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平山周吉『江藤淳は甦える』断想(4) [われらの時代]

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 だんだんつらい話になってくるが、最後まで読むことにしよう。
 1979年から翌年にかけてのアメリカ滞在時代、江藤は占領史の研究に没頭した。日本人が戦後空間を脱して、みずからの国を取り戻すのだという思いが強かった。
 江藤は時折、滞在中のアメリカでも占領政策を批判する講演をしたが、それはとうぜん波紋を広げるものとなった。身の危険を感じることもあったという。アメリカの度量にも限度があった。
 平山によれば、1980年代の江藤は「生き埋め」状態にあったという。それはかれが日本国憲法制定の過程、GHQによる検閲の実態を研究し、発表していた時期にあたる。
 文壇にも毛嫌いされていた。江藤は1984年の『自由と禁忌』で、丸谷才一や小島信夫、大庭みな子、吉行淳之介、安岡章太郎など大御所の話題作を徹底的に批判している。評価したのは中上健次の『千年の愉楽』だけだった。
 1989年には『昭和の文人』を刊行する。平野謙や堀辰雄などが断罪されるなかで、中野重治が再評価されているのが目につく。しかし、その再評価はどこかバランスを欠いている。
 この年、昭和天皇が亡くなる。昭和という時代がせり上がってきたのは、このときである。
「天皇崩御に際会して、江藤の中のなにかが堰を切ったように溢れ出た」と、平山は記している。
 昭和よ永遠なれとの思いが強かったという。
 その思いのもと、江藤は『昭和の宰相たち』を書き継ぐ。かれによると、若槻礼次郎、田中義一から、佐藤栄作、田中角栄にいたるまで、昭和の宰相たちは、すべて天皇の宰相たちにほかならなかった。
 この大河昭和史は1985年から90年まで、雑誌に連載され、単行本としては4巻で中絶した。1932年の五・一五事件で、犬養毅が暗殺されるところまでしか書かれていない。
 平山によれば、1990年に公開された『昭和天皇独白録』が、それまでの記述の変更を余儀なくさせたからだという。テーマの大きさに思いのたけがおよばなかった。
 1991年に還暦前の江藤は芸術院会員に選ばれている。これは大きな栄誉と喜びだったろう。
 とはいえ、江藤にとって、平成は象徴天皇制と戦後民主主義におおわれた不愉快な時代となった。日本という国がなくなってしまうのではないかとさえ恐れた。象徴天皇制はかぎりなく共和制に近づいてしまう。戦後民主主義は国家の否定に行きつく。そう思っていた。
 この年から、江藤はふたたび『漱石とその時代』に立ち戻り、「新潮」での連載をはじめている。記述はより慎重になっている。漱石の2年をえがくのに1巻がついやされた(第3巻)。そして、ついにこのライフワークは未完のまま、全5巻で断ち切られることになるのだ。『明暗』論が書かれることはなかった。
 1994年からは西郷隆盛を論じた『南洲残影』の連載がはじまっていた。「文學界」でのこの連載は21回つづき、1998年に文藝春秋から単行本として出版される。
 そのなかで、江藤はこう書く。

〈何故なら人間には、最初から「無謀」とわかっていても、やはりやらなければならぬことがあるからである。日露開戦のときがそうであり、日米開戦のときも同じだった。勝った戦が義戦で、敗北に終った戦は不義の戦だと分類してみても、戦端を開かなければならなかったときの切羽詰った心情を、今更その儘に喚起できるものでもない。況んや「方略」がよければ勝てたはずだ、いや、そもそも戦は避けられたという態(てい)の議論にいたっては、人事は万事人間の力で左右できるという、当今流行の思い上りの所産というべきではないか。〉

 江藤は「大東亜戦争」に重ねて、西南戦争での西郷の挙兵を読み解こうとしていた。悲愴である。
 このころ、江藤は慶應義塾大学で教えるようになっている。
『漱石とその時代』完成に向けての地道な取り組みがつづくなか、江藤は馬琴や虚子、徳田秋声にも興味をもつようになっている。漱石が終わったら、谷崎に取り組むのを楽しみにしていたという。
 途中、病気で半年ほど中断するものの、還暦をすぎてからも、「漱石」の執筆はつづけられた。このころ江藤のえがく漱石は、身ぐるみ朝日新聞に買い取られた、一介の「小説記者」の「急速に老い、病んでいく」姿だった。
 みずからも老いを感じるようになっていた。憂国の「逸民」の影も増していた、と平山はいう。
 1993年の皇太子成婚では、いとこの長女、小和田雅子が妃に選ばれる。だが、江藤はひたすら沈黙を守っていた。むしろ、この結婚に危惧をいだいていたという。
 1995年の阪神淡路大震災では、被災者の前にひざまずいて声をかける天皇と皇后に苦言を呈した。オウム真理教による地下鉄サリン事件をみて、この国が崩壊をつづけていると感じた。
 1997年には慶應大学での定年を1年残して、大正大学に移籍する。20年、東工大に勤めたあと、慶應で約8年教えたことになる。
 この年、江藤は日本文藝家協会理事長、三田文学会理事長、国語審議会副会長といった要職も引き受けていた。公正取引委員会での再販価格維持制度をめぐる会合にも出席している。いずれも、心身を消耗させる仕事だった。
 1998年、夫人に末期がんが発見される。告知はしなかった。8カ月の闘病後、11月7日に夫人は亡くなる。
 江藤は病室に泊まり込みながら、『妻と私』の原稿を書きつづけた。妻が亡くなってから、疲労のため、2カ月入院した。
 妻の納骨をすませたのは、翌1999年5月である。それから2カ月半後、江藤は7月21日に自死する。
遺書にはこう書かれていた。

〈心身の不自由は進み、病苦は耐え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。〉

 脳梗塞自体は軽かったという。7月8日には退院している。歩くのは少し不自由になったが、散歩することもできた。
 だが、その夜、江藤は死を決意し、湯船にはいり、包丁で左手を切り自裁した。
 いったい何があったのだろう。
『幼年時代』の連載がはじまったばかり。『漱石とその時代』は、たぶんもう少しがんばれば完結したのではないだろうか。
 形骸というのはことばが強すぎる。あせらず養生すればよかったのにと思う。しかし、そろそろ終わりにしたいという信念を止めるわけにはいかない。
 昭和に殉ずるという思いが強くなっていたのかもしれない。
 非政治的人間であるぼくなどに、その気持ちははかりがたい。

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平山周吉『江藤淳は甦える』断想(4) [われらの時代]

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 1971年4月、38歳の江藤淳は東京工業大学の助教授に就任した。平山は「国家の官吏」になったと書いている。ついにエスタブリッシュメントの地位を獲得したのだ。
 2年後、江藤は教授に昇任し、文学を担当することになる。東工大時代は20年におよぶ。この地位には満足していたという。
 教育活動に時間がとられたとはいえ、執筆活動は衰えない。『漱石とその時代』(第1部、第2部)を書き終えたあとは、立て続けに『海舟余波』、『海は甦える』に取り組んだ。
 自分の知らない過去の時代の感触を知りたいという「抑えがたい欲望」があったという。言い換えれば、日本という国家につながりたいという思いである。
 祖父が海軍中将だったことから「政治的人間」への関心は強い。勝海舟や山本権兵衛にたいする関心はそこから生まれる。
 江藤にとって、戦後とは、どういう時代だったのか。こう書いている。

〈国家意志は、敗戦国においてはいわば奴隷の言葉によって語られなければならない。政治的指導者たちは、戦勝国に対しては「戦争の継続」である外交努力をつづけながら、半面一般の国民に対して勝者の意志を励行し、かつその過程でひそかに自己の意志をも励行するという際どい綱渡りを強制されるからである。このような状況のなかで、「国家」が一般国民にとって、望ましい「同一化のシンボル」でなくなることは自明である。〉

 ここからは江藤の意識が透けてみえる。ひとつは、政治とは現実だということである。政治は無責任に現実をもてあそんではならない。
 しかし、にもかかわらず、敗戦国という現実をどうとらえればよいのか。敗戦国意識に閉じこめられているかぎり、日本の戦後は終わらない。
 江藤にとって、戦後民主主義とは奴隷の平和にほかならなかった。日本が戦後を脱するためには、アメリカやソ連によって強要される奴隷の姿勢から自立して、ほんらいの日本を取り戻さなければならない。そのために努力しつづけるのが、天皇の臣民たるおのれの役割である。
 これはある意味では、ひじょうに不幸な意識である。というのも、江藤にとって、ほんらいの日本は、明治以降の大日本帝国時代にしかありえなかったからである。はたして、日本の未来は、大日本帝国時代の誇りを取り戻すことにかかっているのだろうか。江藤は4歳半のときに亡くなった母の面影を追い求めるように、帝国の栄光をさがしつづけることになる。
『海舟余波』は1974年に刊行された。ときあたかも、NHKの大河ドラマで、子母沢寛原作、倉本聰脚本による『勝海舟』が放送されていた。江藤はこれに便乗したわけではない。むしろ、人情仕立ての大河ドラマには反発していた。かれがえがくのは、自立した国のあり方を求めつづける海舟だった。
 そのころぼくは大学をようやくレポート提出で卒業させてもらい、結婚し、ちいさな総会屋系出版社に勤めていた。あちこちふらつきながら、なんとか暮らしていく算段をするのがせいいっぱい。でも自由で楽しい時代ではあった。もちろん、気分は反体制である。
 やたら、日本、日本と叫ぶ、ぎょうぎょうしい大河なんか見なかった。非国民でけっこう。鳥や獣、いや草木のように生きるのだと思っていた。政治にはほとんど関心がなかった。むしろ、嫌いだったといえるだろう。
 そんなことは、どうでもよろしい。
 江藤が『海舟余波』につづいて取り組んだ『海は甦える』は、日露戦争時の海軍大臣、山本権兵衛を主人公とする「ドキュメンタリー・ノヴェル」。平山の引用をみれば、明治天皇がじつにざっくばらんに山本と会話するシーンがあって、このあたりがいかにも江藤らしい。
 1975年、江藤は博士論文の『漱石とアーサー王傳説』を出版する。ここで、江藤は漱石と兄嫁、登世との恋愛説を提示する。これに、大岡昇平がかみつき、大げんかとなった。
 大岡は、江藤がこんな思いつきの論考で、文学博士号を手に入れたのが、気にくわなかった。加えて、この年、江藤が芸術院賞を受賞したのもおもしろくなかった。右傾化する江藤に大岡は怒りをおぼえていた。
 大岡の大批判は、江藤に『漱石とその時代』を続行する意欲を失わせる。かれが漱石伝を再開するのは、それからじつに16年後の1991年で、大岡昇平が亡くなってから3年後のことである。その結果、『漱石とその時代』は、未完のまま第5巻で断ち切られる。
 ふり返ると、このころから、ぼくは江藤淳への興味をなくしている。生活のため、新しくはいった会社での営業の仕事が忙しくなったこともあって、本を読むのは通勤時間の行き帰りだけになった。とうぜん、司馬遼太郎や藤沢周平、山田風太郎が多くなる。
 そのころ江藤淳は大学や文壇にとどまらず、福田赳夫のブレーンとして活躍していた。
 福田内閣が成立するのは1976年の年末である。江藤は文部大臣としての入閣を取り沙汰されていたが、それは実現しなかった。しかし、福田のアドヴァイザーとして、1977年2月に訪米したり、7月に東南アジア5カ国に出張したりしている。
 翌78年10月には日中平和条約批准書交換に先立って、鄧小平副総理とも面会している。気分はキッシンジャーで、平山は「江藤の関心はおそらく文部行政よりも、国際関係、外務行政にあったのではないか」と記している。
 1978年になると、江藤はそれまでつづけてきた文芸時評をやめ、平山によれば「占領期から続く戦後日本の実像をあぶり出す作業」に集中する。
 吉本隆明は対談で「江藤淳ともあろう人が、日本の知識人流にいえば、こんなつまらんことにどうしてエネルギーを割くんだろう、という疑問があるんですよ」と江藤に問いただしている。これにたいする江藤の答えは「私はこれが私にとっての文学だからやっているのです」というものだった。政治でも学問でもなく、文学だというところが味噌である。
 戦後日本の実像をあぶり出す仕事の皮切りとなったのが、日本が無条件降伏したという通説にたいする批判である。日本はポツダム宣言の第6項から第13項までの条件を受諾しただけで、それはけっして無条件降伏ではない、と江藤は主張した。言い換えれば、占領当局がポツダム宣言を逸脱して、強引な占領政策を実施したというのが江藤のとらえ方であり、そこから江藤の関心は占領政策の批判へと向けられていく。
 1979年10月から9カ月間、江藤は国際交流基金派遣研究員として、ワシントンのウッドロー・ウィルソン研究所に赴任し、検閲に関する資料を中心に、占領史関係の資料の山に向きあった。その成果として、のちに出版されるのが『一九四六年憲法』や『閉された言語空間』である。
 とりわけ江藤にとって宝庫となったのが、メリーランド大学のプランゲ文庫。ここには占領期に検閲された書籍や小冊子、雑誌、新聞が収録されていた。江藤は占領時代における検閲の実態を知り、GHQがいかに日本人を心理的に操作していたかを実感する。
 さらに、憲法の制定過程である。GHQが新憲法を起草したことは明らかだった。当時の幣原喜重郎首相が閣議で閣僚にたいし、総司令部による憲法案を受諾すると告げている。にもかかわらず、メディアがその事実に言及することを検閲当局は禁止していた。もちろんアメリカ批判は許されない。
 江藤によれば、9条の戦争放棄もアメリカの強制によるもので、日本人が心から求めたものではないという。
 江藤の批判は、「不可解な日米関係の『ねじれ』の根源をつくった吉田茂に向けられ、さらに裏切りの「ユダ」と「左翼」にあふれた戦後文壇にも向けられていく。
 こうした主張は、江藤淳を「絶対的少数派」の孤立へと追いこんでいった、と平山は指摘する。
 日本では、いまでもアメリカに刃向かう政治家や官僚はけっしてえらくなれない。そこで、日本の権力政治は奴隷のことばでアメリカにすり寄りながら、戦後パラダイムなるものを批判し、それをつくりだしたとして左翼を攻撃する。
 そこには換骨奪胎された江藤淳がいる。西部邁がいる。
 江藤淳はいまも孤独なままである。

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平山周吉『江藤淳は甦る』断想(3) [われらの時代]

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 1964年8月にアメリカから帰国した江藤淳には、さっそく多くの仕事が殺到した。「朝日ジャーナル」に『アメリカと私』、つづいて「日本と私」(未完)を連載する。講演会や座談会もある。新聞や雑誌にも多くのエッセイを寄稿している。「文芸時評」も再開した。
 オリンピックの年だった。
 それはわずか2週間の祭典にすぎなかったが、日本はまるで「見えない敵に対して挑んでいるように見えた」と、江藤は「文藝春秋」に書く。

〈その敵とは、大きくいえば提督ペリーの来航以来、日本人の肩の上にのしかかっている宿命という名の敵である。歴史家のいわゆる日本の「近代化」が開始されてこのかた、われわれはつねに不幸であった。〉

 近代化は日本にとって不幸な宿命だったというのは、どうみても大仰である。しかし、江藤は日本はこの宿命を背負って戦い、敗れ、復活し、また闘おうとしていると感じていた。
 平山周吉によれば、東京オリンピックは「戦後日本のナショナリズムの解放だった」。
 そのなかでも江藤のとらえ方は、常軌を逸するくらいの悲愴さに満ちている。とりわけ江藤は開会式において、世界が「日本の君主の前におのおのの旗を垂れて、敬礼していた」ことに感動をおぼえる。開国以来の怨みが「この儀式のなかではじめて象徴的につぐなわれた」とまで書いている。
 私見をはさめば、これは抗いがたい感情であり、万歳するほかない論理である。国際的な通常の儀礼が、いつのまにか日本を頂点とする八紘一宇の舞台へと転化されてしまっている。
 ますますグローバル化する世界のなかで、いわば水戸学の精神を保ちつづけることは、江藤を孤立のなかに追いこんでいったのではないだろうか。
 このころ超多忙な江藤自身は、落ち着かない不安な生活を送っていた。住まいは転々として定まらず、盟友ともいえる作家、山川方夫をとつぜんの交通事故で亡くしている。夫人が子宮筋腫で、子宮を全摘し、そのあと鬱病で入院する。そうした不安が、自身をますます仕事に駆り立てていた。
「文學界」に長期連載していた「近代以前」は、1966年7月号で打ち切りになる。単行本化されるのは20年後である。プリンストン大学での日本文学講義をさらに深めるための試みだった。藤原惺窩と林羅山からはじまり、近松、西鶴を論じ、上田秋成で中断された。ほんらいは、伊藤仁斎や荻生徂徠、本居宣長も論じ、さらに洒落本や滑稽本、人情本、読本も扱うつもりだった。だが、あまりにも構想が大きすぎて、力及ばなかった。
 そこで、方向を転換し、1966年8月号の「文藝」で、現代の小説を論じることにする。テーマは戦後日本の家族の変容である。連載は2回で終わるはずだったが、8回にふくらみ、江藤の代表作のひとつ『成熟と喪失』が生まれる。
 ここでは安岡章太郎や庄野潤三、小島信夫などの現代小説が取りあげられている。なかでも重要なのは小島信夫の『抱擁家族』をめぐる考察である。
 江藤の表現を借りれば、『抱擁家族』は「妻のアメリカ兵との姦通にきわまった混乱、無秩序から家庭を再建しようという話」。それは、まさに戦後日本を象徴する悲喜劇だった。
 その主人公、俊介に江藤はみずからを投影する。ただし、江藤に喜劇意識はない。
 江藤は小島信夫を絶賛する。のちに「ひとつの国の敗亡と、その国に生きる人間たちの倫理的・感覚的崩壊の過程を、小島氏ほど独特な視角から、なまなましく小説化しつづけている作家を、私はほかに誰一人として知らない」とまで書いている。
 少なくとも、江藤はそう読んだのだろう。しかし、上野千鶴子は『成熟と喪失』を、「母の崩壊」、言い換えれば「女が壊れた」話として読んでいる。戦後は「母なるもの」が壊れ、女が立ちあがる時代でもあるのだ。これは、おそらく江藤自身の読みとはくいちがう評価である。
 ちなみに、ぼく自身も長い大学時代にこの評論を読んだが、さっぱりわからなかった。女のこわさ(存在感)に思い至っていなかったのである。
 1967年、江藤は、文壇の渦に巻きこまれながら、猛烈な勢いで仕事をこなしている。『成熟と喪失』と同時に、『一族再会』の連載もはじまっていた。のちに書き下ろしで刊行される『漱石とその時代』にも取り組んでいる。雑誌「季刊藝術」の編集も担当することになっていた。まさに超多忙の売れっ子だった。
『一族再会』は、みずからの家の物語である。それは幼いときに病死した母と、事実上一家の主だった海軍中将未亡人の祖母の話からはじまる。そして、明治の海軍一家の物語へと膨らんでいく。
 江藤が「私の生きる意味」とまで断言した『漱石とその時代』もまた家庭の物語である。漱石と妻鏡子の関係に多くのページが割かれていた。平山周吉は『漱石とその時代』は『成熟と喪失』と地続きの関係にあるという。その背景には妻の不調がある。
 このころから、江藤淳は大江健三郎と絶交状態に陥っている。それは1967年に刊行された大江の『万延元年のフットボール』をめぐる論争がきっかけだった。
 江藤は「万延元年」を空虚で、「本当のこと」はどこにもないと論じた。切実なテーマは展開されていないと断言している。しょせんは政治ごっこなのだ。
 大江が江藤の私事について、事実ではないことを触れ回ったことも、絶交をもたらす引き金となった。
江藤は文学の「産業化」と「政治化」にも警鐘を鳴らしている。
 68年には大学紛争がさかんになるいっぽう、参議院選挙で、自民党公認の石原慎太郎が、300万票を超える得票数でトップ当選をはたし、タレントの青島幸男が120万票で2位につけた。
 大江との仲が険悪だったのにたいし、江藤と吉本隆明は、最後まで不思議と良好な関係を保った。
 江藤淳は学生運動による「革命ごっこ」や三島由紀夫による「自主防衛ごっこ」を嫌い、現実主義に立つと主張していた。
 日米安保条約は即時廃棄できるわけがない。それでも、70年代後半には安保条約を「発展的解消」し、「真の自主独立」を達成できるかもしれないと思っていた。
 佐藤栄作は高坂正堯や山崎正和らとならんで江藤をブレーンとして迎えた。70年の大阪万博にはどこか冷ややかだった。夫人の健康は回復しつつあり、軽井沢の千ヶ滝に別荘を購入した。この年に刊行された『漱石とその時代』は野間文芸賞と菊池寛賞を受賞した。
 そうした文壇の表舞台に立つ江藤を吉本隆明はなぜか評価した。最初の対談でも「江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする」と語っている。
 江藤自身も吉本について、のちにこう書いている。

〈私にとっては、その人の人柄を信用するのとその人の思想を信用するのとは同じことである。科学の普遍性をよそおった「指導理論」などは犬に喰われるがいい。私が吉本隆明さんの思想を信用するのは、まさにその人を信じるからである。私は吉本さんとすきやきの鍋をつつくようにして、吉本さんの詩と思想を味う。これは珍味である。なぜなら吉本さんはその人柄において、その思想において、男のなかの男だからである。〉

 吉本が評価したのは、佐藤政権のブレーンを務め、日本文化会議に参加し、園遊会に出席する江藤ではない。歴史観や世界観はちがっていたが、その人柄にひかれていた。
 このあたりの機微は、ぼくにはよくわからない。考え方においても、ふたりはどこか一致するところがあったのではないか。そのあたりは、ふたりの実際の作品をもう少し読んで評価する必要がある。
 いずれにせよ、平山周吉はこう書いている。

〈吉本はこの後[江藤淳が自死したあと]、13年生きて87歳で亡くなった。その間、対談、インタビューなどで何度も江藤について話している。著書でも必ずといっていいくらいに江藤の名前と思い出が出てくる。二人は下町の悪ガキと山の手のお坊っちゃまクン、といった珍妙な組み合わせだったが、吉本は死ぬまでずっとお線香を絶やさなかった。〉

 ぼくにとっても、不思議なのは、大学闘争のころ、どうしてあんなに吉本や江藤、三島、竹内、武田にひかれていたのだろうかということである。
 こう書いてしまっては身も蓋もないが、いまとなっては懐かしい。

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平山周吉『江藤淳は甦える』断想(2) [われらの時代]

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 60年安保闘争が終わったあと、社会党の浅沼稲次郎が右翼の少年、山口二矢によって刺殺される。大江健三郎は、その少年をモデルにして「セヴンティーン」と「政治少年死す」を書く。三島由紀夫は「憂国」を発表。中央公論に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を読んで怒った17歳の少年が、中央公論社長宅を襲い、お手伝いさんを刺殺した。
 1961年、江藤淳は朝日新聞の文芸時評を担当し、これらの作品についても論じていた。また、評判の悪かった三島由紀夫の『鏡子の家』を解説したことから、三島との接近もはじまっている。しかし、集中していたのは「小林秀雄論」である。
 そのころアメリカ行きの話が出る。ロックフェラー財団から申し出があり、プリンストン大学に行くことが決まった。その前に、西ドイツ政府からも、バイロイト音楽祭への招待があって、1961年夏の2カ月間、江藤はヨーロッパ6カ国を遊覧している。そして、11月、『小林秀雄』が刊行されたことで、大きな仕事に一区切りがついた。
 夫婦でアメリカに向かったのは1962年8月24日で、帰国は64年8月4日である。その間、63年7月18日から20日ほど本人だけ一時帰国したのを除いて、江藤夫妻はほぼ2年間、アメリカに滞在したことになる。
 その2年間のことは『アメリカと私』につづられている。
 アメリカ体験は、29歳から31歳にかけての江藤淳に何をもたらしたのだろう。平山周吉の評伝に沿って、そのことを考えてみよう。
 江藤夫妻が住んだのはニュージャージー州の大学町プリンストンである。最初に迎えてくれたのは、1年前からプリンストン大学に留学していた経済学者の鈴木光男(東北大学講師、のち東京工業大学教授)だった。
 当初2カ月ほどは大学の雰囲気になじめなかったようだ。「社会的な死を体験していた」と書いているから、得に学びたいテーマも見つからなかったのだろう。うつうつとしているところに、『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞したという朗報が舞い込んできた。
 それで、ようやく自分を取り戻しはじめる。
 プリンストンでは多くのアメリカ人学者と出会った。江藤の身元引受人は歴史学者のマリアス・ジャンセン(『坂本龍馬と明治維新』が有名)。エール大学のロバート・リフトンとも懇意になっている。
 先に挙げた鈴木光男のほか、日本からは武者小路公秀、綿貫譲治、柳瀬睦男などが留学していたという。
 平山周吉は、江藤が夏目漱石の研究者でもあるヴィリエルモ助教授と交わした会話を紹介している。

〈日本人への不満を述べるヴィリエルモに向かって、日米関係の根本的改善はわけもないと江藤は言い放つ。「それには、合衆国大統領が特使を送って、公式に原爆投下に遺憾の意をあらわし、併せて沖縄県を返還すればよい」。「とんでもない」とヴィリエルモは声を上げて反論する。「原爆を落としたのは、戦争中ですからね。アメリカ兵の声明を助けるためには、仕方がなかったのですよ。それに沖縄は、アメリカが大きな犠牲をはらってやっととったのですからね。とてもとてもかえせませんねえ。(略)日本は無条件降伏をしたのですよ」。〉

 この会話は、そののちもずっと心に引っかかった。
 沖縄返還がなされたあと、江藤淳は米軍基地がずっと残ったことが問題と考えていた。最晩年の1998年にも、日米防衛協力のためのガイドラインによって「もう一度日本が軍事的な空間として、全面的にアメリカの空間に取り込まれる」ことを危惧すると記している。
 アメリカへの反発は身元引受人のマリアス・ジャンセンにたいしても同じである。日本の近代化、すなわち西洋化をよしとするかれの考え方には違和感をいだいていた。
 平山周吉はこう書いている。

〈優等生の「めざましい近代化」が光の領域だとすれば、そこには当然のことながら、影の部分が存在する。それはペリー来航以来、強いられてきた日本の制度であり、歪められた日常の感覚であり、何よりも、うずいている日本人の傷痕である。〉

 1963年7月に所用があって、3週間ほど日本に一時帰国したとき、羽田に迎えにきた三島由紀夫は編集者に「江藤さんも立派になったなあ」ともらしたという。
 オリンピックを1年後に控えて、東京は「普請中」で、江藤はその頽廃ぶりを嘆いている。それでも、道行く人びとはニューヨークより、よほどおだやかだった。
 NHKで岩波書店の吉野源三郎に会ったときには「このままでは日本はアメリカにしてやられてしまうという気がする」と話している。
 プリンストンに残った夫人には何通も手紙を書いているが、「もう一年、日本のために二人で頑張ろう」と記しているのが印象的だ。
 アメリカに戻ってきた江藤は、プリンストン大学の東洋学科で1年間、日本文学を教えることになった。秋学期は古典、春学期は近代文学が対象で、講義は英語でおこなわれた。
 新潮社からの出版を約束していたその講義録は、けっきょく刊行されない。平山は、それがどんな講義だったかを推測している。
 それは8世紀以来の日本文学史を連続体としてとらえる講義だったと思われる。世阿弥の「風姿花伝」はお気に入りの作品だった。江戸期の朱子学的世界も大きく取りあげられただろう。荻生徂徠の「弁名」や本居宣長の「紫文要領」も紹介されたにちがいない。近松や西鶴への言及もあったはずだ。朱子学的世界が壊れる近代では、やはり夏目漱石が焦点になる。小林秀雄の作品も紹介されたかもしれない。
 平山はこう書いている。

〈江藤文学史の核心部分はプリンストンで構築されていった。古典に親しむことで、「日本」を引き受け、前近代と近代の断絶を埋めることで、「日本」はひとつの連続体を成していることが証明される。〉

 江藤の白熱講義に感銘を受けた学生は多かった。そのなかの一人、ダニエル沖本は、のちにスタンフォード大学教授となり、オバマ政権のアジア担当アドバイザーになっている。
 江藤にすれば、せっかくアメリカに来たからには、ただ学んで帰るだけではなく、アメリカ人に日本のことを少しでも教えたいという気持ちだったのだろう。アメリカ体験は、江藤の日本回帰を強めこそすれ、アメリカ崇拝にはけっして結びつかなかったのである。

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平山周吉『江藤淳は甦える』断想(1) [われらの時代]

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 江藤淳(1932〜99)というと、夏目漱石を中心とする文芸評論、西郷隆盛や勝海舟、山本権兵衛などをめぐる歴史評論、戦後民主主義を批判しつづけた保守論客、そういうイメージが思い浮かぶ。
 ぼく自身は、ほとんどといっていいくらい、江藤淳の作品を読んでいないなまけものである。愛国の風も苦手なので、たぶんこれからも熱心な読者にはならないだろう。
 それでも、この本を買ったのは、江藤淳がどういう人だったかを表面だけでも知りたいと思ったからである。とくに、1960年代後半以降の江藤淳について知りたいというのが、ぼくの興味である。
 江藤淳はペンネームで、本名は江頭淳夫(えがしら・あつお)という。祖父の海軍中将、江頭安太郎は将来の海軍大臣と目されていた。父の隆は三井銀行に勤めていた。父の弟、豊はのちにチッソの会長となる。いとこにあたる豊の娘、優美子は外交官の小和田恆と結婚し、現皇后の雅子の母となる。エリート家庭に生まれたといってよい。
 日比谷高校時代、結核にかかり1年間休学、慶應義塾大学に進み、英文学を専攻した。1956年に『夏目漱石』でデビュー、結婚し、大学院を中退、文芸評論家の道を選んだ。そして、たちまち売れっ子になった。
 1958年には「若い日本の会」を結成している。この会には、江藤を中心に、谷川俊太郎、石原慎太郎、開高健、曽野綾子、大江健三郎、浅利慶太、武満徹などが集まった。
 この年、岸信介内閣は60年安保をにらみ、警察官の職務権限を強化するため、いわゆる「警職法」改正案を国会に提出する。
「若い日本の会」は、これに反発し、次のようなアピールを出した。

〈この法案は戦前の治安維持法をはじめとする一連の暗黒法に通ずるものである。私たち世代はそれらのものから直接の被害を受けず、体験を持たないが、戦争によって言いつくせぬ苦痛を味わった。この法案のもたらす危険を恐れることについては個人的体験を越えた重大かつ深刻なものを感じる。私たちはこの法案に絶対反対、その完全な撤回を要求する。〉

 言論の自由を抑圧しかねない法案に反対したのだ。
「若い日本の会」は、社会党や総評などで結成される「国民会議」とは別個に行動した。江藤自身はデモ嫌いで、個人の声にこだわるという立場である。
 反対運動が盛り上がるなか、警職法改正案は廃案となる。
 そのころの江藤は「民主主義社会の建設」というビジョンのために動いていたという。一大ブームを巻き起こした皇太子の婚約についても、冷静に論評している。
 だが、江藤は次第に同世代に愛想を尽かしはじめる。
 とりわけ石原慎太郎への批判は激烈だった。「おどろくべき自己省察の欠如」(言い換えれば「不遜な自信」)などと切り捨てている。
 埴谷雄高や大岡昇平との関係は良好だった。江藤に小林秀雄論を書くよう勧めたのは大岡であり、貴重な資料も提供してもらった。
『小林秀雄論』は60年安保のさなかに書き継がれ、1961年に出版される。それまで江藤は小林秀雄を全面否定していた。それが、この本で、評価ががらりと変わる。
 その60年安保の年について、江藤は「危機感にかられて国会の機能回復、反岸政権のために奔走す」と、のちの「自筆年譜」に記している。
 このことばに、いつわりはなかっただろう。
 当初から全学連の直接行動は支持しなかった。
 羽田闘争で多くの逮捕者がでたときも、埴谷雄高への手紙で、全学連は「悲劇的な茶番」であって、「全学連の過大評価はむしろいましめるべきではないでしょうか」と書いている。
 安保にたいしては、いろいろな立場があってもいい。江藤は改正安保条約に批判的だったが、やみくもに反対したわけではなかった。吉本隆明との座談会では「僕は絶対に改正しちゃいけないとは言わないんで、いい方向に改定することはあり得ると思う」と発言している。
 ただ、5月19日の国会で新条約案が強行採決されると、「岸信介とその一党」の横暴許すまじ、という態度に変わっていく。
 国会にデモをかけるという行動には反対した。
 6月10日、来日したアメリカのホワイトハウス報道官(当時の言い方では「新聞係秘書」)ハガティの車をデモ隊が取り囲み、ハガティが身の危険にさらされる事件が発生した。
 江藤はこれを「非礼」かつ「愚鈍」な行動ととらえ、「進歩派指導者の退廃と無能を露呈した茶番」と非難した。デモ隊の行動は政治的感覚などまったくない無責任な反発でしかないという。
 これ以降、江藤淳は安保闘争から手を引く。
 樺美智子が死亡した6月15日も、ニュースを見ながら「暗たんたる気持ち」でいたというから、もはや傍観者になっている。
 安保条約は6月19日に自然承認となり、23日に岸信介は辞任した。
 安保闘争での疲れから、江藤淳は3度目の喀血をする。幸い、これは新しい病巣の出現によるものでなく、数カ月の療養で回復するとされた。
 8月下旬、療養先の那須温泉から、江藤は埴谷雄高に私信を書いた。「朝日新聞」に掲載された「若い文学者に望むこと」と題する埴谷のエッセイについて、感想をつづったものである。
 埴谷が今回の安保闘争に、若い文学者たちが「個人的自由と生命をまもるために一市民として積極的に参加した点」を評価したのにたいして、江藤はやんわりとこう批判している。

〈埴谷さんは、あたかも「市民」が現実に存在しはじめたかのようにお書きになっている。これは私たちへの御好意ですが、実は、埴谷さんの「革命」がひとつの「虚体」であるように、「市民」もまたこの国ではまだまだ「虚体」です。「虚体」を実体にしようとする努力より、「虚体」が実体だと錯覚するものを権力の具にしようとする政治の力が圧倒的に強く、だからなおさら「虚体」でありつづけるというような悪循環がくりかえされています。〉

 この手紙のなかで、江藤ははっきりと「若い日本の会」から離脱することを埴谷に告げている。また全学連が、この社会の破壊をめざすカタリ派のような存在であり、埴谷こそこのカタリ派の教祖のような存在ではないかとさえ述べている。
 これで埴谷との決裂は決定的になった。
 はっきりいえば、安保闘争のなかで、江藤淳は「転向」したのである。これ以降、かれにとって「戦後知識人」は敵になる。その代表が丸山眞男と清水幾太郎だった。
 著者は、安保後の江藤が「江頭家の家庭環境から習得した、帝国海軍と銀行員の経済的リアリズムに戻ろうとするかの如くである」と指摘している。
 日本にとって、有用なのは「絶対平和」を求める知識人ではない。変転窮まりない国際世界のなかで、危険な綱渡りを強いられている実務的な「政治的人間」なのだ。安保後の江藤はそんなふうに思いはじめている。
 それを日本回帰と呼んでもいいだろう。目の当たりにしたハガティ事件のショックが、国家意識を覚醒させたのだ。
 江藤淳は国家なき市民よりも、日本国臣民の立場を選ぶ。埴谷雄高や大岡昇平との対立、小林秀雄への礼賛、三島由紀夫への接近はその延長上にある。
 興味深いことに、安保闘争においては、江藤淳と大江健三郎の立場は意外と近かった、と著者は指摘している。
 安保条約が露呈したのは、「日本がアメリカの支配下にあって、日本を動かすものが日本人の意志ではないという事実である」と、大江は述べていた。江藤の立場も基本的に変わらない。
 そして、その江藤にアメリカの影が迫ってくる。

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粛清と虐殺──『ポル・ポト』を読む(4) [われらの時代]

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 1975年4月20日、ポル・ポトは12年ぶりにプノンペンに帰ってきた。陥落から3日後のことである。その到着は秘密にされた。
 当初、その司令部は鉄道駅に置かれた。住民退去が進められている。ぜいたくな財産を捨てさせ、都市部の人間を農業生産に従事させることが、ひとつの目的だった。ブルジョワ的意識を根絶し、知識人は根本から鍛え直さなければならない、とポル・ポトは考えている。
 王宮内のシルバー・パゴダで開かれた会議では、農業生産の増加に重点をおくことが決められた。自由貿易は諸悪の根源であり、自給自足こそが目指されねばならない。商業などの非生産的活動は抑制すべきである。
 その方針は容赦なく実施された。著者はいう。「ポル・ポトは、難民らがのちに『壁のない牢獄』と呼んだ社会的および政治的な構造にカンボジアの国民を幽閉し、国民を文字通り奴隷化した」。「ポル・ポト政権下のカンボジア国民は、まさに奴隷のようにみずからの運命に関するすべての権限を奪われ」た。
 ポル・ポトがめざしたのは、アンコール朝の再現だったという。社会主義建設は戦争と同じと考えられていた。その戦いにおいては、これまでの特権的なエリート層は破壊されなければならない。怠慢なクメール人をはたらかせなければならない。アンカ(組織)の指令どおり、人民を配置し、動かす。これが革命政権の課題だった。
 6月、ポル・ポトはハノイに行き、ベトナムとの友好関係を確認する。5月にコンポンソムの沖合フーコック島の領有権をめぐって、ベトナムとの紛争が発生していた。それを解決することも目的だった。ポル・ポトはとりあえず引き下がる姿勢をみせた。
 ハノイ訪問を終えたあと、ポル・ポトは北京に向かい、毛沢東と会見した。毛沢東はポル・ポト政権の全面的支援を約束する。中国はカンボジアに大規模な経済援助、軍事援助をおこなう代わりに、カンボジアは中国に軍事基地を提供する。そういう取り決めが交わされた。
 ポル・ポトはさらに北朝鮮に向かい、金日成と会見して、経済援助の約束をとりつけた。中国から帰国したのは7月中旬のことである。
 ポル・ポトはプノンペンで統一集会を開き、3000人の兵士による軍事パレードをおこない、ソン・センを参謀長とする革命軍を創設することを発表した。
 名目上、カンボジアを統治するのは王国民族連合政府ということになっている。国王を元首とするが、いうまでもなく、実権はクメール・ルージュが握っている。シアヌークは金日成が平壌につくった豪邸で、帰国の日を待ちわびていた。だが、その役割は何も決まっていなかった。北京や平壌を訪れたポル・ポトもシアヌークを訪れていない。
 9月19日、ポル・ポトは中央委員会総会を開き、農業生産の割り当てを増やすと宣言、同時に通貨を廃止すると発表した。おカネがなくなれば、私有財産への誘惑もなくなり、賄賂もなくなり、敵分子の活動も抑えられるというのが、かれの理屈だった。
「貨幣は現在においても未来においても危険なものである」と、ポル・ポトはいう。こうして流通していた旧紙幣は回収され、倉庫に収められた。中国で印刷されて発行されるはずだった新紙幣は、ついに発行されることがなかった。
 人びとは食料増産のため、収容先の村から労働力の足りない地域へ移住させられた。しかし、その地域もすでに収穫が終わり、稲を植えつけるには時期が遅すぎた。飢餓が広がる。
 プノンペンはほとんど廃墟となり、ポル・ポト派が占拠していた。
 知識人の思想改造が進められている。キュー・サムファンはいう。「あの人もゼロ、あなたもゼロ──それが共産主義だ」。最終目標は「まったく人格をもたない」人間をつくること。
「自省と公共の場での懺悔を経て、やがてアンカ[組織]への忠誠、機敏さ、熟考しないことを具現化した新しい人間が生まれた」と、著者は評する。
 政治教育は餓え、睡眠不足、長時間労働のなかで実施された。カンプチア共産党の目標は、すべての人をアンカに忠実な「新たな共産主義者」に改造することだった。
 都会から村に送られた人びとには、厳しい労働と餓え、そして政治教育が待っていた。反抗的な人間は処罰され、夜ひそかに殺害された。しかし、人口の大部分は、革命にうまく順応して、生き延びようとしていた。
 シアヌークは9月9日にプノンペンに戻った。扱いは丁重だった。王宮はきれいに掃除され、食料やワインも豊富で、磁器や宝石などの貴重品も保管され、医師も待機していた。心地よい環境だったといえる。
 シアヌークは10月に国連総会で演説し、クメール・ルージュ政権を擁護した。それから、アフリカ、中東、ヨーロッパを回り、12月に帰国した。帰国したときは、すっかり雰囲気が変わっていた。王国民族連合政府は単に民族連合政府と呼ばれるようになっており、新たな憲法が起草されていた。
 1976年1月5日、シアヌークは閣議の議長として、「民主カンプチア」の憲法を公布した。
 シアヌークはその後、キュー・サムファンとともに地方を視察し、国民の窮状に接して衝撃を受けた。クメール・ルージュ政権に自分の名前を貸すことに懸念をいだきはじめたシアヌークは、3月10日に病気療養のため辞任したいと申し出て、それは4月2日に認められた。
 これによって、シアヌークはみずからをクメール・ルージュから切り離すことに成功する。新しい国家元首にはキュー・サムファンが就任する。ヌオン・チェアは国民議会の政権委員会委員長に、そして、ポル・ポトはしぶしぶ首相の座についた。
 ポル・ポト政権は貨幣の不使用、市場の禁止、人民の需要に応じた供給、町と田舎の格差の是正をうたい、これこそが社会主義革命の見本だと胸を張ってみせた。だが、カンボジアには議会も行政府も裁判所もなかった。カンプチア共産党常任委員会とその書記ポル・ポトこそが権力だった。
 革命以降、村々にはコミューンがつくられ、さらに数カ所の村をたばねるコミューンがもうけられるようになった。食事は共同調理場でつくり、共同でとるのが原則だった。食料はやっと食いつなげるほどしかなかった。
 狩猟や採集、釣りは個人主義だとして禁じられていた。それによって、さらに飢餓が蔓延する。アンカ(組織)の取り締まりにより、個人の自由な行動は禁止されていた。
 町には住宅があまっていたのに、優先されたのは間に合わせのバラック小屋の建設だった。水田の区画は一律の正方形にならされた。機械化は蔑視され、医師や教師、法律家、技術者も、ひたすら単純労働に駆り出されていた。
 クメール・ルージュがめざしたのは、軍事力の強化と灌漑ネットワークの拡大による食料増産だった。米があれば、戦争ができる! そんな無気味なスローガンも登場するほどだった。
 にもかかわらず、ポル・ポト政権時代に米の生産はまったく増えなかった。それどころか、国民は過重な労働と飢餓に苦しんでいた。このかん、飢えと病気で100万人が亡くなった、と著者は推測している。コミューンでの強制労働が、人びとの労働意欲をそぎ、生きる意欲さえ失わせていたのだ。にもかかわらず、ポル・ポトは問題は政治意識が欠落していることだと考えていた。
 1976年2月25日、アンコール・ワットを擁する北部の中心都市シェムリアップで爆発事件がおこった。反体制派の攻撃だった。4月にも、西部のチャム族が反乱をおこした。
 5月、タイ湾の島の領有をめぐるベトナムとの協議が物別れに終わった。ベトナムとの関係は急速に悪化しつつあった。
 カンプチア共産党内部では粛清がはじまっていた。ポル・ポトは党内にスパイがはいりこんでいるのではないかと疑っていた。
 9月9日、毛沢東が死亡する。9月20日、ポル・ポトは健康上の理由から首相を辞任すると発表した。後任にはヌオン・チェアが就任。しかし、ポル・ポトは権力を手放したわけではなかった。
 北京では政変がおこり、華国鋒が江青ら四人組を逮捕していた。11月、ポル・ポトは北京で華国鋒と会見し、軍事協力と政治的提携を確認した。
 12月、帰国したポル・ポトは中央委員会を招集し、ベトナムとの軍事紛争に備えるよう述べた。それからベトナム支持派とみられる人びとの逮捕がつづいた。
 プノンペンの政治犯収容所S-21、すなわちトゥールスレン収容所では76年に1400人以上が収容され、77年春までに1000人以上が殺害されていた。最終的にトゥールスレンでの殺害者は、1万5000人から2万人にのぼる。
 逮捕の理由はあきらかにされず、CIAであれKGBであれ、はたまたベトナムの組織であれ、スパイときめつけられたあとは処刑が待っていた。欧米人も例外ではなく、トゥールスレンでは十数人が殺害されている。
 1976年半ばから翌年半ばにかけ、全国で四、五千人の党幹部と数十万人が敵分子や背信者として殺害された。林のなかの殺害について、多くの生々しい証言が残されている。まさにキリング・フィールドである。
 1977年にはいっても、ベトナムとタイ、両国の国境で紛争がつづいていた。国境の村では、しばしばクメール・ルージュ軍が村人を虐殺している。国外に逃げようとするカンボジア難民も多かった。
 タイ湾の島の領有権問題はなかなか解決しなかった。そのため、ベトナムもカンボジアも国境を越えた爆撃をつづけた。
 紛争を解決するには、後ろ盾が必要だった。ベトナムは当初、中国をあてにしたが拒否された。そこでソ連をあてにせざるを得なかった。中国はやっかいと知りながらもカンボジアを支援しつづける。ベトナムはラオスと協定を結び、ラオス国境地帯にベトナム兵を駐留させる権利を獲得した。
 9月、東部のカンボジア軍が、とつぜん国境を越えて、ベトナムのタイニン地方に侵入し、恐怖の爪跡を残して去っていった。ベトナム側としては報復措置をとらざるをえない。
 そのころポル・ポトは北京を訪れ、華国鋒主席と会見し、ベトナムとの対決姿勢を鮮明にしている。これにたいし、華国鋒はあくまでも平和的解決をめざすべきだと述べた。
 ベトナムは板挟みにあっていた。何か措置をとらないわけにいかないが、へたをすると戦争になる可能性があった。レ・ズアンも北京に向かい、華国鋒と会見したが、中国側の理解は得られなかった。
 12月中旬、装甲車と大砲をしたがえた5万人のベトナム兵がカンボジアに侵攻する。12月31日、カンボジアはベトナムとの国交断絶を宣言。これによりベトナム軍のカンボジア侵攻が世界に知られることになった。ベトナムの国際的イメージが傷つくことを恐れたボー・グエン・ザップはすぐに軍を引き揚げることにした。もともと懲罰的な短期間の侵攻ですませるつもりでいたのだ。
 1978年1月から2月にかけ、ベトナム労働者党政治局はポル・ポト政権転覆に向けて段階的な措置をとることを決めた。
 中国との緊張感も高まっていた。ハノイ政府は100万人を超える南ベトナムの中国人にたいし、その個人事業を国有化すると発表、これにたいし中国はハノイへの経済援助停止と中国人技術者の引き揚げで応えた。財産を奪われた中国人のほとんどが国境を越えるか、ボートピープルになる道を選んだ。
 ベトナムはクメール難民の軍事訓練を開始し、クメール・レジスタンスの指導者として、クメール・ルージュの元司令官だったフン・センを選んだ。
 78年夏、中国共産党政治局はベトナム国境に中国軍を集結させた。ハノイにはソ連の兵器と軍事顧問団が到着する。
 いっぽう、ポル・ポトは外交攻勢にでて、各国との親善につとめていた。日本とも友好関係が結ばれた。だが、開放化、寛容化は表向きだけで、じっさいにはその背後で大規模な粛清がつづけられ、拘置所では数万人が撲殺されていた。「この体制は恐怖なしには存在できなかったのだ」と、著者はいう。
 対ベトナム戦時体制と浄化は対になっていた。ベトナム軍の侵入を許した東部の幹部と村民は北東部のベトナム国境沿いに送られ、そこで大量に地雷を敷設する作業に駆りだされていた。代わって、南西部から幹部と人が移動してくる。東部地区書記のソー・ピムは責任をとらされ、自殺に追いこまれていた。
 粛清と殺害はやむことがなかった。ひとつの粛正が次の粛清へとつながっていく。著者は「1978年のポル・ポトの粛清はカンボジアの血を絞りつくした」というが、そのとおりだろう。
 ベトナムとの緊張が高まると、ポル・ポト派はいったん疎遠になっていたシアヌークとの関係を修復し、かれを国家のシンボルに祭りあげようとした。
 1978年9月末、ポル・ポトはひそかに北京で鄧小平と面会し、ベトナムが仕掛けてきた場合に備えて、長期ゲリラ戦の態勢をとることを表明し、中国の軍事援助を要請した。中国はカンボジアにできるかぎりの軍事援助を与えることを約束したが、戦争自体はカンボジアの責任でおこなうよう釘を差した。
 同じころ、ベトナムのレ・ドク・トは、乾期にカンボジアに侵攻する計画を立てていた。ヘン・サムリンを中心とするカンボジア・レジスタンス運動の準備も着々と進められている。
 1978年11月、カンプチア共産党の党大会が開かれた。だが、大会当日も軍の幹部が逮捕されたりして、ポル・ポト政権の内部はだれもが疑心暗鬼になっていた。
 12月2日、ベトナムに支援されたヘン・サムリンの部隊は、すでにカンボジア国境内にいた。クリスマス当日、ベトナム軍はラオスから南下し、カンボジア北東部一帯を占拠する。翌1979年1月1日、こんどは6万人を越すベトナム軍の主力部隊が、激しい空爆と砲撃ののち、プノンペンに進軍した。
 コンポンチャムが陥落間近になったとき、ポル・ポトは部下にシアヌークを車に乗せて、タイに逃れ、それから北京に向かうよう指示した。だが、1月4日にベトナム軍の攻撃がいったんやむと、シアヌークはプノンペンに戻り、ポル・ポトと会った。そのときもポル・ポトは勝利を確信していたという。
 だが、前線の防衛に失敗し、ベトナム軍がプノンペンに近づいてくると、ポル・ポトもプノンペンの放棄を決断せざるを得なかった。シアヌークは飛行機で北京に向かった。ポル・ポトをはじめ、ヌオン・チェア、キュー・サムファン、イエン・サリなど、クメール・ルージュの幹部たちは、1月7日までに高級車やジープ、列車に乗って、ひそかにプノンペンを脱出した。
 国民はベトナム軍の動きについて、ほとんど何も知らされていなかった。
 ポル・ポトとヌオン・チェアは北西部のバッタンバンに逃げ、そこでイエン・サリと会って、今後のレジスタンス計画を話しあった。イエン・サリはバンコック経由で北京に行き、鄧小平やシアヌークと会った。
 その後、シアヌークは国連総会で、ベトナムの侵攻を非難、安保理事会は多数決でベトナムを糾弾した。だが、シアヌークはもうポル・ポト派につくつもりはなく、北京にとどまることにした。
 ベトナム軍がタイの国境近くまで進出してきたため、タイ政府は中国、アメリカと並んで、反ベトナム陣営に加わり、引きつづき民主カンプチアを支持することになった。ポル・ポト派はタイ国境に近い西部のパイリン、さらに南のタサンに拠点を移した。
 1979年2月17日、激しい砲撃のあと、8万5000人の中国軍がベトナムに侵攻する。中越戦争がはじまったのだ。中国軍はベトナム領内に24キロ侵攻、1カ月後に撤退したときには、ベトナム側に1万人の戦死者がでていた。
 だが、ベトナム軍をカンボジアから徹底させるというもくろみは完全に失敗する。ベトナム軍から攻撃を受けたポル・ポト派は解放区を広げるどころか、むしろタサンの基地を捨てて、タイに逃げださねばならないほどだった。ポル・ポト派の部隊はほぼ壊滅状態になっていた。
 クメール・ルージュの悪政から人々を解放するために人道的に介入したというのが、ベトナムの主張だった。1月にはヘン・サムリン政権が誕生していたものの、ベトナム軍がカンボジアで歓迎されていたわけではなかった。
 その夏、カンボジアでは飢饉が発生し、2カ月で50万人もの難民がタイに流れこんだ。クメール・ルージュの部隊はふたたび国境を越え、カンボジア北西部に基地を建設しはじめる。
 11月の国連総会は、ベトナムが支援するヘン・サムリン政権を承認せず、民主カンプチアの代表団に議席を与えた。クメール・ルージュのゲリラ活動がさかんになる。ポル・ポト自身も国境の山地にある基地に戻った。これまでの急進的政策などどこふく風、いまやベトナムを追いだすことを大義としてかかげていた。
 ポル・ポト派はこのとき平壌にいたシアヌークを国家元首とする新たな統一戦線を樹立しようとしていた。カンボジア王室を復興させたいのなら、シアヌークは嫌いな共産主義者と手を組むしかなかった。
 1981年8月、ポル・ポトは北京に向かい、鄧小平、趙紫陽と会見する。2週間後の9月4日、シアヌークとソン・サン[王制下時代の首相]、キュー・サムファンはシンガポールで会合を開き、連合政府を設立しベトナムからカンボジアを解放するとの共同声明を発表した。これを受けて、12月にカンプチア共産党は解散した。これまでの悪夢は歴史のなかに葬り去られた。
 しかし、カンプチア共産党が解散しても、ポル・ポトによる独裁的な支配体制は変わらなかった。軍事組織としてのクメール・ルージュは維持されていたからだ。
 1982年6月、クアラルンプールで、シアヌークを元首とする民主カンプチア連合政府の結成が宣言された。キュー・サムファンは外交を担当する副首相となった。イエン・サリははずされ、しだいにその影響力を失っていった。
 中国はクメール・ルージュを軍事的に援助し、アメリカは連合政府を支援していた。カンボジアの抵抗勢力は力を強め、ヘン・サムリン支配地域の治安は悪化していく。
 1983年、ポル・ポトはバンコックで健康診断を受け、ホジキン病にかかっていることが判明した。まもなく60歳になろうとしていた。
 1984年夏、ポル・ポトは再婚し、やがて子どもをもうける。だが、その12月に、ベトナム軍が最大級の乾期攻撃を開始すると、ポル・ポトは基地を捨てて、タイに脱出せざるをえなかった。
1985年、ポル・ポトは北京で療養生活にはいった。
 同じ年、ベトナムはヘン・サムリン政権の外相で、元クメール・ルージュの司令官補佐だった34歳のフン・センをカンボジアの新首相に立てた。
 1988年夏にポル・ポトが中国から戻ったときには、すでにカンボジア和平会談がまとまろうとしていた。
 その後は1989年9月にベトナム軍がカンボジアから撤退し、1991年10月にパリでカンボジア和平の最終合意がまとまり、翌92年国連カンボジア暫定機構が発足し、93年4月から6月にかけ総選挙がおこなわれ、9月にカンボジア制憲議会が開かれ、立憲君主制が採用されて、シアヌークが国王になるという方向に歴史が動いていく。
 クメール・ルージュは最後まで戦った。西部のパイリンから北に伸びる国境沿いを占拠しつづけていたのだ。森のなかには、ポル・ポトの質素な住まいがつくられていた。
 パリ協定が結ばれたあとも、クメール・ルージュは武装解除しなかった。総選挙はボイコットした。この時点で、ポル・ポト派はタイ国境沿いにカンボジア領土のおよそ5分の1を掌握していた。
選挙後、王室政府はポル・ポト派を総攻撃するが、うまくいかない。いったんタイに逃れたゲリラ部隊はすぐ戻ってきた。
 1994年、ポル・ポトは70歳になろうとしていた。心疾患をかかえ、視力も低下し、左下半身が麻痺していた。ただし、いつもにこやかな表情とは裏腹に、性格はけっして柔和にならなかった。裏切り者には処刑も辞さなかった。
 しかし、このころクメール・ルージュのなかからも王室政府に寝返るグループもでてくる。1996年8月にはイエン・サリも離脱する。クメール・ルージュはほとんどの領土を失った。ヌオン・チェアとソン・センも南部の基地を失った責任をとらされ、職務を剥奪されていた。
 王室政府はふたりの首相、フン・センとラナリット(シアヌークの息子)の対立が激しくなり、ラナリットはクメール・ルージュと組もうとする。ただし、その条件はポル・ポトを排除することだった。
 1997年6月、ポル・ポトは自分を裏切ったソン・センとその家族を処刑した。これを知った副書記のモクはポル・ポト逮捕に動く。タイ国境を越え、ハンモックで運ばれていたポル・ポトはタイ軍によって拘束され、クメール・ルージュ側に引き渡された。それから1年間、ポル・ポトは小さな小屋に軟禁されることになる。
 この年7月5日にフン・センは軍事クーデターをおこし、ラナリットは亡命する。7月末、ポル・ポトはタイ国境に近い場所で開かれたクメール・ルージュの大衆集会で、終身刑を宣告された。謝ることは何もない、とポル・ポトは語った。
 1998年4月15日、政府軍の砲撃が近づくなか、ポル・ポトは心不全で死亡する。自殺や毒殺の説もあるが、真相はわからない。こうしてクメール・ルージュの時代が終わった。
 だが、その爪痕はいまもカンボジアのあちこちに残されている。

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ロン・ノルのクーデターと革命のはじまり──『ポル・ポト』を読む(3) [われらの時代]

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 1970年3月9日、プノンペンではベトコンのカンボジア撤退を求める学生デモがおこなわれた。2日後、群衆が南ベトナム暫定革命政府と北ベトナムの大使館に押しかけ、破壊と略奪のかぎりをつくした。この行動は、首相のロン・ノルが仕掛けたものだった。このときパリにいたシアヌークは、こうした事態をいかんに思うとの声明を出した。
 シアヌークはすぐに帰国せず、予定どおりモスクワを訪問した。3月18日、カンボジアの王国評議会はシアヌークの国家元首職を解くことを決議。シアヌークは訪問先、ソ連のコスイギン首相からカンボジアでクーデターがおこったことを知らされる。ロン・ノルをけしかけたのは、外相でシアヌークのいとこにあたる王族シリク・マタクだった。クーデターが発生したとき、サロト・サル(ポル・ポト)も中国にいた。
 3月19日、シアヌークは北京に到着した。闘うか、引退するか。シアヌークは闘うことを決意し、クーデター非難の声明を発表する。周恩来はすぐにカンボジアに戻るというシアヌークを押しとどめた。
 3月22日、北ベトナムのファン・バン・ドン首相が北京にやってきて、シアヌークと会見し、カンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュと協力するよう求めた。シアヌークはあいまいにしか返答しなかったが、クメール・ルージュとの共闘は否定しなかった。ファン・バン・ドンはサロト・サルとも会い、シアヌークの意向を伝えた。
 3月23日、シアヌークはカンプチア統一戦線を立ち上げる。その文案は周恩来とサロト・サルが訂正したものだが、このときシアヌークはサロト・サルが北京にいることを知らなかった。声明はロン・ノル政権への抵抗と不服従を呼びかけていた。ここにサロト・サル、すなわちポル・ポトの名前はいっさいでていない。
 4月はじめ、サロト・サルは北京から空路でハノイに戻り、ベトナム労働者党の幹部と会った。ベトナム側はクメール・ルージュに5000丁のライフルを提供することを約束した。その代わり、指揮権の統合を求めてきた。サロト・サルはそれはむしろクメール人に悪印象を与えると反論し、レ・ズアンもそれを認め、指揮権統合の主張を撤回した。
 だが、カンボジア領内のベトコンは、独自にロン・ノル軍にたいする攻撃を開始し、これにたいし、ロン・ノルを支持するアメリカはカンボジアに侵攻した。アメリカ国内の反発を受けて、それは中途半端な侵攻で終わった。だが、アメリカはその後もメニューどおり、カンボジアへの空爆をつづけた。その結果、ベトコンがかえってカンボジア全域に散らばることになった。
 サロト・サルはジレンマに陥っていた。クメール・ルージュのゲリラは二、三千人にすぎない。これにたいし、カンボジア国内のベトコンは、その20倍はいる。このままでは、カンボジアがベトコンに支配されてしまう。著者にいわせれば「[カンボジアの]共産主義者にとっての脅威は敵ではなく友であり、反対者ではなく見方だった」。
 ロン・ノルのクーデターは、内戦を引き起こした。ロン・ノルはシアヌークの地位を奪うことによって、事実上、王制の廃止を宣言していた。だが、農民にとって、クーデターは王制への冒涜行為だった。ベトコンが農民をあおった。政府軍による弾圧は残虐きわまりないものとなった。メコン川には何百人もの死体が浮かんだ。
 ロン・ノルは「ブッダの敵」である共産主義者、そして、その存在自体、共産主義者であるベトナム人との戦いを宣言した。カンボジアでくらしていた25万人のベトナム人は祖国に追放されることになり、追放をまつあいだ強制収容所にいれられた。
 いっぽうベトコンを掃討するため、ロン・ノルはアメリカと南ベトナム政府に支援を要請、やってきた南ベトナム兵はさらに残虐で、女性を強姦し、村を破壊しつくした。村を奪われた人びとはクメール・ルージュに結集することになる。
 1970年夏、サロト・サルはカンボジア国境にほど近いラオス山中の司令部を出て、カンボジア中部の暫定キャンプに下りてきた。そこはクラチエ州とコンポントム州の境だった。ここでサロト・サルは、カンプチア共産党中央委員会の拡大総会を開き、独立統治の方針を打ちだす。イエン・サリが外交担当の責任者となった。このころから、サロト・サルはみずからをポル・ポトと名乗るようになる。
 ロン・ノルは本人不在のままシアヌークに死刑判決を下した。そして、10月9日に、千年にわたるカンボジア王国を廃止し、カンボジア改めクメール共和国の設立を宣言した。その背後にはアメリカがいる。
 1970年代前半、カンボジアでは5つ、いや6つの勢力が、たがいに攻撃したり連携したりしながら争っていた。すなわち、クメール・ルージュ、ベトコン、北京のシアヌーク、ロン・ノル、地上軍の南ベトナム兵、そしてアメリカ軍である。
 アメリカはB52による空爆を強化していた。

〈アメリカはベトナム戦争中に、第2次世界大戦で各国が使用した爆弾の3倍をインドシナに投じた。カンボジアに落とされた爆弾の総量は、原爆を含め日本に落とされた爆弾の3倍だ。……農民たちは、わけもわからずに恐怖におちいった。「人々はすっかり怯え、おし黙ってさまよった。3、4日は口もきかなかった」と、ある村人は語る。〉

 農民たちは村をでて、都市部に逃れた。1970年の時点で65万人だったプノンペンの人口は75年には250万に達した。そして、家を破壊された農民の多くがクメール・ルージュに加わった。
 クメール・ルージュの部隊は寄せ集めで、ろくな訓練を受けていなかった。1970年から71年にかけて戦闘を主導したのはベトコンの部隊である。共産主義勢力は、カンボジアの東半分と西の一部根拠地を占拠するまでになっていた。
 ロン・ノル軍はようやく中部の都市コンポントムを奪還した。ロン・ノルを支えているのは、わずかな兵力とアメリカの空爆、それに1万人ほどの南ベトナム兵だけだ。地上支援をともなわない空爆に大きな効果は期待できなかった。そのころアメリカはインドシナの泥沼からいかに脱出するかを考えていた。
 ポル・ポトは中部の秘密基地を転々としながら、パリでアメリカ・北ベトナムの和平協定が成立したあとのことを考えていた。政権を握るためには、クメール・ルージュの軍事力を高め、ベトコン勢力には段階的に引き揚げてもらわねばならない。
 カンプチア共産党は1971年に中央委員会を開き、カンボジア全土を掌握するための軍事的・非軍事的組織の構想をつくりあげた。7月と8月には200人を対象に研修会が開かれた。このころポル・ポトを補佐していたのはヌオン・チュアである。キュー・サムファンも中央委員会に名前をつらねている。
 1972年はじめ、ポル・ポトは3カ月にわたる解放区視察に出向いた。プノンペンの北50キロの地点も訪れている。視察から戻ったポル・ポトは5月に中央委員会を開き、党員にプロレタリア的姿勢を強化するよう求め、準備が整い次第、農業の集団化と民間商業の抑制にとりかかるよう指示した。
 そのころクメール・ルージュの兵力は3万5000に達し、それを支えるゲリラもおよそ10万人に達していた。ベトコンが撤退してもなんとかやっていけそうだった。中国からは毎年500万ドルの支援があった。
 解放区にはすでに200万人のカンボジア人が暮らしている。クメール・ルージュは模範的なほど親切で、民衆の生活はおだやかだった。とはいえ、その暮らしは都会のエリートには想像できないほど貧しかった。
 カンプチア共産党内では批判と自己批判、内省と学習、労働が求められた。それは仏教の修行、いや共産主義の修行のようなものだった、と著者は評している。その目的はアンカ(組織)に身を捧げることだ。
 1972年にはベトコンの主力部隊がカンボジアから撤退しはじめていた。サイゴン侵攻が近づいていた。それにともない、クメール・ルージュが解放区の主要勢力となった。ホーチミン・ルートを通って帰還したクメール・ベトミン(ベトナムで軍事訓練されたクメール人)は第五列(スパイ)予備軍とみなされ、単純労働に回されるようになる。
 1972年2月に、ニクソン・アメリカ大統領が中国を電撃訪問した。その年の半ばから、過去4年間パリでおこなわれてきたアメリカ、北ベトナムの和平交渉が急速に進展しはじめる。ポル・ポトはその交渉がカンボジアに与える影響を注意深く見守っていた。
 北京のシアヌークは相変わらず豪勢な生活を送っている。シアヌークはキュー・サムファンが「カンプチア民族解放勢力最高司令官」だと思いこんでいた。このころイエン・サリも、クメール・ルージュ代表として、北京に滞在し、中国の指導部と接触していた。だが、いかにも王侯然としたシアヌークとの関係はうまく行っていない。
 シアヌークとクメール・ルージュは同床異夢の関係にある。和平協定が結ばれれば、シアヌークは第三勢力政府の長としてプノンペンに帰還するつもりだった。だが、ポル・ポト派はあくまでも戦って、共産主義カンボジアを築くことが目標だった。それでも、当面はうまくシアヌークを利用しようとした。
 1973年1月27日、パリでベトナム和平協定が調印された。シアヌークはイエン・サリとともにひそかにカンボジアに戻り、解放区のジャングルで王国民族連合政府のために戦うと宣言した。このとき、ポル・ポトは表に顔をださない。ベトナムのレ・ズアンとの会見にも病気と称して、応じなかった。
 シアヌークにジャングル生活は似合わない。すぐに北京の豪邸に帰っている。
 和平協定調印のあと、アメリカは2月9日にカンボジアへの爆撃を再開した。ベトナムはともかく、カンボジアではあくまでもロン・ノル政権を支える姿勢を示したのだ。クメール・ルージュは解放区の農民を村からジャングルや山岳地帯に移住させ、農作業にあたらせた。
 5月、ポル・ポトは農民が作物を自由に売ることを禁止し、集団農業計画にしたがうよう命じた。多くの農民が解放区から逃亡した。
「カンプチア共産党は、初期のキリスト教徒が苦難を受けいれることを促されたように、党員に『苦しみと困難』を儀式的に受けいれることを課した」という。クメール・ルージュが残虐さをいとわなくなったのは1973年以降だ、と著者は記している。
 パリ協定以降も、ポル・ポトは停戦交渉を拒否していた。いっぽう協定にしばられたベトナムは、直接カンボジアに手出しできなくなった。アメリカの空爆で、メコン川の土手は月のクレーターのようになった。ベトナムはしぶしぶながら、ホーチミン・ルートで、クメール・ルージュに武器を提供しつづけている。こうして、ベトナムの影響を脱したクメール・ルージュは、カンボジアの3分の2を掌握し、人口のほぼ半分を管理下におくことになった。
 73年秋、ポル・ポトはプノンペン北東50キロのチュロク・スデク前線基地にはいった。ここでクメール・ルージュ軍を指揮していたのは、パリ時代からの盟友ソン・センだ。ポル・ポトは翌年の総攻撃に備えること、警備を固めてスパイの侵入を防ぐよう命じる。スパイの嫌疑をかけられた人びとには収容所送りの運命が待っていた。
 冬、中部の基地に戻ったポル・ポトは幹部のヌオン・チェアやイエン・サリと協議を重ね、総攻撃の段取りを練った。
 1974年3月3日、プノンペンの北30キロにある旧都ウドンへの攻撃が開始される。3週間にわたる包囲攻撃ののち、ウドンは陥落し、政府軍兵士と民間人数千人が殺戮された。
 7月にはカンボジア全土掌握の可能性が高まっていた。ポル・ポトはコンポンチャムの北にある中部のメアク村で年次総会を開き、アンカ(組織)の政治目標として社会主義をかかげた。都市の商業は禁止されねばならない。そのためには都市の住民排除も辞さない。政府発行の紙幣は廃止し、時期を待ってクメール・ルージュの新紙幣を導入する。党の結束を強化し、革命反対派は全面的に処断する。こうしたことが決定された。
 ロン・ノル政府は追い詰められていた。12月初旬、ポル・ポトはウドン近くの前線基地で会合を開き、翌1975年1月にプノンペン攻略を開始することを決めた。1月はじめ、プノンペンは3万人の歩兵によって包囲された。105ミリ榴弾砲と中国製ロケット砲が街に打ちこまれた。
 ベトナム軍がサイゴンを落とすのが早いか、それともクメール・ルージュがプノンペンを落とすのが早いか。両者のあいだで不思議な暗黙の競争がはじまっていた。
 4月1日、ロン・ノルは退陣し、アメリカのハワイに亡命する。10日、アメリカ大使館関係者がタイに脱出。16日、クメール・ルージュがプノンペンを占拠した。サイゴンが陥落するのは4月30日のことである。
 ポル・ポト派が勝利を収めたのは、表向きシアヌークを抵抗組織の長に据えたことが大きい、と著者は書いている。しかも、カンプチア統一戦線の綱領には、個人、宗教の自由、政敵への寛容さ、国民和解、土地・財産の不可侵が掲げられていた。
 プノンペンにはいってきたクメール・ルージュの兵士たちは歓呼の声で迎えられた。しかし、黒服の若者たちの表情に笑みはなく、むしろ怒りがあふれていた、と著者はいう。兵士の多くは極貧の村の出身で、都市生活をみたのははじめてで、その多くが10代で、なかには12歳か13歳の子どももいたという。
 クメール・ルージュが最初におこなったのは、旧ロン・ノル政権の政治家、高官、警察官、軍人の逮捕と処刑だった。たちまち800人ほどが殺害され、無造作に道路沿いの共同墓地に投げこまれた。
 つづいて、兵士たちは一軒一軒民家を訪れ、アメリカの空爆があるから、すぐに退去するよう住民に命じた。待避場所も輸送手段も食べ物も医療ケアもないのに、250万人が首都からの即刻退去を命じられたのだ。ひどい話である。老人も病人も容赦なかった。兵士たちによる空き家の捜索と略奪もはじまっていた。
 検問所では、治安維持のために必要だから軍人や警官、政府職員は名乗りでるよう求められ、正直に名乗りでた人びとは連行されて、殺害された。その数は正確にはわからない。
 プノンペンから退去する途中、病気などで、およそ2万人が命を落とした、と著者は推測している。だが、おそらく2万人どころではないだろう。
 殺戮がおこなわれたのはプノンペンだけではない。占領されたほかの都市でも、旧ロン・ノル政権の役人や将校が、見つかり次第、たちどころに殺害されている。
 富裕層の多くは、アンカ(組織)によって財産を奪われた。車や台所用具、テレビ、ラジオ、ソファ、冷蔵庫、ミシン、テープレコーダー、カメラ、腕時計、ピアノなどすべてである。お金も価値を失った。古い通貨は廃止され、食料などを手に入れるには物々交換するほかなかった。
 故郷の村に帰った人びとは、短い略歴を書くよう求められ、知識人だとみなされると苛酷な運命が待っていた。大学で学んだ者は全員再教育を命じられ、15カ月におよぶ肉体労働を経験させられた。
 クメール・ルージュの統治は、都市住民の強制退去からはじまった。「国民全体の地方への移住、かつての政敵の殺害、敵意を持っていると思われる人間の矯正あるいは排除」が、その政策のパターンだったという。
 そのほとんどが10代で、無知かつ粗暴なポル・ポト派兵士たちは、そのパターンにしたがって行動した。こうしてカンボジア革命は、残酷で容赦ないものとなった。
 クメール・ルージュによる統治は3年8カ月にわたってつづく。

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一斉蜂起はじまる──『ポル・ポト』を読む(2) [われらの時代]

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 1953年1月にサロト・サル(ポル・ポト)がフランスから帰国したとき、カンボジアではシアヌークの政府と右派のイサラク(ソン・ゴク・タン派)、左派のベトミン(ソン・ゴク・ミン派)とのあいだで残忍な戦闘がはじまっていた。フランスが政府側を支援していたのはいうまでもない。
 フランス留学中の革命グループの指示で、祖国の状況を探るため帰国したサルは、イサラク、ベトミンのどちらにつくとも決めていない。しばらくは、王のいとこにあたるチャンタランセイ王子のもとに身を寄せている。王子は独自の独立運動を推し進めようとしていた。
 そのころ気まぐれなシアヌークは、フランスとアメリカを訪問し、カンボジアが独立すれば、共産主義に対抗できる国になると説いたが、まるで相手にされず、憤慨したまま帰国していた。
 帰国したシアヌークは、それならといわんばかりに右派のイサラクを取りこんで、自己の勢力を広げたうえで、フランスの脱植民地気分につけこんで、フランスが軍事力を手放すよう仕向ける。こうしてシアヌークは1953年11月9日についに念願の完全独立を宣言する。カンボジアにとっては、ほぼ1世紀ぶりの独立回復だった。
 サロト・サルがプノンペンを出て、ベトミンの解放区に向かったのは、独立宣言が出る前の8月だった。ベトミンの拠点はプノンペンの東、南ベトナムにほど近いクラバオという村に置かれていた。カンボジア人は少数で、ほとんどがベトナム人でベトナム語が話されていた。
 クメール人はあきらかに下っ端として扱われていた。だが、ここでサルト・サルは、プロパガンダを吹きこんで民衆を動かし、村を制圧するやり方を学んでいく。
 シアヌークが独立を宣言すると、インドシナ統一をめざすベトミンはそれに反発し、南部での戦闘が激しくなった。ベトナムの参謀ボー・グエン・ザップが北東部に攻撃を仕掛けてくるといううわさもあったが、実際にはかれは1954年5月のディエンビエンフーの戦いの準備に忙殺されていた。
 それでも表向きクメール抵抗組織を称しているベトミンの勢いは止まらなかった。寄せ集めのシアヌーク軍は士気を欠いていた。だが、7月のジュネーブ国際会議でインドシナ3国の休戦協定が結ばれると、クメール・ベトナム軍部隊はカンボジアでの戦闘を中止し、ベトナムに戻ることになった。その指導者、ソン・ゴク・ミンも北ベトナムの山岳地帯に向かった。
 サロト・サルはどうしたのだろうか。かれはプノンペンに戻ってきた。合法活動を担当し、民主党に潜入するよう指示されていたのだ。休戦協定のあとも、腐敗したシアヌークの王制は不安定なままだった。
カンボジアでは1955年に選挙がおこなわれことになっていた。サルは王制批判を強める民主党幹部のひとりケン・バンサクに接近し、民主党の政策づくりにかかわる。
シアヌークは王制が守られるかぎり、あえて反共にこだわらない中立路線をとると表明し、アメリカのアイゼンハワー大統領を激怒させていた。サルはもっと強い反米政策を取るべきだと主張していたものの、民主党内の意見はばらばらで混乱していた。それでも民主党への期待は大きく、選挙で民主党が圧勝するのはまちがいないと思われた。
 ところが、ここでシアヌークは驚くべき行動をとる。とつぜん退位を宣言するのだ。代わって父のスラマリットが王位についた。4月に予定されていた選挙は延期になった。
野に下ったシアヌークは政党「社会主義人民共同体」(略称サンクム)を組織し、みずから選挙に打って出る。警察はあからさまな選挙干渉をおこない、民主党のケン・バンサクも逮捕され、選挙結果はサンクムの完全勝利となった。民主党からはひとりの議員も選出されなかった。
 シアヌークというのは不思議な人物だ。独立志向が強く、帝国主義や植民地主義には猛烈に反対する。そのくせ、カンボジアは文字どおり自分の国だと思っている。人びとが王(つまり自分)を敬愛し、王のもとで互いに助けあってくらす国をつくりたいと考えていた。
 その後、シアヌークのカンボジアはアメリカの軍事機構SEATOには参加せず、非同盟運動の側に加わる。そのため、ベトミンはシアヌーク体制を直接攻撃しないよう、カンボジアの共産主義者に指示した。
カンボジア国内では政党活動や言論活動は認められなかった。国内の共産主義勢力には警察の弾圧が加えられていた。サロト・サルはイエン・サリの妻の姉、キュー・ポナリーと結婚、表向きは私立学校の教師としてふつうに暮らしながら、地下活動に従事するようになる。
 そのころ、カンボジアの共産主義グループを指導していたのは、元仏教伝道師のトゥー・サムート、ヌオン・チェア、サロト・サルなどである。1957年にはイエン・サリがフランスから帰ってきた。
ベトナム労働者党はカンボジアにベトナム南部司令局(COSVN)をつくっていたが、ベトナムのことで精一杯で、カンボジアの運動にまで手がまわらなかった。
 こうしてカンボジアの共産主義者は「兄」であるベトナムの手を離れて、次第に独自の活動をするようになる。そもそもあいまいな存在でしかなかったクメール人民革命党に代わり、あらたな党をつくろうという気運が生まれようとしていた。
 いっぽうのシアヌークはあらゆる政治的な動きに目を光らせていた。自分への反対派は容赦なく政府から追放した。保安相のダプ・チュオンはクーデターをくわだてたとして公開銃殺刑に処された。こうした弾圧の指揮をとったのが、軍参謀長のロン・ノルだ。
 1958年にシアヌークはふたたび選挙を実施する。自身の党サンクムを中心にリベラルな左派を取りこみ、みずからの支持基盤を拡大するのが目的だった。だが、ベトミンや共産主義者を認めるつもりはなかった。秘密警察の取り締まりのあと、容赦ない死刑判決がつづいた。
 1960年4月に父親のスラマリット国王が死去すると、シアヌークは憲法を改正し、みずからを生涯にわたる国家元首と定めた。
 そのころキュー・サムファンはシアヌークの政党サンクムに加わりながら、フランス語新聞『オブザバトワール』を発行していた。シアヌークをほめそやしがら、政府の政策を批判するこの新聞を、シアヌークはさまざまな騒ぎをおこしているとして休刊とした。
 クメール人民党に代わる組織としてカンプチア労働者党が結成されるのもこのころである。それはベトナム人に頼らないクメール人だけの組織だった。綱領には、独立した国家主権をもつカンボジア国家をつくると明記されていた。それはインドシナ連邦を設立するというベトナムの意向とは明らかにくいちがっていた。
 1962年7月、カンプチア労働者党の指導者トゥー・サムートが秘密警察につかまり、暗殺される。ナンバー2のヌオン・チュアには金銭着服の容疑がかかっていた。そこで、ナンバー3のサロト・サル(ポル・ポト)が急遽、臨時の書記に浮上する。1963年2月の党大会で、サルは正式の書記として承認された。
 著者によれば、シアヌークのいつものパターンは、中国を訪問したときには「共産国家をほめたたえ」、帰国してからは「自国に共産主義の入りこむ場所がないこと」を国民に思い知らせることだったという。
 1963年3月、3週間の中国訪問から戻ってきたシアヌークはさっそく共産主義者の取り締まりをはじめた。このとき、サロト・サルやイエン・サリ、ソン・センはプノンペンを離れ、カンボジア国境に近い南ベトナムのベトコン野営地に逃げている。
 ベトナムの基地での生活はみじめだった。クメール人の動きはベトコンによって厳しく管理されていた。しかし、カンプチア労働者党はここでひそかに中央委員会を開き、シアヌーク政権打倒とカンボジア自立に向けての武装闘争路線を決定する。
 革命の基盤は貧しい農民階級におかれた。農民にプロレタリア的意識を注入しなければならない。それにもとづいて、平等主義的な共産主義社会を築くことが目標としてかかげられた。
 1963年4月に中国の劉少奇主席がカンボジアを訪れ、中国とカンボジアの友好関係がさらに深まる。しかし、奇妙なことに、カンボジアでは「外国の左翼政権との友好関係が深まるにつれて国内の右翼勢力への依存はますます強まっていった」という。共産主義者だとわかれば、ロン・ノルの警察は裁判なしでかれらを射殺することができた。
 クメール語で「統治」とは「国をくいつぶすこと」を意味するという。シアヌーク政権は腐敗していた。都会では、仕事につけない知識層や学生がひそかにアンカ(革命組織)を支持する傾向が強まっていた。
 1963年11月、南ベトナムではCIA(アメリカ中央情報局)の工作によるクーデターが発生し、ゴ・ディン・ジエム首相が暗殺された。中立政策をとるカンボジアとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1965年5月には国交断絶にいたる。シアヌーク政権は相変わらず対外的には親中、国内的には反共という綱渡りの中立政策をもてあそんでいる。
 1965年4月、サロト・サルはホーチミン・ルートをたどり、2カ月半かけてハノイに到着し、ベトナム労働者党総書記のレ・ズアンと会見した。
 レ・ズアンはカンボジアでの武装蜂起に反対し、北ベトナムと友好関係にあるシアヌークに手をだすなと主張した。いまは南ベトナムで勝利することが最大の目的であり、カンボジアの革命はそのあとだ、とも述べた。
 サロト・サルは失望し、ベトナムに不信感をいだいた。ハノイでは元クメール人民党の指導者、ソン・ゴク・ミンとも会った。サルは表面上にこやかな笑みでかれと接したものの、ひそかな敵意を覚えていた。
 12月末、サロト・サルは北京に到着し、ここでひと月とどまった。鄧小平らと会ったものの、毛沢東や周恩来には会えなかった。文化大革命がはじまろうとしていた。中国はシアヌークを支持するいっぽうで、サロト・サルにも秋波を送った。
 ふたたびハノイでレ・ズアンと面会したあと、サロト・サルはホーチミン・ルートでラオスを経由し、1966年6月に国境地帯の根拠地に戻った。10月の総会では、党名をカンプチア共産党と党名を変えることが決まった。本部もカンボジア北東部のラタナキリ州に移すことにした。ベトナムの監視から逃れることが最大の目的だった。
 1966年夏の選挙をへて、議会は右派のロン・ノルを首相に選んだ。カンプチア共産党は、シアヌークがロン・ノルを承認したことに反発し、武装闘争の方向性を固める。
 1967年2月、政府による強制的な米の買い上げに憤った民衆が、タイ国境にちかい北西部のパイリンで暴動をおこした。暴動は同じくバッタンバン州のサムロットにも広がり、収束まで数カ月を要した。政府の襲撃で、何百人もの命が失われた。
 このころキュー・サムファンやフー・ユオンはプノンペンを脱出し、北東部の根拠地に身を隠した。暴動の責任をとって、ロン・ノルは辞任し、シアヌークがまたも首相に就任した。しかし、弾圧はますます強まるいっぽうだった。
 1967年夏、サロト・サルはこの冬に全国で一斉武装蜂起をおこす方針を固めた。ベトナム側はそれを支持せず、武器の支援をおこなわなかった。とはいえ、ベトナム労働者党はカンプチア共産党と対立するわけにはいかなかった。
 カンプチア共産党が本部を置いたカンボジア北東部のラタナキリ州は少数民族の地だったが、その拠点はイエン・サリが管理していた。
 サロト・サル自身は11月まで準備のため南の国境地帯にいた。それからラタナキリに移動したが、途中マラリアにかかり、担架で本部に運ばれるありさまだった。だが、この辺境の地で、蜂起の計画は完成した。
 1968年1月18日、北西部バッタンバン州で軍駐屯地急襲を皮切りに蜂起がはじまる。北東部のラタナキリ州でも、武装した少数民族の一団が軍事輸送車を襲った。北部や南西部でも火の手があがった。
 シアヌークは内戦がはじまっていると感じた。そこで、8カ月前に解任したロン・ノルを呼び戻し、抵抗組織の掃討を命じる。共産党が占拠した拠点は次々奪われていった。かろうじて守りきったのは北東部だけである。ラタナキリ州の数千人の山地民は、山岳の安全地帯に移され、そこに戦略村を築くことになった。
 シアヌークによる全国にわたる共産党掃討作戦は残虐をきわめた。1968年夏、追い詰められたクメール・ルージュは、その本部をラオス、ベトナムの国境に近い山岳地帯に移す。
 それでも反乱は収束する気配がなかった。シアヌークが頼るのはロン・ノルの秘密警察だけだった。しかし、地下の共産党は力をたくわえ、農村だけでなく都市部でもネットワークを広げていた。
1969年7月にロン・ノルは正式に首相の座に返り咲く。こんどは国防相と参謀総長を兼任していた。シアヌークがアメリカとの国交を回復すると、ロン・ノルは公然とアメリカ支持をかかげる。
 中国とアメリカを両天秤にかけて、シーソー外交をくり広げるシアヌークにとって、ロン・ノルの動きは不愉快だった。政権内ではまたもやシアヌークとロン・ノルの暗闘がはじまっていた。
 1969年後半、カンボジア国内では反乱組織が根を広げていた。だが、決定的に武器が足りない。
 サロト・サルはふたたびホーチミン・ルートでハノイに向かい、武器の支援を要請した。しかし、レ・ズアンはこれを拒否する。折しも9月にホー・チ・ミンが亡くなり、その葬儀にシアヌークが出席していたのだ。レ・ズアンはサロト・サルに反乱をやめて、シアヌークを支持するよう求めた。
 このつづきは、また。

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『ポル・ポト』(フィリップ・ショート著)を読む(1) [われらの時代]

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 先日、のんびり6日間のアンコール・ワット・ツアーに出かけて、帰宅したら、なんだか重い荷物をしょったまま戻ってきたような気がしてならなかった。その正体は、ポル・ポトと呼ばれた人物から発された何かであり、いわば歴史の重荷といえばいいのだろうか。いまカンボジアには、ポル・ポトにまつわる光景はほとんど残っていない。しかし、じっと目をこらすと、その影はカンボジアのあらゆる場所にひそんでいると感じないわけにいかなかった。
 ポル・ポト(1925〜98)、本名サロト・サルはクメール・ルージュと呼ばれたカンボジア武装勢力の最高指導者で、カンプチア共産党の書記長。クメール・ルージュは、1975年4月から79年1月まで、カンボジアを支配した。国全体に恐怖政治を敷き、反対勢力と思われる人びとを大量に処刑したとされる。そのかん、カンボジアでは700万人の人口のうち150万人が犠牲となった。その大半は混乱による餓死や病死だが、巷間伝えられるいわゆる大量虐殺もおこなわれたのだろうか。
 1979年1月のベトナム軍による侵攻で政権を失ってからも、ポル・ポト派はタイにまたがる西北部の密林地帯で抵抗をつづけた。ポル・ポトが亡くなったのは1998年というから、つい20年ほど前のことである。それまでは、アンコール・ワット観光どころの話ではなかったのだ。
 旅行から戻ってきて、ポル・ポトのことをもう少し知りたいと思い、図書館でこの本を借りて読むことにした。注もあわせると900ページ近くある。
 読みはじめて気づいたのだが、国際環境や国内事情がややこしい。それに人名がさっぱり頭にはいってこない。ともかく複雑なのである。ポル・ポトを悪魔の男だと片づけるだけではすまないような気がしてきた。はたして、イデオロギーや民族性、あるいは指導者の性質だけで、この史上まれにみる暴政の原因を説明できるだろうか。そこで、どこまで読めるか、はなはだ心もとないのだが、簡単なメモだけでもと思い、自分なりの整理をこころみることにした。
 ポル・ポト(サロト・サル)は1925年3月にカンボジア中部コンポントム州の農村で生まれている。その家は広い稲田をもち、裕福だったという。子どもは6人。ポル・ポトは4番目で、上に兄が二人、姉がひとりいた。
 父の姉は王室に仕え、その娘メアク(つまりポル・ポトのいとこ)がモニボン国王(1875〜1941、在位1927〜41)の側室となり、王子を産んでいた。のちにポル・ポトの姉も国王の側室になる。次代の国王ノロドム・シアヌーク(1922〜2012)は、モニボンの孫にあたる。
 著者にいわせれば、カンボジアの風景は、昔もいまも、中国よりアフリカに近い。

〈カンボジアの生活は、泥臭く素朴だ。自然が密生して実を結ぶ。太陽は鉄のハンマーのようにがんがんと照りつけ、ジャングルには霧がたちこめ、地面は熱と熱帯の色を帯びて躍動する。晩春になると、……幅数キロにおよぶ蝶の群れが一面の蓮の花や鮮やかな緑の水田をわたる。少女は十代になれば女性として花開き、二十歳になれば色あせる。〉

 カンボジアの中心民族、クメール人の世界は、精霊と魔術に満ちている。そこに仏教がかぶさり、森羅万象を統べる王がいる。
 そんな雰囲気のなかで、サロト・サル(ポル・ポト)は育った。プノンペンにでたのは9歳のとき。最初は僧院で戒律や経を学んだ。10歳になると年の離れた兄のところから、フランス系の小学校エコール・ミシュに通った。兄の家はプノンペンの王宮近くにあった。王の側室になっていた叔母や姉と会うため、王宮を訪れたこともあるという。
 王政は存続していたものの、カンボジアは1863年からフランスの保護下におかれていた。実質上の植民地だった。カンボジアが完全独立を果たすのは、それから90年後の1953年になってからだ。いまでも多くのカンボジア人は、あのときフランスに保護されていなければ、カンボジアはベトナムとタイによって分割されていただろうという。ベトナムとタイへの不信は根強い。
 第2次世界大戦が勃発すると、カンボジアはヴィシー政権の管理下におかれ、1941年9月にドイツの同盟国である日本の軍隊が進駐してくる。タイもカンボジアに侵攻した。そのころモニボン国王は亡くなり、孫のシアヌークが18歳で即位する。フランスにとっては、操りやすい存在と思われていた。
 サロト・サル(ポル・ポト)の学業成績はぱっとせず、プノンペンの名門高等中学リセ・シソワット[いわゆるシソワット校]にはいれず、2年留年して、1943年の秋、コンポンチャム[プノンペンの80キロ北東、メコン川沿いの都市]で開校したばかりの中学にもぐりこんだ。
 1945年になると、東南アジアの日本軍は劣勢を強いられていた。パリはすでに解放され、ヴィシー政権は崩壊した。3月13日、日本に促されて、シアヌークはカンボジア独立を宣言する。ソン・ゴク・タンが外相、のちに首相となった。
 そのころ、サロト・サルは校友のキュー・サムファンとともに、片道2週間かけて北部のアンコール・ワットを訪れ、カンボジアの過去の栄光をしのんでいる。
 日本軍が敗北したあと、カンボジアの独立は却下され、フランス統治が再開され、ソン・ゴク・タンは国外追放された。カンボジアはフランス連邦のひとつとなり、まもなく自治権も与えられることになっていた。1946年9月には、初の国民選挙もおこなわれ、ユティボン王子の率いる民主党が勝利を収めた。だが、ユティポンはその後すぐに亡くなる。
 カンボジアでは、タイの援助を受けたクメール・イサラクによる反仏運動がすでにはじまっていた。ベトナムでは、ホー・チ・ミンのインドシナ共産党が独立革命運動を開始していた。インドシナ全域に革命を広げることが目的だった。ベトミン(ベトナム独立同盟会)にとって、カンボジアは重要な後方支援地域であるばかりでなく、革命の対象と考えられていたのだ。
 1947年夏、サルは期末試験に合格し、念願のシソワット校に進学した。1年上の学年にはのちにクメール・ルージュの副首相となるイエン・サリがいた。1948年夏の終了試験に落ちたサルは仕方なく、プノンペン郊外の専門学校にはいるが、好運なことに、そこでフランスに留学できる奨学金をもらえることになった。留学生は総勢21人、その多くがのちにカンボジアの政治を担う中心人物となる。
 光の街パリ。「1950年代前半に、サル[ポル・ポト]と仲間たちがのちにクメール・ルージュの悪夢のもととなる思想の基礎を築いたのはモスクワでも北京でもなく、このパリだった」と、著者は書いている。
 1949年10月1日、サルら留学生一行はパリのリヨン駅に降り立った。王族と縁のあったサルは、ひとりの王子とともに、フランス無線電気大学で、無線工学を学んだという。かれがよく出入りしたのはカルチェ・ラタンにあるクメール学生協会だった。
 1950年夏には、国際労働隊に参加してユーゴスラビアに行き、ザグレブで道路の建設を手伝ったりもした。パリでは留学生どうしの交流がさかんになり、イエン・サリやケン・バンサク、ティウン・マム、フー・ユオンらと学習サークルを開くようになる。
 中国での毛沢東の勝利が、インドシナの植民地解放闘争に火をつける。中国は北ベトナムのホー・チ・ミン政権を支持していた。これにたいし、アメリカとイギリスは、ラオス、カンボジア、南ベトナムからなる「フランス連邦」を支援していた。
 ホー・チ・ミンの最終目的は、ベトナムを統一するだけではなく、ベトナム、カンボジア、ラオスからなる「インドシナ民主共和国」をつくることだった。そのためカンボジアでもベトミンの指導のもと、ソン・ゴク・ミンを長とするクメール人民革命党(のちのカンプチア共産党)が結成された。
 パリの留学生もこうした動きと無関係ではいられなかった。クメール学生協会は左傾化し、イエン・サリが中心となって秘密組織セルクル・マルクシステ(マルクス主義サークル)がつくられる。サル[ポル・ポト]がこのサークルに参加するようになるのは1951年秋か冬のことだった。のちにキュー・サムファン[のちのポル・ポト派幹部]も加わる。サークルでは「共産党宣言」やレーニンの「共産主義入門」、毛沢東の「新民主主義論」などをテキストとして、学習会がもたれるようになった。
 サルは共産主義に活路をみいだし、1952年にフランス共産党に加わった。かれが気にいったのは、エリートが指導する一枚岩の党というスターリンの考え方だった。党にもぐりこもうとするスパイや詐欺師、悪党には容赦ない弾圧を加えなければいけない。
 ただし、ソ連のいいなりにはならない。ベトナムやタイにたいしても独立性を保ち、カンボジアの民族独立を実現するのだと考えていた。その指針となったのが、植民地や半植民地での革命のあり方を教えた毛沢東の思想だった。
 そのころ、カンボジアの国内情勢は不安定になりつつあった。国外追放されていた元首相のソン・ゴク・タンはカンボジアに帰国し、独立運動をはじめていた。それに激怒したフランス当局がソン・ゴク・タンのデモを禁止すると、かれは北西部タイ国境の山中に逃れ、イサラク同盟と合流した。
 国王のシアヌークと民主党政権の関係もうまくいっていなかった。当時30歳のシアヌークは1952年6月に国民議会と政府を解散し、非常措置としてみずから首相の座に就いた。シアヌークの「クーデター」と呼ばれる。
 国内ではシアヌークへの非難が巻き起こった。それは海外のカンボジア人のあいだでも同じである。王政か民主主義か。サロト・サル[ポル・ポト]は王政を廃止したフランス革命を思い浮かべた。
1953年1月13日、シアヌークは勅令による統治をおこなうと宣言した。これにより、王の政策に反対を表明することはできなくなった。
 カンボジア国内が混乱するなか、ベトミンとクメール人民革命党のソン・ゴク・ミンはベトナムとの国境沿いに根拠地を築いていた。
 そんななか、サロト・サルは1952年12月25日にマルセイユを出航し、祖国に向かっていた。サイゴン(現ホーチミン)に到着したのは、シアヌークが独裁宣言を発した当日である。
 長くなったので、きょうはこのあたりで。

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あのころ吉本がいた(1)──吉本隆明『情況』から [われらの時代]

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 これも図書館で借りた本だ。
『吉本隆明全集』(晶文社)の第11巻に収められた『情況』をぱらぱらとめくってみる。
『情況』が河出書房から発行されたのは1970年11月。1969年3月号から1970年3月号まで、雑誌『文芸』に連載されたものをまとめ、単行本としたものだ。  
買わなかったものの、書店で立ち読みした記憶がある。
内容は、大学紛争から思想論、都市論、国家論、芸能論まで多岐にわたる。
 吉本隆明(1924〜2012)はむずかしい。これまでけっこう読んできたが、難解な部分は飛ばしていた。雰囲気だけで満足していたきらいがある。自分の頭の悪さを棚に上げて言うのはなんだが、おそらくぼくの周囲では、だれもがそうだったのではないか。
 吉本の思想を完全に理解するのは、これからもたぶん無理だと思う。ぼくの頭ではとても無理だ。しかし、われらの時代、吉本は時代の情況(これも吉本語)を反射して光り輝くミラーボールのような存在だったのだ。
 1969年1月、学生によって占拠されていた東大の安田講堂が、機動隊によって解除された。
 あの日はテレビ中継もあったので、はっきりとは覚えていないけれど、ぼくもたぶんどこかの喫茶店で、その様子をみていたのではないか。
 吉本はこんなふうに書いている。

〈わずかひとりの大学知識人の挙動によってでもよいから、戦後民主主義が思想として定着した姿をみることができれば、というわたしの願望は空しかった。大学教授研究者たちがみせたのは、戦後民主主義の予想できる最悪の姿だったといっていい。かれらは急進的な学生たちのごくあたりまえの要求を、まるで異邦人の言葉のように仰天してきき、はじめは脅しによってなだめようとし、それが不可能と知ると、なし崩しに学生たちの要求をうけいれるようなポーズをとり、それが拒否されると臆面もなく機動隊のもつ武装した威圧力を導入して、事態を技術的にだけ収拾しようとしたのである。〉

 大学当局は、学生たちと徹底的に話し合おうともせず、ただ事態を実務的に収拾するために、みずからの権威を守りつつ、機動隊を導入し、学生たちを排除した。
 吉本にいわせれば「封建時代の寺子屋の師匠さえ、じぶんの教え子を権力の手をかりて排除して寺子屋の存続をはかるような真似はしなかった」。神経を疑われるのは、学生より教授側だった。
 大学当局に抗議して安田講堂にこもる学生を排除するため、大学が機動隊を導入したのは、いつもどおり東大の入試をおこなうためだった、と吉本は書いている。

〈東大紛争の過程で、加藤一郎、大内力、坂本義和、篠原一、寺沢一らは、かれらの思想的な同類とともに、戦後民主主義の思想原理をじぶんの手で最終的に扼殺したといいうる。かれらは東大入試決定の期限切れという、それ自体が全社会的には三文の価値もない問題を焦慮するあまり、学生同士の流血の衝突を回避するため、という名目をつけて、機動隊の武装力を要請して全共闘の急進的な部分を制圧し、日共系学生たちの寝返りにたすけられて、機動隊の保護下に学生集会を開き、事態を技術的に処理しようと試みた。入試を実施するか否かという問題は、東京大学の学内問題ではありえても、大学紛争の本質とはなんのかかわりもないことである。またそこには一片の思想原理的な課題も含まれえないことは明瞭である。はじめに、大学紛争の本質的な課題を解決するポーズで登場したかれらは、束の間のうちに東京大学さえ存続すれば、ほかのことはどうなってもいいという破廉恥漢に変貌した。〉

 長々と引用してしまったが、あのころ吉本が言うことは、きわめてまっとうだと思えた。
 吉本の批判は、東大紛争にまったく知らぬ顔を決め込んでいた丸山眞男にも向けられていた。
 丸山は学生たちによって、自分の研究室が荒らされたとき、それを「ナチスも日本の軍国主義者もやらなかった暴挙だ」といきどおった。しかし、吉本はそのいかにももったいぶった言い方に、学者の権威主義のにおいを感じ取る。いままで学生の行動をばかにして、学生と一度も話しあおうとしなかった丸山が、学生に研究室を荒らされたとたんに、「ナチス」や「日本の軍国主義」を持ちだすのは、笑止千万ではないかと批判するのだ。
 だが、吉本がはたして大学闘争を支援していたか、さまざまなセクトや全共闘を支持していたかというと、おおいに疑問が残る。
 当時、新左翼のあいだでは、ヘルベルト・マルクーゼの思想が持ちあげられていた。
 マルクーゼは、抑圧されている(もっと正確にいうと「抑圧的寛容」をこうむっている)少数者には非合法手段を使っても、体制に抵抗してもよい「自然権」があると唱えていた。
 もうひとつ、マルクーゼが考えたのは、実現されるべき社会主義は、生産力の発展の延長上にあるわけではなく、「美的─エロス的質」が実現される社会でなければならないということだ。
そこでは経済面の平等性だけではなく、「技術と芸術、労働と遊びの一致」がみいだされなければならない。
平たくいってしまえば、社会主義においては、経済的な平等と豊かさだけではなく、美しさと喜びがもたらさねばならない、とマルクーゼは考えていた。つまり求められるのは、「エロス的文明」の実現である。
 吉本はこういうマルクーゼ(あるいはサルトル)の思想に同調していない。むしろ、そこに違和感を覚えていた。
『情況』のなかから、引用しておこう。

〈わたしたちは、現在、奇妙な思想的傾向につきあわされている。そしてこの傾向は、ビート族やヒッピー族の感性的な解放天国の思想から、アナルコ・サンディカリズム的なものをへて、大衆を無智にとどまらせることでしか成立しない毛沢東思想にまでわたっている。〉

 ヒッピーにも可能性はないが、大学解体や工場の自主管理なども無意味だ。根拠地の思想や武装闘争、文化大革命にも未来はない。
 吉本はたぶんそんなふうに感じていた。その予感はあたる。
 自身の発行する参加自由型の個人雑誌『試行』27号後記(1969年3月)に、吉本はこう書いている。

〈大学紛争はあれよあれよという間に一挙に両極分解にまできてしまったようにみえる。その過程でわたしたちが希望した教師たちの市民民主主義と学生達の急進主義との思想的な対決のすがたは、とうとうみられないままに、紛争は全国的な規模でひろがっていった。分解した両極には臆病なアカデミズムの壁にしゃにむに閉じこもってしまった教師たちの像と、政治運動も社会運動もお構いなしにごっちゃにして、政治主義的に頭脳を単純化してしまった急進的な学生たちの像がのこされた。〉

 新左翼なるものに、吉本は何の共感も幻想もいだいていない。
 1968は何も残さなかったのだろうか。
 そうだったかもしれない。
しかし、いまふり返れば、ぼくにとって、1968はやはり出発点だったなと思わないわけにはいかない(その後のぐうたらな生活を考えれば、えらそうなことはいえないが)。
そして、じつは、吉本もまた60年安保闘争の水脈を通じて、1968とつながっていたのではないだろうか。
 それは反乱の夢であった。正義を求める夢であった。
新しい社会、新しい国、新しい世界をつくる夢であったといってもよい。
熾火(おきび)のように、その夢は残った(たとえむなしい夢だったとしても)。
 吉本はロシア・マルクス主義(スターリン主義、毛沢東思想を含む)のえがく世界像を拒否し、大きく言えばアジア的といえる天皇制国家をフェードアウトさせ、資本主義を超える方向性を探りつづけた。
 その思想の軌跡を時折ふり返ってみたくなる。さながらドン・キホーテにしたがうサンチョ・パンサみたいに。

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