そこでは、国民所得、言い換えれば国民分配分は、土地、労働、資本の所有者に分配されていくことになる。
企業家は収益の限界点まで、生産要因を投入していくと考えられる。雇用はそれによって決定される。限界的な雇用は、その労働の投入が、収益を生みだすかいなかによって決まるといってよい。
 ここからマーシャルは以下の傾向を導きだす。
 すなわち「すべての種類の労働の賃金は、その種類の限界的労働者の追加的労働によってもたらされる純生産額と均等となる傾きがある」。
 これがマーシャルの唱える賃金理論の基本だといってよい。
 現実の産業を考える場合には、労働者の雇用にとどまらず、労務管理や機械の導入、原材料、土地についても考慮しなければならない。それらの生産要因を規制するのは、需要と供給の状態(すなわち価格)である。
 一般に企業家は、事業にたいする投資を収益が得られる限界まで進めていく。そのさい、拡大の境界となるのは、利子率である。つまり、利子率が高く、収益率がそれを上回らないと判断されれば、そこで投資はストップする。
 機械と労働との関係には代替性がある。ある種の労働は、機械によってまったく雇用から排除されてしまう。しかし、「全体をみれば労働全般を駆逐するなどということはおこりえない」。生産の拡大は、たとえばその商品を普及するための新たな労働を必要とするからである。このあたり、マーシャルはあくまで楽観的である。
 マーシャルは、さらに国民所得の分配について考察を進める。
 資本の所得の源泉となるのは、商品の生産から得られる利得である。
そのさい、「生産要因にせよ直接消費される商品にせよ、すべてのものの生産は需要供給の力のあいだにつりあいが保たれている限度ないし限界のところまですすめられる」。
それによって得られる純利益が資本の所得となる。
 いっぽう、労働者の所得は賃金である。
 マーシャルは仕事が常に苦しいものだというのはうそで、適度な仕事は楽しいものだという。そして、たいていの場合、報酬が増えれば、労働者はより熱心に、しかも長時間にわたって働くのをいとわない、と指摘している。
 さらに「報酬が引き上げられれば、だいたいのところ能率の高い労働の供給もただちに増大する」と記している。
 賃金の増大が死亡率の低下をもたらし、労働者の肉体的・精神的活力を高めることも認めている。賃金はぎりぎりの生活を満たす最低のものであってよいはずがない。賃金は慣行上の必需品や、習慣上の安楽品を満たす水準にあってこそ、人間生活の風格向上に資する、とマーシャルはいう。
 しかし、労働者の所得が上昇するには、それなりの条件が必要だと指摘することも忘れていない。

〈必需的とはいえないような消費の増大は、ただ人間の自然にたいする制御力の向上を通してまかなうほかはない。それは知識と生産の技法の進歩、組織の改善と原料供給源の拡大および充実、さらには資本および所期の目標を達成する各種の手段の増大があってはじめて可能になるのである。〉

 つまり、賃金が上昇するには、労働生産性の上昇がともなわなければならないというわけだ。
ヨーロッパにおいて、労働者の賃金が上がってきたのは、こうした条件が満たされるようになったからだ、とマーシャルはいう。そして、じっさい賃金の上昇は、労働者の気力と能率の向上をもたらしてきた。
 マーシャルの見方は楽観的だ。
「賃金の上昇は、それが不健康な状態のもとで得られたものでないかぎり、ほとんどつねに世代の肉体的・知性的、いな道徳的な力をさえ強化し、他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるはずの稼得の増大はさらにその上昇率を高める」
 もちろん、その前提として、賃金は労働にたいする需要と供給によって決まるという考え方がある。
需要価格を規定するのは労働の限界生産性である。いっぽう供給価格を規定するのは「能率の高いエネルギーを養成訓練しかつこれを維持していく費用」、言い換えれば、人がそれなりの生活を送れるだけの支払額である。
 次に、利子についていうと、利子とは資本の利用にたいして支払われる価格である。利子率は長期的には、資金にたいする需要と供給の関係によって規定される。
 一般に利子率が上昇すれば、貯蓄が増大する。そのいっぽう、利子率の上昇は、資金にたいする需要を減らしていく。そのため、そこには一種のせめぎ合いが生じてくる。マーシャルは、一般に資本ストックの増加は緩慢で、時間がかかるとみていた。
 土地は資本や労働などとはことなる性格をもっている。土地はたしかに、ある面、資本の一形態であり、その用途も多岐にわたり、用途を変更することも可能だ。だが、反面、土地のストックは限られ、それを増やすのはむずかしい。それが土地の特殊性だ、とマーシャルはいう。
 もう一度、くり返して言おう。
国民所得の源泉は、生産されたすべての商品の純集計からなり、それらは労働の稼得、資本の利潤(および利子)、そして土地の地代へと配分されていく。経済のパイが大きければ、それぞれの分け前も大きくなる。
 国民所得は均等に配分されるわけではない。利潤を得る資本家と賃金を得る労働者とのあいだでは、所得の性格が異なる。また同じ階級内でも所得は大きく異なる。資本にも格差があり、賃金にも格差がある。
 加えて、新しい資源が開発されるとか、新しい機械が発明されるとか、新しい商品が生みだされるとか、競争によって、生産条件はめまぐるしく変化する。商品の代替も生じていく。資本も労働も、大きな流動性のなかにおかれている。
 人は市場について完全な知識をもっているわけではない。その選択は、手の届くところにかぎられがちで、全般的にみて、いちばん有利と思われるものに飛びつく傾向がみられる。市場の変化にたいする調整は、時間をかけておこなわれていく以外にない。
 資本と労働は、対立と相互依存の関係にある。資本はできるだけ労働コストを抑えようとする。そのために機械を導入し、雇用を減らす場合もある。いっぽう、商品の種類によっては、その完成に時間がかかるため、資本が実質上、労働者に賃金を前払いしなければならないこともある。
 資本が労働を完全に排除することは不可能である。資本は機械や原料だけでなく、「労働の体化物」でもあるからだ。
「全般的にみれば、資本の発達は国民分配分を増大させ、他の分野で労働の新しくゆたかな雇用機会を開発していって、待忍の用役[たとえば機械]によって労働のそれが局部的に駆逐された損害をつぐなってあまりあるものをもたらすだろう」と、マーシャルはいう。いかなる新技術の導入も雇用を排除するにはいたらない。
 とりあえずの結論として、マーシャルは次のように述べている。

〈資本全般と労働全般とは国民分配分の生産に関して協同し、国民分配分からのそれぞれの限界効率に対応してその稼得を配分される。その相互の依存関係にはきわめて密接なものがあり、労働を欠いては資本ははたらけないし、自己ないし他人の資本によって補足されない労働者は長くは生きていけない。労働が活力に富んでおれば、資本は高い報酬をかちとりすみやかに発展していくし、資本と知識の力をかりれば、西欧諸国の普通の労働者もかつての王侯貴族に比べていろいろな点でよい食料をとり、よい衣料を着、よい住居にさえ住めるようになる。〉

 マーシャルは資本主義にたいする悲観的運命論に替えて、資本主義の楽観的展望をかかげている。

   18 労働の稼得

 ケインズは『人物評伝』のなかで、師のマーシャルについて論じ、かれが晩年に語ったとされることばを引用している。

〈[大学の]休暇中に私はいくつかの都市の最も貧困な地区を訪れて、最も貧しい人々の顔を見ながら次々に街路を歩いてみた。そのあと、私は経済学についてできるだけ徹底的な研究をしようと決意した。〉

 マーシャルは貧困を克服する手立てとして、経済学を研究しようと思った。それはマルクスも同様だった。マルクスの場合は、社会主義革命こそが、その解決策となるはずだった。これにたいし、マーシャルは長期的には資本主義の将来に楽観的な展望をもつにいたった。
 いっぽう、大恐慌の惨憺なありさまをまのあたりにしたケインズは、マーシャルの楽観論を念頭におきながらも、その「原理」を組み替える必要性を感じた。その結果、『雇用、利子、および貨幣の一般理論』(1936年)が執筆される。そこでは、マーシャルの体系からははずされていた国家が、大きな役割をもつ存在として浮上することになる。
 ここではまだケインズには踏みこまず、マーシャルの分配論をさらにみていくことにしよう。取りあげるのは「労働の稼得」を扱った3つの章である。
 はじめにマーシャルは、労働の稼得はかならずしも均等ではなく、労働者の能率によって、かなり不均等であることを認めている。
 賃金は時間給(日給、月給)、出来高払い、能率給などによって支払われる。マーシャルは、賃金はほんらい「労働者に要求される能力と能率の行使をもととして算定」されるべきだという立場をとっている。そして、労働賃金を一定の水準に向かわせるのは、経済の自由、言い換えれば競争があるからだとしている。
 機械の導入は雇用の減少に結びつきやすい。しかし、雇用を減らしたうえで、賃金も減らすのはまちがっている、とマーシャルは断言する。むしろ、機械を導入しながら賃金を増やしたほうが、生産効率が上がり、製品の単位あたり費用も低下する。かれは「最高の賃金を支払おうとくふうしている実業家こそ最善の実業家である」というモットーに賛成する。
 実質賃金と名目賃金とは区別されなければならない。貨幣の購買力を考慮する必要があるからだ。重要なのは実質賃金である。
 ある人の本来の所得を知るには、粗収入から経費を引いてみなければならない。弁護士であれ、大工であれ、医者であれ、収入から営業経費を控除しなければ、ほんらいの所得は判明しない。
 召使いや店員が、自分で衣服を用意しなければならない場合は、これも経費である。しかし、たとえば、そうした衣服を主人や店主が提供した場合、これを実質賃金に加えるのはまちがいである。逆に、使用者が労働者に、生産した商品の購入を強制する場合は、実質賃金を低下させることになる。
 個人事業では、成功の度合いは不確実であり、その度合いに応じて所得は大きく異なってくる。そのため、不安定な仕事より確実な職種を求める者が多いこと、そのいっぽうで異常に高い報酬を得られる職種に引きつけられていく者もいるというわけだ。
 雇用が不規則な職種では、料金は仕事のわりに高くなる。そのことは弁護士や家具屋などをみればわかる、とマーシャルはいう。このあたりは、当時のイギリスの事情も勘案しなければならないだろう。
 また、その収入を主業だけではなく、副業で稼ぐケースもないではない。家内事業や農業では、家族全体の稼得を収入単位とみるほうがよいかもしれないとも述べている。
 仕事の選択は、個々人の事情によっても、民族性によってもことなってくる。低級な仕事にしか適さない人がいるのも事実だ、とマーシャルはいう。そういう人は簡単な仕事に押し寄せ、かえってその職種の賃金を低くする原因となっている。しかし、「こういった種類の労働をするものが少なくなり、その賃金も高くなるようにすることは、他のどんな仕事にも劣らず、社会的に緊要な仕事なのである」。
 このように、マーシャルは、労働者にせよ、個人事業者にせよ、その仕事内容も所得もけっして一律ではなく、大きなばらつきがあるとみている。
 その理由は、働き手が扱っている(あるいは生みだしている)物やサービス、すなわち商品の価値に関係している。労働者や個人事業主は、その商品が生みだす価値の形成にどれだけ寄与したかによって、その分配分を受け取るとみてよい。労働者や個人事業主の所得が、仕事に応じて、かなりのちがいがでるのはそのためだ。
 マーシャルはさらに、賃金のもたらす累積的効果にも注目する。低賃金は労働の質を低下させ、さらにいっそうの賃金低下を招く。これにたいし、高賃金は労働の質を高め、人をより勤勉にさせる。
 いっぽうマーシャルは労働者は機械のように売買できないこと、さらに「労働者はその労働力を売るが、自分自身を売り渡しはしない」とも述べている。
 労働者は奴隷ではない。しかも、労働者の売る能力は、機械以上のものである。
 マーシャルは、労働者の育成には長い時間がかかることを認めている。
 労働者の養育と訓練は、その両親の保護があってこそ可能になる。資力に加えて、先見力や犠牲が、子の将来を支える。
 高い階層の人びとは、将来を考え、子どもたちを養育し、訓練することを怠らない。しかし、下層の人びとは、しばしば子どもたちの教育訓練にまで目がいかぬことが多い。そのため「かれらは能力や資質を十分に開発されぬまま、その生涯を終えてしまう」ことになりがちだが、それらが十分に開花し結実するならば、社会にとってどれだけ有益かわからない、とマーシャルは嘆いている。
 問題はこうした弊害が累積的であることだ。「そうした悪循環が世代から世代へと累積していく」ことを何とかして避けたい。
「ある世代の労働者によりよい稼得とかれらの最良の資質を開発するよい機会をもたらすような変化が起これば、かれらはその子供たちによりよい物的および道徳的な利便を与えてやれるようになろう」。それがマーシャルの希望でもある。
 人生における出発のちがいは、職業の選択においても大きなちがいをもたらす。高い階層に生まれた者が有利なことはいうまでもない。熟練工の息子は、非熟練工の息子よりめぐまれているし、家庭でもゆきとどいた世話を受けて育っている。
 学校での教育が終了したあと、労働者に周到な訓練をほどこすのは雇い主である。雇い主は従業員に投下した資本の成果があらわれることを期待する。
「高賃金の労働こそほんとうは安い労働だ」とマーシャルはいう。その影響力はひとつの世代だけで終わらず、次の世代にも永続的な便益を与える。
 所得の大きさは、次の世代の育成にも影響をもたらすというのが、マーシャルの持論だとみてよい。
 労働についての考察は、さらにつづく。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その4) [商品世界論ノート]

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   12 安定均衡

 第5編の「需要・供給および価値の一般的関係」にはいる(日本語版では第3分冊)。シュンペーターがもっとも評価した部分だ。
 まずマーシャルは需要と供給が出会う場、商品の売買がなされる市場について論じている。
 市場(いちば)はもともと食料などの日常品が並べられる公開の場所をさしていた。だが、のちにそれは食料にかぎらず綿花や石炭、砂糖、鉄、貴金属、証券など、すべての商品が取引される場を意味するようになった。その場は一般に市場(しじょう)と呼ばれる。
 商品はその性格によって、さまざまな市場をもつ。近隣でしかさばけない耐久性のない商品もあれば、遠隔地で大きな需要が見込める貴重な商品もある。それに応じて、市場は世界市場から僻地市場までの幅をもつ。
 市場は抽象概念だ。どんな商品であれ、商品が取引される場が市場と呼ばれる。マーシャルの時代とちがって、いまや市場は商店にとどまらずデパートやスーパー、郊外店、さらにインターネット上にも広がっている。就職市場など、時期に応じて開かれる市場もある。市場は空間だけでなく、時間によっても左右される。
『経済学原理』でマーシャルが挙げているのは、小麦市場の例だ。
 まだ取引は成立していない。売り手が売りたいと思う量と買い手が買いたいと思う量は価格に応じてことなってくる。
 たとえば、こんなふうになる。

  価格    売り手   買い手
  500円   3000袋   1000袋
  400円   2000袋   2000袋
  300円   1000袋   3000袋

 ここでは400円なら売り手が2000袋市場に出したいと思い、買い手は2000袋買いたいと思う。ここで供給と需要が均衡する。
 この例はあくまでもひとつのモデルにすぎない。実際の取引の動きとはことなるだろう。それをさておき、マーシャルは供給と需要の均衡する価格が存在すると想定する。その価格では、商品が売り尽くされ、買い尽くされることになる。
 とはいえ、価格は供給側の胸算用によって、とりあえず算出される。たとえば商品となる作物のでき、予想される収穫量などをみて判断されるだろう。
 次に穀物だけではなく、一般商品に枠を広げてみよう。
 商品をつくるには、多様な資本と労働を要する。これに商品ができあがるまでの「待忍」の費用を加えたものが商品の「真実の生産費」だ、とマーシャルはいう。つまり、生産費に適切な期待利潤(「待忍」の費用)を加えたものが、商品の供給価格となる。
 もちろん商品は多量に出荷されるから、市場での供給価格は、商品1単位の価格で表示される。さらに、実際の市場価格には流通経費も加わる。
 生産者はできるだけ経費のかからない生産方法を選択する。社会もまた能率のよくない生産者より能率のよい生産者を選ぶだろう。マーシャルは、これを「代替の原理」と名づけている。
 ただし、労働市場には一般市場とことなる特殊性がある。労働市場では「労働力の売り手は処分できる労働力をただ一単位しかもっていない」。
 からだはひとつだ。そのため、何が何でも職を得ようとする労働者は、低い賃金でもみずからの労働力を売りに出そうとするかもしれない。
 労働市場では、企業は供給側でなく需要側に立っている。一般市場では労働者は商品を買う側なのに、労働市場ではみずからの能力を売る側になる。企業はそうした人間の能力(人材)を買うことによって、原料や機械だけでは得られない商品価値をつくりだそうとする。したがって、労働力は単なる商品ではない、とマーシャルはいう。
 こうして、商品世界は製造物を商品化するだけではなく、人間の能力をも商品化することによって、はじめて循環していくことになる。ただし、一般商品と労働力商品とでは、その需給の流れが逆であることに注目しなければならない。つまり商品をつくる商品が労働力商品であるのにたいして、労働力をつくる商品が一般商品なのだ。
 商品に需要と供給の力関係がはたらくのは、商品世界に対位変換構造が存在するためである。商品は売り手と買い手がいて、はじめて成り立つ。労働者は売り手であると同時に買い手でもある。企業もまた買い手であると同時に売り手である。こうした対位変換的な商品構造は近代において本格的に成立したといえる。
 マーシャルは商品には一定の需要価格もあるという。そして、「どんな場合にも市場に売りにだされる分量が多くなればその買い手を見いだせるような価格は低くなっていく」と論じる。
 きわめてシンプルにいうと、供給価格は前に述べたように企業の生産費(経営の租利益を含む)に一致する。新しい生産方法が導入されなければ、ふつう生産量の増加にともなって、生産費は上昇していく(収穫逓減の法則)。
 しかし、生産が大規模化し、手労働に代えて機械作業(いまならAI)が導入され、人力の代わりに蒸気動力(いまなら石油や電気のエネルギー)が用いられるようになると、生産費は下がっていく。つまり規模の経済がはたらく。
 市場において、需要価格が供給価格より高い場合は、生産者はその商品の生産をもっと増やそうとする。逆に需要価格が供給価格より低い場合は、生産者はその商品の生産量を減らそうとする。そして、需要価格と供給価格が一致する場合に安定均衡が達成される。
 商品の生産量と価格は、わずかに変動することがあっても、安定均衡に収束する傾向がある。ただし、この均衡点は常に同じというわけではない。さまざまな状況の変化によって、需要表と供給表がたえず変動しているためである。そのため安定均衡点は常に再形成されていく。
 ここで時間の要素がはいってくる。「われわれは将来を完全に予測することはできない」と、マーシャルはいう。予想もしなかったことが起こるかもしれない。人口減少、資源の枯渇、競争の激化、新商品の開発といったこともありうる。それによって、市場の状況は変わってくる。
 アダム・スミスが述べた商品の正常価値ないし「自然価値」を判断するのはむずかしい。「価値が効用で決まるか生産費で決まるか議論するのは、紙を切るのははさみの上刃か下刃かと争うようなものであろう」とマーシャルはいう。
 とりあえずの結論はこうだ。

〈われわれは一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値にたいする需要側の影響をそれだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産の影響をそれだけおもく考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである。……[長期においては]結局は持続的な諸原因が価値を完全に支配することになる。しかしながら最も持続的な原因でも変動をまぬかれない。世代の移り変わりにつれて、生産の全構造も変容していき、いろいろな事物の生産費の相対的な大きさもまったく変わってしまうのだ。〉

 われわれは新たに生まれては消えていく変動めまぐるしい商品の価値体系のなかでくらしている。たとえば、石油や電気が、照明や暖房、食料、衣服、交通、文化にわたるそれまでのあらゆる生活様式を変え、いまも変えつづけていることを考えれば、いまもわれわれは変動のすり鉢のなかに投げこまれているかのようである。

   13 短期均衡と長期均衡

 企業家はじゅうぶんな成果が見込めなければ、支出(投資)をしようとしないものだ、とマーシャルは書いている。
 失敗の危険にたいしては引き当て分を用意しておかなければならない。また商品として成熟するまで時間がかかるとしたら、それまでの支出にたいする元利も累計して支出の合計を計算しておかなければならない。これらのすべてが事業にかかる費用となる。
 加えて、成果をだすまでの努力や待忍も費用の要素だ。それは追加的な収益とは別のもので、事業主自身の仕事の報酬になるという。こうした費用の回収が見込めなければ、企業家は事業をはじめるわけにはいかない。
 事業が開始されるまでの経費や効率は常に見直されなければならない。仕入先や機械の選択、販売方法の検討も必要だ。投資はぎりぎりの収益が見込めるところまでなされるだろう。
 ここで、生産と消費の関係について、マーシャルは次のように述べている。

〈生産の新しい方法は新しい商品を生みだし、あるいは古い商品の価格を低下させてより多くの消費者が購入できるようにする。他方また消費のしかたが変化し消費量が変動することによって、生産の新しい展開を生みだし、生産資源の新しい配分をもたらしてくる。人間生活の向上にたいへん役立つような消費のしかたのうちには、物的富の生産を促進するとしても、ほんのわずかしか効果を生まないものもあるのだが、それでもなお生産と消費とは密接に関係しあっているのだ。〉

 マーシャルが強調しているのは、生産が消費と対応しており、消費を念頭におかない生産はありえないということである。自給自足の世界では、生産は消費と即つながっていた。だが、商品世界においては、もともと生産と消費は分離されており、商品=貨幣を媒介することで、はじめて結合と循環が保たれることになる。そのとき資源もまた商品=貨幣を通じて配分されていく。
 商品世界における困難は、生産と消費の分離によって生じる。
 たとえば建築業者が一般人の需要を見越してマンションを建てるとしよう。その判断が的中すれば業者は利益を得るばかりか社会にも便益を与える。だが、その判断がまちがっていれば、業者は大きな損失をこうむり、最悪の場合、企業は倒産に追いこまれる。
 ここで大きな損失が発生するのは、生産費用が回収されないためだ。
 生産費は主要費用と補足費用とからなり、それらを合わせたものをマーシャルは全部費用と名づけている。主要費用は直接費であり、原料費、賃金、機械の消耗費などからなる。補足費は間接費であり、工場の固定費、幹部職員などの給与、その他特別費からなる。
 長期的には、これらの全費用が回収されなければならない。企業の運営には労苦と心痛がともなう。全費用を回収しても、それを上回る余剰が得られなければ、だれも企業などはじめようと思わないだろう、とマーシャルは書いている。
 ふたたび需要と供給の均衡について。
 正常か異常かは、長期もしくは短期で考えるか、現行の特殊な要因を勘案する場合によって、判断が異なってくる、とマーシャルはいう。商品市場や労働市場はさまざまな変動にさらされている。突然の災害がおこったり、何らかの事件が発生したりすることもありうる。したがって、何をもって正常とするかはなかなか断定しがたい。
 そこで論議を進めるうえでは、攪乱的な影響がなく、生産と消費、分配の条件が変わらず、人口も不変という仮定のもとで、一般的傾向を推論していくほかない、とマーシャルはいう。
 市場に攪乱のない定常状態では、商品の価値を規制するのは生産費であって、供給価格と需要価格は一致し、正常価格は一定に保たれる。だが、実際にこういう状態はまずありえない。生産方法や生産量、生産費は常に動いているし、需要の流れも変動しているからだ。人口も富も変化し、土地も不足し、通商関係も変わったりする。
 定常状態のモデルから、厳しい条件をとりはずしていけば、少しずつ現実の生活に接近してくる。あるいは静学的なモデルに現実の条件を加えていけば、新たなモデルをつくり、それを検証することもできる。
 ここでマーシャルは漁業を例にとる。たとえば、天候不順がつづいた場合は漁獲量が減り、供給価格が上昇していく。いっぽう、疫病が発生して食肉への不安が高まり、魚肉への需要が高まった場合も、魚の供給価格は上昇していく。資源が枯渇の兆候を示した場合も同じだろう。だが大きな需要に応じるため、漁師が漁船の規模や装備を増強し、漁獲高を増やしていくなら、供給価格はいくらか下がっていくかもしれない。
 こうした例示は、漁業や農業だけではなく、工業の場合もあてはまる。市場価格は需要と在庫に依存しているのだ。
 マーシャルは「限界生産」という考え方を持ちだす。市場において価格の上昇が期待されると、生産の限界が押し広げられ、主要費用を上回る余剰を求めて、余剰があるかぎり、生産が増大していくというのだ。
 ただし、その行動は短期と長期でことなる。

〈短期においては、生産の装備の大きさはほぼ固定しているので、人々の行動はこれら装備をどの程度まで積極的に活用するかを検討する際の需要の期待によって決められてくるし、長期においては、これら装備の供給は生産しようとする財にたいする需要の期待に対応するよう調整されるのだ。〉

 高い価格が期待されると、短期では労働時間を延長して装備がフルに動かされる。短期においては、生産者はすでに設置された装備を利用して、できるだけその供給を需要に適合させるよう努力していくしかない。だが、そうした生産の増大には限度がある。
 そこで長期の対応が検討される。
 長期の計画においては、大規模生産の経済が予想されている。そこでは供給価格は逓減し、それによってより多くの需要が得られるものと考えられている。
 大規模生産にいたる道は、不十分な資本しかもたない小企業が苦労の末、大きな事業体をつくるにいたるケースもあれば、富裕な資本家が巨額の投資によって、大規模な事業を立ち上げるケースもある。
 長期と短期のあいだに厳密な区別があるわけではない。短期においては、現存の設備にもとづいて商品供給の増加がはかられる。これにたいし長期においては設備や工場の拡張が、商品供給の原動力となる。そして、さらに長期的には、人口や知識、技術、資本の成長、ならびに世代の変遷にともなう変化が考えられる。
 ここでマーシャルは需要と供給の流れをもう少し細かく検討している。
 たとえば、ビールは直接に需要される。しかし、ビールができあがり、消費者のもとに届くまでには、次のような工程が考えられるだろう。

  麦 芽[右斜め下]
  水  →ビール工場→ビール→消費者
  ホップ[右斜め上]

 ここで企業にとって、麦芽やホップは間接的(あるいは派生的)な需要対象となる。そして、麦芽やホップはビール工場で結合され、ビールという商品として供給され、消費者の需要対象となる。
 もし材料である麦芽やホップの値段や供給量が上下すると、最終製品の価格や供給量も変化する。それに応じて消費者需要のあり方も変わってくる。一般にビールの価格が上昇すれば、消費者はビールを飲むのを多少控えるだろうし、逆にその値段がさがれば、もう少し飲もうかと思うようになるだろう。
 間接需要の変化が最終需要にどのような影響をもたらすかは、ケースバイケースである。多少値段が上がっても、ビールが飲みたい欲求は変わらないから、需要はさして減らないということも考えられる。しかし、あまりに値段が上がると、ビールの代わりにたとえば焼酎を選ぶこともありうる。工場の側も麦芽やホップの新たな仕入先を探すかもしれない。さらにホップと麦芽の割合を変えて、できるだけ値段をあげないようにするのもひとつの手段である。
 いずれにせよ、ここでは供給が単なる供給ではなく、それ自体がさまざまな需要の束からできあがっていることを認識することが重要である。とりわけ、その中心となるのが労働力にたいする需要である。
 マーシャルはいう。

〈ほとんどすべての原料と労働は数多くの異なった産業部門で使われ、ひじょうに多種多様な商品の生産に寄与している。これらの商品はそれぞれその直接の需要をもっており、それから生産要因のそれぞれにたいする派生需要が起こってくる。〉

 これらの派生需要を合計したものが供給サイドの全体需要となるわけだ。
 結合生産物も存在する、とマーシャルはいう。
 たとえば、羊は羊毛と羊肉に分けられる。小麦は食料としての小麦と麦わらに分けられる。したがって、羊や小麦は結合生産物なのである。そして、どの用途を優先するかによって、商品化への手間のかけ方が変わってくる。
 同じことが一般的な産業についてもいえる。生産過程において、主要な産物と副次的な産物が発生するのはよくあることだ。そのうちのどれを優先するかは、いわば市場の動きによる。
 複合供給ないし複合需要の現象もよくみられる。たとえば牛肉と豚肉は競合商品だといってもよい。それらは別々の商品でありながら、価格と質に応じて、同じように消費者の欲求を満たすことになる。
 こうした商品のさまざまな関係を見ながら、商品の動きをとらえていくことがだいじだ、とマーシャルはいう。過大な需要が資源の枯渇をもたらすこともあれば、交通の発達が生産経費の削減につながることもある。またある分野の製品価格の変動が、ほかの製品の価格に影響をことも多い。このように、商品世界は一商品だけで独立しているわけではなく、多岐にわたる商品の連鎖のなかで成り立っているのである。

   14 価値と限界費用

 ここでは生産物の価値と限界費用の関係が論じられる。マーシャルは正常な状態と長期の結果を前提としている。それを前提とすれば、変則的な状態や短期の場合にも応用がきくからだ。
 それを紹介する前に、もう一度、商品世界の成り立ちをおさらいしておこう。
需要と供給が分離・結合される商品世界においては、商品と貨幣を媒介にして、経済の循環構造が維持されている。供給は需要なくして実現しないし、需要は供給なくして実現しない。供給と需要の変化は、ごくわずかであっても、連動して全体の需給関係に影響をおよぼす。供給と需要は留まることなく、いわば潮流のようなものをかたちづくっている。
 その流れを切り取って図示すれば、こんなふうになるかもしれない。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その3) [商品世界論ノート]

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  8 収穫逓減の法則

 ここからは第4編、生産についての考察にはいる。そのタイトルは「生産要因 土地・労働・資本および組織」となっている。
 生産の目的は消費である。人間は外からもたらされた財を消費することによってみずからを再形成し、その労力を消費することによって、内にとりいれる財をつくりだす過程をくり返しているといってよい。とりわけ近代に近づくにつれ、その財は商品となり、生産と消費の循環は貨幣を媒介しておこなわれるようになる。そのさい、分配は財の直接分配という形態ではなく、媒介物としての貨幣を分配する形態をとるようになった。
 近代のひとつの特徴は、生産が自己消費財のためではなく、市場で売買される商品をつくることに向けられている点である。この過程は不可逆的であって、歴史を無理やり元に戻そうとしても、そこには大きな災厄が発生することを、われわれはしばしば味わってきた。
 ポル・ポト政権時代のカンボジアをみればわかるように、貨幣と商品が廃止され、生産が直接的な消費財に限定されるならば、生産と消費は一気に落ち込み、社会は急速に窮乏化する。生産力の大きさが近代を支えているといってよい。それを可能にしたのは商品という存在である。商品そのものを否定することは、社会に荒廃と混乱をもたらすだろう。
 近代における生産とはいったい何かを考えてみる。
 マーシャルは、はじめに生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは自然が人間に提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルは3つの生産要因がからみあって進行する生産過程そのものを論じているわけではない。マルクスが生産過程にこそ剰余価値が発生する根拠があるとするのにたいし、マーシャルがそれについてあまりふれないのは、かれが企業家的視点に立ち、資本による労働の支配をとうぜんと考えているという見方もある。しかし、それよりも、マルクスの労働価値説、とりわけ剰余価値説を否定しているからだと考えてよいだろう。
 マーシャルにとって、利潤が発生するのは、需要と供給の均衡する場においてであり、けっして生産過程においてではない。したがって、利潤の問題は、次の第5編「需要・供給および価値の一般的関係」において論じられることになるだろう。こうして、生産過程の実態は、いわば社会学的分析に押しやられ、経済学の領域から排除されることになった。それは近代経済学のひとつの欠陥と考えることもできる。
 マーシャルが、生産過程において利潤が生じるわけではないとした理由を憶測するには、たとえば2000円のシャツを500枚生産したケースを思い浮かべてみればよい。この場合、シャツの価値は100万円であり、そのうち材料費その他経費が30万円で、賃金が40万円だとすれば、利潤は30万円ということになる。マルクスの言い方をきわめて単純化すれば、ここでは30万円の剰余価値が生まれていることになる。
 ところが、実際にシャツの価値が実現されるのは市場においてである。もし市場において、500枚つくったシャツが400枚しか売れなかったら、どうなるだろう。利益は10万円しかでない。すると、いわば30万円の剰余価値が10万円の利潤に転化されたことになる。もし300枚しか売れなかったら、利潤どころか10万円の赤字である。マーシャルが、生産過程において利潤が生じるわけではないとしたのは、利潤はあくまでも需要と供給の関係によって決まると考えるからである。
 そのため、マーシャルは生産過程の現場の葛藤を思いきり捨象して、生産要因の問題だけを論じることにしたとみてよいだろう。ここで重要なのは、生産要因がすべて貨幣によって価値づけられること、言い換えれば、それ自体が価格をもつ商品になりうることである。近代の特質がここにも現れている。
最初に論じられるのは土地、すなわち自然要因である。
 その前に、マーシャルはこう書いている。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここで人間の経済の特徴が説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用な財に変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、消費・生産・分配のシステムを通じて、人びとはみずからの生活を築くようになる。
 しかし、そもそも人間に有用たりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海や鉱山であってもいいのだが)、経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりで、まず思い浮かべるのは農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水や太陽をはじめとするそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする。こうした人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。
 土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたい部分もある。人によって、豊かな土地もあれば、貧しい土地もある。
 とはいえ、いずれの場合も、資本と労働を追加投入するにしたがって、土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる「収穫逓減の法則」である。
 開墾しないでも、そのまま役立つ広大な土地が存在するなら、資本と労働を投入することによって、収穫逓増が生じることもある。だが、同じ農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜には、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくる。
 耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、あくまでも相対的な尺度だ、とマーシャルはいう。
 収穫逓減の法則を打ちだしたのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくるのだ。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという条件にもとづく。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

〈製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業に拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。縦軸に価格、横軸に数量をとると、需要曲線が右下がりになるのにたいし、供給曲線が右上がりになる根拠はここに求められている。
 生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、一定の技術のもとで、市場で売買される数量が増えると、生産面では生産者が「不効用」の発生に見舞われ(つまり利潤率が低下し)、消費面では消費者が消費者余剰を得るようになる、とマーシャルはとらえている。つまり、労働者の雇用増と商品の普及、消費の拡大が連動する局面が想定できるのである。

  9 人口、生産、労働力

 マーシャルは労働者を資本の意志によって働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで与えられた有用な仕事をはたす人びと全体を指すのであって、その質の高さは長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 大陸ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かった。これにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的に、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは指摘する。これは現代にもあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。
 19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半になると、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなってくる。労働者階級は生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったという。
 人口と労働、健康はどのような関係があるのだろうか。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が保たれなければならない。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。衣料や住居、燃料も欠かせない要因だ。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルも認めている。それを改善することが経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都市に集まった才能ある人びとが、郊外に居を定めるようになったのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府による社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、むしろ人間の活力を奪う要因になりうる、とマーシャルはいう。
 しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方を論じる。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べたものである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくる。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育だけで天才的な科学者や有能な経営者が生まれるわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つ、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」
 国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にするのだと信じていた。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 こうした好循環は、あまりに楽観的な展望にちがいない。マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていくなかで、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願っていた。だが、現実はかならずしも、そうはならなかった。

   10 資本と産業組織

 マーシャルは、富から生まれた資本が産業組織を動かし、それによってまた新たな富がつくりだされると考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その2) [商品世界論ノート]

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   5 いくつかの基本用語

 第2編「若干の基本的概念」にはいる。マーシャルは経済学の基本用語を定義するところからはじめる。
(1)富
 富は財からなるといってよい。
 財は物質的なものと非物質的なものに分類できる。非物質的なものは、主に人的な要素からなる。
 ある人の富は、私有権によって保証された物質的な財と、人的関係(契約や権利、個人的なつながり、など)にもとづく非物質的な財からなる。つまり、個人の富は「物質的ならびに人的な富」からできている。
 だが、富はそれに尽きるわけではない。たとえば「自由財」は自然によって与えられ、だれもが自由に利用できる財のことである。山の水や海の魚のように。しかし、現在のように、経済が発展してくると、さまざまな権利や規制が発生して、「自由財」という概念は、再検討の必要が生じている、とマーシャルはいう。
 人は私有していない財からも便宜を得ている。たとえば「公共財」は社会の環境によって与えられる。軍事的・社会的安全保障や、道路、水道、ガスなどの社会インフラ、病院や学校、その他の社会制度などがそれにあたる。
 こうした「公共財」は、国民の公有財産である。だが、音楽や文学作品、科学的知識や発明も、ある面では公共財だ、とマーシャルはいう。
 したがって、国富は個々人の富の総計だけで成り立つのではなく、それ以上のものである。それは世界の富に関してもいえる。世界の富は、それぞれの純国富を合計したものではない。たとえば大洋が地球全体の富であることを考えれば、世界の富は国富の総計よりも大きい、とマーシャルは論じる。
 私有財産にとどまらず、自由財や公共財の大きさに国の豊かさの尺度を求めたところに、マーシャルの真骨頂がある。
 そして、マーシャルは、自由財や公共財を含む財からなる国富全体の価値は、貨幣価値によって表示できると考えていた。
(2)生産、消費、生活水準
 人間は物質をつくりだせない。つくれるのは効用(utility)だけだ、とマーシャルはいう。「別のことばでいえば、かれの努力と犠牲によって物質の形態としくみを変化させて欲求の充足によりよく適合するようにするだけなのである」
 商品の価値がそれにつぎこまれた労働によって決まるとされるのにたいし、商品の効用はそれを手に入れたいと思う欲求によって計られる。そして、生産の目的は「欲求の充足によりよく適合する」商品をつくりだすことである。
 農民や漁民や職人が効用をつくりだすように、八百屋や魚屋や家具商などの商人も商品を移動し、配置することで効用をつくりだしている、とマーシャルは主張する。商人が不生産的とはいえない。生産とは効用をつくりだすことにほかならないからである。生産的労働と不生産的労働をめぐる議論はばかばかしいという。
 いっぽう、人間が消費するのも効用だけである。家具にせよ何にせよ、消費によって、人はその物自体を消尽しているわけではなく、商品の効用を使用しているにすぎない。
 財は人の欲求を直接満たす消費財(たとえば食品や衣服など)と、間接的に欲求を満たす生産財(道具や機械)に分類することができる。
 労働とは、なんらかの効用を生みだすことを目標にしてなされる精神的・肉体的活動をさしている。したがって、労働はそれ自体が生産的活動であり、召使いの労働とてけっして不生産的ではない。
 生産の目的は消費である。消費は生産を促す。生産と消費はかみ合いながら、商品世界の継続的な流れを形づくっている。
 かつて必需品とは、生活維持に必要かつ十分なものを指していた。必需品の水準(言いかえれば生活水準)は時と場所によって異なる。その水準を下げることは、多くの損失をもたらす。
 マーシャルは現在(20世紀はじめ)のイギリスにおいても、通常の農業労働者、あるいは都市の未熟練労働者であっても、次のような必需品(生活水準)を満たせるようにすべきだと述べている。
 それは、数室つきの住宅、きれいな下着とあたたかい衣服、清浄な水、肉と牛乳と茶をふんだんにとれる食事、一定の教育と娯楽、主婦が育児と家事をこなしても残る自由時間というものだ。さらに慣行として、ある程度の嗜好品も必需品の範囲にはいるとしている。
 労働をむやみに神聖視せず、消費を重視し、経済の目標を生活水準の上昇をめざすことに置いたところに、マーシャル経済学の性格がにじみでている。
(3)所得、資本
 貨幣経済において、所得は一般に貨幣形態をとる。
 いっぽう、所得を得るために、企業は資本を必要とする。資本は工場や建物、機械、原材料、従業員への支払い、営業上ののれんを確保するためなどに用いられる。
 企業の純所得は、粗収入から生産経費(原材料費や賃金など)を控除したものである。個人営業の場合も、これと同様である。
 純所得から借り入れの利子を差し引いたものが純収益となる。純収益、すなわち利潤が得られない場合、企業はついには営業の続行を断念するほかない、とマーシャルは書いている。
 企業の年間利潤は、年間経費にたいする収益の超過額である。また、資本に対する利潤の比率は利潤率と呼ばれる。
 企業活動には、さらに地代(レント)も必要とする。これは土地などの自然要素の借り入れにたいして支払われる費用である。機械など人工の設備にたいする借り入れ(レンタル)にたいしても、費用が発生する。これは地代と区別して準地代と名づけることができる。
 次にマーシャルは資本の中身に立ち入り、これを消費資本と補助(手段)資本に分類する。消費資本とはいわば賃金にあたる部分である。これにたいし、補助資本は労働を補助する材料、すなわち原材料や道具、機械、建物から構成される。
 いっぽうで、資本はJ・S・ミルが提案したように、運転(流動)資本と固定資本に分類することもできる。賃金や原材料から構成される運転資本が1回ごとにその役割を終えるのにたいし、機械や工場などから構成される固定資本は、その耐用期間に応じて、商品をつくりだす。
 さらにマーシャルは、実業家の観点からだけではなく、社会的視点から所得について考察する。
 所得とは資産を利用することによって得られる報酬であり、それは一般に貨幣所得のかたちをとる。
 生産の3要素は土地、労働、資本であり、そのそれぞれが資産だと考えられる。地主は土地、労働者は労働、資本家は資本を資産として利用することで、それぞれの所得を獲得する。その所得は地主なら地代、労働者なら賃金、資本家なら利潤というかたちをとる。
 こうした所得(純所得)を総計したものが社会所得、すなわち国民所得となる。国民所得は(年間の)富の流れ(フロー)をあらわす尺度である。

〈貨幣所得すなわち富の流れは一国の繁栄を計る一つの尺度となり、しかもこの尺度は、十分信頼できるものではないけれども、それでもある意味においては富のストックの貨幣表示額という尺度よりもすぐれている。〉

 マーシャルは現在でいう国民総所得、すなわち国民総生産の考え方を導入したということができる。
 しかも、経済指標としては、国民所得のほうが国富よりもすぐれているとした。なぜなら、国民所得はすぐに消費できる財貨に対応しており、現時点の豊かさの度合いを示す指標だからである。
 もう一度整理しておこう。
 国富は一国の富のストック、国民所得は所得の(1年間の)フローを示す概念である。
 国富は純資産の総計からなる。資産は不動産その他の財産、貯蓄、保有株などからなり、個人や企業、国家が所有する純資産を総計したものが国富となる。
 アダム・スミスの『国富論』は、国民の富をいかに増やすかを論じた著作とみることもできる。しかし、じっさいにスミスが強調したのは、資本の役割についてである。スミスの時代には、国富と国民所得のちがいがさほど意識されてはいなかった。
 マーシャルは国民所得こそが主な経済指標であると主張することで、経済の新たな目標を示した。かれにとっても、資本が重要であったことはまちがいない。資本は需要と供給に応じて、資産のなかから取りだされる。だが、マーシャルにとって、資本の目的は、単に企業(資本家)の所得を増大させることではなく、国民所得全体を潤すことだった。
 そのことは、最初に強調しておいてもよいだろう。

   6 消費の問題

 商品とは貨幣で買えるモノやサービス、情報、コトをさしている。ここでは、商品をモノとしてだけとらえるのではなく、できるだけ広く定義しようとしている。もし商品がモノに尽きるとしたら、マルクスのいう労働力商品は成り立たない。なぜなら、労働者はけっしてモノにはなりえないからである。むしろ、労働者にとって、労働力はみずからの資本だとさえいうことができる。
 だとすれば、商品の本質はモノではなく、マーシャルのいうように効用でなくてはならない。そうするなら、商品の概念は有用なモノをはじめ、さまざまなサービス、役に立つ情報、あるいは人を楽しませてくれるコトにまで広げることができる。
 商品世界とは、そうした貨幣で買うことができるモノやサービス、情報、コトが限りなく拡張していく世界でもある。そうした流れのなかでは、古い商品が新しい商品に取って代わられることもあるし、昔ながらの商品がかえって珍重されることもある。
 激しく変遷する商品の歴史はそのまま人びとの生活史とつながっているともいえる。その背後にはどのような力がはたらいているのだろうか。
 近代の生産・分配・交換・消費からなる経済の循環構造を支えるのは、実態としては貨幣と商品であるといってよい。ここでは、貨幣と商品の分離と結合によって形づくられる生活世界を商品世界と呼んでいるが、こうした商品世界が本格的にはじまるのは、せいぜい16世紀からで、それが全面的に開花するのは19世紀になってからだとみている。とりわけ20世紀にはいってからの商品世界の進展ぶりはめざましかった。
 商品世界とそれ以前の世界を比較対照することは重要である。そのことによって、商品世界のもつ意味や問題もあきらかになってくるし、さらに、商品世界が今後どうなっていくかを想像することもできるからである。
 そのことをとりわけ意識していたのはマルクスだといってよい。
 マルクスは「経済学批判序説」のなかで、こう書いている。

〈われわれが到達した結果は、生産、分配、交換、消費が同一だということではなくて、それらが一個の総体の全肢節を、ひとつの統一の内部での区別を、なしているということである。生産は、生産の対立的規定における自分を包摂しているのと同様に、ほかの諸要因をも包摂している。過程はつねに新しく生産からはじまる。交換と消費が包摂者になることができないことは、おのずからあきらかである。生産物の分配としての分配についても同じことがいえる。しかし生産諸要素の分配としては、分配は、それ自身生産のひとつの要因である。だからある一定の生産は、一定の消費、分配、交換を、これらのさまざまな諸要因どうしの一定の関係を、規定する。もちろん生産もまた、その一面的形態においては、それとして、ほかの要因によって規定される。〉

 ここでマルクスは、商品世界が「生産、分配、交換、消費」の循環構造から成り立っていることを示しつつ、生産こそが「ほかの諸要因をも包摂」する出発点であると述べている。消費や分配、交換が生産に影響を与える場合もあるが、消費や分配、交換を規定するのは、基本的には生産だというのが、マルクスの考え方だといってよい。そして、こうした生産様式は歴史的に発展してきたもので、現在の資本主義的生産様式は、いずれもっと高次の共同体的な生産様式に取って代わられねばならない、とマルクスは主張した。
 商品世界が循環構造をもつのは、生産のなかに消費が含まれ、消費のなかに生産が含まれているためだと指摘した点は、マルクスの卓見である。
 人間は生産行為のなかで、みずからの能力を消費する。生産は原料やエネルギー、機械などの生産手段を消費することによって、商品をつくりだす。いっぽうで人間は食物を摂取したり、眠るためのベッドを整えるなどの消費をおこなうことで、みずからを生産する。

〈だから生産は直接に消費であり、消費は直接に生産である。おのおのは、直接にその対立物である。だがそれと同時に、両者のあいだにはひとつの媒介する運動がおこなわれる。生産がなければ、消費にはその対象がなくなる。けれども消費もまた生産を媒介する。つまりそれは、生産物にはじめての主体をつくりだすが、その主体にとってこそ、生産物は生産物なのである。生産物は、消費においてはじめて最後のfinish〔仕上げ〕をうける。〉

 生産と消費はコインの両面で、ぴたりとくっついているというのがマルクスの考え方である。生産がなければ消費はないし、消費がなければ生産もない、という言い方もしている。そのことは、資本主義経済が安定的に均衡することを意味するわけではない。しかし、生産と消費が同じコインの両面であることが、商品世界の循環構造を説明する根拠になっているといえるだろう。
 とはいえ、マルクスにとってコインの表面はあくまでも生産なのである。消費は生産の影として、生産に寄り添っている。
 そうしたマルクスの考え方が、消費を重視しない社会主義的ライフスタイルの押しつけにつながっていったとは言えないだろうか。
 マルクスには資本主義的生産様式を否定するあまりに、近代が獲得した「経済の自由」を頭ごなしに否定しがちな側面がある。そうした「経済の自由」のひとつが「消費の自由」であったことはまちがいない。商品世界においては、消費と生産がひとつの経済構造のなかで分離され、結合される。しかし、消費はけっして生産の影ではない。むしろ、消費が生産から分離され、「消費の自由」のもと独自の領域として確立されたことに、近代の経済的特質があった。消費への志向をブルジョワ的とみなすのは、マルクス主義的悪思考のもたらした近代以前への回帰幻想といわねばならないだろう。
 ここで、われわれはソ連時代初期の消費生活を想像してもよい。そこでは「消費の自由」は認められなかった。優先されるのは集団生活であり、配給制だった。工場や金融機関は国有化され、ブルジョワ的財産は没収された。農村では富農(クラーク)の土地や財産が奪われ、農業が集団化された。必要以上の財をもつこと自体が悪と考えられ、ブルジョワ的生活態度や思想を告発することが奨励されていた。
 マルクス自身がこのような社会主義構想をもっていたとは思えない。しかし、マルクスのまいた種には、実際、全体主義にいたる道が含まれていたのである。たしかに現代人がカネ儲けに奔走し、自然を破壊し、消費に明け暮れ、あふれかえる製品に振りまわされている世界は、ハンナ・アーレント流にいえば、ひとつの「世界疎外」であり、異常なことかもしれない。だが、そこから抜けだす方向がスターリニズムやファシズムなどの全体主義であってはならないことを、20世紀の歴史は、さまざまな悲劇を通じて、われわれに教えてくれたのである。
 商品世界についての考察をさらに進めることにしよう。
 これまで指摘したように、商品世界は生産だけで成り立っているわけではない。消費がなされなければ、その世界は回っていかない。商品世界を生みだす最大の起動力は資本である。だが、その資本も、資本がつくりだす商品が流通し、販売され、購入されなければ、資本として維持できない。生産、すなわち供給の側だけで、商品世界がつくられているわけではない。消費、すなわち需要の側の動きがあって、はじめて商品世界は成り立つ。
 マーシャルが強く認識していたのは、その点である。生産、分配、交換、消費の流れからなる商品世界において、もっとも注目されなければならないのは、消費と生産、すなわち需要と供給のぶつかる場である市場の問題だ、とマーシャルは考えていた。
 マーシャルがユニークなのは、市場における需給の均衡を検討する前提として、生産ではなく、まず消費、すなわち需要の問題に光をあてようとしたことである。そこに古典派経済学からの跳躍がみられる。
 マーシャルは「最近にいたるまで需要すなわち消費の問題はいささかなおざりにされてきた」と論じている。その原因は、リカードが生産費に力点をおいて交換価値を規定してきたことが大きい。しかし、最近は数理的な思考が進んできて、需要についての綿密な分析が求められるようになってきたこと、また人びとの幸福や福祉と消費がどのように関係しているかを検討する必要がでてきたことから、消費の研究がいっそう重要になってきたという。
 消費、すなわち欲望とその充足の状況をみるなら、現代人は未開人にくらべ、多種多様、かつ大量に事物を求めるようになり、事物の品質向上や、事物の選択範囲の拡大をも望むようになった、とマーシャルは述べている。
 最初の重要な一歩は火の発見だった。人は火によって、多様な食料を調理することを学び、それにもとづいて食品の種類や量が次第に増えていった。
 衣服にたいする欲求は、自然の欲求にとどまらず、風習や地位、それに自分をよりよく見せようとする欲望に支えられている。
 住宅は雨露をしのぐだけが目的ではない。人はより快適な住宅、「多くの高次な社会的活動をおこなうための要件」としての住宅の拡充を求めつづける。
 人間の欲求は衣食住にかぎられるわけではない。文学や芸術、音楽、娯楽、旅行、運動なども欲求の大きな要素である。
 人間には優越性への欲求もある。「[よりよいものを求めるという]この種の欲求こそ最高の資質、最大の発見を生みだすのに大きな貢献をするのであるが、またそれらにたいする需要の側面においても少なからぬ役割をはたすのだ」と、マーシャルはいう。

〈おおざっぱに言えば、人間の発展の初期の段階ではその欲望が活動をひき起こしたのであるが、その後の進歩の一歩ごとに、新しい欲望が新しい活動を起こすというより、むしろ新しい活動の展開が新しい欲望を呼び起こしてきたとみてさしつかえないようである。〉

 ここでは欲望と活動の相互作用が経済社会を動かしていくさまが予測されているとみてよい。欲望は単に肉体的自然から発生するのではなく、いわば歴史的につくられてきた人間的自然から発生するものへと進化していく。たとえばダイエット食品が生まれたり、スマホが誕生したり、社会がプラスチックではない素材を求めたりするのも、「新しい活動の展開が新しい欲望を呼び起こした」例といえるだろう。
 マーシャルが重視するのは消費者需要である。流通業者や製造業者が生産目的で何かを購入したとしても、そうした生産的消費は最終的には消費者需要によって規制される。「すべての需要の究極の規制要因は消費者需要にある」
 効用と欲求は相関しているが、欲求は測定できない。「その測定はある人がその欲求の実現ないし充足のために支払おうとする価格を介しておこなわれる」。すなわち財の効用は、支払われる商品価格によってしか測定できない。
 マーシャルは個々人の欲望の法則、ないし欲求を満たす効用の法則について論じる。
 ここで持ちだされるのが欲望飽和の法則、すなわち「効用逓減の法則」である。

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