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粛清と虐殺──『ポル・ポト』を読む(4) [われらの時代]

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 1975年4月20日、ポル・ポトは12年ぶりにプノンペンに帰ってきた。陥落から3日後のことである。その到着は秘密にされた。
 当初、その司令部は鉄道駅に置かれた。住民退去が進められている。ぜいたくな財産を捨てさせ、都市部の人間を農業生産に従事させることが、ひとつの目的だった。ブルジョワ的意識を根絶し、知識人は根本から鍛え直さなければならない、とポル・ポトは考えている。
 王宮内のシルバー・パゴダで開かれた会議では、農業生産の増加に重点をおくことが決められた。自由貿易は諸悪の根源であり、自給自足こそが目指されねばならない。商業などの非生産的活動は抑制すべきである。
 その方針は容赦なく実施された。著者はいう。「ポル・ポトは、難民らがのちに『壁のない牢獄』と呼んだ社会的および政治的な構造にカンボジアの国民を幽閉し、国民を文字通り奴隷化した」。「ポル・ポト政権下のカンボジア国民は、まさに奴隷のようにみずからの運命に関するすべての権限を奪われ」た。
 ポル・ポトがめざしたのは、アンコール朝の再現だったという。社会主義建設は戦争と同じと考えられていた。その戦いにおいては、これまでの特権的なエリート層は破壊されなければならない。怠慢なクメール人をはたらかせなければならない。アンカ(組織)の指令どおり、人民を配置し、動かす。これが革命政権の課題だった。
 6月、ポル・ポトはハノイに行き、ベトナムとの友好関係を確認する。5月にコンポンソムの沖合フーコック島の領有権をめぐって、ベトナムとの紛争が発生していた。それを解決することも目的だった。ポル・ポトはとりあえず引き下がる姿勢をみせた。
 ハノイ訪問を終えたあと、ポル・ポトは北京に向かい、毛沢東と会見した。毛沢東はポル・ポト政権の全面的支援を約束する。中国はカンボジアに大規模な経済援助、軍事援助をおこなう代わりに、カンボジアは中国に軍事基地を提供する。そういう取り決めが交わされた。
 ポル・ポトはさらに北朝鮮に向かい、金日成と会見して、経済援助の約束をとりつけた。中国から帰国したのは7月中旬のことである。
 ポル・ポトはプノンペンで統一集会を開き、3000人の兵士による軍事パレードをおこない、ソン・センを参謀長とする革命軍を創設することを発表した。
 名目上、カンボジアを統治するのは王国民族連合政府ということになっている。国王を元首とするが、いうまでもなく、実権はクメール・ルージュが握っている。シアヌークは金日成が平壌につくった豪邸で、帰国の日を待ちわびていた。だが、その役割は何も決まっていなかった。北京や平壌を訪れたポル・ポトもシアヌークを訪れていない。
 9月19日、ポル・ポトは中央委員会総会を開き、農業生産の割り当てを増やすと宣言、同時に通貨を廃止すると発表した。おカネがなくなれば、私有財産への誘惑もなくなり、賄賂もなくなり、敵分子の活動も抑えられるというのが、かれの理屈だった。
「貨幣は現在においても未来においても危険なものである」と、ポル・ポトはいう。こうして流通していた旧紙幣は回収され、倉庫に収められた。中国で印刷されて発行されるはずだった新紙幣は、ついに発行されることがなかった。
 人びとは食料増産のため、収容先の村から労働力の足りない地域へ移住させられた。しかし、その地域もすでに収穫が終わり、稲を植えつけるには時期が遅すぎた。飢餓が広がる。
 プノンペンはほとんど廃墟となり、ポル・ポト派が占拠していた。
 知識人の思想改造が進められている。キュー・サムファンはいう。「あの人もゼロ、あなたもゼロ──それが共産主義だ」。最終目標は「まったく人格をもたない」人間をつくること。
「自省と公共の場での懺悔を経て、やがてアンカ[組織]への忠誠、機敏さ、熟考しないことを具現化した新しい人間が生まれた」と、著者は評する。
 政治教育は餓え、睡眠不足、長時間労働のなかで実施された。カンプチア共産党の目標は、すべての人をアンカに忠実な「新たな共産主義者」に改造することだった。
 都会から村に送られた人びとには、厳しい労働と餓え、そして政治教育が待っていた。反抗的な人間は処罰され、夜ひそかに殺害された。しかし、人口の大部分は、革命にうまく順応して、生き延びようとしていた。
 シアヌークは9月9日にプノンペンに戻った。扱いは丁重だった。王宮はきれいに掃除され、食料やワインも豊富で、磁器や宝石などの貴重品も保管され、医師も待機していた。心地よい環境だったといえる。
 シアヌークは10月に国連総会で演説し、クメール・ルージュ政権を擁護した。それから、アフリカ、中東、ヨーロッパを回り、12月に帰国した。帰国したときは、すっかり雰囲気が変わっていた。王国民族連合政府は単に民族連合政府と呼ばれるようになっており、新たな憲法が起草されていた。
 1976年1月5日、シアヌークは閣議の議長として、「民主カンプチア」の憲法を公布した。
 シアヌークはその後、キュー・サムファンとともに地方を視察し、国民の窮状に接して衝撃を受けた。クメール・ルージュ政権に自分の名前を貸すことに懸念をいだきはじめたシアヌークは、3月10日に病気療養のため辞任したいと申し出て、それは4月2日に認められた。
 これによって、シアヌークはみずからをクメール・ルージュから切り離すことに成功する。新しい国家元首にはキュー・サムファンが就任する。ヌオン・チェアは国民議会の政権委員会委員長に、そして、ポル・ポトはしぶしぶ首相の座についた。
 ポル・ポト政権は貨幣の不使用、市場の禁止、人民の需要に応じた供給、町と田舎の格差の是正をうたい、これこそが社会主義革命の見本だと胸を張ってみせた。だが、カンボジアには議会も行政府も裁判所もなかった。カンプチア共産党常任委員会とその書記ポル・ポトこそが権力だった。
 革命以降、村々にはコミューンがつくられ、さらに数カ所の村をたばねるコミューンがもうけられるようになった。食事は共同調理場でつくり、共同でとるのが原則だった。食料はやっと食いつなげるほどしかなかった。
 狩猟や採集、釣りは個人主義だとして禁じられていた。それによって、さらに飢餓が蔓延する。アンカ(組織)の取り締まりにより、個人の自由な行動は禁止されていた。
 町には住宅があまっていたのに、優先されたのは間に合わせのバラック小屋の建設だった。水田の区画は一律の正方形にならされた。機械化は蔑視され、医師や教師、法律家、技術者も、ひたすら単純労働に駆り出されていた。
 クメール・ルージュがめざしたのは、軍事力の強化と灌漑ネットワークの拡大による食料増産だった。米があれば、戦争ができる! そんな無気味なスローガンも登場するほどだった。
 にもかかわらず、ポル・ポト政権時代に米の生産はまったく増えなかった。それどころか、国民は過重な労働と飢餓に苦しんでいた。このかん、飢えと病気で100万人が亡くなった、と著者は推測している。コミューンでの強制労働が、人びとの労働意欲をそぎ、生きる意欲さえ失わせていたのだ。にもかかわらず、ポル・ポトは問題は政治意識が欠落していることだと考えていた。
 1976年2月25日、アンコール・ワットを擁する北部の中心都市シェムリアップで爆発事件がおこった。反体制派の攻撃だった。4月にも、西部のチャム族が反乱をおこした。
 5月、タイ湾の島の領有をめぐるベトナムとの協議が物別れに終わった。ベトナムとの関係は急速に悪化しつつあった。
 カンプチア共産党内部では粛清がはじまっていた。ポル・ポトは党内にスパイがはいりこんでいるのではないかと疑っていた。
 9月9日、毛沢東が死亡する。9月20日、ポル・ポトは健康上の理由から首相を辞任すると発表した。後任にはヌオン・チェアが就任。しかし、ポル・ポトは権力を手放したわけではなかった。
 北京では政変がおこり、華国鋒が江青ら四人組を逮捕していた。11月、ポル・ポトは北京で華国鋒と会見し、軍事協力と政治的提携を確認した。
 12月、帰国したポル・ポトは中央委員会を招集し、ベトナムとの軍事紛争に備えるよう述べた。それからベトナム支持派とみられる人びとの逮捕がつづいた。
 プノンペンの政治犯収容所S-21、すなわちトゥールスレン収容所では76年に1400人以上が収容され、77年春までに1000人以上が殺害されていた。最終的にトゥールスレンでの殺害者は、1万5000人から2万人にのぼる。
 逮捕の理由はあきらかにされず、CIAであれKGBであれ、はたまたベトナムの組織であれ、スパイときめつけられたあとは処刑が待っていた。欧米人も例外ではなく、トゥールスレンでは十数人が殺害されている。
 1976年半ばから翌年半ばにかけ、全国で四、五千人の党幹部と数十万人が敵分子や背信者として殺害された。林のなかの殺害について、多くの生々しい証言が残されている。まさにキリング・フィールドである。
 1977年にはいっても、ベトナムとタイ、両国の国境で紛争がつづいていた。国境の村では、しばしばクメール・ルージュ軍が村人を虐殺している。国外に逃げようとするカンボジア難民も多かった。
 タイ湾の島の領有権問題はなかなか解決しなかった。そのため、ベトナムもカンボジアも国境を越えた爆撃をつづけた。
 紛争を解決するには、後ろ盾が必要だった。ベトナムは当初、中国をあてにしたが拒否された。そこでソ連をあてにせざるを得なかった。中国はやっかいと知りながらもカンボジアを支援しつづける。ベトナムはラオスと協定を結び、ラオス国境地帯にベトナム兵を駐留させる権利を獲得した。
 9月、東部のカンボジア軍が、とつぜん国境を越えて、ベトナムのタイニン地方に侵入し、恐怖の爪跡を残して去っていった。ベトナム側としては報復措置をとらざるをえない。
 そのころポル・ポトは北京を訪れ、華国鋒主席と会見し、ベトナムとの対決姿勢を鮮明にしている。これにたいし、華国鋒はあくまでも平和的解決をめざすべきだと述べた。
 ベトナムは板挟みにあっていた。何か措置をとらないわけにいかないが、へたをすると戦争になる可能性があった。レ・ズアンも北京に向かい、華国鋒と会見したが、中国側の理解は得られなかった。
 12月中旬、装甲車と大砲をしたがえた5万人のベトナム兵がカンボジアに侵攻する。12月31日、カンボジアはベトナムとの国交断絶を宣言。これによりベトナム軍のカンボジア侵攻が世界に知られることになった。ベトナムの国際的イメージが傷つくことを恐れたボー・グエン・ザップはすぐに軍を引き揚げることにした。もともと懲罰的な短期間の侵攻ですませるつもりでいたのだ。
 1978年1月から2月にかけ、ベトナム労働者党政治局はポル・ポト政権転覆に向けて段階的な措置をとることを決めた。
 中国との緊張感も高まっていた。ハノイ政府は100万人を超える南ベトナムの中国人にたいし、その個人事業を国有化すると発表、これにたいし中国はハノイへの経済援助停止と中国人技術者の引き揚げで応えた。財産を奪われた中国人のほとんどが国境を越えるか、ボートピープルになる道を選んだ。
 ベトナムはクメール難民の軍事訓練を開始し、クメール・レジスタンスの指導者として、クメール・ルージュの元司令官だったフン・センを選んだ。
 78年夏、中国共産党政治局はベトナム国境に中国軍を集結させた。ハノイにはソ連の兵器と軍事顧問団が到着する。
 いっぽう、ポル・ポトは外交攻勢にでて、各国との親善につとめていた。日本とも友好関係が結ばれた。だが、開放化、寛容化は表向きだけで、じっさいにはその背後で大規模な粛清がつづけられ、拘置所では数万人が撲殺されていた。「この体制は恐怖なしには存在できなかったのだ」と、著者はいう。
 対ベトナム戦時体制と浄化は対になっていた。ベトナム軍の侵入を許した東部の幹部と村民は北東部のベトナム国境沿いに送られ、そこで大量に地雷を敷設する作業に駆りだされていた。代わって、南西部から幹部と人が移動してくる。東部地区書記のソー・ピムは責任をとらされ、自殺に追いこまれていた。
 粛清と殺害はやむことがなかった。ひとつの粛正が次の粛清へとつながっていく。著者は「1978年のポル・ポトの粛清はカンボジアの血を絞りつくした」というが、そのとおりだろう。
 ベトナムとの緊張が高まると、ポル・ポト派はいったん疎遠になっていたシアヌークとの関係を修復し、かれを国家のシンボルに祭りあげようとした。
 1978年9月末、ポル・ポトはひそかに北京で鄧小平と面会し、ベトナムが仕掛けてきた場合に備えて、長期ゲリラ戦の態勢をとることを表明し、中国の軍事援助を要請した。中国はカンボジアにできるかぎりの軍事援助を与えることを約束したが、戦争自体はカンボジアの責任でおこなうよう釘を差した。
 同じころ、ベトナムのレ・ドク・トは、乾期にカンボジアに侵攻する計画を立てていた。ヘン・サムリンを中心とするカンボジア・レジスタンス運動の準備も着々と進められている。
 1978年11月、カンプチア共産党の党大会が開かれた。だが、大会当日も軍の幹部が逮捕されたりして、ポル・ポト政権の内部はだれもが疑心暗鬼になっていた。
 12月2日、ベトナムに支援されたヘン・サムリンの部隊は、すでにカンボジア国境内にいた。クリスマス当日、ベトナム軍はラオスから南下し、カンボジア北東部一帯を占拠する。翌1979年1月1日、こんどは6万人を越すベトナム軍の主力部隊が、激しい空爆と砲撃ののち、プノンペンに進軍した。
 コンポンチャムが陥落間近になったとき、ポル・ポトは部下にシアヌークを車に乗せて、タイに逃れ、それから北京に向かうよう指示した。だが、1月4日にベトナム軍の攻撃がいったんやむと、シアヌークはプノンペンに戻り、ポル・ポトと会った。そのときもポル・ポトは勝利を確信していたという。
 だが、前線の防衛に失敗し、ベトナム軍がプノンペンに近づいてくると、ポル・ポトもプノンペンの放棄を決断せざるを得なかった。シアヌークは飛行機で北京に向かった。ポル・ポトをはじめ、ヌオン・チェア、キュー・サムファン、イエン・サリなど、クメール・ルージュの幹部たちは、1月7日までに高級車やジープ、列車に乗って、ひそかにプノンペンを脱出した。
 国民はベトナム軍の動きについて、ほとんど何も知らされていなかった。
 ポル・ポトとヌオン・チェアは北西部のバッタンバンに逃げ、そこでイエン・サリと会って、今後のレジスタンス計画を話しあった。イエン・サリはバンコック経由で北京に行き、鄧小平やシアヌークと会った。
 その後、シアヌークは国連総会で、ベトナムの侵攻を非難、安保理事会は多数決でベトナムを糾弾した。だが、シアヌークはもうポル・ポト派につくつもりはなく、北京にとどまることにした。
 ベトナム軍がタイの国境近くまで進出してきたため、タイ政府は中国、アメリカと並んで、反ベトナム陣営に加わり、引きつづき民主カンプチアを支持することになった。ポル・ポト派はタイ国境に近い西部のパイリン、さらに南のタサンに拠点を移した。
 1979年2月17日、激しい砲撃のあと、8万5000人の中国軍がベトナムに侵攻する。中越戦争がはじまったのだ。中国軍はベトナム領内に24キロ侵攻、1カ月後に撤退したときには、ベトナム側に1万人の戦死者がでていた。
 だが、ベトナム軍をカンボジアから徹底させるというもくろみは完全に失敗する。ベトナム軍から攻撃を受けたポル・ポト派は解放区を広げるどころか、むしろタサンの基地を捨てて、タイに逃げださねばならないほどだった。ポル・ポト派の部隊はほぼ壊滅状態になっていた。
 クメール・ルージュの悪政から人々を解放するために人道的に介入したというのが、ベトナムの主張だった。1月にはヘン・サムリン政権が誕生していたものの、ベトナム軍がカンボジアで歓迎されていたわけではなかった。
 その夏、カンボジアでは飢饉が発生し、2カ月で50万人もの難民がタイに流れこんだ。クメール・ルージュの部隊はふたたび国境を越え、カンボジア北西部に基地を建設しはじめる。
 11月の国連総会は、ベトナムが支援するヘン・サムリン政権を承認せず、民主カンプチアの代表団に議席を与えた。クメール・ルージュのゲリラ活動がさかんになる。ポル・ポト自身も国境の山地にある基地に戻った。これまでの急進的政策などどこふく風、いまやベトナムを追いだすことを大義としてかかげていた。
 ポル・ポト派はこのとき平壌にいたシアヌークを国家元首とする新たな統一戦線を樹立しようとしていた。カンボジア王室を復興させたいのなら、シアヌークは嫌いな共産主義者と手を組むしかなかった。
 1981年8月、ポル・ポトは北京に向かい、鄧小平、趙紫陽と会見する。2週間後の9月4日、シアヌークとソン・サン[王制下時代の首相]、キュー・サムファンはシンガポールで会合を開き、連合政府を設立しベトナムからカンボジアを解放するとの共同声明を発表した。これを受けて、12月にカンプチア共産党は解散した。これまでの悪夢は歴史のなかに葬り去られた。
 しかし、カンプチア共産党が解散しても、ポル・ポトによる独裁的な支配体制は変わらなかった。軍事組織としてのクメール・ルージュは維持されていたからだ。
 1982年6月、クアラルンプールで、シアヌークを元首とする民主カンプチア連合政府の結成が宣言された。キュー・サムファンは外交を担当する副首相となった。イエン・サリははずされ、しだいにその影響力を失っていった。
 中国はクメール・ルージュを軍事的に援助し、アメリカは連合政府を支援していた。カンボジアの抵抗勢力は力を強め、ヘン・サムリン支配地域の治安は悪化していく。
 1983年、ポル・ポトはバンコックで健康診断を受け、ホジキン病にかかっていることが判明した。まもなく60歳になろうとしていた。
 1984年夏、ポル・ポトは再婚し、やがて子どもをもうける。だが、その12月に、ベトナム軍が最大級の乾期攻撃を開始すると、ポル・ポトは基地を捨てて、タイに脱出せざるをえなかった。
1985年、ポル・ポトは北京で療養生活にはいった。
 同じ年、ベトナムはヘン・サムリン政権の外相で、元クメール・ルージュの司令官補佐だった34歳のフン・センをカンボジアの新首相に立てた。
 1988年夏にポル・ポトが中国から戻ったときには、すでにカンボジア和平会談がまとまろうとしていた。
 その後は1989年9月にベトナム軍がカンボジアから撤退し、1991年10月にパリでカンボジア和平の最終合意がまとまり、翌92年国連カンボジア暫定機構が発足し、93年4月から6月にかけ総選挙がおこなわれ、9月にカンボジア制憲議会が開かれ、立憲君主制が採用されて、シアヌークが国王になるという方向に歴史が動いていく。
 クメール・ルージュは最後まで戦った。西部のパイリンから北に伸びる国境沿いを占拠しつづけていたのだ。森のなかには、ポル・ポトの質素な住まいがつくられていた。
 パリ協定が結ばれたあとも、クメール・ルージュは武装解除しなかった。総選挙はボイコットした。この時点で、ポル・ポト派はタイ国境沿いにカンボジア領土のおよそ5分の1を掌握していた。
選挙後、王室政府はポル・ポト派を総攻撃するが、うまくいかない。いったんタイに逃れたゲリラ部隊はすぐ戻ってきた。
 1994年、ポル・ポトは70歳になろうとしていた。心疾患をかかえ、視力も低下し、左下半身が麻痺していた。ただし、いつもにこやかな表情とは裏腹に、性格はけっして柔和にならなかった。裏切り者には処刑も辞さなかった。
 しかし、このころクメール・ルージュのなかからも王室政府に寝返るグループもでてくる。1996年8月にはイエン・サリも離脱する。クメール・ルージュはほとんどの領土を失った。ヌオン・チェアとソン・センも南部の基地を失った責任をとらされ、職務を剥奪されていた。
 王室政府はふたりの首相、フン・センとラナリット(シアヌークの息子)の対立が激しくなり、ラナリットはクメール・ルージュと組もうとする。ただし、その条件はポル・ポトを排除することだった。
 1997年6月、ポル・ポトは自分を裏切ったソン・センとその家族を処刑した。これを知った副書記のモクはポル・ポト逮捕に動く。タイ国境を越え、ハンモックで運ばれていたポル・ポトはタイ軍によって拘束され、クメール・ルージュ側に引き渡された。それから1年間、ポル・ポトは小さな小屋に軟禁されることになる。
 この年7月5日にフン・センは軍事クーデターをおこし、ラナリットは亡命する。7月末、ポル・ポトはタイ国境に近い場所で開かれたクメール・ルージュの大衆集会で、終身刑を宣告された。謝ることは何もない、とポル・ポトは語った。
 1998年4月15日、政府軍の砲撃が近づくなか、ポル・ポトは心不全で死亡する。自殺や毒殺の説もあるが、真相はわからない。こうしてクメール・ルージュの時代が終わった。
 だが、その爪痕はいまもカンボジアのあちこちに残されている。

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ロン・ノルのクーデターと革命のはじまり──『ポル・ポト』を読む(3) [われらの時代]

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 1970年3月9日、プノンペンではベトコンのカンボジア撤退を求める学生デモがおこなわれた。2日後、群衆が南ベトナム暫定革命政府と北ベトナムの大使館に押しかけ、破壊と略奪のかぎりをつくした。この行動は、首相のロン・ノルが仕掛けたものだった。このときパリにいたシアヌークは、こうした事態をいかんに思うとの声明を出した。
 シアヌークはすぐに帰国せず、予定どおりモスクワを訪問した。3月18日、カンボジアの王国評議会はシアヌークの国家元首職を解くことを決議。シアヌークは訪問先、ソ連のコスイギン首相からカンボジアでクーデターがおこったことを知らされる。ロン・ノルをけしかけたのは、外相でシアヌークのいとこにあたる王族シリク・マタクだった。クーデターが発生したとき、サロト・サル(ポル・ポト)も中国にいた。
 3月19日、シアヌークは北京に到着した。闘うか、引退するか。シアヌークは闘うことを決意し、クーデター非難の声明を発表する。周恩来はすぐにカンボジアに戻るというシアヌークを押しとどめた。
 3月22日、北ベトナムのファン・バン・ドン首相が北京にやってきて、シアヌークと会見し、カンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュと協力するよう求めた。シアヌークはあいまいにしか返答しなかったが、クメール・ルージュとの共闘は否定しなかった。ファン・バン・ドンはサロト・サルとも会い、シアヌークの意向を伝えた。
 3月23日、シアヌークはカンプチア統一戦線を立ち上げる。その文案は周恩来とサロト・サルが訂正したものだが、このときシアヌークはサロト・サルが北京にいることを知らなかった。声明はロン・ノル政権への抵抗と不服従を呼びかけていた。ここにサロト・サル、すなわちポル・ポトの名前はいっさいでていない。
 4月はじめ、サロト・サルは北京から空路でハノイに戻り、ベトナム労働者党の幹部と会った。ベトナム側はクメール・ルージュに5000丁のライフルを提供することを約束した。その代わり、指揮権の統合を求めてきた。サロト・サルはそれはむしろクメール人に悪印象を与えると反論し、レ・ズアンもそれを認め、指揮権統合の主張を撤回した。
 だが、カンボジア領内のベトコンは、独自にロン・ノル軍にたいする攻撃を開始し、これにたいし、ロン・ノルを支持するアメリカはカンボジアに侵攻した。アメリカ国内の反発を受けて、それは中途半端な侵攻で終わった。だが、アメリカはその後もメニューどおり、カンボジアへの空爆をつづけた。その結果、ベトコンがかえってカンボジア全域に散らばることになった。
 サロト・サルはジレンマに陥っていた。クメール・ルージュのゲリラは二、三千人にすぎない。これにたいし、カンボジア国内のベトコンは、その20倍はいる。このままでは、カンボジアがベトコンに支配されてしまう。著者にいわせれば「[カンボジアの]共産主義者にとっての脅威は敵ではなく友であり、反対者ではなく見方だった」。
 ロン・ノルのクーデターは、内戦を引き起こした。ロン・ノルはシアヌークの地位を奪うことによって、事実上、王制の廃止を宣言していた。だが、農民にとって、クーデターは王制への冒涜行為だった。ベトコンが農民をあおった。政府軍による弾圧は残虐きわまりないものとなった。メコン川には何百人もの死体が浮かんだ。
 ロン・ノルは「ブッダの敵」である共産主義者、そして、その存在自体、共産主義者であるベトナム人との戦いを宣言した。カンボジアでくらしていた25万人のベトナム人は祖国に追放されることになり、追放をまつあいだ強制収容所にいれられた。
 いっぽうベトコンを掃討するため、ロン・ノルはアメリカと南ベトナム政府に支援を要請、やってきた南ベトナム兵はさらに残虐で、女性を強姦し、村を破壊しつくした。村を奪われた人びとはクメール・ルージュに結集することになる。
 1970年夏、サロト・サルはカンボジア国境にほど近いラオス山中の司令部を出て、カンボジア中部の暫定キャンプに下りてきた。そこはクラチエ州とコンポントム州の境だった。ここでサロト・サルは、カンプチア共産党中央委員会の拡大総会を開き、独立統治の方針を打ちだす。イエン・サリが外交担当の責任者となった。このころから、サロト・サルはみずからをポル・ポトと名乗るようになる。
 ロン・ノルは本人不在のままシアヌークに死刑判決を下した。そして、10月9日に、千年にわたるカンボジア王国を廃止し、カンボジア改めクメール共和国の設立を宣言した。その背後にはアメリカがいる。
 1970年代前半、カンボジアでは5つ、いや6つの勢力が、たがいに攻撃したり連携したりしながら争っていた。すなわち、クメール・ルージュ、ベトコン、北京のシアヌーク、ロン・ノル、地上軍の南ベトナム兵、そしてアメリカ軍である。
 アメリカはB52による空爆を強化していた。

〈アメリカはベトナム戦争中に、第2次世界大戦で各国が使用した爆弾の3倍をインドシナに投じた。カンボジアに落とされた爆弾の総量は、原爆を含め日本に落とされた爆弾の3倍だ。……農民たちは、わけもわからずに恐怖におちいった。「人々はすっかり怯え、おし黙ってさまよった。3、4日は口もきかなかった」と、ある村人は語る。〉

 農民たちは村をでて、都市部に逃れた。1970年の時点で65万人だったプノンペンの人口は75年には250万に達した。そして、家を破壊された農民の多くがクメール・ルージュに加わった。
 クメール・ルージュの部隊は寄せ集めで、ろくな訓練を受けていなかった。1970年から71年にかけて戦闘を主導したのはベトコンの部隊である。共産主義勢力は、カンボジアの東半分と西の一部根拠地を占拠するまでになっていた。
 ロン・ノル軍はようやく中部の都市コンポントムを奪還した。ロン・ノルを支えているのは、わずかな兵力とアメリカの空爆、それに1万人ほどの南ベトナム兵だけだ。地上支援をともなわない空爆に大きな効果は期待できなかった。そのころアメリカはインドシナの泥沼からいかに脱出するかを考えていた。
 ポル・ポトは中部の秘密基地を転々としながら、パリでアメリカ・北ベトナムの和平協定が成立したあとのことを考えていた。政権を握るためには、クメール・ルージュの軍事力を高め、ベトコン勢力には段階的に引き揚げてもらわねばならない。
 カンプチア共産党は1971年に中央委員会を開き、カンボジア全土を掌握するための軍事的・非軍事的組織の構想をつくりあげた。7月と8月には200人を対象に研修会が開かれた。このころポル・ポトを補佐していたのはヌオン・チュアである。キュー・サムファンも中央委員会に名前をつらねている。
 1972年はじめ、ポル・ポトは3カ月にわたる解放区視察に出向いた。プノンペンの北50キロの地点も訪れている。視察から戻ったポル・ポトは5月に中央委員会を開き、党員にプロレタリア的姿勢を強化するよう求め、準備が整い次第、農業の集団化と民間商業の抑制にとりかかるよう指示した。
 そのころクメール・ルージュの兵力は3万5000に達し、それを支えるゲリラもおよそ10万人に達していた。ベトコンが撤退してもなんとかやっていけそうだった。中国からは毎年500万ドルの支援があった。
 解放区にはすでに200万人のカンボジア人が暮らしている。クメール・ルージュは模範的なほど親切で、民衆の生活はおだやかだった。とはいえ、その暮らしは都会のエリートには想像できないほど貧しかった。
 カンプチア共産党内では批判と自己批判、内省と学習、労働が求められた。それは仏教の修行、いや共産主義の修行のようなものだった、と著者は評している。その目的はアンカ(組織)に身を捧げることだ。
 1972年にはベトコンの主力部隊がカンボジアから撤退しはじめていた。サイゴン侵攻が近づいていた。それにともない、クメール・ルージュが解放区の主要勢力となった。ホーチミン・ルートを通って帰還したクメール・ベトミン(ベトナムで軍事訓練されたクメール人)は第五列(スパイ)予備軍とみなされ、単純労働に回されるようになる。
 1972年2月に、ニクソン・アメリカ大統領が中国を電撃訪問した。その年の半ばから、過去4年間パリでおこなわれてきたアメリカ、北ベトナムの和平交渉が急速に進展しはじめる。ポル・ポトはその交渉がカンボジアに与える影響を注意深く見守っていた。
 北京のシアヌークは相変わらず豪勢な生活を送っている。シアヌークはキュー・サムファンが「カンプチア民族解放勢力最高司令官」だと思いこんでいた。このころイエン・サリも、クメール・ルージュ代表として、北京に滞在し、中国の指導部と接触していた。だが、いかにも王侯然としたシアヌークとの関係はうまく行っていない。
 シアヌークとクメール・ルージュは同床異夢の関係にある。和平協定が結ばれれば、シアヌークは第三勢力政府の長としてプノンペンに帰還するつもりだった。だが、ポル・ポト派はあくまでも戦って、共産主義カンボジアを築くことが目標だった。それでも、当面はうまくシアヌークを利用しようとした。
 1973年1月27日、パリでベトナム和平協定が調印された。シアヌークはイエン・サリとともにひそかにカンボジアに戻り、解放区のジャングルで王国民族連合政府のために戦うと宣言した。このとき、ポル・ポトは表に顔をださない。ベトナムのレ・ズアンとの会見にも病気と称して、応じなかった。
 シアヌークにジャングル生活は似合わない。すぐに北京の豪邸に帰っている。
 和平協定調印のあと、アメリカは2月9日にカンボジアへの爆撃を再開した。ベトナムはともかく、カンボジアではあくまでもロン・ノル政権を支える姿勢を示したのだ。クメール・ルージュは解放区の農民を村からジャングルや山岳地帯に移住させ、農作業にあたらせた。
 5月、ポル・ポトは農民が作物を自由に売ることを禁止し、集団農業計画にしたがうよう命じた。多くの農民が解放区から逃亡した。
「カンプチア共産党は、初期のキリスト教徒が苦難を受けいれることを促されたように、党員に『苦しみと困難』を儀式的に受けいれることを課した」という。クメール・ルージュが残虐さをいとわなくなったのは1973年以降だ、と著者は記している。
 パリ協定以降も、ポル・ポトは停戦交渉を拒否していた。いっぽう協定にしばられたベトナムは、直接カンボジアに手出しできなくなった。アメリカの空爆で、メコン川の土手は月のクレーターのようになった。ベトナムはしぶしぶながら、ホーチミン・ルートで、クメール・ルージュに武器を提供しつづけている。こうして、ベトナムの影響を脱したクメール・ルージュは、カンボジアの3分の2を掌握し、人口のほぼ半分を管理下におくことになった。
 73年秋、ポル・ポトはプノンペン北東50キロのチュロク・スデク前線基地にはいった。ここでクメール・ルージュ軍を指揮していたのは、パリ時代からの盟友ソン・センだ。ポル・ポトは翌年の総攻撃に備えること、警備を固めてスパイの侵入を防ぐよう命じる。スパイの嫌疑をかけられた人びとには収容所送りの運命が待っていた。
 冬、中部の基地に戻ったポル・ポトは幹部のヌオン・チェアやイエン・サリと協議を重ね、総攻撃の段取りを練った。
 1974年3月3日、プノンペンの北30キロにある旧都ウドンへの攻撃が開始される。3週間にわたる包囲攻撃ののち、ウドンは陥落し、政府軍兵士と民間人数千人が殺戮された。
 7月にはカンボジア全土掌握の可能性が高まっていた。ポル・ポトはコンポンチャムの北にある中部のメアク村で年次総会を開き、アンカ(組織)の政治目標として社会主義をかかげた。都市の商業は禁止されねばならない。そのためには都市の住民排除も辞さない。政府発行の紙幣は廃止し、時期を待ってクメール・ルージュの新紙幣を導入する。党の結束を強化し、革命反対派は全面的に処断する。こうしたことが決定された。
 ロン・ノル政府は追い詰められていた。12月初旬、ポル・ポトはウドン近くの前線基地で会合を開き、翌1975年1月にプノンペン攻略を開始することを決めた。1月はじめ、プノンペンは3万人の歩兵によって包囲された。105ミリ榴弾砲と中国製ロケット砲が街に打ちこまれた。
 ベトナム軍がサイゴンを落とすのが早いか、それともクメール・ルージュがプノンペンを落とすのが早いか。両者のあいだで不思議な暗黙の競争がはじまっていた。
 4月1日、ロン・ノルは退陣し、アメリカのハワイに亡命する。10日、アメリカ大使館関係者がタイに脱出。16日、クメール・ルージュがプノンペンを占拠した。サイゴンが陥落するのは4月30日のことである。
 ポル・ポト派が勝利を収めたのは、表向きシアヌークを抵抗組織の長に据えたことが大きい、と著者は書いている。しかも、カンプチア統一戦線の綱領には、個人、宗教の自由、政敵への寛容さ、国民和解、土地・財産の不可侵が掲げられていた。
 プノンペンにはいってきたクメール・ルージュの兵士たちは歓呼の声で迎えられた。しかし、黒服の若者たちの表情に笑みはなく、むしろ怒りがあふれていた、と著者はいう。兵士の多くは極貧の村の出身で、都市生活をみたのははじめてで、その多くが10代で、なかには12歳か13歳の子どももいたという。
 クメール・ルージュが最初におこなったのは、旧ロン・ノル政権の政治家、高官、警察官、軍人の逮捕と処刑だった。たちまち800人ほどが殺害され、無造作に道路沿いの共同墓地に投げこまれた。
 つづいて、兵士たちは一軒一軒民家を訪れ、アメリカの空爆があるから、すぐに退去するよう住民に命じた。待避場所も輸送手段も食べ物も医療ケアもないのに、250万人が首都からの即刻退去を命じられたのだ。ひどい話である。老人も病人も容赦なかった。兵士たちによる空き家の捜索と略奪もはじまっていた。
 検問所では、治安維持のために必要だから軍人や警官、政府職員は名乗りでるよう求められ、正直に名乗りでた人びとは連行されて、殺害された。その数は正確にはわからない。
 プノンペンから退去する途中、病気などで、およそ2万人が命を落とした、と著者は推測している。だが、おそらく2万人どころではないだろう。
 殺戮がおこなわれたのはプノンペンだけではない。占領されたほかの都市でも、旧ロン・ノル政権の役人や将校が、見つかり次第、たちどころに殺害されている。
 富裕層の多くは、アンカ(組織)によって財産を奪われた。車や台所用具、テレビ、ラジオ、ソファ、冷蔵庫、ミシン、テープレコーダー、カメラ、腕時計、ピアノなどすべてである。お金も価値を失った。古い通貨は廃止され、食料などを手に入れるには物々交換するほかなかった。
 故郷の村に帰った人びとは、短い略歴を書くよう求められ、知識人だとみなされると苛酷な運命が待っていた。大学で学んだ者は全員再教育を命じられ、15カ月におよぶ肉体労働を経験させられた。
 クメール・ルージュの統治は、都市住民の強制退去からはじまった。「国民全体の地方への移住、かつての政敵の殺害、敵意を持っていると思われる人間の矯正あるいは排除」が、その政策のパターンだったという。
 そのほとんどが10代で、無知かつ粗暴なポル・ポト派兵士たちは、そのパターンにしたがって行動した。こうしてカンボジア革命は、残酷で容赦ないものとなった。
 クメール・ルージュによる統治は3年8カ月にわたってつづく。

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一斉蜂起はじまる──『ポル・ポト』を読む(2) [われらの時代]

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 1953年1月にサロト・サル(ポル・ポト)がフランスから帰国したとき、カンボジアではシアヌークの政府と右派のイサラク(ソン・ゴク・タン派)、左派のベトミン(ソン・ゴク・ミン派)とのあいだで残忍な戦闘がはじまっていた。フランスが政府側を支援していたのはいうまでもない。
 フランス留学中の革命グループの指示で、祖国の状況を探るため帰国したサルは、イサラク、ベトミンのどちらにつくとも決めていない。しばらくは、王のいとこにあたるチャンタランセイ王子のもとに身を寄せている。王子は独自の独立運動を推し進めようとしていた。
 そのころ気まぐれなシアヌークは、フランスとアメリカを訪問し、カンボジアが独立すれば、共産主義に対抗できる国になると説いたが、まるで相手にされず、憤慨したまま帰国していた。
 帰国したシアヌークは、それならといわんばかりに右派のイサラクを取りこんで、自己の勢力を広げたうえで、フランスの脱植民地気分につけこんで、フランスが軍事力を手放すよう仕向ける。こうしてシアヌークは1953年11月9日についに念願の完全独立を宣言する。カンボジアにとっては、ほぼ1世紀ぶりの独立回復だった。
 サロト・サルがプノンペンを出て、ベトミンの解放区に向かったのは、独立宣言が出る前の8月だった。ベトミンの拠点はプノンペンの東、南ベトナムにほど近いクラバオという村に置かれていた。カンボジア人は少数で、ほとんどがベトナム人でベトナム語が話されていた。
 クメール人はあきらかに下っ端として扱われていた。だが、ここでサルト・サルは、プロパガンダを吹きこんで民衆を動かし、村を制圧するやり方を学んでいく。
 シアヌークが独立を宣言すると、インドシナ統一をめざすベトミンはそれに反発し、南部での戦闘が激しくなった。ベトナムの参謀ボー・グエン・ザップが北東部に攻撃を仕掛けてくるといううわさもあったが、実際にはかれは1954年5月のディエンビエンフーの戦いの準備に忙殺されていた。
 それでも表向きクメール抵抗組織を称しているベトミンの勢いは止まらなかった。寄せ集めのシアヌーク軍は士気を欠いていた。だが、7月のジュネーブ国際会議でインドシナ3国の休戦協定が結ばれると、クメール・ベトナム軍部隊はカンボジアでの戦闘を中止し、ベトナムに戻ることになった。その指導者、ソン・ゴク・ミンも北ベトナムの山岳地帯に向かった。
 サロト・サルはどうしたのだろうか。かれはプノンペンに戻ってきた。合法活動を担当し、民主党に潜入するよう指示されていたのだ。休戦協定のあとも、腐敗したシアヌークの王制は不安定なままだった。
カンボジアでは1955年に選挙がおこなわれことになっていた。サルは王制批判を強める民主党幹部のひとりケン・バンサクに接近し、民主党の政策づくりにかかわる。
シアヌークは王制が守られるかぎり、あえて反共にこだわらない中立路線をとると表明し、アメリカのアイゼンハワー大統領を激怒させていた。サルはもっと強い反米政策を取るべきだと主張していたものの、民主党内の意見はばらばらで混乱していた。それでも民主党への期待は大きく、選挙で民主党が圧勝するのはまちがいないと思われた。
 ところが、ここでシアヌークは驚くべき行動をとる。とつぜん退位を宣言するのだ。代わって父のスラマリットが王位についた。4月に予定されていた選挙は延期になった。
野に下ったシアヌークは政党「社会主義人民共同体」(略称サンクム)を組織し、みずから選挙に打って出る。警察はあからさまな選挙干渉をおこない、民主党のケン・バンサクも逮捕され、選挙結果はサンクムの完全勝利となった。民主党からはひとりの議員も選出されなかった。
 シアヌークというのは不思議な人物だ。独立志向が強く、帝国主義や植民地主義には猛烈に反対する。そのくせ、カンボジアは文字どおり自分の国だと思っている。人びとが王(つまり自分)を敬愛し、王のもとで互いに助けあってくらす国をつくりたいと考えていた。
 その後、シアヌークのカンボジアはアメリカの軍事機構SEATOには参加せず、非同盟運動の側に加わる。そのため、ベトミンはシアヌーク体制を直接攻撃しないよう、カンボジアの共産主義者に指示した。
カンボジア国内では政党活動や言論活動は認められなかった。国内の共産主義勢力には警察の弾圧が加えられていた。サロト・サルはイエン・サリの妻の姉、キュー・ポナリーと結婚、表向きは私立学校の教師としてふつうに暮らしながら、地下活動に従事するようになる。
 そのころ、カンボジアの共産主義グループを指導していたのは、元仏教伝道師のトゥー・サムート、ヌオン・チェア、サロト・サルなどである。1957年にはイエン・サリがフランスから帰ってきた。
ベトナム労働者党はカンボジアにベトナム南部司令局(COSVN)をつくっていたが、ベトナムのことで精一杯で、カンボジアの運動にまで手がまわらなかった。
 こうしてカンボジアの共産主義者は「兄」であるベトナムの手を離れて、次第に独自の活動をするようになる。そもそもあいまいな存在でしかなかったクメール人民革命党に代わり、あらたな党をつくろうという気運が生まれようとしていた。
 いっぽうのシアヌークはあらゆる政治的な動きに目を光らせていた。自分への反対派は容赦なく政府から追放した。保安相のダプ・チュオンはクーデターをくわだてたとして公開銃殺刑に処された。こうした弾圧の指揮をとったのが、軍参謀長のロン・ノルだ。
 1958年にシアヌークはふたたび選挙を実施する。自身の党サンクムを中心にリベラルな左派を取りこみ、みずからの支持基盤を拡大するのが目的だった。だが、ベトミンや共産主義者を認めるつもりはなかった。秘密警察の取り締まりのあと、容赦ない死刑判決がつづいた。
 1960年4月に父親のスラマリット国王が死去すると、シアヌークは憲法を改正し、みずからを生涯にわたる国家元首と定めた。
 そのころキュー・サムファンはシアヌークの政党サンクムに加わりながら、フランス語新聞『オブザバトワール』を発行していた。シアヌークをほめそやしがら、政府の政策を批判するこの新聞を、シアヌークはさまざまな騒ぎをおこしているとして休刊とした。
 クメール人民党に代わる組織としてカンプチア労働者党が結成されるのもこのころである。それはベトナム人に頼らないクメール人だけの組織だった。綱領には、独立した国家主権をもつカンボジア国家をつくると明記されていた。それはインドシナ連邦を設立するというベトナムの意向とは明らかにくいちがっていた。
 1962年7月、カンプチア労働者党の指導者トゥー・サムートが秘密警察につかまり、暗殺される。ナンバー2のヌオン・チュアには金銭着服の容疑がかかっていた。そこで、ナンバー3のサロト・サル(ポル・ポト)が急遽、臨時の書記に浮上する。1963年2月の党大会で、サルは正式の書記として承認された。
 著者によれば、シアヌークのいつものパターンは、中国を訪問したときには「共産国家をほめたたえ」、帰国してからは「自国に共産主義の入りこむ場所がないこと」を国民に思い知らせることだったという。
 1963年3月、3週間の中国訪問から戻ってきたシアヌークはさっそく共産主義者の取り締まりをはじめた。このとき、サロト・サルやイエン・サリ、ソン・センはプノンペンを離れ、カンボジア国境に近い南ベトナムのベトコン野営地に逃げている。
 ベトナムの基地での生活はみじめだった。クメール人の動きはベトコンによって厳しく管理されていた。しかし、カンプチア労働者党はここでひそかに中央委員会を開き、シアヌーク政権打倒とカンボジア自立に向けての武装闘争路線を決定する。
 革命の基盤は貧しい農民階級におかれた。農民にプロレタリア的意識を注入しなければならない。それにもとづいて、平等主義的な共産主義社会を築くことが目標としてかかげられた。
 1963年4月に中国の劉少奇主席がカンボジアを訪れ、中国とカンボジアの友好関係がさらに深まる。しかし、奇妙なことに、カンボジアでは「外国の左翼政権との友好関係が深まるにつれて国内の右翼勢力への依存はますます強まっていった」という。共産主義者だとわかれば、ロン・ノルの警察は裁判なしでかれらを射殺することができた。
 クメール語で「統治」とは「国をくいつぶすこと」を意味するという。シアヌーク政権は腐敗していた。都会では、仕事につけない知識層や学生がひそかにアンカ(革命組織)を支持する傾向が強まっていた。
 1963年11月、南ベトナムではCIA(アメリカ中央情報局)の工作によるクーデターが発生し、ゴ・ディン・ジエム首相が暗殺された。中立政策をとるカンボジアとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1965年5月には国交断絶にいたる。シアヌーク政権は相変わらず対外的には親中、国内的には反共という綱渡りの中立政策をもてあそんでいる。
 1965年4月、サロト・サルはホーチミン・ルートをたどり、2カ月半かけてハノイに到着し、ベトナム労働者党総書記のレ・ズアンと会見した。
 レ・ズアンはカンボジアでの武装蜂起に反対し、北ベトナムと友好関係にあるシアヌークに手をだすなと主張した。いまは南ベトナムで勝利することが最大の目的であり、カンボジアの革命はそのあとだ、とも述べた。
 サロト・サルは失望し、ベトナムに不信感をいだいた。ハノイでは元クメール人民党の指導者、ソン・ゴク・ミンとも会った。サルは表面上にこやかな笑みでかれと接したものの、ひそかな敵意を覚えていた。
 12月末、サロト・サルは北京に到着し、ここでひと月とどまった。鄧小平らと会ったものの、毛沢東や周恩来には会えなかった。文化大革命がはじまろうとしていた。中国はシアヌークを支持するいっぽうで、サロト・サルにも秋波を送った。
 ふたたびハノイでレ・ズアンと面会したあと、サロト・サルはホーチミン・ルートでラオスを経由し、1966年6月に国境地帯の根拠地に戻った。10月の総会では、党名をカンプチア共産党と党名を変えることが決まった。本部もカンボジア北東部のラタナキリ州に移すことにした。ベトナムの監視から逃れることが最大の目的だった。
 1966年夏の選挙をへて、議会は右派のロン・ノルを首相に選んだ。カンプチア共産党は、シアヌークがロン・ノルを承認したことに反発し、武装闘争の方向性を固める。
 1967年2月、政府による強制的な米の買い上げに憤った民衆が、タイ国境にちかい北西部のパイリンで暴動をおこした。暴動は同じくバッタンバン州のサムロットにも広がり、収束まで数カ月を要した。政府の襲撃で、何百人もの命が失われた。
 このころキュー・サムファンやフー・ユオンはプノンペンを脱出し、北東部の根拠地に身を隠した。暴動の責任をとって、ロン・ノルは辞任し、シアヌークがまたも首相に就任した。しかし、弾圧はますます強まるいっぽうだった。
 1967年夏、サロト・サルはこの冬に全国で一斉武装蜂起をおこす方針を固めた。ベトナム側はそれを支持せず、武器の支援をおこなわなかった。とはいえ、ベトナム労働者党はカンプチア共産党と対立するわけにはいかなかった。
 カンプチア共産党が本部を置いたカンボジア北東部のラタナキリ州は少数民族の地だったが、その拠点はイエン・サリが管理していた。
 サロト・サル自身は11月まで準備のため南の国境地帯にいた。それからラタナキリに移動したが、途中マラリアにかかり、担架で本部に運ばれるありさまだった。だが、この辺境の地で、蜂起の計画は完成した。
 1968年1月18日、北西部バッタンバン州で軍駐屯地急襲を皮切りに蜂起がはじまる。北東部のラタナキリ州でも、武装した少数民族の一団が軍事輸送車を襲った。北部や南西部でも火の手があがった。
 シアヌークは内戦がはじまっていると感じた。そこで、8カ月前に解任したロン・ノルを呼び戻し、抵抗組織の掃討を命じる。共産党が占拠した拠点は次々奪われていった。かろうじて守りきったのは北東部だけである。ラタナキリ州の数千人の山地民は、山岳の安全地帯に移され、そこに戦略村を築くことになった。
 シアヌークによる全国にわたる共産党掃討作戦は残虐をきわめた。1968年夏、追い詰められたクメール・ルージュは、その本部をラオス、ベトナムの国境に近い山岳地帯に移す。
 それでも反乱は収束する気配がなかった。シアヌークが頼るのはロン・ノルの秘密警察だけだった。しかし、地下の共産党は力をたくわえ、農村だけでなく都市部でもネットワークを広げていた。
1969年7月にロン・ノルは正式に首相の座に返り咲く。こんどは国防相と参謀総長を兼任していた。シアヌークがアメリカとの国交を回復すると、ロン・ノルは公然とアメリカ支持をかかげる。
 中国とアメリカを両天秤にかけて、シーソー外交をくり広げるシアヌークにとって、ロン・ノルの動きは不愉快だった。政権内ではまたもやシアヌークとロン・ノルの暗闘がはじまっていた。
 1969年後半、カンボジア国内では反乱組織が根を広げていた。だが、決定的に武器が足りない。
 サロト・サルはふたたびホーチミン・ルートでハノイに向かい、武器の支援を要請した。しかし、レ・ズアンはこれを拒否する。折しも9月にホー・チ・ミンが亡くなり、その葬儀にシアヌークが出席していたのだ。レ・ズアンはサロト・サルに反乱をやめて、シアヌークを支持するよう求めた。
 このつづきは、また。

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『ポル・ポト』(フィリップ・ショート著)を読む(1) [われらの時代]

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 先日、のんびり6日間のアンコール・ワット・ツアーに出かけて、帰宅したら、なんだか重い荷物をしょったまま戻ってきたような気がしてならなかった。その正体は、ポル・ポトと呼ばれた人物から発された何かであり、いわば歴史の重荷といえばいいのだろうか。いまカンボジアには、ポル・ポトにまつわる光景はほとんど残っていない。しかし、じっと目をこらすと、その影はカンボジアのあらゆる場所にひそんでいると感じないわけにいかなかった。
 ポル・ポト(1925〜98)、本名サロト・サルはクメール・ルージュと呼ばれたカンボジア武装勢力の最高指導者で、カンプチア共産党の書記長。クメール・ルージュは、1975年4月から79年1月まで、カンボジアを支配した。国全体に恐怖政治を敷き、反対勢力と思われる人びとを大量に処刑したとされる。そのかん、カンボジアでは700万人の人口のうち150万人が犠牲となった。その大半は混乱による餓死や病死だが、巷間伝えられるいわゆる大量虐殺もおこなわれたのだろうか。
 1979年1月のベトナム軍による侵攻で政権を失ってからも、ポル・ポト派はタイにまたがる西北部の密林地帯で抵抗をつづけた。ポル・ポトが亡くなったのは1998年というから、つい20年ほど前のことである。それまでは、アンコール・ワット観光どころの話ではなかったのだ。
 旅行から戻ってきて、ポル・ポトのことをもう少し知りたいと思い、図書館でこの本を借りて読むことにした。注もあわせると900ページ近くある。
 読みはじめて気づいたのだが、国際環境や国内事情がややこしい。それに人名がさっぱり頭にはいってこない。ともかく複雑なのである。ポル・ポトを悪魔の男だと片づけるだけではすまないような気がしてきた。はたして、イデオロギーや民族性、あるいは指導者の性質だけで、この史上まれにみる暴政の原因を説明できるだろうか。そこで、どこまで読めるか、はなはだ心もとないのだが、簡単なメモだけでもと思い、自分なりの整理をこころみることにした。
 ポル・ポト(サロト・サル)は1925年3月にカンボジア中部コンポントム州の農村で生まれている。その家は広い稲田をもち、裕福だったという。子どもは6人。ポル・ポトは4番目で、上に兄が二人、姉がひとりいた。
 父の姉は王室に仕え、その娘メアク(つまりポル・ポトのいとこ)がモニボン国王(1875〜1941、在位1927〜41)の側室となり、王子を産んでいた。のちにポル・ポトの姉も国王の側室になる。次代の国王ノロドム・シアヌーク(1922〜2012)は、モニボンの孫にあたる。
 著者にいわせれば、カンボジアの風景は、昔もいまも、中国よりアフリカに近い。

〈カンボジアの生活は、泥臭く素朴だ。自然が密生して実を結ぶ。太陽は鉄のハンマーのようにがんがんと照りつけ、ジャングルには霧がたちこめ、地面は熱と熱帯の色を帯びて躍動する。晩春になると、……幅数キロにおよぶ蝶の群れが一面の蓮の花や鮮やかな緑の水田をわたる。少女は十代になれば女性として花開き、二十歳になれば色あせる。〉

 カンボジアの中心民族、クメール人の世界は、精霊と魔術に満ちている。そこに仏教がかぶさり、森羅万象を統べる王がいる。
 そんな雰囲気のなかで、サロト・サル(ポル・ポト)は育った。プノンペンにでたのは9歳のとき。最初は僧院で戒律や経を学んだ。10歳になると年の離れた兄のところから、フランス系の小学校エコール・ミシュに通った。兄の家はプノンペンの王宮近くにあった。王の側室になっていた叔母や姉と会うため、王宮を訪れたこともあるという。
 王政は存続していたものの、カンボジアは1863年からフランスの保護下におかれていた。実質上の植民地だった。カンボジアが完全独立を果たすのは、それから90年後の1953年になってからだ。いまでも多くのカンボジア人は、あのときフランスに保護されていなければ、カンボジアはベトナムとタイによって分割されていただろうという。ベトナムとタイへの不信は根強い。
 第2次世界大戦が勃発すると、カンボジアはヴィシー政権の管理下におかれ、1941年9月にドイツの同盟国である日本の軍隊が進駐してくる。タイもカンボジアに侵攻した。そのころモニボン国王は亡くなり、孫のシアヌークが18歳で即位する。フランスにとっては、操りやすい存在と思われていた。
 サロト・サル(ポル・ポト)の学業成績はぱっとせず、プノンペンの名門高等中学リセ・シソワット[いわゆるシソワット校]にはいれず、2年留年して、1943年の秋、コンポンチャム[プノンペンの80キロ北東、メコン川沿いの都市]で開校したばかりの中学にもぐりこんだ。
 1945年になると、東南アジアの日本軍は劣勢を強いられていた。パリはすでに解放され、ヴィシー政権は崩壊した。3月13日、日本に促されて、シアヌークはカンボジア独立を宣言する。ソン・ゴク・タンが外相、のちに首相となった。
 そのころ、サロト・サルは校友のキュー・サムファンとともに、片道2週間かけて北部のアンコール・ワットを訪れ、カンボジアの過去の栄光をしのんでいる。
 日本軍が敗北したあと、カンボジアの独立は却下され、フランス統治が再開され、ソン・ゴク・タンは国外追放された。カンボジアはフランス連邦のひとつとなり、まもなく自治権も与えられることになっていた。1946年9月には、初の国民選挙もおこなわれ、ユティボン王子の率いる民主党が勝利を収めた。だが、ユティポンはその後すぐに亡くなる。
 カンボジアでは、タイの援助を受けたクメール・イサラクによる反仏運動がすでにはじまっていた。ベトナムでは、ホー・チ・ミンのインドシナ共産党が独立革命運動を開始していた。インドシナ全域に革命を広げることが目的だった。ベトミン(ベトナム独立同盟会)にとって、カンボジアは重要な後方支援地域であるばかりでなく、革命の対象と考えられていたのだ。
 1947年夏、サルは期末試験に合格し、念願のシソワット校に進学した。1年上の学年にはのちにクメール・ルージュの副首相となるイエン・サリがいた。1948年夏の終了試験に落ちたサルは仕方なく、プノンペン郊外の専門学校にはいるが、好運なことに、そこでフランスに留学できる奨学金をもらえることになった。留学生は総勢21人、その多くがのちにカンボジアの政治を担う中心人物となる。
 光の街パリ。「1950年代前半に、サル[ポル・ポト]と仲間たちがのちにクメール・ルージュの悪夢のもととなる思想の基礎を築いたのはモスクワでも北京でもなく、このパリだった」と、著者は書いている。
 1949年10月1日、サルら留学生一行はパリのリヨン駅に降り立った。王族と縁のあったサルは、ひとりの王子とともに、フランス無線電気大学で、無線工学を学んだという。かれがよく出入りしたのはカルチェ・ラタンにあるクメール学生協会だった。
 1950年夏には、国際労働隊に参加してユーゴスラビアに行き、ザグレブで道路の建設を手伝ったりもした。パリでは留学生どうしの交流がさかんになり、イエン・サリやケン・バンサク、ティウン・マム、フー・ユオンらと学習サークルを開くようになる。
 中国での毛沢東の勝利が、インドシナの植民地解放闘争に火をつける。中国は北ベトナムのホー・チ・ミン政権を支持していた。これにたいし、アメリカとイギリスは、ラオス、カンボジア、南ベトナムからなる「フランス連邦」を支援していた。
 ホー・チ・ミンの最終目的は、ベトナムを統一するだけではなく、ベトナム、カンボジア、ラオスからなる「インドシナ民主共和国」をつくることだった。そのためカンボジアでもベトミンの指導のもと、ソン・ゴク・ミンを長とするクメール人民革命党(のちのカンプチア共産党)が結成された。
 パリの留学生もこうした動きと無関係ではいられなかった。クメール学生協会は左傾化し、イエン・サリが中心となって秘密組織セルクル・マルクシステ(マルクス主義サークル)がつくられる。サル[ポル・ポト]がこのサークルに参加するようになるのは1951年秋か冬のことだった。のちにキュー・サムファン[のちのポル・ポト派幹部]も加わる。サークルでは「共産党宣言」やレーニンの「共産主義入門」、毛沢東の「新民主主義論」などをテキストとして、学習会がもたれるようになった。
 サルは共産主義に活路をみいだし、1952年にフランス共産党に加わった。かれが気にいったのは、エリートが指導する一枚岩の党というスターリンの考え方だった。党にもぐりこもうとするスパイや詐欺師、悪党には容赦ない弾圧を加えなければいけない。
 ただし、ソ連のいいなりにはならない。ベトナムやタイにたいしても独立性を保ち、カンボジアの民族独立を実現するのだと考えていた。その指針となったのが、植民地や半植民地での革命のあり方を教えた毛沢東の思想だった。
 そのころ、カンボジアの国内情勢は不安定になりつつあった。国外追放されていた元首相のソン・ゴク・タンはカンボジアに帰国し、独立運動をはじめていた。それに激怒したフランス当局がソン・ゴク・タンのデモを禁止すると、かれは北西部タイ国境の山中に逃れ、イサラク同盟と合流した。
 国王のシアヌークと民主党政権の関係もうまくいっていなかった。当時30歳のシアヌークは1952年6月に国民議会と政府を解散し、非常措置としてみずから首相の座に就いた。シアヌークの「クーデター」と呼ばれる。
 国内ではシアヌークへの非難が巻き起こった。それは海外のカンボジア人のあいだでも同じである。王政か民主主義か。サロト・サル[ポル・ポト]は王政を廃止したフランス革命を思い浮かべた。
1953年1月13日、シアヌークは勅令による統治をおこなうと宣言した。これにより、王の政策に反対を表明することはできなくなった。
 カンボジア国内が混乱するなか、ベトミンとクメール人民革命党のソン・ゴク・ミンはベトナムとの国境沿いに根拠地を築いていた。
 そんななか、サロト・サルは1952年12月25日にマルセイユを出航し、祖国に向かっていた。サイゴン(現ホーチミン)に到着したのは、シアヌークが独裁宣言を発した当日である。
 長くなったので、きょうはこのあたりで。

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あのころ吉本がいた(1)──吉本隆明『情況』から [われらの時代]

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 これも図書館で借りた本だ。
『吉本隆明全集』(晶文社)の第11巻に収められた『情況』をぱらぱらとめくってみる。
『情況』が河出書房から発行されたのは1970年11月。1969年3月号から1970年3月号まで、雑誌『文芸』に連載されたものをまとめ、単行本としたものだ。  
買わなかったものの、書店で立ち読みした記憶がある。
内容は、大学紛争から思想論、都市論、国家論、芸能論まで多岐にわたる。
 吉本隆明(1924〜2012)はむずかしい。これまでけっこう読んできたが、難解な部分は飛ばしていた。雰囲気だけで満足していたきらいがある。自分の頭の悪さを棚に上げて言うのはなんだが、おそらくぼくの周囲では、だれもがそうだったのではないか。
 吉本の思想を完全に理解するのは、これからもたぶん無理だと思う。ぼくの頭ではとても無理だ。しかし、われらの時代、吉本は時代の情況(これも吉本語)を反射して光り輝くミラーボールのような存在だったのだ。
 1969年1月、学生によって占拠されていた東大の安田講堂が、機動隊によって解除された。
 あの日はテレビ中継もあったので、はっきりとは覚えていないけれど、ぼくもたぶんどこかの喫茶店で、その様子をみていたのではないか。
 吉本はこんなふうに書いている。

〈わずかひとりの大学知識人の挙動によってでもよいから、戦後民主主義が思想として定着した姿をみることができれば、というわたしの願望は空しかった。大学教授研究者たちがみせたのは、戦後民主主義の予想できる最悪の姿だったといっていい。かれらは急進的な学生たちのごくあたりまえの要求を、まるで異邦人の言葉のように仰天してきき、はじめは脅しによってなだめようとし、それが不可能と知ると、なし崩しに学生たちの要求をうけいれるようなポーズをとり、それが拒否されると臆面もなく機動隊のもつ武装した威圧力を導入して、事態を技術的にだけ収拾しようとしたのである。〉

 大学当局は、学生たちと徹底的に話し合おうともせず、ただ事態を実務的に収拾するために、みずからの権威を守りつつ、機動隊を導入し、学生たちを排除した。
 吉本にいわせれば「封建時代の寺子屋の師匠さえ、じぶんの教え子を権力の手をかりて排除して寺子屋の存続をはかるような真似はしなかった」。神経を疑われるのは、学生より教授側だった。
 大学当局に抗議して安田講堂にこもる学生を排除するため、大学が機動隊を導入したのは、いつもどおり東大の入試をおこなうためだった、と吉本は書いている。

〈東大紛争の過程で、加藤一郎、大内力、坂本義和、篠原一、寺沢一らは、かれらの思想的な同類とともに、戦後民主主義の思想原理をじぶんの手で最終的に扼殺したといいうる。かれらは東大入試決定の期限切れという、それ自体が全社会的には三文の価値もない問題を焦慮するあまり、学生同士の流血の衝突を回避するため、という名目をつけて、機動隊の武装力を要請して全共闘の急進的な部分を制圧し、日共系学生たちの寝返りにたすけられて、機動隊の保護下に学生集会を開き、事態を技術的に処理しようと試みた。入試を実施するか否かという問題は、東京大学の学内問題ではありえても、大学紛争の本質とはなんのかかわりもないことである。またそこには一片の思想原理的な課題も含まれえないことは明瞭である。はじめに、大学紛争の本質的な課題を解決するポーズで登場したかれらは、束の間のうちに東京大学さえ存続すれば、ほかのことはどうなってもいいという破廉恥漢に変貌した。〉

 長々と引用してしまったが、あのころ吉本が言うことは、きわめてまっとうだと思えた。
 吉本の批判は、東大紛争にまったく知らぬ顔を決め込んでいた丸山眞男にも向けられていた。
 丸山は学生たちによって、自分の研究室が荒らされたとき、それを「ナチスも日本の軍国主義者もやらなかった暴挙だ」といきどおった。しかし、吉本はそのいかにももったいぶった言い方に、学者の権威主義のにおいを感じ取る。いままで学生の行動をばかにして、学生と一度も話しあおうとしなかった丸山が、学生に研究室を荒らされたとたんに、「ナチス」や「日本の軍国主義」を持ちだすのは、笑止千万ではないかと批判するのだ。
 だが、吉本がはたして大学闘争を支援していたか、さまざまなセクトや全共闘を支持していたかというと、おおいに疑問が残る。
 当時、新左翼のあいだでは、ヘルベルト・マルクーゼの思想が持ちあげられていた。
 マルクーゼは、抑圧されている(もっと正確にいうと「抑圧的寛容」をこうむっている)少数者には非合法手段を使っても、体制に抵抗してもよい「自然権」があると唱えていた。
 もうひとつ、マルクーゼが考えたのは、実現されるべき社会主義は、生産力の発展の延長上にあるわけではなく、「美的─エロス的質」が実現される社会でなければならないということだ。
そこでは経済面の平等性だけではなく、「技術と芸術、労働と遊びの一致」がみいだされなければならない。
平たくいってしまえば、社会主義においては、経済的な平等と豊かさだけではなく、美しさと喜びがもたらさねばならない、とマルクーゼは考えていた。つまり求められるのは、「エロス的文明」の実現である。
 吉本はこういうマルクーゼ(あるいはサルトル)の思想に同調していない。むしろ、そこに違和感を覚えていた。
『情況』のなかから、引用しておこう。

〈わたしたちは、現在、奇妙な思想的傾向につきあわされている。そしてこの傾向は、ビート族やヒッピー族の感性的な解放天国の思想から、アナルコ・サンディカリズム的なものをへて、大衆を無智にとどまらせることでしか成立しない毛沢東思想にまでわたっている。〉

 ヒッピーにも可能性はないが、大学解体や工場の自主管理なども無意味だ。根拠地の思想や武装闘争、文化大革命にも未来はない。
 吉本はたぶんそんなふうに感じていた。その予感はあたる。
 自身の発行する参加自由型の個人雑誌『試行』27号後記(1969年3月)に、吉本はこう書いている。

〈大学紛争はあれよあれよという間に一挙に両極分解にまできてしまったようにみえる。その過程でわたしたちが希望した教師たちの市民民主主義と学生達の急進主義との思想的な対決のすがたは、とうとうみられないままに、紛争は全国的な規模でひろがっていった。分解した両極には臆病なアカデミズムの壁にしゃにむに閉じこもってしまった教師たちの像と、政治運動も社会運動もお構いなしにごっちゃにして、政治主義的に頭脳を単純化してしまった急進的な学生たちの像がのこされた。〉

 新左翼なるものに、吉本は何の共感も幻想もいだいていない。
 1968は何も残さなかったのだろうか。
 そうだったかもしれない。
しかし、いまふり返れば、ぼくにとって、1968はやはり出発点だったなと思わないわけにはいかない(その後のぐうたらな生活を考えれば、えらそうなことはいえないが)。
そして、じつは、吉本もまた60年安保闘争の水脈を通じて、1968とつながっていたのではないだろうか。
 それは反乱の夢であった。正義を求める夢であった。
新しい社会、新しい国、新しい世界をつくる夢であったといってもよい。
熾火(おきび)のように、その夢は残った(たとえむなしい夢だったとしても)。
 吉本はロシア・マルクス主義(スターリン主義、毛沢東思想を含む)のえがく世界像を拒否し、大きく言えばアジア的といえる天皇制国家をフェードアウトさせ、資本主義を超える方向性を探りつづけた。
 その思想の軌跡を時折ふり返ってみたくなる。さながらドン・キホーテにしたがうサンチョ・パンサみたいに。

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『竹内好とその時代』を斜め読みする(2) [われらの時代]

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[竹内好。1971年。『追悼 竹内好』の口絵から]

 1946年6月末、中国から復員した竹内は家族の移転先、北浦和に身を寄せた。
 中国文学研究会はすでに3月に再建され、雑誌『中国文学』も復刊されていた。
 1950年代前後からは、雑誌『展望』を中心に旺盛な評論活動がはじまる。鶴見俊輔に請われ、「思想の科学研究会」の同人にもなった。
 竹内はこのころ、こう考えていた。
 近代化とは西洋化のことであり、アジアはそれに抵抗しながら近代化を受け入れていった。
 だが、その受け入れの仕方において、日本はもっともアジア的ではなかった。外から来るものを、ほとんど抵抗なく受け入れていったからである。
 こうして、日本は自分がドレイであることに無自覚なままドレイの主人になりかわろうとしてきたのだ、と竹内はいう。
 そうした近代化の構造は、インテリのなかにも染みついている。
 インテリは「閉鎖的なギルド」をつくりたがる。ギルドのなかでは「親分子分の階層秩序が支配し」、「仲間だけに通用するフチョウ(符丁[記号])」が行き交う。
 民衆と隔絶し、特有の特権意識、立身出世主義にかられているのが、日本のインテリの特徴だ、と竹内は断言する。
 ドレイ的な日本のインテリは、ドレイ的日本文化が生みだしたものだ。それは明治維新という奇妙な革命が生み落とした進歩主義=西欧化と結びつき、大衆の上に君臨してきた。
 日本共産党が教条とする日本のマルクス主義も、こうした権威主義的体質とけっして無縁ではない、と竹内はいう。
 さらに、日本では「思想が生活に媒介されない」。「私たちが日常の場で考え、行動することを除いて、外からの救いがあるというのは幻想だ」と論じている。
 竹内はこうしたインテリ的発想から自立することを、みずからの戦後の出発点にかかげたといってよい。

 1951年は講和条約の年である。その前年、南原繁や丸山眞男、都留重人は「平和問題懇話会」を結成し、雑誌『世界』は全面講和の主張を掲げていた。
 竹内にはインテリの平和論への不信がある。それはきれいごとすぎると思っていた。
 だが、現実にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結されると、『世界』へのアンケートにこう答えている。

〈これは講和ではない。新たな戦争準備の開始の宣言である。この講和が国民によって承認されたら、中国との関係は破局的になるだろう。〉

 1949年10月には中華人民共和国が成立し、翌50年6月には朝鮮戦争がはじまっていた。そのことを考えれば、中国との「戦争終結」、国交回復を目標とする竹内が、日本がアメリカのドレイになる条約に懸念をいだいていたのは、とうぜんだった。
 竹内は学識者からは出発しない。あくまでも民衆と民族(日本人)に依拠し、健康なナショナリズムを支持するといい、「日本民族の念願」は「独立と平和と自由」なのだと断言する。
 1953年には東京都立大学教授となり、翌年末、武蔵野市吉祥寺に転居した。
 評論活動と並行して、竹内は精力的に魯迅の紹介に努めている。
 魯迅とは何者なのか。
「苦しくなると、とかく救いを外に求めたがる私たちの弱い心を、彼はむち打って、自力で立ちあがるようにはげましてくれる」
 講和後の体制に竹内はいらだちを隠せなかった。
 日本人の「独立不羈の精神」を阻んでいるのは、国民をドレイに縛りつける天皇制だとも述べている。
「天皇制は、いまわしい、のろうべき、しかしまた、いくらもがいても脱却できない、宿命のようなもの」だ。
 しかし、象徴天皇制によって、それが事実上、廃止されたのは一歩前進であり、「あとはわれわれ自身の努力によって、完全に廃止にまで持っていかれる」と考えていた。
 さらに、こんなことも書いている。

〈両体制[資本主義と社会主義]の平和的共存は、終局的には不可能だと思います。というより、世界が共産主義化されるのが人類の運命のように思います。〉(『世界』1953年5月号)

 いまから考えれば完全に的外れの発言としか思えない。しかし、1950年代はまだ革命ということばが生きていたのだ。
 その革命について、竹内はあくまでも日常生活から出発するプログラムを構想すべきだと主張する。革命がもたらすのは、「新しい人間タイプと、新しい国民道徳」の出現であり、中国革命はその一歩を踏みだしている、と竹内はみていた。
 このあたり、竹内が社会主義を資本主義に代わる倫理的な体制としてとらえているようにみえて興味深い。毛沢東の中国革命には、大きな期待を寄せていた。
 1954年3月、マーシャル諸島ビキニ環礁で、アメリカの水爆実験により、第五福竜丸が被曝する事件が発生する。
 竹内は「これはあきらかに[アメリカによる]ファシズムではないか」と声を荒げる。戦争中の体験を思いだし、民族が死に絶える光景を連想したという。
 1956年1月に竹内は日本教職員組合講師団に加わる。しかし、日教組への不信から3年後には講師団を辞任している。
 左翼的な官僚主義と、政治優先の姿勢にがまんならなかったようだ。
 そのなかで、竹内は超然とした組織よりも、民衆の生活に根ざしたサークル運動的なものに希望を見いだしていく。
 沖縄に興味をもちはじめたのもこのころだ。「沖縄について知らぬことは日本について知らぬことである」と書いている。
 部落問題研究所ともかかわりをもつようになる。「[日本社会の性質をつかむ]その急所は、まさに、内においては部落であり、横に眺めたときには沖縄にある」

 1960年の安保闘争は、竹内にとって、みずからの生き方を問うたたかいとなった。
 竹内は、中国との戦争そのものが終わっていないと考えていた。中国との国交回復が悲願だった。そのためには、日本はまず中国への侵略戦争を深く反省しなければならない。
 アジア・太平洋戦争には、侵略戦争と帝国主義間戦争の二重性がある、と竹内は考えていた。日中戦争には徹頭徹尾反対だった。しかし、1941年12月8日のアメリカとの開戦には、「積年の鬱屈」が吹き飛ばされる思いがしたと述懐している。
 戦前に論議された「近代の超克」論は、発想そのものとしては正しいと考えていた。問題は、それが欧米への抵抗とアジアへの侵略のセットで構想されていたことだ。
 アジアへの侵略という思想は、徹底して否定されるべきである。しかし、「近代の超克」論が提起した西洋への抵抗という課題は、いまも受け継がれなければならない。それが竹内の考え方だった。
 福沢諭吉についても、かれを単に文明開化の啓蒙家、欧化主義者とみるのはまちがっているという。
むしろ、福沢の本質は「日本の独立という緊迫した課題」に全身で立ち向かおうとしたことにある。
「脱亜」というスローガンだけで、福沢をとらえるべきではない。かれは非西洋であるアジアが、はるか先に虚妄なる西洋文明を超えることを遠望していたのではないか。
 つづめていえば、それが竹内の福沢理解だったと思える。
 竹内が帝国主義にたいするアジアの抵抗運動を支持したのはとうぜんといえる。西洋的近代を「もう一度東洋によって包み直す」という言い方もしている。
 日本のアジア主義が侵略的側面をもっていたことはいなめない。にもかかわらず、竹内は、玄洋社や黒龍会に少なくともアジア連帯の思想はあったと論じる。物質主義の日本を批判した岡倉天心のアジア主義を再評価したのも竹内だった。
 竹内は60年安保闘争を中国との国交回復問題と結びつけていた。
 このころ数々の反安保集会に出席し、民主主義は「いま戦後最大の試練にぶつかっている」と連呼し、もし新安保条約を国会が承認するなら「中国との国交回復を日本国民は願っていない、という意思表明になる」と述べている。
 しかし、政府は5月19日の衆議院本会議で、条約批准の強行採決に走った。竹内は前日、安保批判の会を代表する11名とともに岸信介首相と面会し、慎重な審議をうながしていた。政府は聞く耳をもたなかった。これに抗議して、竹内は東京都立大学教授の職を辞する。
 そこから「民主か独裁か」という有名な問いかけが登場する。竹内は、安保に反対する者、賛成する者を問わず、「今は、独裁を倒すために全国民が力を結集すべきである」と訴えた。
 5・19強行採決にたいする国民の反発は強かった。その反発は既成組織の枠を超えて、大衆運動、学生運動として広がっていく。
 強行採決から1カ月後、6月19日に新安保条約は自然承認される。敗北だった。
だが、竹内は安保闘争を評価する。その意義は「人民の抵抗の精神が植えつけられたこと」にある。
「日本の政府がどんなに戦争をやりたがっても、日本の人民にはやらせない、やらせないだけの力がある」。それを証明したのが安保闘争だったと語っている。この教訓はいまも重要だろう。
 竹内はあくまでもナショナリストだった。日本を思い、アジアの自立を願い、日本とアジア諸国との友好・連帯を求めた。

〈私はネーションを固執したい。ナショナルなものを大事にし、ナショナルなものにつなげて伝統からの投影で未来図を考える仕事をつづけていきたい。〉

 この姿勢が竹内の根幹をなしている。そして、かれは安保闘争を通じて、民主主義は外から与えられたものではなく、人民の抵抗の精神にほかならぬことをあらためて認識した。

 安保闘争のあと、竹内は、とりわけ日中関係を軸に、日本の近代史を書きなおしたいと思うようになった。そのとっかかりとなったのが、明治維新の「再吟味」だった。
 明治維新によってつくられた「明治国家は一つの選択にしか過ぎず、もっと多様な可能性をはらんでいた」と竹内はいう。
 1961年末、『思想の科学』の発行元である中央公論社は、「天皇制特集号」を断裁廃棄処分にする。竹内が怒ったのは、このこと自体ではない。中央公論社が、廃棄された雑誌を公安関係者に見せたことだった。
 このころから、竹内はみずからの根拠地となる小さな雑誌をつくりたいと思っていたのではないだろうか。
 1963年2月、竹内は雑誌『中国』を発刊する。編集は「中国の会」。数年前から開いていたごく小規模な研究会が母体である。
 その目標は中国との国交を回復し、中国と平和条約を締結することだった。竹内は何はともあれ中国、とりわけ中国の民衆に寄り添う姿勢を表明した。かれの中国びいきは、そのころの中ソ論争で「持たざる国」中国を支持したことにもあらわれている。
 だが、雑誌を発行してから3年目、竹内は国交回復を半ばあきらめるようになっていた。日本人が引きつづき中国を侮蔑しているだけではなく、中国を敵視している姿勢に、両国間の深い溝を感じていた。
 絶望感はさらに深まっていく。
 そして、竹内は評論の筆を断つ。
 もはや新規事業には手を出さず、「中国の会」と「魯迅友の会」を維持し、魯迅個人訳を完成させることに全力を傾けたいと思っていた。
 1965年秋に竹内は大病を患い、9月20日から10月末まで入院した。
 老年がはじまろうとしていた。
 竹内はこれまでの評論を整理して、筑摩書房から『竹内好評論集』を発刊する。その内訳は第1巻「新編現代中国論」、第2巻「新編日本イデオロギイ』、そして第3巻『日本とアジア』だった。評論集は1966年6月に完結する。
 そのころ竹内は、アジアの抵抗のモデルとしてきた中国の現実に直面していた。文化大革命がはじまっていたのだ。
 竹内は中国との「あの不幸な戦争」については語ったけれど、文化大革命については、ほとんど口をつぐんだ。文化大革命を支持するとも、それに反対するともいわなかった。
 ただ、文化大革命を「権力闘争と、社会的混乱としてとらえる」報道のステロタイプを批判し、現在の動きを洞察するには「ある程度は距離をおいて、時間および空間のはばを拡げて、しかも理性をはたらかせて見ないといけない」と語ったのみである。
 1971年10月には「日中間の国交回復は不可能だと思います」と述べ、「自分のできる範囲で、歴史の復習をやるしか方法がありません」と語っている。
 竹内には国家レベルでなく、民衆レベルで、日中連帯ができてこそ、真の国交回復がなしとげられるのだという考えがあった。国交回復は政治や経済の打算ではなく、民族の道義の問題だった。
 1972年9月、田中角栄首相訪中によって、日中国交は正常化し、日中共同声明がだされた。
 これにたいし、竹内はこの声明を「承認」するとして、次のようなコメントを発表する。

〈目的は友好である。そして友好は、人民同士の友好でなくてはならない。その友好を実行に移すことを、政府は妨害しない、というのがこの共同声明の根本の趣旨であると解する。〉

 国どうしの国交回復ですべてが片づいたわけではない。むしろ、日中友好が実現するかどうかは、人民の責任事項に属する、と竹内は断言する。
 雑誌『中国』は、編集上のトラブルもあったとはいえ、この年12月に、いちおうの使命を終えて、休刊となった。
 1974年夏には朝日選書として『近代日本と中国』の2巻本が刊行された。
 その後、竹内は全力で魯迅の個人訳に取り組む。
 しかし、1976年12月、全7巻の刊行のめどがついたところで、食道がんとわかり、1977年3月に死去する。享年満66歳。
 本書にはこうしたことが淡々とつづられている。
 ぼくが竹内好を読みはじめたのは1968年からである。あのころは竹内好と吉本隆明のあいだを行ったり来たりしていた。
 いまの中国は様変わりした。これにたいし、日本人の意識は変わっていない。むしろ、中国への侮蔑と恐怖がいっそう増幅しているのではないかとさえ思える。
 竹内のいうように「[現在の動きを洞察するには]ある程度は距離をおいて、時間および空間のはばを拡げて、しかも理性をはたらかせて見ないといけない」。
 アメリカの尻馬に乗るな。

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『竹内好とその時代』 を斜め読みする(1) [われらの時代]

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 図書館で借りて、第1部の「生涯と思想」を読んでみた。

(1)〈魯迅〉にいたる道──復員まで(小嶋茂稔)
(2)〈ドレイ〉からの脱却を求めて──戦後社会のなかで(黒川みどり)

 第1部は、このふたつのパートに分かれている。
 竹内好は1910年10月2日、長野県南佐久郡臼田町(現佐久市)で生まれている。父は地元の税務署に勤めていたが、東京に転勤になったあと、1915年に退職し、事業を起こした。うまくいかない時代もあったようだ。
 竹内は東京府立第一中学校に進学。中学2年のときに母を亡くしている。中学卒業後、一高、三高の受験に失敗し、大阪高等学校に進む。
 1931年に高校を卒業したあと、東京帝国大学文学部支那文学科に入学した。講義や研究室の雰囲気にはなじめなかったという。
 1932年8月から10月にかけ、はじめて朝鮮と中国の地を訪問した。前半は学生の団体旅行、後半は私費で北平(現北京)に滞在した。
 筆者によると「この旅行が、中国や中国文化と関わり続けた竹内の一生を決定付けることになる」。
北平滞在中、中国の文学書を買いあさっている。
 帰国後、郁達夫(1896〜1945、小説家)を読みはじめ、卒業論文に『郁達夫研究』を書いた。
当時、中国の現代作家を卒論のテーマに選ぶのは異例だったという。
 1934年8月に、正式に中国文学研究会を発足させる。武田泰淳や岡崎俊夫、増田渉、実藤恵秀、松枝茂夫などが同人に加わっていた。
 1935年3月には『中国文学(月報)』(題字は郭沫若)が発刊される。
「研究会活動と『月報』の発行は竹内の生活そのものであった」と筆者はいう。
 1936年11月に『月報』は「魯迅特輯号」を組む。その準備中に魯迅が上海で亡くなった。
 1937年10月から2年間、竹内は北京に留学する。その直前、7月7日に盧溝橋事件が発生し、日中戦争がはじまった。
 北京は日本軍の占領下に置かれた。
 二度目の北京はつまらなかった、とのちに竹内は述懐している。日本軍がのさばっているのだから、おもしろいはずがない。「つまらなくて飲んだくれて勉強どころじゃないんだね」
 縁談(けっきょく破談)や父の急逝による一時帰国はあったものの、完全に北京を引き払ったのは1939年10月のことである。そのかん、ある女性との出会いと別れもあった。
 帰国後は、生計を立てるため、1940年4月から回教圏研究所ではたらきはじめる(のちに井筒俊彦が入所)。同時に『中国文学』の発行元を生活社とし[このときから「月報」というタイトルはなくなったのではないか]、みずから編集の中心をになうようになった。
 竹内は、あくまでもいま生きている中国にこだわった。そこから旧来の支那学(漢学)との距離が広がっていく。
 1940年5月に日本評論社と出版契約を結び、『魯迅』を書くことにした。執筆には2年半を要した。
 1941年12月8日、日本は米英と開戦する。それを受けて、竹内は『中国文学』に「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」を執筆する。
「われらは支那を愛し、支那と共に歩む」としながら、米英との戦争を支持したこの宣言は、戦後、竹内に思想的葛藤のドラマをもたらすことになる。
 1942年2月から4月にかけ、竹内は回教圏研究所の出張で中国各地を訪れた。上海では魯迅の墓にもうで、その碑にはめられた陶製の肖像が、無残にも打ち壊されているのをみてショックを受けた。
 戦争がつづくと、『中国文学』にたいする当局の取り締まりが厳しくなり、1943年3月刊を最後に、雑誌は廃刊に追いこまれる。
 竹内が日本評論社に『魯迅』の原稿を手渡したのは1943年11月9日(刊行は1944年12月)。
 それからしばらくして12月1日に召集令状が届く。
 3日後、佐倉(千葉県)の第64部隊に入隊し、中支に派遣されることになった。
 12月28日には、湖北省の歩兵第88大隊に配属された。
 それから敗戦まで、軍隊暮らしがつづいた。
 戦闘には参加したものの、鉄砲は一度も撃たなかったという。宣撫班や報道班に所属していたからかもしれない。
 竹内は8月31日、現地で召集解除となった。現在の武漢などで、しばらく敗戦処理に携わったあと、1946年5月に上海に到着、6月末に品川に戻ってきた。自宅は焼けていたため、武田泰淳の実家の寺に泊まらせてもらったという。
 ここで、もう一度確認しておこう。
 竹内好が中国を理解するきっかけとなったのは、いうまでもなく魯迅を通じてである。
 最初は、もう魯迅の時代は過ぎたと思っていた。「狂人日記」にも批判的で、それは封建的桎梏にたいする呪詛にすぎないと考えていた。
 だが、日本評論社から依頼された『魯迅』を執筆する過程で、魯迅への思いは深まっていく。
 そして、魯迅の「ある根柢的な態度」を発見するにいたったという。

「絶望の虚妄なることは正に希望と相同じい」(「狂人日記」)

 魯迅は中国の暗黒を見て、絶望を覚えた。やがて、それも虚妄であることに気づいた。空疎な希望が虚妄であるのと同じように。
 そこで、竹内はこう書く。やや狷介(けんかい)に。

〈文学の生れる根元の場は、常に政治に取り巻かれていなければならぬ。それは、文学の花を咲かせるための苛烈な自然条件である。ひよわな花は育たぬが、秀勁(しゅうけい)な花は長い生命を得る。私はそれを、現代中国文学と、魯迅に見る。〉

 竹内自身は『魯迅』を遺書のようなつもりで書いたという。事実、出版社に原稿を渡してからひと月もたたないうちに召集令状が届いている。
 魯迅に託して竹内が記した一文は、人の人としての姿勢を問うものであり、政治なるものへの永久闘争宣言でもあった。
 評伝の筆者(小嶋茂稔)によると、その思想は戦後直後の『魯迅入門』や『魯迅雑記』に描かれた「ドレイ論」につながっていくという。
 魯迅は『野草』のなかで、古来、中国人が政治の奴隷であることを論じた。
 竹内は問う。日本人もまたドレイなのではないか。国や会社のドレイであるばかりか、西欧の文明や思想のドレイなのではないか。

〈尊大と卑屈は表裏であり、それは日本文化の非独立性、ドレイ性にもとづく無自覚の外国崇拝=外国侮蔑という心理の反映に外ならないから。〉

 竹内は魯迅を何度も読み返すなかで、「ドレイ」論に行き着いた、と筆者は書いている。そこには、いまもつづく「戦後」のドレイ状況が反映していたことはまちがいない。
 魯迅の『野草』に収録された「賢人と馬鹿と奴隷」という寓話は、あたかも魯迅が、この世は賢人(政治家、実業家、慈善家、学者、文化人など)と、それにしたがう奴隷、そして馬鹿からできているとみていたことを示している。
 賢人と奴隷は相通じ、時にその関係がひっくり返る。賢人は何かの奴隷でもある。
 度しがたいのは馬鹿である。馬鹿はそのどちらにもつかず、独自の方向を勝手に歩み、世間にあきれられる。
 魯迅が愛したのは、その馬鹿、すなわち阿Qであったことに、竹内はようやくきづく。
 そして、ここから竹内の戦後の歩みがはじまるのだ。

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寅さんの旅(3)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(5) [われらの時代]

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 翻訳の仕事がはいったので、少し間があいてしまった。
 寅さんの旅のつづきである。
 著者の川本三郎は、寅さんを追って、九州に出かけている。
 佐賀市の西にある小城(おぎ)。唐津線が通る。昔は石炭を唐津港まで運んでいた。第42作(89年)に出てくる。静かないい町だという。

〈駅前にまっすぐ北にのびる商店街がある。高い建物はない。空が広い。酒蔵があり、レンガの煙突が青空に映える。〉

 ここに後藤久美子演じる泉が住んでいて、寅さんの甥っ子、満男(吉岡秀隆)が彼女を追いかけてくる。
 羊羹屋が多いという。羊羹づくりが盛んなのは、茶の文化が発達していたこと、それにかつて軍が羊羹を保存食として買い入れていたためだという。
 軍と羊羹という組み合わせがおもしろい。
 大日本帝国時代、佐世保には海軍、久留米には陸軍の拠点があり、小城はその中間に位置していた。
 川本は映画のロケ地をあちこち歩いている。
 呼子は第14作(74年)、平戸は第20作(77年)に登場する。
 著者は江戸時代のはじめに栄えた平戸を訪れている。和洋の文化が混在した町だ。寅さんはこの町をすっかり気に入ってしまう。しかし、例によって美女にふられる。
 佐世保で1泊した著者はフェリーで五島列島に向かう。その中通島(なかどおりじま)は、第35作(85年)の舞台。
 寅さんはほんとうによく旅をしている。このころ、ぼくはずっと会社と家を往復する仕事がつづいていた。
 中通島では新しいホテルができているが、町並みや漁港の様子は変わっていないという。
 五島列島では、明治になって隠れキリシタンが自分たちの手でいくつもカトリック教会を建てた。
 そのひとつ福江島も第6作(71年)のロケ地になった。映画『悪人』にでてくる灯台はこの島の西端にある。
 第6作に写る玉之浦の中村旅館はいまも残るが、もう営業はしていない。かつては捕鯨船基地にもなったという玉之浦の漁港も、いまはひっそりしている。
 寅さんはテキヤらしく全国どこにでも出かけるが、どちらかというと辺鄙な場所が好きだ。「寅は旅の名人、知られていなかった日本の美しい町の発見者と言える」と川本も書いている。
 若狭湾の伊根もそのひとつ。第29作(82年)の舞台だ。
 ブリの好漁場で、湾に面した舟屋群で知られる。映画のころと、町並みはほとんど変わっていないという。
 川本はそのあと山陰を旅する。
 列車で豊岡に出て、城崎温泉、浜坂、鳥取、米子、温泉津(ゆのつ)のルートをたどる。
 温泉津は第13作(74年)の舞台。ここで、寅さんはまたも旅館の番頭をする。
 石見銀山の銀の積み出し港として栄えた。千年以上前に発見されたという温泉があり、20軒ほどの湯宿が並んでいる。やきものの町としても知られている。
 昔の商店街は、いまではシャッター通りとなっている。映画の撮影当時とくらべて、過疎化が進んだようだ。
 第44作(91年)は倉吉が舞台。映画の撮影された小学校は廃校になった。駅前の商店街も閉店、空き家が目立つ。しかし、いっぽうで、町おこし、村おこしも盛んで、一概に過疎ということばをかぶせるのは問題だという。「実際には、故郷に留まって頑張っている若者もいる」
 第13作には津和野もでてくる。山陰の小京都として、若い女性のあいだで人気がある。町は映画の撮影された40年前とさほど変わっていない。
 寅さんの妹、さくらが第7作(71年)で訪れるのが五能線の驫木(とどろき)駅。青森県にある秘境の駅だという。列車は1日に5本しか止まらない。
 その駅から少し山のほうにはいった田野沢の小学校は、映画に登場するが、いまは廃校になっている。集落では人間が減って、猿が増えている。
 さくらは寅さんを探すため、バスで弘前に向かう。
 その途中、千畳敷と呼ばれる寂しい海岸線を通りながら、さくらは想像する。

〈一瞬、さくらは寒風にさらされた寅が、寂れた海辺の小屋に身を寄せる姿を想像する。あの陽気な兄が、海からの風に吹き飛ばされそうになって、賽の河原のような海辺を歩く。ボロ屋の板壁にもたれかかる。〉

 そう思った矢先に、次に停車した嶽(だけ)温泉から、何とおにいちゃんの寅さんが乗りこんでくる。
「俺、死んだかと思ったか」「冗談じゃないわよ」と、兄妹のにぎやかなやりとりがはじまり、観客はほっとする。
 それにしても、テキヤ稼業は、野垂れ死にと紙一重だ。
 そんな風来坊の孤独をにじませた一篇が、第16作(75年)で、ここでは山形県の寒河江(さがえ)がでてくる。人口は4万。サクランボの産地として知られる。ニット生産でも有名だ。
 寅さんは昔世話になった女性の墓参りをするため、寒河江の慈恩寺を訪れている。
 寒河江は「思っていた以上にきれいな町だった。老後、住みたいと思ったほど」と、川本は書いている。地方にはいい町が残っている。日本のよさは、もう地方にしかないのではないか。
 時に寅さんはテキヤをやめて、カタギの仕事をしようとすることもある。実際にはじめると、なかなかつづかないのだが。
 そんな場所のひとつが江戸川下流の町、浦安だ。1970年の第5作にでてくる。
 そのときの仕事は豆腐屋だ。例によって美人の娘がいる。しかし、もののみごとにふられ、浦安を去っていく。
 いまではディズニーランドで知られる町だが、大規模な空襲にあっていないので、昔ながらの住宅が残っているところもあるという。ぼくのところからも近いので、いちど散歩してみよう。
 近いといえば、茨城県だ。寅さんは茨城県によく出没している。
 たとえば、第39作(87年)に登場するのが、水海道(みつかいどう)の木橋。
 常総線の中妻駅がアヴァン・タイトル(タイトル前の寸劇シーン)に写っている。
 第42作(89年)では、水戸と郡山を結ぶ水郡線に乗っている。途中降りるのが袋田駅。ここには袋田の滝がある。ぼくもいったことがある。
 第34作(84年)には牛久沼がでてくる。大手証券会社課長(米倉斉加年)は、ここから東京に通っている。マイホームをもつのも楽ではない。
 そして、とつぜん蒸発する。奥さん(大原麗子)と寅さんは男の行方を追って、鹿児島に出かける。
 筑波山の「がまの油売り」がでてくるのも、この作品だ。
 この作品は、めずらしく名画座でぼくも見たのだが、「がまの油売り」のシーンはまったく覚えていない。もう一度見てみよう。
 寅さん映画には会社勤めがいやになるサラリーマンが、しばしば登場する。第33作(84年)の佐藤B作、第41作(89年)の柄本明もそう。ぼくも会社が嫌いだった。
 次は九州の温泉めぐりだ。
 第28作(81年)で、寅さんは佐賀県鳥栖(とす)駅前の大衆食堂で、トンカツをさかなにビールを飲んでいる。駅前再開発で、いまこの大衆食堂はない。ただ、1911年に建てられた駅舎は、そのまま残っているという。
 次に寅さんがあらわれるのは、久留米と大分を結ぶ久大本線の夜明(よあけ)駅。名前がいい。
 田主丸駅の駅舎はカッパの形をしているという。ちょっと想像がつかない。
 寅さんは、その中央商店街を歩く。いまはさびれている。
 しかし、法林寺や月読(つくよみ)神社はそのまま残っている。
 ぶどうの巨峰の町として知られる。三連水車が観光名所。
 寅は久留米の水天宮で商売をする。
 そこで、仲間のテキヤが病気だと知り、秋月にいく。
 秋月は隠れ里のような町だ。坂の上には秋月城があったが、いまは中学校になっている。

〈瓦屋根が並ぶ。高い建物はない。城下町だが城はなく商家が目立つ。和紙の店、和菓子屋、製麺所が通りに落着きを与えている。〉

 第37作(86年)には、福岡県の田川伊田駅がでてくる。この作品は筑豊が舞台。飯塚の芝居小屋、嘉穂劇場もでてくる。
 久大本線の大きな町は大分県の日田(ひた)。第43作(90年)の舞台だ。
 小鹿田焼(おんたやき)の里、温泉街、豆田町のほか、周辺の天ヶ瀬温泉も登場する。
 近くには、湯平(ゆのひら)温泉がある。ここは第30作(82年)の舞台。沢田研二と田中裕子がでてくる。寅さんは映画のなかで、ふたりの縁結びをする。
 湯平は人気の湯布院などとくらべると、ひなびた温泉だ。ネットのおかげで、最近はアジアからの観光客も増えてきたらしいが、ホテルの数はだいぶ減った。
 もうひとつ、ひなびた温泉が田の原(たのはる)温泉。久重山の西麓にある秘湯。人気の黒川温泉の隣にある。ここは熊本県だ。寅さんはここに長逗留する。人が押し寄せない、ひなびた温泉が好きなのだ。
 第21作(78年)の舞台。寅さんの泊まった太朗舘はいまも残っている。静かな温泉で、歓楽施設は何もない。露天風呂がすばらしいという。
 そして、最後に寅さんが行き着くのが、奄美の加計呂麻島(かけろまじま)である。
 しかし、そこに行く前に、著者の川本は、第19作(77年)の舞台、愛媛県の大洲(おおず)と、第45作(92年)の舞台、宮崎県の油津(あぶらつ)に立ち寄っている。
 第19作は予讃線の下灘(しもなだ)駅からはじまる。海を目の前にしたちいさな駅だ。「青春18切符」のポスターにもなっているらしい。
 伊予大洲は城下町。伊予の小京都とうたわれる。
 嵐寛寿郎が殿様役ででてくる。
 第45作の油津には、宮崎から日南線で向かう。飫肥(おび)杉の積み出し港、漁港として栄えた。山で切り出された杉は、堀川運河で、港まで運ばれた。いまも赤レンガの建物や銅板張りの商家が残る。ここも小京都の雰囲気。
 理容師役の風吹ジュンがすばらしい、と川本は絶賛する。
「地方の衰退が言われて久しいが、こういう町を歩くと、地方の町のストックの豊かさを感じさせる」と書いている。
 そして、ついに最終作の地、加計呂麻島に。
 奄美大島の古仁屋(こにや)からフェリーで30分。島の人口は1300人ほど。
 映画のなかで、寅さんはリリー(浅丘ルリ子)といっしょに、ちいさな家で暮らしている。
 映画ででてくるデイゴの木のある民家は、いまはだれも住まない廃屋になっているという。
 こうして、寅さんの旅は終わった。
 川本は「あとがき」に、こう書いている。

〈[「男はつらいよ」は]寅の放浪の旅であり、しかも、旅先は、瓦屋根の家や田圃の残る懐しい町が多い。はじめから古い町を舞台にしているから何年たっても古くならない。繰返しに耐えられる。……根底に、失われた風景に対する懐かしさ、ノスタルジーがあるから、時間の風化に耐えられる。〉

 なかなか旅ができないぼくにとっては、ありがたい本だった。
 いままでほとんど見ていない寅さん映画をできるだけ見たいと思った。

寅さんの旅(2)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(4) [われらの時代]

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 著者の川本三郎は、寅さんの旅をつづけている。
 第9作「柴又慕情」(72年)には吉永小百合が登場する。吉永はOL役で、友達ふたりと金沢に旅行している。そこで寅さんと遭遇する。
 映画の最初、寅さんは、小松から分かれる尾小屋(おごや)鉄道の駅のひとつ金平駅で目が覚め、あわてて汽車に乗る。その駅舎も線路もいまは残っていない。
 現在の金平集落は戸数50ほどで、寺と神社、公民館、九谷焼の工房があるだけ。鉄道がなくなり、すっかりさびしくなっても、あたりの様子は、映画のなかにしっかり「動態保存」されている、と川本はいう。
 京福電鉄の永平寺線も廃線になってしまった。しかし、映画にはいまはない京善(きょうぜん)駅が残されている。京善には古民家群が残っている。
「『男はつらいよ』が何度見ても面白い理由のひとつはそこに、失われた鉄道風景が残っていることにある」と川本はいう。
 寅さんはマイカーに乗ったりしない。汽車とバスで日本じゅうを旅するのだ。
 第9作では、寅さんが旅行に来たOLたちと、永平寺や東尋坊で遊んでいる。そのたたずまいは昔と同じ。
 第36作「柴又より愛をこめて」(85年)には只見線の会津高田駅がでてくる。会津若松から4つ目の駅だ。
 隣の根岸駅には「中田の観音様」と親しまれる弘安寺がある。「寅は、テキヤであると同時に、寺社を巡る巡礼者でもある」。門前の名物は「ボータラ」(棒ダラ)。
 会津柳津(やないづ)は温泉町。高台に圓藏寺がある。寅さんは柳津の小川屋で下駄を買い求めて、さくらと博に送ろうとするが、カネがないので、あきらめる。残念。
 著者はいう。

〈主観(自分を立派な渡世人と思い込んでいる)と客観(端からは間抜けにしか見えない)の大きな落差は、寅の特色であり、それが笑いを生んでいく。〉

 奥会津には、まだ昔の風情が残っている。
 寺社と温泉は滅びることのない最強の組み合わせだ。
 映画の第7作(71年)では、只見線の越後広瀬駅から、集団就職の少年少女が東京に向かう。そのころまで、まだ集団就職が残っていたのだ。
 この駅を通る列車は、いま1日4本しかない。
 著者はそのあと新潟から佐渡に向かう。寅さんは31作(83年)で、佐渡・宿根木(しゅくねぎ)の民宿に泊まっている。失踪した人気歌手と「佐渡の休日」を楽しんだあと、小木(おぎ)港で別れるという設定だ。
 出雲崎は日本海に面した北国街道の宿場町で、良寛の出身地。寅さんはここでも商売をする。「寅が一瞬、良寛のようにみえる」。このあたりも昔と変わらない。
 木曽路に向かう。
 寅さんの映画では、ちいさな駅がよくでてくるという。中央本線の落合川駅もそのひとつ。馬籠宿が近い。
 奈良井宿のある奈良井駅、奈良井と塩尻のあいだにある日出塩(ひでしお)駅も、そうした駅のひとつだ。
 日本ではいまも山里に大きな寺が残っている。昔の街道がすたれ、経済の中心が別の場所に移っても、寺は残るのだ。
 映画は大桑村(長野県南西部)の定勝寺をスクリーンに収めている。
 経済成長とはいったい何なのだろうかと思ってしまう。商品世界では、商品とカネの集まる場所に人が移っていく。だが、それによって失われるものも多い。カネの動きに合わせて、人が移り移った末、あとにはいったい何が残るのだろう。そんなことをふと思ってしまう。
 寅さん映画は回を重ねるごとにロードムービーになる、と著者は指摘する。
 上田の先には別所温泉がある。ここは第18作(76年)の舞台。寅さんはここでも無銭飲食で、警察のやっかいになる。
 第40作(88年)は上田と小諸が舞台。老人問題や地方の過疎化も取りあげられている。このころから事態は深刻になっていた。限界集落が増えている。
 かつてテキヤ、渡世人(あるいは行商や旅芸人)は、村の人にとっては、いろいろと旅の話を聞かせてくれる「まれびと」だった。だが、そうした旅人はいつ行き倒れになるかもしれぬ、はかない存在でもある。
 寅さんの映画には、そんなはかなさもにじみでる。山梨県明野(あけの)町(北杜市)で撮られた第10作(72年)の一シーンが印象的だ、と川本は書いている。
 京都では、寅さんの生みの母が連れ込みホテルの女将になっている。そこは祇園に近い安井毘沙門町。いまホテルはない。おしゃれで、にぎやかな場所になっている。外国人客も多い。こんなところにラブホテルがあってもカップルにははいりづらいだろう、と著者はいう。
 京都は変わっていないようで、時代とともに大きく変わっている。
 四日市から山にはいったところに湯の山温泉がある。寅さんは、ここの旅館で厄介になったものの、例によってカネがなく、旅館ではたらくことになる。そして、女将さんにほれて、いつものように振られる。
 映画は道中、煙突からもうもうと煙をはく四日市の町をとらえている。
 湯の山温泉は、昔より少し客が減った。「現在の湯の山温泉は寂しいところだった」と川本は書いている。車社会になって、温泉のはやりすたりは激しい。それでも、湯の山温泉が大きな歴史的財産であることには変わりあるまい。
 岡山県のあちこちを寅さんは訪れている。
 備中高梁(たかはし)市、総社市、津山市、勝山町(真庭市)など。
 川本はその町々を駆け足で回っている。
 津山には姫路からでる姫新線と、岡山からくる津山線、鳥取からくる因美線がクロスする。ここには扇形機関車庫も残っている。吉井川とともに発達した城下町だ。
 最終作、第48作(95年)の舞台となった。寅さんの甥、満男が狭い道で結婚式に向かう泉の車を妨害する。
 その冒頭に寅さんがでてくる。撮影されたのは、因美線美作滝尾(みまさかたきお)駅。
 いまは無人駅になっている。このあたり、かつては林業が盛んだった。
 津山から勝山までは姫新線の列車で1時間ほど。
 勝山は出雲街道の宿場町。その面影が残っている。瓦屋根、連子(れんじ)格子の商家が並ぶ。昔の日本のよさは、こんなところにしかないのかもしれない。ここも最終作のロケ地だ。
 つづいて、備中高梁に。寅さんは第32作(83年)で、国分寺から高梁に川舟ではいるが、さすがにそのころも川舟はなかったようだ。
 高梁には備中松山城がある。戦国の山城だ。
 高梁は第8作(71年)にも登場。さくらのつれあい、博の実家があるという設定。
 往事の武家屋敷が何軒も残っている。寅さんはそのあたりを博の父(志村喬)と歩く。
 第32作、博の父の3回忌で、ふたたび高梁を訪れた寅さんは、山裾にある薬師院に出向いている。
 町の様子は、撮影当時とほとんど変わらない。でも人口は減った。1970年の約5万3000人が、85年には約4万6000人、そして2015年には3万2000人になっている。
 第17作(76年)に登場するのが、播州龍野(たつの市)。ここはぼくの母の実家なので、ぼくにとってもなじみ深い町だ。子どものころは、夏休みになると、しょっちゅう祖母の和菓子屋に行っていた。
 川本は「いまどきこんな昔ながらの町が残っていると感動する」と書いたうえで、こう記す。

〈白壁と瓦屋根の武家屋敷、格子や卯建(うだつ)のある町家、寺社、堀割、鍵形の狭い道。戦災にも遭っていないためだろう、脇坂家5万3千石の城下町がそのままに残っている。〉

 町は映画がとられたときとほとんど変わらないという。「それも、努力して保存しているというより自然に残っているという生活感がある」。
 しかし、どうだろう。ぼくが子どものころの下川原商店街の様子はすっかり変わってしまった。おじが亡くなったとき、龍野に行けなかったのが悔やまれる。嘴崎屋の羊羹をもう一度食べたい。
 なお、映画に登場する龍野芸者(太地喜和子)は、当時からもういなかったという。
 寅さんは大阪でも商売している。第31作(81年)では、宗右衛門町(そえもんちょう)あたりの芸者(松坂慶子)に恋をするが、例によって行き違いで終わる。寅さんと大阪はどうも相性が悪い。
 ロケ地の通天閣近くの商店街の様子は、撮影当時(81年)とさほど変わっていないという。
 大阪は第39作(87年)にも登場する。
 寅さんはともかく、山田洋次と大阪の相性は悪くないようだ。

寅さんの旅(1)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(3) [われらの時代]

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「男はつらいよ」が製作されたのは1969年から95年にかけてである。足かけ27年の映画シリーズはギネス記録だという。
 学生時代からサラリーマン時代の大半にいたるまでを、ぼくは寅さんと併走したといってもよい(といっても映画はほとんど見ていなかったが)。
 だから、寅さんの旅をたどることは、ひとつにわれらの時代を思い起こす意味合いもある。
 じっさい、寅さん映画には、いろいろな風俗がえがかれている。たとえば第2作に登場するラブホテルというのもそうだ。キャバレーやダンスホールなどもいまはあまりなかろう。
 よく柴又に電話をかける寅が、電話機がコードレスなのに気づいて、びっくりするという場面もある。現在のような携帯電話やスマホはまだ誕生していない。
 高度成長、低成長にかかわらず、日常生活をめぐる風景、住まいや風俗、商品はめまぐるしく変化している。
 もうひとつ、寅さんの旅をたどるのは、文字どおり寅さんの行った場所を追体験するという意味である。
 北海道から沖縄まで、寅さんはじつにさまざまな場所を訪れている。
 川本三郎は本書で、寅さんの訪れた場所を再訪する。
 そこはどんな場所だったのだろうか。
 とはいえ、映画がつくられてから、寅さんの場所は、すでに長くて50年近く、短くても20年以上たっている。その場所がどう変わったか、あるいはいまも変わらないかが、気になるところである。
 川本は寅さんの訪れた場所をできるだけ網羅しようと奔走している。しかし、読者の側はあまり構える必要はないだろう。のんびりと、気ままに、著者と寅さんの旅を楽しめばよいのである。
 著者の川本は最初は沖縄、それから柴又周辺、そして北海道、北陸、会津、佐渡、木曽路、京都、岡山、播州、大阪、長崎、丹後、茨城、青森、九州、最後に奄美と、1年数カ月旅をしている。
 ほかに、本書の企画以前に、取材で寅さんがらみの場所をいくつも訪れたという。
「寅がどんな町を歩いたか、どんな鉄道に乗ったか、どんな風景を見たか」に興味があったという。
 川本は「『男はつらいよ』は、消えゆく日本の風景の記録映画でもある」と書いている。
 そこで、こちらもふらり旅だ。
 川本は、おそらく監督の山田洋次と同様、大の鉄道好きである。だから、寅さんめぐりをしていても、寅さんそっちのけで、鉄道の話題にのめり込む。沖縄を訪れたときも、戦前の沖縄に鉄道が走っていたことを知って、大喜びしている。
 それでも現実の沖縄が、いまも基地の島であることを痛感せざるをえない。
 寅さんの時代と少しも変わっていないのだ。変わったのは、キャンプハンセン前にあった米兵相手の商店や飲食店がさびれ、いまや廃墟のようになっていることだった。
 柴又とその周辺はどうだろう。
 柴又は下町というより、帝釈天参りにいく「近所田舎」で、1960年ごろは訪れる人も少なく、閑散としていたという。裏を江戸川が流れている。高い建物はなく、閉鎖的な土地柄。寅さんの舞台となる1970年ごろは「周囲の繁栄から取り残された町」だった。回りにはまだ畑が残っていた。
 江戸川の取水塔と「矢切の渡し」、水元公園はいまもある。
 このあたりは京成電鉄の文化圏だ。京成沿線は寅さんのシリーズにしょっちゅう登場する。下町よりマイナー感がある。
 柴又に行くには京成電鉄本線の京成高砂から金町線に乗り換える。高砂と金町の途中に柴又がある。
 金町は常磐線の駅でもあり、柴又よりにぎやかで、いまはイトーヨーカドーや東急ストアもできている。15階建ての公団住宅もある。
 寅さんシリーズでは、この金町がよくでてくる。柴又からみれば、何でもある町だ。しかし、もともと金町も江戸時代は近郊の農村地帯。町は成長し、変化する。
 葛飾区の地場産業は玩具だ。立石に、はじめてセルロイドの玩具工場ができたのが1914年。1960年代にはタカラのダッコちゃん、70年代にはセキグチのモンチッチが大ヒットする。そのころまで、集団就職の少年少女がおもちゃ工場に働きにきていた。映画はその光景も取り入れている。
「男はつらいよ」には東東京、京成文化圏への思い入れがある、と著者はいう。江戸川だけではなく、目立たない中川もよくでてくる。このあたりの景色も、おそらく寅さんの時代から、だいぶ変わっただろう。町も生き物だ。
 著者が次に足を運ぶのが北海道。
「男はつらいよ」には、北海道がよくでてくる。
 寅さんは第11作(1973年)で、カタギになろうとして、北海道の牧場ではたらきはじめる。撮影場所は網走の西、卯原内(うばらない)にある栗原牧場だ。いまは300頭の乳牛を飼っているというから、大規模牧場といってよい。
 酪農の仕事は生き物相手だから休む暇もなく、重労働だ。そのため、酪農家は全国で減りつづけ、いまでは最盛期(ピークは70年代だった)の4%、1万8000戸に落ちこんでしまったという。
 当の寅さんは慣れない仕事で、たちまち倒れ、寝込んでしまう。そして、妹のさくらが駆けつける仕儀となる。
 映画には網走の町も登場する。郊外にショッピングセンターができたため、当時の商店街はさびれてしまった。造船所も残っているものの活気がない。これも70年代と現代の大きなちがいだ。
 ほかに変わったといえば、観光客が増えたこと。外国人が観光バスに乗って、網走刑務所やオホーツク海を見にくる。
 しかし、漁業、農業の景気は悪くない。「漁業はサケ、マス、ウニが好調。農業はジャガイモ、小麦、ビート」。日本の食卓を支えている。
 1987年の第38作は知床が舞台。映画には離農する酪農家の姿がでてくる。知床は2005年に世界遺産に登録された。自然がすばらしいという。漁業は網走と同様、好調だ。
 中標津、別海町はいまでも酪農がさかん、広々とした牧場がつづいている。
 とはいえ、酪農家の生活はきびしい。
 北海道では、かずかずの映画の舞台となった鉄道がつぎつぎ廃線になっている。それが加速されたのは80年代からで、近年はさらに廃線化が進む。
 根室はロシアとの緊張関係で、漁業の不振がつづき、人口も減っているという。
 1984年の第33作は、釧路と根室のあいだにある霧多布が舞台になっている。撮影された昆布小屋は、2011年3月11日の津波で流されてしまったようだ。
 著者は第26作(1980年)の舞台となった奥尻島も訪れている。
 1993年の地震で、奥尻島は津波の被害を受け、火事も加わり、200人の死者をだした。
「男はつらいよ」が撮影されたのは地震のだいぶ前。
 寅さんは最初に江差で商売し、それから奥尻島に渡っている。ニシン漁で栄えた江差に、かつてのにぎわいはなかった。札幌一極集中が進んでいる。
 奥尻島では、地震のとき、漁港も町も全滅した。映画にでてくる青苗地区の町並みはすべて津波で消えたという。そこに津波館が立てられている。
 イカの加工場と商店街は残っている。
 岬の突端に賽の河原と呼ばれる霊場がある。
 地震のあと、奥尻島復活の象徴となったのが、ワイナリーでつくられている奥尻ワインだという。
 江差線は2014年に廃線になった。旅行客が函館に行くにはバスに乗るしかない。
 著者は寅さんの跡をたどって、函館に1泊したあと、小樽に向かう。その途中、寄り道をして、倶知安からいまは無人駅となった小沢(こざわ)駅に立ち寄っている。駅はいま閑散としている。
 小沢には開拓地があったという。戦後、樺太からの引揚者が入植した。しかし、高冷地のため、満足な収穫は得られなかった。けっきょく、入植地はなくなる。
 小沢は共和町の一部。
 共和町の人口は1970年に9478人だったが、2015年には6224人になった。スイカ、メロン、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、ブロッコリーなどがよくとれる。それでも、人口の流出がつづく。
 寅さんは北海道の小さな駅をほんとうによく訪れている。いまは懐かしい蒸気機関車が走っているのが、映画の魅力のひとつだ。その蒸気機関車も1970年代から徐々に姿を消していく。
 寅さんが旅した北海道の国鉄路線は、廃線が相次いでいる。国鉄がJRに移行するのは1987年。しかし、その前から北海道では廃線化が進んでいた。
 函館本線の小沢駅から分岐する岩内線も85年に廃線になった。小沢駅がさびれたのも、そのことが一因になっている。
 カネのない寅さんは、小樽の手前にある蘭島(らんしま)駅で野宿している。
 そして、小樽。
 小樽について、川本はこう記している。

〈小樽は現在、運河の町として人気があるが「寅次郎相合い傘」が作られた1975年頃には運河の汚れがひどく一時は埋立ての話もあった。それでも市民の保存の努力が実った。それには運河の風景をとらえた「寅次郎相合い傘」の力もあったのではないか。〉

 これも寅さんの功徳である。

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