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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その5) [商品世界論ノート]

   17 分配論、その予備的考察

 最終の第6編「国民所得の分配」。
 国民所得の分配を論じる前に、マーシャルはその予備的考察をおこなっている。
 人間が生産するのは消費するためである。したがって、国民生産は国民所得と一致する。いまふうにいえば、国民総生産は国民総所得と同じである。国民所得は国民分配分と言い換えてもいいだろう。
 分配の問題が生じるのは、人間が機械でも奴隷でもないからだ。しかも、現代の経済は「生活必需品をこえた余剰を自然からいよいよ大幅に引きだせるようになってきており」、この余剰を人びとにいかに分配するかが問われるようになってきている、とマーシャルはいう。
 国民所得が労働者と資本家、土地所有者のあいだで、いかに分配されるか。これがマーシャルの問いである。
 最初に、マーシャルはこれまでの経済学説を検討する。
 フランスのフィジオクラット(いわゆる重農主義者)は、「労働者の賃金を飢餓水準にくぎ付けにするような人口の自然法則」があり、利潤についても自然率があると想定していた。アダム・スミスも賃金や利潤の自然率があると考えたが、それらは労働力の需給関係によってある程度変動するとみていた。
マルサスは賃金水準が変化することを認めていたが、賃金が上昇すれば人口が増加し、それによってかえって労働者の生活条件が悪化すると予測した。
 いっぽう、通説では、リカードも賃金は生活必需品をまかなう水準に釘付けされるとみていたと思われがちだ。だが、リカードの主張は、むしろ賃金の低落を防ぐことに置かれていた、とマーシャルはいう。
J・S・ミルは労働者の賃金が最低水準に抑えられがちなことを批判していた。
これら前期の経済学者の見方を踏まえながら、マーシャルは分配についての新たな考え方を示したいとしている。
 マーシャルが最初に仮定するのは、(実際にはありえないのだが)すべての人が労働と資本を所有している場合である。この場合は、投入された労働に応じてつくられた商品が交換され、原則として、すべての人が労働に応じた所得を得る。そのさい、多くの業種で、たとえば作業能率が倍増したとすれば、商品の生産量が増大し、それによって経済のパイが大きくなり、全体の所得も増えることになる。
 たとえ人口が増大していっても「輸送技術の改良、新しい発明、および自然にたいする新しい制御力が得られるごとに、すべての家族が入手できる安楽品やぜいたく品が一様に増大していく」可能性は高い、とマーシャルはいう。このあたりマーシャルの見方はマルサスの悲観論と異なる。
 しかし、人口の増加が長期につづくと、農業などにおいて、収穫逓減の法則がはたらくことはないのだろうか。これについても、マーシャルは一定の生産技術の向上がなされれば、食料が不足することはないとみている。
 現実の世界では、だいたいにおいて、土地と労働、資本は分離されている。そこでは、国民所得、言い換えれば国民分配分は、土地、労働、資本の所有者に分配されていくことになる。
企業家は収益の限界点まで、生産要因を投入していくと考えられる。雇用はそれによって決定される。限界的な雇用は、その労働の投入が、収益を生みだすかいなかによって決まるといってよい。
 ここからマーシャルは以下の傾向を導きだす。
 すなわち「すべての種類の労働の賃金は、その種類の限界的労働者の追加的労働によってもたらされる純生産額と均等となる傾きがある」。
 これがマーシャルの唱える賃金理論の基本だといってよい。
 現実の産業を考える場合には、労働者の雇用にとどまらず、労務管理や機械の導入、原材料、土地についても考慮しなければならない。それらの生産要因を規制するのは、需要と供給の状態(すなわち価格)である。
 一般に企業家は、事業にたいする投資を収益が得られる限界まで進めていく。そのさい、拡大の境界となるのは、利子率である。つまり、利子率が高く、収益率がそれを上回らないと判断されれば、そこで投資はストップする。
 機械と労働との関係には代替性がある。ある種の労働は、機械によってまったく雇用から排除されてしまう。しかし、「全体をみれば労働全般を駆逐するなどということはおこりえない」。生産の拡大は、たとえばその商品を普及するための新たな労働を必要とするからである。このあたり、マーシャルはあくまで楽観的である。
 マーシャルは、さらに国民所得の分配について考察を進める。
 資本の所得の源泉となるのは、商品の生産から得られる利得である。
そのさい、「生産要因にせよ直接消費される商品にせよ、すべてのものの生産は需要供給の力のあいだにつりあいが保たれている限度ないし限界のところまですすめられる」。
それによって得られる純利益が資本の所得となる。
 いっぽう、労働者の所得は賃金である。
 マーシャルは仕事が常に苦しいものだというのはうそで、適度な仕事は楽しいものだという。そして、たいていの場合、報酬が増えれば、労働者はより熱心に、しかも長時間にわたって働くのをいとわない、と指摘している。
 さらに「報酬が引き上げられれば、だいたいのところ能率の高い労働の供給もただちに増大する」と記している。
 賃金の増大が死亡率の低下をもたらし、労働者の肉体的・精神的活力を高めることも認めている。賃金はぎりぎりの生活を満たす最低のものであってよいはずがない。賃金は慣行上の必需品や、習慣上の安楽品を満たす水準にあってこそ、人間生活の風格向上に資する、とマーシャルはいう。
 しかし、労働者の所得が上昇するには、それなりの条件が必要だと指摘することも忘れていない。

〈必需的とはいえないような消費の増大は、ただ人間の自然にたいする制御力の向上を通してまかなうほかはない。それは知識と生産の技法の進歩、組織の改善と原料供給源の拡大および充実、さらには資本および所期の目標を達成する各種の手段の増大があってはじめて可能になるのである。〉

 つまり、賃金が上昇するには、労働生産性の上昇がともなわなければならないというわけだ。
ヨーロッパにおいて、労働者の賃金が上がってきたのは、こうした条件が満たされるようになったからだ、とマーシャルはいう。そして、じっさい賃金の上昇は、労働者の気力と能率の向上をもたらしてきた。
 マーシャルの見方は楽観的だ。
「賃金の上昇は、それが不健康な状態のもとで得られたものでないかぎり、ほとんどつねに世代の肉体的・知性的、いな道徳的な力をさえ強化し、他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるはずの稼得の増大はさらにその上昇率を高める」
 もちろん、その前提として、賃金は労働にたいする需要と供給によって決まるという考え方がある。
需要価格を規定するのは労働の限界生産性である。いっぽう供給価格を規定するのは「能率の高いエネルギーを養成訓練しかつこれを維持していく費用」、言い換えれば、人がそれなりの生活を送れるだけの支払額である。
 次に、利子についていうと、利子とは資本の利用にたいして支払われる価格である。利子率は長期的には、資金にたいする需要と供給の関係によって規定される。
 一般に利子率が上昇すれば、貯蓄が増大する。そのいっぽう、利子率の上昇は、資金にたいする需要を減らしていく。そのため、そこには一種のせめぎ合いが生じてくる。マーシャルは、一般に資本ストックの増加は緩慢で、時間がかかるとみていた。
 土地は資本や労働などとはことなる性格をもっている。土地はたしかに、ある面、資本の一形態であり、その用途も多岐にわたり、用途を変更することも可能だ。だが、反面、土地のストックは限られ、それを増やすのはむずかしい。それが土地の特殊性だ、とマーシャルはいう。
 もう一度、くり返して言おう。
国民所得の源泉は、生産されたすべての商品の純集計からなり、それらは労働の稼得、資本の利潤(および利子)、そして土地の地代へと配分されていく。経済のパイが大きければ、それぞれの分け前も大きくなる。
 国民所得は均等に配分されるわけではない。利潤を得る資本家と賃金を得る労働者とのあいだでは、所得の性格が異なる。また同じ階級内でも所得は大きく異なる。資本にも格差があり、賃金にも格差がある。
 加えて、新しい資源が開発されるとか、新しい機械が発明されるとか、新しい商品が生みだされるとか、競争によって、生産条件はめまぐるしく変化する。商品の代替も生じていく。資本も労働も、大きな流動性のなかにおかれている。
 人は市場について完全な知識をもっているわけではない。その選択は、手の届くところにかぎられがちで、全般的にみて、いちばん有利と思われるものに飛びつく傾向がみられる。市場の変化にたいする調整は、時間をかけておこなわれていく以外にない。
 資本と労働は、対立と相互依存の関係にある。資本はできるだけ労働コストを抑えようとする。そのために機械を導入し、雇用を減らす場合もある。いっぽう、商品の種類によっては、その完成に時間がかかるため、資本が実質上、労働者に賃金を前払いしなければならないこともある。
 資本が労働を完全に排除することは不可能である。資本は機械や原料だけでなく、「労働の体化物」でもあるからだ。
「全般的にみれば、資本の発達は国民分配分を増大させ、他の分野で労働の新しくゆたかな雇用機会を開発していって、待忍の用役[たとえば機械]によって労働のそれが局部的に駆逐された損害をつぐなってあまりあるものをもたらすだろう」と、マーシャルはいう。いかなる新技術の導入も雇用を排除するにはいたらない。
 とりあえずの結論として、マーシャルは次のように述べている。

〈資本全般と労働全般とは国民分配分の生産に関して協同し、国民分配分からのそれぞれの限界効率に対応してその稼得を配分される。その相互の依存関係にはきわめて密接なものがあり、労働を欠いては資本ははたらけないし、自己ないし他人の資本によって補足されない労働者は長くは生きていけない。労働が活力に富んでおれば、資本は高い報酬をかちとりすみやかに発展していくし、資本と知識の力をかりれば、西欧諸国の普通の労働者もかつての王侯貴族に比べていろいろな点でよい食料をとり、よい衣料を着、よい住居にさえ住めるようになる。〉

 マーシャルは資本主義にたいする悲観的運命論に替えて、資本主義の楽観的展望をかかげている。

   18 労働の稼得

 ケインズは『人物評伝』のなかで、師のマーシャルについて論じ、かれが晩年に語ったとされることばを引用している。

〈[大学の]休暇中に私はいくつかの都市の最も貧困な地区を訪れて、最も貧しい人々の顔を見ながら次々に街路を歩いてみた。そのあと、私は経済学についてできるだけ徹底的な研究をしようと決意した。〉

 マーシャルは貧困を克服する手立てとして、経済学を研究しようと思った。それはマルクスも同様だった。マルクスの場合は、社会主義革命こそが、その解決策となるはずだった。これにたいし、マーシャルは長期的には資本主義の将来に楽観的な展望をもつにいたった。
 いっぽう、大恐慌の惨憺なありさまをまのあたりにしたケインズは、マーシャルの楽観論を念頭におきながらも、その「原理」を組み替える必要性を感じた。その結果、『雇用、利子、および貨幣の一般理論』(1936年)が執筆される。そこでは、マーシャルの体系からははずされていた国家が、大きな役割をもつ存在として浮上することになる。
 ここではまだケインズには踏みこまず、マーシャルの分配論をさらにみていくことにしよう。取りあげるのは「労働の稼得」を扱った3つの章である。
 はじめにマーシャルは、労働の稼得はかならずしも均等ではなく、労働者の能率によって、かなり不均等であることを認めている。
 賃金は時間給(日給、月給)、出来高払い、能率給などによって支払われる。マーシャルは、賃金はほんらい「労働者に要求される能力と能率の行使をもととして算定」されるべきだという立場をとっている。そして、労働賃金を一定の水準に向かわせるのは、経済の自由、言い換えれば競争があるからだとしている。
 機械の導入は雇用の減少に結びつきやすい。しかし、雇用を減らしたうえで、賃金も減らすのはまちがっている、とマーシャルは断言する。むしろ、機械を導入しながら賃金を増やしたほうが、生産効率が上がり、製品の単位あたり費用も低下する。かれは「最高の賃金を支払おうとくふうしている実業家こそ最善の実業家である」というモットーに賛成する。
 実質賃金と名目賃金とは区別されなければならない。貨幣の購買力を考慮する必要があるからだ。重要なのは実質賃金である。
 ある人の本来の所得を知るには、粗収入から経費を引いてみなければならない。弁護士であれ、大工であれ、医者であれ、収入から営業経費を控除しなければ、ほんらいの所得は判明しない。
 召使いや店員が、自分で衣服を用意しなければならない場合は、これも経費である。しかし、たとえば、そうした衣服を主人や店主が提供した場合、これを実質賃金に加えるのはまちがいである。逆に、使用者が労働者に、生産した商品の購入を強制する場合は、実質賃金を低下させることになる。
 個人事業では、成功の度合いは不確実であり、その度合いに応じて所得は大きく異なってくる。そのため、不安定な仕事より確実な職種を求める者が多いこと、そのいっぽうで異常に高い報酬を得られる職種に引きつけられていく者もいるというわけだ。
 雇用が不規則な職種では、料金は仕事のわりに高くなる。そのことは弁護士や家具屋などをみればわかる、とマーシャルはいう。このあたりは、当時のイギリスの事情も勘案しなければならないだろう。
 また、その収入を主業だけではなく、副業で稼ぐケースもないではない。家内事業や農業では、家族全体の稼得を収入単位とみるほうがよいかもしれないとも述べている。
 仕事の選択は、個々人の事情によっても、民族性によってもことなってくる。低級な仕事にしか適さない人がいるのも事実だ、とマーシャルはいう。そういう人は簡単な仕事に押し寄せ、かえってその職種の賃金を低くする原因となっている。しかし、「こういった種類の労働をするものが少なくなり、その賃金も高くなるようにすることは、他のどんな仕事にも劣らず、社会的に緊要な仕事なのである」。
 このように、マーシャルは、労働者にせよ、個人事業者にせよ、その仕事内容も所得もけっして一律ではなく、大きなばらつきがあるとみている。
 その理由は、働き手が扱っている(あるいは生みだしている)物やサービス、すなわち商品の価値に関係している。労働者や個人事業主は、その商品が生みだす価値の形成にどれだけ寄与したかによって、その分配分を受け取るとみてよい。労働者や個人事業主の所得が、仕事に応じて、かなりのちがいがでるのはそのためだ。
 マーシャルはさらに、賃金のもたらす累積的効果にも注目する。低賃金は労働の質を低下させ、さらにいっそうの賃金低下を招く。これにたいし、高賃金は労働の質を高め、人をより勤勉にさせる。
 いっぽうマーシャルは労働者は機械のように売買できないこと、さらに「労働者はその労働力を売るが、自分自身を売り渡しはしない」とも述べている。
 労働者は奴隷ではない。しかも、労働者の売る能力は、機械以上のものである。
 マーシャルは、労働者の育成には長い時間がかかることを認めている。
 労働者の養育と訓練は、その両親の保護があってこそ可能になる。資力に加えて、先見力や犠牲が、子の将来を支える。
 高い階層の人びとは、将来を考え、子どもたちを養育し、訓練することを怠らない。しかし、下層の人びとは、しばしば子どもたちの教育訓練にまで目がいかぬことが多い。そのため「かれらは能力や資質を十分に開発されぬまま、その生涯を終えてしまう」ことになりがちだが、それらが十分に開花し結実するならば、社会にとってどれだけ有益かわからない、とマーシャルは嘆いている。
 問題はこうした弊害が累積的であることだ。「そうした悪循環が世代から世代へと累積していく」ことを何とかして避けたい。
「ある世代の労働者によりよい稼得とかれらの最良の資質を開発するよい機会をもたらすような変化が起これば、かれらはその子供たちによりよい物的および道徳的な利便を与えてやれるようになろう」。それがマーシャルの希望でもある。
 人生における出発のちがいは、職業の選択においても大きなちがいをもたらす。高い階層に生まれた者が有利なことはいうまでもない。熟練工の息子は、非熟練工の息子よりめぐまれているし、家庭でもゆきとどいた世話を受けて育っている。
 学校での教育が終了したあと、労働者に周到な訓練をほどこすのは雇い主である。雇い主は従業員に投下した資本の成果があらわれることを期待する。
「高賃金の労働こそほんとうは安い労働だ」とマーシャルはいう。その影響力はひとつの世代だけで終わらず、次の世代にも永続的な便益を与える。
 所得の大きさは、次の世代の育成にも影響をもたらすというのが、マーシャルの持論だとみてよい。
 労働についての考察は、さらにつづく。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その4) [商品世界論ノート]

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   12 安定均衡

 第5編の「需要・供給および価値の一般的関係」にはいる(日本語版では第3分冊)。シュンペーターがもっとも評価した部分だ。
 まずマーシャルは需要と供給が出会う場、商品の売買がなされる市場について論じている。
 市場(いちば)はもともと食料などの日常品が並べられる公開の場所をさしていた。だが、のちにそれは食料にかぎらず綿花や石炭、砂糖、鉄、貴金属、証券など、すべての商品が取引される場を意味するようになった。その場は一般に市場(しじょう)と呼ばれる。
 商品はその性格によって、さまざまな市場をもつ。近隣でしかさばけない耐久性のない商品もあれば、遠隔地で大きな需要が見込める貴重な商品もある。それに応じて、市場は世界市場から僻地市場までの幅をもつ。
 市場は抽象概念だ。どんな商品であれ、商品が取引される場が市場と呼ばれる。マーシャルの時代とちがって、いまや市場は商店にとどまらずデパートやスーパー、郊外店、さらにインターネット上にも広がっている。就職市場など、時期に応じて開かれる市場もある。市場は空間だけでなく、時間によっても左右される。
『経済学原理』でマーシャルが挙げているのは、小麦市場の例だ。
 まだ取引は成立していない。売り手が売りたいと思う量と買い手が買いたいと思う量は価格に応じてことなってくる。
 たとえば、こんなふうになる。

  価格    売り手   買い手
  500円   3000袋   1000袋
  400円   2000袋   2000袋
  300円   1000袋   3000袋

 ここでは400円なら売り手が2000袋市場に出したいと思い、買い手は2000袋買いたいと思う。ここで供給と需要が均衡する。
 この例はあくまでもひとつのモデルにすぎない。実際の取引の動きとはことなるだろう。それをさておき、マーシャルは供給と需要の均衡する価格が存在すると想定する。その価格では、商品が売り尽くされ、買い尽くされることになる。
 とはいえ、価格は供給側の胸算用によって、とりあえず算出される。たとえば商品となる作物のでき、予想される収穫量などをみて判断されるだろう。
 次に穀物だけではなく、一般商品に枠を広げてみよう。
 商品をつくるには、多様な資本と労働を要する。これに商品ができあがるまでの「待忍」の費用を加えたものが商品の「真実の生産費」だ、とマーシャルはいう。つまり、生産費に適切な期待利潤(「待忍」の費用)を加えたものが、商品の供給価格となる。
 もちろん商品は多量に出荷されるから、市場での供給価格は、商品1単位の価格で表示される。さらに、実際の市場価格には流通経費も加わる。
 生産者はできるだけ経費のかからない生産方法を選択する。社会もまた能率のよくない生産者より能率のよい生産者を選ぶだろう。マーシャルは、これを「代替の原理」と名づけている。
 ただし、労働市場には一般市場とことなる特殊性がある。労働市場では「労働力の売り手は処分できる労働力をただ一単位しかもっていない」。
 からだはひとつだ。そのため、何が何でも職を得ようとする労働者は、低い賃金でもみずからの労働力を売りに出そうとするかもしれない。
 労働市場では、企業は供給側でなく需要側に立っている。一般市場では労働者は商品を買う側なのに、労働市場ではみずからの能力を売る側になる。企業はそうした人間の能力(人材)を買うことによって、原料や機械だけでは得られない商品価値をつくりだそうとする。したがって、労働力は単なる商品ではない、とマーシャルはいう。
 こうして、商品世界は製造物を商品化するだけではなく、人間の能力をも商品化することによって、はじめて循環していくことになる。ただし、一般商品と労働力商品とでは、その需給の流れが逆であることに注目しなければならない。つまり商品をつくる商品が労働力商品であるのにたいして、労働力をつくる商品が一般商品なのだ。
 商品に需要と供給の力関係がはたらくのは、商品世界に対位変換構造が存在するためである。商品は売り手と買い手がいて、はじめて成り立つ。労働者は売り手であると同時に買い手でもある。企業もまた買い手であると同時に売り手である。こうした対位変換的な商品構造は近代において本格的に成立したといえる。
 マーシャルは商品には一定の需要価格もあるという。そして、「どんな場合にも市場に売りにだされる分量が多くなればその買い手を見いだせるような価格は低くなっていく」と論じる。
 きわめてシンプルにいうと、供給価格は前に述べたように企業の生産費(経営の租利益を含む)に一致する。新しい生産方法が導入されなければ、ふつう生産量の増加にともなって、生産費は上昇していく(収穫逓減の法則)。
 しかし、生産が大規模化し、手労働に代えて機械作業(いまならAI)が導入され、人力の代わりに蒸気動力(いまなら石油や電気のエネルギー)が用いられるようになると、生産費は下がっていく。つまり規模の経済がはたらく。
 市場において、需要価格が供給価格より高い場合は、生産者はその商品の生産をもっと増やそうとする。逆に需要価格が供給価格より低い場合は、生産者はその商品の生産量を減らそうとする。そして、需要価格と供給価格が一致する場合に安定均衡が達成される。
 商品の生産量と価格は、わずかに変動することがあっても、安定均衡に収束する傾向がある。ただし、この均衡点は常に同じというわけではない。さまざまな状況の変化によって、需要表と供給表がたえず変動しているためである。そのため安定均衡点は常に再形成されていく。
 ここで時間の要素がはいってくる。「われわれは将来を完全に予測することはできない」と、マーシャルはいう。予想もしなかったことが起こるかもしれない。人口減少、資源の枯渇、競争の激化、新商品の開発といったこともありうる。それによって、市場の状況は変わってくる。
 アダム・スミスが述べた商品の正常価値ないし「自然価値」を判断するのはむずかしい。「価値が効用で決まるか生産費で決まるか議論するのは、紙を切るのははさみの上刃か下刃かと争うようなものであろう」とマーシャルはいう。
 とりあえずの結論はこうだ。

〈われわれは一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値にたいする需要側の影響をそれだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産の影響をそれだけおもく考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである。……[長期においては]結局は持続的な諸原因が価値を完全に支配することになる。しかしながら最も持続的な原因でも変動をまぬかれない。世代の移り変わりにつれて、生産の全構造も変容していき、いろいろな事物の生産費の相対的な大きさもまったく変わってしまうのだ。〉

 われわれは新たに生まれては消えていく変動めまぐるしい商品の価値体系のなかでくらしている。たとえば、石油や電気が、照明や暖房、食料、衣服、交通、文化にわたるそれまでのあらゆる生活様式を変え、いまも変えつづけていることを考えれば、いまもわれわれは変動のすり鉢のなかに投げこまれているかのようである。

   13 短期均衡と長期均衡

 企業家はじゅうぶんな成果が見込めなければ、支出(投資)をしようとしないものだ、とマーシャルは書いている。
 失敗の危険にたいしては引き当て分を用意しておかなければならない。また商品として成熟するまで時間がかかるとしたら、それまでの支出にたいする元利も累計して支出の合計を計算しておかなければならない。これらのすべてが事業にかかる費用となる。
 加えて、成果をだすまでの努力や待忍も費用の要素だ。それは追加的な収益とは別のもので、事業主自身の仕事の報酬になるという。こうした費用の回収が見込めなければ、企業家は事業をはじめるわけにはいかない。
 事業が開始されるまでの経費や効率は常に見直されなければならない。仕入先や機械の選択、販売方法の検討も必要だ。投資はぎりぎりの収益が見込めるところまでなされるだろう。
 ここで、生産と消費の関係について、マーシャルは次のように述べている。

〈生産の新しい方法は新しい商品を生みだし、あるいは古い商品の価格を低下させてより多くの消費者が購入できるようにする。他方また消費のしかたが変化し消費量が変動することによって、生産の新しい展開を生みだし、生産資源の新しい配分をもたらしてくる。人間生活の向上にたいへん役立つような消費のしかたのうちには、物的富の生産を促進するとしても、ほんのわずかしか効果を生まないものもあるのだが、それでもなお生産と消費とは密接に関係しあっているのだ。〉

 マーシャルが強調しているのは、生産が消費と対応しており、消費を念頭におかない生産はありえないということである。自給自足の世界では、生産は消費と即つながっていた。だが、商品世界においては、もともと生産と消費は分離されており、商品=貨幣を媒介することで、はじめて結合と循環が保たれることになる。そのとき資源もまた商品=貨幣を通じて配分されていく。
 商品世界における困難は、生産と消費の分離によって生じる。
 たとえば建築業者が一般人の需要を見越してマンションを建てるとしよう。その判断が的中すれば業者は利益を得るばかりか社会にも便益を与える。だが、その判断がまちがっていれば、業者は大きな損失をこうむり、最悪の場合、企業は倒産に追いこまれる。
 ここで大きな損失が発生するのは、生産費用が回収されないためだ。
 生産費は主要費用と補足費用とからなり、それらを合わせたものをマーシャルは全部費用と名づけている。主要費用は直接費であり、原料費、賃金、機械の消耗費などからなる。補足費は間接費であり、工場の固定費、幹部職員などの給与、その他特別費からなる。
 長期的には、これらの全費用が回収されなければならない。企業の運営には労苦と心痛がともなう。全費用を回収しても、それを上回る余剰が得られなければ、だれも企業などはじめようと思わないだろう、とマーシャルは書いている。
 ふたたび需要と供給の均衡について。
 正常か異常かは、長期もしくは短期で考えるか、現行の特殊な要因を勘案する場合によって、判断が異なってくる、とマーシャルはいう。商品市場や労働市場はさまざまな変動にさらされている。突然の災害がおこったり、何らかの事件が発生したりすることもありうる。したがって、何をもって正常とするかはなかなか断定しがたい。
 そこで論議を進めるうえでは、攪乱的な影響がなく、生産と消費、分配の条件が変わらず、人口も不変という仮定のもとで、一般的傾向を推論していくほかない、とマーシャルはいう。
 市場に攪乱のない定常状態では、商品の価値を規制するのは生産費であって、供給価格と需要価格は一致し、正常価格は一定に保たれる。だが、実際にこういう状態はまずありえない。生産方法や生産量、生産費は常に動いているし、需要の流れも変動しているからだ。人口も富も変化し、土地も不足し、通商関係も変わったりする。
 定常状態のモデルから、厳しい条件をとりはずしていけば、少しずつ現実の生活に接近してくる。あるいは静学的なモデルに現実の条件を加えていけば、新たなモデルをつくり、それを検証することもできる。
 ここでマーシャルは漁業を例にとる。たとえば、天候不順がつづいた場合は漁獲量が減り、供給価格が上昇していく。いっぽう、疫病が発生して食肉への不安が高まり、魚肉への需要が高まった場合も、魚の供給価格は上昇していく。資源が枯渇の兆候を示した場合も同じだろう。だが大きな需要に応じるため、漁師が漁船の規模や装備を増強し、漁獲高を増やしていくなら、供給価格はいくらか下がっていくかもしれない。
 こうした例示は、漁業や農業だけではなく、工業の場合もあてはまる。市場価格は需要と在庫に依存しているのだ。
 マーシャルは「限界生産」という考え方を持ちだす。市場において価格の上昇が期待されると、生産の限界が押し広げられ、主要費用を上回る余剰を求めて、余剰があるかぎり、生産が増大していくというのだ。
 ただし、その行動は短期と長期でことなる。

〈短期においては、生産の装備の大きさはほぼ固定しているので、人々の行動はこれら装備をどの程度まで積極的に活用するかを検討する際の需要の期待によって決められてくるし、長期においては、これら装備の供給は生産しようとする財にたいする需要の期待に対応するよう調整されるのだ。〉

 高い価格が期待されると、短期では労働時間を延長して装備がフルに動かされる。短期においては、生産者はすでに設置された装備を利用して、できるだけその供給を需要に適合させるよう努力していくしかない。だが、そうした生産の増大には限度がある。
 そこで長期の対応が検討される。
 長期の計画においては、大規模生産の経済が予想されている。そこでは供給価格は逓減し、それによってより多くの需要が得られるものと考えられている。
 大規模生産にいたる道は、不十分な資本しかもたない小企業が苦労の末、大きな事業体をつくるにいたるケースもあれば、富裕な資本家が巨額の投資によって、大規模な事業を立ち上げるケースもある。
 長期と短期のあいだに厳密な区別があるわけではない。短期においては、現存の設備にもとづいて商品供給の増加がはかられる。これにたいし長期においては設備や工場の拡張が、商品供給の原動力となる。そして、さらに長期的には、人口や知識、技術、資本の成長、ならびに世代の変遷にともなう変化が考えられる。
 ここでマーシャルは需要と供給の流れをもう少し細かく検討している。
 たとえば、ビールは直接に需要される。しかし、ビールができあがり、消費者のもとに届くまでには、次のような工程が考えられるだろう。

  麦 芽[右斜め下]
  水  →ビール工場→ビール→消費者
  ホップ[右斜め上]

 ここで企業にとって、麦芽やホップは間接的(あるいは派生的)な需要対象となる。そして、麦芽やホップはビール工場で結合され、ビールという商品として供給され、消費者の需要対象となる。
 もし材料である麦芽やホップの値段や供給量が上下すると、最終製品の価格や供給量も変化する。それに応じて消費者需要のあり方も変わってくる。一般にビールの価格が上昇すれば、消費者はビールを飲むのを多少控えるだろうし、逆にその値段がさがれば、もう少し飲もうかと思うようになるだろう。
 間接需要の変化が最終需要にどのような影響をもたらすかは、ケースバイケースである。多少値段が上がっても、ビールが飲みたい欲求は変わらないから、需要はさして減らないということも考えられる。しかし、あまりに値段が上がると、ビールの代わりにたとえば焼酎を選ぶこともありうる。工場の側も麦芽やホップの新たな仕入先を探すかもしれない。さらにホップと麦芽の割合を変えて、できるだけ値段をあげないようにするのもひとつの手段である。
 いずれにせよ、ここでは供給が単なる供給ではなく、それ自体がさまざまな需要の束からできあがっていることを認識することが重要である。とりわけ、その中心となるのが労働力にたいする需要である。
 マーシャルはいう。

〈ほとんどすべての原料と労働は数多くの異なった産業部門で使われ、ひじょうに多種多様な商品の生産に寄与している。これらの商品はそれぞれその直接の需要をもっており、それから生産要因のそれぞれにたいする派生需要が起こってくる。〉

 これらの派生需要を合計したものが供給サイドの全体需要となるわけだ。
 結合生産物も存在する、とマーシャルはいう。
 たとえば、羊は羊毛と羊肉に分けられる。小麦は食料としての小麦と麦わらに分けられる。したがって、羊や小麦は結合生産物なのである。そして、どの用途を優先するかによって、商品化への手間のかけ方が変わってくる。
 同じことが一般的な産業についてもいえる。生産過程において、主要な産物と副次的な産物が発生するのはよくあることだ。そのうちのどれを優先するかは、いわば市場の動きによる。
 複合供給ないし複合需要の現象もよくみられる。たとえば牛肉と豚肉は競合商品だといってもよい。それらは別々の商品でありながら、価格と質に応じて、同じように消費者の欲求を満たすことになる。
 こうした商品のさまざまな関係を見ながら、商品の動きをとらえていくことがだいじだ、とマーシャルはいう。過大な需要が資源の枯渇をもたらすこともあれば、交通の発達が生産経費の削減につながることもある。またある分野の製品価格の変動が、ほかの製品の価格に影響をことも多い。このように、商品世界は一商品だけで独立しているわけではなく、多岐にわたる商品の連鎖のなかで成り立っているのである。

   14 価値と限界費用

 ここでは生産物の価値と限界費用の関係が論じられる。マーシャルは正常な状態と長期の結果を前提としている。それを前提とすれば、変則的な状態や短期の場合にも応用がきくからだ。
 それを紹介する前に、もう一度、商品世界の成り立ちをおさらいしておこう。
需要と供給が分離・結合される商品世界においては、商品と貨幣を媒介にして、経済の循環構造が維持されている。供給は需要なくして実現しないし、需要は供給なくして実現しない。供給と需要の変化は、ごくわずかであっても、連動して全体の需給関係に影響をおよぼす。供給と需要は留まることなく、いわば潮流のようなものをかたちづくっている。
 その流れを切り取って図示すれば、こんなふうになるかもしれない。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その3) [商品世界論ノート]

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  8 収穫逓減の法則

 ここからは第4編、生産についての考察にはいる。そのタイトルは「生産要因 土地・労働・資本および組織」となっている。
 生産の目的は消費である。人間は外からもたらされた財を消費することによってみずからを再形成し、その労力を消費することによって、内にとりいれる財をつくりだす過程をくり返しているといってよい。とりわけ近代に近づくにつれ、その財は商品となり、生産と消費の循環は貨幣を媒介しておこなわれるようになる。そのさい、分配は財の直接分配という形態ではなく、媒介物としての貨幣を分配する形態をとるようになった。
 近代のひとつの特徴は、生産が自己消費財のためではなく、市場で売買される商品をつくることに向けられている点である。この過程は不可逆的であって、歴史を無理やり元に戻そうとしても、そこには大きな災厄が発生することを、われわれはしばしば味わってきた。
 ポル・ポト政権時代のカンボジアをみればわかるように、貨幣と商品が廃止され、生産が直接的な消費財に限定されるならば、生産と消費は一気に落ち込み、社会は急速に窮乏化する。生産力の大きさが近代を支えているといってよい。それを可能にしたのは商品という存在である。商品そのものを否定することは、社会に荒廃と混乱をもたらすだろう。
 近代における生産とはいったい何かを考えてみる。
 マーシャルは、はじめに生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは自然が人間に提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルは3つの生産要因がからみあって進行する生産過程そのものを論じているわけではない。マルクスが生産過程にこそ剰余価値が発生する根拠があるとするのにたいし、マーシャルがそれについてあまりふれないのは、かれが企業家的視点に立ち、資本による労働の支配をとうぜんと考えているという見方もある。しかし、それよりも、マルクスの労働価値説、とりわけ剰余価値説を否定しているからだと考えてよいだろう。
 マーシャルにとって、利潤が発生するのは、需要と供給の均衡する場においてであり、けっして生産過程においてではない。したがって、利潤の問題は、次の第5編「需要・供給および価値の一般的関係」において論じられることになるだろう。こうして、生産過程の実態は、いわば社会学的分析に押しやられ、経済学の領域から排除されることになった。それは近代経済学のひとつの欠陥と考えることもできる。
 マーシャルが、生産過程において利潤が生じるわけではないとした理由を憶測するには、たとえば2000円のシャツを500枚生産したケースを思い浮かべてみればよい。この場合、シャツの価値は100万円であり、そのうち材料費その他経費が30万円で、賃金が40万円だとすれば、利潤は30万円ということになる。マルクスの言い方をきわめて単純化すれば、ここでは30万円の剰余価値が生まれていることになる。
 ところが、実際にシャツの価値が実現されるのは市場においてである。もし市場において、500枚つくったシャツが400枚しか売れなかったら、どうなるだろう。利益は10万円しかでない。すると、いわば30万円の剰余価値が10万円の利潤に転化されたことになる。もし300枚しか売れなかったら、利潤どころか10万円の赤字である。マーシャルが、生産過程において利潤が生じるわけではないとしたのは、利潤はあくまでも需要と供給の関係によって決まると考えるからである。
 そのため、マーシャルは生産過程の現場の葛藤を思いきり捨象して、生産要因の問題だけを論じることにしたとみてよいだろう。ここで重要なのは、生産要因がすべて貨幣によって価値づけられること、言い換えれば、それ自体が価格をもつ商品になりうることである。近代の特質がここにも現れている。
最初に論じられるのは土地、すなわち自然要因である。
 その前に、マーシャルはこう書いている。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここで人間の経済の特徴が説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用な財に変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、消費・生産・分配のシステムを通じて、人びとはみずからの生活を築くようになる。
 しかし、そもそも人間に有用たりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海や鉱山であってもいいのだが)、経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりで、まず思い浮かべるのは農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水や太陽をはじめとするそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする。こうした人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。
 土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたい部分もある。人によって、豊かな土地もあれば、貧しい土地もある。
 とはいえ、いずれの場合も、資本と労働を追加投入するにしたがって、土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる「収穫逓減の法則」である。
 開墾しないでも、そのまま役立つ広大な土地が存在するなら、資本と労働を投入することによって、収穫逓増が生じることもある。だが、同じ農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜には、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくる。
 耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、あくまでも相対的な尺度だ、とマーシャルはいう。
 収穫逓減の法則を打ちだしたのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくるのだ。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという条件にもとづく。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

〈製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業に拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。縦軸に価格、横軸に数量をとると、需要曲線が右下がりになるのにたいし、供給曲線が右上がりになる根拠はここに求められている。
 生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、一定の技術のもとで、市場で売買される数量が増えると、生産面では生産者が「不効用」の発生に見舞われ(つまり利潤率が低下し)、消費面では消費者が消費者余剰を得るようになる、とマーシャルはとらえている。つまり、労働者の雇用増と商品の普及、消費の拡大が連動する局面が想定できるのである。

  9 人口、生産、労働力

 マーシャルは労働者を資本の意志によって働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで与えられた有用な仕事をはたす人びと全体を指すのであって、その質の高さは長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 大陸ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かった。これにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的に、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは指摘する。これは現代にもあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。
 19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半になると、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなってくる。労働者階級は生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったという。
 人口と労働、健康はどのような関係があるのだろうか。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が保たれなければならない。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。衣料や住居、燃料も欠かせない要因だ。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルも認めている。それを改善することが経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都市に集まった才能ある人びとが、郊外に居を定めるようになったのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府による社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、むしろ人間の活力を奪う要因になりうる、とマーシャルはいう。
 しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方を論じる。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べたものである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくる。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育だけで天才的な科学者や有能な経営者が生まれるわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つ、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」
 国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にするのだと信じていた。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 こうした好循環は、あまりに楽観的な展望にちがいない。マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていくなかで、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願っていた。だが、現実はかならずしも、そうはならなかった。

   10 資本と産業組織

 マーシャルは、富から生まれた資本が産業組織を動かし、それによってまた新たな富がつくりだされると考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その2) [商品世界論ノート]

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   5 いくつかの基本用語

 第2編「若干の基本的概念」にはいる。マーシャルは経済学の基本用語を定義するところからはじめる。
(1)富
 富は財からなるといってよい。
 財は物質的なものと非物質的なものに分類できる。非物質的なものは、主に人的な要素からなる。
 ある人の富は、私有権によって保証された物質的な財と、人的関係(契約や権利、個人的なつながり、など)にもとづく非物質的な財からなる。つまり、個人の富は「物質的ならびに人的な富」からできている。
 だが、富はそれに尽きるわけではない。たとえば「自由財」は自然によって与えられ、だれもが自由に利用できる財のことである。山の水や海の魚のように。しかし、現在のように、経済が発展してくると、さまざまな権利や規制が発生して、「自由財」という概念は、再検討の必要が生じている、とマーシャルはいう。
 人は私有していない財からも便宜を得ている。たとえば「公共財」は社会の環境によって与えられる。軍事的・社会的安全保障や、道路、水道、ガスなどの社会インフラ、病院や学校、その他の社会制度などがそれにあたる。
 こうした「公共財」は、国民の公有財産である。だが、音楽や文学作品、科学的知識や発明も、ある面では公共財だ、とマーシャルはいう。
 したがって、国富は個々人の富の総計だけで成り立つのではなく、それ以上のものである。それは世界の富に関してもいえる。世界の富は、それぞれの純国富を合計したものではない。たとえば大洋が地球全体の富であることを考えれば、世界の富は国富の総計よりも大きい、とマーシャルは論じる。
 私有財産にとどまらず、自由財や公共財の大きさに国の豊かさの尺度を求めたところに、マーシャルの真骨頂がある。
 そして、マーシャルは、自由財や公共財を含む財からなる国富全体の価値は、貨幣価値によって表示できると考えていた。
(2)生産、消費、生活水準
 人間は物質をつくりだせない。つくれるのは効用(utility)だけだ、とマーシャルはいう。「別のことばでいえば、かれの努力と犠牲によって物質の形態としくみを変化させて欲求の充足によりよく適合するようにするだけなのである」
 商品の価値がそれにつぎこまれた労働によって決まるとされるのにたいし、商品の効用はそれを手に入れたいと思う欲求によって計られる。そして、生産の目的は「欲求の充足によりよく適合する」商品をつくりだすことである。
 農民や漁民や職人が効用をつくりだすように、八百屋や魚屋や家具商などの商人も商品を移動し、配置することで効用をつくりだしている、とマーシャルは主張する。商人が不生産的とはいえない。生産とは効用をつくりだすことにほかならないからである。生産的労働と不生産的労働をめぐる議論はばかばかしいという。
 いっぽう、人間が消費するのも効用だけである。家具にせよ何にせよ、消費によって、人はその物自体を消尽しているわけではなく、商品の効用を使用しているにすぎない。
 財は人の欲求を直接満たす消費財(たとえば食品や衣服など)と、間接的に欲求を満たす生産財(道具や機械)に分類することができる。
 労働とは、なんらかの効用を生みだすことを目標にしてなされる精神的・肉体的活動をさしている。したがって、労働はそれ自体が生産的活動であり、召使いの労働とてけっして不生産的ではない。
 生産の目的は消費である。消費は生産を促す。生産と消費はかみ合いながら、商品世界の継続的な流れを形づくっている。
 かつて必需品とは、生活維持に必要かつ十分なものを指していた。必需品の水準(言いかえれば生活水準)は時と場所によって異なる。その水準を下げることは、多くの損失をもたらす。
 マーシャルは現在(20世紀はじめ)のイギリスにおいても、通常の農業労働者、あるいは都市の未熟練労働者であっても、次のような必需品(生活水準)を満たせるようにすべきだと述べている。
 それは、数室つきの住宅、きれいな下着とあたたかい衣服、清浄な水、肉と牛乳と茶をふんだんにとれる食事、一定の教育と娯楽、主婦が育児と家事をこなしても残る自由時間というものだ。さらに慣行として、ある程度の嗜好品も必需品の範囲にはいるとしている。
 労働をむやみに神聖視せず、消費を重視し、経済の目標を生活水準の上昇をめざすことに置いたところに、マーシャル経済学の性格がにじみでている。
(3)所得、資本
 貨幣経済において、所得は一般に貨幣形態をとる。
 いっぽう、所得を得るために、企業は資本を必要とする。資本は工場や建物、機械、原材料、従業員への支払い、営業上ののれんを確保するためなどに用いられる。
 企業の純所得は、粗収入から生産経費(原材料費や賃金など)を控除したものである。個人営業の場合も、これと同様である。
 純所得から借り入れの利子を差し引いたものが純収益となる。純収益、すなわち利潤が得られない場合、企業はついには営業の続行を断念するほかない、とマーシャルは書いている。
 企業の年間利潤は、年間経費にたいする収益の超過額である。また、資本に対する利潤の比率は利潤率と呼ばれる。
 企業活動には、さらに地代(レント)も必要とする。これは土地などの自然要素の借り入れにたいして支払われる費用である。機械など人工の設備にたいする借り入れ(レンタル)にたいしても、費用が発生する。これは地代と区別して準地代と名づけることができる。
 次にマーシャルは資本の中身に立ち入り、これを消費資本と補助(手段)資本に分類する。消費資本とはいわば賃金にあたる部分である。これにたいし、補助資本は労働を補助する材料、すなわち原材料や道具、機械、建物から構成される。
 いっぽうで、資本はJ・S・ミルが提案したように、運転(流動)資本と固定資本に分類することもできる。賃金や原材料から構成される運転資本が1回ごとにその役割を終えるのにたいし、機械や工場などから構成される固定資本は、その耐用期間に応じて、商品をつくりだす。
 さらにマーシャルは、実業家の観点からだけではなく、社会的視点から所得について考察する。
 所得とは資産を利用することによって得られる報酬であり、それは一般に貨幣所得のかたちをとる。
 生産の3要素は土地、労働、資本であり、そのそれぞれが資産だと考えられる。地主は土地、労働者は労働、資本家は資本を資産として利用することで、それぞれの所得を獲得する。その所得は地主なら地代、労働者なら賃金、資本家なら利潤というかたちをとる。
 こうした所得(純所得)を総計したものが社会所得、すなわち国民所得となる。国民所得は(年間の)富の流れ(フロー)をあらわす尺度である。

〈貨幣所得すなわち富の流れは一国の繁栄を計る一つの尺度となり、しかもこの尺度は、十分信頼できるものではないけれども、それでもある意味においては富のストックの貨幣表示額という尺度よりもすぐれている。〉

 マーシャルは現在でいう国民総所得、すなわち国民総生産の考え方を導入したということができる。
 しかも、経済指標としては、国民所得のほうが国富よりもすぐれているとした。なぜなら、国民所得はすぐに消費できる財貨に対応しており、現時点の豊かさの度合いを示す指標だからである。
 もう一度整理しておこう。
 国富は一国の富のストック、国民所得は所得の(1年間の)フローを示す概念である。
 国富は純資産の総計からなる。資産は不動産その他の財産、貯蓄、保有株などからなり、個人や企業、国家が所有する純資産を総計したものが国富となる。
 アダム・スミスの『国富論』は、国民の富をいかに増やすかを論じた著作とみることもできる。しかし、じっさいにスミスが強調したのは、資本の役割についてである。スミスの時代には、国富と国民所得のちがいがさほど意識されてはいなかった。
 マーシャルは国民所得こそが主な経済指標であると主張することで、経済の新たな目標を示した。かれにとっても、資本が重要であったことはまちがいない。資本は需要と供給に応じて、資産のなかから取りだされる。だが、マーシャルにとって、資本の目的は、単に企業(資本家)の所得を増大させることではなく、国民所得全体を潤すことだった。
 そのことは、最初に強調しておいてもよいだろう。

   6 消費の問題

 商品とは貨幣で買えるモノやサービス、情報、コトをさしている。ここでは、商品をモノとしてだけとらえるのではなく、できるだけ広く定義しようとしている。もし商品がモノに尽きるとしたら、マルクスのいう労働力商品は成り立たない。なぜなら、労働者はけっしてモノにはなりえないからである。むしろ、労働者にとって、労働力はみずからの資本だとさえいうことができる。
 だとすれば、商品の本質はモノではなく、マーシャルのいうように効用でなくてはならない。そうするなら、商品の概念は有用なモノをはじめ、さまざまなサービス、役に立つ情報、あるいは人を楽しませてくれるコトにまで広げることができる。
 商品世界とは、そうした貨幣で買うことができるモノやサービス、情報、コトが限りなく拡張していく世界でもある。そうした流れのなかでは、古い商品が新しい商品に取って代わられることもあるし、昔ながらの商品がかえって珍重されることもある。
 激しく変遷する商品の歴史はそのまま人びとの生活史とつながっているともいえる。その背後にはどのような力がはたらいているのだろうか。
 近代の生産・分配・交換・消費からなる経済の循環構造を支えるのは、実態としては貨幣と商品であるといってよい。ここでは、貨幣と商品の分離と結合によって形づくられる生活世界を商品世界と呼んでいるが、こうした商品世界が本格的にはじまるのは、せいぜい16世紀からで、それが全面的に開花するのは19世紀になってからだとみている。とりわけ20世紀にはいってからの商品世界の進展ぶりはめざましかった。
 商品世界とそれ以前の世界を比較対照することは重要である。そのことによって、商品世界のもつ意味や問題もあきらかになってくるし、さらに、商品世界が今後どうなっていくかを想像することもできるからである。
 そのことをとりわけ意識していたのはマルクスだといってよい。
 マルクスは「経済学批判序説」のなかで、こう書いている。

〈われわれが到達した結果は、生産、分配、交換、消費が同一だということではなくて、それらが一個の総体の全肢節を、ひとつの統一の内部での区別を、なしているということである。生産は、生産の対立的規定における自分を包摂しているのと同様に、ほかの諸要因をも包摂している。過程はつねに新しく生産からはじまる。交換と消費が包摂者になることができないことは、おのずからあきらかである。生産物の分配としての分配についても同じことがいえる。しかし生産諸要素の分配としては、分配は、それ自身生産のひとつの要因である。だからある一定の生産は、一定の消費、分配、交換を、これらのさまざまな諸要因どうしの一定の関係を、規定する。もちろん生産もまた、その一面的形態においては、それとして、ほかの要因によって規定される。〉

 ここでマルクスは、商品世界が「生産、分配、交換、消費」の循環構造から成り立っていることを示しつつ、生産こそが「ほかの諸要因をも包摂」する出発点であると述べている。消費や分配、交換が生産に影響を与える場合もあるが、消費や分配、交換を規定するのは、基本的には生産だというのが、マルクスの考え方だといってよい。そして、こうした生産様式は歴史的に発展してきたもので、現在の資本主義的生産様式は、いずれもっと高次の共同体的な生産様式に取って代わられねばならない、とマルクスは主張した。
 商品世界が循環構造をもつのは、生産のなかに消費が含まれ、消費のなかに生産が含まれているためだと指摘した点は、マルクスの卓見である。
 人間は生産行為のなかで、みずからの能力を消費する。生産は原料やエネルギー、機械などの生産手段を消費することによって、商品をつくりだす。いっぽうで人間は食物を摂取したり、眠るためのベッドを整えるなどの消費をおこなうことで、みずからを生産する。

〈だから生産は直接に消費であり、消費は直接に生産である。おのおのは、直接にその対立物である。だがそれと同時に、両者のあいだにはひとつの媒介する運動がおこなわれる。生産がなければ、消費にはその対象がなくなる。けれども消費もまた生産を媒介する。つまりそれは、生産物にはじめての主体をつくりだすが、その主体にとってこそ、生産物は生産物なのである。生産物は、消費においてはじめて最後のfinish〔仕上げ〕をうける。〉

 生産と消費はコインの両面で、ぴたりとくっついているというのがマルクスの考え方である。生産がなければ消費はないし、消費がなければ生産もない、という言い方もしている。そのことは、資本主義経済が安定的に均衡することを意味するわけではない。しかし、生産と消費が同じコインの両面であることが、商品世界の循環構造を説明する根拠になっているといえるだろう。
 とはいえ、マルクスにとってコインの表面はあくまでも生産なのである。消費は生産の影として、生産に寄り添っている。
 そうしたマルクスの考え方が、消費を重視しない社会主義的ライフスタイルの押しつけにつながっていったとは言えないだろうか。
 マルクスには資本主義的生産様式を否定するあまりに、近代が獲得した「経済の自由」を頭ごなしに否定しがちな側面がある。そうした「経済の自由」のひとつが「消費の自由」であったことはまちがいない。商品世界においては、消費と生産がひとつの経済構造のなかで分離され、結合される。しかし、消費はけっして生産の影ではない。むしろ、消費が生産から分離され、「消費の自由」のもと独自の領域として確立されたことに、近代の経済的特質があった。消費への志向をブルジョワ的とみなすのは、マルクス主義的悪思考のもたらした近代以前への回帰幻想といわねばならないだろう。
 ここで、われわれはソ連時代初期の消費生活を想像してもよい。そこでは「消費の自由」は認められなかった。優先されるのは集団生活であり、配給制だった。工場や金融機関は国有化され、ブルジョワ的財産は没収された。農村では富農(クラーク)の土地や財産が奪われ、農業が集団化された。必要以上の財をもつこと自体が悪と考えられ、ブルジョワ的生活態度や思想を告発することが奨励されていた。
 マルクス自身がこのような社会主義構想をもっていたとは思えない。しかし、マルクスのまいた種には、実際、全体主義にいたる道が含まれていたのである。たしかに現代人がカネ儲けに奔走し、自然を破壊し、消費に明け暮れ、あふれかえる製品に振りまわされている世界は、ハンナ・アーレント流にいえば、ひとつの「世界疎外」であり、異常なことかもしれない。だが、そこから抜けだす方向がスターリニズムやファシズムなどの全体主義であってはならないことを、20世紀の歴史は、さまざまな悲劇を通じて、われわれに教えてくれたのである。
 商品世界についての考察をさらに進めることにしよう。
 これまで指摘したように、商品世界は生産だけで成り立っているわけではない。消費がなされなければ、その世界は回っていかない。商品世界を生みだす最大の起動力は資本である。だが、その資本も、資本がつくりだす商品が流通し、販売され、購入されなければ、資本として維持できない。生産、すなわち供給の側だけで、商品世界がつくられているわけではない。消費、すなわち需要の側の動きがあって、はじめて商品世界は成り立つ。
 マーシャルが強く認識していたのは、その点である。生産、分配、交換、消費の流れからなる商品世界において、もっとも注目されなければならないのは、消費と生産、すなわち需要と供給のぶつかる場である市場の問題だ、とマーシャルは考えていた。
 マーシャルがユニークなのは、市場における需給の均衡を検討する前提として、生産ではなく、まず消費、すなわち需要の問題に光をあてようとしたことである。そこに古典派経済学からの跳躍がみられる。
 マーシャルは「最近にいたるまで需要すなわち消費の問題はいささかなおざりにされてきた」と論じている。その原因は、リカードが生産費に力点をおいて交換価値を規定してきたことが大きい。しかし、最近は数理的な思考が進んできて、需要についての綿密な分析が求められるようになってきたこと、また人びとの幸福や福祉と消費がどのように関係しているかを検討する必要がでてきたことから、消費の研究がいっそう重要になってきたという。
 消費、すなわち欲望とその充足の状況をみるなら、現代人は未開人にくらべ、多種多様、かつ大量に事物を求めるようになり、事物の品質向上や、事物の選択範囲の拡大をも望むようになった、とマーシャルは述べている。
 最初の重要な一歩は火の発見だった。人は火によって、多様な食料を調理することを学び、それにもとづいて食品の種類や量が次第に増えていった。
 衣服にたいする欲求は、自然の欲求にとどまらず、風習や地位、それに自分をよりよく見せようとする欲望に支えられている。
 住宅は雨露をしのぐだけが目的ではない。人はより快適な住宅、「多くの高次な社会的活動をおこなうための要件」としての住宅の拡充を求めつづける。
 人間の欲求は衣食住にかぎられるわけではない。文学や芸術、音楽、娯楽、旅行、運動なども欲求の大きな要素である。
 人間には優越性への欲求もある。「[よりよいものを求めるという]この種の欲求こそ最高の資質、最大の発見を生みだすのに大きな貢献をするのであるが、またそれらにたいする需要の側面においても少なからぬ役割をはたすのだ」と、マーシャルはいう。

〈おおざっぱに言えば、人間の発展の初期の段階ではその欲望が活動をひき起こしたのであるが、その後の進歩の一歩ごとに、新しい欲望が新しい活動を起こすというより、むしろ新しい活動の展開が新しい欲望を呼び起こしてきたとみてさしつかえないようである。〉

 ここでは欲望と活動の相互作用が経済社会を動かしていくさまが予測されているとみてよい。欲望は単に肉体的自然から発生するのではなく、いわば歴史的につくられてきた人間的自然から発生するものへと進化していく。たとえばダイエット食品が生まれたり、スマホが誕生したり、社会がプラスチックではない素材を求めたりするのも、「新しい活動の展開が新しい欲望を呼び起こした」例といえるだろう。
 マーシャルが重視するのは消費者需要である。流通業者や製造業者が生産目的で何かを購入したとしても、そうした生産的消費は最終的には消費者需要によって規制される。「すべての需要の究極の規制要因は消費者需要にある」
 効用と欲求は相関しているが、欲求は測定できない。「その測定はある人がその欲求の実現ないし充足のために支払おうとする価格を介しておこなわれる」。すなわち財の効用は、支払われる商品価格によってしか測定できない。
 マーシャルは個々人の欲望の法則、ないし欲求を満たす効用の法則について論じる。
 ここで持ちだされるのが欲望飽和の法則、すなわち「効用逓減の法則」である。

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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その1) [商品世界論ノート]

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   1 はじめに

 アルフレッド・マーシャル(1842-1924)はイギリスのロンドンで生まれ、マーチャント・テーラーズ・スクールをへて、ケンブリッジ大学に進んだ。父親はイングランド銀行の出納係をしていた。数学の才能に恵まれ、大学では倫理学を学び、徐々に経済学に興味をもちはじめたという。
 1879年に『外国貿易と国内価値の純粋理論』、1882年に妻との共著『産業経済学』を公刊、1885年にケンブリッジ大学の政治経済学教授に就任する。
 就任講演の一節はいまもよく知られている。
「経済学者は冷静な頭脳と温かい心を持たねばならない」
 1881年から執筆をはじめた『経済学原理』は1890年に出版された。1908年に健康悪化のため教授職を退く。しかし、その後も経済学の研究をつづけた。アーサー・セシル・ピグーやジョン・メイナード・ケインズはかれの弟子である。
 ケインズはマーシャルについて、『人物評伝』のなかで、こう書いている。

〈マーシャルは古来最初にして最大の、生粋の経済学者であり、初めてこの学科を、それ自身の基礎の上に立ち、科学的正確さにかけて物理学ないし生物学にも劣らぬ高い水準をもった別個の科学として樹立するために、その生涯を捧げた人であった。〉

『経済学原理』は原著で800ページ。1920年まで何度も改訂がなされた。馬場啓之助訳で1965年に東洋経済新報社から発行された日本語版は4分冊、合わせて約1300ページの大冊で、数学の付録もついている。
 全6編の内訳は以下の通り。

 第1編 予備的な考察
 第2編 若干の基本的概念
 第3編 欲望とその充足
 第4編 生産要因 土地・労働・資本および組織
 第5編 需要・供給および価値の一般的関係
 第6編 国民所得の分配

 マーシャル自身は1890年に出版された『経済学原理』を第1巻と考えていた。
 予定していた第2巻、第3巻はついに刊行されることがなかった。
 第2巻、第3巻は、産業と商業、金融の歴史と現状、それに将来について論じる予定になっていた。
 その構想の一部は、1919年刊の『産業と貿易』、および1923年刊の『貨幣、信用、および商業』に結実している。
 マーシャルは商品世界の仕組みを論述しようとした。自分の仕事をスミスやリカード、ミルの延長上にあると考えていた。
 マーシャルの体系には国家という重要な要因が欠落しているが、のちに弟子のケインズは、その欠落を補う仕事をすることになる。
 初版の序文で、マーシャルはこう書いている。

〈イギリスの伝統にしたがって、著者は経済学の職分は経済的事実を収集・整理・分析することであり、観察と経験から得た知識を応用して、種々な原因の短期および究極の結果はどうであろうかを判断することであるとの見解をとり、また経済学の法則は直説法で表示された諸傾向に関する命題であって、命令法による倫理的戒律ではないとの見解をとった。経済法則および推論は、良心および常識が実際的問題を解決し、生活の指針となるような規則をたてるにあたって活用すべき材料の一部にすぎないのである。〉

 ここでは政治的主張や倫理的戒律に一歩距離を置く立場が表明されている。一見もっともな主張や、強い上からの命令によって、経済を動かそうとしても、経済が思いどおりにならないことが多いのは、経済には経済なりの仕組みがあるためだ、とマーシャルは考えている。
 政治が経済に作用をおよぼそうとし、じっさいに作用をおよぼしたようにみえても、経済はその仕組みによって同時に反作用をもたらす。したがって、その仕組みを理解しないままに加えられた政治の作為は、長期的にはかえって災厄さえもたらすことがある。
 マーシャルは、そのことをよく理解していたといえるだろう。
 シュンペーターはマーシャルについて、『経済分析の歴史』のなかで、こんなふうに書いている。

〈読者はマーシャルにおいて、単に高性能の経済学の専門技術家、深遠な学識をもつ歴史家、説明的仮説の確乎たる形成者のみならず、なかんずく一個の偉大な経済学者そのものを看守されるであろう。経済理論の技法に関するかぎり、……彼は資本主義過程の動きをよく理解していた。ことに彼は、同時にみずからも実業家であった科学的経済学者を含めた、その他の科学的経済学者の多数そのものよりも、よりよくビジネス、ビジネス問題、およびビジネスマンを理解していた。彼は自らが定式化した以上にさえ深く経済生活の切実な有機的必然性をも感得していた。〉

 シュンペーターが、とりわけ評価したのが『経済学原理』第5編の「需要・供給および価値の一般的関係」の考察である。同時にシュンペーターは、マーシャルの本質は、晩年の『産業と貿易』と『貨幣、信用、および商業』を抜きにしては把握できないとも述べている。
 マーシャルにおいては、マルクスの把握とはことなる企業社会論、すなわち企業経営者やビジネスマン、消費者の理論が打ちだされているとみてよい。シュンペーターはそこにマーシャルの現代性をとらえたのだった。
 日本では近代経済学の体系は、主としてワルラスとシュンペーターを通じて導入されたといわれる。そして、そのあとケインズの時代がつづいた。どちらかというとマーシャルはさほど読まれなかったのではないだろうか。
 ぼくにとって、マーシャルの『原理』を読む目的は、商品世界の構造をより理解するためである。ここでいう商品世界とは、日常生活の基本が貨幣と商品によって成り立つようになった世界をさすとしておこう。端的にいうと、いまの世界では、おカネがないと暮らしていくのがむずかしくなっている。
 商品は古代から存在する。だが、それはいわば特別なものであり、だれもが日常的に利用するものではなかった。人がものを売ったり買ったりして生計を立てるようになったのは、人類史のうえでは、ほんのこの300年のことだとみてよい。
 言い換えれば、商品世界が成立するのは近代においてであり、その近代が本格的に幕を開けるのは19世紀になってからだ。しかも、ヨーロッパではじまった近代の波は、次第に全世界に押し寄せていった。
 近代の定義がはっきりと確立されているかどうかは知らないが、たとえば歴史家のノーマン・デイヴィスが『ヨーロッパ』で示している記述にしたがって、近代の特徴をいくつか並べておくことにしよう。
 ひとつは産業化である。産業化が進展するなかで、多くの人は農村を離れて、都会ではたらくようになった。さらに農業機械の発達は、労働人口の移動をうながすことになった。
 新しい動力源が開発されたのも近代の特徴といえるだろう。最初は石炭、ついでガス、石油、のちに電気が動力源として利用されるようになった。
 それはさまざまな技術と結びついて、機械化を進展させ、大きな建造物や大量の製品を生みだした。
 交通機関や通信手段の発展も見逃せない。鉄道が建設され、道路や橋も整備され、郵便や電信なども普及していった。
 産業面では鉄鋼業、綿工業、化学工業が発展し、外国貿易がさかんになった。
 紙幣が広く流通し、銀行や信用組合、保険会社などの金融機関が増えていく。
 だが、近代は不安定な時代でもあった。貧農は賃金労働者になり、消費者になったものの、失業の危機は常にそこにあった。資本家もまた不況の波をかぶると、倒産を免れることができなかった。
 都会には人があふれるようになり、道路や水道、交通、街灯などの公共設備がつくられ、病院や警察などの公共機関も設置される。それと同時に、貧富の格差やスラム街の惨状、犯罪などの社会問題が浮上するようになった。
 いっぽうで教育が普及し、大衆娯楽や観光旅行、スポーツ観戦などもはじまる。人びとはもはや無力な農民ではなく自由な市民になった。労働者のなかには階級意識が生まれ、新しく教育を受けた世代には国民意識が生まれた。
 近代はけっして順調に進んだわけではない、とデイヴィスは書いている。

〈休むことなく前進する近代化の様相をつぶさに述べていくと、あたかもその道はなめらかで、進むべき方向もはっきりしていたような印象をあたえがちである。しかし多分その印象は間違っている。前進する地域は敵意に満ち、障害物が大きくたちはだかり、思いもよらない事件が絶えず起こった。〉

 しかし、はっきり言えるのは、こうした近代化のダイナミズムを通じて、人びとにとっては貨幣が次第に経済生活の尺度となってきたことである。かつての貴族と農民に替わる中産階級と労働者階級の区別も、身分によってではなく、貨幣という尺度によってなされるようになった。
 マーシャルが考察しようとしたのは、こうした近代における経済社会がどのような流れのなかにいとなまれているかということである。
 マーシャルの研究は、むろん先人の業績を踏まえている。
 たとえば、その代表作と思われるものを思いつくままに、ざっと並べてみよう。

  アダム・スミス『国富論』1776年
  デイヴィッド・リカード『経済学および課税の原理』1817年
  トマス・マルサス『人口論』1798年、『経済学原理』1820年
  ジョン・スチュアート・ミル『経済学原理』1848年
  カール・マルクス『資本論』1867年
  アルフレッド・マーシャル『経済学原理』1890年

 そして、マーシャル以後も視野にいれるならば、われわれはマーシャルからも影響を受けたと思われる次のような著作もリストアップすべきだろう。

  ジョン・M・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』1936年
  ヨーゼフ・シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』1942年
  フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』1944年

 この流れをみると、マーシャルはスミス、リカード、マルサス、ミル、そしてその後のケインズ、シュンペーター、ハイエクとつづく経済学の主流の中心となっていることがわかる。ここではマルクスだけが異質である。マルクスは終生、経済学批判の立場を貫いた。
 経済学のこの流れを意識しながらマーシャルを読むのは、けっして容易な作業ではないし、ぼくのような素人にはとても無理だ。だが、ともに近代とは何かを考えつづけた経済学者の群像のひとりとして、いまマーシャルを読んでみることは、それなりに意味があると考えている。

 2 経済の自由

『経済学原理』の「序論」で、マーシャルは「経済学は一面においては富の研究であるが、他の、より重要な側面においては人間の研究の一部なのである」と書いている。
 経済が人の日常生活に与える影響はきわめて大きい。経済活動をいとなむなかで、人はみずからの性格や行動パターンをも形成していく。
 所得に大小があるのはやむを得ないにしても、極度の貧困は「肉体的・知能的および道徳的な不健全さ」をもたらす、とマーシャルはいう。なぜ所得がちがうかはともかく、所得にちがいのある現実は認めなければならない。問題はしかし、極度の貧困が存在することであり、この問題は解決しなければならない。そうでないと、現在の経済の仕組みは維持できないだろうというのである。
 マーシャルの思考の底流には、当時盛んになりつつあった社会主義運動にどう対応していくかという意識が存在していたとみてよいだろう。

〈過重に働かされ、教育は十分にうけられず、疲れはてて心労にさいなまれ、安静も閑暇もないために、[人が]その性能を十分に活用する機会をもちえないというようなことは、甘受してよいものではない。〉

 貧困の研究は、経済学の大きな課題だ。
 貧困はなくさなければならない。「すべての人々が、貧困の苦痛と過度に単調な労苦のもたらす沈滞的な気分から解放されて、文化的な生活を送る十分な機会」を与えられなければならない。
 そのための条件をさぐることが経済学の目標のひとつだ、とマーシャルは断言する。
 歴史的にみれば、現代の産業生活、言い換えれば生産、分配、消費のスタイルが定着するのは、近代以降に属する。アダム・スミスの時代も、まだ産業革命ははじまっておらず、産業は農業と手工業が中心だった。
 現代の産業生活の特徴は、独立独歩と競争、共同と結合だ、とマーシャルは述べる。さらに「利己心ではなく、慎重さ」も見逃すわけにはいかないという。
 共同体のきずなは弱まったかもしれないが、家族のきずなが強まり、見知らぬ他者にたいする差別が減り、同情が増してきたのも、現代の特徴である。人間が以前にくらべて無情冷酷になってきたという証拠は見当たらないとも述べている。
 商取引についても、以前よりもはるかに「信頼にこたえようとする習慣と不正を退けようとする力」が強まった、とマーシャルは書いている。
 貨幣の力がそれほど強くない古代のほうが、人は安楽に暮らしていたという説をマーシャルは信じない。人びとの生活状態は、現代のほうがよほどよくなっている。
 競争を非難する人は多いが、競争があるからこそ、社会の活力と自発性が維持される。競争を規制すれば、一団の特権的な生産者が形成され、「有能なものがみずから新しい境遇を切り開いていこうとする自由を奪ってしまう」恐れがある。
 近代にたいする認識は、マルクスとはおおいに異なる。マルクスにとって、近代社会とはブルジョワ社会にほかならならず、ここでは資本家階級が労働者階級を搾取する体制ができあがっている。こうしたブルジョワ社会は否定されねばならない。
 マルクスは、労働者階級が権力を握り、生産者の自由なアソシエーションをつくるというビジョンを打ちだす。共産主義社会は階級がなく、私的所有のない(資産が労働者に還元される)平等な社会になると考えられていた。
 マーシャルも共産主義の信条を知らないではない。しかし、それには否定的だった。共産主義者は、理想社会のもとでは人びとが私有財産を放棄し、だれもが社会全体の福祉のために全力を尽くしてはたらくと主張する。だが、宗教的熱意にかられた小集団はともかくとして、ふつうの人間が純粋に愛他的行動をとりつづけるのは、ほぼ不可能だ、とマーシャルは断言する。
 むしろマーシャルが唱えるのは「経済の自由(Economic Freedom)」である。現代の産業生活を言いあらわすのに、これほど適切なことばはないと述べている。
 経済の自由が確立されるまでには、長い歴史を要した。しかも、18世紀末に、産業と企業の自由が解き放たれた当初は、多くの弊害をともない、その改革は冷酷で、荒々しさをともなうものとなった。しかし、それはほんらいの経済の自由がとる姿ではない、とマーシャルはいう。
 経済の自由は、「知性と決断力にとんだ精神が……忍耐強い勤労精神と結合」することによって花開く。そして「全国民が経済の自由の教説をうけいれるようになってはじめて新しい経済時代の夜明けが訪れた」のだ。身分制社会の時代は経済の自由がなかった。これにたいし、産業社会をリードする思想が経済の自由なのだ、とマーシャルはいう。
 マーシャルは共産主義ではなく自由主義の立場をとると表明している。その自由主義社会のもとでは、個々の企業と家計が経済の自由をもち、競争しあいながらも、相互信頼の関係を築いていくという。
 自由はやっかいな概念である。人は何をやっても許されるというのではない。法を守るかぎりにおいて、人は人権を認められ、自由に活動することができるというのが、近代における自由の概念だといってよい。信仰の自由、言論表現の自由も法によって保証されている。
 加えて、マーシャルは経済活動の自由を唱えた。それは企業家やビジネスマンが、新たな商品展開を求めて、リスクや不確実性にいどむ自由である。労働者にだって仕事先を選んだり、変えたりする自由がある。
 経済の自由は、とりわけリスクをともなう。法を犯すのはもちろん論外にせよ、資本や収入を失うというリスクがつきまとう。マーシャルが、経済の自由は競争の別名だといったのは、その意味である。経済の自由は経済のリスクと隣り合わせなのだ。
 いっぽうマルクスに言わせれば、近代における自由は、ブルジョワ的自由にかぎられている。労働者は資本の意思に縛られ、無理な仕事、長時間労働を強いられているではないか。労働者は自由に労働力商品を売ることができる。だが、それはそうしなければ生きていけないからだ。生産手段から切り離されているという点で、労働者は自由なのだ。労働者にとっての自由はフリー、すなわち無産者であることを意味する。
 マルクスは、プロレタリア独裁をへて、社会主義における労働に応じての分配、共産主義における欲求に応じての分配にいたる道を構想した。国家ないし集団による生産手段の所有も提案している。
 問題は途中経過であるはずのプロレタリア独裁が共産党独裁と同義となり、それが固定され、教条化されてしまう可能性にマルクスが無自覚だったことである。
 ほんらいプロレタリア独裁は、近代の価値観を前近代に引き戻すものではなく、それをさらに超近代のものへと前進させる手段であったはずだ。ところが、マルクス死後に発生したスターリニズムによる独裁は、法の下での自由と平等、集会・言論の自由、結社の自由、三権分立、民主主義、人権といった近代が獲得した諸権利を否定する方向へと逆走していく。
 スターリニズムやファシズムといった国家社会主義(全体主義)は、反動的マルクス主義の二つの形態といってよいだろう。
 晩年のマルクスは、「たしかなのは、ぼくがマルクス主義者ではないことだ」と嘆くようになっていた。ドイツのげすな社会主義者が自分の仕事を政治的に利用することをマルクスは恐れていた。とはいえ、マルクスにもプラトンと同じように独裁への無意識な願望がなかったとはいえない。
 マーシャルのいう「経済の自由」も近代の産物である。それはブルジョワによる生産手段の独占を否定するマルクスにとっては、おそらくがまんのならない「自由」だったにちがいない。経済活動の自由は、ブルジョワの自由であって、プロレタリアートの抑圧をいっそう強めるイデオロギーにほかならないと憤慨しただろう。
 マルクスが求めるのは、労働者の権利である。労働者は搾取されてはならない。長時間労働を強いられてはならない。労働者の人権は尊重されなければならない。
 そこからさらに、マルクスは「労働力商品」そのものの否定をめざした。そのためには、労働者による生産手段の所有が実現されなければならない。企業や工場や農場は、そこで働く労働者のものだ。すると、とうぜん資本家は消えてなくなる。これを可能にするのは、プロレタリア階級による政治権力の掌握である。
 だが、この論理にはどこか乱暴なところがある。最大の問題は、マーシャルのいう「経済の自由」が否定されていることだ。
 人は法のもとで、商品を自由に生産(製造)し、販売(流通)し、購入(消費)することができる。人は私有財産をもつことができる。これが近代が獲得した「経済の自由」である。
 この自由は自己決定権を意味し、したがって競争とリスクにさらされているが、アダム・スミスは、この利己心があることによって、経済の「見えざる手」がはたらくことを示したのだった。
 マーシャルの主張には、中産階級寄りの視点がみられるかもしれない。しかし、マルクスが「経済の自由」を含む近代の諸権利を前提とし、それをむしろ発展させるかたちで、社会主義を構想していたら、現在われわれがいだくようになっている社会主義や共産主義のイメージも、ずいぶんことなっていたものとなっていただろう。だが、われわれがそれを自覚するのは、ロシア型マルクス主義、すなわちスターリニズムや毛沢東主義の崩壊をまのあたりにしてからだった。
 その意味で、マーシャルの「経済の自由」は、経済の実際を知らなかった革命家マルクスの主張に警告を発するひとつの重要な概念だったといえるだろう。
 商品、貨幣、資本、労働力の商品化、資本の回転と循環という方向に展開されるマルクスの『資本論』は、その根柢に商品世界の廃棄という動機を秘めていた。だれもが商品世界をあたりまえのように崇拝している。だが、それは歴史的につくられた社会関係にすぎず、それはいつか「自由な人びとの共同体」によって乗り越えられなければならない。マルクスはそんなふうに考えた。
 商品、貨幣、資本のない共産主義をめざすというマルクスから生じたメシア的革命運動は惨劇へと転換していった。その悲劇は貨幣の廃棄を唱えたロシアの革命理論家ブハーリンやプレオブラジェンスキーを、スターリンが権力闘争の過程で粛清し処刑したことにも象徴されている。
 にもかかわらず、マルクスが商品世界を批判的に検証しつづけた作業には意義があり、それはいまでもわれわれに大きな光を投げかけているといえるだろう。そのこともまた忘れてはならないことだ。
 マーシャルが社会主義をはねつけたというのはあたっていない。というのは、かれはよく自宅に労働運動の指導者を招いて、さまざまな議論をしながら、終末をすごしていたからである。
「実のところ、彼は知的見地を別にすれば、あらゆる面で(J・S・ミルと同様に)労働運動や社会主義に共感を抱いていた」と、ケインズは書いている。
 マーシャルは労働者の待遇を改善するという社会主義の経済的主張を取り入れていかないかぎり、資本主義が持続しないことを自覚していたといえるだろう。

   3 経済学とは何か

 経済学の主な目的は、ビジネスの世界で活動する人間の行動を研究することだ、とマーシャルは述べている。ビジネスに取り組む姿勢は人さまざまだ。「それでもなお、日常の業務にとっては、その仕事の物質的報酬たる(貨幣)収入を得ようとする欲求こそが最も着実な動機」だいう。

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商業用語について──網野善彦『歴史を考えるヒント』から [商品世界論ノート]

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 近代以前の日本は農業社会だったというのは思い込みにすぎない、と網野善彦が書いている。

〈しかし、日本でも中世、とくに13世紀後半からは、信用経済といってもよいほどに、商業・金融が発達し、さまざまな手工業が広範に展開しており、近世を通じて、商工業は高度の経済社会といってもよいほどに発達していたことは間違いない〉

 小切手や手形、為替ということばも、そのころに生まれている。
 市場(いちば)や相場は、中世では、市庭(いちば)や相庭(そうば)と表記されていたという。
 庭とは共同作業をしたり、芸能を披露したりする場所を意味していた。朝廷もほんらいは朝庭であり、天皇が訴訟を採決したり、人びとに命令を下す広場を指していた。
 したがって、市場、いや市庭はそもそも「共同体を超えた交易の行われる場」であって、河原や中洲、浜、坂の途中など「境界領域」に立てられた。網野流にいえば、それは「無縁」の場だった。
「世俗の縁の切れた場所、『無縁の場』に物を投げ入れることによって初めて、人間は物を商品にすることができた」というのが、おもしろい。こうした市庭は縄文時代までさかのぼれるという。
 市庭は都市空間の原型といえるが、それはどこにでも出現した。市の立つときには、商人がやってきて、店を開いた。やがて、それが定期的なものとなり、酒屋や借上(かしあげ[金融業者])などの家(在家)が集まって、町が形成される。15世紀になると、そうした道に沿った場所には、飲み屋もでき、遊女もいた、と網野は書いている。
 市庭には売り手と買い手がいて、売買の値段が決められていた。そのときの値段を「和市」といったらしい。商人は、和市の高い場所を選んで、塩などを売ったとされる。15世紀後半になると、和市と同じ意味で、「相庭」(のちの相場)が使われるようになる。
 また寺などが地方から京都に銭を送るときには、現金ではなく「割符(さいふ)」が用いられていた。この割符を替銭屋にもっていって、一定の手数料を払うと、銭を引きだすことができる。
 古代の租庸調というのは、ややこしいのだが、租というのが直接、地方の役所に納める米だとすれば、調は朝廷に収める貢ぎもの、庸は朝廷に提供する労役ないし、その代わりとなる物品を指していたといえばいいのかもしれない。もちろん、すべて税にちがいない。
 古代の制度では、調庸の貢ぎものや物品は百姓が担いで、直接都に運んでいかなければならなかったという。その中身は米や布、絹、塩、特産品(たとえば鉄)など。しかし、それにはどうみても無理があり、10世紀半ばには、それぞれの国の国守が、百姓から調庸の税を集めて、それを朝廷に収める制度に変わった。こうして、次第に重層的な徴税請負システムができあがっていったという。
 朝廷から納税の指示を受けると、国守は請負人に徴税命令書(国符)をだし、それにもとづいて、請負人は現地の蔵から米や絹などの物資を調達し、運送業者を使って、それらを都に運んだ。網野によれば、国符は「切符」とも呼ばれ、手形のように通用したらしい。「お札(さつ)」もこれと似ている。
 ところで、手形や小切手などで使われる手というのは、そもそも何を指しているのだろうか。網野によると、手には交換の意味が含まれているという。
 たとえば、酒手とは車夫にわたすチップのことであり、塩手米とは塩をもらう約束で事前に渡す米のことだ。人手銭というのもあるらしい。これは人を売買するさいに払う銭のこと。
 いずれにせよ、手には交換の意味が含まれており、「14世紀にはすでに金融業者や商人の間で手形が自由に流通し、京都や鎌倉などに送金する際には、見知らぬ人の振りだした手形を買って送ることが可能なシステムができあがっていた」。
 物を貸して利息をとるのが金融だとすれば、その仕組みも弥生時代にすでに生まれていた。出挙(すいこ)というのがそれで、種籾を貸して、収穫した稲の一部を収めるというやり方だ。
ほんらい、出挙をおこなえたのは、神社仏閣だけだった。
 ところが、中世になると、銭貨が本格的に流通するようになり、銭を貸し付けて利子をとる仕組みが生まれる。これによって、高利貸が登場し、室町幕府はその弊害に対処するため、何度も徳政令を発することになる。
「近代以前の日本の商業・金融は、われわれが思っているよりもはるかに高度な発展を遂げていた」と網野は書いている。
 銭(貨幣)と商品の流れをもっと知りたい。

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西鶴『日本永代蔵』をめぐって(まとめ3) [商品世界論ノート]

8 思わぬ落とし穴

巻5にはいった。
エピソード1はいわば商品開発の苦労話といったところ。紹介されているのは、金平糖と胡椒の話だ。どちらも製法や栽培法が知られていなかった。
金平糖は高級輸入菓子で、南京から渡ってくる輸入品を高い値段で買っていた。西鶴によると、これを何とか日本でもつくれないかと考え、その製法を見つけたのは長崎の人だという。ケシ粒に少しずつ糖蜜をかけて粒をつくり、それをかきまぜながら、さらに糖蜜をかけて大きくしていく。できあがるには2、3週間もかかるという。
原料は安いのに、製法がむずかしいため珍重された金平糖は、高い値がついて、おおいに儲かった。まもなく男は金平糖づくりを女性たちにまかせ、自分は小間物店を開き、一代で千貫目(18億円)の財産を築いたという。
胡椒もまた中国から伝来した珍品だった。原産はインドである。だが、湯を通してあるため、それをまいても、木にならなかった。しかし、あるとき高野山で3石もの胡椒をまいたところ、そこから2本だけ芽が出て木に成長し、それから日本でも栽培されるようになった、と西鶴は書いている(にわかには信じがたいのだが)。
ちなみに、ここで歴史のエピソードを披露しておくと、中国から日本に胡椒がはいったのは8世紀半ばのこと。平安時代には山椒とともに調味料として利用されていたという。
唐辛子より胡椒のほうが先に伝わっていたというのは意外に思うかもしれない。だが、これはあたりまえのこと。唐辛子は中南米が原産で、それが日本に伝来するのは、ようやく16世紀半ばになってからだ。朝鮮には17世紀初めに日本から伝わったという説がある。
西鶴は長崎の隆盛をたたえる。季節ごとに中国から貿易船がはいってきて、糸や巻物、薬品、鮫皮、香木、諸道具、その他思わぬ珍品を運んでくるが、どれも落札し、売れ残ることがない。それを買う京、大坂、江戸、堺の商人たちは、商品への目利きがたしかで、しくじることがない。
長崎の商売では、ひとつだけ注意しなければならないことがある。それは海上の心配のほかに、いつ吹きだすとも知れない恋風がおこることだ、と西鶴は冗談めかして書いている。すなわち問題は、長崎に丸山という廓があることだ。これはたしかに商売の妨げになったかもしれない。疑似恋愛の場所である遊郭とカネはたがいにひきつけあう要素をもっていたのである。
つづいて場面はエピソード2へと移る。
いきなり大晦日の話だ。
月齢を基本とする江戸時代の暦では、大晦日が闇であることは最初から決まっている。すなわち、みそかはつごもり(月籠り)で、月が見えなくなる日である。だが、世間にとって重要なのは、この日が支払いの締め日になっていたことだ。とりわけ、おおつごもり、つまり大晦日は年の支払いの締め日。借金を返せない人にとっては、この日が心の闇となる。大晦日当日になって、驚き慌てる人が多いのは、困ったものだ、と西鶴は書いている。
昔は掛売り、掛買いがふつうだった。そのため大晦日には例年、世間では掛取りをめぐる攻防がくり広げられることになる。
掛取りに行くときは泣きや脅しに屈してはならない。まして、借金を取りにいった家で、だされた酒を飲んだり、お茶漬けを食べたりしてはならない、と西鶴は釘をさしている。
 ここに出てくるのは、もともと淀の鯉を売っていたのに、いつしか京の大きな両替商となった鯉屋の話。いや、それはまくらで、この鯉屋の手代が独立し、わずかな元手でちいさな米屋を開いたというところからはじまる。
 年末ともなれば、ちいさな米屋も掛売りのカネを回収するため、あちこちを回らなければならない。しかし、この主人、貧乏な所帯をみると、やりきれなくなって、つい弱気の虫にさいなまれる。
 その様子はというと。
 年末が迫っているというのに、ある家は女房が汗水たらして、一生懸命機織りをしている。できあがった一反の木綿を売って、どうにか正月の支度を調えようというのだ。これをみると、気の毒で、借金はとれない。
 ある家は、鼠取りから、灰掻き、五徳にいたるまで、家じゅうのありとあらゆる金物を集めて、それを古鉄(ふるがね)買いに売ろうとしていた。その値は銭130文(3500円)にしかならない。「これじゃ、米代も払えない」と亭主が嘆く。娘が「もういくつ寝たらお正月なの」と父親に聞く。すると「米があるうちが正月だよ」と答える。こうなると哀れで、借金の催促ができなくなる。
 ある家には悪達者そうな女房がいて、「借りるのも世の習いなのに、わずか4匁5分(8000円)ほどの借金で、首を引き抜いてもとってみせるとは、あまりにむごい」と泣きつかれる。今回も「まあまあ、そう嘆かずに。春になったら、またうかがいます」と、引き下がってしまう。
 次の家に行って、「勘定をお願いします」と18匁2分(約3万3000円)の勘定書をみせると、継ぎの当たった木綿着物を着た男が、1匁少々と記した銀(かね)包みをいくつか出し、これ以上は払えないとうそぶき、猫のノミをとりはじめる。もらわないよりましと、仕方なくこれを受け取って帰る。
また次の家に行くと、亭主はおらず、妙に色っぽい格好をした女房が、大勢の掛取りを相手に、芝居の話などをして盛りあがっている。亭主は家を出ていったという。男どもは「わしがあんたをもらってやる」などとふざけているので、米屋は掛取りをあきらめて、すごすごと引きあげていった。
「借金取りに行く家にも、さまざまの詐欺師がいる。油断をしてはならない」と西鶴はいう。掛売りで品物がよく売れたと喜んでいても、気が弱くては商売にならないのだった。

9 富豪も代々つづかない

 江戸時代、カネと縁があるのは町だけではなかった。村にもカネの世界が浸透しようとしていた。
 巻5のエピソード3には大和の朝日村(現在の天理市佐保庄町)が登場する。ここに川端の九助という小百姓が住んでいた。九助は50歳すぎまで、田を耕し、毎年決まって1石2斗の年貢米を収める地道なくらしをつづけてきた。
 節分には、窓に鰯(いわし)の頭や柊(ひいらぎ)を差し、豆まきをして、鬼を払い福を招くのが恒例だった。ある年、豆まきで庭に散らばった豆をひろい、それを野にうずめてみた。すると、不思議なことに芽が出て、葉が茂り、両手にあまるほどの豆がとれた。毎年、その豆をまいていると、10年後には88石もの収穫が得られるようになった。それを売ると、大きな収入になった。
 九助はこの収入で、田畑を買い集め、ほどなく大百姓になった。農作物に肥料をほどこし、田の草をとり、水を掻いて手入れをするので、稲もたわわに実り、木綿もたっぷりと取れるようになった。
 九助はさらに工夫を怠らなかった。田を耕す細攫(こまざらえ)をこしらえ、唐箕(からみ)や千石通しを発明し、さらには穂を扱(こ)く後家倒しといわれる道具も発明した。唐弓を導入し、繰綿(くりわた)を買いこみ、大勢でそれを打って、江戸に打綿の荷を積みだすようにもなった。
 こうして九助は大金持ちとなった。88歳で亡くなったときには家屋敷のほか1700貫目(約30億円)もの財産を残していたという。
 その財産はそっくり息子の九之助が受け継いだ。金持ちの息子というのは、どうして同じようなパターンをたどるのだろう。九之助にとって興味があるのは、カネを稼ぐことではなく、もっぱらカネを使うことだった。多武峰(とうのみね)の麓の村に京大坂の飛子(とびこ[男娼])の隠れ家があると聞いて、さっそく通いつめて、男色にはげむ。それから奈良の廓、京の島原にも足を伸ばし、女色にもふけった。
 こうして九之助は酒色の道におぼれるようになるが、8、9年のうちにすっかりからだを壊し、34歳で頓死してしまう。あとには男子が3人残された。その遺言状を開いてみて、みんながあきれかえった。親譲りの1700貫目は使い果たし、残ったのは借金だけだった。
 こつこつ親が稼いで残した財産も、放蕩息子の手にかかれば、あっというまに消えてしまうのだった。

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西鶴『日本永代蔵』をめぐって(まとめ2) [商品世界論ノート]

4 紀州太地と庄内酒田

 巻2のエピソード4。
『日本永代蔵』がおもしろいのは、大坂や江戸にかぎらず、日本全国にわたる商いの様子が、まるで週刊誌ルポのようにえがかれているところにある。
 場面は紀州の太地(たいじ)村に移っている。
 ここに鯨(クジラ)突きの名人で、天狗源内という人がいた。沖で鯨が潮を吹いているのをみかけると、船をこぎだし、一の銛(もり)を打ちこんで、風車の旗印をかかげたので、人びとはまた源内の手柄を知ったという。
 鯨を一頭とれば、ことわざにあるように七郷(ななさと)がうるおった。しぼった油は千樽を超え、その肉、皮、鰭まで利用できないところはなかった。源内はさらに徹底し、鯨の骨を砕いて、油をとることも忘れなかったという。これはおそらく貴重な脳油のことだろう。
 もともと浜辺のみすぼらしい家に住んでいた源内も、いまでは檜づくりの家を建て、その長屋に200人あまりの漁師をかかえている。
 ありていにいえば、ここでは鯨は海の稀少な巨大生物というより、貴重な商品として扱われている。だから、源内は鯨を見つけると、天狗のように飛んでいって、一番銛をつける。
 西鶴のいうように鯨の体はすべてにわたって利用される。肉や皮、内臓が食用になったのはいうまでもない。骨は工芸品の材料にもなった。ヒゲは釣り竿やゼンマイ、指物に加工された。油は灯油などに用いられた。腸内からとれる竜涎香(りゅうぜんこう)は香料として珍重された。肥料としても使われている。要するに、あますところなく商品化されていた。鯨はカネになる生き物だったのである。
 西鶴はさらにこんな話も紹介している。
 西宮の恵比須神社で開かれる正月10日の例祭(十日戎)に、源内は持ち船を仕立てて、かかさず参るのを20年この方、恒例としていた。
 ところが、いつもは朝早く参るのに、この日は、前日飲み過ぎたのがたたって、暮れ方の参拝となった。もう帰る人ばかりで、神主も賽銭を数えるのに忙しく、神楽を頼んでも、じつにおざなりにすませた。
 源内はすこし腹が立ったが、遅く参拝したのだから仕方ない。ともかく末社までお参りをすませて、船に戻った。疲れがでて、いつのまにか寝てしまった。
 その夢枕に恵比須さまがでてきて、なんと鯛を生きたまま運ぶ手立てを教えてくれたのだ。それは鯛のツボを針で突いて、眠らせる方法だ。これによって、生船(いけふね)で、鯛を殺さずにどこまでも送ることができる。こうしたやり方で、源内はまた大儲けすることになったという。まずは、めでたいというところだが、まさか恵比須さまがこれを教えてくれたとも思えない。むしろ、源内の工夫が際立つ物語である。
 エピソード5は、一転して山形の酒田に場面が移る。
 日本海に面し、最上川河口に位置する酒田は、江戸時代、北前船の寄港地としてにぎわっていた。
 鐙屋(あぶみや)は、その酒田を代表する廻船問屋で、現在もその屋敷が残っている。鐙屋という名前からは、もともと馬方が宿泊する宿だったことがうかがえる。その宿に、次第に舟方も泊まるようになったのだろう。
 西鶴も、鐙屋はもともとちいさな宿屋をしていたのが、万事行き届いているので、諸国から多くの商人が集まるようになったと書いている。そして、鐙屋は、そのうち米や紅花などの買問屋も営むようになった。
 問屋が失敗するのは、商品が売れると見越して、無理な商いをするからだ。その点、鐙屋は堅実で、客の売り物、買い物をだいじにし、客に迷惑をかけることもなく、たしかな商売をつづけている、と西鶴は観察している。
 カネ(貨幣)の流通と、もの(商品)流通は連動している。日本海と瀬戸内海を往復して、北国・出羽(のちには北海道まで)と大坂を結ぶ北前船の西廻り航路は、寛文12年(1672)に、河村瑞賢によって開発された。
 これによって、出羽、北陸の米が安全かつ容易に大坂に運ばれるようになった。さらにその航路は、すでに開発されていた江戸に向かう東廻りと連結し、これにより江戸時代初期に、本州を一周する航路が完成した。
 当初の目的は、大坂と江戸に年貢米を輸送することだった。だが、輸送されたのは米だけではない。商品の数や量がどんどん増えていった。
 暉峻康隆は解説で、こんなふうに書いている。

〈最上・庄内地方の米はもとより、紅染(べにぞめ)になくてはならぬ山形特産の紅花をはじめ、内陸の特産品は、酒田を通じて千五百石・二千石積みの堅牢な北前船で大坂へ運ばれ、上方からは木綿・砂糖・古手[使い古しの着物や道具]などの雑貨が、これまた酒田を通じて東北各地へ運び込まれるようになった。瑞賢の開発によって、東北地方や日本海沿岸の各国の物産は、上方相場で取り引きされることになり、地域経済の壁を破ることができたのである。〉

 交易の発展は、商業の中心地と地域を結び、地域の発展を促していく。江戸時代のはじめには、そんな好循環がはじまっていたのだ。
 酒田はそんな日本の流通を担う北前船の一大寄港地だった。その数は天和(てんな)年間(1681〜83)で、毎年、春から9月までで3000艘におよんでいたという。
 鐙屋は北前船の交易にたずさわる商人に宿を提供するところから出発し、買問屋として商人の欲しがる物品を集め、それを売ることによっておおいに繁盛した。
 その経営者はどんな様子かというと「亭主は年中袴(はかま)をはいて、いつも小腰をかがめ、女房は絹の衣装を着て居間を離れず、朝から晩までにこにこして客の機嫌をとり、なかなか上方(かみがた)の問屋などとはちがって、家業を大事にしている」。
 西鶴は、ここに人当たりのよさに加えて、並々ならぬ才覚と度胸をもつ商人の姿をとらえたのだった。

5 人生は変転きわまりない

 巻3の最初のエピソードは、貧病の苦しみをなおす治療法について。
 ある金持ちがこう教えてくれた。早起き、家業、夜なべ、しまつ。そして、健康に心がけること。何よりも家業(与えられた仕事)にはげむことがだいじだ。
 しかし、次のものは毒になるので、気をつけなければならない。それは美食、好色、ぜいたくな着物。乗り物での女房の外出、娘や息子の稽古事。俳諧、茶の湯道楽、花見、夜歩き、博奕、碁、町人の剣術、寺社参詣、諸事の仲裁と保証人、新田開発や鉱山事業への出資、食事ごとの酒、たばこ、観光、役者遊びと廓通い、高い利息での借金、その他もろもろ。
 たしかに、これらを断てば、カネはたまりそうである。
 これを聞いた文無しの男は、まず江戸は日本橋の南詰めに1日立って、人の群れを観察してみることにした。橋には祭でもないのに大勢の人が行き交いし、大通りも往来の人であふれている。だれか財布でも落とさないかと目を皿にしてみていたが、そんな人はいない。なるほど、カネを稼ぐのは容易ではないと、いまさらながら男は気づいた。
 元手がなくてもかせげる仕事はないかと思案しているうち、ある日、男は大名屋敷の普請を終えた大工の見習い小僧たちが、かんなくずや檜の木っ端をぽろぽろ落としていくのに気づいた。それを拾っていくと、ひとかたまりの荷物ができた。ためしに売ってみたところ、手取りで250文(7000円たらず)になった。
 足もとにこんな金もうけの種がころがっていたとは、と男はびっくり。それから、木屑や木っ端を集めつづけた。雨の日には、木屑を削って、箸をつくり、須田町や瀬戸物町の八百屋に卸売りをするようになった。それが箸屋の由来。

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西鶴『日本永代蔵』をめぐって(まとめ1) [商品世界論ノート]


   1 長者になるための教え

 井原西鶴(1642〜93)の『日本永代蔵』を、暉峻康隆(てるおか・やすたか)の現代語訳で読んでみた 。
『日本永代蔵』が出版されたのは元禄元年(1688)年のことだという。
「大福新長者教」のサブタイトルがついている。解説によると、昔、寛永4年(1627)に『長者教』という本が出ていて、西鶴の本はそれを引き継いで、新しい長者教を記したということになる。長者になるための教えである。
 寛永の『長者教』は中世末期に流布していた写本を出版したもの。3人の長者が童子の問いに答えて、長者になる心構えを説いている。
 長者は金持ちとはかぎらなかった。しかし、西鶴の新長者は、明らかに金持ちを指している。その背景には貨幣経済の発達がある。
 全部で巻6まであり、合わせて30のエピソードからなる。どこからでも読めるが、とりとめがないといえば、そのとおりだ。これがそのまま現代人に役立つとも思えない。それでも、江戸時代の人がなにを思って、どんなふうに生きていたかが伝わってくる。
 全部おカネにまつわる話である。カネが人を動かす時代がはじまっていた。西鶴はそれをときにユーモラスに、ときにあわれぶかくえがく。
 まず巻1の最初のエピソード。「初午(はつうま)は乗ってくる仕合わせ」をながめてみよう。
 おカネはあの世では役に立たないが、おカネがあればこの世でかなわぬことはまずない。残しておけば、子孫のためにもなる。だから、よく働いて、おカネをためよう。
 西鶴はそんなふうに書いている。このあたりは、いまの庶民の感覚も同じといえるだろう。
 春の山遊びにもってこいの2月[いまの暦では3月半ばごろ]、初午の日には、泉州の水間寺(みずまでら)[いまも大阪府貝塚市にある]に多くの貴賎男女が参詣におとずれる。
 厄除けで知られるこの寺の人気は、借銭(かりぜに)ができることだった。その年、1文借りたら、明くる年2文にして返す。100文借りたら、200文にして返す。暉峻康隆の解説にしたがえば、1文は現在の価値で27円。100文借りるといっても、いまでいえば3000円足らずのごくわずかな金額だ。
 ところが、あるとき、遠方からきたと思われる二十歳そこそこの若者が「一貫文借ります」というので、桁違いの金額に僧は驚く。あまりにびっくりしたため、国や名前も聞かないで、そのまま貸してしまった。
 一貫文とは銭1000文のこと。いまの金額にすれば2万7000円ほどだというが、貨幣経済が発達していない当時は、おカネの希少性がちがう。
 ところが1年たっても、貸したおカネは戻ってこない。寺をだますとは、罰当たりなやつだと僧は憤慨するが、後の祭り。これからはあまり大きな金額を貸さないようにしよう、とみんなで申し合わせた。
 それから月日は流れて13年。水間寺に銭を積んだ何十頭もの馬がやってきて、男があの節はお世話になりましたといって、大量の銭を寺に積みあげたのである。何事かとおどろいたが、事情を聞いて得心する。だまされたと思っていた寺は、予想だにしていなかった返済に大喜びし、その寄進で立派な塔を建てた、と西鶴は記している。
 そのとき判明したことだが、男は武蔵国江戸の小網町で、網屋という船問屋をいとなんでいるという。掛硯(かけすずり)[硯箱と銭箱がいっしょになった置物]に仕合丸と書いて、そこに水間寺の銭を入れておいたら、船頭たちがお守りにしたいといって、その銭を借りていった。こうして100文ずつ貸していたら、それが何と13年間に8192貫[約2億2000万円]まで増えていた。こうして男は長者になっていたという次第。
 はたして、こんなうまい話がほんとうにあったものだろうか。
 ちなみに8192貫という数字は、一貫を年利100%の複利で計算すれば、まさに13年後にそうなる。西鶴の計算はまちがっていない。
 経済学者の岩井克人によれば、中世から近世にかけ、信者が寄進した金銭を寺が祠堂銭(しどうせん)として貸し付ける習慣があったのは事実のようだ。借りる人は、おそらく、それを生活費として使うのではなく、縁起物として飾っておき、1年の無事息災を感謝して、倍にして寺に返却したのだろう。変な言い方だが、寺と信者のあいだで、賽銭がぐるぐる回っているようなものである。寺はその儲けを、毎年、寺の維持費にあてていたのだろう。
 ところが小網町網屋の発想はそうではなかった。船頭たちは、もちろんそれが水間寺の銭とありがたがり、縁起担ぎで、網屋から少額の銭を借りたにちがいない。ここで、西鶴はあいまいにぼかしてしまっているが、おそらく網屋は水間寺の銭を元手として、金貸に成長したのである。水間寺とのちがいは、網屋が水間寺の銭を、あくまでも回転資金として扱ったことである。
 回転しはじめた銭に水間寺のしるしがついているはずもない。しかし、それを船頭たちは水間寺のお守りのように信じた。網屋が長者になったのは、おそらく寺から借りた元手から獲得した総利得を寺に戻さず、自分の資本に組み入れるすべを知っていたからである。
 あくまでも物語であることを承知でいうと、男は水間寺の祠堂銭を原資として、いわばみずから銀行を設立し、それで大もうけをし、長者となったわけだ。そのもうけをすべて寺に戻して、元のすっからかんになるほど、お人よしだったとは思えない。
 武家や寺社から独立して、商人が誕生しようとしていたことを、西鶴のエピソード1は示している。それはちいさなお守りのようにはじまったカネが、だれにとっても、なくてはならぬものとして、どんどんと膨らんでいく過程をもあらわしていた。
 ただ、そこにいささか問題がないわけではない。
 一貫なら100銭ずつ借りて借り手は10人である。ところが、たとえば256貫になると、借り手は2560人必要となる。まして8192貫となると、8万1920人が銭を借りてくれなければ、商売は成り立たない。
 同時に貨幣供給量の増大もともなわなければならない。
 そのあたりのむずかしさに西鶴はふれていない。ここで伝えられるのは、まだ中世の雰囲気が残るおとぎ話である。とはいえ、カネがカネを生む世界があれよあれよといううちに広がっていくさまには、西鶴もびっくり、当時の読者もびっくりしていたのではないか。エピソード1は、そんなおどろきを伝えている。
 ちなみに、江戸幕府が金貨・銀貨・銅貨の三貨からなる貨幣制度を整えたのは17世紀前半といわれる。ただし、江戸時代を通じて、完全な通貨統合は実現できなかった。金建ての江戸にたいし、大坂(上方)は銀建てであり、両者のあいだには、いわば為替レートのようなものが発生した。つまり、ひとつの国に金建てと銀建ての地域が併存していたというわけだ。
 そのなごりは「ちんぎん」に賃金と賃銀の表記があることをみてもわかる。貨幣をカネというのも、金銀銅の三貨(3種の金属貨幣)を念頭においているからである。
銭貨(庶民貨幣)としての寛永通宝が発行されはじめたのは寛永13年(1636)のことで、それにより中世を通じて世間に用いられていた皇朝銭や永楽銭、その他さまざまの銭貨は次第に排除されていく。ついでながら、そのことも明記しておこう。
 ややこしい話はさておく。いずれにせよ江戸幕府が成立することで、曲がりなりにも統一された貨幣制度がつくられ、それによって商品世界がだんだんと広がっていくという構図をまずは思いえがいておけばよいだろう。西鶴はそのなかを生き抜く人びとを日本全国にわたって記録しようとしていたのである。



 カネがカネを生む世の中がはじまっている。
 つづいて『日本永代蔵』巻1のエピソード2を読んでみよう。
 場所は京都だ。商売一筋、2000貫(いまなら5400万円)をためこんで亡くなった父親の跡を21歳の息子が継いだ。この息子も最初は倹約家で、商売熱心だった。
 ところが、父親の墓参りから戻る途中、禁裏の薬草園のそばで、封じ文を拾ったところから、歯車がくるいはじめる。この封じ文はどうやら客のひとりが花川という島原の遊女にあてたもので、そのなかには一歩金(約2万7000円)と、詫び状らしきものがはいっていた。

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大団円──西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(12) [商品世界論ノート]

 商品というのは、けっきょくのところ対象化された欲望なのであって、単純に労働の産物というわけではない。とはいえ、商品の生産が、技術と労働によって支えられていることはまちがいない。それは最初から人に求められることを前提としており、その価値は貨幣によってはかられる以外にない。
 近代社会は分業によって成り立ち、商品のあふれる商品世界として形成されている。そのなかで人は何らかの商品を生みだす役割をはたしており、貨幣を媒介として商品を相互交換することを通じて、生活をいとなんでいる。商品と貨幣は切っても切れない関係にある。貨幣があってこそ商品は商品となり、商品があってこそ貨幣は貨幣となる。
 江戸時代はそうした商品世界が本格的にはじまった時代にあたる。しかし、それはまだ完全に開放されているわけではなかった。租税の基本は貨幣ではなく米であったし、自由な労働市場はまだ生まれていない。とはいえ、たしかに新しい時代がはじまっていたのだ。
 人の欲望はかぎりない。だが、目の前にそれしかなければ、どこかで満足してしまうものである。実際、欲望の対象が現前していなければ、欲望がかきたてられるわけもない。まだ高度な産業が発達せず、手工業が中心の時代には、生みだされる商品の種類や量もかぎられていただろう。
 それでも貨幣の誘惑は大きい。所有する貨幣の大きさこそが、金持ちかそうでないかを決定するのだ。しかし、貨幣はそれをもっているだけでは、減りこそすれ、けっして増えていくことはない。商品と結びついてこそ、貨幣は生きてくる存在になるのだ。したがって、商品世界においては、貨幣増殖への欲求によって、対象化された欲望にほかならない商品は自己増殖をうながされる。こうして何もかもが商品化されていく。ものだけではない。人の気遣いも性も商品となりうる。西鶴が直面したのはそういう時代だった。
 ご託を並べるのはこのくらいにして、『日本永代蔵』を読む。いよいよフィナーレである。
 巻6のエピソード3は、泉州堺で長崎貿易にかかわる小刀屋という商人の話だ。小刀屋は幕府から糸割府(いとわっぷ[許可証])をもらって、中国の生糸や綿を輸入する仕事をしていた。
 あるとき、生糸と綿が安値になり、最上等の緋綸子(ひりんず)が一巻18匁5分(約4000円ほど)になったので、10人の友人から銀50貫目(9000万円)借りて、これを大量に買いこんだ。それがあたって、その翌年に綸子が値上がりして、35貫目(6300万円)の利益がでた。
 それでほくそえんでいたら、何の因果か、一人息子が重い病気にかかってしまったた。八方手をつくしたものの、少しも回復の見込みがない。ところが、ある人が「まだ新米だが」といって、まだ駕籠にも乗れないような医者を紹介してくれた。その若い医者が、命さえあやぶまれた病人を直してくれたのだ。死んだものとあきらめていた息子が、半年あまりですっかり丈夫になったので、小刀屋が大喜びしたことはいうまでもない。
 医者にお礼をするのはとうぜんだろう。普通の相場なら銀5枚(38万5000円)というところだが、小刀屋が運んできたのは、銀100枚と真綿20把、1斗入りの酒樽一荷に箱肴という豪華なもの。
これには若い医者もびっくりし、再三辞退したものの、けっきょくこれを受け取ることにした。かれはそれを元に家屋敷を求め、医院を開いた。堺の町では小刀屋の気前よさが評判になっただけではなく、医者の評判もあがって、おおいにはやるようになったというのが、この話の落ちだ。
 カネはめぐりめぐって、人を幸せにする。
次のエピソード4は、棚からぼた餅のような話である。
淀の村に与三右衛門という人が住んでいた。あるとき、五月雨がつづき、橋のあたりが渦巻いていたとき、小山のように大きな黒いものが流れていくのを見かけた。追いかけていくと、岸の松に引っかかってとまったので、それを引きあげてみると、なんと漆のかたまりだった。それを売ると信じられないくらいの収入が得られた。こうして与三右衛門はいきなり里の長者になる。
 好運にめぐりあっただけといえば、そのとおりだが、世間にはまともに働かず、悪事をはたらいて、カネをためようとするやからがじつに多い。それにくらべれば、運をつかむのは富のきっかけとして悪くないと西鶴は考えている。
 いっぽうで、西鶴はこう指摘する。いまは以前と変わって世間に金銀が多くなり、儲けも多いかわりに、ひどい損もする。こんな時代だから、商いがおもしろいのはわかるけれど、けっして世渡りをおろそかにしてはならない。商いの心がけは、資本を強固にして、気を大きく持つことが肝要である、と。
 好運をつかんで里の長者となった与三右衛門の栄華も長くはつづかなかった。一時は水車で淀川の水を引いて、泉水をつくり、多くの客を接待していたが、それもいつのまにか尽き、家は絶えてしまった。このあたり、たまたま転がりこんできた大金も、うまく使わなければ、たちまち消えてしまうということだろうか。
 そして、最後のエピソード5。
 西鶴はいまの世は、人のくらし向きが、昔よりは一般に物事がゆたかになってきていることを認めている。働き手さえいれば、一家4、5人が食っていけ、だれも寒い目にあわないでいられるとも書いている。
たしかに収入にはちがいがある。夫婦共稼ぎでも生活が苦しい家もあれば、一人の働きで大勢を養っている者もある。そんななかで町人たる者は大福を願い、長者をめざすことがだいじだ。家柄や血筋ではなく、ただ金銀だけが町人の氏系図になるのだから、と西鶴は記す。
 長者たらんとする町人が住むべき場所は、京・大坂・江戸の三都以外にない、と西鶴は主張する。ここには富が集まってくるからだ。栄枯盛衰は世の常。しかし、長者になるには、その流れをいかにしてつかむかが求められる。
 そういいながら、西鶴が最後に取りあげるのは、京都の北山にくらす一家だ。ここでは同じ家に夫婦三組が同居している。三代とも幼なじみ夫婦で、みんな一生病気をせず、いずれも仲むつまじく、年貢を納めても百姓として豊かにくらしている。神を祀り、深く仏を信心しているのが、この一家の特徴だ。
フィナーレにこの話をもってきたのは、西鶴が毎日カネをあくせく稼いで終わるより、一家むつまじく心豊かにくらすのが幸せだと感じていたからだろう。
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[京都北山の幸せな一家]
「おりしも治まる時を迎え、御国(みくに)も静かでめでたいことだ」という讃詞で「永代蔵」は幕を閉じる。
 国が平和で、日々おごることなく地道に努力すれば、カネの心配なく、家族ともども静かに心豊かな生活を送れることが、人にとっての幸せであることは、いつの世も変わらないのかもしれない。

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